く~にゃん雑記帳

音楽やスポーツの感動、愉快なお話などを綴ります。旅や花の写真、お祭り、ピーターラビットの「く~にゃん物語」などもあるよ。

<明日香村稲渕> 「彼岸花祭り」「案山子コンテスト」同時開催

2022年09月25日 | 祭り

【「世界平和」テーマのかかしは58点が参加】

 奈良県明日香村の稲渕(いなぶち)地区は農村の原風景といわれる棚田で有名。「日本棚田百選」にも選ばれている。その稲渕で9月24、25の両日「彼岸花祭り」「案山子コンテスト」が開催中。案山子(かかし)コンテストは今回で27回目。ただ彼岸花祭りは新型コロナ禍で2年連続中止だったため、同時開催は3年ぶり。24日には多くの見物客が黄金色に染まる稲穂と見頃を迎えた彼岸花に加え、“案山子ロード”に飾られたかかしを見ながら秋晴れのひと時を楽しんでいた。

 案山子コンテストは毎年テーマを決めて作品を募っている。以前かかし見物で訪れたのは8年前の2014年。その年のテーマは「童謡⋅唱歌⋅わらべ歌のものがたり」だった。今年のテーマは「世界平和」で58点が寄せられた。近鉄飛鳥駅前から無料シャトルバスで午前9時半ごろ稲渕へ。早速、棚田を巡る案山子ロードに向かった。最初に目を引いたのが真っ赤な彼岸花の間に展示された『世界平和なら任せろ! 野原一家ファイアー!!』というタイトルのかかし。世界平和→家族団欒→クレヨンしんちゃん……という発想で、野原一家の平和な家庭を表現したという。製作者は「万葉クリニックデイケア」。

  先に進むと『トットちゃん』と題したかかしがあった。黒柳徹子さんを模した作品で、「平和活動をするたまねぎおばさん」という説明が添えられていた。それにしてもよく似ている。頭髪の形だけでなく、服装や目元・口元も。つい、しばし見入ってしまった。

 その先に立っていたのはジャンボかかし『お地蔵さま』。これは主催者NPO法人明日香の未来を創る会が「世界平和への祈りを込めて建立した」。『まもるくん』というかかしは小学3年生の男児が中心になって作った。鳩を描いたまもるくんの平和の「かさ」の下に世界各国の国旗が吊り下げられ、中央に一回り大きいウクライナとロシアの国旗が飾られていた。

 案山子ロードの脇では薄紫色のフジバカマが咲き誇り、オレンジ色の蝶が舞っていた。ツマグロヒョウモンか。 フジバカマは長距離を移動する“渡り蝶”として有名なアサギマダラが好む野草としても知られる。もうしばらくすると、秋に南下するアサギマダラの姿がここでも見られるかもしれない。

 次に目に留まったかかしは『明日香の里の片隅で世界平和を祈る』。製作者は「大西啓運・久子」で、作品紹介欄には「竹とわらをベースに先祖が残してくれた布を使った一体のお地蔵様と六地蔵様です。お地蔵様に世界平和の祈りと、世界中で苦しむ子供達の命と健康をお祈りする為に作品作りに取り組みました」と書かれていた。

 『世界の子供達と手をつなごう』の製作者は軽費老人ホーム明日香楽園。「あすか丸」という一つの船に世界各国の子どもたちが楽しそうに一緒に乗っている場面を表現している。

 案山子ロードも終点の高台「稲渕朝日峠広場」に近づいてきた。見下ろすと、棚田が緩やかに弧を描き、黄金色の稲穂の間で赤い彼岸花が咲いていた。土手にも白や黄色の花々。黄花は彼岸花の仲間のショウキズイセンだ。花びらの縁が波打つ様子を、鐘馗さまのひげにたとえて名付けられた。白いシロバナヒガンバナは一般的な赤い彼岸花とショウキズイセンの自然交雑種といわれる。高台に張られたテントでは明日香産農産品の販売などが行われていた。

 高台の一角に『世界一小さな合唱団』と題したかかしがあった。製作者は「日暮雅夫・美智代」。「まん中で歌うのはウクライナの少女。そのまわりには世界の国・地域の子どもたち……どこの子どもたちにも明るい未来が訪れますように」との言葉が添えられていた。

 ロシアが隣国ウクライナに侵攻して約7カ月。それだけに「世界平和」をテーマにした案山子コンテストに寄せられた作品は、いずれも戦争のない平和な社会への祈りと願いが込められた力作ばかりだった。優秀作は来場者の投票によって決まる。私もここで取り上げた作品の中から2点に投票した。結果の発表と表彰式は25日午後2時頃に行われる予定だ。

