く~にゃん雑記帳

音楽やスポーツの感動、愉快なお話などを綴ります。旅や花の写真、お祭り、ピーターラビットの「く~にゃん物語」などもあるよ。

<BOOK> 「写真民俗学 東西の神々」

2017年12月12日 | BOOK

【芳賀日出男著、角川書店発行】

 著者の芳賀氏は1921年、満州(中国東北部)生まれ、96歳。民俗写真家の草分けとして長年にわたり世界各地の祭りや民俗芸能を取材してきた。日本写真家協会創立者の一人でもある。1970年の大阪万博ではお祭り広場のプロデューサーを務め、73年には全日本郷土芸能協会を創立した。『日本の祭』『日本の民俗 祭りと芸能』『神さまたちの季節』『神の子 神の民』など多くの著書がある。

       

 本書はA5版312ページ。タイトルの「東西の神々」が示すように、世界各地の人と神々との多様な交わり・祭礼を「神を迎える」「神を纏(まと)う」「神が顕(あらわ)る」「神に供す」の4部14巻に分類して紹介する。掲載写真は400枚を超え、その大半を迫力のあるカラー写真が占める。「先輩や友人に恵まれたおかげでプロの写真家の一人に加わることができた。まさかこの年齢までカメラマンが続けられるとも、酒が呑めるとも思ってもいなかった。まあ、恵まれた人生なのだろう」。芳賀氏は巻末の「カメラを手にして九十年」の中でこう述懐する。本書は世界を旅してきた民俗写真家人生のまさに集大成ともいえる。

 民族や宗教が違っても、世界各地に日本とよく似た祭りがある――。本書を通読しての感想を一言で表現するとこうなる。例えば「来訪神」。日本では年の変わり目に様々な歳神が現れ子どもたちを諭す。秋田の「ナマハゲ」、能登の「アマメハギ」、下甑島(鹿児島県薩摩川内市)の「トシドン」……。一方、オーストリアの聖ニコラウスの祭りには全身を麦わらで覆ったり異様な鬼面を着けたりした魔物が登場し、スイスのクロイゼの祭りには体中に木の葉や岩苔を貼り付けた〝植物人間〟が出没する。

 「火」「仮面」「人形」「獅子」「巨人」などをキーワードとする祭りにも内外で類似点や共通点が多い。巨人の祭りは日本では鹿児島の「弥五郎どん」や三重県四日市市「大四日市まつり」の「大入道」などが有名。一方、海外ではスペイン・タラゴナの巨人の祭り、オーストリアのサムソンの祭りなど。1992年にスペイン・バルセロナで世界巨人博覧会が開かれ、日本からは「弥五郎どん」が参加したそうだ。「人々を魅了する巨人たち。姿は違えど、その大きな力に憧れ、縋(すが)り、崇める。巨人とは人類共通の『夢の現れ』ではなかろうか」(芳賀氏)。日本で法螺貝といえば山伏を連想するが、その法螺貝が祭りの楽器として広く東南アジア諸国やオセアニア、ハワイなど太平洋沿岸地域で使われていることも本書で初めて知ることができた。

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<BOOK> 「美宇は、みう。夢を育て自立を促す子育て日記」

2017年09月23日 | BOOK

【平野真理子著、健康ジャーナル社発行】

 女子卓球界のホープ平野美宇の活躍がめざましい。今年1月の全日本選手権シングルス決勝で石川佳純を破って史上最年少(16歳9カ月)優勝を飾ると、4月のアジア選手権(中国・無錫)も優勝、さらに6月の世界選手権(ドイツ・デュッセルドルフ)では日本人選手として48年ぶりのメダル(銅)を獲得した。とりわけ完全アウェーの中でのアジア選手権では準々決勝でリオ五輪の金メダリスト丁寧(世界ランク1位)を接戦の末に破ると、準決勝・決勝でも中国のトップ選手を次々に撃破した。「まさか」。そのニュースに接したときの感動と驚きは2年前のラグビーワールドカップで日本が強豪南アフリカを破ったときに優るとも劣らぬものだった。

       

 2000年4月14日生まれ。まだ17歳の高校生だ。3歳のとき卓球を始め、早くから「第二の愛ちゃん」と注目されていた。だが、昨年のリオ五輪では同学年のライバル伊藤美誠に先を越され日本代表落選の屈辱を味わった。その悔しさがその後の飛躍のバネの一つになっているのは間違いない。平野の夢は「オリンピックで金メダル」。強い精神力で目標に向かって進む平野はどんな家庭環境で育ったのだろうか。母で「平野卓球センター」(山梨県中央市)の監督を務める平野真理子さんは「親ばかと笑われるかも」と前置きしながら、平野には「努力する才能」が備わり「やると決めたらとことんのめり込む努力型」「ずば抜けた集中力が美宇の武器」と分析する。

 5歳のとき平野は記者から「第二の愛ちゃん」っていわれているけど、うれしいと聞かれた。そのときの返答が「美宇は、みう」。「そう、どんな時も美宇は美宇らしくあればいい。これ、私のお気に入りの言葉です」(真理子さん)。ということで、この言葉が本書のタイトルになった。平野は3姉妹の長女。副題が示すように、本書には子育てのノウハウがいっぱい詰まっている。「自分のことは自分で」「子の自立は親次第」「褒める・叱るのバランスは三対一」「前向きに物事を捉えるプラス思考」……。橋本聖子さん(参議院議員、日本スケート連盟会長)の言葉に「人間力なくして競技力の向上なし」があるが、真理子さんも「あいさつや返事、態度や言葉遣い、そして思いやりと感謝の気持ちを決して忘れないように」と口すっぱく言い聞かせてきたそうだ。

 平野のプレースタイルはこの1~2年、相手のミスを待つラリー志向の守備型から、攻撃的な速攻戦法に大きく変わってきた。平野は「今の壁を突き破って東京五輪に出場するためにはプレースタイルを変えるしかない」と自らの強い意志で決断したという。そのため強い足腰づくりへ体幹トレーニングを取り入れるとともに、メンタル面を鍛え直すため様々な分野や考え方の人と積極的にコミュニケーションするよう心掛けてきたそうだ。その努力が実を結び始めた。最新9月発表の世界ランキングは6位。日本人では5位の石川に次いで2番目(伊藤は7位)。ただ1~4位はなお中国の選手が独占しており、卓球王国中国の厚い壁が立ちはだかる。平野の当面の目標は年内の〝トップ3〟入りだ。

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<BOOK> 「全国の犬像をめぐる 忠犬物語45話」

2017年08月01日 | BOOK

【青柳健二著、青弓社発行】

 著者青柳氏は1958年山形県生まれの写真家。メコン川、中国雲南省、アジアのコメなどをテーマにアジア各地を飛び回った後、1999年から「日本の棚田百選」の撮影を始め各地の棚田を撮ってきた。主な著書に『棚田を歩けば』『アジアの棚田 日本の棚田―オリザを旅する』『メコン河―アジアの流れをゆく』など。2009年から1年かけ愛犬(ビーグル犬)と一緒に北海道から沖縄まで全都道府県を隈なく回った。その日本一周旅行で数多くの犬の像や墓、塚、碑などに出合ったのが本書出版のきっかけになった。

