三重県木本で虐殺された朝鮮人労働者の追悼碑を建立する会と紀州鉱山の真実を明らかにする会

三重県木本で虐殺された朝鮮人労働者の追悼碑を建立する会と紀州鉱山の真実を明らかにする会

2024年春の海南島「現地調査」報告 11

2024年05月21日 | 海南島近現代史研究会
 4月10日朝、潭牛鎮大頂村に着いた。
 わたしが、はじめて大頂村を訪ねたのは、2013年10月25日だった。
 そのとき、隣の仕陶村の邢福波さん(1953年生)に、大頂村の旧日本軍守備隊の兵舎と望楼の跡に案内してもらうことができた。邢福波さんは、同行した邢越さんの友人である。2013年3月に邢越・邢飛編著『読解海南邢氏歴史』が出版されたが、この本の原稿を書いているとき、邢越さんは、仕陶村をなんども訪ねていた。仕陶村には、明代に中国本土から海南島に来た邢氏にかかわる遺跡が残っている。
 1943年の「海軍警備府戦時日誌」に含まれている「陸上部隊兵力配備要図」には3月1日現在、日本海軍海南警備府第15警備隊大頂守備隊に日本兵87人が常駐していると書かれている。2013年10月25日には、その兵営・望楼跡は、ゴムの樹の林に囲まれており、樹木や竹林や潅木に覆われていた。日本軍は、付近の民家などを壊して、そのレンガや木材をつかって兵舎や望楼をつくっていた。そのレンガの破片がいくつも残っていた。その周囲には幅が2メートルほどの壕の跡が残っていた。全体的に壕は浅くなっていたが、まだ深さが1メートルあまりあるところもあった。
 大頂村の茶店で、邢治躍さん(1930年生)に話を聞かせてもらった。邢治躍さんは、こう話した。
   「近くの企路坡村で姉が共産党のために食料を運んでいたとき、日本軍にみつかった。日本兵が両足と両手
   と陰部に釘をさした。姉を殺したのは大頂の日本兵だ。
    姉の名は、邢福娥。1943年3月のことだった。
    企路坡村の人が母に姉が日本兵に殺されたことを知らせてくれたが、母は日本兵を恐れて行かなかった。
   姉の遺体は企路坡村の人が埋めてくれた。
    父は南洋に行っており、家には母とわたししかいなかった。姉は、日本軍が海南島にくる前から共産党
   に入っていた。日本軍がきてから、姉は、わたしを連れて食料を運んだことがある。幼いわたしがいっしょ
   だと日本軍の検問があまり厳しくなかったからだと思う。
    わたしは大頂に日本軍がつくった日本語学校に2~3日通ったが、教師が生徒を殴るのをみて、やめた」。

 2024年4月10日朝、邢越さんといっしょに大頂村に着いてすぐに仕陶村の「邢祚昌故居」に行った。そのあと、大頂村と仕陶村の隣の昌美村の魏学策さん(1938年7月9日生)の自宅を訪ねた。魏学策さんは留守だったので、いったん大頂村に戻った。
 2013年10月25日に邢治躍さんに話を聞かせてもらっていると、村人が、近くの昌美村に、日本軍に家族を殺された人がいると言って、迎えに行ってくれた。
 その人が魏学策さん(1938年生)だった。
 茶店に来てくれた魏学策さんに、わたしはすぐに挨拶したが、魏学策さんは、ひとことこたえたあと、しばらくの間、当時のことを思い出したのか、声をおさえて泣き、深い息をはいた。
 それから、静かな口調で話はじめてくれたが、なんども声を詰まらせた。
 日本軍が昌美村を襲って、村人50人あまりを殺害したのは、1942年農暦9月22日(普通暦10月31日)だった。このとき、4歳の魏学策さんの目の前で、母、姉、伯母の3人が殺されたという。そのときのことを、魏学策さんは、昨日のことのように話した。
 1945年7月30日(農暦6月22日)に文昌市北方の羅豆郷秀田村を襲った日本軍によって、陳貽橋さん(1924年生)は、祖母、母、妻、そして4か月の子を焼き殺された。陳貽橋さんは、2003年3月27日に、出会った瞬間からずっと泣きながら話してくれた。秀田村の人たちにとっては、そのとき、58年まえの秀田村虐殺は、昨日のことのようだった。
 2004年4月に、紀州鉱山の真実を明らかにする会は、1998年6月からの海南島での「現地調査」の内容を報告するドキュメンタリー『日本が占領した海南島で』を制作した。そのとき、紀州鉱山の真実を明らかにする会は、秀田村の陳貽橋さんらのことを思いつつ、その副題を「60年まえは昨日のこと」とした。