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<松伯美術館> 「本画と下絵から知る上村松園…」展

2022年09月23日 | 美術

【珠玉の作品「鼓の音」「花がたみ」「楊貴妃」など】

 松伯美術館(奈良市登美ケ丘2)は近畿日本鉄道の名誉会長だった故佐伯勇氏の邸宅跡に立つ。気品あふれる美人画で知られる上村松園とその子松篁、孫淳之の三代の画業を紹介する場として1994年に開館した。その美術館でいま「本画と下絵から知る上村松園・松篁・淳之」展が開かれている。何枚もの素描や縮図帖、下絵などを通して、1枚の名品が生まれるまでの苦心の跡や試行錯誤の一端をのぞくことができる。

 松園(1875~1949)の作品では『鼓の音』や『花がたみ』などが本画と下絵を横に並べて展示中(写真はいずれも部分)。『鼓の音』は円熟期の65歳のときの作品で、ニューヨーク万国博覧会(1940年)に出品され絶賛された。下絵には手の部分と胸から上の部分に描き直した紙が貼られていた。下絵の横には松園自身が使っていた鼓が展示され、写真家土門拳が撮影した鼓を手にした松園の写真も。構図は喜多川歌麿の『松葉屋の遊女の見立五人囃子 松葉屋内染之助』を参考にした可能性が高いという。

 『花がたみ』は第9回文展で2等入賞した40歳の頃の作品で、謡曲『花筐』に想を得た。越前の皇子が継体天皇として皇位を継ぐため都に向かう道中、寵愛を受けていた照日前(てるひのまえ)が皇子から贈られた花籠を持って現れ、狂人となって舞う――。松園が最も苦心したのが狂人の“空虚な視線”の表現。松園はこの絵を描く前、精神科の病院を訪ね入院患者たちを観察した。祇園の芸妓・舞妓に狂乱を装って舞ってもらったこともあった。ただ「やはり真の狂人の立居振舞を数日眺めて来たことが根底の参考となった。何事も実地に見極めることがもっとも大切」と書き残している。本画は女性が正面向きに描かれているが、素描や小下絵の段階では横向きのものも多かった。

 松園作品ではほかに館蔵の『楊貴妃』『虫の音』が本画と下絵、『月と花(藤原時代春秋)』が個人蔵の本画と館蔵の下絵、『焔』が松浦直子さんの模写(2008~09年)と館蔵の下絵がそれぞれ横並びに展示。『楊貴妃』の小下絵の1枚には「楊貴妃ノ艶容ヲ画クと言フヨリモ 貴妃其人ノ頗ル思ヒ上リタル 人格描冩ヲ主トシテ」と書き添えていた。掛け軸の双幅『月と花』に描かれた人物は平安時代の女流歌人、紫式部と伊勢大輔と思われる。松園の『娘深雪』『待月』『砧』『草紙洗小町』などの下絵も、他の美術館などが所蔵する本画の写真を添えて展示されている。

 松篁(1902~2001)の作品では『狐』『夕日』『白木蓮』『芥子』『矮鶏(ちゃぼ)』がいずれも本画と下絵が、現館長淳之氏(1933~)の作品では『鳩舎』『鳧(けり)』の本画、大阪新歌舞伎座の緞帳『四季花鳥図』の原画と下絵などを展示中。11月27日まで。

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<岸和田だんじり祭> 34台、市街地を勇壮に疾走!

2022年09月18日 | 祭り

【旧市と春木の2地区で3年ぶり通常開催】

 大阪南部の泉州地域に、だんじり祭りの季節がやってきた。劈頭(へきとう)を飾るのは「岸和田だんじり祭」の岸和田旧市地区と春木地区。9月17日の宵宮には2地区合わせて34台のだんじりが曳き回され、交差点で豪快な“やりまわし”を披露した。通常開催は3年ぶり。新型コロナ禍の影響で一昨年は中止、昨年は規模を縮小しての無観客となっていた。2地区では本宮の18日、だんじりの宮入りが行われる。

 春木地区のだんじりは12台。宵宮の17日には早朝の“曳き出し”に続いて、午前9時半から“パレード”が繰り広げられた。会場は南海本線春木駅の北側にあるショッピングモール「ラパーク岸和田」前。纏(まとい)を先頭に太くて長い2本の綱に曳かれただんじりが、10分ほどの間隔で次々に登場した。1番だんじりは春木宮本町。これに春木中町、大道町、戎町、磯之上町……と続いた。

