く~にゃん雑記帳

音楽やスポーツの感動、愉快なお話などを綴ります。旅や花の写真、お祭り、ピーターラビットの「く~にゃん物語」などもあるよ。

<橿考研付属博物館> 特別陳列「十二支の考古学―総集編」

2017年12月27日 | メモ

【「橿原神宮大絵馬原画展」も同時開催、藤村静宏氏の作品など19点】

 奈良県立橿原考古学研究所付属博物館(橿原市畝傍町)で「平成29年度特別陳列 十二支の考古学―総集編」が始まった。2005年にスタートした「十二支の考古学展」が前回で一巡したことから、今回は総集編として過去の展覧会を振り返りながら十二支全体を概観する構成になっている。関連イベントとして「橿原神宮大絵馬原画展」も開催中。1月14日まで。

       

 「十二支の考古学展」は年末年始にふさわしいテーマとして2005年「戌(いぬ)」からスタート、前回の「酉(とり)」で一回りした。それぞれの干支にまつわる考古資料だけでなく、書画、民芸品、置物、剥製、絨毯など多様な資料を一堂に展示するのが特徴で、新年を迎える恒例催事として考古ファンだけでなく広く人気を博してきた。今回は干支の動物を分かりやすく表現した代表的な資料(埴輪や板絵、銅鏡、土器など)を1~2点ずつ取り上げている。毎回展示してきた統一新羅の将軍、金庾信墓と真徳女王陵に刻まれた獣頭人身の十二支像の拓本も改めて展示している。

 橿原神宮の大絵馬は畳14枚分に相当す幅5.4m、高さ4.5mという巨大なもの。1960年の皇太子生誕を祝って制作されたのが始まりで、毎年11月末に外拝殿で翌年の干支の絵馬に掛け替えられており、今回で59回目を迎えた。絵馬の原画は2000年以降、花鳥画を得意とする日本画家上村敦之氏が11年まで担当し、12年以降は地元橿原市在住の日本画家藤本静宏氏がバトンを引き継いでいる。原画展では上村氏の「辰」~「卯」の12点と藤本氏の「辰」~「戌」の7点を展示中。新年の干支「戌」の原画は朝日を背景に雌雄2匹の犬が仲むつまじく寄り添う様子が描かれている。新年がこの姿のように穏やかで平和な年になりますように。(写真は橿原神宮外拝殿に掛け替えられた新年の干支「戌」の大絵馬)

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<平城宮> 東院地区から大型の井戸と覆屋付きの2本の溝跡

2017年12月24日 | 考古・歴史

【現地説明会、南側からは東西9間以上の格式の高い建物跡】

 奈良市の平城宮跡東院地区の発掘調査で、奈良時代前期の床張りとみられる大型の建物跡と、後期の大規模な井戸と溝の遺構が見つかり、23日、奈良文化財研究所による現地説明会が開かれた。東院地区は平城宮東側の張り出し部の南半分(東西約250m、南北約350m)。奈良時代を通じて皇太子の居所である東宮や内裏に準じる天皇の居所の東宮・東院・東内として利用された。そこでは宴が度々開かれていることから、井戸の遺構は宴のために食膳を準備する厨(くりや)だった可能性が大きいという。

 東院地区ではちょうど50年前の1967年に南東端で大きな庭園の遺跡が発見された。その後「東院庭園」として復元され2010年に特別名勝に指定されている。また西側では大規模な掘立柱建物群が頻繁に建て替えられていたことがこれまでの調査で判明している。今回の対象地域は北西部分の約970㎡で、今年10月初めから発掘が始まった。現在も継続中で、現地説明会の最中に井戸から須恵器の土器が出てきたと、発掘作業員が右手で差し上げ披露する場面もあった。

 

 井戸は東西9.5m×南北9.0mの範囲を深さ約0.3m掘り込み、その中心に4m四方の井戸枠を設置した跡があった。その規模は天皇の宮殿である内裏地区から出土した井戸に匹敵する。井戸からは側石と底石で護岸した直線の溝と、途中で北側に分岐し西に延びるL字溝が検出された。溝の幅は0.8~1.2m。それら2本の溝に平行して柱の穴も見つかっており、屋根で覆われていたとみられる。溝の中からは奈良時代後半の皿や杯などの食器類のほか、土師器や須恵器の甕(かめ)、竈(かまど)、盤(ばん)などの調理具や貯蔵具も大量に出土した。