           

 忠犬で誰もがすぐ思い浮かべるのは東京・JR渋谷駅前の忠犬ハチ公像だろう。ハリウッド映画になったこともあって、その知名度は欧米人の間でも高い。本書では北から南へ45の忠犬物語を銅像の写真などとともに紹介しており、「忠犬ハチ公と上野英三郎博士像」は第24話に登場する。そこでは青山霊園にあるハチ公の墓や上野博士の出身地・三重県津市の近鉄久居駅そばに立つ像、2015年に東京大学農学部にできたばかりの上野博士に飛びつくハチ公の像なども取り上げている。その一つ前の第23話はタロとジロで有名な南極昭和基地に置き去りにされた樺太犬の話だ。

 忠犬像で多いのが主人を助けた犬。越後柴犬のタマは2回にわたって主人を雪崩から救い出し、盲導犬サーブは雪でスリップし突っ込んできた車から主人をかばって重傷を負い片足を失った。サーブの像は名古屋市の久屋大通公園や岐阜県郡上市などに立つ。江戸時代には飼い主に代わって伊勢神宮や金毘羅大権現(現在の金刀比羅宮)を参拝した〝代参犬〟がいたそうだ。福島県須賀川市には「市原家の代参犬シロの犬塚」、三重県伊勢市には「おかげ犬の像」、香川県琴平町には「こんぴら狗の像」がある。飼い主から旅人に託された犬は街道筋の人たちの世話になりながらお参りし、帰路も多くの旅人の世話になりながら飼い主の元に戻ったという。

 愛媛県松山市にある「目の見えないダンの像」の物語も感動的。ダンはダンボール箱で団地横の川に捨てられていた白い子犬。団地では動物は飼えない規約になっていたが、少女2人の熱い訴えから団地で飼うことになり、少女たちは目の見えないダンのことを紙芝居にした。それが紙芝居コンクールで最優秀に選ばれ、さらに小学校全校でダンの犬小屋づくりにも取り組んだ。その心温まる話は道徳の教材にもなったという。ほかに消防車に乗って1000回も〝出動〟した北海道小樽市の「消防犬ぶん公」、怪物から村人を救った長野県駒ケ根市の「光前寺の霊犬早太郎」や静岡県磐田市の「しっぺい太郎」、和歌山県九度山町の「高野山の案内犬ゴン」なども登場する。

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<BOOK> 「邪馬台国時代のクニの都 吉野ヶ里遺跡」

2017年07月05日 | BOOK

【七田忠昭著、新泉社発行】

 「遺跡には感動がある」をキーワードに新泉社(東京都文京区)が2004年に刊行を開始したシリーズ「遺跡を学ぶ」の1冊。佐賀県の吉野ヶ里遺跡は筑紫平野のほぼ中央部に位置する。その遺跡が一躍注目を集めたのは1989年1月。新聞やテレビで「邪馬台国時代のクニ」「魏志倭人伝に書かれている卑弥呼が住んでいた集落とそっくり同じつくり」と大々的に報じられた。それから約28年。邪馬台国論争は収束するどころか、激しさは増す一方。吉野ヶ里に関しては「邪馬台国とは無関係」「邪馬台国より時代が古い」といった声も聞こえる。こうした見立てに対し、著者七田氏は「はたしてそうか」と疑問を投げ掛け、「いまあらためて発掘成果と魏志倭人伝の記述を対照していくと数多くの共通点が浮かびあがってくる」と主張する。

       

 七田氏は1952年、佐賀県神埼市神埼町生まれ。まさに吉野ヶ里遺跡のすぐそばで幼少期を過ごし、遺物の収集に没頭したという。大学では考古学を専攻し、卒業後、佐賀県教育庁に入庁。1986~2008年の22年間、吉野ヶ里遺跡の発掘責任者を務めながら国営吉野ヶ里歴史公園の整備事業に携わってきた。吉野ヶ里への思い入れが人一倍強いのも当然のことだろう。遺跡の場所にはもともと佐賀県の工業団地が建設される予定だった。発掘調査が始まったのは86年5月。七田氏にとっては「自分の手で発掘できる期待感と、発掘が終了したら壊されるという遺跡の運命を感じながらの発掘調査となった」。

 調査が進むにつれ大規模な環壕跡や厖大な土器、甕棺(かめかん)、日本初の巴形銅器の鋳型などが次々に出土した。弥生時代(紀元前5世紀~紀元3世紀)の環壕集落が前期の2.5ha.から中期に20ha以上に、さらに後期には40ha超と、時代を下るにつれ「ムラ」から「クニ」に大きく発展する様子が明らかになっていく。後期の遺跡からは4基の物見櫓や弥生時代屈指の大きさを誇る大型建物、高床倉庫群などの遺構が出土した。こうした中で89年春、佐賀県知事が遺跡保存を表明。そのニュースを見て「これまでの精神的、肉体的な疲労も吹っ飛び、喜びがこみ上げてきた」。七田氏はその直前に佐賀を訪れ遺跡の重要性を強調した佐原眞氏(当時奈良国立文化財研究所指導部長)を〝吉野ヶ里の救世主〟として名を挙げる。吉野ヶ里遺跡は90年史跡に指定され、翌91年には特別史跡へ格上げされた。

 本書は5章構成で、1~4章では出土した遺構や遺物などから「ムラ」から「クニ」への変遷をたどり、最終5章で魏志倭人伝の記述と吉野ヶ里遺跡の発掘成果を比較検証する。その中で両者の共通点として、①弥生中期中ごろ前後に多くの戦闘の犠牲者が甕棺墓に埋葬された状態で出土する②卑弥呼が居住し祭事の場となった宮殿と邪馬台国の長官や次官たちが居住し政事を行った施設の両者がある構成は、まさに祭事の場である北内郭と高階層の人々のいる南内郭がある吉野ヶ里遺跡に極めて似ている③鉄製素環頭大刀や大型・中型の漢鏡などの出土は当地が長く対中国外交に深く関わっていたことを示す――などを挙げる。吉野ヶ里遺跡はいま国営吉野ヶ里歴史公園に姿を変え、年間70万人の観光客が訪れる。その中核の環壕集落ゾーンには集落が最も繁栄した弥生時代終末期(3世紀前半)の大規模集落が復元されている。その時期はちょうど卑弥呼が倭国の女王だった時代とも重なる。

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<BOOK> 「不滅の昭和歌謡 あの歌手にこの名曲あり」

