経済(学)あれこれ

経済現象および政策に関する意見・断想・批判。

  経済人列伝 前田正名

2021-06-04 00:18:12 | Weblog
経済人列伝  前田正名

 明治維新以来の日本の産業政策は一方で、外国技術の摂取があり、それを支えるものとして在来技術産業の育成があります。前者には運輸(汽船)、鉄道施設、紡績、造船そして製鉄などの産業があり、後者には生糸、茶、石炭、金銀採掘などがあります。後者で外貨を稼ぎ、前者に投資するという図式で日本の産業革命は為されてきました。紡績にしても明治15年の大阪合同紡の設立は前者に属し、臥雲辰致や豊田佐吉の技術開発は後者に属します。前田正名という人はこの後者の路線、つまり日本国内の在来産業の保護育成と輸出奨励を官にいるときも在野時にも徹底して唱導した人です。
 正名は1850年(嘉永3年)に薩摩藩の漢方医の子供として生まれました。ペリ-来航の3年前になります。また彼が維新を迎えた時はちょうど20歳、一応学識は成り、エネルギ-と希望に溢れた年齢です。9歳時、同藩の医師八木称平について漢学と蘭学を学びます。16歳で長崎に留学し、何礼之の熟に入り洋学を学びます。同時期の生徒には、高峰譲吉、陸奥宗光、星亨、前島密などがいます。この間薩長連合を阻害しかけたユニオン号事件に際して若干ながら活動しています。また洋行のために英和辞典の編纂に取り組み資金を貯えます。本の販売と利益を廻って実兄と対立します。正名という人は直情径行なところがあり、やりだしたら強引に事を進める傾向は大きいようです。
 1869年(明治2年)にフランスに留学します。当時フランス・ベルギ-の駐日代理公使兼総領事、コント・モンブランについて外国掛という立場で渡仏します。フランスに行く航路の途上、サイゴンやマルセイユで西欧の産業と技術の力を痛感し圧倒されてしまいます。フランスには7年間滞在することになります。滞在中に普仏戦争が起こりフランスは敗北します。この時正名はフランス軍の兵士の士気欠如、組織の不備などを見て、国家とは単なる機械技術の集積ではないと自覚します。国家とはそれを荷う人材とその組織化にある、だから国家の経営と将来にはその国その国固有のやり方生き方つまり歴史というものがあると認識します。この間フランス人学者であるチスランに師事し、保護貿易主義、農事改良、農業教育そして農民団体の育成の必要性を学びます。私見ですがこのチスランの考えはコントやドユルケ-ムの思想、下から積み上げる産業政策と同業団体主義に近くいたってフランス的な考えのように思います。1878年多くの種苗を携えて帰国し、大久保利通の知遇を得て、三田育種場を作ります。また渡仏してパリ万博への日本産物出展にも活躍します。ちなみに1873年(明治6年)時点での留学生総数は373名、うち官費留学生は250名、留学のための年間予算は25万円(文部省総予算の20%)でした。
 1879年大蔵省御用掛商務局勤務を命じられて大隈重信のブレインになります。正名が説いたところは、直輸出論、帝国銀行の設置、貿易会社の設立、殖産興業特に地方産業の育成そして生産者団体の育成でした。直輸出論には当時の貿易状況が反映しています。明治20年くらいまでは、神戸や横浜で行なう貿易において日本の商人や生産者は貿易流通外国為替に無知であり、外国商人特に欧米と日本の間に介在する中国人買弁資本に買い叩かれていました。ですから帝国銀行、貿易商社、生産者団体の育成は急務であったのです。
 明治14年の政変で大隈は下野します。正名は政権の中に留まります。欧州産業事業調査報告ついで興業意見を発表します。正名は調査を非常に重視しました。まず物に問え、外国の本の理論に振り回されるな、が彼の信条でした。経験主義者でナショナリストです。ですから在来業種の保護育成を主張しました。ここで松方財政と対立します。松方財政は財政健全化したがって緊縮予算を主張します。正名は大蔵省から分離した農商務省に陣取り高橋是清や品川弥二郎と組んで、興業銀行設立を主張します。この興業銀行は地方産業育成のためにあくまで地方に置かれるとされます。