経済(学)あれこれ

経済現象および政策に関する意見・断想・批判。

経済人列伝、出光佐三

2010-07-03 03:19:58 | Weblog
      出光佐三

 出光佐三は出光石油の創始者です。と言ってしまえばそれまでですが、多くの企業創始者がそれなりの逸話を持ち、それなりの特徴を持つ以上に、彼は個性的で奇抜な自己主張の強い、時として反抗的な商法を駆使して、企業を創設しました。彼の商法の特徴は、彼の人格と同様、理想と信念の固持、言い出したら聞かない強情さ、徹底した統制嫌い、そして楽観性とそれに会い呼応するような運の強さ、です。彼の挑戦的な人生は幾多の危機に遭遇します。しかしだめかと思うところでは運命の女神は彼に微笑みます。
 佐三は明治18年(1886年)福岡県宗像の赤間町(現宗像市)に生まれています。同地には宗像神社があります。宗像神社は裏伊勢と呼ばれる、一大大社で、天照大神から生まれた三神を祭ります。北は韓半島、西は中国、そして東は関門海峡を挟んで、畿内地方に通じる、交通の要衝にあり、海上交通の守り神として九州のみならず全国に渡って尊崇されました。従ってか、宗像地方の人は、神の子という意識が強く、自尊心と自立心に富む、と言われています。佐三はその典型です。彼の経営を彩る多分に観念的なところは、この宗像の神子、という意識と無関係ではありません。家業は藍デン屋です。阿波などから藍玉を買ってきて、それで布地を染める、染色業者の大手でした。佐三は長男に生まれます。生来病弱でした。しかし気は強かった。幼年時、ころんで草の葉で瞳を傷つけ、終生視力は弱いままで過ごします。小学校、高等小学校の成績はまずまず、父親の意向に反して、進学を望み、福岡商業学校に入ります。視力が弱いため、多読に耐えられず、逆に、自分の頭で考えること、をモット-とします。この学校は気に入らなかったようです。卒業旅行の約束を学校が一方的に没にしたのに抗議して、3年生はストを行います。結局一部の生徒による独断旅行になりました。その首謀者が佐三です。理想と反抗、まことに栴檀は双葉より芳しです。
 21歳神戸に出て、神戸高等商業学校(現神戸大学)に入学します。ここで内地廉吉から、商人は生産者と消費者の関係を安定させ媒介する者、と教わります。これは佐三の終生の指針になります。卒論は、石炭と石油の燃料としての可否優劣について、です。佐三は石油に軍配をあげました。そして彼は次第に石油関係の仕事に魅かれてゆきます。彼は、石炭は51年でその埋蔵量が尽きる、と結論を出しています。51年後の昭和35年、石炭から石油に燃料の重点が推移する危機として、有名な三井三池の石炭争議が起こります。佐三の予言が当たったようでなにやら薄気味悪くなります。始め当時飛ぶ鳥を落とす勢いにあった鈴木商店に応募しますが、結果がなかなか来ません。腹を立てた佐三は酒井商店という零細企業に勤めます。鈴木商店から採用の通知がきますが、一蹴します。鈴木商店に関しては、後に金子直吉の列伝で取り上げるでしょう。酒井商店は小麦と機械油を扱っていました。父親の家業が傾いた事を知った、佐三は独立した事業を起こす事を決心します。しかし資金がありません。悩んでいる時、同級生の日田重太郎が6000円の資金融通を申し出ます。貸すのではありません。勝手に使ってくれと、というわけです。今まで私は60名以上の経済人の列伝を書いてきましたが、こんな事は始めてです。かなり有名になり、その将来が嘱望された時に、有利な融資を受ける事はありますが、若干24歳の、海のものとも山のものとも知れない、若造に現在で言えば5000万円から1億円に昇る金を、気前よく出す、それも同級生とは、この話が真実だとすれば、佐三はよほど良い星の下に生まれてきた事になります。