2017年04月04日 | BOOK

【塩澤実信著、北辰堂出版発行】

 著者塩澤氏は昭和5年(1930年)長野県生まれ。双葉社取締役編集局長を経て東京大学新聞研究所講師などを歴任。元日本レコード大賞審査員。主な著書に「雑誌記者池島信平」「動物と話せる男」「昭和の流行歌物語」「昭和の歌手100列伝Part1~3」「昭和平成大相撲名力士100列伝」など。本書では昭和を代表する歌手100人を選び出して50音順に並べ、それぞれの名曲の誕生秘話や裏話を満載している。歌謡曲ファンならずとも昭和世代にとって興味の尽きない1冊になっている。

      

 名曲誕生秘話の一部を紹介すると――。梓みちよの『こんにちは赤ちゃん』はわが子の誕生に立ち会った作曲家中村八大が「こんにちは、ぼくが君のパパだよ!」と話しかけたのを永六輔が見て感動し作詞した▽小椋佳の『愛燦燦』は味の素のCMソングとして作られた▽岸洋子の『夜明けのうた』は最初坂本九の吹き込みで発売されたが、全然売れなかった▽北島三郎の『函館の女』のタイトルは最初『東京の門』で、歌い出しも「はるばるきたぜ東京」だった。

 秘話はまだまだ続く。小林旭の『昔の名前で出ています』は星野哲郎が知り合いのホステスからもらった電話「遊びに来て。昔の名前で出ていますから」をヒントに作詞した▽小林ルミ子の『瀬戸の花嫁』は山上路夫が作詞した「瀬戸の夕焼け」と「峠の花嫁」の2作が1つになって生まれた▽吉幾三の『雪國』はもともと吉が温泉の宴会芸として即興で作った下ネタ満載の歌だった。

 後に大ヒットしたものの、歌手本人は当初乗り気ではなかったという曲も。ソプラノの渋谷のり子は『別れのブルース』について最初「低いアルトでは絶対歌えない」と反発、深酒と煙草で喉を荒らしてレコーディングに臨んだ▽伊東ゆかりは『小指の思い出』の発売直後、テレビで「あんな唄、私に合わないの」と言って作詞者(有馬三恵子)を絶句させた▽美川憲一は『柳ケ瀬ブルース』を最初「小節が利いたこんな歌、無理よ」と断ったが、レコード会社から「歌えないなら君は当社に必要がない」と言われ渋々レコーディングした▽八代亜紀は『舟唄』が男歌だったことから初めは気乗り薄だった。

 レコード会社の社内で評価が低かったが、大化けし大ヒットしたものも多い。ぴんからトリオの『女のみち』はもともとグループ結成10周年記念として300枚自主制作し無料配布したもので、全国発売には「お笑いグループのド演歌が売れるはずがない」と反対の声が圧倒的だった▽西田佐知子の『アカシアの雨がやむとき』は「こんなネクラな歌が売れるはずがない」と二度も却下された▽倍賞千恵子の『下町の太陽』は発売会議で「下町のイメージがよくない、タイトルも悪い」と指摘され、初プレスはわずか1500枚だった▽キャンディーズの『春一番』もアルバムからのシングルカットの提案に「こんなフォーク調の歌詞が売れるはずがない」と社長に一蹴されていた。

 『こんにちは赤ちゃん』も「子守唄もどきの歌が売れるだろうか」と社内に危惧する声があり、森昌子の『せんせい』も「今どきこんな歌が売れるはずがない」という声まであったという。本書には他にも、舟木一夫の芸名はもともと遠藤実が舟木の前の門下生、橋幸夫に付ける予定だった▽17歳で『潮来笠』でデビューした橋幸夫は「いたこがさ」と読めず「しおくるかさ」だと思ったと自著で告白――といったエピソードも紹介している。橋幸夫のヒット曲の一つに吉永小百合とのデュエット曲『いつでも夢を』がある。吉永小百合には他に『寒い朝』『勇気あるもの』といったヒット曲も。NHK紅白歌合戦には歌手として5回出場した。その吉永小百合が本書の100人に入らなかったのは、熱心なファン〝サユリスト〟にとって少々不満かもしれない。

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<BOOK> 「ヴォイセズ・オブ・アイルランド アイリッシュ・ミュージックとの出会い」

2017年03月22日 | BOOK

【五十嵐正著、シンコー・ミュージック・エンタテイメント発行】

 著者五十嵐氏は金沢出身で、輸入レコード店の店長などを務めた後、音楽評論家として活動、その分野はロックからフォーク、ワールドミュージックと幅広い。著書に『ジャクソン・ブラウンとカリフォルニアのシンガーソングライターたち』など。本書ではアイルランドや米国のアイルランド系の歌手・演奏家・バンドへのインタビュー記事とアルバムの紹介を中心に構成、伝統音楽(トラッド)とそれを元に新たな試みに挑戦するアイリッシュ・ミュージシャンの全貌に迫る。

       

 インタビュー記事で取り上げた演奏家は実に30人/グループ近くに上る。冒頭にアコーディオン奏者シャロン・シャノン、次いで女性バンドのチェリッシュ・レディース。いずれも2016年末の「ケルティック・クリスマス」出演のための来日前にインタビューまたはメール取材した。アイリッシュ・ミュージックを代表するグループやシンガーソングライターとして、エンヤ、メアリー・ブラック、カラン・ケイシー、リサ・ハニガン、ウォリス・バード、ウィ・バンジョー3なども取り上げている。

 かつてエンヤのCDを集中的に買い求めたことがあった。エンヤが一時属していたクラナドのCDも。クラナドはエンヤの兄や姉ら家族を中心にしたバンド。エンヤは2年ほどでマネジャーと共にグループを去るが、その際、兄姉から「彼らをとるか、家族をとるか」と迫られ、その後絶縁状態だったということを本書で初めて知った。アルバムの世界売り上げ枚数が7500万枚に上り〝エンヤノミクス〟とまでいわれた成功の裏にはそんな家族との抜き差しならない確執があったのだ。

 アイルランドから多くの移民がアメリカに押し寄せた。現在アイルランド系米国人は約4000万人ともいわれる。単純に米国の全人口で割ると、実に6人に1人がアイルランド系ということになる。それだけに政治や経済だけでなく音楽の分野でもその影響力は大きい。アイルランドの伝統音楽はアメリカ生まれのフォークやカントリーの源泉の1つといわれ、それが黒人音楽と結びついてロックンロールが生まれたともいう。

  両親がアイルランド出身で『リヴァーダンス』で有名なフィドル(バイオリン)奏者、アイリーン・アイヴァースは意欲的にアフリカや中米出身者など多国籍のメンバーとの演奏活動に取り組んできた。手元にも代表的なアルバム『クロッシング・ザ・ブリッジ』がある。そのアイリーンは「移民は常に合衆国の一部なの。その存在こそが文化を活気づけているのよ。(排斥されるどころか)ほめたたえられるべきものなのにね」とインタビューに答えている。9.11以降、米国パスポートを持たない音楽家の就労ビザ取得が難しくなっている現状を嘆いたものだが、いまアイリーンはその後誕生したトランプ政権の大統領令に怒り心頭状態なのではないだろうか。

