く~にゃん雑記帳

音楽やスポーツの感動、愉快なお話などを綴ります。旅や花の写真、お祭り、ピーターラビットの「く~にゃん物語」などもあるよ。

<森本慶三記念館> 2階「歴史民俗館」で豪商の暮らしや文化を紹介

2023年10月30日 | 旅・想い出写真館

【内村鑑三や趙子昴の書、探幽の掛け軸…】

 岡山県津山市の自然史博物館「つやま自然のふしぎ館」の向かいに、重厚な洋風建築「森本慶三記念館」が立つ。約100年前の1926年に森本慶三(1875~1964)が国内唯一のキリスト教関連の図書館「津山基督教図書館」として建てた。図書館業務は2001年に終了。現在は講堂・研修室だった2階部分を江戸時代の豪商の暮らしぶりや文化などを紹介する「歴史民俗館」として公開している。

 記念館の建物は国指定の登録有形文化財。中の歴史民俗館は「津山商人(錦屋)の商い風景とその調度品」「津山商人の所蔵品」「創設者森本慶三の足跡」の3つのコーナーで構成する。まず目に止まったのが縦3文字の力強い長尺の書「大字赤壁之賦(せきへきのふ)」。中国の“書聖”王羲之以来の名筆家といわれる元代の書家趙子昴(趙孟頫、1254~1323)の真筆という。

 全長は前後2巻合わせて約40mもあり、肉筆で894字が綴られている。赤壁は曹操軍と孫権・劉備の連合軍が戦った古戦場。この戦いを題材に宋代の文豪蘇軾(1036~1101)が詩文「赤壁之賦」を作った。この書は「錦屋」が津山藩の佐久間家老から拝領したものという。

 「錦屋」は森本家の屋号で、江戸時代から明治末期まで約300年にわたって呉服業や金融業などを営んだ。趙子昴の書の上部には江戸前期の絵師狩野探幽の龍などを描いた軸装「三幅對(さんぷくつい」も展示(写真は部分)。これも佐久間家老からの拝領品とのこと。津山で探幽の作品に巡り合えると思っていなかったこともあって、しばし見入ってしまった。

 津山基督教図書館の創設者森本慶三は内村鑑三を師と仰いだ。内村は津山を3回訪れており、3回目は1926年のこの図書館の開館式だった。館内の森本慶三記念コーナーには内村の「禁酒非戦」と大書した横書きの額も展示中。内村は日露戦争に反対し、民衆に非戦を説いていた。

 森本家は一時時計店も営んでいた。それもあって「だるま時計」など珍しい時計も展示されている。英国のグラハム社製で約150年前の1877年製。その左側には大阪の天文道具師が18世紀前半に製作したという木製の天体望遠鏡。長崎・大村藩の天文方で実際に使われていたそうだ。

 「蒙古兵と戦う日本武士の彫刻」も目を引いた。蒙古兵とは1274年と1281年に博多湾に襲来した元寇。当時、全国各地の神社は「敵国降伏」を願って祈祷を行った。このケヤキの彫刻像はもと岡山県真庭郡の神社が所蔵していたもので、鎌倉時代の作と推定されている。

 館内には呉服商「錦屋」の店構えを再現した一角があり、特産の「作州かすり」などの展示も。京都の人形師が作った煌びやかな内裏雛や全国各地から集められた陶磁器類も見応えがあった。

(追記)津山を訪ねたのは2019年11月以来ほぼ4年ぶり。懐かしい城東地区の町並み(重要伝統的建造物群保存地区)を散策し、ほぼ中央に差し掛かると――。少し折れ曲がった通りの正面の建物が火災に遭ったように無残な姿をさらしていた。内部をのぞくと、被災からまだあまり時間が過ぎていない様子。

 近くの男性に伺ってみると、半年ほど前の4月上旬に材木店の倉庫から出火し、この家屋やアパートなど7棟ほどに燃え広がったという。男性は「熱風が押し寄せてきた」など当時の情景を語っていた。写真のこの家屋は空き家だったという。景観が重視される重伝建地区。今後どんな形で再建・整備されるのだろうか。

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<あおぞら吹奏楽> 奈良・明日香村「あすか風舞台」で

2023年10月29日 | 音楽

【ゲストにサックス織田浩司氏、京都・両洋高校吹奏楽部】

 奈良県明日香村の国営飛鳥歴史公園内「あすか風舞台」で、10月28日「あおぞら吹奏楽BRASS UNDER THE SKY」が開かれた。音楽の祭典「ムジークフェストなら2023」の一環。今年で11回目だが、これまでは春に奈良市の奈良公園春日野園地などで開いており、今回は時期も場所も一新しての開催となった。

