経済(学)あれこれ

経済現象および政策に関する意見・断想・批判。

経済人列伝  早川徳次

2021-06-04 18:41:16 | Weblog
経済人列伝  早川徳次

 最近シャ-プに新聞紙面をにぎわせています。読売新聞の朝夕刊一面に出た記事を記載します。(ただし平成20年くらいの時点)

 3-29シャ-プ、LED植物栽培の研究開発で大阪府大と提携
 4-3 シャ-プ太陽光発電量産化へ 電気料金並みコスト 変換率アップ
     (それまで14%前後の変換率を20%にアップ)
 4-9 シャ-プ堺工場 液晶生産前倒し稼動 

 世界的大不況といわれる中、技術立国日本の将来を示唆するまことに頼もしいニュ-スです。早川電気、現在のシャ-プ株式会社の創始者が早川徳次です。彼のモット-は「他社が真似するような商品を作れ」でした。
 彼早川徳次の一生は波乱に満ちています。厳しい幼少年期をめげずに過ごし、19歳で独立します。徳次は1893年日清戦争勃発の年に、東京日本橋で生まれます。故あって養子に出されます。養父は出野熊八、深川の大工でした。養母が大変な人で、今なら「abuse--虐待」と言っていいほどの眼にあいます。三度の食事もろくに食べさせてもらえないかのような待遇でした。私立の小学校を中退し、8歳、坂田芳松という飾職人の家に丁稚奉公します。親方にはかわいがられたようです。この間夜学に通い、算盤と文字を習います。
発明の才能は早くから目覚めます。19歳「徳尾錠」で特許をとります。「徳」は自分の名前、「尾錠」はバンドのバックルです。それまでバンドは皮に穴をあけて止めていました。現在の「尾錠」は徳次の発明です。同時に独立します。資本金が50円弱でした。
 20歳、「巻島式水道自在器」の特許を取ります。それまで水道に蛇口をつけるのには時間がかかりました。この自在器は時間を大幅に短縮します。「巻島」は徳次が世話になった人物の姓です。
22歳、有名なシャ-プペンシル(早川式繰出鉛筆)を開発します。以後どの程度改良されたのかは知りませんが、シャープペンシル、略してシャ-ペンには現在でも私はお世話になっています。この種の器具は徳次の発明以前からあったようですが、不便極まりないものでした。この間出野家を離籍し、今に知られる早川徳次になります。早川の一族特に兄弟と再会します。早川と出野では社会的階層差があります。加えて義母に虐待された体験を持つ徳次としては、早川の籍に入る事で自己の帰属感を確立したかったのでしょう。1917年(第一次大戦終了の年)、徳次24歳、早川商会の月売り上げは2万円、従業員は100名を超えます。当時の国家予算はせいぜい20億円くらいと理解しておいてください。
 1923年、徳次30歳、関東大震災に会います。この時妻文子と二人の息子を失います。早川商会の損失額は25万円、工場施設は壊滅です。一時的に廃墟になった東京を捨てて徳次は、関西に移住します。2万円の借財と引き換えに、シャ-プ・ペンシルの特許を日本文房具という大阪の会社に譲ります。後年この時の契約証書の有無をめぐって徳次は不快な裁判沙汰に巻き込まれ、敗訴します。
 多くの人の後援を得て31歳、現在の大阪市阿倍野区西田辺に、早川金属工業研究所を作ります。これが現在のシャ-プ発祥の地です。以前から徳次はラヂオに関心を持ち、鉱石ラヂオなどを作っていました。33歳、ラヂオ受信機であるシャ-プダインを作り、電器産業に進出します。この商品は最初の見本市であまり売れませんでした。そこで徳次は一部の商品に売り切れの赤札を意図的に貼ったといわれます。売り切れま近と思った客は争って買い、すべて売り切れたそうです。ちょっとしたトリックですが、発明家徳次の商才を伺わせます。
 1935年、43歳、株式会社早川電気設立、資本金30万円。堂々たる実業家になった徳次は、横浜モ-タ-バ-ツの社長も兼ね、早川商工青年学校を経営し、日本ライトハウスの創立に寄与します。
