経済(学)あれこれ

経済現象および政策に関する意見・断想・批判。

   経済人列伝  大岡忠相

2021-06-08 20:33:06 | Weblog
経済人列伝 大岡忠相

本名より官名の越前守で通っている、時代劇の主役としては水戸黄門と大石内蔵助と並んで人気の高い人物です。彼を経済人と呼ぶのも変かも知れませんがが、徳川時代を通覧した時、彼が経済に果たした役割は特記すべきでしょう。ここでは巷説の中の大岡越前守ではなく、幕府能吏としての大岡忠相について考察します。最初に断っておくべき事は、今から述べる大岡の業績は同時に彼の主君である八代将軍徳川吉宗の業績でもあります。大岡は吉宗が将軍職に就くとほぼ同時に南町奉行に任じられ、吉宗の死とこれもほとんど同時に死去しています。君臣あい和し、君君たれば、臣臣足り、の典型であり、思い切り仕事をして、天命を辱めずに、水魚の契りを全うした二人です。
大岡は1677年(延宝5年)に旗本大岡忠高の子として生まれ、同族の忠真の養子になっています。24歳で家禄2000石を継ぎ、書院番、御使番、目付、山田奉行、普請奉行と順調に昇進し、41歳で南町奉行になります。奉行を20年間務め(この長さは異例です)、旗本としてはこれも異例な寺社奉行就任となり、奏者番を兼任します。この間関東地方御用掛として農政にも参画しています。75歳死去。大岡家の先祖は九条教実、つまり摂関家だったと言います。
吉宗政権は形式的には老中を立てましたが、実際の政治判断は将軍吉宗と、二人の御用取次有馬氏倫と加納久通、そして寺社・町・勘定の三奉行という実務者で為されていました。江戸町奉行の職務は、100万都市江戸の警察、司法、民政全般に及びます。現在で言えば東京都知事と警視総監と東京地方裁判所に消防署を総合したようなものでした。大岡忠相は町火消を創設し、私娼を取り締まり、小石川療養所建設など行っています。しかし大岡が吉宗とともに、最大に苦労して取り組んだ仕事は、江戸市中の物価の安定でした。
江戸という町はある意味で特異的です。江戸には70万-100万人の人間が住んでいます。典型的な政治都市です。しかし周辺の関東地方一帯は当時としては産業が未発達でした。火山灰地が多く、全耕地の15%前後が水田というくらいでした。食糧も他の生活必需品もすべて先進地帯である上方つまり、京大阪から運んでこなければなりません。全国の大名は領地から取れた米を大阪に運び、そこで換金して得た貨幣で生活していました。江戸初期には農民の生産物の余剰はほとんど領主に収奪されるので、米価に他の商品の物価は連動していました。しかし元禄時代になると農民は商品作物を生産し、次第に富裕になります。武士も町人も同様です。つまり主食である米以外の産物が増えてきます。生活は贅沢になります。そうなると米価に他の商品(これを諸色と言います)が連動しなくなります。米の値段は下がっているのに、味噌や醤油の値が上がる、という当時としては異例の経済現象が出現します。米価安の諸色高、です。米価が下がると幕府困るのです。幕臣は領地から上がる米を売って得た金で他の商品を買います。
大岡はこの現象に対してまずした事が、各職種の実力者に同業組合(仲間と言います)を作らせて、それを町奉行が管理統制しようとしました。また江戸湾に入る関門の浦賀の奉行をして大阪から江戸に向かう船の中身を調べさせ、江戸へ搬入される量を調べます。さらに大阪奉行所を通じて、大阪から江戸に送られる量を調べます。要は 江戸にあまり米を搬入して米価を下げて欲しくないのです。江戸周辺の関東地方にも商品作物の栽培を勧めます。また大阪堂島に米市場を作り、そこで盛んに米の売買を奨励します。信用取引も承認します。それまで制限していた酒造を奨励します。こうして米価を上げるべく務めました。しかし米価が上がりすぎると江戸の町人の生活が困窮します。米1石が銀70モンメになった時江戸で打ち壊し(都市の一揆)が起こりました。大岡在任中の事です。
こうして幕府、吉宗と大岡はいろいろ努力しましたが、米価も諸色の値も安定しません。問題は当時の貨幣制度にあります。江戸は金本位制、大阪は銀本位制でした。江戸が大阪の米を買えば。金で支払います。大阪はこれを銀に両替します。この時金銀の比価如何で損得が大きく違ってきます。金が強ければ江戸が儲け、銀が強ければその逆になります。大阪の大両替商が組めば、金を叩いて低価にできます。安くなった金を買い込み、適当な時期を見計らって金を高値で売り出す事もできます。こんな事をされれば江戸市中の物価は乱高下します。儲かるのは大阪の両替商です。また江戸としてはなるべく金の比価を高める方が都合が宜しい。江戸の購入量が増えるからです。
吉宗政権は始めのうち、新井白石の正徳の例に倣って、高品質な金銀貨を発行していました。貨幣が高品質では貨幣量が小さくなり、物価は下がって、デフレになります。デフレ対策と対上方銀経済への対処の双方があいまって、元文元年(1736年)に金銀貨を改鋳して含有金銀量を引き下げます。流通貨幣量を増加させます。この時銀の含有量を金のそれに比して大きく下げました。銀貨を粗悪にして、金貨に対する銀貨の価値を下げて、金貨優位にしようとしたわけです。このやり方である程度は効果を期待できます。というよりごまかせます。しかし長期的に見れば同じ事に回帰します。金銀貨の価値は異なっても、金銀地金の価値は変わらないのですから。結局この問題の解決は吉宗政権後の課題になりました。1755年5モンメ銀という銀貨が発行されます。この銀貨には名称どおり5モンメの量の銀が含まれているのではありません。それ以下の量です。しかしこれは法定の5モンメ銀だから、1両金貨に対して12枚で交換せよと、強制されるわけです。実際に金銀比価は金1に対して銀9-10、法定では1対12になります。金銀地金の取引を禁止すると、金銀比価は法定で(人為的に)金優位に固定されるわけです。これで江戸は大阪に対して、経済的に優位に立ちます。同時にこの措置は江戸の金経済が大阪の銀経済を従属化する事により、幕府の中央集権化を推し進める事になります。読者の一部の方はすでにお気づきのことと思いますが、この措置は全国的規模での金本位制の確立であり、銀貨の従属貨幣化でもあります。
生活が富裕になり、経済の仕組みが複雑になると、物価も不安定になります。武士の生活も町人の生活も安定させなければなりません。初めのうちは経済に実態的に介入していた吉宗や大岡も苦闘の経験の中から問題は貨幣そのもののあり方にあると悟るようになります。彼らの時代には回答は発見できませんでしたが、問題の端緒は掴んだようです。大岡越前守の名で通る名奉行大岡忠相が20年の在任中してきた事の実態はこういうことです。
付言すれば彼は関東地方の農政官として人材を発見し代官に推薦してきました。特に有名なのは備荒食としてサツマイモ栽培を進めた青木昆陽を吉宗に推薦した事です。
当時の幕府では実質的判断は、大目付と寺社・町・勘定の三奉行計10名内外の人数に、もう一階下の実務者である目付と勘定吟味役を加えて20名、時として老中や若年寄などの議定官が加わると30名内外の合議で決められました。この数は当時のイギリスの上院議員の数とだいたい同じです。
吉宗の時代に、お定め書き百か条、という法令が制定されました。この法令には多くの民事法が載せられています。当時の西欧でもまだちゃんとした民放は作られていません。
またこの時代に小作料の上限が設定されています。投下資本の15%が上限です。この事は当時まで形式的には禁止されていた小作、換言すれば土地の商品化が公権により承認され始めた事を意味します。封建制から資本制生産への過程の一つです。