 27歳門司で出光商会を創始します。機械油、諸種の機械の部品間に摩擦を少なくするために塗る油、の販売を始めます。彼の仕事の最大の特徴は、機械油を一律機械的にするのではなく、販売先の機械の状況に合わせて、三種類の油を調合する点にあります。現在では3種類どころではないのですが、当時彼のような販売法をする人間は皆無でした。しかしなかなか得意先がつかめません。一時商売を辞めようかとも、思います。秋田県に商用で行ったとき、港にあった漁船に眼をつけます。当時漁船は帆船から焼玉エンジンに変りつつありました。門司の、海を挟んだ眼と鼻の先に下関港があります。ここは漁船の一大集結地です。佐三は売り込みます。努力の甲斐があって、ある大手の漁業会社の売り込みに成功しますが、すぐ同業者からの圧力を受けます。佐三の商法の方が優れているのですが、漁業会社も大手の石油販売会社の圧力にはかないません。こういう時大手の会社はカルテルに近い同盟を結び、新規の参入者を阻止しようとします。佐三はその裏をかきます。海上でなら規約には抵触しません。小船に乗って、会場で漁船に油を売ります。同業者は佐三を海賊と呼びました。彼らから見れば佐三は、既成の縄張りを荒らす獅子身中の虫でした。佐三の人生は、既成の業界への挑戦の連続になります。既成業者はすべて外国石油会社の傘下にありますから、佐三は終生外国石油会社(外油)に挑戦し続けたことになります。この間世界大戦で油の値段が上がります。しかし佐三は暴利をむさぼらず、仕入価格に適正な利潤を上乗せするのみで油を販売します。これで出光は信用を獲得しました。
 大正3年(1914年)大戦のさ中、佐三は満州に進出します。日本内地では関税による保護がありました。満州ではありません。外油とじかに対決することになります。満鉄所有の車両の軸に塗る油をみて、外油を言うがままに使っていればやがて車軸が焼けると、佐三は予言します。関係者は一笑に付します。ある年、例年にない寒波がやってきました。満州の寒さは内地の比ではありません。満鉄の車両に事故が続出し、輸送に重大な支障がでます。満鉄から門司の出光商会に電報がきました。事故多発、すぐ来い、と。こうして出光は満州に進出し、販売網を広げます。この時点、そして終戦までの出光の仕事は、石油の販売のみでした。
佐三は独特の商法を繰り広げます。社員に徹底的に権限委譲をしました。融資のみならず、不動産の購入も現地の支店長の独断でできました。出勤簿もありません。社員個々人の自覚に任せます。多くの販売店を作り、その運営は現地に任せます。これを、大地域小売主義と佐三は言いました。これで社業は盛んになりますが、このやり方では当然大きな在庫を抱えます。その資金繰りに佐三は苦労しました。また佐三は株式経営を嫌いました。利益は、内部留保、社員の俸給、顧客への還元と三等分するのだと佐三は主張します。昭和15年株式会社組織にしましたが、非公開を貫きます。(現在は上場)
 昭和10年出光は上海に進出します。外地である上海では、外油の支配が徹底していました。どうして販売するか、倉庫を建てるに際して妨害が入ります。陸軍に頼んでかろうじて倉庫建設の地を確保します。割り込んできた新規参入者が営業する時、大資本である外油は新規業者の販売地のみに限定して、販売価格を下げます。こうして新規業者の資本が尽き、撤退すると値段を元に戻します。佐三はこの隙を突きます。ある地で販売を始める、外油がそこで廉売を開始すると、出光はすぐ他の地に移り、販売開始、というやり方です。外油もそうそう各地で廉売はできません。こうして出光は鉄鎖の一部を食いちぎります。出光の販売は消費者に歓迎されます。上海のみならず、奥地の武漢や重慶でも出光の商品が転売されてゆきました。