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<BOOK> 「そこに音楽があった 楽都仙台と東日本大震災」

2017年01月14日 | BOOK

【梶山寿子著、文芸春秋発行】

 今年も「その日」が巡ってきた。1月17日の阪神大震災。あれから丸22年目に当たる。そして3月11日は東日本大震災から丸6年。「被災者が苦しんでいるときに音楽など不謹慎」。震災直後、神戸でも〝楽都〟を標榜する仙台でも歌舞音曲の自粛ムードが一時広がった。「音楽を自粛することは果たして被災者のためになったのか」。著者梶山寿子さん(ノンフィクション作家・放送作家)はそんな素朴な疑問から、被災者や音楽関係者に広く取材し、音楽が被災者の心に寄り添い、慰め励ましたいくつもの物語を掘り起こした。

       

 「♪大空を見上げてごらん あの枝を見上げてごらん…いっしょうけんめい生きること なんてなんてすばらしい あすという日があるかぎり しあわせを信じて」。東日本大震災から約1週間後の3月19日、被災者避難先の仙台市立八軒中学で『あすという日が』(山本瓔子作詞・八木澤教司作曲)の歌声が響いた。歌ったのは吹奏楽・合唱部の生徒たち。その模様をたまたま取材に訪れていたNHKが全国ニュースで流した。直後から中学には全国から励ましの手紙や演奏依頼が相次いだ。

 震災から約2カ月後、東京で南こうせつのコンサートにゲスト出演した。そのときの動画などがユーチューブで流れている。そのレベルの高さに驚いた。それもそのはず、八軒中の吹奏楽・合唱部は前年秋の全日本吹奏楽コンクール東北大会で優勝、合唱も全日本合唱コンクールで銀賞に輝いた実力校だった。その春も3月19日に吹奏楽全国大会(鹿児島)と合唱大会(福島)に部員を振り分けて出場する予定で、カレンダーに「全国大会まであと○○日」と書いて練習に励んでいた。 

 だが、震災で福島の大会は中止になり、鹿児島の大会への出場も無理に。それなら大会の日に合わせ練習の成果を保護者を前で披露しよう。避難所の人たちに配慮して音が漏れないよう音楽室でささやかに。3月19日の演奏会は最初こんなふうに企画された。ところが避難所の運営委員の中から「私たちも応援するからぜひ聴かせて」といった声が上がる。こうして「音楽の集い」が被災者を前に開かれた。生徒たちの『あすという日が』はCD化され、その収益による寄付の総額は1000万円を上回った。阪神大震災を体験した神戸市の市立玉津中学は八軒中の活動を知って、吹奏楽部を中心に繰り返しチャリティー演奏会を開いた。両中学の交流にも心が温まる。

 中学の吹奏楽部といえば、今年1月9日のNHK「おはよう日本」で、熊本県益城町の町立益城中学の吹奏楽部が紹介されていた。益城町は1年前の4月14日の熊本地震で2度震度7に直撃されたところ。益城中の吹奏楽部は2015年の「第1回全日本ブラスシンフォニーコンクール」中学の部の優勝校。昨年12月25日には復興への願いを込めて、町民ら約200人を前に恒例のクリスマスコンサートを開いた。NHKの放送の中で、音楽室から流れる練習中の生徒たちの演奏に、畑仕事中の男性が「元気づけられる」と話していたのが印象的だった。コンサートの直後、東京で開かれた第2回の全日本コンクールでは見事に優勝し2連覇を飾った。

 本書には八軒中のほか、仙台フィルハーモニー管弦楽団、地元の人気バンド「MONKEY MAJIK」、仙台出身のピアニスト・小山実稚恵さん、ドイツ在住の指揮者山田和樹さんの活動なども紹介している。仙台フィルは震災2週間後からお寺や街角、避難所、仮設住宅などで「つながれ心、つながれ力」をスローガンに無料コンサートを展開し、小山さんは悲しみの中で自問自答の末「自分にはピアノしかない」と、小学校を中心に30カ所以上で演奏してきた。山田さんは「復興とは未来を考えること。未来は子どもたちにつながる」と帰国のたびに子どもたちの指導に力を入れる。著者は取材を通じて確信した。「音楽の力は目に見えない。だが音楽は傷ついた被災者の心にやさしく寄り添い、生きるエネルギーを取り戻す助けになる」 

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<BOOK> 『北の富士流』

2017年01月08日 | BOOK

【村松友視著、文芸春秋発行】

 北の富士(勝昭さん)は幕内優勝回数10回を誇る第52代横綱。現役引退後は九重部屋の親方として名横綱千代の富士と北勝海(現日本相撲協会理事長)を育て上げた。2人の優勝回数は合計39回(千代の富士31回、北勝海8回)。1985~87年には九重部屋10連覇という黄金時代を築いた。まさに名伯楽である。日本相撲協会退職後の1998年からはNHK専属の相撲解説者としてお馴染み。テレビ中継での粋な着物姿と、歯に衣着せぬ辛口の解説が評判を呼ぶ。この3月28日には75歳の誕生日を迎えるが、歳を感じさせない若々しさだ。

       

 著者の村松氏は出版社勤務を経てフリーとなり『時代屋の女房』で直木賞を受賞。北の富士と初めて顔を合わせたのは同じ直木賞作家で作詞家の山口洋子さんが経営する銀座のクラブ「姫」だった。北の富士の人間味に魅せられた村松氏は店に行くたび、常連の北の富士向けにコースターに「北天祐は横綱になれますでしょうか」といった質問やメッセージを書いて店の人に託した。次回行くと必ず北の富士が返事を書いたコースターを店から渡された。それが数年続いた。初対面から30年後、知人を介して北の富士との初めての食事会が開かれた。床の間に白い紙が納まったガラス張りの額があった。その白い紙は村松氏が「姫」で北の富士宛てに書いたコースターだった!

 村松氏は北の富士を〝謎の生命体〟と形容する。北の富士が北海道から上京して入門したのは中学卒業直後。力士最高峰の横綱まで昇りつめ、2人の横綱を育て、今なお相撲解説者として人気を博す。「自身の魅力や努力もさることながら、その個性の輝きを評価する存在にも折々に恵まれなければ、かくも長く〝現役〟が持続するはずもない……〝魅力〟〝人気〟〝運〟というものをくるみ込んだ北の富士流が、いかなる絵柄の彩りによって構成され、どのようなものがたりを紡いできたのだろうか」(「前書のようなもの」から)。北の富士の友人、力士仲間、弟子などへの幅広い取材を通じて、「比類ない華、粋、男気、そして色気などをキーワードとして」(「後書のようなもの」から)北の富士流の〝謎〟を探った。

