く~にゃん雑記帳

音楽やスポーツの感動、愉快なお話などを綴ります。旅や花の写真、お祭り、ピーターラビットの「く~にゃん物語」などもあるよ。

<ヒイラギモチ(柊黐)> 晩秋に熟す赤い実が濃い緑の葉に映えて

2015年11月27日 | 花の四季

【別名シナヒイラギ、「クリスマス・ホーリー」とも】

 春に芳香のある白い4弁花をつけ、晩秋になると果実が緑色から真っ赤に熟す。直径は8~10ミリほど。葉には濃い緑色で光沢があり、四角張って角に鋭い棘がある。モチノキ科の常緑低木で葉がヒイラギに似ていることから「ヒイラギモチ」の和名がついた。ただしヒイラギはモクセイ科で全く別の種類。ヒイラギの果実は黒い。

 学名「イレクス・コルヌータ」。原産地は中国、朝鮮半島で、「シナヒイラギモチ」や「ヤバネ(矢羽)ヒイラギモチ」「ヒイラギモドキ」などの別名もある。漢名は「枸骨(くこつ)」で葉や根、果実が漢方の薬用として利用される。日本では「チャイニーズ・ホーリー」や「クリスマス・ホーリー」として出回り、クリスマス用の飾りやリース用に人気が高い。

 ただ本来「クリスマス・ホーリー」と呼ばれてきたのは西アジアからヨーロッパ南部、アフリカ北部にかけて分布する「セイヨウヒイラギ」(学名「イレクス・アクイフォリウム」)のこと。「イングリッシュ・ホーリー」や「ヨーロピアン・ホーリー」とも呼ばれ、欧米のクリスマスでは欠かせない存在になっている。樹高は6~10m。

 わが国ではセイヨウヒイラギの別名としてヒイラギモチを当てるケースも。『新牧野日本植物圖鑑』(北隆館発行)は「ヒイラギモチ(セイヨウヒイラギ)」として取り上げ、セイヨウヒイラギの名前に関し「クリスマスの飾りに使う本種の葉を単にきょ歯の点だけに着目してヒイラギの仲間と誤り西洋産のヒイラギと呼んだもの。よい名ではない」としている。日本にはヒイラギモチの変種として奄美大島に「アマミヒイラギモチ」があるが、ごく近い将来の絶滅の危険性が大きいとして環境省の絶滅危惧ⅠA類になっている。

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<原節子逝去> 凛とした品格と美しさの中に芯の強さも

2015年11月26日 | メモ

【16歳で主演の「新しき土」から小津監督作品まで】

 伝説の大女優、原節子さんが2カ月以上前の9月5日に亡くなっていたことが分かった。享年95。出演した作品は1935年公開の「ためらふ勿れ若人よ」(田口哲監督)から62年の「忠臣蔵」(稲垣浩監督)まで計101本。そのうち観賞した作品はほんの一部にとどまるが、いずれも凛とした美しさと上品な語り口が印象的だった。(写真は㊧「東京物語」、㊨「安城家の舞踏会」)

 

 初主演作品は日独合作の「新しき土」(ドイツでの題名「サムライの娘」、アーノルド・ファンク監督)。役柄は留学先のドイツから帰国する日本人青年の許婚光子。父親役をハリウッドスターの早川雪洲が演じた。西洋文化に触れた青年は許婚(いいなずけ)という古い風習に反発し、船中で親しくなったドイツ人女性と共に日本の土を踏む。その2人の様子に衝撃を受けた光子は投身自殺を図ろうと花嫁衣装姿に裸足で、噴煙がもうもうと立ち昇る火山を登っていく――。シナリオの展開に荒っぽさがあるように感じたが、16歳原さんの演技は瑞々しく輝いていた。

 「わが青春に悔なし」は言論弾圧の京大事件をもとにした黒沢明監督の戦後初作品。大学教授の一人娘で男子学生の憧れの的だった幸枝役を好演した。「安城家の舞踏会」(吉村公三郎監督)は没落華族の物語。安城家の次女敦子役で、最後の思い出として舞踏会を開こうと提案する長女に「敦子、反対でございます」ときっぱり話す。穏やかな語り口の役柄が多かっただけに、決然とした口調が印象に残る。優しく父親に寄り添ってダンスを踊る最後のシーンも美しく、過去との決別への強い意志がにじんでいた。「山の音」(成瀬巳喜男監督)は川端康成原作の映画化作品。同居する義父母と浮気性の夫との間で翳りのある菊子役を見事に演じた。

