経済(学)あれこれ

経済現象および政策に関する意見・断想・批判。

武士道の考察(79)

2021-06-04 13:52:10 | Weblog
武士道の考察(79)

(幕府を潰した十一代家斉)
 定信は六年で老中を辞め、白河藩主として自藩の政治に専念します。成長した十一代将軍家斉が手に負えなくなったからだと言われます。しばらくの移行期間をおいて家斉将軍の親政になります。家斉が何をしたのか詳しい事は解りません。経済政策においてたいした事はしていません。幕府の財政を食いつぶしたことは確かです。諸事派手好き、側近政治とポルノクラシ-加えて無政策とくれば結果は眼に見えています。それにむやみやたらと子供が多い。男女合わせて50名以上。比較の対象を取ると綱吉2名、吉宗でせいぜい7-8名です。子供の嫁ぎ先を探さねばなりません。当然見返りが要ります。ために大名間の軋轢やお家騒動が起こります。水戸徳川家は最大の被害者です。水戸徳川家の嫡系を跡継とするか、将軍の子供をそうするかでもめにもめさらに理論闘争も加わり水戸家は維新まで藩内抗争に明け暮れる始末になります。口の悪い杉田玄白は、家斉を北海の鱈と言いました。柳亭種彦はこの将軍をモデルに、偽紫田舎源氏を書き処罰されます。鎌倉・室町・徳川の三幕府を崩壊させた主犯はいます。北条高時、足利義政そして徳川家斉です。彼らの共通点は、最後には政治を投げ出して遊びほうけたことです。不幸なことに家斉治世は大御所時代も含めて40年に及びます。経済政策、そしてすでに足音が聞こえてきた西欧列強という国難を子供家慶に残して彼は幸福な一生を終えます。
(天保の改革 上知令)
 大御所として実権握っていた家斉の死を待ちかねたかのように水野忠邦の改革が将軍家慶の全面的支援で始まります。水野政権の改革の目玉は、上知令です。幕府は開幕当初から江戸と大坂の周辺の土地を、天領と旗本領さらに譜代の小大名の領地をややこしく組み合わせました。反乱を防ぐためです。しかし産業が発展するとこれでは有効な統治はできません。幕府は江戸大坂という二大中心地すら効果的に統治できない状態でした。忠邦は江戸大坂周辺の小領主を遠方の地に国替えし、江戸大坂を中心とする一定の集権政治が可能な幕府直轄地帯を作ろうとしました。英国のロンドン、フランスのパリに相当します。日本は中心地が二つもある分豊かで幸せなのです。領主とすれば貧寒な土地に飛ばされるので反対意見ごうごうです。摂津尼崎・大和郡山と出羽新庄・陸奥弘前では表高が一緒でも実高は三倍は違います。農産物の生育だけではありません。畿内には商工業が盛んです。弘前や新庄の人には悪いが寒くて貧しい土地に入封するもの好きはいません。政権内の老中たちからも反対意見が出て上知令は事実上撤回され水野政権は2年も持たず潰れます。幕府が効果ある経済政策を実施するためには、上知令は絶対必要でした。ここで政権とは勘定方老中を筆頭とする老中の談合です。もし当該する老中が国替えを受け入れていたら彼は家臣団により引退を強いられていたことでしょう。この頃になると藩政は家老を中心とする合議制になっていました。30年後鳥羽伏見の戦に敗れた幕軍が淀城に入ろうとした時、淀藩は城門を閉めて入場を拒否しました。淀藩主稲葉氏は幕軍の首脳の一人でしたが。
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「君民令和、美しい国日本の歴史」文芸社


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