 会場のあすか風舞台は「石舞台古墳」のすぐ西側の芝生広場。最初登場したのは生駒市の桜ケ丘小学校ハーモニックバンド。吹奏楽の実力校として知られ、今年8月に滋賀県守山市で開かれた小学生バンドフェスティバル関西大会でも金賞を受賞。関西代表として大阪城ホールで11月18日に開かれる全国大会への出場が決まっている。

 メンバーが着用するTシャツは学校名と同じ明るい桜色。1曲目は関西大会でも演奏したという「第6の幸福をもたらす宿」だった。続いて「マンボNO.5」。小学生とは思えない力強く歯切れのいい演奏。3曲目の「花祭り」では新しく入部したばかりの3年生たちが演奏に合わせ踊りも披露した。

 出演2番目は同じ生駒市の生駒中学校吹奏楽部。こちらも全国大会常連校で、10月下旬に名古屋市で開かれた全日本吹奏楽コンクール全国大会(中学校の部)で一足早く金賞を受賞したばかり。そのコンクールの課題曲だった「レトロ」と自由曲「カントスソナーレ」に続き、「鷲の舞うところ」、中島みゆきの「糸」、ジョン・レノンの「イマジン」を披露した。

 「糸」では「なぜめぐり逢うのかを……」の主旋律をフルートからクラリネット、そしてサックスとつなぎながら美しい音を奏でた。演奏後、指揮者の山上隆弘氏が千葉県の柏市立酒井根中学吹奏楽部とのジョイントコンサートについて報告した。同中学も全国屈指の実力校で、全国大会の会場で指導者同士が隣り合わせた縁で決まったという。開催時期は来年3月20日、場所は奈良県の橿原文化会館とのこと。

 この後の演目は「明日香村で序曲『飛鳥』を吹こう!」と題した特別企画。「序曲『飛鳥』」は櫛田胅之扶(てつのすけ)氏が古代の飛鳥地方をイメージして吹奏楽のために作ったもの。曲想の舞台はまさにこの地だ。演奏には「スペシャル合同バンド」として約100人が参加した。

 年齢は中学1年生から上は73歳と幅広い。遠く茨城県や長野県からという参加者もいた。指揮は藤重佳久氏。ホルン奏者で、吹奏楽のカリスマ指導者としても知られる。音合わせがこの日の午前中だけとは思えない統率のとれた演奏だった。

 いよいよ恒例のスペシャルゲストの登場だ。今年はサックス奏者の織田浩司氏(オリタ・ノボッタ)と京都市の両洋高校吹奏楽部が招かれた。織田氏が参加するのは第1回あおぞら吹奏楽以来という。地元の畝傍高校吹奏楽部とともに舞台に登場した織田氏は「銀河鉄道999」やホイットニー・ヒューストンの「すべてをあなたに」などを演奏した。

 ゲストバンド両洋高校の指揮者は先ほど「序曲『飛鳥』」を指揮した藤重氏。この春に吹奏楽部の音楽監督に就任した。童謡メドレーを皮切りに「星条旗よ永遠なれ」「オリンピアーダ」、北島三郎の「まつり」、唱歌「故郷」などを演奏した。さすがにマーチングバンド、動きの合った切れ味鋭い演奏スタイルが印象的だった。

 そしてファイナルステージ。舞台とその前に約300人の出演者がずらりと並び、全員でTHE BOOMの「風になりたい」を演奏した。最後を締める定番曲という。秋晴れの柔らかい日差しの中、管楽器の音色が青空へ心地よく響き渡る3時間だった。

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<つやま自然のふしぎ館> 開館からまもなく60年!

2023年10月26日 | 旅・想い出写真館

【展示総数2万点、珍しい動物の剥製なども約800体】

 岡山県津山市の観光スポットの一つ、自然史博物館の「つやま自然のふしぎ館」がまもなく開館60周年を迎える。展示物は動物の剥製をはじめ昆虫、貝類、化石・鉱石類など約2万点。動物の剥製約800体には希少動物の取引を規制するワシントン条約で今では入手が困難なものも多く含まれる。展示品の中には人体の実物標本も。「津山まつり」を機に初めて訪ねたが、想像以上の自然史コレクションの“宝庫”だった。

 ふしぎ館は津山城跡(鶴山公園)の入り口に位置する。オープンしたのは1963年11月3日。「津山基督教図書館」創立者の故森本慶三氏(1875~1964)が構想から30年余の準備期間を経て開館した。本来の館名は「津山科学教育博物館」だったが、より親しみやすいようにと2004年に今の名前に改めた。

 建物はかつての「津山基督教図書館高等学校夜間部」の校舎を移築・改装したもの。3階建てで、広さは約1500㎡。展示室は全部で15室ある。館内に入ると左手には「絶滅の危機にある世界の貴重野生動物」の展示コーナー。それぞれの剥製の前には「EN」や「VU」といった表示があった。それぞれ「絶滅危惧種」や「危急種」であることを示す。キンシコウなどとともにユキヒョウやクロヒョウも展示されていた。

