く~にゃん雑記帳

音楽やスポーツの感動、愉快なお話などを綴ります。旅や花の写真、お祭り、ピーターラビットの「く~にゃん物語」などもあるよ。

<堂本印象美術館> 第3回野外工芸美術作家展

2022年10月31日 | 美術

【花器・平織り・紙細工・ガラス・金属工芸】

 京都府立堂本印象美術館(京都市北区)で「第3回野外工芸美術作家展」が開かれている。会場は美術館の新館南側に広がる起伏に富んだ庭園。美術館の建物は日本画家堂本印象(1891~1975)がデザインしたことで知られるが、緑豊かな庭園にも自身がデザインした椅子があちこちに点在する。その開放的な空間でいま5人の工芸作家の作品が展示されている。11月23日まで。

市川博一さん 青白磁の花器14点を出品。常緑の濃い緑の中で、様々な造形の花器の明るい色調が爽やかで美しい。1991年以来日展入選を重ね、京都や東京で個展も開いてきた。ただ屋外での作品展示の経験はほとんどなく、「作品が庭園内の緑の中でどんな表情になるのか楽しみ」とのこと。

林田さなえさん 「月とワルツ」「Glass Rain」など5点。日本現代工芸美術展新人賞、三重県文化賞(奨励賞)など受賞を重ねている。2021年作の「Glass Rain」は高さ155㎝のピラミッド形で、無数のガラス片が天から降り注ぐ。「陽、風、雨、自然の中で透過しきらめくガラスを感じてもらいたい」

菊徳子さん 2017年に京都工芸美術作家協会展で京都府知事賞を受賞。今回は「時が刻んだ景」のタイトルでカラフルな平織りの織物4点を出展している。素材は綿・麻・レーヨン・アクリル・ナイロンなど。パステルカラー調の色合いと風合いが優しく風に揺れる。「木漏れ陽に揺れる光と影の表情。糸の間を抜ける風。室内では見られない、そのような光景を楽しんでいただければ」

入澤あづささん 出品作は「Wave Ⅴ」~「Wave Ⅷ」の4作品。紙を繰り返し折り畳んだだけの作品だが、角度によって鳥や猫など様々なものに見える不思議な造形。「折り畳むことで生み出された凹凸は螺旋構造となり、装飾的な陰影を見せる」と入澤さん。京都府美術工芸新鋭展入選(2019年)、京都市芸術新人賞(2020年)。

丸山祐介さん 「DARUMASH」「ART picnic」など4作品を出品。広島市立大学大学院芸術学研究科博士前期課程修了、現在横浜美術大学准教授。第35回淡水翁賞最優秀賞(2019年)。「DARUMASH」は高さが21㎝と小さいながら周囲に存在感を放つ。素材は銅と金箔、錫。「堂本印象先生の作品が配置されている庭園空間と工芸作品のコラボレーション。散策気分でお楽しみください」

コメント
  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

<神戸市立博物館> 特別展「よみがえる川崎美術館」

2022年10月29日 | 美術

【煌びやかな“名誉の屏風”、応挙の襖絵で空間再現!】

 神戸市立博物館で開館40周年の記念特別展「よみがえる川崎美術館―川崎正蔵が守り伝えた美への招待」が開かれている。川崎美術館の創設者は川崎造船所(現川崎重工業)や神戸新聞社などを創業した川崎正蔵(1837~1912)。神戸市布引に1890年(明治23年)国内初の私設美術館として開館した。だが昭和初期の金融恐慌などでコレクションは残念ながら散逸してしまう。国宝・重要文化財を含むそれらの名品の数々が約100年の時を越えて神戸に“里帰り”してきた。12月4日まで。

 川崎正蔵が美術品を収集した背景には明治維新による西洋文化の流入、廃仏毀釈や文化財の流出への危機感があった。収集分野は多岐にわたる。それを示すのが没後3回忌の1914年に刊行されたコレクションの名品図録『長春閣鑑賞』(長春閣は1899年、美術館の隣に建てられた)。386点の作品が①仏画・やまと絵・肉筆浮世絵②狩野派・水墨画③円山・四条派④中国絵画⑤仏像・漆器⑥陶磁器・青銅器――に分けて6冊に掲載されている。コレクションはその後散逸したが、国内外に約300点が現存しているそうだ。