 会場では1台ずつだんじりが紹介された後、正面に乗り込んだ役員たちに花束が贈られたり、クラッカーの紙吹雪が舞う中、青年団長が胴上げされたりした。上空には大量の風船も。祭りを盛り上げようとそれぞれ趣向を凝らしていた。巨大な大漁旗を掲げる町会があれば、赤や黄など派手な衣装に身を包みひときわ目を引く町会もあった。

 式典の後、各だんじりはラパーク前から旧国道26号線を左折する春木若松町の交差点でやりまわしを披露した。だんじりは高さが約4mで、重さは4トンもある。鳴り物の太鼓・鉦・笛のお囃子に乗って、そのだんじりがスピードを落とさずに直角に曲がっていく。周辺はそのやりまわしを見ようと多くの観客であふれ返った。

 屋根の上で団扇を手に軽やかに舞う「大工方(だいくがた)」や、だんじりの方向をコントロールする「前梃子(てこ)」「後梃子」たちにとっても最大の腕の見せどころだ。前日の試験曳きもあって、次々に見事なやりまわしを見せてくれた。ただ中には綱を一斉に曳く呼吸が合わなかったのか、交差点前でいったんストップし、だんじりを後退させて再度やり直すところも。

 各だんじりはパレードの後、市街地を巡り春木駅前や祭礼年番本部前などでもやりまわしを披露した。スピード感は予想以上。だんじりの後ろ側で転ぶ法被姿の男性がいた。見物中に何度も救急車のサイレンが鳴り響いたのも気がかりだった。曳行されるだんじりは普通の早足ではとても付いていけない。法被姿の年配の男性は遠ざかるだんじりを見ながら「付いていかれへん」とぼやいていた。だんじりが休憩中の他のだんじりの横を通るときにはエール交換する場面も見られた。

 本宮の18日には春木地区のだんじり12台が泉州一といわれる弥栄神社の大鳥居を潜って宮入りする。これに先駆け午前7時からは“番外1番”として「春木南」の宮入りもある。春木南は参加している岸和田旧市地区のだんじり22台の中で唯一弥栄神社を氏神としているため(旧市の残り21台の宮入りは岸城神社または岸和田天神宮)。夜間には宵宮同様、だんじりの提灯に灯がともって灯入り曳行される。

 岸和田だんじり祭は旧市・春木地区に続き、10月にも国道26号から南側の市の中・南部地域で開かれる。宵宮が8日、本宮が9日で、東岸和田、南掃守(みなみはもり)、八木、山直(やまだい)、山直南、山滝の6地区で合わせて40台を超えるだんじりが参加する予定だ。

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<大和文華館> 企画展「一笑一顰―日本美術に描かれた顔」

2022年09月16日 | 美術

【印象的な表情が描かれた物語絵や肖像画など46点】

 大和文華館(奈良市学園南)で人物の表情に焦点を当てた企画展「一笑一顰(いっしょういっぴん)―日本美術に描かれた顔」が開かれている。一笑一顰とは笑みを浮かべたり眉を顰(ひそ)めたりといった、顔に現れるちょっとした表情の変化を指す。物語絵・歌仙絵・道釈画・肖像画・美人画の5つに分けて、平安中期以降に描かれた館蔵の人物画46点を展示している。10月2日まで。

 展示中の<物語絵>は『寝覚物語絵巻』(国宝)、『源氏物語浮舟帖』(重文)、『伊勢物語図色紙』など。『寝覚物語絵巻』は菅原孝標女の作といわれる『夜半の寝覚』を絵画化したもの。伝俵屋宗達筆『伊勢物語図色紙』の「六段芥川」には、主人公の男が夜の闇に乗じて誘い出した女と見つめ合う場面が描かれている。平安~鎌倉時代の王朝文学を絵画化したこうした作品では、女性は目が細く口や鼻も小ぶりに描かれているのが特徴。

 ただ鎌倉時代の佐竹本『三十六歌仙絵断簡 小大君像』(重文、チラシ写真の下側)では、目が細いものの上下の瞼の線が引き分けられている。その表情には「嘆くような内面の感情が表れている」というのだが……。作者は大和絵系の“似絵(にせえ)”の名手として知られる藤原信実といわれる。<歌仙絵>には俵屋宗達筆『僧形歌仙図』などのほか、六曲一双の『三十六歌仙色絵貼屏風』も展示中。これは三十六歌仙の絵と和歌の色紙を貼り付けたもので、顔はいずれも口元が小ぶりで愛らしく描かれている。

