経済(学)あれこれ

経済現象および政策に関する意見・断想・批判。

夫婦別姓に対しての意見

2010-03-12 03:28:32 | Weblog
      選択的夫婦別姓に対しての意見

 民主党政権は選択的夫婦別姓を法制度として導入しようと画策しています。経済無策、外交支離滅裂、政治倫理壊滅、とでも言うべき状況で、せめて夫婦別姓や外国人参政権付与で、開明的であるというポ-ズを示したいのだろう、と私は想像しています。外国人参政権の問題は今回さておき、夫婦別姓に関して私の意見を以下に開陳いたします。
そもそも何で夫婦別姓なのかが、理解できません。特に差し迫った障害が、現制度にあるとは思えません。一部の人達による、為にする行為、ある種の意図を持った工作、体制破壊遂行の一環ではないかと憶測してしまいます。ですから夫婦別姓という事そのものもともかく、その意図が危険です。夫婦別姓はあらゆる意味で将来の禍根になる可能性を、それも多大に持っています。
 生物学的に言えば、子供は父母のDNAを半分づつ与えられて、この世に生を受けます。子供は父母一方のどちらのものでもありません。生誕時から子供は父母共同の産物です。常に遺伝子を多用な形態に保つ事が、種族保存のための必須条件です。これが第一点。
 以上の生物学的前提を受けて、父母による養育が始まります。養育過程を極めて簡潔に言えば、それは愛着、掟、分離の三つの段階を踏まえて完成されます。愛着とは、親による保護、接触(スキンシップ)、生存に必要な条件の付与つまり満足、安全感などから成り立ちます。掟とは規範です。社会に出るのにしてはいけない事・するべき事の認識です。分離とは、親からの心身双方における分離、達成感の獲得を通しての自立を意味します。そして愛着・掟・分離という過程の遂行は、父母協同で行わなければ、充分な成果は挙げられません。父母はこの作業において、協業しかつ分業します。協業と分業は相補的関係にあります。愛着と掟は成長する子供にとっては対立する要因になります。ですからこの作業は父母により分業されます。一般的には愛着は母親が、掟は父親の仕事になります。子供は母親の愛情にくるまれ保護され、やがて父親の背中を見て社会とは何かを認知します。愛着と掟という相反する過程を、父母のどちらかが単独で遂行する事はできません。それは極めて危険な企てです。
 養育の目的は人格の完成にあります。安定した人格とは、同一性と連続性の意識が保てる事です。もう少し詳しく言いますと、個人は、自らが持つ属性や行為が全体として同一な「われ」にあり、またこの「われ」が時間の中で連続したものであるという自覚を持った時、自己を安定し完結した存在として認知できます。平たく言えば、自分のした事やその傾向の一部が自己のものでないとか、あるいは以前の自己が現在のそれとは別のものだと、いう認識に陥れば、人格は崩壊し始めるという事です。同一性と連続性の意識が崩壊した極が、統合失調症という病気です。そして同一性と連続性の意識を前提としてのみ、自己の人格の独立性が獲得できます。
 養育の目的は、人格の完成の基盤である、この同一性と連続性の意識を子供に与える事にあります。この作業は父母が緊密な連携下にある事によってのみ可能です。父母の緊密な協同作業を見聞し、体験してのみ、子供は自分がこの協同作業の中にいる、と思うことが可能です。まず父母が緊密な共同作業を提示している、作業の目的が自分であり、自分もその作業に参画している、という子供の自覚が養育の基本的条件です。この過程を経てのみ、人間は、自己の独立性の意識を獲得できます。もちろんこれは理想的な範疇であります。しかし基本はそういうことです。精神疾患を心因的に見る限り、その前提は以上の要因の欠如ないし障害です。
父母が子供に影響を最大限に発揮する期間、子供の精神あるいは脳神経の発達は極めて盛んです。神経結合(シナップス結合)の数から言えば乳幼児期におけるその数は成人の比ではありません。
 仮に子供が、父母をばらばらな存在、協同して自分に対しえない存在と感じたとき、どんな事が起こるでしょうか?簡単に言えば、パパとママは別々、だからボクも別々、となります。別々とはばらばらという事です。これを平等と言えばそうとも言えますが、極めて危険な悪平等です。かくなりますと親子の位置が揺らいできます。時として子は親に過大な要求をするかと思えば、逆に親の責任を自ら負い、親の親役を引き受ける事になります。そして一番の問題は、親子の位置が不安定になる事によって、親子間のけじめ、もう少し端的に言いますと、親子間に設定されている近親相姦禁忌(incest-tabu)が揺らいでくる事です。近親相姦は簡単には発見できませんが、現在性的虐待と言われている行為は無視できないほどあります。また近親相姦行為の代理現象として問題なのが、低年齢恋愛と恋愛依存症です。近親相姦禁忌の弛緩解体は社会統合の根幹を揺るがす問題です。夫婦はばらばらであってはいけません。夫婦別姓はこのばらばらな関係を促進し意図するものです。
 そもそも婚姻とは如何なる現象でしょうか?婚姻あるいは配偶者選択は少なくとも三つの要因から成り立ちます。まず社会維持と種族保存の義務、次に利害計算、そして愛情(なるもの)です。利害計算は義務感から来る結果です。愛情は義務感を補足します。もし第一項である義務感を欠いたら、婚姻はどういう事になるでしょうか?配偶者の適否を冷静客観的に考察する必要はなくなります。残るのは愛情だけです。
