く~にゃん雑記帳

音楽やスポーツの感動、愉快なお話などを綴ります。旅や花の写真、お祭り、ピーターラビットの「く~にゃん物語」などもあるよ。

<渥美清> 「お遍路が一列に行く虹の中」

2023年08月04日 | BOOK

【没後27年、『風天 渥美清のうた』に220句収録】

 新型コロナ禍による在宅時間を利用し、この3年ほど多くの映画(DVD)を視聴した。その中には『男はつらいよ』シリーズを中心に渥美清出演作60本ほども。この間 、関連本にも目を通した。『お兄ちゃん』(倍賞千恵子著)、『「男はつらいよ」の幸福論』(名越康文著)、『風天 渥美清のうた』(森英介著)……。渥美清が生前「風天」の俳号で多くの俳句を残していたことを知ったのも『風天 渥美清のうた』のおかげだ。8月4日は“風天の寅さん”の命日。没後27年目に当たる。

 

 渥美清が俳句づくりを始めたのは40代半ばごろ。永六輔に連れられてアマチュアの俳人仲間でつくる「話の特集句会」に参加したのが始まりという。その後も「アエラ句会」「たまご句会」「トリの会」と渡り歩きながら、晩年まで20年余にわたって句作を続けた。「えっ、あの寅さんが俳句!」と興味を抱いたのが森英介氏。ゆかりの人々への丹念な取材を通じて寅さんの作品220句を掘り起こし、著書『風天 渥美清のうた』に収録した。

 寅さんは「どうやら仕事を離れた気の置けない仲間たちとワクワク、ドキドキの言葉遊びの会を楽しんでいたようだ」。森氏は「若いときに片肺を摘出、健康不安を抱えながらも国民的スターに上り詰めた渥美にとって、数少ない魂の解放の場が句会だったのではないか」とも記す。(長野県小諸市「渥美清こもろ寅さん会館」には映画で使われた寅さんグッズ、国民栄誉賞の表彰状などのほか、「渥美清のかくれた芸」として俳句の短冊なども展示されているという)

 代表作の一つに「お遍路が一列に行く虹の中」。作ったのは1994年6月で、亡くなる2年ほど前だった。26年間続いた「男はつらいよ」のシリーズ最終作が95年12月公開の48作目。山田洋次監督は寅さんがお遍路に興味を持っていたことから、49作目を作るなら高知を舞台に田中裕子のマドンナ役で「寅次郎花へんろ」という作品を撮るつもりだったそうだ。

 風天句の中には小さな生き物を取り上げたものが多い。「赤とんぼじっとしたまま明日どうする」「蓑虫こともなげにいきてるふう」「ゆうべの台風どこに居たちょうちょ」「ひぐらしは坊さんの生れかわりか」。虫たちへの温かい眼差しが投影されているようだ。「乱歩読む窓のガラスに蝸牛」という句も。

 旅を句材としたものも目立つ。「村の子がくれた林檎ひとつ旅いそぐ」「そば食らう歯のない婆(ひと)や夜の駅」「雲のゆく萩のこぼれて道祖神」。渥美清が放浪の俳人といわれる種田山頭火や尾崎放哉に引かれ、自ら演じたいと願っていたというのは有名な話。

 風天句はどれも情景がくっきり目の前に浮かぶ。「好きだからつよくぶつけた雪合戦」「冬めいてションベンの湯気ほっかりと」「ステテコ女物サンダルのひとパチンコよく入る」「納豆を食パンでくう二DK」「ヘアーにあわたててみるひるの銭湯」「がばがばと音おそろしき鯉のぼり」……

 森氏は「多彩な句の材料、字足らず、字あまり、独特の発想、巧みな比喩、ユーモア、ペーソス、そして全編に漂う哀愁と孤独感……奔放自在な風天句には、やっぱり寅さん、いや渥美清の顔がくっきり刻まれている」と綴り、最後にこう結んでいる。「渥美清はきわめて孤独の人だが、その孤独をしっかり楽しんでいた粋な人でもあったということである」

コメント
  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

<硫黄島> 米軍上陸・開戦からちょうど76年

2021年02月19日 | BOOK

【昨秋には21回目の日米合同慰霊祭】

 2月19日。太平洋戦争末期の1945年のこの日、南海の孤島硫黄島(東京都小笠原村)に米軍の海兵隊が上陸を開始した。沖合には約800隻にも上る米軍の艦船。その数日前から日本陣地に激しい空爆と艦砲射撃を繰り返していた。米軍の中には「占領は時間の問題」という楽観論もあった。事実4日後には南部の摺鉢山山頂に星条旗が翻る。だが日本軍は長期持久戦で対抗、戦闘は3月25日まで続いた。日本軍は約2万1900人が戦死したとされる(生還は約1000人)が、一方の米軍の死傷者も約2万8700人(うち死者約6800人)に達した。

 日本軍を陣頭指揮したのは栗林忠道陸軍中将(1891-1945)。梯久美子著『散るぞ悲しき 硫黄島総指揮官栗林忠道』によると、指揮官に指名したのは首相の東条英機で、その際「どうかアッツ島のようにやってくれ」と言ったという。アッツ島の戦いは日本軍初の〝玉砕〟で知られる。しかし栗林は自ら起草した「敢闘の誓」の一項に「最後の一人となるもゲリラに依って敵を悩まさん」と記し〝万歳突撃〟を厳禁した。栗林が米軍を迎え撃つため練り上げた戦術が島全体の地下要塞化。手作業で掘った地下壕の全長は約18kmにもなった。だが1カ月余に及ぶ抵抗もむなしく最後を迎える。栗林は大本営宛ての決別電文に辞世の句を添えた。「国のため重きつとめを果し得で 矢弾尽き果て散るぞ悲しき」。最後の生存兵2人が投降したのは終戦から3年半後49年1月のことだった。

 日本守備隊の中に竹西一(1902-45)という軍人がいた。男爵だったため〝バロン西〟という愛称で呼ばれた。馬術障害飛越競技で1931年のロス五輪に出場し金メダルに輝いた国民的英雄だ。硫黄島には戦車第26連隊長として派遣された。西にとって総指揮官栗林は陸軍士官学校騎兵科の大先輩。城山三郎は短編『硫黄島に死す』で西の栄光の軌跡と壮絶な最期を描いた。「城山三郎 昭和の戦争文学」(全6巻)の第1巻冒頭に収められている。

 米軍上陸から6日目の2月25日、西部隊の兵士が逃げ遅れた米兵を撃った。西は倒れた米兵を「軍医の手に渡すと共に、自ら訊問に当たった。彼は母親からの手紙を持っていた。(母は、お前が早く帰ってくることだけを待っています)と、あった。西は、ふっと泰徳のことを思った。軍医に最善を尽くしてくれるようにたのんだ」。泰徳というのは西の長男。その米兵は翌朝死んだという。約1カ月後の3月20日、西部隊は火焔放射器による襲撃を受け、西は顔に重いやけどを負い片目を失った。2日後、西はその異様な形相で「突撃!」と壕を飛び出すと、300m先で機銃掃射を受け両足に貫通銃創を負った。西はそばにいた見習士官に「おれを宮城に向けてくれ」と命じた後、銃口をこめかみに当てると「隻眼でいたずらっぽく笑い、ついで、引金を引いた」。