 やがて戦争、通信機器の分野の軍需を担当します。陸軍大佐の待遇でした。そして敗戦。他の企業と同じく、生産施設は破壊され、資産は壊滅します。社員をどうして食わせてゆくか、その為に、電気イモ焼き器、電熱器、電気パン焼き器など、売れそうなものならんでも作りました。
1949年ドッジライン。超緊縮経済の中でほとんどの企業は潰れかけます。早川電気も松下電器も例外でなく、倒産廃業の一歩手前まで追い込まれます。当時、早川電気の中で「特攻隊」という言葉が使われました。営業マンは自社製品を抱えて出た以上、売切れるまで帰ってくるな、という命令です。帰りの運賃は自分で稼げ、片道分のガソリンだけあげる、というしだいです。こうして四苦八苦するうちに神風が吹きます。朝鮮戦争です。またこの戦争をきっかけとして、共産主義の驚異を実感した米政府は、反共の楯としての日本の工業力育成のために、米国の特許公開の制限を緩和します。
(特許に関して付言すれば、戦時中わが国が独自に開発した技術は、戦勝国によりすべて特許からはずされました。米国は一時期本気で日本を非工業化するつもりでした。なお
現在の時点で、特許申請件数は日本とアメリカが首位を争っています。両国の特許申請には明らかな差があります。アメリカの特許申請者は半分以上が外人です。米国科学技術の空洞化といっていいのでしょうか?日本は米国に対してもドイツに対しても特許では出超です)
徳次は将来の方向をしっかり見据えていました。彼の関心はテレヴィ受像機製造にありました。1953年、国産第一号白黒テレヴィが製造されます。値段は17万円でした。当時月給10万円といえば、大会社の重役の給料で相当な高給でした。1954年の時点でテレヴィのシェア-は23%のシャ-プをトップに、東芝そして松下が続いていました。
私の父親は新しい物好きでテレヴィを買ってくれました。1955年中学校2年の時です。それはシャ-プ・テレヴィでした。技術はシャ-プという定評を父親から聞いた記憶があります。
 早川電気はさらに電卓や電子レンジにも進出をします。死の10年前、徳次は将来は太陽光発電の時代になると予言します。その予言は現在実現しつつあります。1980年(昭和55年)早川徳次死去。享年80歳。私見ですが、申し分のない大往生であろうと思います。
 早川徳次のような開発企業家の生涯を見ていますと、物作りへの熱中というか、好きで好きでたまらないというロマンティシズムを看取させられます。同時に将来の基軸産業が何になるかをしっかり見定める力を持ちます。この点では豊田佐吉と似ています。そこに、岩崎弥太郎や安田善次郎、大倉喜八郎にはないある種のすがすがしさを見ます。しかしこれは私の理科系的偏見でしょう。金融も製造も生産です。ただ物作りの方が、判然と目に見える分、印象が強烈です。早川と松下は対照的です。早川電気はまず開発、そして販売がモット-でした。当然作っても売れない物も出てきます。業界のあだ名が「ハヤマッタデンキ」。松下は販売の展望をじっくり見て、製造します。あだ名が「マネシタデンキ」です。またソニ-のあだ名は「モルモット」。なんとなら、他の企業に先駆けて、先行し、わが身を市場という実験場に晒すからです。なお以上のお話はすべて「シャ-プを創った男・早川徳次、平野隆彰著、日経BP」に従いました。この本はおもしろい本です。正直企業家の伝記はそうおもしろいものではありませんが、この本はおもしろい。一読を勧めます。
(付)2008年3月現在、シャ-プ株式会社は資本金2000億円強、社員数23000名を数えます。連結で計算すれば数値は倍以上になります。

(付)2012年8月現在シャ-プは液晶テレヴィの行き詰まりで台湾企業との提携、人員整理、堺工場の売却などで苦闘しています。電気器具業界の業績は明暗を分けました。日立や東芝が黒字、シャ-プやソニ-が赤字です。前二社は家電やTVなどに見切りをつけ本来の重工業・重電に方向を定めました。後二社はTVなどにしがみつきました。シャ-プが典型です。ソニ-もシャ-プも個々の技術ではいいものを沢山持っているのですから、異種産業への方針変更が急務でしょう。