 展示品の中でとりわけ目を引くものに煌びやかな金地屏風がある。伝狩野孝信筆の『桐鳳凰図屏風』(林原美術館蔵)は8曲1双で重要美術品(下の写真)。かつては豊臣秀吉が聚楽第を造ったとき狩野永徳に描かせたと考えられていたが、今では永徳の次男孝信の作ではないかといわれている。

 狩野信孝筆の8曲1双『牧馬図屏風』(個人蔵)は海外からの初の里帰り公開。満開の桜と青々とした松などの木の下で多くの馬が遊ぶ光景が生き生きと描かれている。乳を飲む子馬も含め全部で23頭。これらの屏風は1902年の明治天皇の神戸行幸で御用立てられた屏風5点のうち2点で“名誉の屏風”と呼ばれている。いずれの作品も制作から約400年経つが、とてもそうとは思えない新鮮な輝きを放つ。雲谷派筆の6曲1双『韃靼人狩猟図屏風』(宮内庁三の丸尚蔵館蔵)も今回が初公開。

 もう一つの見どころが川崎美術館を彩った円山応挙の襖絵『月夜浮舟図・江頭月夜図』『海辺老松図』『江岸楊柳図』『雪景山水図』(いずれも東京国立博物館蔵)の計32面。これらを立体的に展示して館内の空間を再現した。また当時の「陳列品目録」を手掛かりに同じ部屋に飾られていた中国絵画を一堂に集めて展示した。現在は明の第5代皇帝宣宗筆『麝香猫図』(個人蔵)や『蓮に鶺鴒・葦に翡翠図』(MAO美術館蔵)などを展示中だが、会期後半には南宋画の名品として国宝に指定されている直翁筆『六祖狭担図』(大東急記念文庫蔵)や重文の伝夏珪筆『風雨山水図』(根津美術館蔵)などもお目見えする予定。

 川崎正蔵は美術品収集の傍ら、尾張の七宝の名工・梶佐太郎(1859~1923)を神戸に招き中国・明代の古七宝焼を基に「宝玉七宝」の制作を支援するなどパトロンとしての役割も果たした。パリ万博(1900年)出品の梶の香炉と花瓶は名誉大賞を受賞し、その後皇室に献上された。だが、それらの作品は1945年の東京大空襲で焼失したという。会場には『菊唐草文七宝香炉』(宮内庁三の丸尚蔵館蔵)、『牡丹唐草文鐶付七宝花瓶』(名古屋市博物館蔵)など15点が並ぶ。深い青色の美しさにしばし見入ってしまった。

 展示作品番号最後の「112」は伝顔輝(14世紀の中国・元時代)筆の重文『寒山拾得図(2幅)』(東京国立博物館蔵、上の写真=部分)。中国・唐代の高僧、寒山と拾得が暗闇の中で大きな口を開け不敵な笑みを浮かべる。足利義政が所蔵した東山御物といわれ、織田信長、石山本願寺などを経て川崎正蔵が1880年代半ばに入手した。命の次に大切なものとして愛蔵した作品といわれる。

 このほかにも名品が多く並ぶ。桃山時代の6曲1双『桜下蹴鞠図屏風』(文化庁蔵)、土佐光起筆『源義経・周茂叔・陶淵明図』(個人蔵)、鳥文斎栄之筆『円窓九美人図』(MOA美術館)、伝雪舟筆『墨梅図』(東京国立博物館)、円山応挙の『呂洞賓図』『猛虎渓走図』(個人臓)、呉春筆『三十六歌仙偃息(えんそく)図巻』(逸翁美術館)……。後期には中国人物画の名品として国宝に指定されている伝銭舜挙筆『宮女図(伝桓野王図)』(個人蔵)なども展示される予定だ。

