く~にゃん雑記帳

音楽やスポーツの感動、愉快なお話などを綴ります。旅や花の写真、お祭り、ピーターラビットの「く~にゃん物語」などもあるよ。

<アカミミガメ> 川・池に放つと懲役3年・罰金300万円以下!

2023年05月31日 | メモ

【明日から“条件付特定外来生物”に、アメリカザリガニも】

 北米産のアカミミガメがアメリカザリガニとともに外来生物法で“条件付特定外来生物”に指定され、6月1日から規制が始まる。今後許可なく川や池に放したり、輸入・販売したりすると、罰則・罰金の対象になってしまう。その罰則・罰金がなんと「3年以下の懲役または300万円以下の罰金」。一般家庭で引き続き飼うには寿命が来るまで面倒をみるか、または新しい飼い主を探し出して無償で譲り渡すしかなく、それもできないなら┄┄。(写真は奈良市内の秋篠川で甲羅干しするアカミミガメたち=2023年3月27日)

 特定外来生物に指定されているのは日本の生態系に悪影響を及ぼす可能性が高い動植物。指定動物にはアライグマ、ヌートリア、カミツキガメ、ウシガエル、オオヒキガエル、カニクイザル、ブルーギル、オオクチバス┄┄┄┄┄┄┄。ただ今回規制対象に加えられたアカミミガメとアメリカザリガニには「特定外来生物」の前に「条件付」が付く。なぜ? この2種は一般家庭でペットとして既に広く飼われている。アカミミガメの場合、かつて子ガメが「ミドリガメ」として縁日やペットショップで売られ子どもたちの人気を集めてきた。しかし成長して大きくなると、もう手に負えないと川や池に放つケースが目立つ。

 特定外来生物に指定された場合、飼育や輸入・販売には申請・許可など諸手続きが必要。そのためアカミミガメとアメリカザリガニを一気に「特定外来生物」にすると、手続きが面倒と川や池に捨ててしまう飼い主が多く出る可能性が高い。そこでペットして飼う場合や新しい飼い主に譲渡する場合は、手続きなしに認めることに。規制を「条件付」としたのにはこうした背景がある。(下の写真は奈良市の猿沢池でハトを襲うアカミミガメたち=2014年4月27日)

 では大きくなって世話ができず、新しい譲渡先も見つからなかったらどうしたらいいのか? 環境省はその場合「殺処分することもやむを得ません」という。残酷! そして「その場合も薬殺や冷凍などのできる限り苦痛を与えない適切な方法で行ってください」と呼び掛ける。アカミミガメはかつてミドリガメとして縁日で長く人気を集めた。アメリカザリガニは100年近く前に食用ウシガエルの餌用として日本に入ってきたという。アカミミガメにもアメリカザリガニにも罪はないが、規制が遅きに失した感は否めない。

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<ロウソクノキ(蝋燭木)> 細長い果実をロウソクにたとえ

2023年05月30日 | 花の四季

【花が幹から直接咲いて結実する“幹生花”】

 パナマなど中南米の熱帯地域原産のノウゼンカズラ科ロウソクノキ属の常緑樹。高さは6~7mにもなる。花の後に細長いツヤのある果実がぶら下がって実る。長さは30㎝ほど。原産地では1m前後にもなるという。その姿形から英語名が「candle tree(キャンドル・ツリー)」となり、和名もその直訳で「ロウソクノキ」と名付けられた。

 大きな特徴は花や実が太い幹や枝に直接付く“幹生花(かんせいか)”であること(果実を指す場合は“幹生果”)。幹生花は熱帯の樹木に多い。ロウソクノキのほかにもカカオやパパイヤ、ドリアン、パンノキ、タコノキ、ソーセージノキ、ホウガンノキなどがある。日本では枝にびっしり花を付けるハナモモやハナズオウなど。桜のソメイヨシノもしばしば古木の幹に直接愛らしい花を数輪付ける。これは“胴吹き桜”と呼ばれている。

 花は直径5㎝ほどの筒状花。黄みを帯びた乳白色で、花びらの縁はフリル状に波打つ。夜に咲いてコウモリなどに花粉を媒介してもらう。学名は「Parmentiera cereifera(パルメンティエラ・ケレイフェラ)」。属名はフランスの農学者A.A.Parmentier(パルメンティエ、1737~1813)の名前に因む。種小名は「ワックスを持つ」「蝋を有する」を意味し、果実の特徴を表す。果実は原産地で主に家畜の飼料として利用されているという。国際自然保護連合(IUCN)のレッドリストには絶滅危惧種(EN)として登録されているそうだ。

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<奈良女子大学管弦楽団> 「‘23スプリングコンサート」熱演

2023年05月29日 | 音楽

【ブラームス「ハンガリー舞曲」、シューマン第1番「春」など】

 奈良女子大学管弦楽団の「‘23スプリングコンサート」が5月28日、奈良県橿原文化会館大ホールで開かれた。新型コロナ禍でこの2年間は無観客や事前予約制などを余儀なくされ、通常開催は久しぶり。今回はオペラやミュージカル、吹奏楽の指揮活動の傍ら作曲や編曲などにも取り組む井村誠貴氏を客演指揮に迎え、19世紀ロマン派を代表するシューベルト・ブラームス・シューマンの作品を取り上げた。

