経済(学)あれこれ

経済現象および政策に関する意見・断想・批判。

経済人列伝、鳥居信治郎-やってみなはれ、サントリ-

2010-03-08 03:21:26 | Weblog
    鳥井信治郎、やってみなはれ、サントリ- 

 最近新聞をにぎわせたニュ-スにキリンビ-ルとサントリ-の合併破談があります。両社は株式保有のあり方が対照的で、この点が最大の障害になりました。サントリ-の株式の90%が創業家である鳥井家の所有とありました。今時大企業でこんな古風な話があるのかと思い、創業者鳥井信治郎の伝記を読みました。そしてなるほど、この人の性格と業績から言えば、そうなっても不思議ではないと、思い至りました。記者会見でサントリ-の佐治社長(多分信治郎のお孫さん?)が、創業家支配にはそれなりの良いところがあるのだが、と残念そうに言っていたのもうなづけました。
 信治郎は明治12年(1879年)大阪市東区釣鐘町に生まれています。家業は銭両替商(小口金融)、野村徳七と同じ環境です。父親は後に米穀商に転業しています。比較的裕福な家でしたが、当時の大阪商人の習慣に従い、高等小学校卒業後、丁稚奉公に出ます。(注1)奉公先は道修町(どしょうまち)の卸商小西儀助商店、この店は洋薬や洋酒をも商っていました。薬も酒も輸入されたままの状態では商品として出しません。国内で売れるべく数種の品を混合して調合(blend)します。信治郎はここでblendの勘を磨きます。blend如何により、商品の価値と売行が決まります。彼のこの方面での才能は極めて優れていました。後年彼が有名になった時、利き酒の大会に出ました。出された30種類の日本酒のうち、彼がはずしたのは2-3種だけだったそうです。この才能にあわせてか信治郎は極めて大きな鼻の持ち主でした。

(注1)江戸時代以来商人になる道は丁稚から手代番頭と勤め上げて、別家として暖簾分けしてもらうのが常道です。丁稚といえば極貧階層出身のように誤解されていますが、実際は農村の中農以上で、ちゃんとした保証人がいる信頼できる人物のみが、都市の商家に奉公できました。

 明治32年信治郎21歳の時、独立します。得意の鼻を生かして、甘みのあるぶどう酒を調合し向じし印のぶどう酒を売り出します。これは結構当たりました。東京の蜂印ぶどう酒がライヴァルでした。
また彼は友人の親戚になるスペイン人セレ-スのところに遊びに行き、そこでスペイン産のぶどう酒を味あう機会に出会います。本格的なこのぶどう酒を売り出したところ、さっぱり売れません。欧州の本場のぶどう酒をどのようにして日本人の味覚に会うように調合し売り出すかが、信治郎の念願になります。信治郎の野望は、いかにして西洋の酒と同じ物を日本で作るかに、あったと言えましょう。彼はハイカラ趣味の人でした。この情熱は後年国産ウィスキ-の開発に向けられます。
明治39年、屋号を寿屋と改めます。
 こうして明治44年売り出されたのが、赤玉ポ-トワインです。濃紅色でとろりとした甘みのあるワインです。(注2)信治郎はこのぶどう酒に自信を持っていました。大阪の祭原商店、東京の国分商店を中心に東西で売り込みます。赤玉ポ-トワインの宣伝に関しては逸話があります。信治郎は宣伝の一手段として赤玉楽劇団を作って全国を公演させました。そういう関係から芸能人も彼と親しくなります。ある時来阪していた松島栄美子に寿屋の宣伝部長である片岡敏郎が密かに相談を持ちかけます。料亭のある部屋で松島に上半身裸になってくれ、という頼みです。松島の半裸体をふすまの蔭から数人の男がしきりに観察し写真を撮ります。こうして赤玉ポ-トワインのポスタ-ができました。松島栄美子の上半身露な像、全体は黒味がかったセピア色、松島の白い肉体、彼女が持つグラスに注がれた真っ赤なぶどう酒、という配色です。このポスタ-は全国で有名になりぶどう酒の売り上げに大きく貢献しました。(注3)赤玉の「赤い」は太陽(sun)の意味です。日本は太陽の国だという、信治郎の信念からこのような発想が出てきました。
 この間信治郎は色々な商品を発売しています。スモカという煙草飲み用の歯磨き、五色酒、トリスソ-ス、トリスウィスタン(ウィスキ-の炭酸割り)、オラガビ-ルなどなどです。