 

 東院では奈良時代後半の孝謙、称徳、光仁天皇の時代、天皇と上位の役人が集まって度々宴会が開かれた。現地説明を担当した小田裕樹さん(都城発掘調査部考古第二研究部研究員)は「宴は重要な儀式の一つで、天皇や貴族が100人規模で参加した。この遺構は宴を準備するための空間で、井戸から汲み上げた水を溝に貯めて食器や野菜を洗っていたのだろう。今後、調理や(食材などの)貯蔵施設の遺構が近くから出土する可能性も」などと話していた。

 

 奈良時代前期の大型建物跡が見つかったのはその井戸の遺構のすぐ南側。東西9間(約26.5m)×南北3間(約9m)と横に長く南側に廂(ひさし)が付いた構造で、建物はさらに調査区域の東側に延びる。柱穴には床を支える添束(そえづか)の痕跡があることから、床張りの格式の高い建物だったとみられる。検出した範囲での床面積は約260㎡。周辺から奈良時代前半を中心とした軒丸瓦や軒平瓦、鬼瓦なども出土した。奈良時代前半には文武天皇の皇子、首皇子(おびとのみこ、後の聖武天皇)が714年に皇太子となり24年に天皇に即位した。在位は749年に皇女安倍内親王(後の孝謙天皇)に皇位を譲るまで26年間に及ぶ。(下の写真㊧は奈良時代前半の大型建物の遺構、㊨は東院地区南東端に復元された「東院庭園」)

 

 今回見つかった大型建物の遺構について説明役の小田さんは明言を避けたが、聖武天皇の時代のものだった可能性が高いようだ。東院地区では称徳天皇が767年に瑠璃色の瓦を葺いた美しい彩色の「東院玉殿」を建てた。その後、773年に完成した光仁天皇の「楊梅宮」もこの地にあったとみられている。考古ファンにとって今後も東院地区の発掘調査から目が離せない。

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<BOOK> 「伝説のコレクター 池長孟の蒐集家魂」

2017年12月20日 | BOOK

【大山勝男著、アテネ出版社発行】

 表紙の人物に見覚えがある人は多いに違いない、教科書にも載っていたから。そう、16世紀半ばにキリスト教を日本に初めて伝えたスペイン出身の宣教師フランシスコ・ザビエル。この肖像画が発見されたのは今から約100年前の1920年。かつて隠れキリシタンだった大阪府茨木市の旧家に伝わる〝開けずの櫃(ひつ)〟の中から見つかった。見つけたのが神戸の資産家で美術品収集家だった本書の主人公、池長孟(はじめ、1891~1955)だ。

       

 ノンフィクションライターの大山氏がその池長の存在を知ったのは、高知で牧野富太郎の植物記念館を訪ねたのがきっかけという。牧野の年譜で池長の経済支援を受けていたことや、池長が大山氏の母校である神戸の育英商業学校(現育英高校)の校長を長く務めていたことなどを知る。そして有名なザビエルの肖像が「池長の存在がなかったら陽の目をみることがなかった」(「あとがき」から)ことが分かり、以来、文献を渉猟し取材を重ねた。

 池長が幼少時に養子になった叔父の池長通は莫大な不動産を持つ資産家で、池長は養父の没後、受け継いだ資産の多くを社会に還元した。植物学者牧野への支援は膨大な植物標本が経済的な困窮のため散逸の危機に瀕していたことを新聞で知ったのがきっかけ。池長は標本を買い取って収蔵・公開する目的で神戸に「池長植物研究所」を開設した。