 1974年秋、200人余の大型墓参団を乗せた大型船が東京・竹芝桟橋から硫黄島に向け出航した。船には西連隊長の長女も乗っていたという。この墓参を企画したのは元硫黄島警備隊司令だった和智恒蔵(1900-90)。戦闘が始まる前に本土帰還を命じられた和智は僧侶となって、残りの人生を日米両軍の慰霊のための活動に捧げた。その和智を主人公にノンフィクション作家上坂冬子は『硫黄島いまだ玉砕せず』を書いた。和智は「硫黄島協会」を設立したり、アイゼンハワー、ケネディ両大統領に日本兵の遺骨収集の嘆願書を送ったりした。和智の元に米兵が記念に持ち帰った日本兵の髑髏(どくろ)が郵送されてきたこともあった。和智と米国側の退役海兵隊員の尽力で、1985年2月には硫黄島で日米合同の式典が開かれた。和智の発案で「名誉の再会」と名付けられた。昨年秋には21回目の合同慰霊祭が行われている。

 硫黄島の戦いは文学作品の題材となったほか映画化も相次いだ。最初の映画はジョン・ウェイン主演の『硫黄島の砂』(1949年)。近年では2006年にクリント・イーストウッド監督の2本の米国映画が公開された。『父親たちの星条旗』では摺鉢山に星条旗を掲げた6人の家族や生還者のその後の姿を追っている。6人のうち3人は戦死し、生還者3人は帰国直後、戦争の経費を捻出する戦時国債の宣伝に駆り出された。ただ生還者の1人は家族に硫黄島について口にすることなく、一時は毎晩涙を流し続けた。別の1人はアルコールに溺れ何回も逮捕された。

 もう1つの映画『硫黄島からの手紙』は日本側からの視点で描かれた作品で、渡辺謙が総指揮官の栗林中将を演じた。上官の体罰を受ける西郷という若い日本兵を栗林が助ける場面から始まる。西郷を演じたのは二宮和也(嵐)。オーディションで監督の目に留まり、準主役に抜擢された。パン屋をやっていた西郷は身重な妻を残して召集された。栗林のメッセンジャー役として奔走した西郷は栗林から最後に「誰にも分からないように埋めてくれ」と託される。クリント・イーストウッドはこの2つの作品を通して何を描こうとしたのか。それは狂気というほかない戦争の愚かさや若者を送り出した家族の悲痛な叫び、そして生還者たちの癒えることのない心の痛みだったのではないだろうか。

コメント
  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

<BOOK> 「ほんとうはこわい 植物図鑑」

2019年01月11日 | BOOK

【監修・小林正明、絵・高橋のぞむ、大泉書店発行】

 植物の多くは一箇所に根を張り、生きるために水と光と二酸化炭素から養分を作り出す。だけど植物の中には肉食のものや根から他の植物の養分を盗むものもいる。毒や棘で身を守る植物や過酷な場所で恐ろしげな姿に変えて生き延びる植物も。本書ではそんなしたたかに生きる植物たちを愉快なカラーイラスト入りで紹介している。

     

 監修者の小林正明さんは1942年長野県生まれで、高校教員を歴任した後、飯田女子短期大学教授や信州大学農学部非常勤講師などを務めた。現在は「伊那谷自然友の会」の会長として自然保護活動に取り組んでいる。著書に『身近な植物から花の進化を考える』など。イラストを担当した高橋のぞむさんは1993年北海道生まれの生物画を得意とするイラストレーター・漫画家で、著書に『世界一ゆるい いきもの図鑑』がある。

 本書は「肉食でこわい」「毒がこわい」「武器がこわい」「寄生するからこわい」「生き物をあやつってこわい」「見た目がこわい」の6章で構成する。取り上げたのは内外の植物58種類。食虫植物のハエトリグサは葉の内側の毛に2回触ると0.5秒の早さで葉を閉じ虫を閉じ込める。水生のムジナモの反応速度はもっと早く獲物が毛に触れるとわずか0.03秒で葉を閉じる。ムシトリスミレは粘液を出す毛が密生した捕虫葉にアリなどがくっつくと消化液を分泌して溶かし養分として吸収する。

 グロリオサは〝炎のユリ〟とも呼ばれる情熱的な花姿が人気だが、全草に毒性を持ち、とりわけ塊茎部分の毒性が最も強い。ヤマイモに酷似しており、誤食による死亡例もあるそうだ。可憐なスズランも全草に毒を持っており、山菜のギョウジャニンニクと間違って食中毒を起こすことが多い。トリカブトはドクウツギ、ドクセリとともに日本三大有毒植物といわれる。かつて暗殺用によく用いられ、近年でも保険金殺人事件で使われたことで知られる。猛毒植物としてハシリドコロやトウゴマ、ベラドンナなども取り上げている。

 「武器がこわい」植物として紹介するのは棘に毒があるイラクサ、萼などに粘液を出す毛が密生するモチツツジ、硬い鉤爪の付いた果実が実るライオンゴロシ、葉の裏が鋭い棘で覆われ葉を食べる魚から身を守るオオオニバスなど。モチツツジは花粉を運んでくれない小さな虫を粘液を出すことで遠ざけていると考えられるそうだ。ライオンゴロシはアフリカの草原に生えるゴマ科の植物で、「デビルズクロー(悪魔の爪)」という英名を持つ。

 このほか「寄生するからこわい」ではアツモリソウやギンリョウソウ、ナンバンギセルなど、「見た目がこわい」ではアフリカ・ナミブ砂漠に生え和名で「奇想天外」と呼ばれるウェルウィッチア、石ころのような多肉植物リトープス(別名イシコロギク)、強烈な臭いを発する世界最大の花ラフレシア、真っ赤な血のような樹液を流すリュウケツジュなどを取り上げている。

コメント
  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

<BOOK> 『「あんたさん、どなたですか?」―世界初のアルツハイマー治療薬の開発に成功した杉本八郎物語―』

2018年08月27日 | BOOK

【大山勝男著、合同会社Amazing Adventure発行(オンデマンド版)】

 加齢による単なる物忘れと認知症による物忘れはどう違うのか。10年近く前「もの忘れ外来」を設けている大阪府下の病院の担当医に聞いたことがある。その時の答えは「認知症になると体験そのものを忘れ、今までできたことができなくなる。日常生活への支障の有無が大きな判断材料」。そして認知症の原因の約6割を占めるアルツハイマー病について、根治は難しいが薬物療法(塩酸ドネペジルの服用)にリハビリ、適切なケアを組み合わせることで進行を遅らせることは可能、と話していた。本書はそのドネペジル(商品名アリセプト)の開発を陣頭指揮した杉本八郎氏(1942年生まれ)の半生を追う。

     

 新薬の開発は長い研究期間と大きな投資を要する。臨床試験を経て発売に至る新薬は全体の6000分の1ともいわれる。そんな中で製薬会社エーザイの研究者だった杉本氏は在職中に2つの新薬の開発に成功した。その一つアリセプトは抗認知症の新薬として日本より先に米国や英国、ドイツで承認され、エーザイをグローバル企業に押し上げることに貢献した。今では世界95カ国以上で使われているそうだ。その新薬で〝薬のノーベル賞〟といわれる英国ガリアン賞特別賞や国内最高の発明表彰である恩賜発明賞も受賞した。定年退職後は京都大学や同志社大学で客員教授を務め、創薬ベンチャーの代表も兼ねる。