(注2)もっとも現在ではこのような物はワインの内に入らないかも知れません。昭和30年代になっても、一部の人を除いてはぶどう酒といえば蜂印か赤玉でした。日本経済が高度成長に入った40年代、欧州各国から一斉に各種のワインが輸入され、店頭に並びました。私は赤玉ポ-トワインは甘くて美味しいので、母親の目を盗んではちょくちょく飲んでいました。どちらかというと子供向けのようなお酒でした。
(注3)この写真で松島栄美子の上半身は裸身ですが、乳首以下は隠されています。当時の法令違反すれすれの写真です。これ以上露出すれば猥褻な印象を与え、またこれ以上隠すと写真の魅力がなくなるというところです。

 鳥井信治郎の性格や行動には著明な特徴があります。彼は最初奉公した小西商店でも自分の信念を曲げず、主人に対しても決して引き下がりません。赤玉ポ-トワインの最大の卸商特約店である祭原商店で、寿屋の看板が他用に使われていると知ったとき、店の番頭と大喧嘩した話もあります。
 経営のやり方は一言で言えば、温情的家父長制、社員に対して待遇はすこぶる良いが、極めて独裁的でした。社員に自らを決して社長とは呼ばせません。大将と呼ばせました。理由は社長と言われるのは、せいぜい三井三菱住友くらい、お客の前で自分を社長と呼ばせて悦に入っているようではあきまへん、というところです。彼の口癖は「やってみなはれ」です。一応社員の自主性を認めているようであり、確かにそうですが、この言葉はもっと激烈な意味を持ちます。おやりなさい、自分の意志と信念で、やる以上とことんまでやりなさい、となります。信治郎が「東京へ手紙を出してくれ」と社員に指示します。何を書くのかと反問すれば、社員失格です。社長である信治郎の意向が解っている必要があります。万事この調子です。そういう背景において、やってみなはれ、の文句を吟味する必要があります。会議は大嫌い、役員会議など開きません。重役も自分の手足同様に使用します。織田信長を彷彿させます。事実信長のように短気で、すぐ怒鳴りつけました。戦時中社員は信治郎をB69と仇名しました。当時恐れられた米軍爆撃機B29をもじったのです。また彼は八卦占いを信じました。人事採用も八卦で決めたので大学から学生紹介を断られた事もあります。仏教といわず神道といわず八百万の神様仏様はすべて信じました。その一環が放生会です。その辺で買ってきた、魚や亀や蛇などみな放ちました。馬鹿にならない費用なので社員が忠告すると怒鳴れました。この行動の一環でしょう、彼の社会事業への貢献は大きいものがあります。終戦直後大阪駅周辺の浮浪者すべてに握り飯を振舞いました。次から次と浮浪者が現れてもひるまず、慈善を続けました。信治郎の信念は、事業家はその収益のうち、1/3を社会に、1/3を顧客に、残り1/3を資本に廻す事でした。このような信念ゆえか、彼は株式の上場を極端に嫌いました。理由は株式公開にすれば、株主の機嫌を伺い、結果として良い商品は生産できない、ということです。全面的には賛成できませんが、昨今の米国の状況を見れば、なるほどと思わされます。以上信治郎の商法の一端を紹介しました。このような頑迷なまでの信念と独裁性と楽観があればこそ国産ウィスキ-生産という難事業ができたのでしょう。
 信治郎は宣伝好きでした。赤玉ポ-トワインが発売されると、健康に良いとかで、当時希少価値のあった医学博士の推慮を総動員します。またサイドカ-に軍服に似た服装の社員を乗せて宣伝隊を町に繰り出します。毎日新聞の宣伝部長片岡敏郎を月給倍の条件で引き抜きます。松島栄美子の半裸体ポスタ-は彼の考案になります。赤玉額劇団を編成して日本中を公演させて廻ります。洋酒を世間に広めるために、トリス喫茶店を開きます。カクテル相談室も開催します。「洋酒天国」という雑誌を作り、宣伝しないような形で宣伝します。この雑誌は私も見たことがありますが、自社のことなどあまり触れていません。本当に洋酒のための雑誌という感じで、私が見た頃は発売部数も多いポピュラ-な一般雑誌でした。サントリ-の宣伝部からはかなりの人物が出ています。作家の開高健、随筆家の山口瞳、漫画家の柳原良平などです。