 入門後、同じ出羽海部屋の若手力士だった松前山(渡辺貞夫さん)によると、北の富士は「いつ横綱になっても困らないように」と、いつも土俵入りの真似をしていたという。「その真似事が現実化したというわけで、〝夢〟は〝見る〟ものではなく〝手にする〟ものであるという証しを身をもって示して見せた」。北の富士は歌がうまく、大関時代には『ネオン無情』というレコードも出している。マスコミからは〝夜の帝王〟というニックネームを献じられた。村松氏は「北の富士本来のセンスが、遊びの場で出会う人々によって、さらに肥やされ、磨かれ、洗練され、醸成されていった」とみる。2人の名横綱を育てた手腕については「他の名伯楽とのちがいは、その〝人間味満開の男道〟による指導スタイルの師匠というところにあるのではなかろうか」。そして「派手な〝求心力〟と、その裏側にある求心的な〝実〟との一体化によって、北の富士流は成り立っているにちがいない」。

【追記】1月8日から始まった2017年初場所、初日のテレビ解説者は北の富士とともにNHK専属解説者の舞の海秀平さんだった。ということは2日目の9日は北の富士? そう思いながら9日の朝刊スポーツ面を開いたところ片隅に「北の富士さんが心臓を手術」という小さな記事。それによると、12月末に心臓手術を受け現在療養中のため初場所の出演は見合わせることになったとのこと。今場所でも味のある名解説を期待していただけに残念。3月大阪場所ではまた元気な着物姿を見せてほしいものだ。

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<BOOK> 「外国人がムッとするヤバイしぐさ」

2016年12月29日 | BOOK

【ジャニカ・サウスウィック、晴山陽一共著、青春出版社発行】

 ジャニカ・サウスウィックさんは米国のユタ州出身。上智大学を卒業後、15年以上にわたってNHKの「基礎英語」「えいごリアン」などに出演する傍ら、タレント事務所、キッズ英会話教室なども経営。著書に『ジャニカの5秒で返信!英会話』などがある。共著者の晴山陽一氏は早稲田大学卒業後、出版社に入り英語教材の開発を手掛け、1997年に執筆活動のため独立。著書に『たった100単語の英会話』『英単語速習術』など。

       

 ジャニカさんは本書執筆の狙いを「はじめに」の中で「日本のよさを知らない外国人たちから、いわれのない誤解を受けないための『必要最小限のアドバイス』をしたいと思い」と記す。ジャニカさんが英語で書いたそれらのアドバイスを晴山氏が訳し編集した。誤解を招きやすい日本人の「ヤバイしぐさ」全73項目を、危険度別に「絶対ダメ!」レベルから「私なら許すけど!」レベルまで5段階に分けて紹介する。

 危険度レベル5の「絶対ダメ!」は全部で15項目。その一部を列挙すると――「中指使い」は見るのもイヤな危険なしぐさ▽鼻をすする日本人に、心の中で「オェ~」▽弱々しい握手は印象最悪…ホントに気持ち悪いんです▽ゲップをするくらいなら、オナラのほうがまし!▽日本人の「OKサイン」にドキッ!▽外国人の子どもの頭は、なでてはいけません!▽約束の時間より前にやってくるのは迷惑です!――など。危険度レベル4の「やめてください!」には▽なぜ、笑うとき口を手でふさぐの?▽写真を撮るときに、ピースサインって…▽声をかけずに、人の前をスッと横切る▽「すみません」「すみません」と言いすぎ!▽愚妻や愚息など、家族のことを悪く言う▽下ネタ連発もNG! まだまだ見かけるセクハラ行為――など。

 レベル3の「以外かもしれないけれど!」、レベル2の「気をつけて!」には▽プレゼントをもらっても、その場で開けないのはナゼ?▽ブランドものを見せびらかしすぎます▽パーティーなどに夫婦同伴で来ない▽「つまらないものですが」は日本人同士に限って▽音を消すためにトイレの水を2回流す▽なぜ日本人は、人前であんなに酔っ払うの?▽目が合ったのに、挨拶せずにスルーって…▽混んだ電車の中で人に触れてもダンマリ――などが並ぶ。「私なら許すけど!」のレベル1は、▽乾杯するとき、グラスをカチンッと合わせる▽会席のとき、座る位置に異常にこだわる▽食べるとき皿や器を持ち上げる――など。

 本書を通じて何気ない日本人の仕草や行動の中に、欧米人の目には奇異や不快に映るものが実に多いことに改めて気づかされた。日本人の美徳の一つとされてきた謙遜する態度も欧米人には分かりにくく、逆に自信のなさや弱々しさを感じさせているようだ。日本と欧米の文化や風習、生活習慣などの違いもあるけど、率直な指摘にはやはり謙虚に耳を傾けるべきだろう。

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<BOOK> 「江戸時代人物画帳 シーボルトのお抱え絵師・川原慶賀の描いた庶民の姿」

2016年12月06日 | BOOK

【小林淳一編著、朝日新聞出版発行】

 江戸時代後期に長崎・出島のオランダ商館付き医師として来日したドイツ人医師・植物学者シーボルト(1796~1866)。在日中に多くの植物を採集し『日本植物誌』を著したが、その写生原画の多くを描いたのは川原慶賀(1786~没年不詳)らのお抱え絵師だった。川原は〝シーボルトの眼〟になって風俗画や風景画、肖像画なども描いた。本書は1826年にオランダ使節の江戸参府に同行した川原が描いた109点の人物画を、服飾史や民俗学の学者、シーボルト研究家たちの解説付きで1点ずつ詳しく紹介する。

       

 オランダ商館長らの江戸参府は11代将軍徳川家斉に拝謁するのが目的で、1826年2月15日に江戸に向けて長崎を出発した。総勢57人の日本人の随員も同行した。往路55日、江戸滞在37日、復路51日という全143日の旅程。この間に川原が描いた人物画109点は全て紙本着彩で1冊の画帳に閉じられていた。描かれたのは女房、花魁(おいらん)、花嫁、力士、農夫、猟師、獅子舞、人形遣い、大道芸、煙草売り、醤油売り、老若男女の旅姿など実に多彩。ただ武士は一人も登場しない。

 109人の中に大井川の「川越人足」の刺青(いれずみ)姿を描いたものが6点もある。刺青はシーボルト来日前後の文化・文政年間(1804~30)に最も隆盛を極めたという。シーボルトにとってもとりわけ興味深いものだったのだろう。描かれた刺青の絵柄は雲竜・雷神・桜など様々だが、中でも「幽霊と卒塔婆」の刺青は不気味でおどろおどろしい。右腕に墓石と卒塔婆、左腕に南無阿弥陀仏、尻に髑髏(どくろ)、背中に笑う幽霊が彫られている。熊の毛皮をまとって小熊を連れた行商の「熊の胆(くまのい)売り」や「鯨取り」「鳥刺し」「盲目の三味線弾き」などもシーボルトの目を引き付けたのだろう。

