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民俗学者から見た自然と人間

2017-11-07 22:21:26 | 講演・講義・フォーラム等
 現代日本の民俗学の第一人者である篠原徹氏は、個人的見解だがと断りながら「現代人は行き過ぎた段階に来ているのでは?」と警鐘を鳴らす。「私たちは自然との付き合い方を考え直す時期に来ているのではないか」と主張された。 

               

 11月3日(金・祝)午後、北海道博物館において「文化の日講演会」が開催され参加した。講演会は「自然とつきあう技術 ~民俗学からみた自然と人間~」と題して篠原徹氏が講演された。
 篠原氏は、国立歴史民俗博物館の名誉教授で、現在は滋賀県立琵琶湖博物館の館長を務められている方である。

 篠原氏は冒頭、自分は50年間にわたって人と自然の付き合い方について研究を続けてきたと話された。この日は、その50年間の研究のエキスを話された。
 そのような貴重な話を、民俗学が何たるかについての理解に乏しい私が聴くのだから、そのレポはかなり怪しいものである。そのことをあらかじめお断りしたうえで篠原氏のお話を振り返ってみたい。

               

 篠原氏はまず「三つの環境史」について話された。それは…、
 ① 人が人を支配することの延長上にある資源としての、自然をめぐる環境史(ex.幕藩体制における山野の在りよう)
 ② 支配されていた人々が、生活するうえで自然と対峙して食料などの資源を得る、自然との直接的な関係をめぐる環境史
 ③ 人間の自然に対する働きかけという作用を含めて自然(環境)それ自身の構成要素間の関係をめぐる環境史

 なにやら難しい提起であるが、私たちの周りの自然環境が、人との関係においてどのように影響され、変容してきたかということに着目されながら研究を進めてきた、ということだろうか?

 続いて、人間の生業の技術に関して(つまり自然と対峙する狩猟・採集、農業、漁業、林業など)やはり三つに分類された。
 ① 生業の技術=道具(機械、装置) + 身体知 + 自然知
 ② 身体的技能とは、道具と身体知の和である。
 ③ 生産的技能とは、道具と自然知の和である。

 このことは、人はさまざまな「知」を総動員して、技能や技術を最大化することで自然を利用し、活用してきたと理解したい。
 さらに篠原氏は、自然利用には次の四つのレベルがあるとする。
 ① 自然を生かす  道具を最小化して、自然知を最大限発揮する。(ex. 二ホンミツバチの採取)
 ② 自然をたわめる 道具を最初にして、身体知を最大限発揮する。(ex. 鵜飼、鷹狩、牧畜など)
 ③ 自然を変える  道具を最大限にして、身体知や自然知は技術を分化、分業により小さくする。(ex. 養蚕、栽培植物、家畜〈ドメスティケーション〉、農耕地や遊牧地)
 ④ 自然を創る   生業の技術を応用して、新たな自然を創る。森を創る。竹藪を創る。

               

 篠原氏はここまで「自然と人間の関係」について分析・整理した後に、氏がフィールド研究の対象としている世界各地の様子について報告された。
 それについては、話題があちこちと飛び回ったこともあってメモが追い付かなかった。
 そのような中で、印象的な言葉があった。それは、日本において人間が自然を変えて造ってきた代表格として「水田」があるとした。(ここでいう水田は、農薬を使わず大規模化する前の水田を指す)しかし、「水田」は基本的に土地の状況を大きく変えたわけではないという。周りに棲む動植物にも影響はなかった。
 しかし、熱帯地方で行われている「プランテーション」は自然を大きく変えてしまい、周囲の環境まで激変させてしまった。
 篠原氏は指摘する。「現代人は行き過ぎた段階にきているのではないか?」と…。

 現在の日本は人口減少だと騒いでいるけれど、民俗学者として言わせてもらえば、日本が自給自足をしていた江戸時代の人口3千万人が日本の人口の適正規模ではないか、と言われたことがとても印象的だった。




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