また産業興隆のためには資金が要りますから、流通貨幣量を増やし、銀行の発券権を擁護します。反対に松方財政では健全財政維持のために不必要な貨幣を整理し、発券銀行を日本銀行一行に集約しようとします。その成果が1886年(明治19年)に成立した銀本位制です。松方財政が大資本優遇であったかどうかは意見の分かれるところですが、財政の負担を軽減するために多くの官営企業を民間に払い下げたことは事実です。三井物産や三菱造船・川﨑造船はその恩恵をうけています。当時借金をしている農民は全体の7-8割、抵当に入っている農地は3-5割でした。この事情は地主への土地集積と不在地主の激増を招いたことは確かです。こうして大蔵省対農商務省の対決で正名は破れ明治18年に非職(地位は保全されるが仕事は与えられない立場)になります。
 明治21年山梨県知事、22年農商務省工務局長になり東京農林学校(東大農学部の前身)の校長になります。幾多の調査をする一方、地方興業銀行設立と民間への長期低利融資を主張します。次官になりますが農商務大臣陸奥宗光と対立し23年再び非職なります。これには高橋是清と組んで行なったペル-鉱山開発事件や福島県安曇郡の開発事業の失敗も絡んでいます。
 明治25年正名は全国の行脚を試みます。日本全国を旅してまわり、地方地方の豪農や有力者を訪問します。地方産業振興と農業団体さらに農工商団体を形成しようとします。いわば地方の産業者を組織オルグしようというわけです。始めは相手にされませんでしたが、次第に賛同者が増えます。そして翌年の明治26年(1893年)には大日本農会の幹事長に収まります。彼は特に二つの会を作り大事にしました。五二会と日本蚕糸会です。五二会とは、織物、陶器、銅器、漆器、製紙の五品に彫刻、敷物を加えた伝統的な輸出工芸品七業者の団体です。蚕糸とは蚕の糸つまり生糸生産業者の団体です。こういう産業団体を正名は結成するべく行脚し演説し助言しました。日本茶業界も有力な産業団体です。他に日本貿易教会、大日本商工会、九州石炭同盟会、日本燐寸義会、全国農事会、大日本木蠟会、全国酒造業組合連合会、大日本畜産会などがあります。日本茶業会はさらに日本製茶株式会社、日本製茶輸出会社を生んでゆきます。郡是製糸はこういう動きの中で、京都府の農村から生まれた会社です。明治27年には第一回全国実業各団体連合会が開かれます。やがてここから各業種別の団体が結成されます。
 いい事ばかりではありません。競争相手も出現します。当時力を持ちつつあった政党は地方の産業者を勢力の基盤にしようと画策します。政党としては当然の活動でしょう。正名は政党というものが大嫌いでした。彼のような性格では政党維持に必要な駆け引き画策はできないでしょう。農商務省時代、あまりにも働きすぎでそれを部下にも要求し、座る時間さえも惜しんで、部下からうっとうしく思われたことは再々でしたから。ともかく思い込んだら一直線の人物です。また彼は技術が好きでした。だから産業を起こし、その技術を育成しようとしました。この点でも彼は職人技師官僚にはなれても政党政治家には不向きでした。もう一つの競争相手は政府自身です。特に日露戦争以後は重化学工業育成に政策の重点が置かれ産業技術育成の団体を組織し始め、補助金を交付します。正名は何事も自主団体主義ですので政府の援助を迷惑に思っていました、が各業者としては政府の援助はありがたく次第にそちらに傾いてゆきます。
 明治30年に第一回引退をします。当時ハワイは独立国でした。アメリカ人がハワイに植民し、ハワイ政府と摩擦を起こします。それにハワイやアメリカへの日本人移民問題が重なります。また茶や生糸への関税をアメリカ政府が増大させます。あれやこれやで日本とハワイとアメリカの間がややこしくなり正名は渡米しています。関税問題は解決したようです。
 正名の活躍は明治35年くらいまでで以後の10年は空白の10年と言われるほど表に出る行動は少なくなります。1921年大正10年に72歳で死去しています。

 参考文献 前田正名 吉川弘文館
「君民令和、美しい国日本の歴史」文芸社刊行



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