 女性の帯に蝙蝠(こうもり)の図柄が描かれたものが2点ある。「身づくろいをする遊女」と「長崎の髪結い」。蝙蝠は西洋では不吉な動物。ただ日本ではかつて蝙蝠の蝠の音が福に通じることから吉祥の意味を持つとして浴衣などの模様として好まれ、錦絵などにも描かれた。シーボルトはこの蝙蝠の模様を珍しく思って川原に描かせたのだろうか。シーボルト研究家の宮坂正英氏が「人物画帳」の中で出色の出来栄えと評するのが「長崎の芸者」。左手に三味線を持ち極上の着物を身に着けた芸者が優美に描かれている。江戸時代唯一貿易を許された長崎には高価な嗜好品や贅沢品が多く運び込まれ、特に織物は豊富で長崎の遊女や芸者の装いは流行の先端を行く豪華なものだったという。

  「川原慶賀は時として多分に想像を交えた絵をシーボルトのために描いた」(民俗学者の小林淳一氏)。画帳の中に着物を盗み出した黒覆面・黒装束姿の「泥棒」があるが、この絵についても「盗賊を見つけて写生したのではなく、(当時の人々に共有されていた)そのイメージを描いたと考えるべきである」(日本近世演劇研究者の武井協三氏)。裕福な商家の若い女性を描いた「娘」では晴れ着の裾から赤い蹴出しと素足がのぞき、美しい年増の女性を描いた「女房」では裾がはだけ不自然な形で赤い色が見える。「子守の娘」や「古着屋の女」には日傘が描かれているが、「この時代、贅沢をするのは禁止されていて、日傘もその例外ではなかったのだが」(民俗学者の近藤雅樹氏)。川原が描いた「109態」は190年前の庶民の姿を振り返るうえで貴重な資料だが、専門家の目にはちぐはぐな点が気にかかる〝研究者泣かせ〟の作品も多く含まれているようだ。

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<BOOK>中公新書 「ショパン・コンクール 最高峰の舞台を読み解く」

2016年12月01日 | BOOK

【青柳いづみこ著、中央公論新社発行】

 5年に1回ショパンの故郷ポーランドのワルシャワで開かれる「ショパン国際ピアノコンクール」。ポリーニ、アルゲリッチ、ブーニン……。優勝者には錚々たる名ピアニストが名を連ねる。ただ日本人は内田光子の第2位(第8回=1970年)が過去最高。直近の2015年の第17回では小林愛実が10人のファイナリストに残ったが、残念ながら入賞(6位以内)を果たせなかった。著者はピアニスト兼文筆家で、日本ショパン協会の理事も務める。第17回コンクールでは春の予備予選から秋の3週間にわたる本大会まで、現地で世界中から集まった若きピアニストたちの熱演に耳を傾けた。本書はその観戦記。

       

 著者がこのコンクールに興味を持ち本書執筆のきっかけにもなったのが2010年第16回大会での〝予備予選追加招集事件〟。この年は書類・DVD審査でいったん予備予選参加者が応募者のほぼ半数に当たる160人に絞られた。ところが実力者が含まれていないというある審査員の抗議で、その人物を含め55人が追加された。審査員たちの言い訳は「DVDの画質・音質が良くなかった」。そして激戦を制し優勝したのはこともあろうにその実力者、ユリアンナ・アヴデーエワ(ロシア)だった。女性としてはアルゲリッチ以来2人目という快挙。スポーツのような客観的な勝敗の基準がない音楽の審査の難しさを象徴する出来事だった。

 第17回は下馬評の高かった韓国のチョ・ソンジンが優勝した。15歳の若さで「浜松国際ピアノコンクール」を制した実力者。日本での知名度も高い。ところが結果発表の数日後に明らかになった審査員の採点表が物議を醸した。ある審査員がチョに対し10点満点で最下位の1点しかつけていなかった(他の審査員は10点2人、9点12人、8点1人、6点1人)。しかもこの審査員は第3次予選(セミファイナル)でもチョに対し唯一人次のファイナルには進めないという「NO」の裁定を下していた。ファイナルの1位と2位の合計得点の差は僅か5点。不当に低い点数をつける審査員が複数いたら、どう転んでいたか分からなかった。

 ファイナリスト10人はオーケストラとの協演でショパンのピアノ協奏曲第1番か第2番を弾く。第2番を選んだのは2位のシャルル・リシャール=アムラン(カナダ)だけ。そのリハーサルのとき、第1楽章を通したところでオーケストラの部分練習が始まったという。著者は「コンテスタントにとって貴重なリハーサルの時間をオーケストラの練習に使うとは、権威あるコンクールの場で起きることだろうか」と疑問を呈す。そして本番は「オーケストラに気を使うあまりソロのときの伸びやかさをやや欠く演奏になった」。もしアムランがみんなと同じ第1番を選んでいたら……。

 入賞にいま一歩届かなかった小林愛実については「ラウンドごとに進化した姿をみせ、ファイナルの協奏曲では、小さな身体でオーケストラを包みこむような演奏を聴かせてくれた。ツボにはまったときのアイミ・コバヤシのすごさを見る思いだった」。昨年秋、著者は横山幸雄(1990年の第12回に3位)とコンクールを振り返った。そこで2人は「楽譜に忠実」であるのは必要だが日本人はもっと自分の解釈に積極的に関わる努力も必要、手が小さいことを悟られないような奏法や選曲を工夫する必要もある――などで意見が一致したそうだ。「あとがき」の書き出しがおもしろい。「よく仲間うちで冗談に、もしショパンがショパン・コンクールに出場していたとしても絶対に一次予選で落ちるね……と言い合うことがある」

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<BOOK> 「愛の讃歌 エディット・ピアフの生きた時代」

2016年11月08日 | BOOK

【加藤登紀子著、東京ニュース通信社発行】

 今年はフランスの国民的歌手、エディット・ピアフの生誕100年に当たる(正確には2015年12月19日からの1年)。パリの路上で生まれたピアフは売春宿を経営していた父方の祖母に引き取られ、赤貧の中、10代半ばで街頭で歌い始める。その境遇は同じ年の1915年に生まれた米国のジャズシンガー、ビリー・ホリディと重なる。薬物中毒、結婚・離婚の繰り返し、4度の自動車事故、ナチスドイツのパリ侵攻……。ピアフは数々の苦しみを乗り越えて力強い魂の歌声を残し、1963年10月11日短い生涯を閉じた。享年47。

     

 そのピアフを加藤登紀子心から敬愛する。1965年に日本アマチュアシャンソンコンクールで優勝。以来、歌手活動は半世紀にわたるが「ピアフに魅せられた50年」と振り返る。ピアフは加藤が20歳になる直前に亡くなった。「繰り返し流れたピアフの『愛の讃歌』、ステージ上で倒れながらも歌う姿…。刺激された私は大あわてで恋をし、一気にその恋にのめりこんだ」と激白する。今年はピアフ生誕100年の記念公演「ピアフ物語」を6~7月に山形、大阪、高崎、東京で開催、さらについ最近11月3日にはパリでも21年ぶりに公演を行った。加藤自ら脚本、演出、日本語訳の全てを手掛け、ピアフに捧げるオリジナル曲『名前を知らないあの人へ』なども披露。パリ公演では『私は後悔しない』などピアフの代表曲を作ったシャルル・デュモンも駆け付けたそうだ。