 主演映画の中でもより評価が高いのは小津安二郎監督による作品群だろう。「晩春」「麦秋」「東京物語」「東京暮色」「秋日和」「小早川家の秋」の6本あるが、このうち「麦秋」を除く5本を以前DVDで見た。中でも印象に残ったのが「東京物語」。尾道に住む老夫婦(笠智衆と東山千栄子)が子どもたちを頼って東京を訪ねる。しかし長男長女は日々の生活に終われ両親をかまってやらない。そんな中、戦死した次男の嫁だけが2人を温かく出迎える――。原さんの役柄はその次男の嫁紀子だった。小津作品の中の原さんは役を演じるというより、ごく自然体でその人物になりきっていた。スクリーンから去って50年余。どんな後半生だったのだろうか。ご冥福をお祈りします。

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<詩人ビナードさん> 「タマムシ色の日本の未来」と題し講演

2015年11月25日 | メモ

【橿原市昆虫館で、「疑い深く見ることが大切」】

 米国出身の詩人・随筆家、アーサー・ビナードさんの講演会がこのほど奈良県の橿原市昆虫館で開かれた。「タマムシ色の日本の未来」と題して講演したビナードさんは「言葉を掘り下げることで、それまでタマムシ色で終わっていたものが見えてくる」「(新聞などの)報道も国際関係も疑い深くみることが必要」などと話した。

          

 ビナードさんは1967年米国ミシガン州生まれ。大学卒業後の1990年に来日し、日本語での詩作を始めた。2001年に詩集『釣り上げては』で中原中也賞を受賞したのを皮切りに、絵本『ここが家だ―ベン・シャーンの第五福竜丸』で日本絵本賞、詩集『左右の安全』で山本健吉文学賞など次々と受賞を重ねた。他にエッセー集『亜米利加ニモ負ケズ』『日々の非常口』など多くの著作がある。

 虫好きのビナードさんが橿原市昆虫館で講演するのは2回目。まずタイトルのタマムシ色について「本物のタマムシは決してあいまいな存在ではない。タマムシ色という言葉は濡れ衣でタマムシに対し失礼」と指摘。もう1つの「未来」という言葉についても「同じくらい胡散くさい。この言葉にもごまかしができるという意味が込められている」と話す。

 パリ同時多発テロの発生で即座に「9.11の記憶が蘇った」という。当時の米ブッシュ政権は「War on Terror(テロとの戦い)」を標榜しイラクを攻撃する。ところが「とんでもない逆効果の〝あるある詐欺〟だった。この14年間にテロはうなぎ登り、難民も急増した」。ラムズフェルド元国防長官へ旭日大綬章という秋の叙勲について「国際法違反として裁かれなければいけない人物。アベコベもいいところ」と酷評する。

 ビナードさんは『裸の王様』(原題『皇帝の新しい服』)を引き合いに、「最後に声を上げて、みんなが目覚めるのは詩人の言葉によって」「迎合したら詩人ではない」と話す。「この人抜きに日本の文学は語れない」として挙げたのは福島県南相馬市在住の詩人若松丈太郎さん。チェルノブイリを訪問し福島原発事故を想定した作品『神隠しの街』を、実際に事故が起きる7年前に発表した。

 ビナードさんにも『もんじゃ』と題した詩がある。中原中也賞の受賞詩集に収められた作品だ。

――朝鮮仏教徒連盟中央委員会は言う、日本の高速増殖原型炉「もんじゅ」、文殊菩薩を冒瀆――と。それを読んでぼくは悟りを開いた。

四月の臨界からずっと あれはいつか月島の方で食べた お好み焼きのぐしゃぐしゃしたやつ、うまい名前をつけたな、と。

 ビナードさんは最後にある選挙ポスターを掲げた。そこには「ウソつかない TPP断固反対 ブレない 自民党」とあった。そして「ウソをつかないという人に限ってウソをつく。過去から学び、いろいろなレンズを使って、これから起こるものを見抜かなければならない」と結んだ。

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<天理大学図書館> 特別展「悲劇の天才言語学者ネフスキー」

2015年11月23日 | メモ

【日本滞在14年、自筆のノート類や論文草稿、書簡、日記など一堂に】

 天理大学付属天理図書館(奈良県天理市)で同大学創立90周年記念特別展として「悲劇の天才言語学者ネフスキー~自筆資料に見る軌跡~」が開かれている。ニコライ・ネフスキー(1892~1937)はソ連(ロシア)生まれの東洋言語・民俗学者。ネフスキーが日本滞在中に書き残したノート類やタイプ草稿、書簡、日記などを一堂に公開している。29日まで。