 1階の第2室「人体の神秘と動物の骨格」には、初代館長で開館翌年死去した森本慶三氏本人のホルマリン漬けの臓器も並ぶ。遺言によるもので、岡山大学解剖学教室で執刀・処理されたもの。心臓や肺、腎臓などとともに脳も展示中。館内はほとんど撮影可だが、このコーナーだけは撮影禁止になっていた。動物の骨格標本の中にはキングコブラもあった。

 1階の第3室は「世界と日本の珍しい貝」、第4室は「昆虫の世界」。オオシャコガイは二枚貝の仲間で最大。展示中の標本は長さが45㎝、重さが45kgもあるという。昆虫コーナーには世界各地で採集された蝶とカブトムシなど甲虫の標本箱が所狭しと並ぶ。

 動物の剥製が多く展示されているのは2階と3階。日本とアジア・北米大陸・極地・オーストラリア・西アジアとアフリカなど地域別に展示。ただ第12室「世界の珍鳥」は改装中で閉じられていた。インドライオンは子どもを真ん中に親子3頭の剥製が並ぶ。森林伐採などで数が急速に減少しており、絶滅危惧種としてレッドリストに掲載されている。

 現在飼育されているヤギ・ヒツジの原種(野生種)といわれる動物4種も。インド南部に生息するニルギリタールやアフリカ北部の山岳地帯にいるバーバリーシープ(別名タテガミヒツジ)などで、これらも絶滅の恐れがあり「EN」や「VU」に指定されている。

 館内では動物の剥製の多くが自然に近い表情や動きのままに展示されている。口を大きく開けたナイルワニも迫力満点。数々の剥製を間近にして、その大きさにも圧倒された。クマタカをはじめ世界のタカ類もその一つ。羽を広げた姿の大きくて勇猛なこと!

 トラの仲間で最大のアムールトラは最も小型のスマトラトラとともに隣り合わせで並ぶ。いずれも「EN」絶滅危惧種。極地のコーナーでは巨大なホッキョクグマとゾウアザラシが向かい合わせの形で立ち上がって展示されていた。

 第10室「は虫類・両生類」にはワニやカメのほかオオサンショウウオも展示中。ホルマリン漬けのオオサンショウウオの中にコイをくわえたものがあった(写真の右下手前)。その説明文「冬眠後でお腹が空いていてコイを食べようとしたけど、大きすぎて窒息死したオオサンショウウオ。逆からもコイを食べようとした固体がいたようで、コイのしっぽがちぎれている」。

 このコーナーではオオサンショウウオの交雑についても触れている。在来種のオオサンショウウオは中国原産のチュウゴクオオサンショウウオとの間で交雑が起きており、京都の鴨川に生息するオオサンショウウオの多くもその交雑種という。2022年にも広島で交雑種が見つかったそうだ。

 ヒゲクジラの全身化石は1962年に地元の津山市内を流れる吉井川で中学生が発見した。全長は6mほど。約2000万年前のものと推定されている。

 日本関連では「EX」(絶滅種)のニホンカワウソや特別天然記念物になっている絶滅危惧種アマミノクロウサギの剥製も。ニホンカワウソは1970年代まで高知と愛媛でわずかに生息していたが、最後に確認されたのが1979年で、2012年に環境省が絶滅を宣言した。

 総展示数は約2万点だが、ほかに整理中のものも約4万点あるという。それにしてもよくこれだけ収集したものだ。多くは終戦後、各方面の学者や研究者、大学、研究機関などに広く呼び掛けて集めたという。ただ開館から半世紀を越え、建物の老朽化も進む。展示スペースには余裕がなく、歩くたび床はギシギシ。施設の新設も含め再考の時期を迎えているのかもしれない。

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<津山まつり> 「徳守大祭」だんじり20台が疾走

2023年10月24日 | 祭り

【“日本三大神輿”の大神輿も4年ぶりに巡行!】

 岡山県津山市は“西の小京都”といわれる。その城下町で10月15日と22日「津山まつり」が繰り広げられた。津山まつりは津山城の総鎮守徳守神社と東の大隅神社、西の髙野神社3社の秋祭りの総称。22日の「徳守大祭」にはだんじり20台が“出動”し、日本三大神輿といわれる徳守神社の神輿も4年ぶりに氏子地域を巡行した。

 津山まつりは津山初代藩主森忠政(織田信長に仕えた森蘭丸の弟)の頃に徳守神社の祭礼として始まったのを起源とし、約400年の歴史を誇る。津山だんじりは4輪車の台車の上にだんじりを乗せ、車と同じようなハンドルで進行方向を操作するのが特徴。

 かつて津山では“舁き山”としてだんじりを担いでいたが、江戸末期から明治にかけ台車に乗せて曳くやり方が主流になった。各町自慢のだんじりを他の町内にも披露するため長距離を移動できる台車方式に変わっていったという。社寺建築の技の粋を集めただんじりの彫り物も見どころ。