 井村氏は現在、オーケストラMFI指揮者、春日井市第九演奏会音楽監督、関西音楽人のちから『集』代表などを務める。約20年前には4年ほど奈良女子大学管弦楽団の常任指揮者を務めたこともあるという。この管弦楽団の創立は1969年で、半世紀以上の伝統を誇る。ただ近年は団員不足に悩んでいるといい、この日も現役の団員数を超える卒業生や賛助出演者の応援も得て総勢60人余で演奏会に臨んだ。

 開演を前に井村氏が聴きどころなどを紹介した。最初の演奏曲目はシューベルトの「イタリア風序曲第2番」。シューベルトは当時人気だったイタリアの作曲家ロッシーニに心酔しており、この曲も「イタリア風というよりロッシーニ風。(短いフレーズを繰り返しながら音量を増す)ロッシーニ・クレッシェンドが特徴」。

 2曲目はブラームスの「ハンガリー舞曲集」。この曲を巡っては盗作騒動もあったが、ブラームスはあくまでも「作曲」ではなく「編曲」と主張し、咎められることもなく済んだ。舞曲集の好評に気を良くしたブラームスはドボルザークにも舞曲を書くよう勧めた。その結果生まれたのがドボルザークの「スラヴ舞曲集」という。最後の曲目シューマンの「交響曲第1番『春』」については「第1楽章は独立しているが、2~4楽章は切れ目なく連続して演奏します」などと話していた。

 いよいよ開演。シューベルトの「イタリア風序曲第2番」はハ長調ドミソの和音を基調とする明るい曲調。歯切れのいいリズミカルな演奏が耳に心地良く響いた。2曲目ブラームス「ハンガリー舞曲集」では全21曲中7曲を取り上げ、1番→3番→2番→7番→10番→5番→6番の順番で演奏。その中で1番と7番と5番と6番が印象に残った。

 1番では弦が奏でる叙情的な響きにうっとり、7番はスタッカートの明るく弾む演奏が印象的だった。5番はたぶん知らない人がいない、この舞曲集中最も有名な曲。まさにこれが舞曲、と思わせる力感あふれる演奏を聴かせてくれた。最後の6番も緩急、強弱のめりはりが利いて、7曲の演奏を締め括るに値する名演奏だった。指揮者井村氏の躍動的な指揮が団員の力量を最大限引き出しているように感じた。

 休憩を挟んで後半の演奏曲はシューマンの「交響曲第1番『春』」。シューマンは4つの交響曲を残している。この1番を作曲したのは1841年の初めで、3月にはメンデルスゾーン指揮・ライプツィヒ・ゲヴァントハウス管弦楽団によって初演された。シューマンはその前年1840年9月、父の反対を押し切って若いピアニストのクララと結婚している。

 第1楽章はトランペットとホルンの高らかな響きで始まる。春の訪れを祝うかのように命の躍動を管と弦が一体となって表現した。第2楽章は一転、弦と木管のやや悲しげな旋律が続く。作曲時には「夕べ」という副題が付けられていた。暮れなずむなか今日も平穏な一日が過ぎていく。そんな情景を連想し、ウクライナにも早く平和な日々が戻るよう願いながら耳を傾けた。

 第3楽章はまたまた一転、力強い演奏。シンコペーションの利いたリズムが実に心地いい。第4楽章は華やかな序奏から始まる。後半のフルートの伸びやかなソロ演奏が印象に残った。アンコール曲はかつて運動会の定番曲だったオッフェンバックの「天国と地獄」序曲。次の演奏会が待ち遠しい。(次回は12月9日やまと郡山城ホールで第52回定期演奏会)

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<ハマボッス(浜払子)> 全国の海岸に自生する海浜植物

2023年05月28日 | 花の四季

【茎先に多数の白い小花、沖縄には薄紅色の花も】

 北海道から沖縄まで全国の海岸に自生するサクラソウ科オカトラノオ属の2年草。波打ち際に近い岩場や砂地で、葉をロゼット状に広げて越年する。海浜植物には種子が海流によって遠くまで運ばれ、広大な分布域を持つものが少なくない。ハマボッスもその一つ。日本以外に中国や東南アジア、インド、太平洋諸島などにも分布している。

 花期は主に5~6月。根元で茎が枝分かれし高さが10~40㎝になる。それぞれの茎先に総状花序を形成、直径1㎝ほどの白い5弁の小花をたくさん付ける。和名ハマボッスは漢字で「浜払子」と書く。払子(ほっす)は僧侶が法要などで手に持つ白いハタキ状の仏具。花の咲く様子が払子に似ているとしてこの漢字が当てられた。ただ「浜坊主」からの転訛とする説も。こちらは花後にできる丸い蒴果を坊主頭に見立てた。

 学名は「Lysimachia mauritiana(リシマキア・マウリチアナ)Lam.」。属名のリシマキア属(=オカトラノオ属)は古代マケドニアのリュシマコス王への献名、種小名マウリチアナはインド洋の「モーリシャス島の」を意味する。その後ろの「Lam.」は学名の命名者が19世紀のフランスの博物学者ジャン=バティスト・ラマルク(1744~1829)であることを表す。モーリシャス島は当時フランス領だった。

 ハマボッスの変種に小笠原諸島に自生する「オオハマボッス」がある。その名の通り、葉や花がやや大きいのが特徴。ただ父島ではノヤギの食害で個体数が減少しているという。ハマボッスの花色は圧倒的に白だが、薄紅色を帯びたものもあり「ベニバナハマボッス」と呼ばれている。沖縄ではそのベニバナの方が多いそうだ。

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<ホウガンノキ(砲丸の木)> 巨大な果実、見た目もそっくり!

