く~にゃん雑記帳

音楽やスポーツの感動、愉快なお話などを綴ります。旅や花の写真、お祭り、ピーターラビットの「く~にゃん物語」などもあるよ。

<BOOK> 「動物たちはぼくの先生」(日高敏隆著、青土社発行)

2013年08月31日 | BOOK

【平易な文章で綴る示唆に富むエッセー集】

 著者の日高敏隆氏(1930~2009)は「動物行動学」研究の草分け的な存在。滋賀県立大学の初代学長や総合地球環境学研究所の初代所長なども務めた。本書には主に1990年代以降、新聞や各種会報などに掲載したエッセー70点余を収録している。平易な文章で身辺や社会の出来事、昆虫のことなどを綴っており、なかなか示唆に富む指摘も多い。

  

 プロローグのタイトルは『打ち込んではいけない』。高校の卒業生に向けたはなむけのような一文だが、「できるだけさまざまな経験をするのがよい。しごとでも勉強でも遊びでも、何かひとすじというのは絶対に損だ」とし、「恋愛またしかり」と続ける。そして「一つのことに打ちこむことは、人間を貧しくすることだ。絶対に一つのことに熱中してはいけない」という。

 『地球環境学とは何か』では、「地球上には何百万種とも何千万種ともいわれる動物が存在してきたが、〝いわゆる地球環境問題〟という問題をひきおこしたのは、われわれ人間という種だけである」とし、「それは人間が自分たちは自然とは一線を画した存在であるという認識をもち、自然と対決して生きていこうとしたからではないか」と指摘する。

 『渋谷でチョウを追った少年の物語』の中では、言語や優れた学習能力を持つ人間とチョウを比較して、「それは彼ら(チョウ)がそこまで到達できなかったからではなく、そのどちらも必要なかったからです」という。『動物に心はあるか』では「多くの動物たちが何かを考えていることはまず間違いない」とし、「古くから『言語なき思考』ということが言われている。これが、ヒトの意識・思考と非常に異なるところである」と指摘する。その例証として「ネコが夢を見ることはほぼ確か」という話を挙げる。

 昆虫が人家の明かりに寄ってくるのは〝正の走光性〟という性質によるそうだ。『灯りにくる虫』では「いったん家の灯りにひきつけられてしまった虫たちは、メスに出会うこともなく、子孫を残すこともなしに、短い一生を終えてしまう」という悲劇を綴る。夜が更けると灯りは消される。真っ暗な闇の中で虫たちは飛べない。やがて朝に。光はまぶしすぎて動けない。そして夜になると家の明かりにまた吸い寄せられる。その繰り返しの果てに――。

 こんなユニークな体験談も綴られている。中国人が書いた「引力」という小説が文芸書売り場でどうしても見つからなかったが、物理学のコーナーに行くと平積みされていた。レジで「1万円からでよろしかったでしょうか?」という過去形の言い方には「いささか当惑を感じる」と疑問を投げかける。「飛行機雲がもとになって雲が生じ、曇り日がふえてくるのではないかということもいわれるようになった」「(自動水洗の)赤外線ランプは自然につくものではないから、当然電力を食っている……省エネという掛け声にも反している」という指摘もなるほどと思わせられた。

 『空と地上』という一文も印象に残った。ベトナム戦争中に航空機が激戦地のダナン上空に差し掛かった。地上から黒煙が上がるのも見えた。その時、機中は昼食の時間でみんなワインなどを手に食事中だった。「ぼくはあらためて飛行機の怖さを思わざるを得なかった。それは落ちるとか、ハイジャックされるとかいうことではなく、地上の人間の生活のことを忘れさせるということである」。

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<ヘクソカズラ(屁糞葛)> 「ヤイトバナ(灸花)」や「早乙女花」の佳名も

2013年08月30日 | 花の四季

【万葉集にも1首「屎葛(くそかずら)」として登場】

 アカネ科のツル性多年草。他の木々やフェンスなどに絡まって伸びるため、厄介な雑草の1種とみられることが多い。葉や実をもむと独特な臭気を発することから「ヘクソカズラ(屁糞葛)」という気の毒な名前が付けられた。一方で、花の内側の紅色がお灸をすえた跡に似るため「ヤイトバナ(灸花)」や、筒状の小花を早乙女の花笠に見立てた「サオトメカズラ(早乙女葛)」「サオトメバナ(早乙女花)」とも呼ばれる。

 万葉集にヘクソカズラの歌が1首あるが、ここでは単に「クソカズラ」と詠まれている。「さうけふに延(は)ひおほとれる屎葛(くそかずら)絶ゆることなく宮仕へせむ」(高宮王)。宮仕えを続けていく覚悟をしつこく木に絡みつくヘクソカズラにたとえて詠んだ。「さうけふ」の植物はカワラフジともサイカチともいわれる。高宮王(たかみやのおおきみ)は皇族出身の役人とみられ、万葉集にはこの歌も含め2首が掲載されている。

 クソカズラの頭に「ヘ」が付いた時期ははっきりしない。ただ、貝原益軒の「大和本草」(1709年刊行)では「女青」として取り上げられ「女青ハ俗名ヘクソカツラト云」とあることから、江戸時代の前半には既にヘクソカズラと呼ばれていたようだ。花期は8~9月頃。1つ1つの小花は可憐で愛らしい。そこから「屁糞葛も花盛り」ということわざが生まれた。悪臭からふだん忌み嫌われているヘクソカズラもかわいい花を付ける時期がある――。つまり「鬼も十八番茶も出花」と同じ意味を持つ。