         

 ネフスキーが官費留学生として来日したのはペテルブルグ大学卒業直後の1915年。以来帰国するまでの14年間、柳田国男や折口信夫らに師事し、神道や東北地方のオシラ様、アイヌの民俗、宮古島の民話や言語などについて研究を続けた。その傍ら小樽高等商業学校(現小樽商科大学)や京都大学文学部などでロシア語教師として教鞭を執った。ネフスキーは北海道・積丹出身の萬谷イソさんと結婚、一女をもうけている。

 天理図書館はネフスキーの自筆資料群を大量に所蔵する。1929年の帰国直前にイソ夫人の実家に残していたもので、今年が来日100年目の節目に当たることもあって初公開に踏み切った。主な展示資料は日本語で発表した「月と不死」などの露文タイプ草稿、宮古島方言辞典の草稿ノート、平安前期の歴史書「古語拾遺」の露文翻訳ノート、琉球の古語辞書「混効験集」の写しノートなど。言語学者金田一京助にアイヌの神について教えを乞う書簡控えや柳田国男宛ての書簡控えなども。会場にはネフスキーが来日中に撮った数々の写真や、特別展開催へのお礼のコメントが添えられた一人娘エレーナさんの写真なども飾られている。

 ネフスキーは帰国後、レニングラード大学で教鞭を執ったりエルミタージュ博物館に勤めたりする傍ら、来日中の研究成果を基に「古代日本の儀礼歌(6―8世紀祝詞)」「アイヌ・フォークロア」などを発表した。だが、帰国8年後の1937年秋、無実のスパイ容疑で逮捕されイソ夫人と共に銃殺刑という悲劇的な最期を遂げた。享年45。名誉が回復されるのは20年後の57年で、旧ソ連で最高の国家賞とされるレーニン賞も受賞した。

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<東大寺> 東塔跡から鎌倉時代築造の約27m四方の基壇が出土!

2015年11月22日 | 考古・歴史

【奈良時代の基壇(約24m)の周囲に盛り土し一回り大きく】

 奈良文化財研究所などが発掘調査中の東大寺の東塔跡で21日、これまでの発掘成果を公開する現地説明会が開かれた。調査は5年計画で今年7月にスタート。これまでに鎌倉時代の基壇の規模が約27m四方、高さ1.7m以上で、約24m四方と推定される奈良時代の基壇の上と周囲に盛り土を加えることで一回り大きくしていたことが分かった。

 東塔が西塔とともに最初に完成したのは奈良時代の764年。その約400年後の1180年、平重衡による南都焼き討ちによって焼失し、1238年ごろ東塔だけが再建された。しかし、その東塔も1312年落雷によって再び焼失してしまった。東塔は七重で、高さは寺に残る古文書から33丈(100m)または23丈(70m)だったとみられる。現存する国内の五重塔で一番高いのが京都・東寺の約55m、次いで奈良・興福寺の約50m。東塔がいかに高く威容を誇っていたかがこの数字からも分かる。

 

 今回の発掘調査は基壇の中央から北東部分にかけて。その範囲内で9つの礎石の穴が見つかった。全体では心礎を中心に礎石の上に柱が縦横4列に計16本並んでいたが、礎石自体は明治時代に廃仏毀釈の混乱の中で抜き取られ行方が分からないという。抜き取り穴の並びから塔の柱配置は3間四方と判明、柱の間隔は中央が約6m、両端が約5.4mで、鎌倉時代に再建された南大門とほぼ一致した。

 

 心礎の位置には見学者のために目印として高い棒が立てられていた。基壇の盛り土には焼土も混じっており、その中には奈良時代の瓦も含まれていたという。平氏の南都焼き討ち時に焼失した瓦などを盛り土に加えて新しく基壇を築いたとみられる。基壇の北面と東面の中央部分からは階段跡が見つかり、北面の階段から北側に向かって参道が延びていた。今回の学術発掘調査は東大寺にとって初めての大規模なもの。今後の発掘で新たにどんなことが分かってくるのだろうか。

 

 

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<メランポディウム> 初夏から晩秋まで花壇を長く彩る黄花

2015年11月20日 | 花の四季

【メキシコ原産、〝セルフクリーニング〟で花がら取り不要】

 キク科の春まき1年草。メキシコなど中央アメリカ原産で、日本で出回り始めたのは1990年頃と比較的新しい。このため和名はまだなく、属名「Melampodium」の音読からメランポディウムやメランポデューム、メランポジウムなどと表記されている。