コメント
  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

<平城宮跡資料館> 地下の正倉院展「平城木簡年代記」

2022年10月27日 | 考古・歴史

【60年間にわたる平城木簡出土の足跡を辿る】

 奈良文化財研究所の平城宮跡資料館で秋恒例の特別展「地下の正倉院展」が始まった。平城宮跡で1961年に初めて木簡が出土してから約60年。この間に膨大な量の木簡が見つかった。今年は平城宮跡の史跡指定から100周年、奈文研も設立70周年。節目の年に当たることから、今展では「平城木簡年代記(クロニクル)」をテーマに、代表的な木簡を通じて木簡出土の足跡を辿る。

 平城宮跡と平城京跡から出土した木簡の総数は30万点を超える。そのうち「大膳職(だいぜんしき)推定地出土木簡」など3184点が2018年に「平城宮跡出土木簡」として国宝に指定された。さらに2020年には「長屋王家木簡」の一部が重要文化財に指定されている。今展では各年代を代表する木簡56点(国宝8点、重文6点を含む)を2期に分けて展示する。会期は前期が10月15~30日、後期が11月1~13日。

 初の木簡(上の写真)が出土したのは1961年1月24日。復元された第1次大極殿のすぐ北側、後に「大膳職」(給食センター)跡と推定される場所で見つかった。発見者の第一声は「タクサン! ナンカ字ィ書イタルデー」。木片の木簡が古代の筆記具として使われていたことを示す大発見だった。「タクサン」とは発掘担当者で、後に奈文研所長を務めた故田中琢(みがく)氏のこと。その記念すべき木簡は腐食が激しく判読が難しいが、書き出しは残画から「謹啓 請…」と読めることから、何らかの依頼文とみられる。この出土場所からは40点の木簡が見つかった。

 2年半後の63年夏、今度は平城宮の北端近くの今は「内裏北外郭官衙(かんが)」と呼ばれる場所の廃棄土坑から約1800点の木簡が出土した。これらの木簡は最初に見つかった木簡とともに国宝に指定されている。今展ではその中から「西宮」を警備する兵衛(ひょうえ)の木簡(上の写真)なども展示中。さらに66年には平城宮東南隅の長大な東西溝から約1万3000点もの木簡が出土した。大半が下級役人の勤務評定に関するものだったことから、付近に役人の人事を掌る「式部省」があったことが判明した。

 1970年代を代表する木簡は3点を展示中。その中に東西楼閣のことに触れた木簡がある。「里工作高殿料短枚桁二枝」と書かれたもので、高殿(重層の建物)の部材のうち短いもの2本を里工(徴発された民間の工人)が加工したと記す。今年4月、第1次大極殿院南門の復元完成に続いて東楼復元工事が始まった。現在は巨大な素屋根で覆われており、2025年竣工を目指している(下の写真)。

 1980年代の最大の発見は「長屋王家木簡」(約3万5000点)。88年に百貨店建設予定地の調査区域から外れた重機掘削現場で、念のためと目を光らせていた調査員が厚い木屑堆積層の存在に気づいた。これをきっかけに急遽本格的な発掘調査が始まったという。この百貨店建設に関連した調査では「二条大路木簡」(約7万4000点)も出土した。それらの木簡の分析から長屋王没後、旧長屋王邸の地が一時期、光明皇后の皇后宮として利用されていたことが明らかになった。(写真は「二条大路木簡」の出土状況=展示パネルから)

 1990年代出土のものは「春宮坊(とうぐうぼう)」(皇太子の家政機関)の存在を示唆する木簡など3点、2000年代では巻貝の荷札など4点が展示されている。2010年代以降の展示中の木簡は6点で、最も新しいものは美濃国からの米の荷札(下の写真)。昨年11月25日に平城宮西北部の調査で出土したもので、まだ保存処理中のため水溶液に漬けた状態での展示になっている。後期にはこれよりもっと新しい12月3日出土の木簡も展示される予定。

コメント
  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

<月下美人> 12輪が同時に開花!