 悪臭の原因はメルカブタンという揮発性のガスで、葉や茎が傷つけられると細胞内のペデロシドという硫黄化合物が分解して発生する。ペデロシドは昆虫が嫌う成分を含む。その独特な臭気も外敵から身を守るという目的があるわけだ。古くから民間療法に活用されてきた。葉や実をもんだりつぶしたりして虫刺されやあかぎれ、しもやけに塗る。光沢のある茶褐色の実が付いたつるは茶花やドライフラワーなどに用いられ、つるは紐の代用にもなった。「野の仏へくそかづらを着飾りて」(石田あき子)。

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<天忠組150年記念展> 国学者・歌人の伴林光平の書画などを展示

2013年08月25日 | 考古・歴史

【奈良県立美術館で31日まで開催】

 明治維新の魁(さきがけ)として決起した「天忠組の変」(大和義挙)から150年になるのを機に、奈良県立美術館で「天忠組150年記念展」が開かれている。最年長の51歳で変に「記録方」として参加した国学者・歌人の伴林光平(ともばやしみつひら)をはじめ、志士やゆかりの人たちの書画など60点余を展示している。31日まで(入場無料)。

 

 伴林は1813年、現在の藤井寺市で生まれた。幕末きっての歌人といわれ、大和とのつながりも深い。奈良市の鍋屋町(現在のNHK奈良放送局付近)に歌塾「神風館」を開講、多くの門弟を抱えて大阪から出張講座を行った。だが、天忠組の変に加わったことで捕らわれ、1864年、京都・六角獄舎で処刑された。享年52。京に移されるまでの間、奈良奉行所の獄中でも万葉集の講義をしたという。

  

 記念展には「石版 南山踏雲録」(写真)が出品されている。踏雲録は伴林が奈良の獄中で差し入れの筆と墨で執筆したもので、天忠組の変のいわば従軍記。蜂起から鎮圧されるまでの顛末を詳細に記す。ただ、この石版は自筆ではなくて写された1冊を底本にしたものとみられている。伴林の短冊や一行書、短冊貼り合わせ屏風、若宮祭礼相撲図、西行法師図なども展示されている。

 天忠組のメンバーでは3総裁の1人で文武両道に優れた藤本鉄石の「画讃瀑布図」、変後に英国公使を襲撃した「パークス事件」の三枝蓊(しげり)の「舟図」や「履歴顕彰文」、北畠治房の「伴林光平三十三回忌贈位慰霊祭送辞」など。「神風館」門弟では奈良人形一刀彫の名工といわれた森川杜園の「伯母が酒図」、冨田光美の「和歌草 光平大人點」なども並ぶ。

 変から150年の節目とあって、奈良県内では9月以降も記念のイベントが相次ぐ。主なものを列挙すると――。9月7日=天誅組三総裁さきがけの道ウオーキング(東吉野村)▽15日=天誅組150年祭(五條市)▽18日~10月31日=特別展示「天誅組と伴林光平」(安堵町)▽10月24日=語り部と行く天誅組史蹟めぐり(十津川村)▽26日=顕彰記念事業「天誅組サミット」(東吉野村)▽27日=天誅組志士慰霊大法要(東吉野村)

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<日本調理科学会> 特別講演会「日本食の原点を探る」

2013年08月24日 | 考古・歴史

【奈良女子大で、松井章・前奈文研埋蔵文化財センター長ら3氏講演】

 「日本食の原点を探る―食文化の継承と発展的な再構築を目指して」と題した特別講演会が23日、奈良市の奈良女子大学で開かれた。23~24日に開催の日本調理科学会の一環。奈良文化財研究所の前埋蔵文化財センター長の松井章氏(写真㊧)や奈良国立博物館学芸部長の西山厚氏ら3人が講演した。

 

 松井氏は「食の日本史―考古学から見た日本人の食文化」と題して講演。縄文時代の文化や食生活について〝サケ・マス文化論〟の立場から「東高西低という特徴があった」と指摘した。サケ・マス論は川を遡上するサケ類などのおかげで東日本が西日本より繁栄したという見方。ただ、貝塚からサケ類の骨がほとんど見つかっていないとして否定的な見方も多かった。

 だが、松井氏を中心に奈文研が2007年から調査した長野県千曲市の屋代遺跡からサケの骨の破片が大量に出土した。見つかったのは掘っ立て小屋があったとみられる炉の周りから。〝土壌水洗選別法〟というやり方で0.5~3ミリの小骨が多く見つかった。松井氏は「千曲川を遡上したサケを燻製にして保存したのだろう」と推測し、「サケ・マスが東日本の縄文文化を支えた」と改めて強調した。

 奈良時代、天武天皇は「牛・馬・犬・猿・鶏の肉を食うことなかれ」と仏教の殺生戒に基づき肉食禁止令(675年)を出す。裏返せば、当時これらの肉がよく食べられていたことを示す。ただ、それ以降は肉食が広がる幕末~明治まで動物性たんぱく質はもっぱら魚介類に頼ったと考えられてきた。しかし、最近では各時代の遺跡から刃物痕を持つ鳥類や哺乳類の骨も多く見つかっており、「日本人はいつの時代でも貴重な動物性たんぱく質を無駄にしてこなかった」と松井氏は指摘した。

 奈良博の西山厚氏は「正倉院からみえてくる古代人の飲食の世界」のタイトルで講演した。西山氏は正倉院北倉に納められている犀角器や漆胡瓶、中倉の白瑠璃瓶、瑠璃坏、南倉の磁皿、磁鉢、貝匙などを1つ1つ画面で紹介しながら、「宝物の多くは人のためというよりも、仏様に供えるなど儀礼に使われたとみられるものが多い」と指摘。さらに「大仏に七種粥を供える」といった古文書などから、仏様に供えると同時にお坊さんが同じ器で食したこともあったのではないか、と話した。