 だが牧野の標本整理は遅々として進まず、その中で京都大学への標本の寄贈案も浮上した。「学者ほど融通のきかぬものはなし」。池長は日記の中でこう本音を吐露したこともある。研究所は結局公開されることなく、標本類は牧野に返却することで決着した。この間、約25年の歳月を要した。牧野に関しては東京帝国大学時代の恩師松村任三との確執が有名だが、恩人池長との間でも深く長い溝が生まれていたわけだ。ただ池長が手を差し伸べていなかったら、貴重な牧野の標本類も散逸していたかもしれない。

 池長は安土桃山~江戸時代に約300年にわたり生まれた南蛮美術・工芸品を集中的に収集した。その中には「聖フランシスコ・ザビエル像」をはじめ「泰西王侯騎馬図屏風」「織田信長像」(いずれも重要文化財)など傑作も多い。ザビエル像の作者は不明だが、狩野派の絵師ともいわれる。池長は収集した5000点を超える作品群を系統的に分類・解説した労作『邦彩蛮華大宝鑑』を出版し、作品を展示する「池長美術館」も設けた。

 ところが終戦後、美術館はGHQ(連合国軍総司令部)に接収され、新設された財産税などで池長は一転経済破綻状態に。そのため池長は作品群の散逸を防ごうと収蔵品を美術館ごと神戸市に寄贈することを決断した。これに伴って池長美術館は1951年、市立神戸美術館となり、さらに没後の82年には〝池長コレクション〟を母体に神戸市立博物館が開館した。池長は晩年、東灘区の簡素な家で過ごしたという。池長自身はクリスチャンではなかったが、洗礼を受けた三男潤氏はカトリック大阪大司教区大司教を長く務め、日本カトリック司教協議会会長にもなっている。

 大阪・道頓堀の名物の一つにマラソンランナーが両手を広げゴールするグリコの看板がある。戦前の1935年に設置されたのが始まりで今の看板は5代目。ただ初代の看板はグリコ自体にも白黒写真しか残っていなかった。そのため色情報の提供を広く呼び掛けたところ、池長コレクションの中にカラー映像があることが分かった。映画好きの池長が米国製の十六ミリカラー映写機で京阪神の市街地を撮影していたもので、関係者を感激させたことは言うまでもない。池長にまつわる愉快なエピソードの一つだ。

 本書の副題は「身上潰して社会に還元」。池長も「身上潰して南蛮狂い」と自嘲するほど南蛮美術の収集に使命感を持ち資産をつぎ込んだ。「父は資財を投げ打って公共のために尽くした。この父の遺志が不知不識の間に私の心に乗り移っていた」「能力ある者は能力を、金ある者は金を、最大限に用いて世の中に役立ちたい」。池長は繰り返しこう述べ、こう書き残している。かつてバブル全盛期に芸術文化への支援活動を示す「メセナ」という言葉が持てはやされた。1990年には「企業メセナ協議会」も発足した(現在も活動中)。しかし巷からは「今やメセナは死語」という声も聞こえる。掛け声の「社会貢献」の裏で内部留保に血眼になっている企業の経営陣の方々にも手に取ってもらいたい一冊だ。

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<春日若宮おん祭> 華麗な時代絵巻! 約1000人によるお渡り式

2017年12月18日 | 祭り

【平安時代から途切れることなく今年で882回目】

 古都奈良の師走を彩る「春日若宮おん祭」のお渡り式とお旅所祭が17日、奈良市の春日大社周辺で繰り広げられた。起源は平安時代の1136年に遡る。関白の藤原忠通(1097~1164)が天下泰平、五穀豊穣などを願い大和の国を挙げて始めたといわれ、以来一度も途切れることなく続けられてきた。今年で882回目。

 この日午前零時、春日大社の摂社・若宮社を出発した神霊若宮さまは参道脇にあるお旅所の仮御殿に遷された。お渡りの行列はそのお旅所に向けて午後2時、奈良県庁前を出発。途中、目抜き通りの登大路を下り、近鉄奈良駅前やJR奈良駅前を経由し三条通りを練り歩いた。平安~江戸時代の装束を身にまとった関白の代理日使(ひのつかい)や神子(みこ)、稚児、力士、大和士(やまとざむらい)、大名行列、芸能集団など総勢約1000人に加え馬約50頭。その華やかな時代絵巻を一目見ようと、多くの見物客が沿道を埋め尽くした。