 台車部分は横に長く飾り幕で覆う。だんじりに乗るのは15~20人ほどの“乗り子”が中心。ほかは運転役や屋根役などの大人数人だけ。太鼓を叩くのも鐘を打つのも子どもたちの役目だ。そのだんじりを40~60人ほどの大人が2本の綱で曳く。

 徳守神社は3年前国の伝統的建造物群保存地区に指定された城西地区の旧出雲街道沿いに位置する。大神輿は重さが1125kg。本宮の22日正午、大勢の観客が参道を埋める中、神社を出発した。その後に子どもたちに担がれた神輿も続いた。

 神輿の出発を見届けた後、祭りの中心会場になっている目抜き通りの奴通りへ。まもなく「津山鶴丸太鼓」が始まった。女性中心のグループの演奏は実に力強い。腹の底に響くような大太鼓の音に、そばの人も「おおっ!」と驚きの声を上げていた。

 いよいよ見せ場のだんじりの登場だ。1台ごと紹介されて路地から突然現われては奴通りを南へ疾走し、また路地を90度曲がっていく。屋根の上には扇を持って曳き手を鼓舞する男性。無事に曲がりきるたび観客から拍手が送られた。

 各地のだんじり祭りでは曳き手を成年男性に限るところも多い。だが、ここでは女性も曳き手として多く参加し、並走する女性の姿も目立った。その勇ましい大人たちの背中を見ながら、乗り子たちも楽しそうだった。

 目の前を次々にだんじりが駆け抜けていく。と、その時ハプニングが起きた。曳き綱が絡まったのか、男性が転んだのだ。「あっ、危ない」。転んだ場所が少しでも違っていたら轢かれていたかも。怪我しなかっただろうか。岡山県下ではその2日前、真庭市の「勝山喧嘩だんじり」で若い男性が2台のだんじりに挟まれて死亡したばかりだった。

 だんじりはその後、アーケードの商店街からも次々に飛び出してきた。奴通りでお披露目を終えた各町内のだんじりは通りの南側に列を成してずらりと並んだ。その光景は壮観そのものだった。

 20台のだんじりの多くは江戸時代から明治時代にかけて担ぎだんじりとして建造されたもの。県の重要有形民俗文化財に指定されており“文化財だんじり”と呼ばれる。このほか今年は昭和以降新造された“飾り山車(だし)”と呼ばれる4台も参加していた。

 だんじりが勢揃いすると、奴通りでは式典が行われた。祭り関係者の紹介・挨拶が終わると、続いて「田町奴行列」や「津山情緒保存会」による民謡踊りが披露された。

 「備州岡山城鉄砲隊」による古式砲術の演武もあった。甲冑姿の隊員が横一列になって火縄銃を構える。「お子さんの耳を塞いでください」と注意を喚起する案内放送。「放て」。掛け声と同時に鳴り響く轟音と立ち上る白煙。そのすさまじい音に、観客の間からどよめきが起きた。

 氏子地区を巡行していた大神輿が2頭の獅子練りに先導され奴通りに到着したのは午後3時半ごろ。沿道を埋めた市民の大きな拍手で迎えられた。神輿はこの後、天満屋津山店が入る「アルネ津山」や観光センターなどを経て神社に帰還した。秋晴れのまさに祭日和の1日だった。

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<藤原宮跡> 大和三山借景に広大なコスモス畑!

2023年10月19日 | 花の四季

【北エリアに続き南エリアも見ごろに】

 約1300年前に都が置かれた藤原京(奈良県橿原市)の中心部、藤原宮跡に広大なコスモス畑が出現、見物客の目を楽しませている。栽培するのは高殿町・醍醐町・縄手町など地元の6町でつくる「藤原宮跡整備協力委員会」。毎年、春に菜の花、夏にキバナコスモスとハナハス、そして秋にはコスモスの植栽に取り組んできた。花の季節になると遠方客も次第に増え、宮跡を彩る花の名所として人気を集めている。

 コスモス畑は約3万㎡と広大。ここに大輪の「センセーション」や「ベルサイユ」、半八重咲きの「サイケ」など6品種を種まきし、最盛期には約300万本ものコスモスが咲き乱れる。ただ今年は夏の天候不順もあって、南北のエリアで生育状況に差が出ているという。北側エリア(約1万㎡)はいま満開から散り始め。南側エリア(約2万㎡)は5~6分咲きで、満開になるのは10月下旬~11月上旬の見込み。

 藤原京は持統・文武・元明天皇の3代にわたり694年から710年まで都が置かれた。天皇の住まいの内裏や大極殿などがあった藤原宮はおよそ900m四方で、高い塀の大垣で囲まれていた。宮跡は国指定の特別史跡。コスモス畑は宮殿を守護する“聖山”と考えられた大和三山を借景にして広がる。(写真㊤は畝傍山)