 新薬開発の裏には貧しい中で子ども9人を懸命に育ててくれた母親への深い思いがあった。その母が認知症を患って、訪ねるたびに「あんたさん、どなたでしたかね?」と尋ねられ衝撃を受ける。「私は母との対話を胸に秘め、この難病中の難病といわれているアルツハイマー型認知症に有効な新薬を開発することに、研究者としての使命感を鼓舞された」。ただ創薬の道のりは平坦ではなかった。杉本氏は「化合物の探索研究に4年、安全性を確認する開発研究に4年、動物やヒトでの臨床研究に7年近くの歳月が必要だった」と振り返る。この間、会社から2度も開発中止の厳命を受けたという。まさに苦節15年だった。

 アルツハイマー病患者は今世紀半ばに世界で1億人を突破するともいわれる。アリセプトはその治療薬として最も多く使われているが、あくまでも症状の進行を遅らせる対症療法の薬剤。いま世界の研究者や製薬企業は根本的な治療薬の開発にしのぎを削る。「3つの新薬を創るのが夢」という杉本氏にとっても今後の最大の目標が根治薬の開発。杉本氏はこれまでの体験から「創薬に成功するにはまず『志有りき』」とし、「挑戦はあきらめたら終わり、成功するまでやる! 成功者とはあきらめなかった人のこと」と語る。2017年2月には認知症の研究や啓蒙予防などに取り組むため、国内の認知症研究者らと共に一般社団法人「認知症対策推進研究所」を立ち上げ代表理事に就任した。

 本書は第1章「苦労の連続の母を見ながら育つ」~第5章「アルツハイマー根治の夢 新薬にかけ―」の5章+インタビュー記事で構成する。全編を通して杉本氏の新薬開発にかける執念にも似た一途の思いが伝わってきた。杉本氏は薬業剣道連盟の会長を務め、京都で単身赴任生活を送る。カラオケでは河島英五の『時代おくれ』や中島みゆきの『地上の星』をよく歌うという。人間味あふれるもう一つの素顔も親しみを感じさせてくれた。本書は認知症の根本治療薬の開発や新しい検査方法など世界の最前線の動きを知るうえでも大いに役立ちそうだ。膨大な医療・薬事関連の文献に当たって労作を書き上げた著者に敬意を表したい。

コメント
  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

<BOOK> 「聴導犬のなみだ 良きパートナーとの感動の物語」

2018年02月13日 | BOOK

【野中圭一郎著、プレジデント社発行】

 歩いていたら突然後ろから音もなくすぐ脇を車が通り過ぎてびっくり! エンジン音が小さいハイブリット車の登場で、同じような経験をした人は多いにちがいない。「耳が聞こえない人は日々、こんな怖い思いをしながら暮らしているのだ」。かつて出版社に勤めていた頃に聴導犬の訓練風景を目にしていた野中氏はふとそう思った。盲導犬に比べると聴導犬の認知度は低い。マイナーな存在の聴導犬のことをもっと多くの人に知ってほしい――そんな思いが本書の執筆に駆り立てた。

       

 聴導犬は耳が不自由な人たちのいわば耳代わり。訓練士が生後2カ月ほどの子犬を自宅で飼いながら訓練し、2歳前後になると希望するユーザーに引き合わせる。ユーザーがその犬と暮らす目途がついたところで、犬とユーザーが一緒に聴導犬の認定試験を受ける。著者は聴導犬と暮らすユーザーや訓練士への取材を重ねて「理想の聴導犬ブランカの大胆さ」「聴導犬になれなかったあづね」「鳥の鳴き声を教えてくれたあみのすけ」など9つの物語を紡ぎだした。

 そこに描かれているのは訓練士と聴導犬、ユーザーと聴導犬の強い絆と信頼感だ。ある訓練士はユーザーに渡すときの心境を「嫁に出す母親の気持ち」と表現し、ユーザーの一人は聴導犬を「天の恵み」「犬に姿を変えた如来」と形容する。ただ「聴導犬を持つということは、世話をしてもらうと同時に世話をすることも意味する」。聴導犬もやがて年老いて役割を果たせなくなってしまう。引退しペット扱いになると、ペット禁止のアパートにはもう住めない。そこであるユーザーは聴導犬の老後に備えペット可のマンションに引っ越したという。ユーザーが聴導犬より先に年老いたり病気で世話ができなくなったりすることも。やむなく訓練士が引き取りに行くと、聴導犬が「なんで(ユーザーも)一緒に来ないの?」といった表情で泣いていたそうだ。

 2002年施行の身体障害者補助犬法で、公共施設や乗り物、飲食店、病院、ホテルなどに聴導犬、盲導犬、介助犬を同伴できるようになった。外出するときには「聴導犬」と書かれたケープを身に付ける。ただ盲導犬に比べ聴導犬を目にする機会はまだ少ない。それもそのはず。実際にユーザーを手助けしている聴導犬は全国でまだ70頭にすぎず、盲導犬の950頭の十分の一にも満たない(2018年1月現在)。補助犬法の施行から既に約16年になるが、今でもなお「犬の同伴はだめ」と断られるケースも少なくないという。

コメント
  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

<BOOK> 「人生の気品」

2018年01月24日 | BOOK

【新日本出版社発行、著者=草笛光子、赤川次郎ら15氏】

 『しんぶん赤旗日曜版』の連載「この人に聞きたい」(2014~17年)に登場した著名人のインタビュー記事を加筆・修正したもので、16年に発行した『人生の流儀』の続編。今回も作家や俳優、映画監督、写真家、漫画家、物理学者など各界の一線で活躍する15人を取り上げている。女性が草笛光子、鳳蘭、渡辺えりら6人、男性が赤川次郎、宝田明、周防正行、梶田隆章ら9人。人生の転機や仕事にかける情熱、戦争や平和への思いなどを、苦労話やエピソードも交えながら率直に語っており、有名人の知られざる一面を垣間見ることもできる。

       

 長年、舞台・映画・テレビで活躍してきた草笛光子さんは「声量を自在に調節するには、背筋、腹筋が欠かせません。1に筋力、2に筋力です」と語る。「70代でも80代でも、いつまでたっても人生の〝新人〟なのではないでしょうか。いつだって転機。『新しく出発だわ』と思っています」とも。草笛さんは日本ミュージカル界の第一人者。本書の中で宝田明さんも草笛さんとブロードウェーで『マイ・フェア・レディー』を観劇した際のエピソードに触れている。草笛さんは人生の軌跡を日本経済新聞朝刊の「私の履歴書」でいま長期連載中。

 映画監督周防正行さんの代表作にあの『Shall we ダンス?』。「電車を降りてダンス教室という知らない場所に足を踏み入れたら、どういう世界が広がっていくか。そういうサラリーマンの冒険物語が、この映画のテーマだったんです」。作品の中には冤罪の痴漢事件を題材とした『それでもボクはやってない』もある。「裁判官や裁判員制度など、司法に関するテーマは今後もやりたい。僕のライフワークです」。『Shall we ダンス?』では本書に登場する渡辺えりさんもオバサンダンサー役で名演技を披露した。劇団「オフィス3○○(さんじゅうまる)」を主宰し演出家・劇作家としても活躍中の渡辺さんは「自分の演劇では、お客さんに『よし、明日もがんばろう』と思ってもらえるよう、連帯のエールを送りたい」と話す。