 最後に酒造会社「今西清兵衛商店」会長、今西清悟氏が「日本の風土に育まれた稲作と米による酒造りの発祥と変遷」と題して講演した。

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<BOOK> 大滝秀治写文集「長生きは三百文の得」

2013年08月23日 | BOOK

【大滝秀治著、谷古宇正彦写真、集英社クリエイティブ発行】

 大滝秀治といえば、あの独特の甲高いかすれ声と味のある演技の印象が深い。宇野重吉亡き後、奈良岡朋子と共に劇団民芸を支え、舞台に映画にテレビドラマに活躍した。2011年には長年の演劇活動が評価され文化功労者に。だが昨年10月、惜しまれながら亡くなった。享年87。本書巻頭に「俳優であったという事実を、自分で確認するために、この本を出す」。出版は今年5月。生前手にすることはかなわなかったが、自らの足跡を自分の言葉で書き残すことができて本望だろう。

   

 写真を担当した谷古宇(やこう)正彦氏は1947年生まれ。多摩芸術学園写真科を中退後、演劇を中心に撮影してきた。主な写真集に「風間杜夫舞台写真集」「PLAYERS1985-1999光の記憶―影の記録」など。写真展の中には「劇僧・大滝秀治」と銘打って紀伊國屋画廊で開いたものもある。本書には撮りためた大滝秀治の写真の中から舞台写真を中心に白黒78枚がほぼ1ページ大または見開きで掲載されている。

 大滝秀治は1925年(大正14年)6月6日、母の実家がある新潟県上越市で誕生した。「お産婆さんが、ぼくを見て仰天したんですね。なぜかって言うと、髪の毛が真っ白だったんです」。役者になっても老け役が多かったことがつい思い出される。楽しみにしていた小学校卒業祝いの富士登山は麻疹(はしか)で参加できず。そこで「じゃ、あたしが代わりに行ってあげよう」と母が参加したそうだ。中学4年の時、授業中に空襲警報が鳴った。初の体験。先生の「自習してろ」を無視し屋上に上がると、低空に飛んできたため操縦士が見えた。「おーい」と手を振ったところを先生に見つかって「3時間ぐらい直立不動で立たされた」。こんなユーモラスなエピソードが満載だ。

 戦中、通信兵として応召されたこともあって、戦後は丸の内電話局に勤めた。その頃、帝国劇場で研究生募集のチラシを目にしたことが転機となる。だが役者になったものの長い不遇時代。宇野重吉からは「おまえの声は、ぶっ壊れたハモニカみたいな不協和音を出す……役者に向かないんじゃないか」とまで言われた。だが、めげなかった。「宇野さんは厳しかったですね。でも、こんなすばらしい師匠に出会えたから、ぼくは今日まで役者をやってこられたと思うんです」。

 宇野重吉からはこんな言葉もかけられた。「人の芝居に粗ばっかり見えるときは、あまえの心がさもしいときなんだ。人の芝居がいいなあと思うときは、心が豊かなんだと思えよ」。滝沢修の「台詞は覚えるものではない。体のなかに、いつのまにか忍び込んでくるものだ。だから覚える動作は創造のうちに入らない」という言葉も印象に残っている。一人前に食べていけるようになったのは「五十ちょっと前から」という。

 長年の役者生活から含蓄のある言葉もちりばめられている。「役者ってのはね……狂気というものを持っていないと、表現できる分野を、ふつうは超えることができないというふうに、ぼくは考えるんですがね」「役者の場合、必要なのは、自信と謙虚のあいだでね。自信の上に自惚(うぬぼ)れがある。謙虚の下に卑屈がある……自信と謙虚のあいだでもって、一生懸命やっていればいいんじゃないかと思うんです」。

 11歳のころ中耳炎で右耳の鼓膜を切開して以来、耳が悪いため役者になっても補聴器を手放せなかった。だが、稽古の終わり近くから本番にかけては補聴器を取った。「どんなに高級な補聴器でよく聞こえても、補聴器は機械だからね。相手の声は機械を通して聞いたのでは、駄目なんですよ。かすかにしか聞こえなくても、生でないと駄目だから、補聴器を取ります」。「耳が聞こえないと、ふつうの人にはわからない、あるいは耳がきこえない人でもわからない、ぼくの特殊の世界ができるんですよ」とも。巻末には23ページにわたって詳細な大滝秀治年譜も付けられている。

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<ノボタン(野牡丹)> 紅紫のあでやかな花 沖縄や台湾などに分布

2013年08月20日 | 花の四季

【ノボタンとして広く流通するのはブラジル原産のシコンノボタン!】

 「ノボタン(野牡丹)」の名を持つが、ボタンの仲間ではなく花姿もボタンに似ているわけではない。ボタンの花のようにあでやかで美しく、日当たりのいい山野に自生することから、その名が付いた。沖縄から台湾、中国南部、インドシナ、フィリピンなどにかけて分布する。

 半耐寒性の常緑低木で高さは1~2m程度。枝先に直径7~8cmほどの5弁花を付ける。花の色はピンクがかった紅紫色が一般的だが、まれに白花も。紀伊半島以西に分布するヒメノボタン(姫野牡丹)」はやや小型で、花の径も4cmほどと小さい。このヒメノボタンとは別種の「メキシコボタン」が国内で同じ「ヒメノボタン」の名前で流通しているから少々ややこしい。こちらは南米産のつる性植物で、カーペット状に横に広がる特徴を持つ。

 一般にノボタンとして国内で流通しているものはブラジルなど南米原産の「シコンノボタン(紫紺野牡丹)」=写真。花色はノボタンより濃い紫紺色で、雄しべが鉤型に曲がる特徴を持つ。1日花だが夏から晩秋にかけて次々に花を咲かせる。その園芸品種に秋咲きで花の色が変化する「リトルエンジェル」、花びらが鮮やかな紫色で細長い「コートダジュール」などがある。