 

 

 行列が一の鳥居のすぐそばにある「影向(ようごう)の松」に差し掛かると、その前で猿楽や田楽の芸能を披露。影向の松は春日大明神が降臨したと伝わる松で、能舞台の鏡板に描かれている老松のモデルともいわれる。そこでは古武道の宝蔵院流槍術や柳生新陰流の演技もあった。一の鳥居とお旅所間の参道では馬が2頭ずつ競走する競馬や稚児3人による流鏑馬(やぶさめ)なども行われ、矢が見事に的を射るたびに大きな歓声と拍手が沸き起こった。

 

 

 お旅所の入り口左手にはお渡りの一団が運んだ長さ5mほどもある野太刀が林立。お渡りが終わると、午後2時半から「お旅所祭」が始まった。若宮さまにお食事をお供えした後、そばの芝の舞台で神楽や田楽、猿楽、舞楽、和舞など古くから伝わる伝統芸能を10時半頃まで次々に奉納。「芝居」という言葉はこの芝の舞台が語源といわれる。その後、深夜に「還幸の儀」。緒芸能を楽しまれた若宮さまは午前零時までに再び若宮社へ。18日には昼すぎから奉納相撲と後宴能(ごえんのう)が行われる。

 

  

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<BOOK> 「写真民俗学 東西の神々」

2017年12月12日 | BOOK

【芳賀日出男著、角川書店発行】

 著者の芳賀氏は1921年、満州(中国東北部)生まれ、96歳。民俗写真家の草分けとして長年にわたり世界各地の祭りや民俗芸能を取材してきた。日本写真家協会創立者の一人でもある。1970年の大阪万博ではお祭り広場のプロデューサーを務め、73年には全日本郷土芸能協会を創立した。『日本の祭』『日本の民俗 祭りと芸能』『神さまたちの季節』『神の子 神の民』など多くの著書がある。

       

 本書はA5版312ページ。タイトルの「東西の神々」が示すように、世界各地の人と神々との多様な交わり・祭礼を「神を迎える」「神を纏(まと)う」「神が顕(あらわ)る」「神に供す」の4部14巻に分類して紹介する。掲載写真は400枚を超え、その大半を迫力のあるカラー写真が占める。「先輩や友人に恵まれたおかげでプロの写真家の一人に加わることができた。まさかこの年齢までカメラマンが続けられるとも、酒が呑めるとも思ってもいなかった。まあ、恵まれた人生なのだろう」。芳賀氏は巻末の「カメラを手にして九十年」の中でこう述懐する。本書は世界を旅してきた民俗写真家人生のまさに集大成ともいえる。

 民族や宗教が違っても、世界各地に日本とよく似た祭りがある――。本書を通読しての感想を一言で表現するとこうなる。例えば「来訪神」。日本では年の変わり目に様々な歳神が現れ子どもたちを諭す。秋田の「ナマハゲ」、能登の「アマメハギ」、下甑島(鹿児島県薩摩川内市)の「トシドン」……。一方、オーストリアの聖ニコラウスの祭りには全身を麦わらで覆ったり異様な鬼面を着けたりした魔物が登場し、スイスのクロイゼの祭りには体中に木の葉や岩苔を貼り付けた〝植物人間〟が出没する。

 「火」「仮面」「人形」「獅子」「巨人」などをキーワードとする祭りにも内外で類似点や共通点が多い。巨人の祭りは日本では鹿児島の「弥五郎どん」や三重県四日市市「大四日市まつり」の「大入道」などが有名。一方、海外ではスペイン・タラゴナの巨人の祭り、オーストリアのサムソンの祭りなど。1992年にスペイン・バルセロナで世界巨人博覧会が開かれ、日本からは「弥五郎どん」が参加したそうだ。「人々を魅了する巨人たち。姿は違えど、その大きな力に憧れ、縋(すが)り、崇める。巨人とは人類共通の『夢の現れ』ではなかろうか」(芳賀氏)。日本で法螺貝といえば山伏を連想するが、その法螺貝が祭りの楽器として広く東南アジア諸国やオセアニア、ハワイなど太平洋沿岸地域で使われていることも本書で初めて知ることができた。

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<奈良女子大管弦楽団> ドヴォルザーク第8番など溌剌と演奏

2017年12月11日 | 音楽

【第47回定演、ブラームス「悲劇的序曲」なども】

 奈良女子大学管弦楽団の第47回定期演奏会が10日、奈良県文化会館(奈良市)で開かれた。第1部はワーグナーの楽劇「ニュルンベルクのマイスタージンガー」より「第1幕への前奏曲」とブラームスの「悲劇的序曲」、第2部はドヴォルザークの「交響曲第8番」。学業の合間に練習を重ねてきた学生たちの溌剌とした演奏に、会場の国際ホールを埋めた観客から惜しみない拍手が送られた。

 客演として指揮したのは若手女性指揮者の木下麻由加さん。2010年に神戸大学発達科学部人間表現学科を卒業し、その後、デンマーク王立音楽アカデミー指揮科で研鑽を積んだ。帰国後は関西を中心にオーケストラや吹奏楽団などの客演や合奏トレーナー、副指揮を務めている。奈良女子大管弦楽団の定演客演指揮も2015年から3年連続。その間に団員とのスムーズな意思疎通や信頼関係が育まれてきたのだろう。今回の演奏会でも時に繊細に、時にダイナミックに切れのある指揮で若い演奏者たちを見事に統率していた。

 ワーグナーの「ニュルンベルク…」は全3幕15場で4時間半にも及ぶ長大作。「第1幕への前奏曲」はそれをぎゅっと凝縮したような10分余りの曲で、冒頭のハ長調の明るく力強い響きによってワーグナーの世界に一気に引き込まれた。ブラームス「悲劇的序曲」は陽気な「大学祝典序曲」の対極として作曲され、曲名も自ら名付けたといわれる。ドヴォルザークの交響曲第8番は第9番「新世界より」の影に隠れがちだが、クラシックファンには傑作の一つとして人気が高い。この名曲を強弱・緩急のメリハリを利かせて演奏し、中でも第3楽章のバイオリンの哀愁を帯びた甘美な旋律が心地よく耳に響いた。アンコール曲は同じドヴォルザークの「スラブ舞曲 作品46-8」だった。

 同管弦楽団の演奏会を聴くのは2014年のイタリア公演凱旋記念演奏会(橿原市)以来3年ぶりだったが、今回も期待を裏切らない名演奏だった。ただ、団員の間では苦労が絶えないようだ。団長の中野奏子さんは「ごあいさつ」の中でこう吐露している。「近年、団員不足という大きな問題に悩まされてきました。特に幹部である3回生の人数が非常に少なく、運営面、演奏面においても上手くいかない場面が多々ありました」。それを示すように舞台上では女性陣の中に10人余りの男性が交じり、出演者名簿の一覧にも「賛助」や「OG」の文字が少なくなかった。演奏会の成功も多くの力添えがあってこそというわけだ。来春には新1回生が1人でも多く仲間に加わることを陰ながら祈りたい。

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<ハツユキカズラ(初雪葛)> カラフルなテイカカズラの斑入り種

2017年12月08日 | 花の四季

【葉色がピンク→白→緑と変化し、冬には赤く紅葉】

 日本生まれのキョウチクトウ科テイカカズラ属の蔓性低木。葉のカラフルな色合いが特徴で、「フイリテイカカズラ(斑入り定家葛)」とも呼ばれる。茎がテイカカズラほど縦横に伸びることはなく、長さはせいぜい30cmほど。生長が緩やかでコンパクトにまとまりやすいため、グランドカバーや寄せ植え、ハンギングなど利用範囲が広く、近年目にすることが増えてきた。

 蔓先の新葉は初め淡いピンク色だが、次第に白みがかり、次いで白に緑色の斑が入って、最後には濃い緑色一色になる。「初雪葛」の名前は葉の上に白い雪が降り積もったような様子から。秋から冬にかけ厳しい寒さに当たると緑葉は赤く紅葉する。まれに5~6月頃、白い小花を付けるが、花はあまり期待できない。その分、カラフルな葉の色が遠目ではいつも花が咲いているようにも見える。

 日当たりのいい場所を好み、日陰ではピンクや白の発色が悪くて緑一色になることも。美しい斑入りをより楽しむにはこまめな刈り込みや適度の水・肥料も欠かせない。最近は葉に黄色の斑が入るものが「オウゴン(黄金)テイカカズラ」(別名「黄金錦」)の名前で出回っている。テイカカズラの斑入り品種で葉が大きいものを「ゴシキカズラ(五色葛)」と呼ぶこともあるそうだ。

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<日中友好フェス> 香芝市ふたかみ文化センターで開催

2017年12月04日 | メモ

【琴の演奏、詩吟、京劇、特別公演……】

 奈良県香芝市のふたかみ文化センターで3日「第8回日中友好フェスティバル」が開かれた。琴演奏家の前田琴瑟さん(生田流大師範)が伝統芸能の琴を通じ市民レベルで日中交流に取り組もうと、18年前に第1回フェスティバルを開いたのが始まり。今回は琴の演奏や詩吟、京劇、特別講演のほか、シャンソンやエレキギターの演奏などもあって、多彩な出し物に会場の観客から惜しみない拍手が送られた。

 前田さんの父親は日中戦争に従軍し終戦翌年に帰国したが、思い出すのがつらいのか、生前、戦争のことを一言も話さなかったという。その姿から平和の大切さを痛感していた前田さんは21年前の1996年、桜の苗木を中国新疆大学に植樹した。これを契機に中国との交流が始まり、第1回フェスティバルを開いた99年には北京と上海で中国建国50周年記念行事に出演、その後も香港や湖南省長沙市、西安など中国各地で琴の演奏を披露してきた。

 

 今回は第1部の最初と最後に前田さんが「絲綢之路(シルクロード)」と「朱鷺(とき)のように」を演奏(上の写真㊧)。その間に詩吟の朗詠やエレキギターの演奏などがあった。第2部は胡金定・甲南大学教授(中国福建省生まれ)の「日中国交正常化45周年」と題した講演からスタート(写真㊨)。胡金定さんは「中国―日本はいま難しいときを迎えているが、個人レベルの交流は熱気に包まれている。このフェスティバルを通じ友好の種を持ち帰って育ててください」などと話した。

 

 この後、松本かずこさんのシャンソン(写真㊧)、前田さんの琴演奏、中国古典劇の京劇(写真㊨)などがあった。松本さんの出演は今年2月に知り合った胡金定さんとの〝縁〟によるものという。京劇は秦爽さん・秦勇作さん姉弟が中国・北宋時代の武侠物「楊家将」を演じた。秦爽さんは甲南大学中国語講師で「秦皇閣:芸術文化サロン」代表も務める。文化交流を通じ日中の架け橋を目指しているそうだ。最後に出演者全員が会場の観客と一緒に坂本九の「上を向いて歩こう」を合唱し2時間余の友好フェスティバルを締めくくった。

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<松伯美術館> 松園・松篁・敦之三代展「清らかな世界を想い描く」

2017年12月03日 | 美術

【三者三様の画面に漂う高い気品と静謐な空気感】

 松伯美術館(奈良市登美ケ丘)で上村松園・松篁・敦之三代展「清らかな世界を想い描く」が開かれている。気品あふれる近代美人画で女性として初めて文化勲章を受章した上村松園(1875~1949)。その息子松篁(1902~2001)は花鳥画の大家として名を成し、孫の敦之(1933~)も多くの鳥を飼育し観察しながら静謐な花鳥画を描く。今展では親子3代の代表作とともに制作の過程を示す下絵や素描を、前期・後期の2期にわたって展示する。

 

 前期は「四季に詠う」と題して12月17日まで開催中。松園の作品では「楊貴妃」をはじめ「唐美人」「伊勢大輔」「雪」「16歳の自画像」などが展示されている。「楊貴妃」(写真㊨の作品)は48歳のときの作品で第4回帝展出品作。絶世の美女楊貴妃の湯上がりの姿が二曲一隻の屏風に描かれている。「伊勢大輔」は一条天皇の中宮彰子に仕えた平安時代の女流歌人で、百人一首「いにしへの奈良の都の八重桜 けふ九重ににほひぬるかな」の歌で知られる。