「君民令和、美しい国日本の歴史」文芸社刊行

武士道の考察(79)

2021-06-04 13:52:10 | Weblog
武士道の考察(79)

(幕府を潰した十一代家斉)
 定信は六年で老中を辞め、白河藩主として自藩の政治に専念します。成長した十一代将軍家斉が手に負えなくなったからだと言われます。しばらくの移行期間をおいて家斉将軍の親政になります。家斉が何をしたのか詳しい事は解りません。経済政策においてたいした事はしていません。幕府の財政を食いつぶしたことは確かです。諸事派手好き、側近政治とポルノクラシ-加えて無政策とくれば結果は眼に見えています。それにむやみやたらと子供が多い。男女合わせて50名以上。比較の対象を取ると綱吉2名、吉宗でせいぜい7-8名です。子供の嫁ぎ先を探さねばなりません。当然見返りが要ります。ために大名間の軋轢やお家騒動が起こります。水戸徳川家は最大の被害者です。水戸徳川家の嫡系を跡継とするか、将軍の子供をそうするかでもめにもめさらに理論闘争も加わり水戸家は維新まで藩内抗争に明け暮れる始末になります。口の悪い杉田玄白は、家斉を北海の鱈と言いました。柳亭種彦はこの将軍をモデルに、偽紫田舎源氏を書き処罰されます。鎌倉・室町・徳川の三幕府を崩壊させた主犯はいます。北条高時、足利義政そして徳川家斉です。彼らの共通点は、最後には政治を投げ出して遊びほうけたことです。不幸なことに家斉治世は大御所時代も含めて40年に及びます。経済政策、そしてすでに足音が聞こえてきた西欧列強という国難を子供家慶に残して彼は幸福な一生を終えます。
(天保の改革 上知令)
 大御所として実権握っていた家斉の死を待ちかねたかのように水野忠邦の改革が将軍家慶の全面的支援で始まります。水野政権の改革の目玉は、上知令です。幕府は開幕当初から江戸と大坂の周辺の土地を、天領と旗本領さらに譜代の小大名の領地をややこしく組み合わせました。反乱を防ぐためです。しかし産業が発展するとこれでは有効な統治はできません。幕府は江戸大坂という二大中心地すら効果的に統治できない状態でした。忠邦は江戸大坂周辺の小領主を遠方の地に国替えし、江戸大坂を中心とする一定の集権政治が可能な幕府直轄地帯を作ろうとしました。英国のロンドン、フランスのパリに相当します。日本は中心地が二つもある分豊かで幸せなのです。領主とすれば貧寒な土地に飛ばされるので反対意見ごうごうです。摂津尼崎・大和郡山と出羽新庄・陸奥弘前では表高が一緒でも実高は三倍は違います。農産物の生育だけではありません。畿内には商工業が盛んです。弘前や新庄の人には悪いが寒くて貧しい土地に入封するもの好きはいません。政権内の老中たちからも反対意見が出て上知令は事実上撤回され水野政権は2年も持たず潰れます。幕府が効果ある経済政策を実施するためには、上知令は絶対必要でした。ここで政権とは勘定方老中を筆頭とする老中の談合です。もし当該する老中が国替えを受け入れていたら彼は家臣団により引退を強いられていたことでしょう。この頃になると藩政は家老を中心とする合議制になっていました。30年後鳥羽伏見の戦に敗れた幕軍が淀城に入ろうとした時、淀藩は城門を閉めて入場を拒否しました。淀藩主稲葉氏は幕軍の首脳の一人でしたが。
                                     79
「君民令和、美しい国日本の歴史」文芸社


