経済(学)あれこれ

経済現象および政策に関する意見・断想・批判。

経済人列伝、伊庭貞剛、住友財閥中興の祖

2010-03-04 03:38:44 | Weblog
      伊庭貞剛

 住友系企業群を創設し、住友財閥の基礎を築いた人物として知られている、伊庭貞剛は弘化元年(1845年)近江国西宿(滋賀県近江八幡市西宿)に誕生しました。家は代々泉州信太藩に仕え、近江の飛領3000石の代官を務めると共に、佐々木神宮の神官をしていました。先祖は宇多天皇を祖とする佐々木源氏と言われています。家系についての話は信用できないのが多いのですが、伊庭家に関しては信用できます。
 剣を児島一郎に習い、免許皆伝を受けていますが、貞剛は後年剣に関して誰にも話さなかったそうです。剣道修行中に、近江八幡の干鰯問屋の西川吉輔と出会います。西川は勤皇の志士の一人でした。足利将軍木像の首を切って三条大橋に晒す、という事件の首謀者の一人でもあります。西川の影響で、貞剛は勤皇精神に感化され、国学の造詣も深くなりました。貞剛の教養はこれらに加えて、陽明学そしてそこから発展して禅宗への帰依があります。
 西川の縁で維新後、貞剛は京都の警衛隊員に推挙されます。以後10年間彼は新政府の司法畑を歩きます。京都府の刑法官を勤め、そして弾正台勤務になります。この時、時の兵部大輔大村益次郎事件に関係します。大村暗殺事件には新政権内での薩長両派の確執があります。一方的に犯人処刑を急ぐ刑部省に対し、それを監察する立場の弾正台の立場から、貞剛は処刑実行に介入します。結果は東京本部への転勤です。東京勤務時代、参議広沢兵助暗殺事件が起こります。犯人を追って九州に行き、犯人をかくまっている久留米・柳川両藩と折衝します。こういう政界の中枢に触れる大事件を担当させられているところから見ると、貞剛の能力と忠誠心は政府から信頼されていたと見ていいでしょう。東京在任中長崎出張を命じられます。長崎滞在中、貞剛は商館などに出入りし外国の事情を研究します。帰京後はフランス人ボアソナ-ド(政府お雇い法律顧問)から法学を学びます。やがて函館裁判所勤務、そして判事に任じられ、大阪上級裁判所勤務になります。現在で言えば、大阪高等裁判所判事というところです。時に明治10年、貞剛31歳です。
 明治11年32歳時、官界に嫌気がさし、裁判官を辞任します。貞剛が官界に入った頃から10年、官吏の世界も組織化され、貞剛には窮屈だったのでしょう。住友の大番頭だった叔父広瀬宰平の勧めで、住友に入ります。100円の月給が40円になります。入社後3ヶ月して貞剛は、大阪本店支配人に抜擢されます。貞剛の官歴が評価されました。
 明治13年、東京の渋沢栄一や大阪の藤田伝三郎が、イギリスで学んできた紡織技師山辺丈夫を技師長に迎えて、日本で始めての近代的大型紡織工場、大阪合同紡織を設立しようとしていました。(列伝・山辺丈夫の項を乞参照)伊庭貞剛はこの事業に賛同し、協同設立人の一人になります。工場は明治15年、大阪三軒屋に作られました。この会社は後発展し、東洋紡績になります。
 明治13年大阪商業講習所設立に参加、この学校は後発展して、現在の大阪市立大学になります。
 明治15年、当時盛んに起業され乱立気味だった海運会社を、住友の運輸部門を中心に合同再編して大きな会社にしようという話がでていました。貞剛は住友を代表して、この企画に参加します。貞剛としては、まだ早いという、判断でした。案の定新会社はうまくゆきません。明治19年に貞剛は取締役になり、会社再編の指揮をとります。10万円の新株を発行します。併行して年5万円の政府補助を獲得します。政府の援助には貞剛の官歴による政界とのコネが効いたかも知れません。それより15年と19年という時代の環境の差が重要です。15年の時は松方デフレの真最中、19年頃からデフレは収まり、産業が発達し始める頃です。こういう時代環境を読む為には、新知識を吸収し、官界の情報にも詳しい、貞剛のような人物が必要でした。合併以前の船会社の経営者は、そのほとんどが一旗組で、目前の利益しか眼中になく、契約違反などへっちゃらな手合いが多かったと言われています。貞剛が指導した合併再編はうまく行き、大阪商船になります。郵船と商船といえば日本の海運の代表であり、ブランドになりました。
 明治23年第一回帝国議会の選挙に滋賀県から立候補し当選、衆議院議員になります。同期の当選者には杉浦重剛がいます。貞剛はこの間大阪市参事会員、大阪商業会議所議員を務めています。