2023年05月27日 | 花の四季

【原産地はガイアナなど南米熱帯地域】

 サガリバナ科ホウガンノキ属の高木で、樹高は20~30mにもなる。原産地は南米のガイアナやブラジルなどの熱帯地域。果実は直径15~20cmほどの真ん丸い茶褐色で、幹から直接ぶら下がって実る。その果実の見た目が砲丸投げの砲丸によく似ることからホウガンノキと名付けられた。ホウガンボクともいう。

 花は直径6~10cmで、内側が淡紅赤色、外側がベージュ色。幹から垂れ下がった総状花序に付く。一日花。夜に芳香を出しコウモリなどを呼び寄せて受粉を手伝ってもらう。温室などで栽培する場合、花粉の媒介者がいないので放っておくと結実しない。このため結実には人工授粉を行う必要がある。

 国内で長い栽培実績があるのが京都府立植物園(京都市左京区)。約30年前の1991年に植栽し、2004年に人工交配で初めて果実をソフトボール大まで実らせることに成功した。その後も花期になると、毎年担当者がはしごを登って授粉作業に取り組んでいる。2009年には皇后時代の美智子さま(上皇后)がこの植物園をご視察した折、果実を自ら手に乗せられたそうだ。

 ホウガンノキの学名は「Couroupita guianensis(コウロウピタ・キアネンシス)」。属名は原産地での呼び名に由来し、種小名は「ガイアナの」を意味する。英語では果実が大砲の弾に似ることから「Cannon ball tree(キャノンボールツリー)」と呼ばれている。なお果実は臭気があるため食用にはあまり向かないという。

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<三国・雄島> 越前海岸最大の“神の島”

2023年05月26日 | 旅・想い出写真館

【神秘的な原生林と海食崖の景観】

 雄島は福井県坂井市三国町の観光地東尋坊の北約1.5kmの沖合に浮かぶ。周囲約2km。越前海岸最大のこの島には手付かずの原生林が残り、海岸には柱状節理や板状節理などの幾何学的な景観が広がる。約1300年の歴史を誇る大湊神社が鎮座する雄島は“神の島”としても崇められてきた。

 雄島と本土は鮮やかな朱塗りの雄島橋がつなぐ。全長224m。橋の正面には大湊神社の大鳥居。その左手には無数の柱を並べたような柱状節理の断崖が切り立っていた。雄島を形作るのは流紋岩という火山岩で、1200~1300万年前に噴出した溶岩が日本海の波浪によって侵食され現在の地形ができたという。その過程で島の南側と東側で柱状節理、北側と西側で板を重ねたような板状節理の景観が形成された。

 大湊神社の社殿は長い石段を登って左側に進んだ所、社務所の奥に鎮座していた。この神社にはその昔、源義経や朝倉義景、明智光秀など著名な武将が訪れ、北前船の船主や船乗りたちからも篤い信仰を集めてきた。毎年4月20日には海の安全や豊漁を祈願する「雄島祭」が行われ、船神輿と乙女神輿が繰り出すという。社殿の正面、海を見下ろす場所すれすれに赤い鳥居が立ち、その間から向こう岸にそびえる東尋坊タワー(高さ55m)などを望むことができた。

 雄島は全長約1.5 kmの遊歩道がぐるっと1周している。島の西側には白亜の雄島灯台が立つ。高さ約10.7mの小型灯台で、約70年前の1954年に初点灯した。そこから少し進むと“瓜割の水”の案内板が立っていた。雨水が地中に浸み込み地下水となって岩の割れ目から湧き出す。夏でも涸れることがなく、小鳥たちの貴重な水飲み場になっているという。地形図を参考に海岸の岩場に下りていき「多分この辺り?」と見回す。だが残念ながら“瓜割の水”を結局見つけることができなかった。

 残念といえば、もう一つ残念なことが。案内板によると、島の北東側の海岸には方位磁石を近づけると磁針を大きく狂わす“磁石岩”がある。「流紋岩の中の磁鉄鉱が何らかの原因で異常に強く磁化されたものと思われる」とのこと。しかし海岸を埋め尽くした板状節理などの雄大な景観に圧倒されるうち、磁石を試すことをすっかり失念し遊歩道を回り終わっていた。

 無人のこの島には手付かずの自然が残っており、タブノキやスダジイ、モチノキ、ヤブニッケイなど照葉樹林の森が広がる。林床にはヤブランやヤツデ、ウラシマソウなど。ゆっくり1時間半ほどかけて島を一周、再び雄島橋を渡って本土側へ。橋の上空には数羽の小鳥が猛スピードで飛び回っていた。イワツバメだ。海食崖や海食洞が続く東尋坊から雄島にかけよく見られ、近年は橋の下などコンクリート製の建造物に営巣することも多いという。3~5月に南方から飛来し、9月下旬までに帰っていくそうだ。