 前進座の看板役者で、2016~17年の創立85周年特別公演『怒る富士』で主役を演じた嵐圭史さんは「一に情熱、二に体力、三、四がなくて、五にいささかの知恵」をいつも自分に言い聞かせているそうだ。俳優・作家の高見のっぽさんは子どもを「小さいひと」と呼ぶ。幼少時に「私を悲しませたり痛めつけたり無作法で思い上がったりするようなおとなにはなりたくない」。だから子どもにも「言葉づかいも接し方も、自分の持っているうちの最高の礼儀正しさで敬意を表します」。ノーベル物理学者の梶田隆章さんは「国立大学法人化以降、多くの大学が急激に弱体化し、研究力が落ちています。手遅れになる前に、研究力回を打つことが必要」と、日本の研究環境への危機感を訴える。

 登場人物の中には出征したり幼少時を戦地で過ごしたりした人も多い。画家の野見山暁治さんは満州(中国東北部)の傷痍軍人療養所で終戦を迎えた。戦後、同郷の友人宅を訪ねると家族から「どうしてあなたは生き残っているんだ」と言われ、仏間で「なんでせがれも病気にならなかったんだ」と泣かれたという。野見山さんはその後、戦没画学生の遺作の収集に奔走し「無言館」(長野県上田市)開設に尽力した。宝田明さんも同じ満州で11歳の時侵攻してきたソ連兵の銃撃を受け、悲惨な引き揚げも体験した。渡辺えりさんには父の戦争体験を基に書いた『光る時間(とき)』という作品がある。戦後小学校の教師になったその父はよくこう口にしていたそうだ。「あの時、人を狂わせ、僕を軍国少年にした教育とは何か。その謎を解きたいんだ」。

 作家・精神科医の帚木蓬生さんの父は戦時中、香港駐在の憲兵で戦犯として巣鴨に収容された。「日本が外国を侵略した罪は消えません。前の世代がやったことだから、もう水に流そうというのは大間違いです」。渡辺美佐子さんの「戦後35年の『対面』」の話も印象深い。小学5年の時、転校してきた赤いほっぺの男児に淡い思いを寄せる。その男児に会いたい一心で、1980年にテレビのご対面番組で探してもらった。だが、カーテンの陰から登場したのは男児ではなく、そのご両親だった。男児は疎開先の広島で原爆に遭い12歳で亡くなっていた。遺体も遺品もなく、まだ墓も造れないと嘆くご両親は渡辺さんにこう声を掛けた。「あの子のことを覚えているのは家族だけと思っていたのに、35年も覚えていてくださり、ありがとうございます」。それをエッセーにした『りんごのほっぺ』は国語授業の教材にもなった。渡辺さんはその後、仲間の舞台女優たちと長年、原爆朗読劇に取り組んでいる。

コメント
  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

<BOOK> 朝日選書「髙田長老の法隆寺いま昔」

2018年01月15日 | BOOK

【髙田良信自伝、小滝ちひろ構成、朝日新聞出版発行】

 法隆寺の宝物や仏像を徹底的に調べ上げた『法隆寺昭和資財帳』(全15巻)の編纂など〝法隆寺学〟の確立に生涯を捧げた髙田良信長老(法隆寺第128世住職・聖徳宗第5代管長)。『私の法隆寺案内』『法隆寺の謎を解く』『法隆寺秘話』など一般向けの著作も多く、まさに学僧の名にふさわしい高僧だった。本書は小滝ちひろ氏(朝日新聞編集委員)が2016年の1月から年末まで計15回・約30時間にわたってインタビューしてまとめた髙田さんの半生の物語である。

       

 小僧として法隆寺に入ったのは1953年、12歳のとき。法隆寺ではその4年前の火災で焼損した金堂修理の真っ最中だった。地元の中学・高校に通いながら、境内で古い瓦を拾い集めたり天井裏に散在していた寺僧の位牌を調べたりした。〝瓦小僧〟という渾名を付けられ、後に自ら〝瓦礫法師〟と呼ぶように。こうした収集癖が後の昭和資財帳の編纂などにつながった。「私の『法隆寺学』は天井裏から始まった気がします」とも。天井裏から見つけたものの中に藤ノ木古墳の略図があった。髙田さんが「藤ノ木古墳=崇峻天皇陵説」を主張したのも、その図の中央に「崇峻天皇御廟」と記されていたことによる。

 昭和資財帳の編纂は1981年にスタートし、13年がかりで全15巻が完成した。その完成記念として全国5都市を巡回する「国宝法隆寺展」を開催、来場者は100万人を超えた。ただ「資財帳調査も単なる宝物調査ではなく、宝物類を法具として法会に生かすのが念願だった」。その言葉通り、中断していた様々な法会の復活に取り組んだ。慈恩大師(法相宗開祖)の遺徳を称える慈恩会、玄奘三蔵を偲ぶ三蔵会、お釈迦ざまの仏生会と涅槃会……。法要を復活するには趣旨を述べる「表白文」が必要だが、それらも全て自ら作った。法隆寺では過去にしていなかった仏様の〝お身ぬぐい〟も始めた。他にも百済観音堂の落成、寺紋の作製、『法隆寺史』の編纂、『法隆寺銘文集成』の刊行、法隆寺夏季講座の開催など、功績を数え上げるとまさに枚挙に暇がない。

 小滝氏によるインタビュー時、髙田さんは肺気腫のため酸素ボンベが手放せなくなっていた。書籍の出版計画を伝えると喜んでいたそうだが、2017年4月帰らぬ人に。享年76。本書が発行されたのはその半年後の10月だった。長女聖子(しょうこ)さんは「法隆寺の新たな資料や新事実を発見したときの、キラキラと少年のように目を輝かせて、喜びが身体から溢れでて止まらない様子は、娘の私も羨ましいほど輝いていました」と本書の「あとがきにかえて」に記す。棺の中で酸素チューブを外した髙田さんは「とても楽しそうで(略)生き生きとした立派な死顔」だったという。聖子さんは「劇団☆新感線」に所属する女優。髙田さんは俳優になることをなかなか認めなかったそうだが、今や劇団の看板として舞台・テレビ・映画で活躍中。2016年には優れた舞台人に贈られる「紀伊國屋演劇賞」個人賞を受賞した。

コメント
  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

<BOOK> 「伝説のコレクター 池長孟の蒐集家魂」

2017年12月20日 | BOOK

【大山勝男著、アテネ出版社発行】

 表紙の人物に見覚えがある人は多いに違いない、教科書にも載っていたから。そう、16世紀半ばにキリスト教を日本に初めて伝えたスペイン出身の宣教師フランシスコ・ザビエル。この肖像画が発見されたのは今から約100年前の1920年。かつて隠れキリシタンだった大阪府茨木市の旧家に伝わる〝開けずの櫃(ひつ)〟の中から見つかった。見つけたのが神戸の資産家で美術品収集家だった本書の主人公、池長孟(はじめ、1891~1955)だ。

       