 本書は「ピアフの誕生」「ヒトラーの時代」「戦後のピアフ」など5章構成で、ピアフの激動の生涯を辿る。読み進む中で、ピアフがいかに多くの名高い音楽家を掘り起こし世に送り出したかを知った。イブ・モンタン、シャルル・アズナブール、ジョルジュ・ムスタキ、ジルベール・ベコー…。加藤はそこに「不思議な共通点」があると指摘する。その共通点とは「みんな異国の人、移民の子供」ということ。「彼らのシャンソンはその異民族の血の素晴らしい開花と言えます」。ピアフ自身の中にもベルベル族の血が8分の1入っていたという。

 ピアフの代表曲として有名なのが『愛の讃歌』や『バラ色の人生』。これらの名曲が生まれたときの秘話も興味深い。『愛の讃歌』(作詞ピアフ、作曲マルグリット・モノー)は最初イヴェット・ジローに進呈していた。だが当時の恋人でボクサーのマルセル・セルダン(元世界ミドル級王者)が飛行機事故で突然亡くなった後、自らレコーディングすることを決めイヴェットに発売の延期を求めたという。ピアフ作詞・作曲の『バラ色の人生』はイブ・モンタンとの恋を歌ったものといわれるが、レコーディングしたのはモンタンと別れた後だった。この歌も周りからピアフが歌うには平凡で陳腐と言われ、最初は別の女性歌手にあげてしまっていたそうだ。

 ピアフが亡くなったとき、200万人もの人たちが霊柩車を見送ろうとパリの沿道を埋め尽くしたという。最も棺の近くにいたのがハリウッドスターのマレーネ・デートリヒ。14歳年下のピアフと、ヒトラーの帰国命令を拒否し連合軍の兵士としてナチスに立ち向かったマレーネは生涯深い友情で結ばれていた。「戦争と破壊の20世紀を果敢に生き抜いた二人の人生と歌。マレーネの生き方が、ピアフの歌が、人々をどれだけ励まし、力づけてきたのか」。

 ピアフが亡くなった1963年の秋には米国公演が控え、ホワイトハウスでJ.F.ケネディの前でも歌う予定だったという。そのケネディもピアフの死から約1カ月に暗殺されてしまう。加藤は「ピアフの人生を歌うことは、悲しみの中から生きる気力が燃え上がる、その炎を体の中に感じること」という。(わが家唯一のピアフのCDは「EDITH PIAF SPECIAL COLLECTION」。ヒット曲14曲入りで、1曲目が『愛の讃歌』、最後の14曲目が『バラ色の人生』。そのCDを聴きながら)

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<BOOK> 「江戸の悪 浮世絵に描かれた悪人たち」

2016年09月27日 | BOOK

【渡邉晃著、太田記念美術館監修、青幻舎発行】

 正義の味方や英雄が輝きを放つのも、存在感を発揮する悪役がいてこそ。それは江戸時代の歌舞伎や人形浄瑠璃でも、現代の映画やテレビドラマでも相通じる。浮世絵は江戸時代の有力な情報媒体。三代歌川豊国(国貞国芳)、月岡芳年ら浮世絵師も競って悪役たちを描いた。「当時の人たちは現実、虚構を問わず、『悪』の持つ魅力に好奇心を抱き、時に酔いしれた」(本書「はじめに」から)。

        

 本書の原型は1年前に太田記念美術館で開かれた「江戸の悪」展。出品作に図版を追加し、解説を加筆してまとめ上げた。取り上げた悪人は〝多士済々〟。大盗賊の石川五右衛門や鼠小僧次郎吉から、忠臣蔵の敵役吉良上野介、四谷怪談の民谷伊右衛門、放火犯の八百屋お七、飛鳥時代の豪族蘇我入鹿まで、実に多彩な人物が登場する。ユニークなのは〝悪人度〟を星一つから極悪の星五つまで5段階で評価していること。

 悪人度最高ランクの1人に民谷伊右衛門。三代歌川豊国の浮世絵「東海道四谷怪談」が添えられている。戸板の両側に括り付け川に流したお岩と小平の死骸が早変わりする〝戸板返し〟の仕掛け絵。解説でも「多く登場人物を躊躇(ためら)いもなく殺す、悪人中の悪人と言える」と断じる。その他の星五つには蘇我入鹿、菅原道真を讒言で大宰府に左遷させた藤原時平、極悪非道の町医者村井長庵、歌舞伎の伊達騒動物に登場する仁木弾正、お家乗っ取りのため後家をはじめ大勢を手に掛けた立場の太平次ら。

 ちなみに石川五右衛門や「仮名手本忠臣蔵」の高師直(吉良上野介)、「播州皿屋敷」で知られる浅山鉄山は星四つになっている。石川五右衛門の釜茹で場面を描いた歌川国芳の「木下曽我恵砂路」は燃え盛る炎と煮えたぎる熱湯の描写が迫力満点。その釜の中で五右衛門が倅の五郎市を頭上高く掲げる。暴君のイメージが強い平清盛や放火の罪で火炙りとなった八百屋お七は星三つ。本能寺の変の明智光秀、義賊的に描かれることが多い鼠小僧、国定忠治、雁金五人男、毒婦高橋お伝、「安珍・清姫伝説」の清姫は星二つ、侠客の元祖ともいわれる幡隋院長兵衛や「清玄桜姫物」の清玄は星一つになっている。

 悪人度の判定基準となったのは殺した人数や反省の有無など。昨年の展覧会でも悪人度を表示したが、盗んだ金額の多さから星5つを付けた鼠小僧について「義賊だから、そんなに悪くない」という意見が来場者から多く寄せられた。また星2つの「安珍・清姫」の清姫については逆に「これは五つだ」という声があったそうだ。著者も本書の「おわりに」で、悪人に対する見方は「個人の体験や価値観によっても大きく左右される」と認める。悪人の評価は時代によっても変化する。結局、悪の程度を測る尺度は人それぞれで構わないということだろう。それでも悪人度として数値化する試みはユニークであり痛快でもある。本書に登場した悪人の一部からは「俺が星五つでなく、なぜ三つだけ」といった不満の声が聞こえてくるようだ。

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<BOOK> 「明日に向かって 病気に負けず、自分の道を究めた星奈津美のバタフライの軌跡」

2016年09月21日 | BOOK

【田坂友暁著、ベースボール・マガジン社発行】

 日本競泳女子のバタフライの第一人者、星奈津美。200mバタフライでは日本選手権を7連覇、まさに敵なしだ。今夏のリオデジャネイロ五輪でもロンドンに続いて2大会連続銅メダルを獲得した。日本の女子競泳界で五輪2大会連続メダルはあの前畑秀子と中村礼子だけ。史上3人目の快挙だ。星は決勝後のインタビューで涙ぐみながら「最後はもう腕もかけなくなる、足も蹴れなくなるというぐらいまで初めて出し切れたと思うので、本当に悔いはない」と語った。メダルは完全燃焼の結果だった。