 愛情とは何でしょうか?愛情とは人が簡単に考えているほど単純なものではありません。
複雑で不安定限りないものです。簡潔に言えば愛情は、願望の投影、外傷の治癒、身体による精神の代償置換、という三つの、かなりな程度病理的要因から成り立ちます。願望の投影とは、相手が自己の願望を受け入れ、満たしてくれる、という期待です。外傷の治癒とは、自分が過去に受けた何らかの外傷を相手が癒してくれる、という期待です。この場合相手の外傷を自分が治してやる事により自分を癒すという、逆方向の力も働きます。ここで恋愛当事者は相互に自己を被害者・幼弱者に擬しています。恋愛において期待は容易に確信に変ります。身体による置換とは、自己が始めて経験した母親の体(あくまで体です)を無上のものとする事です。結果は幻想への埋没と理性の喪失です。
 このように愛情なるものには、極めて多大な不安定要因、病理的要素が含まれています。そしてなによりも肝心な事は、恋愛関係においては当事者双方に、離れるつまり裏切る権利があるという事です。もし一度恋愛したら、決して離れてはいけないとなると、恋愛とは地獄であり、無期懲役に等しくなります。愛情とはこのように不安定なものです。もし結婚に義務感が欠如すれば、夫婦関係は無政府状態、修羅場裏になるでしょう。私は職業柄人様の恋愛行為を観察させてもらう機会が多々あります。私の臨床経験から推す限り、恋愛感情はせいぜいもって2・3年です。その後は結婚するか、別れるかです。後者の方が圧倒的に多いのです。
 教育は誰がするのか、という問題もあります。社会か父母家族か?どちらであるともいえましょう。しかし教育は養育の延長であり、前者は後者を前提としてのみ可能です。既に父母と子供の三位一体を論じた時、ここで自己の同一性と連続性の意識が作られ、それは同時に自己の自立の前提でもあると、申しました。またそれは父母と子供が安定した共同体を形成しているという意味で、帰属感あるいは全体性の意識を育てる事でもあります。この帰属感と全体性の意識を前提としてのみ、公教育は可能です。学級崩壊など現在教師を悩ませている問題の根源はここにあります。だから社会は父母を代理できません。安易に教育を社会に委譲する事は教育の放棄に繋がります。教育の延長線上に労働があります。最初の前提を欠けば労働生産性も低下するでしょう。
 よく子供は保育所で育てればいい、というような粗暴な論旨を展開する人がいます。保母や教師は、両親を代理できるでしょうか?できません。特に養育上決定的な意義を持つ、3歳児までは父母の存在が不可欠です。母親は生理的にも心理的にも子供と繋がっています。乳児期は胎児期の延長です。乳児期を過ぎれば父親の役割は徐々に増大します。血縁によって結ばれた自分の子供という意識があるからこそ、わが子にその全力を注げます。自分の子と他人の子に差別無く接しられる人がいるでしょうか?そして発達の最初の段階である乳幼児期は、特に関心と配慮を多量に注がなければならない時なのです。この事を成しうるのは父母のみです。
 再び問います。教育は誰がするのか、と。それは父母であり、教師であり、保母であり、隣人でありそして社会です。しかし教育の原点たる養育は父母の権利でありまた避けられない義務でもあります。これを欠いてはあらゆる教育は不可能です。仮に養育と教育をすべて社会に任せれば、他者が自己に決定的な影響を及ぼしうる時期、子供は極めて希薄な人間関係に置かれます。それは重大な発達の障害を結果するでしょう。このような状況はある意味で自由で平等かも知れません。ここで共産主義社会を思い起こして下さい。彼らは私有財産を否定すれば、すべては良くなるといいました。結果は経済の停滞のみならず、倫理の破壊でした。財貨という人間の実存の外部にあるものに関してもこの有様です。まして養育まで完全社会(主義)化すればその影響は、私有財産否定の比ではないでしょう。
 夫婦別姓はその事自体もともかく、そこに潜むある種の意図も危険です。この意図を完遂すれば、結果は倫理の破壊になります。
私が経験した数例の夫婦別姓の例を回顧して見ましょう。多くは自立を目指すと言う女性側の積極的な意志と、それに対応する物分りのいい、開明的で進歩的であろうとする男性側の気取りから、別姓になりました。結果はすべて対立と喧嘩、悪罵の投げ合いから離婚に至っています。恋愛依存症に関して言えば、しがみついて(cling 愛着の病理的形態)から、依存しつつ支配し、恋愛対象を頻繁に取替え、暴力と身体毀損を繰り返す状態が一般的です。またここ30年来境界線人格障害と名づけられる疾病が激増しています。自覚的症状よりも、他者に対する暴力も含む迷惑行為を主とする疾患です。厳密な原因究明は難しいのですが、自分に甘え他者の寛大さにつけこむ態度は彼らに著明です。
 最後に。男性は婚姻に際して、共同体維持という義務感があるから、家庭にだから配偶者に忠実になりえます。これは婚姻外の恋愛過程においても同様です。夫婦がばらばらでいいのなら、話は違ってきます。忠実な番犬をわざわざ野に放って餓狼にする必要がどこにあるのでしょうか?夫婦別姓はその序曲です。そして人類滅亡の葬送曲になります。