 藤原京の北側に位置するのが耳成山(140m)。その東南側にはなだらかな山容の天香具山(152m)、西南側には最も高い畝傍山(199m)がある。大和三山は万葉集にも多く詠まれ、いずれも国の名勝になっている。(写真㊤と㊦天香具山)

 南側エリアにコスモス畑の中に浮島のようにススキが群生する一角があった。その背後には持統天皇の歌で有名な天香具山が横たわる。「春過ぎて夏来るらし白たへの衣干したり天の香具山」。香具山は舒明天皇が国見をした山でもある。

 コスモス畑の東側には黄やオレンジ色が鮮やかなキバナコスモスの区画もあった。耳成山(写真㊦の右奥)はその北側にある。中大兄皇子(後の天智天皇)は「香具山は畝傍を惜しと耳成と相争ひき……」という“三山の歌”を残した。そこで示唆されているのは額田王を巡る中大兄皇子と弟大海人皇子(後の天武天皇)との三角関係か? 

 藤原宮跡を訪ねたのは10月18日の昼過ぎ。平日の水曜日にもかかわらず多くの見物客が詰め掛け、コスモス畑と大和三山を眺めながら秋の風情を満喫していた。秋晴れの下、青やオレンジ色の帽子を被った幼稚園児たちも楽しそうに歓声を上げていた。

 橿原市や明日香村などは2026年「飛鳥・藤原の宮都とその関連資産群」として世界遺産登録を目指している。藤原宮跡と大和三山もその構成資産。宮跡での草花の植栽にも登録運動への理解を広げたいとの思いが込められている。

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<枚岡神社> 「秋郷祭」布団太鼓台勇壮に宮入り

2023年10月16日 | 祭り

【稚児たちの神幸行列・神輿渡御も】

 大阪府下を代表する秋祭りの一つ、枚岡神社(東大阪市)の「秋郷祭(枚岡まつり)」が10月14~15日の2日間繰り広げられた。最大の見どころが勇壮な布団太鼓台の宮入り。9つの氏子地区には大小23台の太鼓台がある。それらの太鼓台が両日とも午後3時半から担がれて宮入りし、本宮の15日にはそれに先駆け午後零時半から神幸祭、神幸行列・神輿渡御、還幸祭も執り行われた。

 太鼓台は神社に近い氏子地区から順番に宮入りし、遠い地区から宮出していく。この日の先頭も例年通り「出雲井・鳥居」地区。続いて唯一大・中・小の3種の太鼓台を有する「額田(ぬかた)」が続いた。二の鳥居から緩やかな上りが続く参道を通って本殿下の広場までを約40人に担がれて2往復。太鼓と威勢のいい「チョーサジャ」の掛け声が境内に鳴り響く。

 広場に到着すると、まもなく太鼓台が担ぎ手の頭上まで持ち上げられた。「サセ」と呼ばれる見せ場の一つだ。見事に決まると、見物客から一斉に拍手と歓声が沸き起こった。もう一つの見どころが「しゃくり」。掛け声の「コーリャ コーリャ」とともに太鼓台が激しく上下に揺れる。

 太鼓台が広場の所定の位置に収まるたびに次の太鼓台が参道を上って広場へ。3番目は「宝箱(ほうそう)」、その後に「豊浦」「喜里川」「五条」「客坊」「河内」と続く。しんがりの「四条」の太鼓台が広場に姿を現したのは最初の「出雲井・鳥居」から既に1時間半近くたっていた。

 太鼓台は大きさだけでなく布団締めなどの飾りも様々。太鼓の響きや掛け声も地区ごとに微妙に異なるようだ。太鼓台と見物客の距離が近いのもこの祭りの特徴。規制線はなく、太鼓台はまさに人波を掻き分けるように進む。その前後にはそれぞれの地区の住民や関係者がぴったり張り付くように携帯やカメラを差し上げながら続く。

 宮入り前の神幸行列・神輿渡御は午後1時から始まった。枚岡神社は生駒山麓に鎮座するため、氏子地区はその眼下に広がる。行列は2本の「御神燈」を先頭に、約800mの距離にある一の鳥居まで巡行。行列の中には約90人のお稚児さんも。この日が日曜とあって多くの父母が付き添っていた。

 ご神体を乗せた神輿は笙(しょう)や篳篥(ひちりき)などを奏でる雅楽の奏者に先導され、白装束の若者たちに担がれて進む。その後ろには頭に華やかな花飾りを付けた10人ほどの巫女さんたちが続いた。