 ノンフィクションライターの大山氏がその池長の存在を知ったのは、高知で牧野富太郎の植物記念館を訪ねたのがきっかけという。牧野の年譜で池長の経済支援を受けていたことや、池長が大山氏の母校である神戸の育英商業学校(現育英高校)の校長を長く務めていたことなどを知る。そして有名なザビエルの肖像が「池長の存在がなかったら陽の目をみることがなかった」(「あとがき」から)ことが分かり、以来、文献を渉猟し取材を重ねた。

 池長が幼少時に養子になった叔父の池長通は莫大な不動産を持つ資産家で、池長は養父の没後、受け継いだ資産の多くを社会に還元した。植物学者牧野への支援は膨大な植物標本が経済的な困窮のため散逸の危機に瀕していたことを新聞で知ったのがきっかけ。池長は標本を買い取って収蔵・公開する目的で神戸に「池長植物研究所」を開設した。

 だが牧野の標本整理は遅々として進まず、その中で京都大学への標本の寄贈案も浮上した。「学者ほど融通のきかぬものはなし」。池長は日記の中でこう本音を吐露したこともある。研究所は結局公開されることなく、標本類は牧野に返却することで決着した。この間、約25年の歳月を要した。牧野に関しては東京帝国大学時代の恩師松村任三との確執が有名だが、恩人池長との間でも深く長い溝が生まれていたわけだ。ただ池長が手を差し伸べていなかったら、貴重な牧野の標本類も散逸していたかもしれない。

 池長は安土桃山~江戸時代に約300年にわたり生まれた南蛮美術・工芸品を集中的に収集した。その中には「聖フランシスコ・ザビエル像」をはじめ「泰西王侯騎馬図屏風」「織田信長像」(いずれも重要文化財)など傑作も多い。ザビエル像の作者は不明だが、狩野派の絵師ともいわれる。池長は収集した5000点を超える作品群を系統的に分類・解説した労作『邦彩蛮華大宝鑑』を出版し、作品を展示する「池長美術館」も設けた。

 ところが終戦後、美術館はGHQ(連合国軍総司令部)に接収され、新設された財産税などで池長は一転経済破綻状態に。そのため池長は作品群の散逸を防ごうと収蔵品を美術館ごと神戸市に寄贈することを決断した。これに伴って池長美術館は1951年、市立神戸美術館となり、さらに没後の82年には〝池長コレクション〟を母体に神戸市立博物館が開館した。池長は晩年、東灘区の簡素な家で過ごしたという。池長自身はクリスチャンではなかったが、洗礼を受けた三男潤氏はカトリック大阪大司教区大司教を長く務め、日本カトリック司教協議会会長にもなっている。

 大阪・道頓堀の名物の一つにマラソンランナーが両手を広げゴールするグリコの看板がある。戦前の1935年に設置されたのが始まりで今の看板は5代目。ただ初代の看板はグリコ自体にも白黒写真しか残っていなかった。そのため色情報の提供を広く呼び掛けたところ、池長コレクションの中にカラー映像があることが分かった。映画好きの池長が米国製の十六ミリカラー映写機で京阪神の市街地を撮影していたもので、関係者を感激させたことは言うまでもない。池長にまつわる愉快なエピソードの一つだ。

 本書の副題は「身上潰して社会に還元」。池長も「身上潰して南蛮狂い」と自嘲するほど南蛮美術の収集に使命感を持ち資産をつぎ込んだ。「父は資財を投げ打って公共のために尽くした。この父の遺志が不知不識の間に私の心に乗り移っていた」「能力ある者は能力を、金ある者は金を、最大限に用いて世の中に役立ちたい」。池長は繰り返しこう述べ、こう書き残している。かつてバブル全盛期に芸術文化への支援活動を示す「メセナ」という言葉が持てはやされた。1990年には「企業メセナ協議会」も発足した(現在も活動中)。しかし巷からは「今やメセナは死語」という声も聞こえる。掛け声の「社会貢献」の裏で内部留保に血眼になっている企業の経営陣の方々にも手に取ってもらいたい一冊だ。

コメント
  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

<BOOK> 「写真民俗学 東西の神々」

2017年12月12日 | BOOK

【芳賀日出男著、角川書店発行】

 著者の芳賀氏は1921年、満州(中国東北部)生まれ、96歳。民俗写真家の草分けとして長年にわたり世界各地の祭りや民俗芸能を取材してきた。日本写真家協会創立者の一人でもある。1970年の大阪万博ではお祭り広場のプロデューサーを務め、73年には全日本郷土芸能協会を創立した。『日本の祭』『日本の民俗 祭りと芸能』『神さまたちの季節』『神の子 神の民』など多くの著書がある。

       

 本書はA5版312ページ。タイトルの「東西の神々」が示すように、世界各地の人と神々との多様な交わり・祭礼を「神を迎える」「神を纏(まと)う」「神が顕(あらわ)る」「神に供す」の4部14巻に分類して紹介する。掲載写真は400枚を超え、その大半を迫力のあるカラー写真が占める。「先輩や友人に恵まれたおかげでプロの写真家の一人に加わることができた。まさかこの年齢までカメラマンが続けられるとも、酒が呑めるとも思ってもいなかった。まあ、恵まれた人生なのだろう」。芳賀氏は巻末の「カメラを手にして九十年」の中でこう述懐する。本書は世界を旅してきた民俗写真家人生のまさに集大成ともいえる。

 民族や宗教が違っても、世界各地に日本とよく似た祭りがある――。本書を通読しての感想を一言で表現するとこうなる。例えば「来訪神」。日本では年の変わり目に様々な歳神が現れ子どもたちを諭す。秋田の「ナマハゲ」、能登の「アマメハギ」、下甑島(鹿児島県薩摩川内市)の「トシドン」……。一方、オーストリアの聖ニコラウスの祭りには全身を麦わらで覆ったり異様な鬼面を着けたりした魔物が登場し、スイスのクロイゼの祭りには体中に木の葉や岩苔を貼り付けた〝植物人間〟が出没する。

 「火」「仮面」「人形」「獅子」「巨人」などをキーワードとする祭りにも内外で類似点や共通点が多い。巨人の祭りは日本では鹿児島の「弥五郎どん」や三重県四日市市「大四日市まつり」の「大入道」などが有名。一方、海外ではスペイン・タラゴナの巨人の祭り、オーストリアのサムソンの祭りなど。1992年にスペイン・バルセロナで世界巨人博覧会が開かれ、日本からは「弥五郎どん」が参加したそうだ。「人々を魅了する巨人たち。姿は違えど、その大きな力に憧れ、縋(すが)り、崇める。巨人とは人類共通の『夢の現れ』ではなかろうか」(芳賀氏)。日本で法螺貝といえば山伏を連想するが、その法螺貝が祭りの楽器として広く東南アジア諸国やオセアニア、ハワイなど太平洋沿岸地域で使われていることも本書で初めて知ることができた。