 <道釈画>は室町時代の禅僧が好んで描いた道教や仏教に関連する絵画で、展示作品は文清筆『維摩居士像』(重文、チラシ左上)、雪村周継筆『呂洞賓図』(重文)、仲安真康筆『布袋図』、俵屋宗達筆『寒山図』など。常人を超越した維摩や呂洞賓はあごひげを蓄えた威厳のある表情で、菩薩の化身とされる寒山や布袋は笑みを浮かべた柔和な表情で描かれている。

 <肖像画>には伝曽我蛇足筆『一休宗純像』、雪村周継筆『自画像』(重文)、尾形光琳筆『中村内蔵助像』(重文)、富岡鉄斎筆『菅原道真像』『渡辺崋山獄中図』など。『一休宗純像』の画面上部には一休自身の賛が添えられている。禅宗では師が自身の肖像に自賛を添え弟子に与える「頂相(ちんそう)」が鎌倉時代以降多く制作された。『中村内蔵助像』(チラシ右上)は京の銀座の頭役を務めた中村が生前の30代半ばに描かせたもので、光琳が描いた唯一の肖像画といわれる。

 <美人画>の展示作品は浮世絵師宮川長春の『美人図』(重文)、江戸幕府の旗本で浮世絵も描いた細田栄之筆『美人図』、土田麦僊筆『洗髪図』などが並ぶ。女性は桃山時代、風俗画の中に登場するようになるが、江戸時代に入ると一人立ちの美人画が流行。寛文年間(1661~73)には無背景の縦長画面に女性を単独で描いた“寛文美人図”がもてはやされた。江戸時代前期の六曲一隻の屏風『輪舞図屏風』も展示中。数十人の女性が大きな輪を作り童遊びに興じる姿が描かれている。

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<高島屋史料館> 企画展「画工画 明治の画工、世界に挑む」

2022年09月14日 | 美術

【下絵の大半は署名なく、作者は不詳!】

 大阪・日本橋にある高島屋史料館(高島屋東別館3階)で企画展「画工画(がこうえ) 明治の画工、世界に挑む」が始まった。2部構成で「高島屋の画室」と題した第1部の会期は10月24日まで、「下画(したえ)と染織品」と題した第2部は11月5日~12月19日。明治時代中期から貿易業に乗り出した高島屋は、当時「画工」と呼ばれた画家たちの下絵をもとに制作された屏風や壁掛けなど美術染織品を欧米に輸出した。企画展第1部では当時の下絵や書簡、記録などから画工画誕生の足跡を辿る。(写真は2021年8月に国の重要文化財に指定された高島屋東別館)

 高島屋は1882年頃から日本画家の岸竹堂や今尾景年らに下絵の制作を依頼していたが、本格的に輸出に取り組むため85年「輸出掛(かかり)画室」を新設。その画室には竹内栖鳳や都路華香、山元春挙、谷口香嶠、上田萬秋、菊池芳文、榊原紫峰ら錚々たる画家が名を連ねていた。史料館には彼ら画工が描いた膨大な下絵が保管されている。ただ下絵には署名や印がないため、大半は誰が描いたか分かっていない。

 企画展第1部に出品中の下絵も、作者名が判明しているのは谷口香嶠の1点と上田萬秋の2点の計3点のみで、そのほかはいずれも作者未詳。壁面2面には「“名も無き”画工が描いた画・図案」でびっしり埋め尽くされていた。谷口香嶠の『柳に鵞鳥図』(㊦)は白い3羽のガチョウを描いたもので、これを基に制作された刺繍大壁掛けは1904年に米国で開かれたセントルイス万国博覧会に出品された。(以下の写真はいずれも作品・ポスターの部分)

 上田萬秋の下絵2点は『松上の鷹』(㊤)と『波上飛雁』。上田は今尾景年に師事し花鳥画を得意とした。『松上の鷹』の下絵には紙を貼り直してタカの向きを変えた跡が残る。『波上飛雁』による友禅の壁掛けはセントルイス万博で名誉大賞・金牌を受賞した。作者不詳の下絵にも目を引く大作や名品が並ぶ。『夜桜に猿』(㊦)と『紅葉に猿』は同じ画家による一対の作品だろう。