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<福井・三国> 江戸後期~明治初期、北前船交易で隆盛

2023年05月25日 | 旅・想い出写真館

【往時が偲ばれるレトロな町並み】

 九頭竜川の河口に位置する福井県坂井市三国町は古くから「越前三国湊」と呼ばれ、日本の十大港湾“三津七湊(さんしんしちそう)”の一つとして栄えた。とりわけ江戸後期~明治初期には北前船の寄港地として隆盛を極め、廻船問屋や豪商の商家が軒を連ねた。旧市街地の三国湊きたまえ通りには今も商家「旧岸名家住宅」や「坂井家住宅」、県内最古の鉄筋コンクリートの建物「旧森田銀行本店」などが立ち並んで、往時の栄華を偲ばせてくれる。

 岸名家は北前船交易で代々材木商を営んでいた三国湊を代表する商家の一つ。旧岸名家住宅は国登録有形文化財で、観光拠点「三国湊町家館」に隣接する(上の写真=手前が町家館、奥が旧岸名家)。坂井家住宅も三国の典型的な商家建築で、主屋と土蔵に九頭竜川に面した荷倉まで含めて国登録有形文化財。いずれも主屋の妻入り屋根の前面道路側に平入りの表屋を付けた“かぐら建て”という独特な建築様式が特徴だ。

 旧森田銀行本店は約100年前の1920年竣工で、西洋風のしゃれた外観を持つ。森田家は長く廻船業を営んでいた豪商だが、その後、海運業の衰退を予想し金融業に転換した。この近代的な建物の近くに樹齢300年ともいわれるタブノキの巨樹が立つ。廻船業で財を成した内田本家の庭に植えられていたというこのタブノキは三国湊の栄枯盛衰を見守り続けてきた。今では三国旧市街地のシンボルツリーになっている。

 三国にはかつて格式の高い2つの花街、「出村」(丸岡藩領)と「上八町(うわまち)」(福井藩領)があり、井原西鶴も「北国にまれな色里あり」と称した。福井を代表する民謡「三国節」の歌詞にも「三国女郎衆」「三国小女郎」「唄は上八町 情は出村」などが織り込まれている。出村界隈には今も見返り橋(写真㊦)、地蔵坂、思案橋など当時の遊里に因む地名が残っている。

 その近くに詩人三好達治(1900~64)が愛したという元料亭「たかだや」があった。達治は1944年から約5年間三国に滞在、その間に「花筐(はなかたみ)」「故郷の花」などを発表した。滞在中、頻繁に通ったのがこの料亭。達治は三国を去った後も三国を「心のふるさと」と懐かしんでいたそうだ。

 えちぜん鉄道三国駅を挟んで旧市街の反対側の高台に三国町のシンボル「みくに龍翔館」が立つ。五層八角の白亜の建物は北前船交易で繁盛した豪商たちが1879年に建てた龍翔小学校がモデル。1981年に旧三国町の郷土資料館として開館した。三国を訪れたのを機に館内を見学したかったが、あいにく改装のため休館中。坂井市全域を対象に歴史や文化を紹介する「坂井市龍翔博物館」として6月3日にリニューアルオープンするという。

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<サイコトリア・ペピギアナ> 妖艶な真っ赤な唇のような

2023年05月24日 | 花の四季

【その“苞”の中から白や黄色の小花が!】

 アカネ科の常緑低木で、中南米のコロンビアやコスタリカ、エクアドルなどの熱帯雨林に自生する。唇に真っ赤な口紅を塗ったような妖艶な花姿がひときわ目を引く。ただ、花びらのように見えるのは葉が変形した蕾を包む苞(ほう)。初めは緑色だが、開花時期が近づくと次第に鮮やかな赤に変色していく。

 開花期には苞の中央部分の集散花序に白または黄色の筒状花(花冠は5裂)が数輪ずつ開く。大きな苞に比べると花自体は小さくてあまり目立たない。苞や茎には柔毛が密生する。苞は花粉を媒介してくれるハチドリなどの昆虫を引き付けるため、こんな色や形に進化したとみられる。

 学名「Psychotria poeppigiana」の属名サイコトリアはギリシャ語の「生命」と「保つ」の合成語で、旺盛な生命力を表す。種小名ペピギアナは19世紀のドイツの生物学者エドゥアルト・フリードリヒ・ペーピッヒ(1798~1868)への献名。この植物は花姿から「ホットリップス(熱い唇)」と呼ばれることも。ただサルビアの仲間で紅白の花弁を持つチェリーセージも「ホットリップス」という園芸品種名で流通している。

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<三国祭> 6台の巨大な山車が巡行!

2023年05月21日 | 祭り

【8年に1度の華やかな「永代桜」も】

 福井県坂井市三国町で5月19~21日「三国祭」が開かれ、屋台に巨大な武者人形などを乗せた山車(やま)6台が練り歩いて町内は祭一色となった。三国町山王に鎮座する三国神社の春の例祭。江戸時代からの長い伝統を誇るこの祭は富山の御車山祭(高岡市)、石川の青柏祭(七尾市)と並んで「北陸の三大祭」ともいわれる。

 三国には山車が18台あり、毎年6台ほどが勇姿を披露する。毎年出る三国祭保存振興会の山車を除き、各区の山車の出番は3年や5年に1度。今年は8年に1度という桜町の華やかな山車「永代桜」も登場した。武者人形が乗らないのはこの山車だけ。人形は毎年作り変えており、今年は「新選組 吉村貫一郎」(岩崎区)、「勧進帳安宅の関 富樫左衛門尉」(中元区)、「釣鐘弁慶」(保存振興会)、「猩々(しょうじょう)」(上西区)、「加藤清正」(橋本区)だった。