 メランポディウムはラテン語で「黒い足」を意味する。仲間の中に太くて黒い直根を持つ種が含まれることによる。草丈は20~80cmだが、日本で多く栽培され流通しているのは「メランポディウム・パルドスム」種の園芸品種で、草丈は20~40cmと低い。鮮やかな黄花の「ミリオンゴールド」や淡い黄色の「ミリオンレモン」などがある。

 高温多湿に強く土質を選ばない。丈夫で育てやすく花を多く付けることから、各地の公園の花壇などで見かけることが増えてきた。花径は2~3cmほどの小輪で、一見ヒマワリの超小型版といったところ。種まきから2カ月程度で咲き始め、よく分枝して晩秋の11月頃まで次々と咲き続ける。

 最近ジニア(百日草)やインパチェンスの園芸品種などが、花がら取りが不要な〝セルフクリーニングの花〟として注目を集めている。このメランポディウムもその一つ。セルフクリーニングといえば、光触媒の作用により水や雨で汚れを洗い流すガラスや外壁用塗装材などで知られる。植物の世界では花が終わると自らポロリと落ちたり、次々に開花して終わった花を覆い隠したりして美しい花姿を保つことを指す。

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<BOOK> 「ネットで見かけた信じられない日本語」

2015年11月19日 | BOOK

【三條雅人著、社会評論社発行】

 〝ネット誤植ハンター〟というのが著者三條氏の肩書。情報源は主にインターネットとテレビで、ネットはRSS(更新情報)を大量登録して一気読みし、テレビは録画しチェックしているという。本書には2004年以降に拾い集めた約700の〝珍言葉〟が検索例や件数、「もしかして○○」(正解)とともに収められている。

        

 それらの中から件数が多かった一部の〝珍言葉〟を列挙すると(カッコ内が正解?)――。クレーン射撃(クレー射撃)、割り合いさせていただきます(割愛させて…)、目尻が熱くなった(目頭)、間逆(真逆)、時代交渉(時代考証)、一過言ある(一家言)、コテンパ(こてんぱん)、屈折○年(苦節)、心身代謝(新陳代謝)、源泉たれ流し(源泉かけ流し)、容姿淡麗(容姿端麗)、手持ちぶたさ(手持ちぶさた)、進化が問われる(真価)、先見の目がある(先見の明)

 担当直輸入(担当直入)、過分にして知らない(寡聞)、ちんちんかんぷん(ちんぷんかんぷん)、覚醒の感(隔世の感)、そうは問屋が許さない(卸さない)、常道手段(常套手段)、排水の陣(背水の陣)、目に鱗(目から鱗)、心臓から口が…(口から心臓が…)、生活週間病(生活習慣病)、大意はありません(他意)、著作権表記All nights reserved(rights)、人肌脱ぐ(一肌)、CUP NEEDLE(CUP NOODLE)、私服のひととき(至福)、禁煙可(喫煙可)

 著者は「私はこの本を、言葉を知らない人を笑う為に書いたわけではありません」と強調する。本書によってネット上に変換ミスや勘違い、うろ覚えなどによる間違いがいかに多いか、改めて思い知らされるとともに他山の石としなければ、との思いも強くした。ただ言葉は生きている。古語が消える一方で新語が次々と生まれる。著者もあとがきにこう記す。「変な言葉を使って笑われている人達は、もしかしたら新しい言葉を先取りしている人達なのかもしれません。そして、それらの言葉は何年後かに……国語辞典に載るかもしれません」。

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<イヌタデ(犬蓼)> 紅紫色の粒々を赤飯に見立て「アカマンマ」とも

2015年11月18日 | 花の四季

【辛味のあるヤナギタデに対し食用にならないから〝イヌ〟と】

 全国各地の道端や畦道などでごく普通に見かけるタデ科イヌタデ属の1年草。花期は6月頃から晩秋までと長い。1~5cmほどの花穂に紅紫色の小さな花を多数付けるが、花弁のように見えるのは実は萼片。草丈は20~50cmで、まれに白花もある。

 「アカマンマ」や「アカノマンマ」とも呼ばれる。子どもたちのままごと遊びで赤い粒々の花を赤飯に見立てた。昭和の初め、菊池寛、与謝野晶子ら著名人7人が1つずつ選んだ「新・秋の七草」の中に「赤まんま」も入っている。俳人高浜虚子がこれを挙げた。ちなみに他の七草はコスモス、葉鶏頭、彼岸花、菊、おしろい花、秋海棠だった。