 大正12年関東大震災、この事件とはどう見ても関係なさそうですが、信治郎は、本場のスコッチに負けない本物の国産ウィスキ-を作ろうと、思い立ちます。と言ってしまえばそれまでですが、この企ては一大壮挙、というより暴挙、かなりの人にとっては愚挙でしょう。事実会社の内部も外部も猛反対でした。理由は簡単です、資本がかかり、しかも資本が回収できるまで、最低10年の歳月が必要になります。もちろんうまく行ったとしての話ですが。加えて、酒は文化という事情もあります。英国の文化にマッチした微妙な味わいを作り出し、それを日本の文化に適合するべく云々、というだけで難題だなと思わされます。
ここでウィスキ-の作り方に伴う難事を簡単に説明します。まず醸造所の選定に条件があります。スコットランドの高地地方ロ-ゼス峡谷のような、霧が適当にかかる湿気の多い土地でないといけません。原料の大麦も選定されます。信治郎は、ゴールデンメロンという品種の麦を使いました。麦芽も酵母も品質が限定されます。発酵してできた新酒は蒸留されます。それも何回も何回も。この蒸留には、スコットランドの湿地(沼地?)でできるヒースという草が、湿地に堆積し炭化してできた、泥炭ピ-トを使わなければいけません。ピ-トは輸入します。ピ-トを焚いて蒸留する過程で付く独特のにおいが、ウィスキ-の味を決めます。こうして原酒(モルト)が出来上がります。これを樽にいれて暗い冷たい地下室で保存します。樽は樽で特別性です。アメリカから輸入したホワイトオ-ク(白樫)で作ります。それを一度シェリ-酒を入れてあくぬきをしてから使います。新しい樽を使うのと、古い(つまり一度以上ウィスキ-を保存した)樽を使うのとでは、できる酒の味が違います。もちろん寝かせる期間によっても違ってきます。どのような樽を使い、何年寝かせたかで諸種の原酒が出来上がります。これらの原酒をblend(調合)し、さらにグレ-ンウィスキ-という比較的単純な酒を加味して、ウィスキ-が出来上がります。blendの能力は天賦とされています。また麦や麦芽にしてもできた年の気候により微妙に違います。さらに発酵・蒸留させる時の気候も作品のできばえに影響するでしょう。
大量の資本と高度な技術を長期間必要とし、しかもそれだけでは必ずしも成功は保障されない事業がウィスキ-造りです。まるでケルト・アングロサクソンの文化全体を日本に輸入するようなものです。この壮挙(愚挙?)に信治郎は敢然かつ欣然と取り組みます。これは信治郎の遊び心の表れでしょう。そういえば英国の人士がスコッチに寄せる気持ちも遊びに似ています。
幸い工場の土地としては山崎というか格好の土地が見つかりました。大阪府と京都府の境にあり木津・宇治・桂の三川が合流する山崎地峡は、結果としてウィスキ-造りには最適の土地でした。(注4)問題は技師長の人選です。信治郎は最初、イギリスの醸造学の大家ム-ア博士を日本に招聘して指導してもらおうと思っていました。博士も快諾しましたが、そのうちムーア博士は、日本人でスコッチの工場に留学し、製法を学んで帰った若者がいる事を知り、彼に技師長を委ねたらと、言います。信治郎としてはやや気がそがれた感もありましたが。この人物竹鶴政孝を採用し、(注5)ウィスキ-造りの全権を委ねます。この時信治郎はムーア博士に出すべく予定していた年俸4000円を竹鶴の年俸としました。大正12年10月山崎工場起工式。