コメント
  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

<BOOK> 「美宇は、みう。夢を育て自立を促す子育て日記」

2017年09月23日 | BOOK

【平野真理子著、健康ジャーナル社発行】

 女子卓球界のホープ平野美宇の活躍がめざましい。今年1月の全日本選手権シングルス決勝で石川佳純を破って史上最年少(16歳9カ月)優勝を飾ると、4月のアジア選手権(中国・無錫)も優勝、さらに6月の世界選手権(ドイツ・デュッセルドルフ)では日本人選手として48年ぶりのメダル(銅)を獲得した。とりわけ完全アウェーの中でのアジア選手権では準々決勝でリオ五輪の金メダリスト丁寧(世界ランク1位)を接戦の末に破ると、準決勝・決勝でも中国のトップ選手を次々に撃破した。「まさか」。そのニュースに接したときの感動と驚きは2年前のラグビーワールドカップで日本が強豪南アフリカを破ったときに優るとも劣らぬものだった。

       

 2000年4月14日生まれ。まだ17歳の高校生だ。3歳のとき卓球を始め、早くから「第二の愛ちゃん」と注目されていた。だが、昨年のリオ五輪では同学年のライバル伊藤美誠に先を越され日本代表落選の屈辱を味わった。その悔しさがその後の飛躍のバネの一つになっているのは間違いない。平野の夢は「オリンピックで金メダル」。強い精神力で目標に向かって進む平野はどんな家庭環境で育ったのだろうか。母で「平野卓球センター」(山梨県中央市)の監督を務める平野真理子さんは「親ばかと笑われるかも」と前置きしながら、平野には「努力する才能」が備わり「やると決めたらとことんのめり込む努力型」「ずば抜けた集中力が美宇の武器」と分析する。

 5歳のとき平野は記者から「第二の愛ちゃん」っていわれているけど、うれしいと聞かれた。そのときの返答が「美宇は、みう」。「そう、どんな時も美宇は美宇らしくあればいい。これ、私のお気に入りの言葉です」(真理子さん)。ということで、この言葉が本書のタイトルになった。平野は3姉妹の長女。副題が示すように、本書には子育てのノウハウがいっぱい詰まっている。「自分のことは自分で」「子の自立は親次第」「褒める・叱るのバランスは三対一」「前向きに物事を捉えるプラス思考」……。橋本聖子さん(参議院議員、日本スケート連盟会長)の言葉に「人間力なくして競技力の向上なし」があるが、真理子さんも「あいさつや返事、態度や言葉遣い、そして思いやりと感謝の気持ちを決して忘れないように」と口すっぱく言い聞かせてきたそうだ。

 平野のプレースタイルはこの1~2年、相手のミスを待つラリー志向の守備型から、攻撃的な速攻戦法に大きく変わってきた。平野は「今の壁を突き破って東京五輪に出場するためにはプレースタイルを変えるしかない」と自らの強い意志で決断したという。そのため強い足腰づくりへ体幹トレーニングを取り入れるとともに、メンタル面を鍛え直すため様々な分野や考え方の人と積極的にコミュニケーションするよう心掛けてきたそうだ。その努力が実を結び始めた。最新9月発表の世界ランキングは6位。日本人では5位の石川に次いで2番目(伊藤は7位)。ただ1~4位はなお中国の選手が独占しており、卓球王国中国の厚い壁が立ちはだかる。平野の当面の目標は年内の〝トップ3〟入りだ。

コメント
  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

<BOOK> 「全国の犬像をめぐる 忠犬物語45話」

2017年08月01日 | BOOK

【青柳健二著、青弓社発行】

 著者青柳氏は1958年山形県生まれの写真家。メコン川、中国雲南省、アジアのコメなどをテーマにアジア各地を飛び回った後、1999年から「日本の棚田百選」の撮影を始め各地の棚田を撮ってきた。主な著書に『棚田を歩けば』『アジアの棚田 日本の棚田―オリザを旅する』『メコン河―アジアの流れをゆく』など。2009年から1年かけ愛犬(ビーグル犬)と一緒に北海道から沖縄まで全都道府県を隈なく回った。その日本一周旅行で数多くの犬の像や墓、塚、碑などに出合ったのが本書出版のきっかけになった。

           

 忠犬で誰もがすぐ思い浮かべるのは東京・JR渋谷駅前の忠犬ハチ公像だろう。ハリウッド映画になったこともあって、その知名度は欧米人の間でも高い。本書では北から南へ45の忠犬物語を銅像の写真などとともに紹介しており、「忠犬ハチ公と上野英三郎博士像」は第24話に登場する。そこでは青山霊園にあるハチ公の墓や上野博士の出身地・三重県津市の近鉄久居駅そばに立つ像、2015年に東京大学農学部にできたばかりの上野博士に飛びつくハチ公の像なども取り上げている。その一つ前の第23話はタロとジロで有名な南極昭和基地に置き去りにされた樺太犬の話だ。

 忠犬像で多いのが主人を助けた犬。越後柴犬のタマは2回にわたって主人を雪崩から救い出し、盲導犬サーブは雪でスリップし突っ込んできた車から主人をかばって重傷を負い片足を失った。サーブの像は名古屋市の久屋大通公園や岐阜県郡上市などに立つ。江戸時代には飼い主に代わって伊勢神宮や金毘羅大権現(現在の金刀比羅宮)を参拝した〝代参犬〟がいたそうだ。福島県須賀川市には「市原家の代参犬シロの犬塚」、三重県伊勢市には「おかげ犬の像」、香川県琴平町には「こんぴら狗の像」がある。飼い主から旅人に託された犬は街道筋の人たちの世話になりながらお参りし、帰路も多くの旅人の世話になりながら飼い主の元に戻ったという。

 愛媛県松山市にある「目の見えないダンの像」の物語も感動的。ダンはダンボール箱で団地横の川に捨てられていた白い子犬。団地では動物は飼えない規約になっていたが、少女2人の熱い訴えから団地で飼うことになり、少女たちは目の見えないダンのことを紙芝居にした。それが紙芝居コンクールで最優秀に選ばれ、さらに小学校全校でダンの犬小屋づくりにも取り組んだ。その心温まる話は道徳の教材にもなったという。ほかに消防車に乗って1000回も〝出動〟した北海道小樽市の「消防犬ぶん公」、怪物から村人を救った長野県駒ケ根市の「光前寺の霊犬早太郎」や静岡県磐田市の「しっぺい太郎」、和歌山県九度山町の「高野山の案内犬ゴン」なども登場する。

コメント
  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

<BOOK> 「邪馬台国時代のクニの都 吉野ヶ里遺跡」

2017年07月05日 | BOOK

【七田忠昭著、新泉社発行】

 「遺跡には感動がある」をキーワードに新泉社(東京都文京区)が2004年に刊行を開始したシリーズ「遺跡を学ぶ」の1冊。佐賀県の吉野ヶ里遺跡は筑紫平野のほぼ中央部に位置する。その遺跡が一躍注目を集めたのは1989年1月。新聞やテレビで「邪馬台国時代のクニ」「魏志倭人伝に書かれている卑弥呼が住んでいた集落とそっくり同じつくり」と大々的に報じられた。それから約28年。邪馬台国論争は収束するどころか、激しさは増す一方。吉野ヶ里に関しては「邪馬台国とは無関係」「邪馬台国より時代が古い」といった声も聞こえる。こうした見立てに対し、著者七田氏は「はたしてそうか」と疑問を投げ掛け、「いまあらためて発掘成果と魏志倭人伝の記述を対照していくと数多くの共通点が浮かびあがってくる」と主張する。

       