 参考文献
  大岡忠相 (岩波書店)

「君民令和、美しい国日本の歴史」文芸社刊行


    武士道の考察(83)

2021-06-08 13:19:16 | Weblog
 武士道の考察(83)
  
(近習出頭人)
 老中以下の正規メンバ-は家格により固定されやすくなります。硬直化しがちな体制を補完し、新たなメンバ-を政策決定に参加させるシステムが側近勢力です。初代の家康は自由に側近を選び彼らと相談して政策を決めていました。商人の茶屋四郎次郎、僧侶である天海や崇伝、外国人アダムスミスなどです。秀忠以後こんな連中はいなくなります。代わって登場してくるのが近習出頭人と言われる人たちです。彼らは秀忠・家光の幼少期から仕えた連中が多く、名門出身者に併行して老中や若年寄に登用されます。阿部重次や松平信綱などです。台閣は名門出身者と出頭人から構成されていました。出頭人は将軍死去に際して殉死することを半公然と課せられます。名門出身者と違い将軍のご恩によって出世できたという表面上の理由と、もう一つ将軍との特別の関係ゆえです。特別とは将軍と竹馬のころから肌を許しあった関係、男色衆道関係にあった事です。いわば出頭人にとって将軍は主君であり恋人です。だからあの世まで御奉公しなければなりません。
 戦国大名の親衛部隊で一番信用できるのはこの近習です。織田信長と森蘭丸の関係です。三代家光は青年になってからも男色を好み、女子に関心を示さず後嗣のことで周囲を心配させました。家光に殉死した台閣のメンバ-は数名に登ります。これでは前政権の功労者や有能者が消え、政策の継承に支障をきたすので、家光以後将軍大名の家臣が殉死する事は禁じられます。出頭人は小身から出世する特別の経路です。この経路を経た人物で無能な人少ない。権力の遂行とは微妙なもので、権力者にとってはお互い心の裏の裏まで知り尽くし、つ-といえばか-の阿吽の呼吸で反応し、いざとなると身代わりに死んでくれる自分の分身を必要とします。この点は時代と場所が違っても同じです。出頭人とはそういう権力のニ-ズに答える勢力です。そしてこの部分が一番腐敗しやすいのですが、一番新鮮な部分でもありました。権力遂行には恋人の存在が必要です。しかしそれが女性では困ります。子供ができればややこしくなります。男色は身のならない花ですから安心です。男色の相手を権力の要路に据える事は、一面宦官制に似ます。宦官よりよほど人間的ですが。
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「君民令和、美しい国日本の歴史」文芸社