く~にゃん雑記帳

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<興福寺の鐘楼> 台形状に広がる〝袴腰〟の痕跡!

2020年09月29日 | 考古・歴史

【奈良時代の創建時の規模や構造が判明】

 藤原不比等が奈良時代に建立した藤原氏の氏寺、興福寺の鐘楼の規模や構造が奈良文化財研究所の発掘調査で判明した。基壇上で鐘楼を支える礎石のすぐ外側から「ロ」字形に四周を巡る素掘りの溝が見つかった。建物の初層をスカート状に覆っていた〝袴腰(はかまごし)〟の基礎を抜き取った痕跡とみられる。国内で袴腰を持つ鐘楼はこれまで平安後期建立の法隆寺東院鐘楼が最古とされてきた。興福寺の鐘楼はこれを大きく遡る可能性が高まった。

 鐘楼跡の発掘場所は2年前に再建された中金堂の北西側。9月28日行われた現地見学会には多くの考古学ファンが詰め掛けた。出土した基壇は南北約15m、東西約11mの長方形で、中央部から直径1~2mほどの大きな礎石9個が姿を現した。礎石の配置から建物の平面規模は南北10.1m、東西6.5mで、経蔵と同じだったことが分かった。袴腰の基礎部分があったとみられる溝は南北13.4m、東西10.1mの長さで、礎石と基壇外周部の間をぐるっと巡る。

 

 興福寺の縁起をまとめた『興福寺流記(るき)』には鐘楼について二通りの規模が記されており、これまでその理由が不明だった。今回の発掘調査で袴腰を抜き取ったとみられる溝が見つかったことにより、二通りの記述は一つが柱位置での平面規模、もう一つは袴腰下辺の平面規模を表しているとみられることが分かった。

 

 興福寺の伽藍は創建以来度々火災に遭い、そのたびに再建が繰り返されてきた。鐘楼は1717年の焼失後再建されていないが、今回の発掘調査によりそれまでは同じ場所で同じ規模で基壇を改修しながら再建されてきたことが判明した。基壇西側からは創建時~中世の階段、東側からは江戸時代以降の階段が出土した。また基壇から炭層や焼土が幾重にも積み重なるなど度重なる罹災を物語る痕跡も見つかった。

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