 七田氏は1952年、佐賀県神埼市神埼町生まれ。まさに吉野ヶ里遺跡のすぐそばで幼少期を過ごし、遺物の収集に没頭したという。大学では考古学を専攻し、卒業後、佐賀県教育庁に入庁。1986~2008年の22年間、吉野ヶ里遺跡の発掘責任者を務めながら国営吉野ヶ里歴史公園の整備事業に携わってきた。吉野ヶ里への思い入れが人一倍強いのも当然のことだろう。遺跡の場所にはもともと佐賀県の工業団地が建設される予定だった。発掘調査が始まったのは86年5月。七田氏にとっては「自分の手で発掘できる期待感と、発掘が終了したら壊されるという遺跡の運命を感じながらの発掘調査となった」。

 調査が進むにつれ大規模な環壕跡や厖大な土器、甕棺(かめかん)、日本初の巴形銅器の鋳型などが次々に出土した。弥生時代(紀元前5世紀~紀元3世紀)の環壕集落が前期の2.5ha.から中期に20ha以上に、さらに後期には40ha超と、時代を下るにつれ「ムラ」から「クニ」に大きく発展する様子が明らかになっていく。後期の遺跡からは4基の物見櫓や弥生時代屈指の大きさを誇る大型建物、高床倉庫群などの遺構が出土した。こうした中で89年春、佐賀県知事が遺跡保存を表明。そのニュースを見て「これまでの精神的、肉体的な疲労も吹っ飛び、喜びがこみ上げてきた」。七田氏はその直前に佐賀を訪れ遺跡の重要性を強調した佐原眞氏(当時奈良国立文化財研究所指導部長)を〝吉野ヶ里の救世主〟として名を挙げる。吉野ヶ里遺跡は90年史跡に指定され、翌91年には特別史跡へ格上げされた。

 本書は5章構成で、1~4章では出土した遺構や遺物などから「ムラ」から「クニ」への変遷をたどり、最終5章で魏志倭人伝の記述と吉野ヶ里遺跡の発掘成果を比較検証する。その中で両者の共通点として、①弥生中期中ごろ前後に多くの戦闘の犠牲者が甕棺墓に埋葬された状態で出土する②卑弥呼が居住し祭事の場となった宮殿と邪馬台国の長官や次官たちが居住し政事を行った施設の両者がある構成は、まさに祭事の場である北内郭と高階層の人々のいる南内郭がある吉野ヶ里遺跡に極めて似ている③鉄製素環頭大刀や大型・中型の漢鏡などの出土は当地が長く対中国外交に深く関わっていたことを示す――などを挙げる。吉野ヶ里遺跡はいま国営吉野ヶ里歴史公園に姿を変え、年間70万人の観光客が訪れる。その中核の環壕集落ゾーンには集落が最も繁栄した弥生時代終末期(3世紀前半)の大規模集落が復元されている。その時期はちょうど卑弥呼が倭国の女王だった時代とも重なる。

コメント
  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

<BOOK> 「不滅の昭和歌謡 あの歌手にこの名曲あり」

2017年04月04日 | BOOK

【塩澤実信著、北辰堂出版発行】

 著者塩澤氏は昭和5年(1930年)長野県生まれ。双葉社取締役編集局長を経て東京大学新聞研究所講師などを歴任。元日本レコード大賞審査員。主な著書に「雑誌記者池島信平」「動物と話せる男」「昭和の流行歌物語」「昭和の歌手100列伝Part1~3」「昭和平成大相撲名力士100列伝」など。本書では昭和を代表する歌手100人を選び出して50音順に並べ、それぞれの名曲の誕生秘話や裏話を満載している。歌謡曲ファンならずとも昭和世代にとって興味の尽きない1冊になっている。

      

 名曲誕生秘話の一部を紹介すると――。梓みちよの『こんにちは赤ちゃん』はわが子の誕生に立ち会った作曲家中村八大が「こんにちは、ぼくが君のパパだよ!」と話しかけたのを永六輔が見て感動し作詞した▽小椋佳の『愛燦燦』は味の素のCMソングとして作られた▽岸洋子の『夜明けのうた』は最初坂本九の吹き込みで発売されたが、全然売れなかった▽北島三郎の『函館の女』のタイトルは最初『東京の門』で、歌い出しも「はるばるきたぜ東京」だった。

 秘話はまだまだ続く。小林旭の『昔の名前で出ています』は星野哲郎が知り合いのホステスからもらった電話「遊びに来て。昔の名前で出ていますから」をヒントに作詞した▽小林ルミ子の『瀬戸の花嫁』は山上路夫が作詞した「瀬戸の夕焼け」と「峠の花嫁」の2作が1つになって生まれた▽吉幾三の『雪國』はもともと吉が温泉の宴会芸として即興で作った下ネタ満載の歌だった。

 後に大ヒットしたものの、歌手本人は当初乗り気ではなかったという曲も。ソプラノの渋谷のり子は『別れのブルース』について最初「低いアルトでは絶対歌えない」と反発、深酒と煙草で喉を荒らしてレコーディングに臨んだ▽伊東ゆかりは『小指の思い出』の発売直後、テレビで「あんな唄、私に合わないの」と言って作詞者(有馬三恵子)を絶句させた▽美川憲一は『柳ケ瀬ブルース』を最初「小節が利いたこんな歌、無理よ」と断ったが、レコード会社から「歌えないなら君は当社に必要がない」と言われ渋々レコーディングした▽八代亜紀は『舟唄』が男歌だったことから初めは気乗り薄だった。

 レコード会社の社内で評価が低かったが、大化けし大ヒットしたものも多い。ぴんからトリオの『女のみち』はもともとグループ結成10周年記念として300枚自主制作し無料配布したもので、全国発売には「お笑いグループのド演歌が売れるはずがない」と反対の声が圧倒的だった▽西田佐知子の『アカシアの雨がやむとき』は「こんなネクラな歌が売れるはずがない」と二度も却下された▽倍賞千恵子の『下町の太陽』は発売会議で「下町のイメージがよくない、タイトルも悪い」と指摘され、初プレスはわずか1500枚だった▽キャンディーズの『春一番』もアルバムからのシングルカットの提案に「こんなフォーク調の歌詞が売れるはずがない」と社長に一蹴されていた。

 『こんにちは赤ちゃん』も「子守唄もどきの歌が売れるだろうか」と社内に危惧する声があり、森昌子の『せんせい』も「今どきこんな歌が売れるはずがない」という声まであったという。本書には他にも、舟木一夫の芸名はもともと遠藤実が舟木の前の門下生、橋幸夫に付ける予定だった▽17歳で『潮来笠』でデビューした橋幸夫は「いたこがさ」と読めず「しおくるかさ」だと思ったと自著で告白――といったエピソードも紹介している。橋幸夫のヒット曲の一つに吉永小百合とのデュエット曲『いつでも夢を』がある。吉永小百合には他に『寒い朝』『勇気あるもの』といったヒット曲も。NHK紅白歌合戦には歌手として5回出場した。その吉永小百合が本書の100人に入らなかったのは、熱心なファン〝サユリスト〟にとって少々不満かもしれない。