       

 本書の初版発行日はリオ五輪開幕直前の2016年7月30日。200mバタフライ決勝が日本時間8月11日だったので、その僅か10日ほど前ということになる。8章構成。スイミングスクールに通い始めた2歳の頃から、リオ五輪直前の今年6月の大会ヨーロッパグランプリまで、二十数年の水泳人生を星自身のその時々の思いを盛り込みながら辿る。8つの章のタイトルは「出会い」に始まり「病魔」「くやしさ」「飛躍」「苦難」「転機」「責任感」と続き、最終章の「未来」で終わる。その軌跡はまさに「山あり谷あり」だった。

 星は悔しさを飛躍のバネにしてきた。その悔しさは数知れない。中学時代の2度の4位、高校3年生で出場した北京五輪の準決勝敗退、100分の1秒差でメダルを逃した2010年上海世界水泳選手権での4位……。星はその結果を「神様が与えた試練なんだ、って考えるようにした」。そして迎えたロンドン五輪。銅メダルを獲得したものの、自己ベストに及ばない記録での結果に納得できなかった。2013年バルセロナ世界水泳選手権ではまたも4位。2年後の2015年夏、カザン(ロシア)世界水泳選手権でようやく悲願の金メダルに輝く。そしてリオ五輪の代表内定第1号に。五輪のちょうど1年前のこと。ところが、それがかえってプレッシャーに。長くモチベーションを保つのも容易ではなかった。

 星にはもう一方で病魔との闘いも続いた。初めてバセドー病と診断されたのは高校1年生の冬。以来、定期的に検査を受けホルモン値を調整する薬を飲み続けた。だが、2014年夏、ホルモン値のバランスが崩れて病状が悪化。星は甲状腺全摘出を決断し、同年11月手術を受けた。最終目標のリオ五輪から逆算すると、ぎりぎりのタイミングだった。2015年シーズンからは平井伯昌コーチの指導を受け始め、練習環境も一変。さらに今年5月には腰痛も発症した。6月のヨーロッパグランプリの記録が振るわない中、平井コーチが胸の内をじっくり聞いてくれた。平井コーチは星の悩みや不安を聞いたうえで「リオ五輪までの残り2カ月は俺に任せろ」と言ってくれた。「それですごくホッとしたというか、結構前向きな気持ちになれた」という。

      ☆☆☆      ☆☆☆      ☆☆☆     

 そして迎えたリオ五輪。200mバタフライの星の記録は予選が2分07秒37、準決勝は全体の4位の2分06秒74。2012年の日本選手権で出したベストタイム2分04秒69(現日本記録)には遠く及ばない。星は準決勝まで「思うような動きが出せなくて、すごく不安な部分が出てしまった」と決勝後のインタビューで振り返った。決勝を迎えるまでに母真奈美さんをはじめ多くの人から応援メッセージをもらった星は「改めて自分がやるべきことはこの決勝の舞台でしっかり自分の力を出しきることだと思った」。決勝タイムは2分05秒20。前回のロンドン五輪後ではベストタイムだった。メダルの色はロンドンと同じだが、4年前に感じたような悔しさはもうない。表彰台の表情は実に晴れやかで充実感にあふれていた。決勝レースから10日後の8月21日。26歳の誕生日を迎えたその日、星は会社員の男性と結婚した。母親同士が親友という。男性は星がバセドー病手術で入院したとき連日通って力づけるなど星を支え続けてきたそうだ。

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<BOOK> 「大和のたからもの」

2016年07月20日 | BOOK

【岡本彰夫著、写真・桂修平、淡交社発行】

 著者岡本氏は1954年奈良県生まれ。国学院大学文学部神道科を卒業後、春日大社に奉職し2001年から権宮司。15年退職し、現在は奈良県立大学客員教授。日本文化、とりわけ奈良の伝統文化への造詣が深く、著書に『大和古物散策』『大和古物拾遺』『神様にほめられる生き方』などがある。

       

 「大和のいのり」「大和のいとなみ」「大和のたくみ」の3章構成で、長い伝統の中で生まれた神具や彫像、書や絵画、焼き物などの美術・工芸品を、制作者の匠の技とともに紹介する。岡本氏が本書を執筆した背景には「(大和は)古代の文化遺産に恵まれ過ぎて近世・近代をかえって軽んじてしまう」(あとがき)風潮への危惧がある。「大和の近世・近代の匠や物の研究はまだまだ不充分」と指摘する。

 本書には奈良にゆかりのある各分野の著名人が登場する。俳人の會津八一、文人画家の柳里恭、赤膚焼の奥田木白、彫刻師の森川杜園、陶芸家の富本憲吉……。その一方で、日の当たらない人や忘れ去られた人たちにも焦点を当てた。

 画家・堀川其流(きりゅう)は一畳ほどの画面いっぱいに無数の鹿を配置した「千疋鹿(せんびきじか)」を描いた。その大胆な構図と一匹一匹異なる容態につい見入ってしまう。師匠は「鹿を描けば右に出るものなし」といわれた内藤其淵(きえん)。その内藤の絵の師匠だったといわれるのが菊谷葛陂(かっぴ)。『大和人物志』(1909年)の紹介は「圓山應擧に就きて畫を學び、花鳥を善くせりといふ」と短いが、岡本氏は菊谷について「実はとんでもなお四条派の画家」とし「今後研究すべき奈良の画描きの一人」と強調する。

 岡橋三山は極小の〝細刻職人〟。自作の茶杓に、ルーペで見ても読みづらいほどの文字で般若心経などを刻んだ。しかもなんとか彫ったというのではなく達筆というから驚く。かの有名な彫刻家、市川銕琅(てつろう)をして「あの技は誰にもマネ出来ん」と唸らせたそうだ。安井出雲はかつて「三国一の土人形師」と称されたが、今では忘れ去られた存在。富士山が好きだったらしく、富士をかたどった置物・香炉などを残した。陶芸家の黒田壷中(こちゅう)は沖縄で父と「琉球古典焼」を始め、故郷の大和に戻ってからは人形などの作陶に励んだ。清貧に甘んじ余技として土産物の埴輪や土鈴を作って糊口を凌いだという。

 画家や文人、陶芸家らの中で1人異色の人物が取り上げられている。「孝女もよ」。生まれてすぐ農家の養女になり9歳から病身の養母の看病に当たった。薬代を賄うため農作業や看病の合い間には、奈良晒用の麻糸紡ぎにも精を出した。村役人たちが孝行ぶりを領主に知らせたことから、11歳のときに藩侯からごほうびを授かる……。江戸中・後期の心学者、鎌田一窓はその行いを後世に伝えようと『和州和田邑孝女茂代傳』(1781年)を上梓した。その1ページ目の写真と、もよが書いた「唯」一字の墨書が添えられている。岡本氏は「こんな世の中でこそ、再び孝子や孝女に思いを馳せたい」と思いを記す。

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