 「蓼食う虫も好き好き」。好き嫌いは人それぞれの意味で使われるこの諺のタデは、葉や茎にピリッとした辛味がある「ヤナギタデ」のこと。刺し身のツマやアユの塩焼き用の蓼酢など食用になることから「マタデ(真蓼)」や「ホンタデ(本蓼)」とも呼ばれる。万葉集に見える「吾が屋戸の穂蓼古幹(ふるから)摘みおぼし実になるまでに君をし待たむ」(作者不詳)の中の穂蓼も今日のヤナギタデのことだろうといわれる。

 これに対しイヌタデは食用にならないため頭に「イヌ」と付けられた。同様に「イヌ」が付く植物は多い。イヌゴマ、イヌビワ、イヌホオズキ、イヌワラビ、イヌザンショウ……。いずれも「似て非なるもの」「役に立たない」という意味が込められている。ただイヌタデは全国各地で「アカマンマ」のほか「アカメシ」「オコワグサ」「セキハングサ」などの愛称で呼ばれ親しまれてきた。「露草や赤のまんまもなつかしき」(泉鏡花の辞世の句)。

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<奈良市写真美術館> 「回顧 入江泰吉の仕事」展

2015年11月17日 | 美術

【半世紀の足跡を辿るモノクロ・カラー作品130点余】

 奈良市写真美術館(奈良市高畑町)で写真家・入江泰吉の生誕110年を記念した企画展「回顧 入江泰吉の仕事」が開かれている(12月23日まで)。同タイトルの記念写真集の刊行に合わせたもの。写真家としての出発点になった「文楽」から最後の作品「すすき」まで、モノクロとカラーの作品130点余を通して入江の足跡を辿る。

          

 入江が大阪で文楽の写真を撮り始めたのは戦前の1939年頃から。知人から文楽人形の首(かしら)の撮影を頼まれたのがきっかけだった。会場にはまず「妹背山婦女庭訓」や「義経千本桜」の場面、お岩や静御前などのクローズアップ作品が並ぶ。入江が故郷奈良に引き揚げたのは1945年3月の大阪大空襲で自宅兼写真店が全焼したため。たまたま書店で亀井勝一郎の『大和古寺風物誌』を目にしたのが、その後のほぼ半世紀にわたる奈良大和路の撮影につながった。

 会場は8章で構成されるが、前半はモノクロ作品ばかり。カラー作品は第4章「奈良大和路の写真家として 1950年代後半」で初めて登場する。「大仏殿遠望」は1957年、「西の京春宵」は58年の作品。ただモノクロ一筋でやってきた入江にはカラーへのとまどいや葛藤がかなりあったようだ。

 著書『わが青春譜 大和しうるわし』で、「私にはカラー写真に踏み切ることに躊躇があって、長年なじんできたモノクローム写真には容易に捨てがたい愛着があった」と振り返る。さらに「でき上がった写真をみると、たしかに美しかった。しかしそれだけだった。きれいなだけで情感も雰囲気もない」と記した。本格的なカラー作品集の出版はカラー写真を撮り始めて10年も経ってから。会場の後半部分には晩年精力的に撮影した瑞々しい花のカラー写真が壁面を明るく飾っていた。

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<サルビア・マドレンシス> 遠くからも目立つ背丈の高い黄花

2015年11月16日 | 花の四季

【メキシコ原産、和名は「レンギョウセージ」】

 シソ科サルビア属(アキギリ属)の半耐寒性多年草。日が短くなると咲く短日性植物で、10~11月頃、長い花穂に明るい黄色の小さな唇形花を多く付ける。英名は「フォーサイシアセージ」。フォーサイシアはレンギョウ(連翹)のこと。花姿が似ていることによるもので、和名でも「レンギョウセージ」と呼ばれている。

 原産地はメキシコ。ドイツの植物学者でプラントハンターのバートホルト・カール・ゼーマン(1825~71)が19世紀半ば、メキシコ高原を南北に貫く東シエラマドレ山脈の標高1200~1500mの高地で発見、その山脈に因んで「サルビア・マドレンシス」と名付けた。属名サルビアはラテン語で健康や治療を意味する「サルボ」に由来する。サルビア属に薬効がある種類(薬用サルビア=セージ)が含まれることによる。

 サルビア属は世界の熱帯から温帯にかけて広く分布する。日本でサルビアといえば、ブラジル原産で燃えるような緋色のサルビア・スプレンデンス(和名ヒゴロモソウ=緋衣草)を指すことが多い。他にファリナセア(ブルーサルビア)、レウカンサ(アメジストセージ)、グアラニチカ(メドーセージ)、ミクロフィラ(チェリーセージ)など多彩な花色のものが出回っているが、マドレンシスのような濃い黄花はサルビアの中でも珍しい。