 魏学策さんは、ときどきそっと涙をふき、なんども声をつまらせ、長く沈黙し、ときに声をあげて泣きながら、つぎのように話してくれた。

    「昌美村は、とうじ、朱村と魏村にわかれていた。わたしは魏村に住んでいた。
    あの日、日本軍ははじめ朱村に入ってきて、村人30人あまりを殺し、家に火をつけた。
    朱村から人の叫び声や泣き声が聞こえ、火の光、炎、煙がみえたので、魏村の村人は逃げ出した。朝、
   5時ころだった。
    そのときわたしの家には、母、姉、伯母、わたしの4人がいた。父は山に猪を追いにいっていた。
    姉の手をひき、わたしを背負った母が、10匹あまりの羊をつれて、伯母といっしょに逃げようとしたとき、
   日本兵が家にはいってきた。
    日本兵が、背負い紐を軍刀で切ったので、わたしは母の背から落ちた。
    日本兵は、母と伯母と姉とわたしを庭につれていって、銃剣で刺しはじめた。庭は血だらけになった。
   刺されたわたしは、気を失った。
    どのくらい時間がたったかわからないが、誰かがわたしに声をかけてくれたが、そのときは、意識がはっきり
   しなかったので答えられなかった。
    戻ってきた父がわたしを病院につれていった。父は、現場を見たとき気を失ったという。
    母と伯母と姉は、日本兵に火をつけられていた。わたしはすこし離れたところに倒れていたので、焼かれなかった。
    母の名は、洗氏。28歳。伯母は、石龍村の博氏。姉の名は魏玉英で10歳だった。
    この日、魏村では、20人あまりが殺された”。

 魏学策さんは、右胸(左胸の心臓の位置の反対側)、背中の右側と左側、腹部(胃のあたり)、下腹部の5箇所の傷跡をみせてくれた。とくに右胸の傷跡が深く、銃剣が左にそれていたら即死したと思われる。日本兵は、4歳の子どもまでをも殺そうとしていた。
 魏学策さんは、日本の総理大臣が、日本は他国を侵略したことがないと言っているのを知って、怒り、2013年8月10日に昌美村委員会にだした告発状「記九廿二惨案 一控告日本侵略者的三光政策」とその「附言」をみせてくれた。「記九廿二惨案」は1600字ほど、「附言」は1800字ほどである。
 「記九廿二惨案」に、魏学策さんは、つぎのように書いている(佐藤正人訳)。

    抗日戦争勝利68周年に、わたしは、日本侵略者がわが国の多くの人民を殺害し、わたしの故郷の昌美村で
   血で血を洗う罪を犯したことを告発する。
    日本鬼子は、昌美村で、50人あまりの同胞を殺害したが、わたしは、そのときの幸存者であり、歴史の
   証人である。
    いま、安倍を首相とする一部の日本の右傾分子は、歴史事実を無視し、歴史を否定し、歴史を書き換え
   ようとしているが、これは許せることではない。
    昌美村は革命老区である。…………
    1942年9月22日に、漢奸を連れた日本軍が新橋からわたしたちの村に侵入した。日本軍は、いたるところで
   人を殺し、放火し、略奪した。日本軍は、朱村を襲い、ついで魏村を襲った。
    朱村の朱任英老人によれば、このとき日本軍は朱村で30人あまり、魏村で10人あまり、両村で50人あまりを
   殺害したという。
    ‘九廿二’惨案のとき、わたしの家族は伯母(大媽)、母、姉の3人が殺された。当時わたしは、わずか5歳の
   子どもだったが、5か所を刺され、気を失い、血のなかに横たわっていた。
    日本鬼子は、門の板をはずして火をつけ、そこに大媽、母、姉を投げ入れた。3人は烈火に焼かれ黒焦げに
   なった。覚醒したわたしは、全身が血まみれで母の焼死体のそばに横になっていた。  
    当時、父は、農作物を見守りに行っていて鬼子の危害をまぬかれた。鬼子が村を去ってから、知らせを聞いて、
   急いで家に戻った父は、血まみれになっているわたしを助け起こした。
    父は、わたしを山のなかの病院に連れていった。そこは祠堂で、共産党が病院にしていたところだった。
    わたしの家は焼かれ、財物は奪われ、10匹あまりの羊・1頭の豚も銃で殺され奪われていた。父の身体は
   しだいに痩せていき、精神的にもくずれていき、まもなく世を去った。
    両親を失い、家もなく、わたしは、飢え、苦しんだ。
    日本の‘三光政策’は、人道に反していた。…………
    ‘九廿二’惨案の日は、わたしが生涯わすれることのできない日である。
    ‘三光政策’は、わが国の人民、および東アジア各国人民にたいする重大な犯罪であるにもかかわらず、今日に
   おいても、日本軍国主義者は、反省せず、歴史を書き換え、憲法を変えようとしている。…………
     わたしは、日本軍国主義が侵華戦争のときにわたしの家族を殺害した罪を告発する。
     日本政府は、公正に答えなければならない。