 ノボタンは沖縄本島の原野や林道沿いなどでよく見られるという。今のところ絶滅の心配はないようだ。だが、ヒメノボタンの方は環境省の絶滅危惧Ⅱ類に分類されている。都道府県別にみると愛媛、佐賀では既に絶滅し、三重、和歌山、高知、熊本、長崎、沖縄では絶滅の危険性が極めて高い絶滅危惧Ⅰ類に指定されている。「野牡丹の一と日の命けさあえか」(富安風生)。

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<「天誅組」150年> 「日本は大和から変わった」をテーマに記念シンポ

2013年08月19日 | メモ

【倒幕めざし初の武力蜂起、明治維新の〝魁〟とも】

 今年は1863年、大和を舞台に繰り広げられた「天誅組の変」からちょうど150年。開国か攘夷か、佐幕か尊王かで揺れた幕末に、倒幕のため脱藩して決起した天誅組の若者たち。めまぐるしい政変の中で逆賊として鎮圧されるものの、一方で「明治維新の〝魁(さきがけ)〟」として評価する声も多い。18日奈良県文化会館で開かれた「天忠組150年記念シンポジウム」は約300人の聴衆で小ホールが満杯になった。

  

 「天誅組の変」は長州藩の外国船砲撃とその報復攻撃などで、尊皇攘夷派が主導権を握る中で決行された。孝明天皇は1863年8月、攘夷祈願のため大和行幸を計画し、天誅組約50人はその先鋒の大義を掲げて大和に向かった。天誅組は17日、幕府の天領・五條の代官所を襲撃、朝廷直轄地とし「五條御政府」を打ち立てる。だが、その翌日、公武合体派による宮中クーデター(八月十八日政変)が起きるや、天皇行幸は延期となり、朝敵・逆賊として追討を受ける立場に。京都守護職・松平容保が討伐命令を下し、天誅組は1カ月余り後には壊滅に追い込まれた。

 シンポジウムの主催は五條市・安堵町・十津川村・東吉野村でつくる天誅組市町村連携協議会。まず天誅組研究家の舟久保藍氏が「五條における天誅組」と題し講演した。「天誅組の新政府が機能したのは僅か2日間だけ。だが立法・司法・行政の3権について幕府に代わる構想を持ち〝一心公平無私〟の理念に基づいて純粋・清潔な政治を行った」。舟久保氏は混迷する今こそ「一灯照隅 万灯照国」(最澄の言葉)の精神が必要とし、「150年前に若き志士たちが命がけで行動した襷を受け取り、まず自分の足元から、大和の国から照らしていくことが大切ではないか」と話した。

 続いて「日本は大和から変わった」をテーマにパネルディスカッション。「天誅組の変」では当初、勤王精神に富む十津川村から1000人近くが挙兵に加わった。その間の事情を下野拓也氏(十津川村立平谷小学校校長)は「十津川は幕府直轄領から朝廷の直轄領になっており、変の直前には京に仮の屯所まで作っていた」など複雑な背景を説明した。

 岡本彰夫氏(春日大社権宮司)は「新撰組を知らない人はいないが、天誅組は誰も知らない。まず150年前、国のため皆のために若い人たちが死んでいったということを知ってほしい」とし、同時に「討ちに行った郡山藩や高取藩などの幕府側の人々も日本の秩序を守ろうと考えて戦った」と話した。その裏には今の日本に国のため命をかけるという人がどれほどいるのか、との思いが込められているようだった。

 阪本基義氏(東吉野村教育長)は天誅組ゆかりの忘れられない人として梶谷留吉と信平親子を挙げた。留吉は記念碑や志士の墓石建立に生涯をかけ、長男信平は史実を掘り起こして広く知らせたいと「天誅組烈士戦誌」と「天誅組義挙録」の2冊を書き上げた。下野氏は十津川郷士の野崎主計、深瀬繁理ら4人を挙げた。自刃し果てた野崎は「討つ人も討たるる人も心せよ 同じ御国の御民なりせば」という辞世の句を詠んだ。

 橋本紀美氏(安堵町歴史民俗資料館館長)が挙げた人は市川精一郎(のち三枝蓊=しげる=に改名)。天誅組には伍長として挙兵に加わった。その後、1868年(慶応4年)2月、御所に向かう途上の英国公使パークス一行を襲撃し、捕らえられて京都・粟田口で斬首された。享年29。その辞世「今はただ何を惜しまん国のため 君のめぐみを身のあだにして」。

 ※「天誅組」と「天忠組」の表記=「天誅組」が一般的だが、「天誅」は個人の暗殺・テロという意味合いが強い。このため朝廷への忠誠や倒幕を目指した行動から「天忠組」の表現もしばしば使われる。書名でも両方の表記が見られるが、今回の記念シンポではタイトルに「天忠組」を使っていた。

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<アンビリバボー> ビルの前に美しい絵柄の陶器皿が縦3枚×横33列も!

2013年08月18日 | アンビリバボー

【ふぐ料理宅配「ふく太郎本部」のふぐ刺し用の絵皿だった】

 この夏、北九州市に帰省し門司区を歩いていた時の話。暑さにたまりかねコンビニで清涼飲料を買って、店の前で周りを見渡しながら飲んでいると――。右手にアンビリバボーの光景。ビルの真正面に大きくてきれいなお皿のようなものがずら~と並んでいるのだ。

 近づいてみると、お皿の直径は30cmほどもあり、様々な図柄があってどれも美しい。それが縦に3枚、横に33列、合計99枚も並ぶ。まさに壮観! 見上げるとビルの側面に「ふく太郎本部」とあった。関門地域では「ふぐ」が「福」に通じるとして「ふく」と呼ぶ習慣がある。絵皿が並ぶのは来客用の駐車場の真ん前。「あっ、そうか。ふぐ料理店を展開する会社がPRのためにこんな奇抜なアイデアを思いついたのだろう」。そう心の中で納得した!