 明治26年創業家住友家の家系継承に危機が訪れます。先代友親が死去し、後継の友忠が夭折します。友忠の妹満寿子に養子を取らなければなりません。貞剛は当時経済界に隠然たる影響力を持っていた、井上馨の提案を婉曲に断り、華族である徳大寺実則侯爵の弟隆麿を養子に迎えます。隆麿は吉左衛門友純と改名して、住友本家に入ります。貞剛は満寿子の養子として、政界・官界・実業界を意図して排除しました。住友は極力政治不介入の立場を標榜していたから、そういう方針になったのかも知れません。貞剛は主家の危機を救います。
 明治27年住友内部で抗争が持ち上がります。20年以上に渡り、住友の経営を牛耳ってきた広瀬宰平に対し、反広瀬派が団結して、反対します。貞剛は叔父と同僚の間に挟まれて苦境に立ちます。抗争事件と併行して、住友の本山である別子銅山でも紛争が持ち上がります。銅製錬の過程で出てくる煙の害に対して周囲の住民が抗議し、それに坑夫の待遇改善要求も加わり、別子銅山は存亡の危機に置かれます。銅山の危機は住友の危機です。住友内部の抗争は銅山の問題を解決すれば収まると踏んだ貞剛は単身銅山に赴任します。
 まず銅山の技術的問題に取り組みます。三角坑道の排水がうまく行きません。鉱山の経営の最大の問題はいつも排水にありました。坑夫の不満の原因もそこにあります。貞剛は一度住友を辞めて古河鉱業に入った技師、塩野門之助を技師長として引き抜きます。この塩野が排水の問題を解決しました。次に銅製錬所を瀬戸内海の四阪島に移転させます。島は住友が買い取りました。旧式の製錬法を中止し、硫酸製造や製鉄など余計な事業は廃止します。同時に別子銅山経営で禿山になった銅山周辺一帯に大規模な植林を行います。この植林は成功し現在では肥沃な森林となり、吉野川の水源になっています。
 貞剛はただ銅山の経営を改善しただけではありません。住友の人事を変革します。明治28年、農商務省書記官であった鈴木馬左也を住友に迎えます。すぐ大阪副支配人・理事に任命し、暫くして欧米留学を命じています。鈴木は貞剛の後継者になりますが、この時点ですでに指導者養成を始めています。明治32年日銀内部で抗争が起こりました。山本達夫総裁の独裁に抗議して10人近い幹部が辞任しました。貞剛は河上謹一以下数名の辞任派を住友に迎え入れます。河上は理事になりますが、貞剛は自ら平理事に降りて、河上に敬意を表しました。鈴木や河上に代表される人事は単に官界のエリ-トを引き抜くと言う意味だけではありません。明治30年前後といえば、日本が第一次産業革命を達成し、さらなる発展を期しつつある時代です。経済界自身の大変革期です。この時期官界のエリ-トを迎え入れ、それまで住友内部で停滞し拘泥していた経営や人事そのものを貞剛は変えようとしました。
 併行して住友という業種集合体の経営が大きく変ります。まず金融部門を独立させて、住友銀行を設立します。それまでの並合業を排して、各部門を会社として独立させます。倉庫部門を切り離し住友倉庫設を、日本製鋼株式会社安治川工場を買収して、住友伸銅所を設立します。後大阪製鋼株式会社の工場を譲り受けて、伸銅所の分工場にしました。伸銅所は別子銅山経営の延長上にあります。こうして各部門を独立させて、全体として住友傘下という形を作りました。それまで多業種がごちゃごちゃと同じ屋根の下に並んで混み合っていたのを、すっきりとその専門性に従って経営を分離させたわけです。産業革命期という時代にあった経営方式です。こうして住友財閥が誕生します。ちなみに同じ作業は三菱では20年台前半に完了しています。
 肝心の人事抗争はどうなったでしょうか?広瀬宰平は辞任、反対派の主導者一名が住友分家資格を剥奪され、理事二名に譴責処分、ただそれだけでした。無血革命です。
 貞剛は単身別子銅山に乗り込み、多くを言わず語らず、謡曲を口ずさみ、飄々として事態に対処しているように見せましたが、鉱山技術、経営方式、人事改革、そして社会奉仕のあらゆる面に渡って押さえるところは押さえ、改めるべきところは改め、27年から32年に渡る銅山滞在中、住友という経営体の構造を根本的に変革しました。彼の外面はある種の韜晦でもあります。結構たぬきかも知れません。しかしその手腕は抜群です。なお貞剛により銅山改革は、古河鉱業の鉱毒事件を糾弾した田中正三から絶賛せれています。
 明治33年54歳時、住友の総理事に就任。明治37年58歳、予定通り後継を鈴木馬左也に譲り辞任します。滋賀県石山に別荘を作り、そこに引退し、自然を愛して参禅し、悠々自適の生活を送ります。以後特に表だった活動はありません。大正15年(1925年)80歳で死去します。その半年前に、貞剛が縁組を取り持った住友友純が63歳で死去しています。何かの縁でしょうか?貞剛が現役時によく口にしたのは、めくら判を押せないような部下は持つな、という言葉でした。この言葉は現在私が聴いても、なるほどと心根に染み通ります。参禅からくる逆説調もいい響きです。

 参考文献  伊庭貞剛 日月社版(大阪市立図書館所蔵)