 初日の19日には三国神社の鳥居前で「宵山車(よいやま)」が行われた。夕方には小雨も上がって晴れ間ものぞく好天に。神社周辺には保存振興会の「釣鐘弁慶」の晴れ姿を見ようと大勢の観客が詰め掛けた。弁慶が背負う鐘の大きなこと。三井寺の絵馬に描かれた鐘を背負い比叡山を登る弁慶の姿を再現したという。暮れゆく中、山車は若衆が掲げる高張提灯に先導されて神社周辺を巡行し、祭の開幕を告げた。

 祭のハイライトは中日の20日。朝、格納庫を出た各区の山車は笛、太鼓、三味線の祭囃子にのって続々神社へ向かい、午前11時ごろには全6台が勢揃いした。その頃、神社では巡行の安全を祈願する「山車発幸祭」。正午ごろにはご神体を遷した大神輿が山門をくぐって山車が待機する鳥居前まで下りた。この後、一番山車の「新選組 吉村貫一郎」から順番に鳥居直前まで進み、大きな車輪を軋ませながら回転技を披露していた。

 各山車は神社前から巡行に出発。狭い路地を通るときはリーダーの「おも」(面舵)、「とり」(取舵)といった掛け声で方向を微調整しながら進む。リーダーと山車前後の舵棒担当者や綱の曳き手の呼吸が欠かせない。屋台に乗った男性陣は運動場整地用のトンボのような道具で、人形や桜の飾りが電線や軒先に触れないよう気配りしていた。山車はかつて高さが10mほどもあったという。今では低くなったとはいえ5~6mもあるので、安全巡行には彼らの役割も大きい。

 囃子方の中心として活躍するのが法被姿の子どもたち。屋台前面で太鼓を打つ女の子たちのきりりとした表情と見事なバチさばきが印象的だった。山車の後ろには囃子方の交代要員が乗った華やかな台車が続き、途中で山車に乗り移って太鼓を叩き笛を奏でていた。古い町並みの一角にあるのが「三国湊町家館」。その前では6人の三味線による祭囃子の生演奏(竹世志会社中)も行われ、祭情緒を盛り上げていた。

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<なら歴史芸術文化村> 上皇ご夫妻がご訪問!

2023年05月18日 | メモ

【薬師寺模型「いつできた?」に担当者「昨日です」!】

 京都・奈良を旅行中の上皇ご夫妻が5月17日午前に奈良県斑鳩町の中宮寺を訪ね、午後には天理市の「なら歴史芸術文化村」をご訪問された。文化村がオープンしたのは1年2カ月前の2022年3月。ご夫妻は村内の「文化財修復・展示棟」で、文化財の修復工房やその前に展示された薬師寺東塔の模型などを御覧になった。(写真はいずれも2023年2月7日)

 薬師寺東塔は約1300年前の天平年間に創建され“凍れる音楽”とも形容される三重塔。高さは上部の相輪を含むと約34mあり、古い仏塔としては東寺五重塔、興福寺五重塔、醍醐寺五重塔に次いで国内4番目の高さ。その10分の1サイズの模型が歴史的建造物修復工房の前に展示されており、これまでも来場者の人気を集めてきた。

 ニュースなどによると、担当者は模型の前に置いた部材の組み物を使って、三重塔が釘を一切使用せず組み立てられていることを説明していた。そのとき上皇さまが「これはいつごろできた模型ですか」と聞いたところ、担当者はとっさに「昨日です」と答えた。「新しいですね」と上皇さま。そのやり取りに周りからどっと笑いが沸き起こった。

 上皇さまのご質問はたぶん模型自体の製作時期。これに対し担当者は説明用の組み物のことと勘違いして「昨日」と答えたのだろう。それとも「昨年」の言い間違いだったのか。「昨日」としたら、釘を1本も使わない匠の技を少しでも分かりやすく説明したい一心で、前日まで組み物づくりに取り組んでいたことになる。いずれにしろ「昨日」発言があったからこそ、その場がなごやかな雰囲気となり、文化村もニュースなどで多く取り上げられた。まさに瓢箪から駒!

(上の写真は歴史的建造物修復工房)

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<葵祭> 4年ぶり!平安装束の行列華やかに

2023年05月17日 | 祭り

【上皇ご夫妻も京都御所で出発をご観覧】

 祇園祭・時代祭と並ぶ京都三大祭の一つ、葵祭の「路頭の儀」(行列)が5月16日、新緑の都大路で華やかに繰り広げられた。3年連続新型コロナ禍で中止になっており、4年ぶりの開催。15日が天候不良のため1日順延となったが、この日は青空が広がる祭日和に。京都・奈良ご旅行中の上皇ご夫妻も京都御所の建礼門前で行列出発の様子を御覧になったそうだ。

 行列は午前10時すぎ御所を出発し、正午前下鴨神社に到着。休憩の後、午後2時すぎに下鴨神社を出発して上賀茂神社へ。午後は観客も少なくなって見やすくなるというので、賀茂川右岸の加茂街道で行列を待った。先頭がやって着たのは3時10分すぎ。馬に乗った京都府警平安騎馬隊が先導し、警護列や幣物列、勅使列などが続く。