 後日、念のため電話でその狙いなどを伺ってみた。その結果、2007年にこの本部ビルができると同時に絵皿を展示したこと、発案者は創業者で現会長の古川順一さんだったことが分かった。さらに、絵皿展示の意外な理由も判明した。後ろに工場の室外機があり見映えが悪い。そのため室外機を隠すと同時に騒音で隣近所に迷惑をかけないための防音の役割も果たしているというのだ。

     

 HPによると「ふく太郎本部」は30年前の1983年に全国で初めてふぐ料理の宅配をシステム化した。ふぐの身がボタンの花びらのように美しく開く「古式引き」という独自の調理方法が売り物。工場は食品衛生管理の国際基準「HACCP(ハセップ)」の認証を業界で初めて取得している。今ではアンテナショップも兼ねて小倉と東京・銀座にふぐ料理専門店を開いており、今年7月には「北九州オンリーワン企業」の特別賞を受賞した。

 絵皿はほぼ毎年、社内でデザインを検討し各地の焼き物産地に作ってもらっているという。展示されている絵皿は宅配用にこれまでに作った有田焼や美濃焼などだった。ふぐ料理のフルコースの注文があれば、絵皿にふぐ刺しを盛り付けて宅配する。絵皿は返却無用。購入したお客さんのものになる。見映えがいいことが受けて、自家需要のほか贈答需要も多いそうだ。

 それにしても宅配で本格的な焼き物を使うとは! 少々もったいないような気もするが、現社長・古川幸弘さんのブログのつぶやきで納得した。社内で検査した結果、ふぐ刺しをプラスチックの皿に盛るのに比べると、陶器皿の方が温度が安定して味が劣化しにくいという。焼き物の採用は単に見映えだけではなかったのだ。ふぐ料理の世界もなかなか奥が深い!

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<大和郡山・売太神社> 「古事記」編纂の稗田阿礼をたたえて「阿礼祭」

2013年08月17日 | 祭り

【今年で84回目、菅笠・浴衣姿の女児が「阿礼さま音頭」を奉納】

 「古事記」編纂者の1人といわれる稗田阿礼の遺徳をたたえた「阿礼祭」が16日、奈良県大和郡山市稗田町の売太(めた)神社で行われた。稗田町は阿礼の出身地といわれ、神社は阿礼を主祭神としてまつる。阿礼祭は昭和5年(1930年)、児童文学者・久留島武彦氏らの提唱を受けて始まった。今年で84回目。かわいい浴衣姿の女児たちが大きな輪になって「阿礼さま音頭」などの踊りを奉納した。

 

 祭りは午前10時にスタート。まず拝殿で巫女姿の4人による「稗田の舞」の奉納、玉串奉奠などの神事が執り行われた。続いて、拝殿前の広場で女児たちの踊り。幼稚園児と小学生の約40人が歌と太鼓に合わせ、反時計回りに踊ったが、その動きのかわいらしいこと。菅笠に浴衣と赤い襦袢、草履姿。輪をぐるっと囲んだ見物客や親御さんはその晴れ姿を盛んにカメラに収めていた。

 

 「阿礼さま音頭」に続いて「阿礼さま祭子供の歌」の踊りも奉納された。この後、延彌会という女性グループによる「阿礼祭」と「秋田音頭」の踊りがあった。が、この日の主役はやはり女の子たちだった。午後には「鎮守の杜のお話フェスティバル」として腹話術やパネルシアター、子供みこしの渡御、古事記の輪読会なども行われた。

   

 売太神社には阿礼の抜群の記憶力から、受験シーズンなどには学業向上や合格祈願の参拝者が多い。境内には「かたりべの郷」という高い石柱が立ち、拝殿脇には合格を祈願する多くの絵馬が掛かっていた。神社のある稗田町は「稗田環濠集落」としても有名。大和郡山市は阿礼にあやかって2006年から毎年2月「記憶力大会」を開いている。

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<カワラナデシコ(河原撫子)> 万葉の頃から親しまれた愛らしい秋の七草

2013年08月16日 | 花の四季

【中国の「唐ナデシコ」(石竹)に対し「大和ナデシコ」とも】

 日当たりのいい山野や河原に自生する多年草。日本のほか朝鮮半島、中国に分布する。秋の七草のナデシコはこのカワラナデシコを指す。単にナデシコとも。平安時代に中国から渡来した「セキチク(石竹)」を「唐ナデシコ」と言うのに対して「大和(ヤマト)ナデシコ」とも呼ばれる。清少納言は「草の花は、なでしこ。唐のはさらなり。大和のもいとめでたし」(枕草子)と、ナデシコを一番に挙げた。

 「撫子」の名は撫でてみたくなるほど愛らしいことによる。夏から秋にかけて細い茎の先に直径4~5cmほどの優しいピンクの花を付ける。花びらは5枚で縁が細く裂ける。その花姿から可憐な中に強さも秘めた日本女性を「大和撫子」と呼ぶようになった。サッカー日本女子代表チームの愛称「なでしこジャパン」も大和撫子に世界に羽ばたいてほしいとの願いを込めて付けられた。

 万葉集にはナデシコを詠んだ歌が長歌も含め26首ある。万葉表記は「石竹」「瞿麦」「奈泥之故」「奈弖之故」など。全体のほぼ4割を占める11首を大伴家持が詠んだ。その多くで愛する女性をナデシコになぞらえている。「うるはしみ我(あ)が思(も)ふ君はなでしこが 花になそへて見れど飽かぬかも」。家持がいかにナデシコを好んでいたのか、その心情が伝わってくるようだ。

 

 ナデシコ属の仲間は世界に300種ほどある。比較的容易に種間雑種が生まれることから園芸品種も多い。日本では江戸時代、盛んに様々な変わり花が栽培された。いわば古典園芸植物の1つで、今も残る「伊勢(松阪)ナデシコ」は三重県指定の天然記念物になっている。花びらの縁が長く垂れ下がるのが特徴。