         告発人 魏学策            二〇一三年八月十日

 魏学策さんは、この告発状と附言を、海南島の新聞社にも送った。
 2013年11月4日の『海南日報』の記事「搜集日本侵琼证据 佐藤正人:我的使命未完成」のなかで、魏学策さんの“控告书”が、つぎのように報道された(この記事の10月27日は10月25日の、1943年は1942年の、今年8月1日は今年8月10日の誤記)。http://www.hq.xinhuanet.com/news/2013-11/04/c_117989268.htm
   「10月27日,魏学策来到与佐藤约定的茶馆,还未落座,这位年过八旬的老人便已泪流满面。他紧紧攥着这份
   凝结着血泪的文书,哽咽着说不出一个完整的句子。佐藤也红了眼眶,静静陪伴。 
    1943年9月22日,日军血洗了朱村、魏村两个村庄,杀害村民50余人。魏学策的母亲、伯母及姐姐被抛进熊熊
   烈火活活烧死。此后漫长的70年中,竟无人问及此事。直至今年8月1日,魏学策才用颤抖的手,提笔写下了这份
   “控告书”。
    “我就要死了,可没有人问过我,当年我经历了怎样的惨剧。”握着佐藤的手,魏学策老泪纵横,“虽然你是日本人,
   但我还是感激你,愿意代我将真相公诸于世,为我惨遭杀害的家人争取一份迟来的道歉」。

 2013年8月10日に昌美村委員会にだした告発状「記九廿二惨案 一控告日本侵略者的三光政策」 を昌美村委員会は放置し続けた。
 2015年1月15日に、魏学策さんは、潭牛鎮と昌美村委員会に「関于樹立遇難者紀念碑的申請書 ーー一九四二年日本侵略者大屠殺“九廿二”惨案」を書き上げた。
 10月25日夕刻、魏学策さんに話を聞かせてもらっていると、そばに来た女性が、
   “わたしの義母も子どものとき、日本兵に刺された。そのとき、母は昌美村の近くの羅楼
   村に住んでいた。家族5人のうち義母だけが生き残り、義母の両親と姉2人が殺された。
    義母の名は潘月桂。1933年の生まれだ。義母の父の名は潘儒彬。義母の母はタイ人
   だった。義母は、いまは寝たきりだが会って傷跡の写真をとってほしい”、
と話した。この日午後5時過ぎに、潘月桂さんの家を訪ねた。背中に5~6か所の傷跡が残っていた。そのうちの2か所は深い3センチほどの傷跡だった。