 平安装束に身を包んだ行列の参加者は約500人に上る。これに馬36頭、牛4頭も加わって、「パッカ、パッカ」という馬の蹄(ひづめ)の音が新緑の街道沿いに響いた。花で飾り立てられた風流傘が華やかさを盛り上げる。御所車(牛車)は藤の花で覆われ、大きな車輪を軋ませながら目の前を通り過ぎた。その後ろに交代用とみられる牛がもう1頭引かれていた。

 男性陣中心の本列に続くのが女人列とも呼ばれる斎王列。赤い傘を差し掛けられた女性陣に続いて、十二単姿の斎王代を乗せた腰輿(およよ)という乗り物が近づいてくる。沿道の観客は一斉にカメラやスマホのシャッターを押していた。今年65代目の斎王代に選ばれたのは京都市出身の会社員松井陽菜(はるな)さん。京都府医師会会長松井道宣さんの次女で、日本舞踊若柳流の名取とのこと。

 陽菜さんはこの日の参列に備え、5月4日上賀茂神社で心身を清める「御禊(みそぎ)の儀」に臨んでいた。斎王代が乗る腰輿の前後には童女(わらわめ)という愛らしい少女たち。陽菜さんの凛とした表情が印象的だった。この後ろに斎王代に付き従う騎女(むなのりおんな)と呼ばれる巫女(みかんこ)や牛車が続いた。

 最後尾の牛車が目の前を通り過ぎたのは午後3時40分すぎ。約30分間にわたって葵祭の平安絵巻を間近で堪能することができた。

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<大和文華館> 「染織品と松浦屏風」展

2023年05月15日 | 美術

【多彩な染織の美を内外の作品でたどる】

 染織の技や美の変遷をたどる展覧会「染織品と松浦屏風―織物・染物・刺繍 いろとりどり」が4月7日から5月14日まで大和文華館(奈良市学園南)で開かれた。「古代の技術」「祈りが込められた糸」「憧れの裂(きれ)」「エキゾチックな布」「華やかな衣装」の5章構成で、展示品は国宝の『婦女遊楽図屏風』と『雪中帰牧図』を含む40点(他に参考出陳3点)。6曲1双の『婦女遊楽図屏風』は衣装の図柄や文様などがよく見えるようにとの配慮から、平面状に壁面に張り付ける形で展示されていた。

 案内ちらしに掲載された4点のうち左上は『赤地格子連珠花文経錦(蜀江錦)』。中国・隋~唐または日本・飛鳥時代のもので、蜀江錦は古代中国の錦の特産地、蜀(四川省)の地名から。こうした織物の断片「古代裂」のうち飛鳥・奈良時代のものは「上代裂(じょうだいぎれ)」と呼ばれる。唐時代・飛鳥~奈良時代の『上代裂帖』も展示されていた。

 写真右上は16~17世紀の中国・明時代の『清水裂(きよみずぎれ)』。濃い藍色の地に梅や鵲(かささぎ)、鹿、竹、零芝など吉祥を表す文様が描かれている。鹿は禄(ろく)との音通から立身出世を表すそうだ。写真左下は桃山時代の『辻が花裂』。絞り染めの一種、辻が花は約700年前の室町時代に生まれ、桃山~江戸時代初期に最盛期を迎える。だが、その後忽然と消えたため「幻の染物」といわれてきた。

 右下は国宝『婦女遊楽図屏風』(部分)。平戸藩主松浦家に伝来してきたことから「松浦屏風」ともいわれる。左右の屏風に遊女と禿(かむろ)と呼ばれる童女合わせて18人がほぼ等身大で描かれている。作者は不詳。制作年代は衣装の袖幅が狭い小袖や細い帯などから江戸初期の寛永年間(1624~44)の頃ではないかといわれる。当時の風俗が詳細かつ色鮮やかに描かれた名品だ。

 国宝『雪中帰牧図』は中国・南宋時代の12世紀後半に活躍した宮廷画家・李迪(りてき)筆。雪の中を牛飼いが歩む姿が繊細に表現されている。ただ経年劣化のためか、画面全体が暗く見にくいのが残念。重要文化財『刺繍五髷(ごけい)文殊菩薩像』(鎌倉時代)や重要美術品『阿国歌舞伎草紙』(桃山時代)と宮川長春筆『美人図』(江戸中期)、鳥文斎栄之筆『美人図』(江戸後期)、琉球の紅型(びんがた)4点なども展示されていた。

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<松伯美術館> 「松篁、松園を語る/松園、松篁を語る展」

2023年05月14日 | 美術

【上村淳之館長の講演会、けがのため中止に】

 日本画家、上村松園・松篁・淳之三代の画業を紹介する松伯美術館(奈良市登美ケ丘)で「松篁、松園を語る/松園、松篁を語る展」が開かれている。凛とした美人画で知られる上村松園(1875~1949)と花鳥画家として活躍した息子の上村松篁(1902~2001)。その親子はお互いの絵について話をしなかったそうだが、それぞれに思いを綴った文章は残っている。今展はそれらを基に二人の作品を紹介するという企画。会期は6月25日まで。

  