 松篁の作品は「月夜」「真鶴」「蓮」などの大作を中心に15点。松篁は98歳で没したが、展示作は22歳のときの「椿」から96歳のときの「笹百合」まで幅広い作品を網羅している。松篁は「中国の麝香(じゃこう)のような香りのする絵」を理想とし、「卑俗なにおいというものを排して、本当にたおやかな、本当に東洋的な精神の香りみたいなものを選んでいきたい。そういう香りのするところには恐らく格調といったことと響き合うものがあるのではないか」。そう話していたそうだ。

 敦之は京都市立芸術大学名誉教授で松伯美術館の館長も務める。祖母松園、父松篁と同じく京都市生まれだが、独自の花鳥図の世界を描くため奈良市山陵町の丘陵地で約260種1600羽の様々な鳥類を飼育し観察を続けている。展示作品はインドのシカを描いた「月に」「夕日に」や大阪新歌舞伎座の緞帳原画「四季花鳥図」など。「自然界の営みはあくまで優しく、そして厳しいものである。花鳥図は自然の英知に導かれ、教えられて深めていく。それゆえに自然に対する謙虚な気持ちを捨てては成り立ちえない世界である」。作品のそばに掲げられた「敦之のことばから」が印象的だった。後期「生命の詩」は年明けの1月5日から2月4日まで。

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<奈良県立万葉文化館> 特別展「日本文化の源流―いまに続く芸能」

2017年12月01日 | 美術

【延岡市・内藤記念館所蔵の「天下一」の能面なども展示】

 奈良県立万葉文化館(明日香村飛鳥)で特別展「日本文化の源流―いまに続く芸能」が開かれている(12月10日まで)。「大和芸能土壌―鬼から翁へ」「大和の村祭りと神事能」「『天下一』の世界」の三章構成で、宮崎県延岡市の内藤記念館の協力の下、古代の伎楽から舞楽、大和猿楽、能楽に至るまでの日本の伝統芸能の流れを様々な仮面や古文書、映像などで紹介している。

      

 日本最古の外来演劇、伎楽は日本書紀によると、612年に百済から日本に帰化した味摩之(みまし)が伝えたといわれる。飛鳥時代から奈良時代にかけて流行し、東大寺の大仏開眼供養(752年)でも上演された。第1~第2章では万葉文化館所蔵の伎楽面や能面、舞楽面のほか、法隆寺の「鬼追い式」や長谷寺の「だだ押し」で使われる鬼面、談山神社に伝わる能面などが展示されている。参考資料として日本書紀、延喜式、続日本紀なども展示中。

 内藤記念館は延岡藩の旧藩主、内藤家から寄贈された能狂言面や武具、書画などの文化財を所蔵する。能狂言面は全72点で、その中には豊臣秀吉が優れた能面師に与えた称号「天下一」の焼印が入った能面30点が含まれる。毎年秋には「天下一」の能面を着けて演じる「のべおか天下一薪能」がNPO法人のべおか天下一市民交流機構などの主催で開かれており、21回目の今年も10月7日に延岡城址二の丸広場で能「野守 白頭」などが上演され、観世流能楽師片山九郎右衛門がシテを勤めた。

 今特別展では前後期合わせて「天下一」18点を含む38点の内藤記念館蔵の能面を展示。そのうち「天下一若狭守」銘が「雷」「不動」「痩男」「蛙」「霊女」「蛇」(チラシ写真の右下)など13点を占める。若狭守は一説に、秀吉が肥前名護屋に在陣中に召し出された京都・日野法界寺の僧で面打ち師の角坊(すみのぼう)といわれる。ほかに「天下一近江」の「猿飛出」、「天下一備後」の「若女」、「天下一大和」の「大癋見(おおべしみ)」(チラシ写真の左上)など。会場の一角では「のべおか天下一薪能」の模様も上映されている。

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