(注4)山崎は昔羽柴秀吉と明智光秀が天下分け目の戦をした古戦場です。信治郎の本拠地大阪からも現在なら電車で30分かかりません。いいところに最適の地があったものです。またこの地は灘伏見の酒水に連なります。この地は竹が多く生え、その分余計な植物の繁殖が少ないので、細菌環境もウィスキ-造りに最適と後になって判明しました。加えて太閤さんびいきの信治郎には、秀吉出世の古戦場は縁起も良かったのでしょう。
(注5)大阪高等工業学校醸造科卒業。摂津酒造に入社。摂津酒造もウィスキ-造りを企て、竹鶴はグラスゴ-大学に留学。帰国後不況のために、摂津酒造は企てを放棄。浪々の身になっていた竹鶴に信治郎は白羽の矢を立てる。竹鶴は後独立し、ニッカウィスキ-を設立。大阪高等工業学校は後の大阪大学工学部です。当時醸造学は日本中ここしかありませんでした。多分灘伏見という酒どころに近かったからでしょう。なお信治郎の次男の佐治敬三もここの出身です。なお信治郎は何ゆえか、次男敬三に山陰の旧家である佐治家の姓を名乗らせています。ですからサントリ-の創業家は鳥井家ですが、佐治家も同様となります。

 ぼつぼつウィスキ-が出荷されます。予想通り始めのうちは、焦げ臭い、という悪評でした。ピ-トの焚きすぎが原因でした。酵母の選定にも問題がありました。そこは信治郎得意の粘りで切り抜けます。まあ、飲んでくだはれ、と次々にできたウィスキ-を得意先に持って行きます。課税でも苦労します。当時の酒税は仕込んだ酒の量に従って一年単位で課税されました。仮にウィスキ-を10年寝かせるとします。この間金にはなりません。だから一年単位で課税されると、ものすごい税金になります。信治郎は国税庁に掛け合いにいきます。多くの場合喧嘩になりました。こうして池田隼人(後の首相)と昵懇になります。昭和6年サントリ-特角を出します。この頃からサントリ-も商品化できるようになったのでしょう。この間当然ですが、ウィスキ-部門は大赤字の金喰虫でした。信治郎は赤玉ポ-トワイン以外の商品の生産をすべて中止し、赤玉とウィスキ-のみに専心します。赤玉ポ-トワインで稼ぎ、それをウィスキ-製造につぎ込むのです。なにやらトヨタの自動織機と自動車の関係によく似ています。ちなみに「サントリ-」という名称は「サンsun、太陽」と「トリイ、鳥井」からきています。もちろんサン(太陽)は赤い玉で象徴されます。
 事業も段々好調になって行きます。昭和8年アメリカでは禁酒法が廃止になりました。これでアメリカにウィスキ-を輸出できます。ということはアメリカでは当時たいしたウィスキ-が製造されていないことになります。スコットランドに似た土地なら広いアメリカのこと、どっかにあるとは思いますが。昭和12年サントリ-角瓶、同15年サントリ-オ-ルドを発売します。このあたりから洋酒の寿屋とサントリ-の名称はブランドになって行きます。しかし信治郎には不幸が訪れます。頼みの右腕と期待していた長男吉太郎が急死します。信治郎には男児が3人います。長男吉太郎、次男敬三、三男道夫です。次男は佐治を、他の系譜の親族は鳥井を名乗ります。
 戦火が勃発します。しかし戦争は酒造業にとって有利に働いたようです。酒の成分はアルコ-ルであり、この物質は軍需物資ですから、生産は保護奨励されます。加えて戦争に従事する軍人は明日の命も解らない状況に置かれるので、酒量は進みます。ウィスキ-は舶来品であり、英国の酒でしたから、英国仕込の海軍に重用されました。やがて陸軍も眼をつけ、陸海の争奪戦になりましたが、ことウィスキ-に関しては海軍有利に配分されました。
 戦争が終わります。しかしサントリ-の経営は、他の業種に比べれば順調だったようです。最大の生産施設である山崎工場は戦火を免れました。私はよくこの近くを電車で通りますが、どう見ても爆弾なぞ落とす気にはならない、地形に工場はあります。更に進駐してきた米軍の需要もありました。米国のウィスキ-より上質らしく、米軍将校の愛飲するところとなります。信治郎はひばりヶ丘の自宅を解放して、米軍将校の接待会合の場にしました。当時米軍(つまりGHQ)と親しいという事は、多くの便宜に繋がったはずです。将校だけ美味い酒を飲むのはけしからんと、米兵も同様の要求をします。拳銃を突きつけられて脅迫強奪される事もありました。そこで兵卒用のブル-リボンというウィスキ-を作りました。どこへ行っても階級格差はあるようです。