 この美術館の館長は花鳥画家の第一人者上村淳之さん(1933~)。昨年秋に祖母松園、父松篁に続き文化勲章を受章した。親子3代の受章はもちろん初めて。今展会期中の5月13日には館長の美術講演会も予定されていた。それを楽しみにこの日を選んで美術館へ。ところが入り口正面に「中止となりました」という張り紙。「えっ、なぜ」。窓口で問うと転んで骨折したとのことだった。講演の中で改めて受章の喜びの声を聞けると思っていたのに残念。館長の講演会は文化勲章受章記念の「こころの花鳥画展」(昨年12月6日~今年2月5日)会期中の1月14日にも開催予定だった。ところがこの時は新型コロナ感染のため中止になっていた。今秋には文化勲章受章⋅卒寿記念の特別展も控えている。早期のご快復を祈るばかりだ。

 今展の出品作は松園の作品が「花がたみ」「娘」「伊勢大輔」「鼓の音」に、「娘深雪」「焔」「楊貴妃」「序の舞」など代表作の下絵を加えて30点ほど。松篁の作品は横幅が7.6mもある超大作「万葉の春」や「閑光」「母子の羊」など。

 松篁は幼年期、母のことを「二階のお母さん」と呼んでいた。「母は自分の画室へ他人が入ると『気が散る』といつも言い、夜なべ仕事も明け方まで続けることが多かった」。自宅には骨董屋さんが古美術の目録を持ってよく出入りした。松園の品評をいつもそばで聞いていた。浮世絵なら、江戸中期の鈴木春信たちの作品を見ると「品があってええなあ」とつぶやき、歌川国貞以降の幕末期のものになると「品が悪いなあ。こんな毒々しいの、いやらしいな」などと言っていたという。松篁は「このようにして幼少のころ知らず知らずのうちに『格調』や『品の良さ』をかぎ分ける能力、素質を持つようになったのではないかと思う」(1986年日本経済新聞「春花秋鳥」)と振り返る。

 松篁は25歳のとき2羽の丹頂鶴を描いた作品「閑光」を第8回帝展に出品した。その直後、脚の描き方が気になり東京まで行って描き加えようかとまで思案した。そのとき松園からびしりとこう諭された。「あんた何くよくよ考えておいるのえ。出品画は描いてくるうちは自分のもんやけど、出してしもうたら人のもんだす。審査員は神さんと違いますえ。ささっと次の仕事のことお考えやす」。

 1937年の第1回新文展(文部省主催)には松園と松篁が同時に出品した。62歳の松園が「草紙洗小町」、35歳松篁が「母子の羊」。松園は自作について語る中でこう記す。「松篁は羊の絵を制作中でしたが、夜更になって、そっと松篁の画室の方をのぞいて見ますと電灯がついている。さてはまだ描いているなと思いまして、わたしも負けずにまた筆を執るという工合で、母子競争で制作に励んだわけでした」(1937年「大毎美術」)。

 松篁は母松園と自分の画力の差を痛感していた。「長い間、美人画一筋で人物の描き方を研究し、すべてオリジナルから技法を編み出して描いた母の絵は、まるで深みが違う。私のはただ概念的に、既成の人物画の技法を知識として学んだ絵で、改めて自分の底の浅さを思い知らされた」(1986年日経新聞「春花秋鳥」)。松篁が文化勲章を受章したのは1984年。松園の受章から36年後のことだった。受章の知らせを聞いた松篁は「これでやっと母に顔向けできたと感じた」と書き残している。

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<橿考研付属博物館> 特別展「神宿る島 宗像・沖ノ島と大和」

2023年05月11日 | 考古・歴史

【大和との強いつながりを示す国宝の数々!】

 奈良県立橿原考古学研究所付属博物館(橿原市)で春季特別展「神宿る島 宗像・沖ノ島と大和」が開かれている(6月18日まで)。沖ノ島は九州・玄界灘のほぼ中央に浮かぶ孤島。島全体が宗像大社(福岡県宗像市)の境内地で沖津宮が鎮座する。この島では古墳時代前期の4世紀後半から平安時代の9世紀にかけ、航海の安全を祈願する国家的な祭祀が連綿と続けられた。“海の正倉院”とも称される沖ノ島は2017年ユネスコの世界遺産に登録された。出土品などを展示する宗像大社神宝館をそのうち訪ねたいと思っていたところ、幸いこの特別展で代表的な国宝の数々と間近に接することができた。(写真は沖ノ島5号遺跡出土の「金銅製龍頭」)

 沖ノ島では1950年代から60年代にかけ3次にわたる調査が行われ、23カ所の祭祀場から約8万点もの遺物が見つかった。それら全てが国宝に指定されている。祭祀は遣唐使が廃止される平安時代の9世紀末まで約500年続いた。この間、祭祀場は島の岩上→岩陰→半岩陰・半露天→露天と変遷、同時に奉献品の内容も変化していった。今展での沖ノ島関連の展示品は20件165点(うちレプリカ2件2点)で、奈良県内の出土品と並べて展示中。その中には瓜二つのようにそっくりなものも多く、それらは沖ノ島と政治的な中枢であった大和の強い結びつきを示していた。(写真㊦沖ノ島18号遺跡出土「三角縁四神文帯二神二獣鏡」)