 2024年4月10日午後、ふたたび昌美村を訪ねた。魏学策さんが家で迎えてくれた。
 前回、魏学策さんに会ったのは2018年10月だった。その後これまで、新型冠状病毒肺炎流行のために海南島を訪ねることができなかった。5年半ぶりに会った魏学策さんは元気だった。
 魏学策さんは、2013年8月10日に昌美村委員会にだした告発状「記九廿二惨案 一控告日本侵略者的三光政策」 と、2015年1月15日に潭牛鎮と昌美村委員会にむけて書き上げた「関于樹立遇難者紀念碑的申請書 ーー一九四二年日本侵略者大屠殺“九廿二”惨案」をもとに、2014年5月11日に、長文の「記九廿二惨案 一控告日本侵略者的三光政策」 をだしていた。潭牛鎮委員会と昌美村委員会の2014年5月13日の受領印が押されているが、10年近くが過ぎたいまも放置されたままになっている。
 2時間近くの間、魏学策さんと話し合って、昌美魏村の自宅の前で見送ってもらってから大頂村への道を200メートルほど進むと左側に昌美革命烈士紀念亭があり抗日烈士紀念碑が見えた。文昌市人民政府が2019年12月に建てたものだった。その中の碑に、烈士25人の名が刻まれていた。その近くに、1963年5月1日に文昌県新橋人民公社三月大隊全体□□が建立した碑が残されていた。
 
◆真相与和解  2013年10月25日文昌大顶采访后感  邢 越
 2013年10月20日-11月3日,以佐藤正人为首的海南岛近现代史研究会的日本研究学者一行三人再次来到海南,继续对日军侵琼所犯的罪行进行第24次的现地调查。这次我有幸作为翻译全程陪同了他们。
 一路上的所见、所闻、所感、所悟,可谓五味杂陈。当中,最难以忘怀的是,一位年逾花甲的老阿公,在我们面前失声疼哭而久久说不出一句话来的情景。
那一天是10月25日。上午,佐藤先生和我到文昌新桥镇,在镇上老人休闲的茶店,采访几位老人。
 下午,我们又来到了新桥附近的大顶乡,参观日军炮楼遗址。之后,在当地仕陶村村民邢福农的向导下,我们又来到了大顶市上老人比较集中的一间茶店,目的是向老人了解当年日军修建炮楼时的具体情况。
 当大家知道我们的来意后,都非常的热情,都七嘴八舌地争着给我们提供各种各样的线索。比如,某某村某某人,以前的事他懂得最多,只可惜他已过世了;某某村某某人,以前的事他也很清楚,当年他就被日军连刺五刀没死,他家就在附近,我去喊他过来找你们。
 就这样,这位当年的历史见证者老阿公来到了我们的跟前,据说他是被人用三轮车拉过来的。阿公远远见着我们就情不自禁地哭了起来,哭声当中还夹着很沉的鼻气声。
等他的情绪平缓下来之后,我们就开始对这位阿公进行采访。
 阿公性急,还不等我们发问,一下子就把几份的资料递交给佐藤先生,以此同时,还掀开自己的上衣并侧转着身体,指点当年被日军刺杀而留下五处伤痕。他眼含泪花,语气急促且不知停顿地只顾往前说。但大致的意思是:“日本鬼子凶残啊! 当年就残杀我两个母亲和我的姐姐,我当时才五岁,我也被他们连刺五刀! ”。
 阿公名叫魏学策,今年76岁,是海南文昌市谭牛镇昌美乡魏村人。一边听阿公的介绍,一边和阿公的反复确认,整理出如下线索。
 农历1942年9月22日凌晨四点钟,驻新桥墟的日伪军,以附近有抗日组织为名,特对昌美乡的朱村和魏村进行扫荡。鬼子包围并进入二村搜查后,没有遭遇任何抵抗,也没有找到任何抗日组织,但却对熟睡中的手无寸铁的农民,包括妇女、儿童、婴儿进行杀戮。当时朱村死难者就有30余人,魏村死难者10余人。二村合计死难50余人。
 魏村死难的10余位中,有三位是朱学策的亲人。我们让阿公写下他们的姓名、籍贯和大致年龄:
  1. 大母亲,石龙村人,符氏,年龄失记。(因无生育,父亲再娶生母)。
  2. 亲生母亲,贤孝村人,冼氏、时年28岁。
  3. 同胞姐姐,魏玉英,时年10岁。
 朱学策阿公介绍说,日军进入家里搜查,把熟睡中的二位母亲、姐姐和自己强拉到院子里,然后就用枪刺刀进行刺杀。当时阿公虽只有五岁,但也被日军连刺5刀,昏死过去。日本兵刺杀他们后,又拆下家里的房门板,再堆上干柴,点上火种,最后更凶残地把二位母亲和姐姐的尸体丢进熊熊的烈火中。说到悲惨处,阿公又情不自禁的哭了起来。
 阿公接着说,当时家里还养有10余只肥羊和一头肥猪,也被日本鬼子抢走。父亲当晚因出外看护庄稼地而逃过一劫。回家后的父亲,因发现火堆旁的我还有点气息,在乡亲们的帮助下,及时送医而保住了我可伶的一条小命。
 突然间降临的大祸和我每次换药时的疼哭声,时时都扎疼着父亲。经不起精神上的折磨和以后的生活困苦,强壮的父亲日渐消瘦,几年后就病死了。成了孤儿的我无家无室,无依无靠,生活牛马不如,真是苦不堪言啊!说到此,阿公又眼含泪水。
  1. 朱学策递交给佐藤先生的资料,共有二份。
 第一份标题为:『忆九廿二惨案--控告日本侵略者的三光政策』,第二份为的「付言」。「付言」。
 第一份资料的内容大致为,日本否定侵略历史、篡改侵略历史不可饶恕;日本当年对中国人民实行的“三光政策”,犯下了滔天罪行;昌美乡的朱村和魏村被日军屠杀50余平民的事实铁证如山。
 当问及为何写这些资料时,朱学策阿公无奈地说:“日本鬼子对我家庭的伤害,罄竹难书,我的5处伤疤,我家的血泪史,何以能忘?! 但是,这么多年了,我们的悲惨经历一直没人重视,有关部门的人从未没有登门找过我们调查情况。我已经是个古稀老人,剩下的时间不多了,但我必须要把以前的悲惨经历写出来,把历史真相告诉年轻人,千万不要忘记日本鬼子对我们犯下的罪行! ”。
 据了解,文化程度不是很高的朱学策,曾经把自己写的这些资料满怀信心的寄给报社记者,以为能得到应有的重视,但却石沈大海,没有任何回音。心灰意冷之际,今天听到日本历史学者下乡调查日军的战争暴行情况,并能一下子就面对面地说出自己想说的一切,这可是有生以来梦寐以求的难得的一次机会啊!
 常言道:“男儿有泪不轻弹”。但是,年逾花甲的朱学策阿公不能自控的哭泣,可谓哭出了埋藏心底70年之久的压抑,而和泪水一样流出来的,是否是生命残年最后一丝的希望和期待?
 那天,就在我们离开文昌前,又按老乡提供的线索,拜访了一位当年屠杀幸存者潘月桂阿婆。阿婆今年81岁,日本鬼子扫荡时,她七岁,被刺中7刀没死,而家里其他四个人,父亲潘仔彬,母亲(泰国人,名失记),二个姐姐(名均失记)均被当场刺死。阿婆的经历和朱学策一样,一直以来也没人查问。