  経済人列伝 前田正名

2021-06-04 00:18:12 | Weblog
経済人列伝  前田正名

 明治維新以来の日本の産業政策は一方で、外国技術の摂取があり、それを支えるものとして在来技術産業の育成があります。前者には運輸(汽船)、鉄道施設、紡績、造船そして製鉄などの産業があり、後者には生糸、茶、石炭、金銀採掘などがあります。後者で外貨を稼ぎ、前者に投資するという図式で日本の産業革命は為されてきました。紡績にしても明治15年の大阪合同紡の設立は前者に属し、臥雲辰致や豊田佐吉の技術開発は後者に属します。前田正名という人はこの後者の路線、つまり日本国内の在来産業の保護育成と輸出奨励を官にいるときも在野時にも徹底して唱導した人です。
 正名は1850年(嘉永3年)に薩摩藩の漢方医の子供として生まれました。ペリ-来航の3年前になります。また彼が維新を迎えた時はちょうど20歳、一応学識は成り、エネルギ-と希望に溢れた年齢です。9歳時、同藩の医師八木称平について漢学と蘭学を学びます。16歳で長崎に留学し、何礼之の熟に入り洋学を学びます。同時期の生徒には、高峰譲吉、陸奥宗光、星亨、前島密などがいます。この間薩長連合を阻害しかけたユニオン号事件に際して若干ながら活動しています。また洋行のために英和辞典の編纂に取り組み資金を貯えます。本の販売と利益を廻って実兄と対立します。正名という人は直情径行なところがあり、やりだしたら強引に事を進める傾向は大きいようです。
 1869年(明治2年)にフランスに留学します。当時フランス・ベルギ-の駐日代理公使兼総領事、コント・モンブランについて外国掛という立場で渡仏します。フランスに行く航路の途上、サイゴンやマルセイユで西欧の産業と技術の力を痛感し圧倒されてしまいます。フランスには7年間滞在することになります。滞在中に普仏戦争が起こりフランスは敗北します。この時正名はフランス軍の兵士の士気欠如、組織の不備などを見て、国家とは単なる機械技術の集積ではないと自覚します。国家とはそれを荷う人材とその組織化にある、だから国家の経営と将来にはその国その国固有のやり方生き方つまり歴史というものがあると認識します。この間フランス人学者であるチスランに師事し、保護貿易主義、農事改良、農業教育そして農民団体の育成の必要性を学びます。私見ですがこのチスランの考えはコントやドユルケ-ムの思想、下から積み上げる産業政策と同業団体主義に近くいたってフランス的な考えのように思います。1878年多くの種苗を携えて帰国し、大久保利通の知遇を得て、三田育種場を作ります。また渡仏してパリ万博への日本産物出展にも活躍します。ちなみに1873年(明治6年)時点での留学生総数は373名、うち官費留学生は250名、留学のための年間予算は25万円(文部省総予算の20%)でした。
 1879年大蔵省御用掛商務局勤務を命じられて大隈重信のブレインになります。正名が説いたところは、直輸出論、帝国銀行の設置、貿易会社の設立、殖産興業特に地方産業の育成そして生産者団体の育成でした。直輸出論には当時の貿易状況が反映しています。明治20年くらいまでは、神戸や横浜で行なう貿易において日本の商人や生産者は貿易流通外国為替に無知であり、外国商人特に欧米と日本の間に介在する中国人買弁資本に買い叩かれていました。ですから帝国銀行、貿易商社、生産者団体の育成は急務であったのです。
 明治14年の政変で大隈は下野します。正名は政権の中に留まります。欧州産業事業調査報告ついで興業意見を発表します。正名は調査を非常に重視しました。まず物に問え、外国の本の理論に振り回されるな、が彼の信条でした。経験主義者でナショナリストです。ですから在来業種の保護育成を主張しました。ここで松方財政と対立します。松方財政は財政健全化したがって緊縮予算を主張します。正名は大蔵省から分離した農商務省に陣取り高橋是清や品川弥二郎と組んで、興業銀行設立を主張します。この興業銀行は地方産業育成のためにあくまで地方に置かれるとされます。