コメント
  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

<BOOK> 「ヴォイセズ・オブ・アイルランド アイリッシュ・ミュージックとの出会い」

2017年03月22日 | BOOK

【五十嵐正著、シンコー・ミュージック・エンタテイメント発行】

 著者五十嵐氏は金沢出身で、輸入レコード店の店長などを務めた後、音楽評論家として活動、その分野はロックからフォーク、ワールドミュージックと幅広い。著書に『ジャクソン・ブラウンとカリフォルニアのシンガーソングライターたち』など。本書ではアイルランドや米国のアイルランド系の歌手・演奏家・バンドへのインタビュー記事とアルバムの紹介を中心に構成、伝統音楽(トラッド)とそれを元に新たな試みに挑戦するアイリッシュ・ミュージシャンの全貌に迫る。

       

 インタビュー記事で取り上げた演奏家は実に30人/グループ近くに上る。冒頭にアコーディオン奏者シャロン・シャノン、次いで女性バンドのチェリッシュ・レディース。いずれも2016年末の「ケルティック・クリスマス」出演のための来日前にインタビューまたはメール取材した。アイリッシュ・ミュージックを代表するグループやシンガーソングライターとして、エンヤ、メアリー・ブラック、カラン・ケイシー、リサ・ハニガン、ウォリス・バード、ウィ・バンジョー3なども取り上げている。

 かつてエンヤのCDを集中的に買い求めたことがあった。エンヤが一時属していたクラナドのCDも。クラナドはエンヤの兄や姉ら家族を中心にしたバンド。エンヤは2年ほどでマネジャーと共にグループを去るが、その際、兄姉から「彼らをとるか、家族をとるか」と迫られ、その後絶縁状態だったということを本書で初めて知った。アルバムの世界売り上げ枚数が7500万枚に上り〝エンヤノミクス〟とまでいわれた成功の裏にはそんな家族との抜き差しならない確執があったのだ。

 アイルランドから多くの移民がアメリカに押し寄せた。現在アイルランド系米国人は約4000万人ともいわれる。単純に米国の全人口で割ると、実に6人に1人がアイルランド系ということになる。それだけに政治や経済だけでなく音楽の分野でもその影響力は大きい。アイルランドの伝統音楽はアメリカ生まれのフォークやカントリーの源泉の1つといわれ、それが黒人音楽と結びついてロックンロールが生まれたともいう。

  両親がアイルランド出身で『リヴァーダンス』で有名なフィドル(バイオリン)奏者、アイリーン・アイヴァースは意欲的にアフリカや中米出身者など多国籍のメンバーとの演奏活動に取り組んできた。手元にも代表的なアルバム『クロッシング・ザ・ブリッジ』がある。そのアイリーンは「移民は常に合衆国の一部なの。その存在こそが文化を活気づけているのよ。(排斥されるどころか)ほめたたえられるべきものなのにね」とインタビューに答えている。9.11以降、米国パスポートを持たない音楽家の就労ビザ取得が難しくなっている現状を嘆いたものだが、いまアイリーンはその後誕生したトランプ政権の大統領令に怒り心頭状態なのではないだろうか。

コメント
  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

<BOOK> 「そこに音楽があった 楽都仙台と東日本大震災」

2017年01月14日 | BOOK

【梶山寿子著、文芸春秋発行】

 今年も「その日」が巡ってきた。1月17日の阪神大震災。あれから丸22年目に当たる。そして3月11日は東日本大震災から丸6年。「被災者が苦しんでいるときに音楽など不謹慎」。震災直後、神戸でも〝楽都〟を標榜する仙台でも歌舞音曲の自粛ムードが一時広がった。「音楽を自粛することは果たして被災者のためになったのか」。著者梶山寿子さん(ノンフィクション作家・放送作家)はそんな素朴な疑問から、被災者や音楽関係者に広く取材し、音楽が被災者の心に寄り添い、慰め励ましたいくつもの物語を掘り起こした。

       

 「♪大空を見上げてごらん あの枝を見上げてごらん…いっしょうけんめい生きること なんてなんてすばらしい あすという日があるかぎり しあわせを信じて」。東日本大震災から約1週間後の3月19日、被災者避難先の仙台市立八軒中学で『あすという日が』(山本瓔子作詞・八木澤教司作曲)の歌声が響いた。歌ったのは吹奏楽・合唱部の生徒たち。その模様をたまたま取材に訪れていたNHKが全国ニュースで流した。直後から中学には全国から励ましの手紙や演奏依頼が相次いだ。

 震災から約2カ月後、東京で南こうせつのコンサートにゲスト出演した。そのときの動画などがユーチューブで流れている。そのレベルの高さに驚いた。それもそのはず、八軒中の吹奏楽・合唱部は前年秋の全日本吹奏楽コンクール東北大会で優勝、合唱も全日本合唱コンクールで銀賞に輝いた実力校だった。その春も3月19日に吹奏楽全国大会(鹿児島)と合唱大会(福島)に部員を振り分けて出場する予定で、カレンダーに「全国大会まであと○○日」と書いて練習に励んでいた。 

 だが、震災で福島の大会は中止になり、鹿児島の大会への出場も無理に。それなら大会の日に合わせ練習の成果を保護者を前で披露しよう。避難所の人たちに配慮して音が漏れないよう音楽室でささやかに。3月19日の演奏会は最初こんなふうに企画された。ところが避難所の運営委員の中から「私たちも応援するからぜひ聴かせて」といった声が上がる。こうして「音楽の集い」が被災者を前に開かれた。生徒たちの『あすという日が』はCD化され、その収益による寄付の総額は1000万円を上回った。阪神大震災を体験した神戸市の市立玉津中学は八軒中の活動を知って、吹奏楽部を中心に繰り返しチャリティー演奏会を開いた。両中学の交流にも心が温まる。

 中学の吹奏楽部といえば、今年1月9日のNHK「おはよう日本」で、熊本県益城町の町立益城中学の吹奏楽部が紹介されていた。益城町は1年前の4月14日の熊本地震で2度震度7に直撃されたところ。益城中の吹奏楽部は2015年の「第1回全日本ブラスシンフォニーコンクール」中学の部の優勝校。昨年12月25日には復興への願いを込めて、町民ら約200人を前に恒例のクリスマスコンサートを開いた。NHKの放送の中で、音楽室から流れる練習中の生徒たちの演奏に、畑仕事中の男性が「元気づけられる」と話していたのが印象的だった。コンサートの直後、東京で開かれた第2回の全日本コンクールでは見事に優勝し2連覇を飾った。

 本書には八軒中のほか、仙台フィルハーモニー管弦楽団、地元の人気バンド「MONKEY MAJIK」、仙台出身のピアニスト・小山実稚恵さん、ドイツ在住の指揮者山田和樹さんの活動なども紹介している。仙台フィルは震災2週間後からお寺や街角、避難所、仮設住宅などで「つながれ心、つながれ力」をスローガンに無料コンサートを展開し、小山さんは悲しみの中で自問自答の末「自分にはピアノしかない」と、小学校を中心に30カ所以上で演奏してきた。山田さんは「復興とは未来を考えること。未来は子どもたちにつながる」と帰国のたびに子どもたちの指導に力を入れる。著者は取材を通じて確信した。「音楽の力は目に見えない。だが音楽は傷ついた被災者の心にやさしく寄り添い、生きるエネルギーを取り戻す助けになる」 

コメント
  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする