く~にゃん雑記帳

音楽やスポーツの感動、愉快なお話などを綴ります。旅や花の写真、お祭り、ピーターラビットの「く~にゃん物語」などもあるよ。

<関西サッカーリーグ> 奈良クラブ首位に!宿敵FC大阪に6―2と圧勝

2014年08月31日 | スポーツ

【アウェーでお祭り騒ぎ、優勝まで残り3試合】

 終盤に入った関西サッカーリーグ1部(8チーム)。30日には大阪市の鶴見緑地球技場でFC大阪―奈良クラブの頂上決戦が行われた。試合は奈良クラブが怒涛の攻撃で6―2で圧勝、今季リーグ戦無敗だったFC大阪に初めて土をつけた。その結果、奈良クラブが勝ち点24(7勝3分1敗)となって首位を奪還、FC大阪は勝ち点22(6勝4分1敗)で2位になった。試合直後、奈良クラブ選手の大きな歓喜の輪ができた。

 試合は午前11時半、奈良クラブのキックオフで開始。前半10分、奈良クラブの池田昌弘が右サイドから折り返したボールをゴール左隅に豪快に蹴り込んで先制。その池田が数分後、相手選手との接触で頭を負傷して退場するが、37分に小野佑輔、43分に鶴見聡貴、さらに45分には池田と交代した堤隆裕が立て続けに見事なゴールを決めた。前半4―0。両サイドを広く使った奈良クラブの速攻が功を奏した。

 

  

(3点目を決めた鶴見㊧と、負傷した池田に代わって出場し2ゴールを決めた堤㊨)

 後半も奈良クラブの攻勢が続く。57分、右サイドからの折り返しに2人の選手がゴール前に迫ると、その勢いに圧倒されたようにFC大阪の選手がオウンゴール。さらに63分には再び堤が6点目を蹴り込んだ。DF陣の頑張りも目立ち、伊澤篤らがゴール前で度々スーパーセーブを見せた。だが、その後はFC大阪が猛反撃。ヘディングゴールなどで2点を返しホームチームの意地を見せたが、前半の大量失点が大きくのしかかった。

 奈良クラブはこの夏の第94回天皇杯全日本サッカー選手権に奈良県代表として出場、1回戦で福島ユナイテッド(J3)を3―1で破ると、2回戦ではベガルタ仙台(J1)も2―1で下す大殊勲をあげた。8月20日に行われた3回戦のジュビロ磐田(J2)には0―5で大敗したものの、格上のクラブ2チームを撃破した自信は大きかった。この日の試合でもその勢いと力量を証明してくれた。

 

 奈良クラブにとってアウェーの試合だったが、リーグ戦の優勝の行方を左右する大一番とあって、奈良をはじめ各地から多くのサポーターが駆けつけた。ゴールの量産にスタンドはお祭り騒ぎ。前列の女性はこの日先発したGKシュナイダー潤之介(上の写真㊨の15番)の横浜FC時代からのファンで、横浜からやって来たという。そのシュナイダー選手の母親もスタンドで息子の活躍を見守っていた。

 試合後「盛り上げ役」を自任するDF岡山一成が先制点を上げた池田と並んで奈良テレビのインタビューを受けていた。池田の頭部には痛々しい白いガーゼ(下の写真㊧)。病院で8針縫ったという。頭のケガだけに「病院で(診断結果が出るまで)ヒヤヒヤしていた」そうだ。岡山は球技場の前でも多くのファンに囲まれ、気さくに記念撮影に応じたり、このほど出版した著書『岡山劇場』や色紙にサインしたりしていた(写真㊨)。就任1年目の中村敦監督は大勝に一瞬笑みがこぼれたが、まだ3試合残っていることもあって、引き締まった表情でインタビューに答えていた。

  

 奈良クラブは9月7日に関大FC2008(7位)と橿原公苑陸上競技場でホーム最終戦を行い、その後、15日にアルテリーヴォ和歌山(4位)、20日に阪南大クラブ(8位)と戦う。その後、28日から全国から32チームが参加する第50回全国社会人サッカー選手権大会(会場和歌山県)が始まる。奈良クラブの初戦の相手はMD長崎(長崎県リーグ1部)。JFL昇格への戦いが続く。

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<モミジガサ(紅葉傘)> 名は葉がモミジ状で、傘をすぼめたような若葉の形から

2014年08月27日 | 花の四季

【〝山菜の王様〟とも、別名「モミジソウ」「シドケ」「キノシタ」など】

 キク科コウモリソウ属の多年草で、日本の固有種。湿気のある落葉樹林の林床や林縁に自生し、8~9月ごろ、直立した茎の先端に白く細長い筒状花を多く付ける。草丈は50~100cmほど。地下茎で繁殖し群落をつくる。葉はモミジのような掌状で5~7つに裂ける。葉が広がる前の若葉が傘をすぼめたような形をしていることから「紅葉傘」の名が付いた。別名「モミジソウ」。

 若葉には独特の香りと苦味と歯ごたえがあり、タラの芽とともに〝山菜の王様〟ともいわれ人気が高い。とりわけ東北地方では古くから「シドケ」「シトギ」などと呼ばれて親しまれてきた。やや薄暗い樹陰を好むことから、日陰での下積みの末、天下を取った木下藤吉郎(豊臣秀吉)になぞらえて「キノシタ」や「トウキチロウ」「タイコウナ」などと呼ばれることもある。

 ただ若葉や若芽は毒草のトリカブトに似ているため注意が必要。2009年春には新潟県上越市でヤマトリカブトをモミジガサと間違え、おひたしにして食べた家族が食中毒症状を起こしたこともあった。トリカブトは葉が中心部まで深く裂ける▽根は逆三角形の塊根(モミジガサは白いひげ根)▽花の色が紫――などの違いがある。モミジガサは抗がん作用でも注目を集めている。発表したのは岩手大学農学部の研究室で、その成分から抗がん作用のある活性物質(バイオプローブ)を発見したという。

 モミジガサと同じコウモリソウ属にテバコモミジガサ、カニコウモリ、オオカニコウモリ、タイミンガサなど。テバコモミジガサは最初の発見地、高知県の手箱山にちなむ。モミジガサを一回り大きくしたオオモミジガサは別のオオモミジガサ属で1属1種。「トサノモミジガサ」とも呼ばれる。これも最初に土佐(高知)で見つかったことによる。ただ、このオオモミジガサは東京、神奈川、岡山、奈良など多くの都県で絶滅危惧種や準絶滅危惧種としてレッドブックに掲載されている。

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<北九州市立水環境館> 観察窓「見ちゃりぃ川ん中」紫川の水中を真横から!

2014年08月25日 | メモ

【目の前を次々に泳ぐスズキ、チヌ、ウナギ、シマイサキ……】

 北九州市最大の河川・紫川(水源福智山、全長22.4km)。その河口域に「北九州市立水環境館」(小倉北区船場町)がある。入館無料。目玉は大きな水槽のような「河川観察窓」だ。そばに「見ちゃりぃ川ん中」「水槽ではありません 川の中です」という表示があった。目の前を30cmほどもあるスズキ(セイゴ、下の写真)やチヌ(クロダイ)が泳ぐ。それを目にした時、かつて〝死の海〟とまで形容された洞海湾で数年前、エイが海面を飛び跳ねる光景を見た時と同じ感動が蘇ってきた。

 水環境館は「紫川マイタウン・マイリバー整備事業」の中核施設として2000年にオープンした。観察窓のほか、紫川の上流・中流の生き物を紹介する生態水槽、カニばかり集めたカニコレクション、水環境を学ぶAR(拡張現実)体験コーナー、ちびっ子たちに人気の発電体験アトラクションなどのコーナーがある。昨年1月には入館者が200万人を突破した。今は8月末までの期間限定で企画展「紫川の汽水魚」も開催中。(下の写真は上段㊨オヤニラミ、下段㊧ゴクラクハゼ、同㊨トビハゼ)。

 

 

 観察窓は縦2.3m、横7.2mの透明アクリルパネル。居ながらにして川の中を覗けるこの観察窓は中学生のアイデアがもとで生まれた。水環境館を訪ねた日はあいにくの雨模様で川の水も茶色がかっていたが、それでもスズキが何匹も行きかい、チヌや大きなウナギ、シマイサキ、かわいいクサフグなどを見ることができた。おまけにヘビまで。何度も来ているのか、魚の名前に詳しい子どもが多かった。

 この観察窓からは他にヒイラギやボラ、ゴンズイ、モクズガニなども見ることができるという。潮の満ち干による〝塩水くさび現象〟も観察できるそうだ。川の水より重い海水が細長い楔形のようになって川底を遡ることから、こう呼ばれる。観察室の横にはかつての紫川の水を再現した、どす黒い水が入った円筒形の容器があった。洞海湾も、この紫川も、よくぞここまで水質が改善したものだ。市民、企業、行政が一体となった長年の努力の結晶だろう。

 

 館内の一角に「紫川にギギはいた!!」とカラフルに大書した水槽があった。ギギはナマズの仲間で、体長は25cmぐらい。外敵を威嚇する時「ギーギー」と音を出すという。紫川では30年ほど前の目撃情報を最後に絶滅したとみられていたが、2012年に市民の通報で生息が確認された。展示中のギギもその市民から寄せられたものだが、夜行性とあって水草の陰に隠れよく見えなかったのが残念。(上の写真㊨はハクセンシオマネキ。オスは片方のハサミが大きく、それを動かす様が白い扇のように見えることから「ハクセン」の名が付いた)

 下の写真は後日、橿原市昆虫館で撮影したギギ

    

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<太宰府> 天満宮の長い歴史を物語るクスノキの巨樹たち

2014年08月24日 | 旅・想い出写真館

【観世音寺の国宝の梵鐘は京都・妙心寺の鐘と兄弟!】

 菅原道真が京の都から左遷させられた九州・大宰府で没したのは今から約1110年前の903年(延喜3年)。没後、遺骸を牛車で運んでいたところ牛が伏して動かなくなったため、これは菅公(道真)の御心によるものだろうとその地に葬られた。太宰府天満宮(福岡県太宰府市)は道真の墓所の上に社殿が造営されている。(古代の役所は「大宰府」、現在の市名や神社名などは「太宰府」と表記)

 

 心字池に架かる赤い欄干の橋は太鼓橋、平橋、太鼓橋の3つが連なる。過去・現在・未来の「三世一念」という仏教思想を表しているという。本殿に向かうと正面右手に有名な飛梅。「東風(こち)吹かば匂ひをこせよ梅の花 主なしとて春な忘れそ」。京を去る時こう詠んだ道真を慕って一夜にして飛んできたと伝わる。

 

 本殿を囲むようにクスノキの巨木などが生い茂って〝天神の杜〟を形成する。とりわけ目を引くのが社務所北側にある国指定天然記念物の大クスノキ(上の写真㊨)。高さ39m、目通り幹周り12m。樹齢は説明版によると「千年とも千五百年ともいわれる」。大地にしっかり根を張る力強い姿に圧倒された。境内には他にも県の天然記念物に指定されたクスノキが48本もあるそうだ。

 

 本殿周囲には道真とゆかりのある様々な石碑が立つ。その1つが「野見宿祢公碑」。宿祢は「日本書紀」などに登場する出雲の勇士で、当麻蹴速と相撲をして勝ったことから相撲の祖神といわれる。説明文に「菅原道真公の祖先にあたり……」とあった。宿祢は土師氏の祖ともいわれ、その土師氏の中で居住地の大和国菅原邑にちなんで姓を菅原に改めた氏があった。現在の奈良市菅原町辺りは道真の生誕地ともいわれ、宿祢や道真を祭る菅原天満宮の近くには産湯を使ったという誕生池まである。

 境内東側、九州国立博物館に向かう途中に「如水の井戸」(上の写真㊨)があった。如水は福岡藩初代藩主黒田長政の父で、軍師官兵衛として知られる考高(よしたか)の出家後の号。太宰府天満宮を崇敬していた如水は晩年、ここに草庵をつくって約2年間を過ごしたという。27歳の若さで「国民新聞」を創刊した徳富蘇峰(猪一郎)の詩碑もあった(下の写真㊧)。蘇峰は文豪・徳富蘆花の実兄。碑には道真の生涯と精神を讃えた詩が刻まれている。境内では夏らしく〝水みくじ〟を水に浸し浮き上がる文字に見入る観光客の姿も見られた。

 

 天満宮の西側には古代最大の地方の役所で「遠の朝廷」と呼ばれた大宰府政庁跡(都府楼跡)が広がる。そのそばに九州の寺院をまとめる「府の大寺」として栄えた観世音寺がある。ここには奈良・東大寺、栃木・下野薬師寺と並ぶ日本3戒壇の1つが置かれた。境内の一角にある梵鐘は国宝指定。創建当時の鐘で日本最古といわれる。説明文に「京都・妙心寺の鐘と兄弟といわれ、その古さに於ても亦優秀さに於てもまさに日本一と称され……」。鐘の表面を彩る深い緑青の色が歴史の長さを物語っていた。

 

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<唐津> 唐津城は天守閣の石垣修復中 虹の松原や高島を遠望

2014年08月23日 | 旅・想い出写真館

【曳山の塗り替え作業公開、旧唐津銀行本店は地元出身の辰野金吾監修】

 唐津のシンボル、唐津城は松浦川が唐津湾に注ぐ河口の左岸高台に位置する。別名舞鶴城。約50年前の1966年に築かれた天守閣の直下では、石垣の解体修復工事が行われていた。築城から約400年。往時を偲ばせる石垣も緩みを生じ、石材自体のひび割れや劣化も目立って、崩落の恐れが出てきたことによる。修復工事は10年がかりで、完成は2018年の予定という。

 

 唐津城の眼下東側には日本三大松原の1つといわれる「虹の松原」(国の特別名勝)が美しい弧を描いて伸びていた。初代藩主寺沢広高が植林したもので、クロマツを中心に100万本という松林が1kmの幅で5kmも続く。唐津城の北側沖合いに浮かぶ平らな島は高島(下の写真㊨)。島内にある「宝当神社」がそのめでたい社名から宝くじファンの聖地として一躍有名になった。

 

 城周辺は舞鶴公園と呼ばれる。その一角、巨樹のフジ棚の近くに歌人・斎藤茂吉の歌碑が立っていた。「松浦河 月あかくして 人の世の かなしみさへも 隠さふべしや」。1920年(大正9年)喀血後の転地療養で唐津に滞在していた時に詠んだ。城を下って中心街に向かう途中「時の太鼓櫓」を見上げていると、おなかに響く大きな太鼓の音とともに武士人形と大太鼓がせり出してきた。からくりは午前7時~午後7時の毎正時ごとに作動するという。

 

 唐津といえば「唐津くんち」が有名。唐津の総氏神、唐津神社の秋祭りで、国指定の重要無形民俗文化財。毎年11月2~4日、14台の曳山が製作年代順に、火消し装束の曳き子によって城下町を練り歩く。最も古い1番曳山は1819年(文政2年)製作の「赤獅子」。神社西側にある曳山展示場に入ると、獅子や兜(かぶと)、鯛、鯱(しゃち)などの曳山が誇らしげに鎮座していた。そこから歩いて数分の「西の門館」では6番曳山「鳳凰丸」の塗り替え作業を見学することができた。

 

 中心街の一角にひときわ目立つ欧風の建物があった。市指定重要文化財「旧唐津銀行本店」(下の写真)。竣工は約100年前の1912年(明治45年)。唐津出身の建築家・辰野金吾(1854~1919)の監修で、愛弟子の田中実(清水組)が設計を担当、京都高島屋が装飾を受け持った。辰野金吾といえば東京駅丸の内駅舎の設計で有名だが、関西にも日本銀行の大阪支店や京都支店、大阪市中央公会堂、奈良ホテルなど多くの名建築が残っている。

 

 旧唐津銀行に入ると、その辰野の胸像と共に同じく唐津出身の建築家、曽禰達蔵(1853~1937)の胸像が並んでいた。辰野と曽禰は唐津藩の英語塾「耐恒寮(たいこうりょう)」で学んだ後上京、「工学寮」(後の工部大学校→東京大学工学部)の第1期生として入学し、明治政府が英国から招聘したジョサイア・コンドルに建築を学んだ。唐津はこの2人に加え、村野藤吾(1891~1984)という名建築家も生んでいる。

 唐津が日本の近代建築史に残る建築家を輩出した背景には何があったのか。旧唐津銀行館長の北島俊和さんが「いい人物に恵まれたことが大きかった。その人物とは高橋是清です」と教えてくれた。後に日銀総裁や内閣総理大臣になったあの高橋是清である。高橋は弱冠17歳という若さで英語の教師として「耐恒寮」の教壇に立った。辰野も曽禰もその教え子である。2人に新しく東京に創設される「工学寮」への入学を勧めたのも高橋だった。高橋なくして名建築家の辰野も曽禰もなかったかもしれないというわけだ。

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<佐賀・呼子> 観光客でにぎわう朝市通り/大綱引きの綱の太さに驚嘆!

2014年08月22日 | 旅・想い出写真館

【「イカ丸」に乗って七ツ釜洞窟を遊覧】

 日本三大朝市の1つともいわれる佐賀県唐津市呼子町の「呼子の朝市」。呼子港に近い朝市通りに、元日を除いて毎日午前7時半から正午まで露店がずらりと並ぶ。鮮魚にアジの干物、イカの一夜干し、新鮮な野菜や果物……。干物を試食しては「うまい!」と買い求める観光客。ちびっ子たちは屈み込んで、まだピチピチはねる魚たちをじっと見つめていた。

 

 朝市通りを抜けた所に白壁が美しい「鯨組主中尾家屋敷」があった。江戸時代にクジラ漁で巨万の富を築いた中尾家の建物。県の重要文化財に指定されている。内部は残念ながら撮影禁止だった。さらに北上すると「大綱引通り」。通りに面した呼子大綱引会館へ。実際に使う大綱を展示しているが、その綱の太さは目を瞠るほど。長さは100mもあるという。今は毎年6月の第1土・日曜に、岡組と浜組の二手に分かれて綱を引き合う。

 

 この綱引き、豊臣秀吉が朝鮮出兵のため肥前名護屋城に布陣した際、将兵の士気を鼓舞するため加藤清正と福島正則の両陣営を東西に分けて軍船の艫綱(ともづな)を引き合わせたのが始まりという。昨年4月、国の重要無形民俗文化財に指定された。大綱引会館では今年の大会のフォトコンテスト入選作品や昔の写真、対戦成績の一覧表なども展示中。その一覧によると、今年の「大人綱」は浜組が2対1で勝って岡組の7連覇を阻んだようだ。

 

 この後、遊覧船「イカ丸」に乗って国の天然記念物にも指定されている「七ツ釜」見物へ。七ツ釜は玄界灘の荒波によってできた海蝕洞窟。〝柱状節理〟という柱状の玄武岩が堆積した断崖の下にあり、7つのカマドを並べたような姿から七ツ釜と呼ばれる。だが、実際には洞窟は7つ以上あるそうだ。船首から洞窟内を見上げると、黒い方形の岩がびっしりと林立していた。洞窟の中には奥まで貫通したものもあった(下の写真下段㊧)。まさに自然の造形美。「イカ丸」は夕日の眺めが絶景という呼子大橋を右手に見ながら、40分間の遊覧を終えて港の乗船場に戻った。

 

 

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<レンゲショウマ(蓮華升麻)> 淡紫色の可憐な花をややうつむき加減に

2014年08月19日 | 花の四季

【日本の固有種、名はハスに似た花とサラシナショウマ似の葉姿から

 キンポウゲ科レンゲショウマ属の多年草。1属1種で、日本だけに自生する固有種。主に本州の太平洋側の落葉樹林の林床に生える。花期は7~8月ごろ。花の直径は3~4cmほどで、長く伸びた花茎の先に淡紫色の花をやや下向きに付ける。

 レンゲショウマの「レンゲ」は下から見上げた花の形や色がハスの花(蓮華)に似ていることから。葉の形は2~3回3出複葉と呼ばれ、小葉は卵形で縁に鋸歯がある。その葉の形が同じキンポウゲ科のサラシナショウマ(晒菜升朝)に似ていることから「蓮華升麻」の名前が付いた。別名に「クサレンゲ(草蓮華)」。ただ学名の「アネモノプシス」は「アネモネ」とギリシャ語で「似る」を意味する「オプシス」に由来するという。

 レンゲショウマは田中澄江著の『新・花の百名山』(1995年)の中で、長野・埼玉・山梨の3県境にある甲武信岳(こぶしだけ)を代表する花として紹介されている。奥多摩の御岳山(みたけさん)もレンゲショウマの群生地として有名。東京都青梅市の御岳山観光協会と御岳登山鉄道の主催で今「みたけ山レンゲショウマまつり」(9月23日まで)が開かれている。今年で14回目。

  レンゲショウマに似た名前の植物に「キレンゲショウマ(黄蓮華升麻)」がある。その名前は筒状の黄色の花を下向けに付け、レンゲショウマに似ることによる。ただ、こちらはユキノシタ科に属し、分類上では仲間ではない。キレンゲショウマは環境省のレッドリストに、近い将来に絶滅の危険性が高い絶滅危惧Ⅱ類として掲載されている。

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<橿原市博物館> 夏季特別展「新沢千塚 126号墳出土品の里帰り展」

2014年08月17日 | 考古・歴史

【重要文化財の銀製冠飾りや腕輪・指輪など多彩な出土品を一堂に】

 日本を代表する群集墳、新沢千塚(にいざわせんづか)古墳群に隣接する「歴史に憩う橿原市博物館」で、夏季特別展「新沢千塚 重要文化財126号墳出土品の里帰り展」が開かれている。126号墳から出土した副葬品はふだん東京国立博物館で常設展示されている。今特別展では橿原考古学研究所付属博物館からも一部出土品が里帰りし、橿原市博物館の所蔵品と併せて展示している。

 新沢千塚は橿原市の南西部に位置し、約600基の古墳群から成る。とりわけ市博物館(旧・新沢千塚資料館をリニューアルし今年4月開館)の東側の丘陵地には約350基が密集し、国の史跡に指定されている。最も多く古墳が造られたのは5世紀後半~6世紀前半。その多くは直径10~20m程度の円墳だが、前方後円墳や方墳、長方形墳などもある。これまでに100基超の発掘調査が行われ、史跡内では古墳群の中を散策できる公園としての整備が進められている。

   

 新沢千塚を代表する126号墳は北端部の丘陵中央部にある長方形墳。5世紀後半の築造とみられ、被葬者の頭部横からはササン朝ペルシャの領域周辺で製作されたとみられる透明のガラス碗とコバルトブルーのガラス皿が重なって置かれていた。シルクロードを経て遠路運ばれてきたのだろう。ただ、今回その実物が里帰りしなかったのが残念でならない。

 126号墳からは装身具も多く出土した。金製龍文方形板(上の写真㊧)は一辺8cm強の正方形。冠や帽子の額部分を飾っていたとみられる。当時の輝きを失っていないことが驚きだ。他に金銀製の腕輪3点、指輪8点(上の写真㊨の2点は金製花升形指輪)、金製の螺旋状髪飾り、耳飾りなど。被葬者の上半身付近からは歩揺(ほよう)と呼ばれる金製の金具が384点も見つかった。衣服に付けられていた装飾とみられる。これほどの金銀の装身具で飾られた被葬者は果たしてどんな人物だったのだろうか。

 

 新沢千塚では他の古墳からも多くの装身具が出土している。5世紀後半の円墳115号墳からは武器や鏡とともにヒスイの勾玉や1000点近い紺色主体のガラス玉が見つかった(上の写真㊧)。すぐ東隣の126号墳からは金製の丸玉2点と銀製丸玉30点が出土した。首飾りとみられる。6世紀前半の円墳323号墳には金環(耳飾り)とメノウの勾玉・管玉・棗玉、水晶の管玉が副葬されていた(上の写真㊨)。

 

 新沢千塚の発掘調査は墳丘頂上部の埋葬施設周辺が中心だったため、埴輪列はあまり発見されていない。ただ、墳丘をほぼ前面調査した166号墳からは円筒形や朝顔形、家形など多数の埴輪が出土した(上の写真)。他の古墳も墳丘内に多くの埴輪が埋められていることだろう。古墳時代も中期に入ると、副葬品も鏡や祭祀具など呪術的なものから、武器や武具など実用的なものが中心になる。新沢千塚からも鉄製の武器や甲冑が多く見つかった。甲冑では複数の鉄板を革や鋲でつなぎ合わせた短甲(たんこう)と呼ばれる甲(よろい)が破片を含め10領以上出土している。 

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<細見美術館> 「デミタス コスモス ☆宝石のきらめき☆カップ&ソーサー」

2014年08月16日 | 美術

【鈴木夫妻のコレクション 40年にわたって毎月1点ずつ収集】

 細見美術館(京都市左京区岡崎)で「デミタス コスモス ☆宝石のきらめき☆カップ&ソーサー」展が開かれている。デミタスはフランス語で「半分のカップ」を意味する小ぶりの器。東京在住の鈴木康裕・登美子夫妻が結婚以来40年間にわたって収集してきた膨大なコレクションで、18世紀~20世紀初頭のヨーロッパのデミタスが中心。その1つ1つの愛らしく精緻で華麗な装飾はまさにタイトル通り〝宝石のきらめき〟を放っている。

  

 鈴木夫妻は1967年に結婚したが、共通する趣味はなかったという。ただ、お互いにコーヒー好きだったことがデミタス収集のきっかけになった。カップの高さが7cm以下、ソーサーとのセット――といった基準を設け、2人で相談しながら1カ月に1点ずつ集めてきた。今では500点を超える世界有数のコレクションになっている。

 展示は館内3カ所に分かれ、ドイツのマイセンやKPMベルリン、フランスのセーヴル、英国のロイヤルウースターやミントン、オーストリアのウィーンなど窯ごとに作品が並ぶ。第1展示室にはご夫妻の一番のお気に入りも展示されている。登美子さんのお気に入りはウィーンの「上絵金彩菫(すみれ)のリース図カップ&ソーサー」(1800~10年頃)。康裕氏はKPMベルリンの「上絵金彩ジュール花文カップ&ソーサー」(1901~25年)など2点。

 

 第2展示室には英国の作品が並ぶ。その中で引き付けられたのがロイヤルウースター製の「上絵金彩ジュール透彫」(1880年代、写真㊧)。その繊細な細工は目を瞠るばかり。作者はジョージ・オーエンという透かし彫りの第一人者で、素地が完全に乾燥しない状態で様々な道具を駆使して規則的に小さな穴をくりぬく。彼はその技術を誰にも明かさなかったという。

 同じロイヤルウースターの「上絵金彩ジュール四面絵付」(1912年)は四面を花、果実、動物、風景と異なった図柄で飾る。絵付けの名手4人がそれぞれ得意とする絵を担当したというユニークな共同作品。ミントンの「上絵金彩七宝写」(1872年、写真㊨)は七宝焼きを模したもので、鮮やかなブルー地と金線による縁取りが美しい。

 第3展示室にはエミール・ガレ(フランス)の「薊(あざみ)文」やドーム兄弟(同)の「風景画」のカップ&ソーサー、日本の十二代(?)今泉今右衛門(有田)や七代錦光山宗兵衛(京都)が輸出用に作った作品も並ぶ。デミタスのほか、参考出品として飾り皿や飾り壷、花瓶なども展示されており、これらも目を楽しませてくれる。

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<クレオメ> 和名は「西洋風蝶草」 可憐な花を風に舞う蝶に見立て

2014年08月14日 | 花の四季

【原産地は熱帯アメリカ、英名は「スパイダー(蜘蛛)フラワー」】

 原産地は南米のブラジル、アルゼンチン、パラグアイなどの熱帯地域。春蒔きの1年草で、熱帯育ちだけあって暑さに強く猛暑の中で可憐な小花を次々に咲かせる。草丈は1m前後。花は長い柄を持った4弁花で、ピンクや白、赤紫など涼しげなパステルカラーが中心。その花びらの中心から太い雌しべと4本の長い雄しべが飛び出る。

 明治時代の初めにヨーロッパ経由で日本に渡ってきた。和名は「セイヨウフウチョウソウ(西洋風蝶草)」。花が夏風に揺れる様子を蝶が舞う姿に見立てた。だが、英名は「スパイダーフラワー」。細長い雄しべを蜘蛛の足に見立てたのだろう。英国王立園芸協会監修の「A―Z園芸植物百科事典」でも、クレオメを「花は葉の上につきクモのような形をして……」と紹介している。蝶と蜘蛛。国や地域によって、同じ花でもこんなに見方が違うとは!

 クレオメはフウチョウソウ科クレオメ属。「クレオメソウ」とも呼ばれる。長い葉柄とその基部に棘(とげ)があることから「ハリ(針)フウチョウソウ」の異名もある。さらに中国名から「スイチョウカ(酔蝶花)」と呼ばれることも。ちなみにクレオメはギリシャ語で「閉じる」を意味する「kleio」に由来するという。和名の頭にわざわざ「西洋」と付くのは、別属の植物に「フウチョウソウ」(今は日本でほとんど見られない)があることによるらしい。

 クレオメを代表するのが「ピンククイーン」という品種。咲き始めのピンク色の小花が翌日白くなるため花穂がツートンカラーで彩られる。新しい花の優良品種を選ぶ「オールアメリカ・セレクションズ(全米審査会)」で約70年前の1942年、銀賞に輝いたという。北海道美瑛町の「展望花畑 四季彩の丘」では6月下旬~7月下旬に続き8月下旬~9月下旬も見頃という。兵庫県淡路島の「あわじ花さじき」ではまだ見頃のはずだったが、日本列島を襲った台風11号でヒマワリとともに倒伏してしまったそうだ。

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<BOOK> 「戦国武将と高野山奥之院 石塔の銘文を読む」

2014年08月12日 | BOOK

【木下浩良著、朱鷺書房発行】

 著者は1960年、福岡県柳川市生まれ。高野山大学文学部人文学科国史学専攻卒業、現在、同大学の図書館課長心得(司書)・密教文化研究所事務室長心得で、和歌山県高野町教育委員会副会長も務める。これまでに兵庫県竹野町史、養父町史、大阪府岬町史、和歌山県九度山町史、高野町史の編纂委員を歴任。

    

 高野山東端に位置する奥之院にある墓地群は20万基とも30万基ともいわれる。本書はその中から自ら調査し確認できた戦国時代の武将とその夫人たち124人の石塔について、1人ずつ経歴と銘文を写真とともに紹介する。その多くは建立から既に400年。苔むし磨耗した銘文を読み取る作業の困難さは想像以上だろう。著者も「炎天下や極寒の雪降る中での調査は耐えがたいものであったが、新発見の石塔が見出されたりすると、一気にそれらを忘れさせてくれた」と述懐している。

 高野山内の鎌倉時代から江戸時代草創期の慶長末年(1615年)までの有紀年銘の石造物は奥之院を中心に1969基が存在するという。最古のものは鎌倉中期の建長8年(1256年)銘の五輪塔。全体の半数強の1007基が五輪塔で、大名墓のほとんども五輪塔だった。そのほかは宝篋印塔、石室、石仏、石燈籠など。

 本書では124人を奥之院入り口の一之橋から弘法大師の御廟に向かってほぼ順番通りに紹介する。意外なのはそのうち2割強の約30人を女性が占めること。著者は「高野山は女人禁制のイメージが強く、不思議に思われるかもしれないが、生前に女人禁制であったからこそ、せめて死後は奥之院の弘法大師のお傍で安らかに供養されたい、供養したいと願ったとしても、決して不思議ではない」とみる。

 高野山最大で「一番碑」と称されているのが徳川2代将軍秀忠夫人お江の五輪塔(490.2cm)。基壇と合わせた高さは802.7cmもあり、基壇下部面の広さは8畳敷きほどもある。銘文から息子の駿河大納言忠長が1周忌に際し造立したことが分かる。「二番碑」は浅野家3代目の浅野長晟(ながあきら)夫人、振媛(ふるひめ)の五輪塔。「三番碑」は前田利長の五輪塔で、造立の奉行衆として4人の僧侶を列挙している点は他に例がなく、石材の産出地(攝州御影村)を明記している点も珍しい。

 豊臣秀頼の五輪塔は高さ302cm、淀殿の五輪塔も295cmとともに3m前後と大きい。2人が自害したのは「大坂夏の陣」で大坂城が落城した翌日。だが両塔の造立日は落城の日になっており、銘文にはともに「御取次筑波山知足院」と刻まれている。この知足院の僧侶光誉は大坂冬の陣・夏の陣のとき徳川家康の陣で戦勝を祈願した〝陣僧〟。このことから著者は「家康が秀頼と淀殿の供養のために、その光誉に命じて奥之院に両塔を造立したのではなかろうか」と推測する。

 伊達政宗の五輪塔も総高4m以上あり、その周りを殉死した家臣20人の五輪塔が囲む。上杉謙信と養子の景勝の墓所は江戸初期建築とみられる木造建築の霊屋で、中に2人の位牌が入っている。石田三成の五輪塔は総高267cmで、正面に「宗應逆修」と刻まれる。逆修(ぎゃくしゅ)は生前葬のこと。三成は「宗應」と称して30歳の時にこの塔を造り自身の葬式をしていたことになる。明智光秀のものと伝わる五輪塔は総高178cmで銘文がない。江戸時代中頃のもので「何度作り直しても破損するとの伝承がある」そうだ。

 前田利家の石塔は高さ143.2cmの宝篋印塔。夫人まつは利家が病死すると芳春院として出家する。そして夫の供養のために石塔を造るとともに、そばに自身のため「為御逆修」と刻んだ同じ形の石塔を造った。2つの石塔からも生前の2人の仲睦まじさがしのばれる。高野山を攻めた織田信長の五輪塔もある。御廟橋の近くで総高230cm。「かつて敵対した武将であっても、供養のためには受け入れる高野山の懐の深さを垣間見る、貴重な石造物でもある」。

 徳川3代将軍家光の乳母、春日局の五輪塔は弘法大師の御廟に近い燈籠堂のすぐ傍らに位置する。総高120cmで、前面には法名が刻まれた一対の石燈籠。亡くなる3年前の寛永17年(1640年)に逆修供養をした後に造立した。その場所からも将軍の権威を背景にした春日局の絶大な力の一端がうかがえるようでおもしろい。

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<ヒオウギ(桧扇)> 遠目にも鮮やかなオレンジに赤い斑点模様

2014年08月11日 | 花の四季

【名前は扇状に広がる葉姿から 黒い種子から「ぬばたま」とも】

 主に西日本の日当たりのいい山野に自生するアヤメ科の多年草。朝鮮半島や中国、インドにも分布する。7~8月頃、数本に枝分かれした茎の上部に径5cm前後のオレンジ色の鮮やかな6弁花をつける。草丈50~100cm。花びらはほぼ水平に大きく開き、濃い赤の斑点模様が入る。

 名前は広い剣状の葉が扇形に並ぶ様子を、ヒノキの薄板を綴じて作った昔の桧扇に見立てたことに由来する。ただ、緋色の花色から「緋扇」から来ているとの見方もあるそうだ。豹柄の花から英名では「レオパード・フラワー」と呼ばれる。ヒオウギは関西の祭りに欠かせない花で、京都では祇園祭のとき、ヒオウギを生ける習慣がある。

 万葉集には「ウバタマ(烏羽玉)」や「ヌバタマ(射干玉)」などとして80首余り登場する。これは光沢のある漆黒の種子の色から。いずれの歌も「夜」「黒髪」「黒馬」など黒いものに掛かる枕詞として使われており、不思議なことに花自体を愛でて詠んだ歌は見当たらない。別名の「カラスオウギ(烏扇)」も黒い種子に由来する。北アメリカでは帰化植物として野生化し、「ブラックベリー・リリー」と呼ばれているという。

 「ダルマヒオウギ」は草丈が低く葉幅が広い矮性種。そのダルマ系の高性種で花が大輪の園芸品種に「オオクボヒオウギ」がある。多彩な花色から生け花の花材などとして人気も高い。ヒオウギの群生地として知られる山梨県山中湖村の高指山ではいま「第10回ヒオウギの里祭り」が開催中(17日まで)。「射干(ひおうぎ)のまはりびつしより水打つて」(波多野爽波)。 

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<国立国会図書館関西館> 講演会「日本の宇宙開発の過去と未来」

2014年08月10日 | メモ

【講師の秋山演亮氏「宇宙新興国との連携を」】

 国立国会図書館関西館(京都府精華町)で9日「日本の宇宙開発の過去と未来」と題した講演会が開かれた。宇宙関連の書籍を集めた小展示「宇宙に夢中―古代の宇宙観から『はやぶさ』まで」(9月16日まで)に関連した催し。講師の秋山演亮氏(和歌山大学宇宙教育研究所所長/特任教授)は今後の宇宙開発について「日本単独ではなく宇宙を目指す新興国と一緒に取り組むべきだろう」などと語った。

 秋山氏は1965年生まれで、西松建設、秋田大学などを経て2010年に和歌山大学宇宙教育研究所の初代所長に就任。この間、探査機「はやぶさ」のプロジェクトに小惑星「イトカワ」の表面を撮影するカメラメンバーとして参画した。また「今後の宇宙政策の在り方に関する有識者会議」のメンバーとして2010年、国に「宇宙庁」(仮称)の設置などを提言、日本の宇宙産業を支える人材の育成にも力を注いでいる。

 

 和歌山大の宇宙教育研究所は発足直後の2010年6月「はやぶさ」の地球帰還をオーストラリアからネット中継した。講演会でもその時の模様が放映された。「春の大三角」の方角から突然小さな火球が現れ、次第に輝きを増す(写真㊨)。「あっ、来た」「すごい」「おかえり~」と観測チームの3人。多くのトラブルを乗り越えての7年ぶりの帰還の瞬間は今見ても感動ものだ。当時サッカーワールドカップなどもあってテレビでは生中継されなかった。和歌山大のこのネット中継は全国で約64万人が視聴したという。

 「日本は史上4番目の人工衛星打ち上げ国。『はやぶさ』など先端科学技術にも優れ、世界有数の宇宙技術保有国であるのは間違いない」。かつて日本は米国、旧ソ連(ロシア)、ヨーロッパとともに「宇宙4強」といわれ、今は中国、インドを加えて「宇宙6強」時代といわれる。だが、日本は今〝脱落〟の瀬戸際にあるとみる。

 1カ月ほど前、ある大手全国紙が「5年後に月面着陸 政府が研究開発本格化へ」と報じた。だが、秋山氏は「絶対にない」とその可能性を全面的に否定する。その理由は「カネがかかりすぎるから」。日本の宇宙産業は典型的な官需依存型だが、国の財政は疲弊している。〝失われた20年〟の中で宇宙機器分野からの企業の撤退は相次ぎ、従事者も減少の一途。欧米との格差は広がるばかりだ。

 秋山氏は日本の今後の課題としてロケット打ち上げ技術の維持と国際協力を挙げる。「イプシロンロケット(人工衛星打ち上げ用固体燃料ロケット)を1年に少なくとも1~2機は打ち上げる必要がある」「これからは産業化を意識しながら、海外諸国とどう連携していくかが課題だろう」。秋山氏は秋田大学在任中の2005年に「能代宇宙イベント」を立ち上げた。10回目を迎える今夏も8月15~22日、大学生のロケット打ち上げ実験など様々なイベントが繰り広げられる予定だ。

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<ヒヨドリバナ(鵯花)> 秋の七草フジバカマに似た花姿

2014年08月08日 | 花の四季

【アサギマダラなど蝶が好む甘い蜜、性フェロモンの原料?】

 キク科ヒヨドリバナ属(エウパトリウム属)の多年草。日本各地の山野や林縁に生え、8~10月頃、白または薄紫色を帯びた小花がたくさん集まった頭状花を付ける。草丈60~150cm。日本のほか朝鮮半島や中国にも分布する。名前の由来はヒヨドリが山から里に下りてきて鳴きだす頃に花が咲くことによる。ただ、そのヒヨドリも最近では年中、人家近くに定住するようになった。

 花の色や形は秋の七草のフジバカマにそっくり。そのため園芸店で間違って売られていることもあるそうだ。フジバカマは環境省の準絶滅危惧種で、野生種を見かけることが少なくなってきた。フジバカマは葉に艶があり3つに裂けるのに対し、ヒヨドリバナは艶がなくて裂けず、縁にギザギザの鋸歯が入る。フジバカマのような芳香もない。地下茎もフジバカマが横に長く這うのに対し、ヒヨドリバナは塊状という違いもある。

 ヒヨドリバナを「シロオミナエシ」「オジコロシ」「アワバナ」「アワモリ」などと呼ぶ地域もあるという。ヒヨドリバナ属は葉の形などに変異が多い。近縁の仲間にサワヒヨドリやヤマヒヨドリ、ヨツバヒヨドリ、ホソバヒヨドリ、サケバヒヨドリ、キクバヒヨドリなど。サワヒヨドリはサワフジバカマやサワアララギ(古名)とも呼ばれる。

 ヒヨドリバナ属の植物は蜜が豊富で、蝶や蜂が集まることで知られる。中でもよく集まるのがアサギマダラなどマダラチョウ。蜜に含まれる「ピロリジジンアルカロイド」という成分がマダラチョウのオスの成熟に欠かせないという。オスが出す性フェロモンの原料になっているともいわれる。「鵯花ほつほつ咲きて日照雨(そばえ)くる」(台迪子)。

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<尼崎・白髪一雄記念室> 第3弾「白髪一雄と具体Ⅱ(中期~後期)」

2014年08月07日 | 美術

【水滸伝シリーズの大作「天富星撲天雕」や「五大尊」など展示】

 尼崎市総合文化センターの美術ホール内に昨秋オープンした白髪一雄記念室で「白髪一雄と具体Ⅱ(中期~後期)」が開かれている(10月19日まで)。「初公開 甦った初期作品を中心に」「白髪一雄と具体Ⅰ」に続く第3弾。白髪が具体美術協会の中心メンバーとして活躍した1950年代後半から「具体」が解散する72年までの足跡を辿るもので、「天富星撲天雕(てんぷせいはくてんちょう)」(写真㊨)や「五大尊」など力強く躍動的な作品が展示されている。

  

 白髪一雄(1924~2008)は同センターに程近い尼崎市内の出身。尼崎市は従来から所蔵する白髪の絵画など約90点に加え、遺族から絵画やスケッチブック、書籍など約4000点の寄贈を受けたことから記念室を開設した。白髪が芦屋出身の洋画家、吉原治良率いる「具体」に加入したのは1955年。日本画から洋画に転向し風景や人物画を描いていた白髪が、既成の絵画に飽き足らずに編み出したのがフット・ペインティング。天井から吊るしたロープにつかまり床の上のキャンパスに素足で描くという手法は大きな注目を集めた。

 展示中の「天富星撲天雕」は1963年の作品で184×276cmの大作。「水滸伝」の登場人物から画題に名を借りた水滸伝シリーズの1つで、黒・白・赤・青などの太い曲線が画面いっぱいにうねる。間近に対面すると、その迫力に圧倒される。「五大尊」は71年頃の作品で5枚から成る。あらゆる世界は地・水・火・風・空の5つの要素から成るという仏教思想を、黄・白・赤・黒・青の5色で表現したものとみられる。

 「具体」のメンバーにとって最後の大きな活躍の舞台となったのが70年の大阪万博。白髪は万博後、比叡山延暦寺で修行し71年に得度している(法名素道)。「五大尊」はその頃の作品だろう。仏教に傾倒した理由を問われ白髪はこう語ったという。「自分の内容の変化が作品の様相を一変させるものなので、精神的向上を図らねばならないと考えた」。

 「具体」の活動期間は1954~72年の18年間だが、その先進的な活動は今改めて再評価されている。2012年に東京の国立新美術館で「『具体』ニッポンの前衛18年の軌跡」展が開かれ、13年にはニューヨークの美術館でも回顧展が開かれた。白髪の水滸伝シリーズの作品の1つは昨年、パリのオークションで2億円を超える高値で落札された。「具体」発祥の地、芦屋市の市立美術博物館では今「具体、海を渡る。」展が開催中(9月7日まで)。同展でも白髪の作品「地進星出洞蛟(しゅつどうこう)」(1960年)や「地煞星(ちさつせい)鎮三山」(61年)が出品されている。

    ☆ ☆ ☆ ☆   ☆ ☆ ☆   ☆ ☆ ☆ ☆

 尼崎市総合文化センターの美術ホールでは「尼崎アートフェスティバル2014」が開かれている。今年で3回目で、関西を中心に活躍する作家たち76人の作品が並ぶ。その中で目を引いたのがシナベニアを素材とした松原一彦氏の立体造形作品「女」。鳥井雅子さんの4枚組「時の庭 いざなう・よろこぶ・想う・まどろむ」は植物の不思議な世界を明るい色調で描いている。こちらは8月24日まで。

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