 巡行の途中、沿道で出迎えた市民の頭を獅子舞が噛む様子も見られた。噛んでもらうと邪気が払われ厄病も退散するといわれる。一の鳥居のそばには宮入りを控えた多くの太鼓台が待機していた。行列は一の鳥居を経て神社に向けて出発。巡行の途中には数回休憩をとって、お稚児さんたちも水分を補給していた。行列が神社に戻ったのは出発から約1時間20分後だった。

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<ホウキギ(箒木)> 旧属名から「コキア」とも

2023年10月14日 | 花の四季

【ヒユ科の1年草、実は「畑のキャビア・とんぶり」に】

 南欧~アジア原産のヒユ科バッシア属の春蒔き1年草。日本には平安時代に中国から渡来し、江戸時代には各地で栽培されていた。草姿はこんもりとした球状または円柱形で、高さは50~100㎝ほど。和名のホウキギは乾燥し束ねて箒として利用したことから。ホウキグサとも呼ばれる。

 学名は「Bassia scoparia(バッシア・スコパリア)」。属名は18世紀のイタリアの植物学者の名前に由来、種小名スコパリアは「箒状の」を意味する。秋に鮮やかに紅葉し、公園などの花壇を彩るのは「trichophylla(トリコフィラ)」という変種。和名は「ハナホウキギ」だが、旧属名から「コキア」の名前で親しまれている。その名所に国営ひたち海浜公園(茨城)、国営みちのく杜の湖畔公園(宮城)など。

 ホウキギは夏に黄緑色の花をたくさん付け、熟した直径1~2㎜の小さな実は「とんぶり」として食用になる。秋田県大館市の特産。その魚卵のような見た目とプリプリとした食感から「畑のキャビア」と呼ばれる。「唐から来たぶりこ(ハタハタの卵)」が転じて、とんぶりになったといわれる。「箒木に秋めく霧の一夜かな」(西島麦南)

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<奈良市埋文センター> 秋季特別展「亀甲形陶棺―変化と地域性」

2023年10月11日 | 考古・歴史

【所蔵陶棺を一挙公開、多彩な副葬品なども】

 古墳時代の後期から飛鳥時代にかけて、カメの甲羅のような亀甲形などの陶棺が作られ古墳や横穴墓に納められた。これまでに全国で出土した陶棺は岡山県と近畿地方を中心に約800点。奈良県内では約60点が見つかっており、うち43点が奈良市北西部の丘陵地から出土した。奈良市埋蔵文化財調査センターは開催中の秋季特別展「亀甲形陶棺―変化と地域性」(10/2~12/1)でそれらの陶棺を一挙に公開、形や大きさの変遷などを分かりやすく展示している。

 陶棺は粘土で成形し焼成したもの。多くは箱形だが、円筒形のものもある。焼成方法により赤みを帯びる土師質陶棺と、硬質で青灰色の須恵質陶棺に分かれる。また蓋の形によって亀甲形と家形の陶棺の2種類。奈良市内で出土した陶棺は土師質の亀甲形が大半を占める。その中には全長が2mを超える大きなものも。通路や展示室にずらりと陶棺が並ぶ光景はまさに壮観そのものだ。

 陶棺が多く出土する代表的な遺跡に「赤田横穴墓群」やその北側の「秋篠阿弥陀谷横穴墓群」など。展示中の赤田21号墓(6世紀後半)出土の亀甲形陶棺は全長208㎝、最大幅73㎝、高さ106㎝で、8行3列合計24本の円筒形の脚が付く。それより前の陶棺出現期の中山横穴墓(6世紀中頃)のものは全長約220㎝で脚は10行3列と、より大型に復元されるという。

 時代が下ると、陶棺は次第に小型化し脚の数も減っていく。赤田1号墓(7世紀前半)の出土品は全長が150㎝ほどで脚は6行2列。その後、赤田横穴墓群からは長さが100~120㎝で、脚の数も4行2列のものも現れる。小型化に伴って棺蓋と棺身を飾っていた突帯の模様もなくなり作りが簡素になっていく。

 さらに7世紀中頃以降、亀甲形陶棺は姿を消し、代わって円筒形や砲弾形が作られるように。これらの陶棺は小型化した亀甲形同様、大人の遺体を納めるには小さすぎることから、一度埋葬した遺体を白骨化させて納めた再葬容器の可能性が高いと推測されている。(写真㊤赤田18号墓出土の円筒形陶棺、㊦宝来横穴墓群出土の砲弾形陶棺)

 陶棺からは被葬者が身に着けていた装身具や鉄製品などが見つかっている。中でも副葬品が多く出土したのが2基の陶棺が並んで置かれていた赤田5号墓。土器類をはじめ耳環や碧玉製管玉、ガラス玉、鉄刀、鉄鏃などが見つかった。その耳環の輝きには目を奪われた。ただ副葬品も時期が下るにつれて種類が減少し簡素になっていく。