 活生生的历史事实,一直遭到无视,这是为什么? 那场战争已过去了将近70年,但是它至今乃存在很多的模糊点和很多的空白点,真让人心寒。日本投降后,本该是中国进入重建国家和好好清算日本侵略历史的一次最好机会。然而,命运多舛的中国国民又一次遭到抓弄。
 第一、日本一投降,中国的国共两党马上就陷入你死我活的内战(南北朝鲜也一样),因而,没有精力有效地充分地向外申述自己权益。
 第二、国共两岸分治后,政府为了获得国际上的某些承诺,竟牺牲广大国民的基本利益,轻率地放弃了日本应该给与的赔偿,使破碎的国家建设更加举步维艰。
 第三、建国后的新政府,因为经济上困难重重,所以没有精力对日本侵略的历史做一次全面的系统的专业调查和整理。即使整理出来的某些东西,也非常粗糙,缺漏更是不计其数,涉及到国民党的抗日部分也多有掩盖或一笔带过。
 第四、现在,当年战争的经历着和幸存者越来越少,作为历史见证的历史遗址更是缺少保护意识,一个又一个地遭到破坏,历史的真相越来越模糊。
常言道:“没有真相,就没有和解”。
 中国政府因各种原因,没有对日本侵略的历史没有做一次全面的系统的专业性的调查和整理。因而使当年发生的一切任由时间的推移,越发模糊;而当年那些受难幸存者,残疾且生活上不能自理者,因没有得到生活上的照顾而产生怨言。
 日本方面,至今还对侵略战争没有进行正式道歉和赔礼,这样,那些战争受难者以及受难者家庭在精神和心灵上哪里会得到安慰? 相反地由此产生的无解和仇恨必将深深扎根于广大的国民中。最近,日本政府领导人又正式参拜靖国神社,大张旗鼓地修改历史教科书,否认侵略历史,历史真相不仅仅是模糊,而且是越走越远了。
没有真相,就没有和解;没有和解,就没有和平。
 中国也好,日本也罢,假如不尊重历史,不探究真相,没有通过不懈努力,达成相同的历史共识,双方之间的裂痕必将越来越大。假如两国在这不能自醒、不能自控,双方必将成为美国这个国家的最高利益博弈前的两个棋子。