 ここで外油、外国石油会社に関して若干の説明をいたしましょう。19世紀末頃から内燃機関が発展し、その燃料である石油は多くの土地で掘り出されました。一番輸出用の石油が出た地が中近東です。そしてこの地の石油の発掘と販売は主としてアングロサクソンを中心とする10内外の資本により、独占されました。彼らは相互に同盟を結んで、利権を護ります。生産地では安く買い叩き、消費地では高く売ります。スタンダ-ド、カルラックス、シェル、ユニオンなどが代表です。彼らをメジャ-と呼びます。日本政府は太平洋戦争に敗北するまで、このメジャ-の(裏取引の)存在を知らなかったそうです。このメジャ-の一つが、戦後出光が挑戦するアングロイラニアン石油会社(AI)です。ちなみにアングロサクソン、つまり英米両国の強みは、石油と金融資本(というより操作)と情報の独占でした。この傾向は現在でも強く残っています。もう一つ彼らが世界制覇の武器にするものが、英語という国際語です。第二次大戦前において科学論文に使われる言語は英語とドイツ語が半々を占めました。私(中本)が専門とする精神医学や心理学ではむしろドイツ語が英語を圧倒していました。大戦後、つまりドイツの敗北後、アングロサクソンは着実にドイツ語の国際的地位を剥奪したといわれています。ドイツ憎しで、協力したフランス語の運命も同様の結果をたどります。
 出光に帰りましょう。戦争に備えて政府は各種産業の統制を始めます。政府の主導で石油連盟ができます。こういう時、割り込み屋であり秩序破壊者である出光は必ず、締め出される運命に遭遇します。佐三はこの統制に猛烈に反対します。当時彼は多額納税者で貴族院議員でもありました。そして第二次大戦勃発。出光は南方(東南アジア)に進出した軍隊や企業に石油を配給し管理する仕事を積極的に引き受けます。後に社長になる石田正実を団長として、97名の出光社員がこの仕事に従事しました。なにしろ危険な仕事なので他の会社は引き受けたがらなかったのです。内27名が戦病死しました。
 昭和20年終戦。どこの企業も同じで食うや食わずやです。出光の社員は約1000名でしたが、佐三は1名も解雇するなと指示し、その方針を履行します。しかし社員に食わせなければなりません。まず佐三所有の書画骨董を売ります。農場経営、醤油生産、定置魚網の製造、印刷業などなんでもしました。特にラジオの修理では助かりました。海軍が作った石油タンクの底油のかき出しをします。かなり危険な作業なので誰も手を出しません。この仕事で出光はGHQの信用を得ます。
 GHQと出光の関係はかなり複雑ですので割愛します。ただ元陸軍諜報将校でGHQに雇われていた手島治雄という人物は重要です。彼の情報のおかげで、商工省の作った販売業者指定要綱で、排除されかけた出光は、なんとか国内の石油元売業者の地位を獲得します。戦前は大規模とはいえ単なる小売業者でした。当時日本の石油はメジャ-から原油で輸入し、それを精製して国内で販売していました。佐三は石油製品つまりガソリンや重油を海外から輸入する事を試みます。メジャ-の独占を破り、販売価格を下げるためです。そのために佐三は18500トンという当時最大のタンカ-を建造しようとします。通産省の異議を廃し、強引に事を進めます。このタンカ-をアメリカに送り、メジャ-の網をくぐって、独立系の石油会社の製品を買い込み日本に持ち帰ります。かって門司で漁船に海上で機械油を売っていた事と同じ流儀です。また上海でメジャ-の眼をくぐって、ゲリラ的に石油を販売したのとも同じ手法です。出光の得意はこのゲリラ戦法にあります。巨大タンカ-は第二日章丸、別称アポロと名づけられました。当時のタンカ-は大型と言ってもせいぜい12000トンが限度でした。出光の巨大タンカ-建設は以後も続きます。
 佐三のメジャ-への挑戦はさらにエスカレイトします。別に彼がメジャ-を眼の仇にしたのでもないでしょうが、彼の事業が伸びてゆくためには、国際石油資本であるメジャ-との衝突は避けられません。私が知る範囲では、メジャ-に挑戦した男は佐三とアラビア石油の山下太郎です。