 当時主税局長だった池田隼人から信治郎は助言されます。サントリ-もいいが、もう少し大衆的なウィスキ-を出したらどうかと。期待に答えてトリスウィスキ-を発売します。池田自身が大酒のみであり、彼の実家は酒造業でしたから、酒飲の気持ちはよく解ったのでしょう。トリスウィスキ-を発売すると同時に、トリスバ-も全国に開きます。このバ-開設の条件は、酌婦がつかない事と値段が公正である事でした。健全な居酒屋とでも言いましょうか。私が昭和35年大学に入り、始めて友人とウィスキ-を飲んだ当時、トリス、サントリ-角瓶、オールドの順にランクが上がりました。角瓶は比較的金のある連中が飲む物、オ-ルドになると国産の一級品という格でした。この上に確かサントリ-ロイヤルというのがありましたが、それはジョニ-黒と変らないという評判でした。
 昭和30年紫綬褒章を受賞します。昭和34年現在、寿屋の資本金は1億9200万円、大阪本社以外、支社6、工場8の陣容でした。36年社長の座を降り、次男の敬三に譲ります。37年死去、83歳でした。喪主は信一郎(信治郎の孫)、友人代表は池田隼人(首相)や山本為三郎(アサヒビ-ル社長)、高崎達之助他数名でした。山本と高崎については後の列伝で取り上げる予定です。
 ここで鳥井信治郎の魅力とでも言うべき項目を列挙して見ましょう。この作業は同時になぜ彼がウィスキ-生産という難事業を成功させたか、という問題に繋がります。まず商人根性と職人気質の同居、信二郎にはこの相反する傾向が多量に同居している事が挙げられます。商売熱心でがめつく売りまくり、宣伝を大規模に行います。この辺は商人的ですが、ウィスキ-やポ-トワインの品質に関しては頑迷なほど、品位にこだわります。算盤を度外視して品位にこだわったから、英国産に劣らないウィスキ-ができました。
 生活は派手同時に地味です。社会事業に多額の寄付をして、おしゃれな反面、当時の金持ちが愛好する自動車と別荘の所有には断固反対しました。地味だが派手と言うべきでしょうか?彼の活動にはある種の快楽主義を感じさせられます。ハイカラ趣味といえば少し浅薄になるかも知れませんが、彼はそう言われていました。
 快楽主義は楽観主義に通じます。彼の口癖は、やってみなはれ、でした。とことんやってみなはれ、です。単に頑張るというだけではありません。自分の思うようになるだろう、という信念か確信のようなものがあります。この確信を彼は他人にも押し付けます。確信と楽観の基底には快楽という一種の麻薬が存在するようです。彼が大酒家だったとは聞いていません。しかし赤玉ポ-トワインが発売された当時、これを飲んだ日本人は多分、美味とある種の悦楽感に襲われたでしょう。信治郎はこのイメ-ジを真っ赤な太陽(sun)でもって表しました。松島栄美子のセミヌ-ド姿はそれを象徴しています。自分が感じた快楽を自分だけのものとはせず、みんなに解放します。本人がそうと変に自覚していない分、この印象は強烈です。
 これらの要因があわさって、信念と使命感が出現します。そういう単純に言葉で表されるだけのものではなく、図々しさ、頑迷なあつかましさ、そして自己肥大感と言った方がいいでしょう。しかしそこには否定できない信念と使命感があります。
 そこから出てくるものが、独裁と自信です。
 信治郎を語る場合、彼がいわゆる、こてこての大阪人、であったことも考慮に入れる必要があります。換言すれば土着性です。しかも都会的な土着性です。だから彼の考えは一見奇矯なようで常に大地に根をはやした感があります。だから英国の文化の、しかも土着性の強い文化であるウィスキ-を、やはり大阪という土地に土着させえました。
ウィスキ-を生産し成功させるためには、10年近く大量の資本を寝かせる必要があります。試みを敢行するには、野放図な大胆さと文化移入への使命感、そして自己への信頼が要ります。それを鳥井信治郎という男はやり遂げました。多分日本以外の国で、英国産と同格のウィスキ-を生産した国は無いでしょう。

  参考文献  美酒一代、鳥井信治郎伝、毎日新聞社

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