 ナデシコは京都府の花。このほか市や町の花に制定しているところも多い。神奈川県の平塚市や秦野市、山梨県甲府市、富山県射水市、名古屋市名東区、神戸市西区……。三重県の伊勢志摩地方には海岸にハマナデシコ(フジナデシコ)が多く自生しており、鳥羽市はこの花を市花にしている(上の写真㊨はハマナデシコの白花)。宮崎県高鍋町は撫子紋が高鍋藩主秋月家の家紋だったこともあってナデシコが町の花になっている。

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<奈良県立美術館> 開館40周年記念「曾我蕭白と中近世美術の精華」

2013年08月15日 | 美術

【豊かな表情と静寂な雪景色「竹林七賢図襖」8面】

 奈良県立美術館(奈良市)で「曾我蕭白と中近世美術の精華」と銘打った開館40周年記念館蔵名品展(9月22日まで)が開かれている。一番の注目は三重県立美術館から出品される江戸時代の絵師・曾我蕭白の水墨画の大作。全国の13県知事でつくる「ふるさと知事ネットワーク」の美術館交流によって実現したという。

    

 曾我蕭白(1730~81)は京都の商家に生まれたが、その生涯についてはあまり詳しく分かっていない。同時代の京都には土佐派や狩野派のほか、与謝蕪村、伊藤若冲、池大雅、円山応挙ら名手が活躍していた。その中で蕭白は型にこだわらない独自の画風を確立した。画壇の中では異端の画家と位置づけられていたようだ。

 三重県立美術館からは前期に「竹林七賢図襖」8面(上の写真㊧=部分)、後期に「松に孔雀図襖」(下の写真)と「許由巣父図襖」各4面が出品される。蕭白は伊勢の国を少なくとも3回訪れたとみられる。斎宮(伊勢神宮に仕えた斎王の御所)だった旧永島家には蕭白が滞在中に描いた襖絵44面が伝わり、その全てを現在、三重県立美術館が所蔵している。

 

 展示中の「竹林七賢図襖」(25日まで)もその1つ。中国・三国時代の魏の国の賢人たちが酒を飲み交わしながら談笑する場面を描いている。墨の濃淡を使って表現したユーモラスな表情と外の雪景色の白さが印象的。枝垂れた笹竹からは雪の重みまで伝わってくる。後期に展示する「松に孔雀図襖」(27日から)は老松の前に孔雀が颯爽と立つ構図。

 蕭白作品はこのほかに奈良県立美術館所蔵の「美人図」「架鷹図屏風」「関羽図」「滝山水図」の4点が展示されている。「美人図」(上の写真㊨=部分)は昨年、県指定有形文化財に指定されたばかり。蕭白にしては珍しい着色画で、細かく引き裂いたような手紙を口にくわえた着物の女性が描かれている。顔の白さ、着物の青、帯の緑、裾徐(よ)けの赤と、色彩の対比が美しい。

 蕭白絵画は米ボストン美術館のコレクションが有名。昨年から今年にかけ国内4カ所を巡回した「日本美術の至宝展」には蕭白作品11点が出品され、中でも巨大な「雲龍図」 の迫力は圧倒的だった。それに比べると、出品点数が5点と少なくやや物足りなさが残ったものの、三重からやって来た襖絵や「美人図」を間近に目にすることができたのは収穫だった。

 蕭白以外では女性の幽霊を描いた長沢芦雪の「幽魂の図」、優雅で品のいい芸妓姿を描いた山口素絢の「妓婦図」、老夫婦が大きな亀に酒を飲ませる葛飾北斎の「瑞亀図」などが印象に残った。「伝淀殿画像」や伝雪舟「秋冬山水図屏風」、呉春「風雪三顧図」、喜多川歌麿の大判錦絵「隅田川舟遊」、東洲斎写楽の「市川男女蔵の奴一平」なども出品されている。

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<「地上の天の川」鍋倉渓> 日が沈むとライトアップで幻想的な世界に!

2013年08月14日 | メモ

【奈良・神野山の山腹にある県指定の名勝、21日まで】

 黒々とした巨岩怪石が平均幅25m、長さ650mにわたって累々と谷を埋め尽くす鍋倉渓(奈良県山添村)。その不思議な景観から県の名勝に指定されている。「古代人が天の川を地上に映したものではないか」。いつからか、こんなことも言われてきた。その鍋倉渓でいまライトアップが行われている。題して「地上の天の川」(21日まで)。日が沈むと250基のソーラーライトが次第に明るさを増し幻想的な世界を作り上げた。

  

 鍋倉渓は神野山(こうのやま)の山腹にある。県立月ケ瀬神野山自然公園の一角。黒い岩が連なる光景はまるで溶岩のよう。10年近く前、初めてこの異様な光景を目にした時の驚きが蘇ってきた。「鍋倉」の地名は黒くすすけたような岩の色が、鍋の底を連想させることから付いたらしい。伏流水は「鍋倉渓湧水」として県から名水「やまとの水」に選定されている。

 

 鍋倉渓には天狗伝説が伝わる。神野山の天狗と伊賀の青葉山の天狗が喧嘩して岩を投げ合った。鍋倉渓の岩は伊賀の天狗が投げたものというわけだ。火山の溶岩が流れ出して固まったのでは、という見方もある。だが、有力なのは風化説。神野山は火成岩の1種、角閃斑糲(はんれい)岩という深成岩でできている。その岩質が非常に硬いため風化に耐えて残り、谷底に自然に移動して集まったという。

 一方で「山添村いわくら文化研究会」は、古代人が築いた巨石構造物で天の川を地上に映したものではないかとみる。神野山山頂や鍋倉渓のそばには巨石の天狗岩、八畳岩、王塚があり、この3つをつなぐと「夏の大三角」のわし座のアルタイル(牽牛星)、こと座のベガ(織女星)、はくちょう座のデネブにぴったり重なり合うという(下の図)。「天空の星と地上の岩が一致する七夕の頃、天上の神が降臨すると考えられた。その儀式の場だったのかもしれない」。

 

 そんなロマンあふれた「古代たなばた信仰」から、このライトアップも数年前から始まった。午後6時半すぎ次第に薄闇が迫ってくると、ソーラーライトも少しずつ明るくなってきた。やって来た人は数えるほど、周りの木々からヒグラシの鳴き声だけが響く。7時を過ぎライトが明るさを増すと、森閑とした森の中に幻想的な天の川が浮かび上がってきた。無数の蛍が草むらに止まっているようにも見えた。

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<BOOK> 「自然災害と民俗」(野本寛一著、森話社発行)

2013年08月13日 | BOOK

【地震・津波、台風、山地崩落……「民俗的伝承の活用を」!】

 著者の野本氏は1937年静岡県生まれで近畿大学名誉教授。フィールドワークを重視した民俗学者として知られる。著書に「海岸環境民俗論」「熊野山海民俗考」「神と自然の景観論―信仰環境を読む」など。2011年の東日本大震災や紀伊半島大水害が本書執筆を後押しした。「この際、民俗学の視覚から聞き取りを重ねてきた自然災害にかかわる伝承や民俗的対応について、瑕疵を怖れずにまとめておくべきだと考えるようになった」。

   

 地震と津波、火山噴火と降灰、山地崩落、台風、雪崩、冷害など自然災害別に12章で構成する。著者は東日本大震災の陸前高田の1本松の映像を見るたび、静岡県袋井市の「亀の松」のことを思ったという。600年くらい前に大地震が起き、母子が津波にさらわれるが、母が亀に化身して子を守ったという伝説がある。助けてくれた海亀の伝説からその肉を食べることを禁じる禁忌伝承は各地に残っているという。

 柳田國男の「遠野物語」99話では、津波に遭って死んだ妻が婚前の相思の男と夫婦となって夫の前に幻視として立つ。この伝説は何を意味するのか。著者は「未練を断ち切り、死者の冥福を祈り、生者が生きる決断を固める契機を示す語りが内在すると考えるべきだろう」と指摘する。

 「ナマズやキジが騒ぐと地震が起こる」といった伝承は各地に伝わる。「地震・津波の前には小動物が高い所に登る」「ヤギが積み上げた堆肥に登ると地震が起こる」「津波の前触れとして深海魚が浅い所で獲れる」といった言い伝えもあるそうだ。このほか伊豆半島に伝わるカニと地震の伝説や沖縄県石垣市のジュゴンと津波の伝説なども紹介している。

 地震とともに大災害をもたらすものに火山噴火がある。雲仙・普賢岳や三宅島・雄岳、霧島連山・新燃岳の噴火災害や降灰被害は記憶に新しい。「『雲仙大変肥後迷惑』という口誦句は、雲仙の噴火の甚大さを伝える」。鹿児島・桜島では噴火口の位置や風向と季節のかかわりを見定め体験と伝承から栽培作物を決めてきた。「カリフラワー・桜島大根・ビワ・椿など、いずれも風向と降灰時期を考慮した選択である」。

 2年前の紀伊半島大水害では崩落した土砂が峡谷を塞ぐ〝堰止め湖〟が難題として浮上した。山地崩落を紀伊山地では「クエ」や「グエ」と呼ぶ。筆者は漢字の「崩(く)え」「潰(く)え」から来ているのでは、と推測する。栃木・山梨・静岡・長野などでは「ナギ」という。北陸では焼き畑のことも「ナギ」と呼ぶそうだ。いずれも草や潅木を薙(な)ぎ切ることに由来するらしい。島根や愛媛・徳島では「ツエ(潰え)」や「ツエヌケ(潰え抜け)」。このほかに「山ズレ」や「タニゼメ」と呼ぶ地方もある。

 台風の予想伝承には「アカウミガメが浜の奥に卵を産む年は大きな台風が来る」といった言い伝えが古くから和歌山県新宮市や静岡県御前崎市に伝わる。「アシナガバチが石垣の中に巣を作る年は大きい台風が来る。木の高い所に作る年は来ない」という伝承も各地にある。「鳥の巣が低いと大きな台風が来る」「トウモロコシの根が高く張る年は強い台風が来る」といった言い伝えもあるそうだ。

 著者は終章「災害列島に生きる」で、自然の恩恵と災害という〝両義性〟に触れる。東日本大震災では多くの漁業関係者も被災した。「海から極めて理不尽な深傷を負わされたにもかかわらず、海の恵みといった側面を見つめる……この国土に生きる者は誰もが、自然の両義性を深く心に刻むことを求められている」。そして「巨大地震・巨大津波・大型集中豪雨・深層崩壊・浸透破堤といった未知の災害、複合災害に備えるためには土木的・科学的対応、民俗的伝承の活用とともに、地域共同体の基礎力を復活させなければならない」と結ぶ。

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<キツネノカミソリ(狐の剃刀)> 真夏の山野に目に鮮やかなオレンジの花

2013年08月12日 | 花の四季

【ヒガンバナ科 その名は葉の形と狐色の花に由来!】

 本州から九州にかけ日本各地の山野に自生するヒガンバナ科の球根植物。真夏の7月後半から9月にかけて、葉が落ちた後に花茎だけがすくっと伸びて、色鮮やか濃いオレンジ色の花を付ける。遠目にはヒガンバナにもユリのようにも。早春、根元から伸びる細長い葉を剃刀(かみそり)に見立て、花色がこんがり焼けた狐色に似ていることから、その名が付いたそうだ。