 昭和27年(1952年)あるイラン人を佐三は紹介されます。イランの石油を買ってほしいと頼まれます。当時中東の石油はそのほとんどがメジャ-の支配下にありました。イランの石油はアングロイラニアン石油会社(AI)の支配下に置かれ、その搾取はひどいものでした。他の中近東諸国や他のメジャ-と比べても、AIの商法はむき出しの略奪に近いものでした。反発した民衆は革命を起こし、モサデク首相の元に団結します。AIおよびその背後にいるイギリス政府はイランの石油の販売を封鎖でもって禁圧します。この禁圧を破る者はAIのみならず、メジャ-全体の報復を覚悟しなければなりません。最初佐三は、時期尚早として、慎重に構えていました。朝鮮動乱で石油の需要は増えます。いろいろ情報を集めた佐三は覚悟を決めます。弟計助と手島治雄を極秘裏にイランに派遣します。モサデク首相と二人は会談しますが、相手はこちらの意図を信じきれず、交渉は宙ぶらりんになります。煮え切らない交渉の末、出光はイランの石油の売買計画を契約します。石油輸送に始めは、直営の日章丸は使うつもりはありませんでした。イギリス海軍に拿捕されれ、下手をすれば没収される可能性があります。そうなると出光の商売は行きづまります。しかし最初石油を運搬してくれるはずの飯野海運は途中で契約をほごにします。佐三の決断で虎の子の日章丸が運搬に投じられます。インド洋からペルシャ湾に入り、湾の奥に位置するアバダンまで20000トン近い巨大な船を送ります。砂の多い河を遡ってアバダンに着き歓迎されます。石油を積んだタンカ-が河底に当たって座礁しないように注意して河を降ります。座礁すれば英軍に拿捕されます。ペルシャ湾に出た時、船長が一番警戒したのは、機雷を前方にまかれることでした。イギリスならやりかねません。帰路はマラッカ海峡を避けて東シナ海に入ります。帰路ここまで日章丸は無電を封止していました。安全域に入り、詳報を本社に打ちます。ここでわざと徳山入港と、示し合わせていたのでしょう、偽情報を流し、船は土佐沖を東進します。この時日本の新聞社の飛行機そして英軍航空機に発見されます。ここで佐三は奇策を考えます。わざと船の速度を落として、土日の週末川崎港に入るように指示します。入港と同時にAIから作業差し止めの告訴がなされますが、その執行は月曜日を待たなければなりません。その間に陸揚げを完了します。AIの提訴は裁判所に持ち越されます。結果は出光に有利な判決になります。出光の行為により、石油産出国であるイランと消費国である日本は共に救われました。以後メジャ-の網の目から解放された(一部)石油の値段は下がり始めます。偶然かそうではにのか、この頃から英国の衰退は速度を増します。
 佐三の仕事は続きます。昭和32年徳山に巨大製油所建設、35年ソ連のバク-油田からの石油輸入、などです。出光はいつも既成秩序に挑戦する割り込み屋なので、同業者の妨害は続きます。昭和37年恩人日田重太郎死去。37年87歳、悪化した眼の手術。この時は最新の技術を用いた手術でしたが、失明か回復か、一かばちかの勝負でした。勝負は吉と出て、佐三は視力の一部を回復します。看護婦の白衣の白さが、今まで見た以上に白くて感動的だったそうです。昭和56年、96歳死去。後継は弟計助でした。

(付)出光興産株式会社
  資本金    1086億円
  売上額  3兆8642億円(連結)
  総資産  2兆4200億円
  従業員     7933名

参考文献
 難にありて人を切らず、快商・出光佐三の生涯  PHP研究所出版  

経済人列伝、西山弥太郎

2010-07-01 02:58:49 | Weblog
    西山弥太郎

 西山弥太郎といえば、川崎製鉄千葉製鉄所の設立で有名です。千葉製鉄所がなぜ、それほど画期的な試みで、弥太郎の名をいやがうえにも高くさせたのかと、言いますと、次のような理由が考えられます。それまで鉄鋼御三家といわれた、八幡、富士、日本鋼管が独占していた銑鋼一貫製造メ-カ-の中に食い込んだ事、のみならず将来の鉄鋼需要の増大を予想して、三社独占では日本の鉄鋼生産が不十分であり、工業立国たるに相応しくないという見地から、果敢な挑戦を成し遂げた事にあります。
(注)八幡と富士は後に合併して現在の新日鉄になっています。なお文中「弥太郎」と表記しますが、「弥」は略字であり、本来は難しい旧字を使うべきですが、ワ-ドにないので失礼とは思いますが、略字の方を使用します。