 亀甲形陶棺が多く出土する奈良市北西部は古墳の造墓や埴輪の生産に携わったとされる土師氏の本拠地といわれる。菅原東遺跡からは埴輪窯跡群が見つかり、ここからは陶棺の蓋や身、脚の破片なども出土した。このため埴輪と同じ窯で陶棺が生産されていた可能性が高いとみられる。

 横穴募からは陶棺や副葬品のほか、以前に作られた埴輪も見つかった。赤田19号墓(7世紀中頃)からは朝顔形埴輪と人物埴輪が出土した。それらは6世紀前半頃のもので、近隣の古墳から抜き取って再利用されたとみられる。センターでは陶棺の作り方や埴輪の存在から「赤田横穴墓群は土師氏の墓域の一つと考えられる」とし、埴輪の再利用についても「氏族伝承を再確認するための行為かもしれない」と推測している。

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<マツバボタン(松葉牡丹)> 葉が松葉に、花が牡丹に似て

2023年10月09日 | 花の四季

【ブラジルなど南米原産、別名「ヒデリソウ」】

 スベリヒユ科スベリヒユ属(ポーチュラカ属)の1年草で、原産地は南米のブラジルやアルゼンチンなど。日本に渡来したのは幕末の1860年代初めで、渡米使節と遣欧使節が相次いで種子を持ち帰ってきたという。高温・乾燥・日照を好む。和名は多肉質の細い葉が松の葉に、花がボタンに似ることから。草丈は10~20㎝ほどで、地面を這うように広がる。

 花期は6~10月ごろ。花色は赤・白・黄・ピンクなど多彩で、一重咲きと八重咲きがある。夏のかんかん照りにも強いことから「ヒデリソウ(日照草・昼照草)」とも呼ばれる。1年草だが、こぼれ種でよく殖える。小説家・園芸家の前田曙山(1872~1941)は『園芸文庫』に「余りよく繁殖するので、卑俗の花とされるが、花は美しく、不遇だ」と記した。爪で茎を切り取って植えても簡単につくことから「ツメキリソウ」という別名もある。

 学名は「Portulaca grandiflora(ポーチュラカ・グランディフローラ)」。属名は「門」「入り口」を意味するラテン語に由来し、種小名は「大きい花の」を表す。花がよく似る同属の仲間に「ハナスベリヒユ」(ポーチュラカとも)がある。靴べらのような幅広の葉の形から違いが分かる。「マツバギク」とも混同されがち。こちらは南アフリカ原産の多年草で、花の形がキクに似ることからの命名。「雑草に咲き勝つ松葉牡丹かな」「梅を干す昼照草の小庭哉」(いずれも正岡子規)

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<立命館「平和ミュージアム」> 全面改装し展示方法など一新

2023年10月05日 | メモ

【過去の戦争の歴史や市民の暮らしぶりを振り返る!】

 「立命館大学国際平和ミュージアム」(京都市北区)が大規模なリニューアルを終え、このほど再オープンした。開館したのは約30年前の1992年。「平和と民主主義」を教学理念に掲げる同大学が衣笠キャンパスの一角に設けた。工夫を凝らした長大な年表や歴史資料、テーマごとの展示などから、戦争と平和を自らの課題として見つめ直してほしいという願いが伝わってきた。

 入館は立命館の学生たちは無料だが、一般客は有料(大人400円)。常設展示コーナーは地下1階にある。地下に下りる入り口の左手に日本を代表する彫刻家本郷新(1905~80)の作品『わだつみ像』が立つ。この像の前では毎年12月8日前後に「不戦のつどい」が開かれているそうだ。上部の壁面には漫画家手塚治虫の不朽の名作『火の鳥』の大きなレリーフ。1階には長野県上田市にある戦没画学生の作品を集めた「無言館」の京都館もある。

 地下に下りると横幅が5m以上ありそうな大画面が目に飛込んできた。ここは「導入シアター」。世界各地の紛争などの画面が映し出され、こう問いかける。「あなたにとって平和とはなんですか?」「平和を築くために私たちはなにができるんだろう?」。年表は世界と日本の出来事の2本立てで1510年の「ポルトガル ゴアとマラッカを占領」から始まり、2023年の「世界人口80億人突破」まで続く。長さは約70mもある。

 その上のパネルでは主に1840年代の蝦夷地・小笠原・琉球の領有化から始まって、第2次世界大戦と終結後の冷戦などを日本の動きを中心に取り上げている。その中でアイヌや沖縄人、台湾先住民を“生身の人間”として展示した1903年の第5回内国勧業博覧会の「人類館事件」、1930年に起きた台湾先住民の抗日武装蜂起を警察力で弾圧した「霧社事件」なども紹介する。1943年の「ペンを銃に持ちかえて」と題した箇所では「立命館大学は約3000人の学生を戦地へと送り出し、軍隊に志願しない朝鮮・台湾出身の学生を除名(除籍)処分としました」と自戒の言葉を綴っていた。