 マドレンシスは生長が極めて旺盛。大きなものでは草丈が2m以上にも育ち、花色の明るさもあって遠くからでも目立つ。夏に切り戻すと草丈を低く抑えることができ、分枝が促されて花数も増えるそうだ。ハート形の大きな葉には芳香がある。茎が太く角が突き出した四角形なのも特徴の一つ。国内ではマドレンシスをもとに作出された園芸品種が「イエローマジェスティ」の名で流通している。

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<郡山城> 天守台の石垣整備工事現地見学会

2015年11月15日 | 考古・歴史

【北西部分を復旧し、1年半後に展望施設を整備】

 筒井順慶、豊臣秀長(秀吉の弟)ゆかりの郡山城(奈良県大和郡山市)で14、15の両日、天守台の石垣整備工事現地見学会が開かれた。築城から約400年、天守台の石垣は北西部分で変形が目立ち崩落の恐れもある。このため現在解体・復元中。来年2月までに復旧工事を終え、2017年春には天守台を展望施設として整備し市民に開放する予定だ。

 

 天守台はこれまでの発掘調査で、石垣は高さが約8.5m、基底部の長さが23×25mの長方形だったことが分かった。大きな礎石23個も出土しており、5階建て相当の天守が立っていたとみられる。出土した瓦類の中には金箔が残る菊丸瓦の小片が含まれ、大坂城金箔瓦と同笵の軒丸瓦なども見つかった。

 

 今回の復旧部分は北西の角部分を中心に立面積約95㎡。解体工事によって、石垣は表面の築石、その内側の裏込め石(栗石)、さらに内側の盛り土の三層から成ることが確認された。角の部分の構築は大きな直方体の石を使用し、長い面と短い面を交互に積み上げる算木積みという手法による。10月までに解体工事が終わり、今は石積み工事に着手した段階。見学会では希望する見学者に、裏込め石に様々な願いや思いを書いてもらうイベントも実施。それらの石は石垣背面の埋め戻し材として使われる。

 

 郡山城の石垣には石仏などの石塔が転用石として使われていることで知られる。有名なのは天守台の石垣の下部に組み込まれた「逆さ地蔵」(上の写真㊧)。今回も解体に伴って石仏、五輪塔、宝篋印塔などが大量に見つかり、西側上部からは築石と築石の間を埋める間詰め石として使われていた石仏も出てきた(写真㊨)。「南無阿弥」と刻まれた石塔には「天文三年」(1534年)という年代も入っていた。

 郡山城とともに転用石の大量使用で知られるのが明智光秀ゆかりの福知山城(京都府福知山市)。再建時の発掘調査で500個余りの石塔類が確認されている(下の写真)。反抗的な近隣の社寺を打ち壊して天守台の石垣に転用したといわれる。一方でこんな見方も。郡山城でも福知山城でも石塔類を多く使ったのは城のお守りとしての役割を期待してのこと――。ただお守りにしては極めて雑というか、ぞんざいな扱われ方をしているようにも思えるのだが……。

 

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<BOOK> 「戦闘報告書」が語る日本中世の戦場

2015年11月14日 | BOOK

【鈴木眞哉著、洋泉社発行】

 鉄砲が普及する以前は刀や槍を振り回す白兵戦が主体で、織田・徳川連合軍の鉄砲隊が武田方の騎馬軍団を滅ぼした長篠の戦い(1575年)が大きな転機となった――。これが中世の戦闘に対する一般的なイメージではないだろうか。だが、著者は武士たちが戦いでの自らの功績を申告した「軍忠状」や「合戦注文」といった戦闘報告書の詳細な分析から、そんなイメージが錯覚または幻想であり「実態とかけ離れたものである」と指摘する。

            

 著者鈴木眞哉氏(1936年生まれ)は歴史研究家として「歴史の常識」を問い直すことに主眼を置いて研究活動に取り組んできた。著書に『戦国時代の大誤解』『鉄砲隊と騎馬軍団』『NHK歴史番組を斬る!』など。本書は「軍忠状」など戦闘報告書に記された死傷の原因を解明することで中世の戦いぶりに迫った。

 調査の対象期間は鎌倉時代の最末期から江戸時代初期までの約300年間。これを①南北朝期=「軍忠状」が最初に現れた鎌倉最末期の1333年から1387年まで②戦国前期=1467年(応仁元年)から1561年までの約100年間③戦国後期=鉄砲による負傷者が初めて報告書に登場した1563年から1638年まで――の3つに分けて分析した(①と②の間の80年間は戦闘報告書がほとんどない空白期間)。