 初期の岩上祭祀段階(4~5世紀)では70面を超える銅鏡や腕輪形石製品、鉄製の武器・工具、鉄鋌(てってい)という延べ板状の鉄の素材などが見つかった。奈良の黒塚古墳(天理市)や島の山古墳(川西町)などの大型前方後円墳からも同様の出土品が見つかっており、橿考研では「沖ノ島の奉献品と個別に共通するだけでなく、組み合わせも共通する」(吉村和昭氏)と指摘する。(写真㊦沖ノ島16号遺跡出土の「鉄鋌」)

 岩陰祭祀段階(5世紀後半~7世紀)には銅鏡が減って鉄製の武器・武具、金属製の雛形品(鏡・紡織具・楽器)などが増える。新羅系の金銅製馬具やササン朝ペルシャのカットグラスなど東西交流を示す渡来品も多く見つかった。展示会場でひときわ目を引くのがガラスケース内に鎮座した「金銅製龍頭」(6世紀中国・東魏時代)で、まばゆいばかりの輝きを放っていた。同様の龍頭は統一新羅の王城(慶州)の月池でも出土しており、権力者に好まれる装飾品だったという。

 露天祭祀段階(8~9世紀)の主な奉献品は金属製雛形品、さまざまな土器類、滑石製形代(人形・馬形・舟形)、八稜鏡など。6点展示中の「奈良三彩小壷」(沖ノ島1号遺跡)は平城京跡など奈良県内の出土品と形も大きさもそっくり。同じような小壷は三重県・神島、岡山県・大飛島など重要な航路上に位置する島の祭祀遺跡からも出土。いずれも平城京周辺の官営工房で製作されたとみられる。

 このほかの展示品に「子持勾玉」(5~6世紀、写真㊤)や「鉄地金銅張剣菱形杏葉」(6世紀、写真㊦)、「金銅製雛形五弦琴」(7世紀、写真㊦)など。勾玉のうち右側のものは全長15.3㎝、最大幅7.5㎝もある。これら大型の子持勾玉は「大和の王権祭祀が執り行われた形跡として重要」という。杏葉は馬具の飾りで、同様の剣菱形は奈良県の条池南古墳(御所市)や大阪府の河内愛宕塚古墳(八尾市)などからも出土している。五弦琴は木製の琴を模したミニチュアとみられ、小さな琴柱(ことじ)も5個見つかった。よく似た類品に伊勢神宮内宮神宝の「鵄尾御琴(とびのおのおんこと)」があるそうだ。

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<平城京天平祭> 鷹匠による放鷹術を披露!

2023年05月05日 | 祭り

【疑似餌を持った小学生がタカと駆けっこも】

 奈良市の平城宮跡で5月3~5日、連休中の恒例行事として人気を集める「平城京天平祭」が開かれ、多くの市民で賑わった。様々なイベントの中で今年じっくり堪能したのが、中日4日に朱雀門ひろばで行われた鷹狩りのための放鷹術(ほうようじゅつ)。諏訪流鷹匠6人が手に乗せたタカを操って行き来させる「振替(ふりかえ)」などの技を披露、実技体験に参加した小学生が疑似餌を持ってタカと駆けっこする場面もあった。

 この日登場したのは鷹匠と鷹匠補の男女6人。鷹匠たちは鳥打帽の正装姿で、タカを手に乗せ観客が囲む大きな円輪の内側を何度も回った。この周回はタカをこの場の雰囲気に慣れされるためという。その間、NPO法人「日本放鷹協会」代表の森部智さんが鷹狩りの歴史などを解説してくれた。それによると、鷹狩りの文化は古い時代に大陸から渡来し、日本書紀には仁徳天皇が4世紀半ばに鷹狩りをしたとの記述があり、奈良時代の大伴家持も大ファンだったそうだ。

 この後、円陣の中で鷹匠たちが四方に位置し、餌が入った小箱「餌合子(えさごうし)」を叩いてタカを呼ぶ放鷹の技を披露した。合図に従ってタカが数十メートル離れた鷹匠の手から手に飛び移っていく。見事な技に拍手と歓声。と、飛び立ったタカが鷹匠を越え、観客の傘の上に降り立つハプニング。この後も観客を越えて円陣の外に着地したり、鷹匠じゃなく司会者に向かったり。いつもと違った雰囲気に、タカにもとまどいがあったようだ。

 観客の放鷹体験では多くの希望者の中から小学高学年の男女2人が選ばれた。まずお互いの手から手に飛ばす振替体験。タカを受ける側は後ろ向きで、止まる左腕を水平に伸ばす。放鷹と同時に「よーい、ドン」と疑似餌を持って逃げるタカとの駆けっこも繰り広げられた。この後、大人も2人参加したが、こちらは振替体験だけだった。走り慣れない大人はタカに追われると転ぶことが多く危ないからというのがその理由。

 最後に鷹匠が高く投げ上げた疑似餌をタカに捕らせる技を披露して、30分余りの演技を終えた。この後は観客の記念撮影。3人の鷹匠が手にするタカの前には長い行列ができ、自分のスマホなどを係員に渡し笑顔で撮影してもらっていた。

 朱雀門の舞台ではこの後、中国スーパー雑技団やまほろば円舞会、ダンスショー、太鼓の演奏などのイベントが繰り広げられた。雑技団の演目の中には一瞬で覆面を取り替える「変面」も。今年もその瞬間芸につい見入ってしまった。短時間に次々に取り替えた面はなんと16面にも上ったという。

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