◆文昌市抱羅鎮石馬村で
 1942年3月2日(農歴1月16日)に日本海軍第15警備隊部隊が襲撃し住民172人を虐殺した文昌市抱罗镇の幸存者谢春梅さんに抱罗華僑医院の裏の自宅で話を聞かせてもらった。刘笑非海南日报记者が同行した。
 海南島近現代史研究会創立前、2003年3月に紀州鉱山の真実を明らかにする会は谢春梅さんを訪ねたことがある(紀州鉱山の真実を明らかにする会編『海南島で日本は何をしたのか 虐殺・略奪・性奴隷化、抗日反日闘争』2005年5月発行、24~25頁)。
 谢春梅さんに話を聞かせてもらったあと孫の潘浩さんの案内で石马村に向かった。
 石马村では、潘孝勇さんとその弟の潘孝赴さんに迎えられた。
 祠堂の近くの墓地に、「公元一九四二年農歴元日十六日被日本無辜殉逝」と刻まれた石碑が建てられていた。1984年春に建てられたものであった。
 幸存者の潘正川さんの息子さんの家に案内してもらい、午後4時過ぎから潘正川さん(1931年生)に話を聞かせてもらうことができた。
 潘正川さんは、
   「この村は共産党の根拠地だった。共産党の組織が村で活動していた。
    日本軍の兵隊は、抗日組織の遊撃隊に撃たれてけがをした。それでこの村を襲って焼いた。
    1月17日の朝、172人が殺され、22日に22人が殺された。
    自分の家は、大きな部屋2つ、小さな部屋3つ焼かれた。
    当時、石馬村の家は大小合わせて300軒くらい。人口はわからない」
と話した。その場に来てくれた石馬村の初代共産党書記長の王録雰さん(1927年生)は、
   「殺された人が多くて、すぐにみんなを埋葬できなかったので、犬やブタなどに食べられないように、遺体を
   木の上にあげた」
と話した。
 潘家泰さん(77歳)は、
   「母は台所にかくれて助かった。祖父が殺された。祖父は目が見えなかった。それまで日本軍は何回も
   来たが家の中で座っている祖父には何もしなかったので、1月16日にも座っていたが、殺された。祖父
   の名前は、潘先桂。
    台所に9人が隠れていたがみんな助かった。小さいとき母は亡くなったので、このことは母かにら聞いた
   のではない。同じところに隠れて助かった人から聞いた」
と話した。
 午後6時過ぎに暗くなりかけた石馬村を離れ、大致坡に向かった。
 別れ際に、潘孝勇さんは、殺された人たちのなまえは全力を尽くして探す、と言った。潘孝勇さんによれば、石馬村は、トウガラシ、カボチャ、コメ、ラッカセイの産地だが、交通が不便で道路が悪く、経済は遅れているとのことであった。

 2015年3月28日~4月9日の紀州鉱山の真実を明らかにする会第27回・海南島近現代史研究会第14日のとき、4月4日に、わたしたちは南海出版公司の編集者たちと石馬村を訪ねた。潘孝勇さんたちは、犠牲者の名簿の作成を進めていた。

 2024年4月10日午後大頂で朱学策さんに別れ、石馬鎮にいった。潘孝勇さんたちは、今年の秋までに犠牲者の名簿を完成させ、追悼碑建立を実現したいと言った。
 夕刻、大致坡の旅館に入った。

                                        佐藤正人
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