 弥太郎は1893年(明治26年)神奈川県ゆるき郡吾妻村に生まれています。先祖は北条氏に仕えていましたが、秀吉により北条氏が亡ぼされると、帰農し代々酒造業を営む一方、本陣を経営する村の有力者でした。屋号は井筒屋、当主は豊八を名乗ります。父親豊八は養蚕業を営み、網元も兼ね、村の収入役を堅実にこなす、実直な人柄でした。弥太郎は豊八の十男に生まれます。本当は十一男でしたが、長男が夭折したので十男になりました。履歴書を書くときなど、なにかの間違いではないかと、よく反問され恥ずかしかったと述懐されています。少年期は運動万能、特に水泳大好きで、遊びまわっていました。成績はまずまずの上というところです。小学校(4年)高等小学校(4年)を卒業すれば、特に本人も両親も、それ以上の高等教育を望まず、親戚の金物屋の手伝いにやられます。ここで弥太郎は鉄や他の金属でできた製品がいかに高く売れるか、に仰天し、鉄の研究を志したとあります。すこし怪しそうな話です。しかし弥太郎という人物は、徹底した技術屋であると同時に、後年川崎製鉄社長に就任した時のやり方からわかる様に、営業における商才も充分持ち合わせています。だからこの話は伝説に限りなく近い事実でしょう。
 弥太郎の生き方は一変します。私立錦城中学に進み、そこから一高、東大工学部というお決まりのエリ-トコ-スを進みます。工学部では競争の激しい冶金工学科に入り、俵国一教授の指導を受けます。一高・東大時代の弥太郎は黙々と勉強する特徴のない優等生であり、同期のものが逸話を語るに困る、と言われました。学生時代八幡製鉄で実習し、また川造船を見学しています。1921年東大を卒業し、川造船に就職。26歳ですから少し遅れた卒業になります。なぜ川かといえば、どうも見学した時川崎が一番新鮮に写ったからのようです。入社早々労働争議に出会います。ともかく戦前戦後を通してこの川造船(製鉄)というのは争議に縁の深い会社です。当時友愛会という日本で始めての労働者の団体ができ(鈴木文治の項を参照)、室蘭製鉄、川・三菱の両造船所で大争議が持ち上がりました。結果は友愛会側の敗北ですが、会社が無傷というわけには行きません。ただ入社早々のホワイトカラ-である弥太郎には直接の関係はありません。しかし歴史に残る大争議ですから、事情によっては弥太郎の人生に影響を与えたかもしれません。多分彼はかなりの興味をもって、この争議を見ていたと思います。第二次大戦後弥太郎を経営者として有名にさせた理由は、戦後の争議を解決したからです。経営者としての実力を認められたから、千葉製鉄所建設という破天荒な事業をかなり強引に推し進める事が可能になったのでしょう。
入社した弥太郎は葺合(ふきあい)工場の製鋼掛に任命されます。神戸市には以前葺合区という区がありました。葺合区は生田区と合併して現在、中央区になっています。つまり弥太郎は関東から関西の神戸にやってきました。以後人生の大部分を関西で過ごし、彼の名を不朽にする事業では、再び関東の千葉に進出して大仕事をします。弥太郎は製鉄製鋼一本に生きますが、彼が就職した会社の主力は造船業です。徐々に製鉄部門の比重が大きくなり、製鉄所を兵庫、葺合、久慈(岩手県)、西宮、保土(長野県)、知多(愛知県)、千葉、水島(岡山県)と増設拡張してゆきます。入社当時の社長は松方幸次郎、正義の子供で、幸次郎も明治大正の経済界に波乱を呼んだ男の一人です。後に列伝で取り上げようと思っています。