また産業興隆のためには資金が要りますから、流通貨幣量を増やし、銀行の発券権を擁護します。反対に松方財政では健全財政維持のために不必要な貨幣を整理し、発券銀行を日本銀行一行に集約しようとします。その成果が1886年(明治19年)に成立した銀本位制です。松方財政が大資本優遇であったかどうかは意見の分かれるところですが、財政の負担を軽減するために多くの官営企業を民間に払い下げたことは事実です。三井物産や三菱造船・川﨑造船はその恩恵をうけています。当時借金をしている農民は全体の7-8割、抵当に入っている農地は3-5割でした。この事情は地主への土地集積と不在地主の激増を招いたことは確かです。こうして大蔵省対農商務省の対決で正名は破れ明治18年に非職(地位は保全されるが仕事は与えられない立場)になります。
 明治21年山梨県知事、22年農商務省工務局長になり東京農林学校(東大農学部の前身)の校長になります。幾多の調査をする一方、地方興業銀行設立と民間への長期低利融資を主張します。次官になりますが農商務大臣陸奥宗光と対立し23年再び非職なります。これには高橋是清と組んで行なったペル-鉱山開発事件や福島県安曇郡の開発事業の失敗も絡んでいます。
 明治25年正名は全国の行脚を試みます。日本全国を旅してまわり、地方地方の豪農や有力者を訪問します。地方産業振興と農業団体さらに農工商団体を形成しようとします。いわば地方の産業者を組織オルグしようというわけです。始めは相手にされませんでしたが、次第に賛同者が増えます。そして翌年の明治26年(1893年)には大日本農会の幹事長に収まります。彼は特に二つの会を作り大事にしました。五二会と日本蚕糸会です。五二会とは、織物、陶器、銅器、漆器、製紙の五品に彫刻、敷物を加えた伝統的な輸出工芸品七業者の団体です。蚕糸とは蚕の糸つまり生糸生産業者の団体です。こういう産業団体を正名は結成するべく行脚し演説し助言しました。日本茶業界も有力な産業団体です。他に日本貿易教会、大日本商工会、九州石炭同盟会、日本燐寸義会、全国農事会、大日本木蠟会、全国酒造業組合連合会、大日本畜産会などがあります。日本茶業会はさらに日本製茶株式会社、日本製茶輸出会社を生んでゆきます。郡是製糸はこういう動きの中で、京都府の農村から生まれた会社です。明治27年には第一回全国実業各団体連合会が開かれます。やがてここから各業種別の団体が結成されます。
 いい事ばかりではありません。競争相手も出現します。当時力を持ちつつあった政党は地方の産業者を勢力の基盤にしようと画策します。政党としては当然の活動でしょう。正名は政党というものが大嫌いでした。彼のような性格では政党維持に必要な駆け引き画策はできないでしょう。農商務省時代、あまりにも働きすぎでそれを部下にも要求し、座る時間さえも惜しんで、部下からうっとうしく思われたことは再々でしたから。ともかく思い込んだら一直線の人物です。また彼は技術が好きでした。だから産業を起こし、その技術を育成しようとしました。この点でも彼は職人技師官僚にはなれても政党政治家には不向きでした。もう一つの競争相手は政府自身です。特に日露戦争以後は重化学工業育成に政策の重点が置かれ産業技術育成の団体を組織し始め、補助金を交付します。正名は何事も自主団体主義ですので政府の援助を迷惑に思っていました、が各業者としては政府の援助はありがたく次第にそちらに傾いてゆきます。
 明治30年に第一回引退をします。当時ハワイは独立国でした。アメリカ人がハワイに植民し、ハワイ政府と摩擦を起こします。それにハワイやアメリカへの日本人移民問題が重なります。また茶や生糸への関税をアメリカ政府が増大させます。あれやこれやで日本とハワイとアメリカの間がややこしくなり正名は渡米しています。関税問題は解決したようです。
 正名の活躍は明治35年くらいまでで以後の10年は空白の10年と言われるほど表に出る行動は少なくなります。1921年大正10年に72歳で死去しています。

 参考文献 前田正名 吉川弘文館
「君民令和、美しい国日本の歴史」文芸社刊行