 「怖れては遠目にみたる花なりき キツネノカミソリ群れる初秋」。歌人の鳥海昭子は葉がない花姿と不思議な名前から、幼い頃、怖いイメージを抱いていたという。登山道脇などに突然、明るいオレンジ色の群落が現れると、まさにキツネにつままれたように感じるかもしれない。花びらは6枚でやや反り返る。球根は強い毒性を持つが、ヒガンバナと同じく生薬「石蒜(せきさん)」として漢方治療に用いられる。

 大阪府茨木市の「車作の森」にキツネノカミソリの群生地が広がる。十数年前までは荒れた林だったが、地元のボランティアが里山を取り戻そうと杉や桧の間伐、下草刈りなどを続けてきた。その結果、光が下まで届くようになって群落が見られるようになったそうだ。今では観察路も整備されている。今年は8月17日に観察会を開く。

 埼玉県新座市では市営墓園内の川沿いの斜面に群生地が広がり、地元住民が保存会をつくって保護活動に取り組んできた。今では「市場坂キツネノカミソリの里」の愛称で親しまれ、新座の真夏を彩る風物詩になっている。ここでも毎年8月に観賞会を開いているが、今年は18日に開催の予定という。

 近縁種に「オオキツネノカミソリ」がある。花がやや大きく、雄しべが花弁の外まで長く飛び出しているのが特徴。その群生地が九州の山間部に多く残っている。佐賀・長崎両県にまたがる多良岳は作家・登山家の田中澄江著「日本花の百名山」でも取り上げられた。福岡・佐賀県境の井原山(いわらやま)の群落も国内最大規模。熊本県五木村の仰烏帽子山(のけぼしやま)や佐賀県唐津市の八幡岳などの群生地も人気を集める。

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<大阪大学21世紀懐徳堂塾> 「おださくが歩いた大阪」トークサロン

2013年08月11日 | メモ

【大阪庶民を描き続けた作家・織田作之助の生誕100周年で】

 代表作「夫婦善哉」などで大阪の庶民を生き生きと描き続けた作家、織田作之助(1913~47)。今年はちょうど生誕100周年に当たる。その節目に合わせNHKは今月24日から土曜ドラマ「夫婦善哉」(全4回)を放映し、今秋には大阪歴史博物館で企画展「織田作之助と大大阪」も開かれる。〝オダサク〟の愛称で親しまれてきた人気作家だけに、大阪・中之島で10日開かれた大阪大学21世紀懐徳堂塾(OSAKAN CAFE)の「おださくが歩いた大阪」トークサロンにも、予定のほぼ2倍120人のオダサクファンが詰め掛けた。

 

 トークサロンのゲストは4人。オダサク倶楽部副代表の高橋俊郎氏(大阪市立中央図書館副館長)、NHKの「夫婦善哉」制作担当ディレクターの安達もじり氏、大阪大学大学院文学研究科教授の出原隆俊氏、大阪大学総合学術博物館館長の橋爪節也氏。オダサクが生まれ育ち、作品にも登場する大阪の下町などについて、映像や地図も交えながら3時間にわたって熱いトークを繰り広げた。

 NHKの「夫婦善哉」は夫婦を演じる主演の森山未來と尾野真千子も出席して、このほど完成披露試写会が行われたばかり。演出に当たった安達氏は「大正~昭和初期の大大阪とはどんな所だったのか、作品に多く登場する地名が今のどこで、どのような人々が暮らしていたのかを詳しく聞いたり調べたりした」。ドラマの中では「エネルギーの固まりのような、ごちゃまぜでにぎやかな町を再現した」そうだ。

 時代考証についてはゲストでもある橋爪氏から当時の時代について詳細に教えてもらい、アイデアももらったという。その橋爪氏はトークの中で「もう少し長生きしていたら、大阪がもっとおもしろくなっていたと思う人が3人いる」として、オダサク(享年33)と作曲家・指揮者の貴志康一(享年28)、洋画家の佐伯祐三(享年30)を挙げた。

 橋爪氏は「『夫婦善哉』は船場外しの物語といえるのではないか」という。船場を舞台にした小説には谷崎潤一郎の「細雪」や山崎豊子の3部作「暖簾」「花のれん」「ぼんち」などがある。その多くが船場商家の厳しい家族制度や風習などを描いた。

 一方、下町長屋育ちのオダサクは「そうした厳しい規律や権威に満ちた船場を外し、(庶民的な)道頓堀の南側を舞台に描いた。オダサクを歩くということはミナミを歩くということ」と話す。オダサクにも芸者の子で「船場の嬢(いと)はん」として育った母と娘を描いた連作「女の橋」「船場の娘」「大阪の女」がある。ただ、この3つの作品では「(船場ではなくて)道頓堀に架かる太左衛門橋が重要な役割を果たす」。

 オダサク倶楽部の高橋氏も「オダサクは自分の足跡に応じて作品を書いた。船場が抜け落ちているのは意識的に外したからだろう」と話す。「女の橋」の書き出しは電話での船場言葉による会話から始まり、連作の中には船場の「旧弊」や「古い因習」といった表現がしばしば出てくる。「(これらの作品を通じ)船場にチャレンジしたのかなとも思う」「終戦を機に自分(の周りのこと)を中心に追求して書いてきたことを転換したかったのではないか」。

 さらに高橋氏は「阿部定事件を取り上げた『妖婦』には江戸弁が出てくる。〝いざ東京〟というところで亡くなったのがオダサクにとっての悲劇。もう少し長生きしていたら、大阪から抜け出た作品が生まれていたかもしれない」と話す。一方で「亡くなって66年。オダサク作品が息長く生き残っているのは、やはり大阪へのこだわりがあったからだろう」とも指摘した。

 会場にはオダサクゆかりの地100カ所が示された巨大な「大阪逍遥地図」や、NHK「夫婦善哉」の写真パネルが展示されていた。トークの合間に橋爪氏が披露した当時の「いづもや」や「花月」、カフェなどのチラシは、奇抜な宣伝文句やイラストに会場に笑いが広がった。

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