 工場の上司は小田切延寿という人でした。鉄鋼製造の事実上の責任者で、海軍の技術将校(大佐)から、川へ転職し、厳しい指導で知られた人です。弥太郎は火で眉を焦がすと言われたほど、現場重視に徹します。小田切の指導です。就職して以後、金融恐慌さらに大恐慌などがあり、3500名の解雇、争議と、会社は青息吐息の経営です。昭和6年満州事変勃発でやっと一息つきます。この間現場ではドイツ人技師ドリ-ゼンの指導下に、作業能率の改善を試みます。作業成果を数値で示すようにして計量化を計ります。その数値に基づき、能率給にします。弥太郎はこの改革の先頭に立ちます。どんな改革も現場の保守勢力には歓迎されません。反発、抵抗そしてとうとう暴力事件が起こります。この事件は基本的には旧来の職人と新勢力である技師との対立です。暴力事件を知った小田切は関係者を全員解雇します。のみならず改革派には警察をつけます。こういう事もありました。そしてこの事件の解決は、後年の大争議に際して弥太郎がとった対処法とよく似ています。
 1933年(昭和8年)「塩基性平炉改造の経過とその成績」を雑誌「鉄と鋼」に載せ、服部賞を取ります。この賞は工業技術者の世界では最高の栄誉でした。これで弥太郎は「平炉の西山」の異名をもらうことになります。同年製鋼課長に昇進。1935年当時の社長のめがねにかない洋行し、帰国して技師長に昇進します。この間工場の一部が日本鋼管の一部と合併し、昭和鋼管という会社が生まれます。また会社自体が株主の肩代わり問題で揺れます。川は何度も危機に立ったので自己資本は少なかったようです。株主が変ると経営方針に影響が出ます。この問題は軍部が介入してかたがつきました。国家の大事の時に、株主騒動とは何たる事かと、すでに軍人の時代に入っていました。会社は昭和14年社名を「川重工業株式会社」に変更します。弥太郎は昭和17年に取締役に就任します。会社は軍需工場に指定されます。昭和18年のサイパン陥落により米軍機の本土爆撃が可能になり、日本の大都市、特に東京、名古屋、大阪は徹底的に爆撃されます。川重工業も同様、生産工程の大部分が破壊されました。しかし弥太郎はこのような状況下で、将来の鉄鋼生産の基本的青写真を考えています。それは銑鋼一貫製造工場、つまり溶鉱炉を持つ工場の建設です。川重工業の中の、6つの製鉄工場は統合され弥太郎が製鉄所長になります。
 終戦。鋳谷社長以下の役員多数は退陣します。公職追放です。弥太郎は追放か否かのぎりぎりの、立場に置かれひやひやします。幸い追放は免れました。会社は当分社長なし、役員の合議制を取ります。この難しい時期弥太郎は将来の日本の鉄鋼業に関して以下のような構想を語ったと伝えられます。
  既存の施設が破壊されたのだから、最新の設備を備える好機
  原料を近くに持つ必要は少なくなる
  日本の工業は鉄鋼業を基幹産業として復興する
  銑鋼一貫過程は鉄鋼業の宿命 そこまで行かなければ意味はない
  外地から引き上げてきた技術者の活用
  株式売買で成績を上げるのは嫌だ、あくまで製造技術で勝負
この構想は千葉製鉄所建設で実現されます。しかしその前に弥太郎が解決しておかければならない事があります。戦後ほとんどの大企業を襲った争議の嵐です。
 昭和23年に大争議が持ち上がります。組合は物価上昇に伴い、賃上げを要求します。製鉄所側は能率給と増産、そして人員整理を提案します。戦後の危機にあって組合は生活防衛を、会社は会社存続をかけて対決します。しかし当時の争議は単なる経済問題ではありません。共産党は会社の乗っ取りや壊滅を要求していました。資本主義の牙城である大企業を、ソ連型の国営ないし共有制にしようとします。ストをうち、生産管理を要求します。戦術は過激になり、暴力的になります。役員がタバコの火を顔に押し付けられるというような事もありました。(東芝での話)弥太郎は断固対決に踏み切ります。部下に「葺合工場をつぶしても良い 責任は俺が持つ」と発破をかけます。共産党の政治優先を嫌う、組合幹部の意向を見抜き、会社側に抱きこみ、管理職にして、対組合交渉の前面に立てます。第二組合を作ります。大学教授を法律顧問に雇います。組合の一部過激派が給食場に乱入したのを、好機として、警察を導入し、関係者を逮捕させ、告訴します。彼らは懲戒免職になります。そして残りの幹部に会社の置かれた実情を話し、結局3000名の解雇に同意させます。こうして川崎重工業製鉄所の争議は会社側の勝利に終わります。弥太郎という男は単なる技術屋ではありません。