 その結果、最初の南北朝期は弓矢が支配した時代で、負傷者581人のうち86%に当たる500人が弓矢による「矢疵・射疵」だった。戦国前期になると引き続き「矢疵・射疵」が全体の61%を占めるが、槍の普及によって「槍疵・突疵」が19%と急増し「石疵・礫疵」も16%とかなり多かった。「石疵・礫疵」については城の上などから落としかけられたものか、石弾を撃ち出す粗製の小銃によるものなのかなどは不明。戦国後期は鉄砲全盛時代で「鉄砲疵」が死傷者全体の45%を占める。次いで「槍疵・突疵」21%、「矢疵」17%。

 戦国時代を通して見ると、死傷者の74%超が弓矢や鉄砲など〝遠戦兵器〟によるものだった。それらの数字から「中世の人たちが遠戦主義つまり飛び道具主体の戦いをしていたことは、まず疑いの余地がない」とし、「当時の主武器であったかのように誤解されることの多い刀剣類には、ほとんど活躍の場がなかった」と指摘する。では、戦いの主流が接近戦の白兵主義だったように信じられてきたのはなぜか。

 著者は南北朝の戦乱を描いた『太平記』が火元だったのではないかとにらむ。『太平記』では騎馬武者が馬上で刀を振り回すのが戦闘の基本という見方で書かれており、それが後の軍記物などにも大きな影響を及ぼしたという。時代劇といえば必ずチャンバラの場面が登場するが、その時代がいつなのかもっと注視する必要がありそうだ。

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<ヤブコウジ(藪柑子)> 明治時代に投機熱、葉の斑入りが1鉢1000万円超!

2015年11月11日 | 花の四季

【正月の縁起物、古名「ヤマタチバナ」万葉集にも登場】

 ヤブコウジ科ヤブコウジ属の常緑小低木。日本、朝鮮半島、中国、台湾に分布し、山地の日陰の林床などで地下茎を伸ばして群生する。高さは10~20cmほど。「柑子」はミカンの古名。秋から冬にかけて赤く熟す丸い実や葉の形を山のミカンに見立てて「藪柑子」の名が付いたという。同様に赤い実を付ける万両、千両、百両(唐橘=カラタチバナ)に対比させて「十両」という別名を持つ。

 昔から正月の縁起物として寄せ植えや床飾りなどに用いられてきた。万葉集や古今和歌集、源氏物語などには「ヤマタチバナ(山橘)」の名前で登場する。「あしひきの山橘の色に出でよ語らひ継ぎて逢うこともあらむ」(万葉集、春日王=かすがのおおきみ)。漢名は「紫金牛」。有用植物で、漢方では根や葉、茎が解毒・利尿剤などに使われる。

 ヤブコウジは古典園芸植物でもある。江戸時代には寛政年間(1789~1801年)を中心に京都や江戸で栽培が大流行し、葉に斑(ふ)が入ったものや実が白いものなど変わり種が珍重された。その100年後の明治時代半ば、今度は新潟県を中心に一大ブームが再燃、投機の対象となって高値での取引が全国に広がった。

 ピークだったのは日清戦争直後の1896年(明治29年)。珍品は現在の価格に換算して1鉢なんと1000万円を超える高値が付いたそうだ。その過熱ぶりに、新潟県庁は翌年、売買内容の届け出などを義務づける「紫金牛売買取締規則」まで作ったとか。古典植物だけあって、今も流通している斑入り種にはなかなか優美な名前が多い。「花車」「峰雪」「御所錦」「亀鶴」「三保の松」「糸覆輪」……。「かがみ見てさらに地のもの藪柑子」(井沢正江)。

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<大阪・長居公園> 若い女性の写真の脇に「情報提供求む!懸賞金50万円」

2015年11月10日 | メモ

【3年前の落雷事故で死亡、両親が野外コンサート主催者相手に損賠提訴】

 3年前の2012年8月18日、雷を伴ったゲリラ豪雨が関西を襲った。当日、大阪市東住吉区の長居陸上競技場では人気アーティストが出演する野外ライブ「a-nationスタジアムフェス」が予定されていた。その会場近くの長居公園で福岡県からやって来た若い2人の女性が落雷に打たれ亡くなった。その現場にいま、笑顔が印象的な女性の写真が「情報提供求む!懸賞金50万円」という呼び掛け文などとともに飾られている。