 友禅『竹と薔薇と鶏図』は下絵の作者は不明だが、友禅師は大久保長吉と分かっている。友禅『鯉図』は下絵の作者も友禅師も不詳。変わったところでは1905年の「貿易店ポスター」。西洋の少年が「たかしまや飯田呉服店」と書かれた帳簿を持つユーモラスな図柄で、3人連れの若い男性たちが「おっ、いいねえ」と覗き込んでいた。ドイツの印刷業者への特別注文でこの極彩色の鮮やかなポスターが出来上がったという。このほか画工出勤簿や竹内栖鳳らの書簡、高島屋貿易部のアルバムなども展示中。

 高島屋が創設した画室には西洋の画集や雑誌類が多く集められ、画工たちはこれらを通じても西洋画の写実表現や遠近法などを熱心に研究したという。また高島屋当主の4代飯田新七(1859~1944)は襖絵の写生や図案考案のため、画工たちを伴ってしばしば法隆寺や大徳寺、平等院などを訪ねた。美術染織品の海外輸出を通じて高島屋が近代京都画壇の育成・興隆に果たした役割の一端を、この企画展で垣間見ることができた。

 11月5日からの第2部には100年以上の時を超えて里帰りした刺繍絵画『獅子図』が、神坂松濤の下絵とともに展示される予定。刺繍絵画は下絵を基に刺繍職人が針と糸で丹念に縫い上げて衝立や壁掛けなどに仕立てたもの。明治~大正期に室内装飾品として盛んに制作され欧米に輸出された。『獅子図』は京都高島屋で9月15~26日開かれる「刺繍絵画の世界展」にも出品される。

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<百舌鳥八幡宮> 3年ぶりに“ふとん太鼓”奉納

2022年09月11日 | 祭り

【秋祭り「月見祭」太鼓台大小18基が勇壮に】

 大阪府堺市北区の百舌鳥(もず)八幡宮の秋祭り「月見祭」で、9月10日 3年ぶりに“ふとん太鼓奉納行事”が繰り広げられた。「月見祭」と呼ばれるのはこの秋祭りの神事が中秋の名月に行われるため(今年はちょうどこの日10日が中秋の名月だった)。ふとん太鼓の奉納日は毎年その前後の土・日曜だが、過去2年はコロナ禍のため中止になっていた。10日には観客が境内や参道を埋め尽くす中、太鼓台が昼前から夜遅くまで次々と宮入りした。

 ふとん太鼓は地元9町にそれぞれ大型の太鼓台と小型の子供太鼓台が1台ずつ、計18台ある。太鼓を納めた台座の上に朱色の巨大な座布団を逆ピラミッド型に5段積み重ねているのが特徴。大型の太鼓台は重さが2~2.5トンもある。これを60~70人で担ぎ、途中で何度も担ぎ手が入れ替わる。台座部分には華やかな祭り衣装で化粧をした小学高学年の少年たちが乗り込み、太鼓を叩き囃子歌を歌う。

 宮入りが始まったのは午前11時。宮入り1番は赤畑町で、東参道から入ってきて、拝殿と樹齢700年以上という巨大なクスノキ(大阪府指定天然記念物)の間を勇壮に練り歩いた。担ぎ手の歩調に連動して、ふとん飾りの房が上下左右に大きく揺れる。この後、正面参道に通じる石段を下り、しばらくして上ってきた。各町内の持ち時間は1時間。赤畑町の太鼓台は正午前、境内の所定の太鼓蔵に蔵入りした。

この後の宮入りは“特番”の「子供太鼓連合」。大型の太鼓台と一緒に宮入りした赤畑町の子供太鼓を除く8町の子供太鼓が、正面参道の石段を上って次々に宮入りした。台座に乗るのは太鼓担当と囃子歌担当の計4人。子供太鼓の担ぎ手には女の子や小さな男の子も多く含まれていた。ただ石段を上るときには担ぎ捧に手が届かない子供も。子供太鼓も境内を練り歩いた後、それぞれの所定の場所に蔵入りした。

この後、午後1時20分から宮町、宮北町、西之町…と1時間おきに宮入り。自慢の太鼓台を担いで境内を練り歩いては、拝殿の前で差し上げたりしていた。担ぎ手の掛け声は「ベーラベーラベラショッショイ」。囃子歌にもこの文句が織り込まれている。この祭りは五穀豊穣を祈るもので、掛け声「ベーラ」も「米良」から来ているそうだ。担ぎ手のぴったり息の合った足の運びも見応えがあった。その力強い一歩一歩に、この3年分の祭りへの熱い思いがこもっていた(ように感じた)。