 実物資料として展示中のものに満洲(中国東北部)で細菌兵器の開発に取り組んだ七三一部隊(関東軍防疫給水部)が使用した防毒面、1945年8月の広島原爆で被災死した高校生の作業服と弁当箱、長崎・浦上天主堂の被爆した聖像の頭部など。長さ2.5mほどの「核模擬爆弾」も展示している。1960~70年代に沖縄の伊江島で米軍が投下訓練用に使用していたという。米軍はベトナム戦争で核兵器を使うことも検討していたそうだ。

 年表パネルの向かい側には通路を挟んでテーマ表示のコーナーが広がる。「帝国日本の植民地・占領地」「十五年戦争の加害と被害」など4つのテーマごとに、現地住民の暮らしぶりなどを当時の写真や実物資料で紹介。南洋群島の項では「次第に一等国民内地人、二等沖縄人、三等朝鮮人、四等島民(現地住民)とする見方が広まり、沖縄と朝鮮の人々は差別されつつ差別する複雑な立場に置かれた」との説明が付いていた。

 同ミュージアムは博物館としての資料展示だけでなく、平和への取り組みなどを内外に発信してきた。ロシアによるウクライナ侵攻に関しても2022年3月2日、国連安全保障理事会の常任国で世界の安全と平和に責任を持つべきロシアを厳しく糾弾する声明を発表している。「反戦のために立ち上がっている人々と連帯し、速やかなロシア軍の引き上げと戦争責任者の処罰、賠償の開始など法の支配への回帰を訴えます」

 館内を出て右に曲がると、草むらに不思議な形の大きな陶器が4つほど転がっていた。はてな? そばに立つ説明板に「迎撃用ロケット燃料精製装置(呂号陶器)」とあった。その下には「1944年頃~1945年 京都市藤平窯業有限会社製作」。太平洋戦争の末期、軍部の要請で米軍のB-29迎撃用の燃料装置として作られたらしい。それにしても展示というより、粗大ゴミのような扱いはどうにかならないものだろうか。

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<高取町> 秋恒例のかかし祭り、今回が最終回!

2023年10月04日 | 祭り

【主催者の高齢化のため、「雛めぐり」も来春まで】

 奈良県高取町で「高取かかし祭り」(10月1~31日)が始まった。2009年にスタートし、今年で15回目。山城の高取城(1873年廃城)の旧城下町、土佐街道沿いに町民手作りのかかし約200体が並ぶ。秋恒例のイベントとして観光客の人気を集めてきた。ところがメーン会場に行くと「ありがとう!!…そしてさようなら!」という文字が掲げられていた。

 祭りを主催するのは「天の川実行委員会」。メーン会場は緩やかな上りの石畳が続く街道脇の「街の駅城跡(きせき)」内の催しスペース。毎年テーマに沿ったかかしが会場を埋め尽くす。初めて訪れたのは8年前の2015年。そのときのテーマは「薬の町」で、推古天皇の薬狩りの場面が再現されていた。一昨年2021年は「東京五輪」、そして昨年は「ザ・スモール・ワールド」だった。さて、今年は?

 「ありがとう!!…そしてさようなら!」とあったのは屋内の展示会場の入り口そば。ホームランの兜を被ったエンゼルスの大谷選手やイチロー選手、今年リーグ優勝を果たした阪神の野村監督らのかかしの前に掲示されていた。「さようなら」という言葉が気になり、緑色の法被姿のスタッフに声を掛けた。

 すると思いも寄らない回答が返ってきた。「今年が最後。スタッフの高齢化のためです」。改めてカラーちらしを見ると、左上に小さく「最終回第15回」と印刷されていた。実行委員会の会員は現在70代後半~80代の男女合わせて9人。そのうち2人が病気で、実働部隊は7人だけ。それらのメンバーには介護などで忙しい方もいるという。

 屋内のメーン会場に入ると、かかしが所狭しと並べられていた。壇上に掲げられたテーマは昨年と同じようなもの。最終回ということでこれまで展示したものも含めて一堂に展示したようだ。この会場は春の「町家の雛めぐり」のメーン会場にもなっている。スタッフによると、その雛めぐりも来年が最後になりそうとのことだった。

 メーン会場や街道沿いの土佐恵美須神社などに展示されたかかしには番号付きのものがあった。それらのかかし約100体は先着順で希望者にイベント終了後お譲りするという。かかし祭りが始まった1日と2日の2日間で8割方予約が入ったそうだ。そのため3日午前訪ねると、追加でかかしに番号を付けるスタッフたちの姿も見られた。

 高取では10月7~8日に秋祭りが開かれ、だんじりが土佐街道などを曳き回される。11月23日は「第35回たかとり城まつり」。土佐街道を中心に時代行列やよさこい踊り、火縄銃の実演、和太鼓の演奏などが繰り広げられる。

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