 場所は地下鉄長居駅に程近い長居公園南西入り口近く。写真の女性は北九州市小倉北区の岩永牧子さん(当時22歳)で、18日午後2時すぎ、行橋市の友人木下晴日さん(同)らとともに雷に打たれ、搬送先の病院で木下さんは当日、岩永さんは翌日亡くなった。愛娘を突然失った2人のご両親の悲しみはいかばかりか。岩永さんのご両親は翌13年7月、観客の避難誘導を怠ったとしてコンサートの主催者側に8000万円余の損害賠償を求めて大阪地裁に提訴した。

 

 「懸賞金」の文字の下には「娘が(列に)並んでいる写真を裁判所に提出して頂ける方50万、……最後尾プラカード『2時間半待ち』とある写真には1万円」とあった。その下には岩永さん自身が事故に遭う少し前に撮ったという「列の写真」も。その写真が裁判で争点の1つになっているとみられ、主催者側の弁護士は「写真は列ではなく同じ方向に歩いているもの」と主張しているらしい。

 別の「探しております」という貼り紙には「午前中から稲光がぴかぴか光っていたと証言して頂ける方ご連絡下さい」として母親名や連絡先が記されている。別紙には「牧子はアリーナに入れてもらえず、観客は(会場南側に位置する)南トイレに殺到した為、溢れ、牧子たちは走りながら避難中、楠木の後で足から被災」したとし、「来る途中の雨宿りという報道は根拠なし」とも記す。主催者側からは翌日の夕方連絡があり「娘さんはうちのお客さんという事を翌朝知った。会場より800m離れているため、こちらとは関係ない」と言われたという。

 岩永さんの写真の回りには生前の楽しそうな数々の写真や当日の長居公園を中心とする〝落雷証明書〟なども。その下には色とりどりの花が供えられ、何人もの人が足を止めていた。長居公園での散歩が日課という女性は「あの日の雷はすごかった」とつい最近のことのように振り返っていた。その女性によると、写真の前で手を合わせて冥福を祈る人も多いそうだ。

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<唐古・鍵ミュージアム> 秋季企画展「弥生遺産Ⅲ~唐古・鍵遺跡の石器」

2015年11月07日 | 考古・歴史

【「土器」「木製品」に続く第3弾、様々な石材から広い交易範囲が判明!】

 奈良県田原本町の「唐古・鍵考古学ミュージアム」で、秋季企画展「弥生遺産Ⅲ~唐古・鍵遺跡の石器」が始まった。奈良盆地のほぼ中央に位置する唐古・鍵遺跡からはこれまでに弥生時代の膨大な遺物が出土している。企画展は一昨年の土器、昨年の木製品に続く第3弾で、弥生時代の人々が石についていかに高い知識と技術を持って利用していたかを幅広く紹介する。12月6日まで。

 

 主な展示品はサヌカイト(別名讃岐石)や流紋岩の原石、打製や磨製の石鏃・石剣・石小刀・包丁・石斧、石製投弾、糸を紡ぐための紡錘車など。唐古・鍵遺跡の石材の大半は集落外から運ばれた。サヌカイトは遺跡の南西約12キロにある二上山北麓から、流紋岩は南約6キロにある耳成山から運ばれてきたとみられる。遺跡からは原石を加工した未完成品や失敗品も多く見つかっており、交易範囲の広さとともに石器生産が集落内で行われていたことを示す。

 

  打製石器に適したサヌカイトからは石小刀や石鏃などが大量に製作された。石鏃は弥生時代前期のものは小型のものが多く、中期になると大型化していく。狩猟具から武器へという機能の変化によるものとみられる。また弥生中期には大型の打製石剣も多く作られており、弥生時代が争乱の時代だったことを裏付ける。磨製石器の石材の流紋岩や結晶片岩は穂摘み具の石包丁、安山岩や玄武岩は石斧など加工された。石製投弾(石弾)が多く出土したのは弥生中期以降の地層からだが、狩猟具なのか武器なのかはまだ結論が出ていない。

 会場入ってすぐの所に打製石器(長さ16.8cm)と鞘がセットで展示されている。弥生時代に作られた尖頭器は「石槍」とも呼ばれ、槍先か短剣か分からないケースが多いが、この石剣は鞘入りのため用途が短剣と明確に分かる貴重な出土品。鞘には斜めに2つの穴が開いており紐を通して腰に下げ、万能刃物や護身用として身に付けていたものとみられる。鞘の上部に桜の樹皮が巻かれるなど、精巧な作りが目を引く。

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