 争議を解決した事で弥太郎の経営者としての名声は上がります。東芝の争議を解決した石阪泰三と同様です。また会社における評価も格段にあがります。西山天皇の異称が与えられました。この間川崎重工業の造船部門と製鉄部門が分離します。製鉄部門の独立は弥太郎の念願でした。1950年(昭和25年)57歳、弥太郎は川崎製鉄株式会社の初代社長に就任します。資本金は5億円でした。前後して日本鉄鋼連盟常任理事になります。5億円の資本で総計270億円の事業が試みられます。それが千葉製鉄所の建設です。
 社長就任の昭和25年、銑鋼一貫工場建設計画書を沿え、見返り資金供与の嘆願書を通産省に提出します。川鉄千葉建設の資金計画は、総計273億円、第一期工事費用は114億円、うち増資15億、借入金19億、社債9億、自己資金71億円でした。場所は防府(山口県)にするか千葉にするか、最後の最後まで迷います。結局千葉の日本航空機跡の60万坪(1坪は3・3平米)を買い、加えて前面の海30万坪を埋め立てます。さらに海を掘りぬき突堤を作って港を作ります。水は印旛沼から直接引き、足らないところは井戸を掘ります。技術者には旧満州から引き上げてきた人材を大量に雇用し活用します。
 川鉄千葉の建設は早くから弥太郎が胸に抱いていた計画です。なによりも溶鉱炉を持った製鉄所、つまり銑鋼一貫工場の建設を弥太郎は念願していました。彼は戦後日本の工業が飛躍的に発展すると確信していました。「鉄は国家なり」(これは彼の言葉ではありません)の確信のもとに、戦後の鉄需要の増大を見込み、計画を立てました。当時銑鋼一貫工場を持っていたのは、八幡、富士、日本鋼管の三社だけ、他の大手である川鉄、神戸製鋼、住友金属は銑鉄を他から買い、鋼鉄を作る平炉メーカ-でした。これらの三社はすべて関西に本拠を置きます。川鉄千葉の建設は、平炉メーカ-による三社独占への挑戦という意味もあります。しかしなによりも三社独占を崩して、国全体での鉄鋼の大増産を計るのが弥太郎の意図です。技術的には酸素利用とストリップミルの採用が焦点になります。二つの工法はすでに欧米では試みられていましたが、弥太郎はこれの最新式を大規模に採用します。つまり世界で一番進んだ技術を取り入れます。銑鋼一貫製造は製造費用を低下させます。遠くから重い銑鉄を運ぶのにかかる、運搬費がほとんどいらなくなります。そして新工場は簡素化を旨に、移動行程を最小化する方向で進められました。
 資金計画を提出された通産省は検討に入ります。通産省としては前向きに臨んだようです。問題は日銀です。お金はここから借りる、あるいは承諾を得るのですから。時の日銀総裁は一万田尚人で法皇といわれていました。一万田はいい顔をしません。「千葉工場にぺんぺん草が生える云々」という事実か伝説か解らない話は、天皇と法皇両者の交渉の過程ででました。結局一万田は折れます。1951年(昭和26年)千葉製鉄所開設。同年世界銀行から2000万ドルの融資を受けます。当時の1弗は360円ですから、日本円に直せば72億円になります。1953年千葉工場所第一高炉火入れが行われます。こうして川製鉄千葉製鉄所は運転を開始します。なお弥太郎はくず鉄の値上がりを予想して、買い込み、約100億円の資金を作ったといわれています。単なる技術屋のできる事ではありません。
 弥太郎はもう一つの銑鋼一貫工場を岡山県の水島に作っています。1961年同工場は開設されました。1966年(昭和41年)癌のため死去。享年73歳でした。

 参考文献 西山弥太郎伝 鉄鋼新聞社編 非売品 大阪市立図書館蔵
 日本産業史(2) 日経出版

(付)川崎製鉄h2002年日本鋼管と合併し、JEEスチ-ル株式会社となる。JEEの現況概観は以下の通り。
  売上高     3兆2033億円(連結)
  営業利益    4080億円
  純利益     3147億円
  純資産     1兆1067億円
  総資産     3兆6412億円
  従業員数    45317名