 最大の見どころだったのは鳥居直下の石段の上り。担ぎ手一人ひとりにかかる負荷は平地で担ぐときとは比べものにならないのだろう。階段の途中で止まることもしばしばだった。そのたびに観客からは「がんばれー」と声援が飛んだ。太鼓台の高さは担ぐと4mにもなる。下から見上げると、太鼓台と鳥居の上部が重なり合う。中には雲を表すという上部の白い四隅の飾りをいったん取り払う太鼓台もあった。それだけに無事鳥居を潜り抜けると、一斉に大きな拍手が湧き起こった。

 11日は太鼓台の宮出し。午前9時半からの子供太鼓連合の宮出しと放生祭お稚児行事に続いて、11時40分から1時間おきに赤畑町、本町、梅北町、西之町、中百舌鳥町、土塔町、陵南町、土師町と続き、最後尾の梅町の宮出しは午後9~10時の予定となっている。

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<奈良市写真美術館> 太田順一展「ものがたり」

2022年09月09日 | 美術

【遺物など「もの」の中に生きる“人の営み”を活写】

 入江泰吉記念奈良市写真美術館(奈良市高畑町)で、奈良県出身の写真家太田順一氏の個展が開かれている。題して「ものがたり ものの語りに目をそばだてる」。1950年生まれの太田氏は早稲田大学を中退後、写真家を目指すため大阪写真専門学校(現ビジュアルアーツ大阪)で学ぶ。卒業後は長く「人」ばかり撮っていたが、50歳手前から対象を「もの」「風景」に絞り込んだ。今回の展示作品の中にも人物を撮ったものはない。だが遺されたものから人の息づかいが聞こえてくる作品が多く、風景写真も様々な痕跡から生命や自然の永遠の営みなどが伝わってきた。

 太田氏はこれまで多くの写真集を発表してきた。『女たちの猪飼野』『ハンセン病療養所 隔離の90年』『大阪ウチナーンチュ』『佐渡の鼓童』『無常の菅原商店街』『化外(けがい)の花』など。このほかに『ぼくは写真家になる!』『写真家 井上青龍の時代』などの著書も。今回の個展は①菅原通 聖遺物②化外の花③父の日記④遺された家⑤ひがた記の5章構成で、それぞれ二十数点ずつ、合わせて約130点を展示している。

 ①の作品群は阪神大震災の直後に菅原商店街(神戸市長田区)の焼け跡を3日間歩き回って撮った遺物の数々。瓦礫の中に散乱した茶碗や印鑑、焼け焦げた手紙の束、裁縫の道具箱などが、つい先日まで続いた日常の暮らしを物語る。②では荒涼とした大阪湾岸の工業地帯でひっそり咲く草花を集めた。「よくぞまあ、こんなところに――私にとっては可憐で、崇高でさえありました」との説明が添えられていた。④はまだ家具や生活用品などがそっくり残ったままの空き家の内部を、⑤は貝が這い回った跡や波がつくる砂浜の紋様など干潟で繰り返される風景を撮ったもの。

 来館者の多くが最も時間をかけ覗き込んでいたのが③の父の日記。太田氏の父親が妻に先立たれ独り暮らしとなった68歳の時から約20年間書き続けていたという。その中にこんなくだりがあった。「今朝の新聞の読売歌壇を読む…いつも感じるが老人の歌が多い…どの歌も寂しく年をとれば皆寂しいんだなと思う 自分だけではないのだ」。「嫌な事が有っても我慢する 情け無いが仕方無い 我慢」の文章では「我慢」の文字が丸で囲まれていた。「物より言葉と言うが其の通り…物より優しい言葉の方が有難い」という言葉も綴られていた。

 「何の趣味もない昔の人間でしたから内容はいたって凡庸なものです」。太田さんは説明書きにこう記していたが、日記には含蓄のある言葉も多く含まれていた。ただ、小さな文字で丁寧に綴られていた日記も、時を経つにつれ文字は次第に大きく少々雑に。後半の日記には認知症を患ったとまどいや苦しさが赤裸々に綴られていた。「物わすれがきつく成って来てつらい」「自分の字がよめない…カン字が書け無く成った」「日毎にボケがキツクなって来る感じでつらい」――。太田さんによると、亡くなる2年前に施設に入った日を境に、日記は「錯乱したものに変わった」という。その日記は写真集『父の日記』(2010年)として出版されている。会期は11月6日まで。「没後30年入江泰吉 大和路1945―1970」展も同時開催中。

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