2022年10月26日 | 花の四季

【今年4回目、純白・妖艶・芳香】

 ゲッカビジン(月下美人)の鉢植えが10月25日夜から26日未明にかけて、純白・大輪の花で包まれた。その数、12輪。葉っぱ2枚の挿し木から育て始めて8年余り。4年前から花を付け始めたが、一度に10輪以上開花したのは今回が初めて。今年は早くも6月中に一度開花し、その後、ほぼ毎月のように花を付け、これが4回目だった。

 月下美人は中南米の熱帯雨林原産。サボテン科クジャクサボテン属の多肉植物で、高温多湿の環境を好む半面、寒さに弱い。このため毎年、冬には室内に取り込み、春になると屋外に出していた。花は純白で、外側のガク弁まで含めると直径が20㎝ほどもある。甘い香りを放つのも特徴。その強い香りはジャングルで小型の“果実コウモリ”を誘うためといわれる。

 鉢植えは2019年に9月と10月に初めて8輪開いた。翌年も7月と10月に計9輪。さらに昨年は3回にわたって十数輪咲いた。そして今年は開花が早まり初めて6月中に1輪開花した。株には20個ほどの小さな蕾も付いていたが、残念ながら赤くなって全て落下。しかし7月と8月に合わせて10輪ほどが開花し、今回は蕾だった16個のうち12個が大きく膨らんで花を付けてくれた。

 翌朝萎んでしまった月下美人の花は切り取って台所へ。半切りにし雌しべと雄しべを除きしっかり水洗い。その後、さっと茹でてゴマ和えや酢の物などにし食卓に並べる。その食感はネバネバしたとろみとしゃきしゃき感が同居。花を愛でた後食すのがいつの間にか楽しみになってしまった。

コメント
  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

<平城京天平祭> 人気呼ぶ「変面」などのショー

2022年10月23日 | 祭り

【朱雀門ひろばで、23日は「ガムラン」演奏なども】

 「2022秋平城京天平祭 みつきうまし祭り」が10月22日、奈良市の平城宮跡朱雀門ひろばで始まった。奈良の食を味わい、古代行事や歌舞音曲を楽しもうという恒例の祭りで、春・夏・秋の年3回開催している。朱雀門の壇上では多彩なステージショーが繰り広げられ、朱雀大路には多くの飲食や農産物などの販売店が出店。天平衣装や奈良時代の遊びの体験コーナーなどもあり、初日から多くの人出でにぎわった。23日まで。

 22日のステージは午前10時半、和太鼓「広陵金明太鼓」の演奏からスタートした。1994年に広陵町で結成され「命の響きを伝える」が合言葉。一糸の乱れもない豪快な演奏に日頃の練習の成果が表れていた。続いて登場したのは明日香村の「八雲琴(やくもごと)」のグループ。以前、地元の県立万葉文化館でその古を偲ばせる二弦の琴の音色に聴き入ったことも。この日は「秋の夕日の照山紅葉……」の「紅葉」など4曲を歌も交えながら披露した。

 次は中国芸能の「龍舞」で、演じるのは2012年結成の大阪産業大学「OSU舞龍団」。メンバー10人余が玉を追いかける龍の様子を流れるような動きで表現した。かと思えば、龍の形が突然、巨大な菱形を2つ並べたような造形に早変わり。演舞後、観客から学生たちへ温かい拍手が送られた。舞龍団は龍舞世界大会への出場を目標に掲げているそうだ。

 最後の演目は「変面」。顔の面を瞬時に取り替える中国四川省の伝統芸能だ。変面を見たのは2019年2月、長崎の「ランタンフェスティバル」のときだった。かつて中国映画『變臉(へんめん) この櫂に手をそえて』(呉天明監督)のビデオを見て感動。以来抱いていた生の変面を見たいという念願が3年前長崎で叶った。この映画は第9回東京国際映画祭で最優秀監督賞、最優秀男優賞を受賞している。

 主人公を演じたのはNHKの『大地の子』でも脚光を浴びた朱旭。そのストーリーは――。子どものいない変面王が後継者を育てようと人買いから幼児を手に入れ、愛情を注いで芸を教える。ところがある時、その子は女の子と分かる。変面の技は男子しか引き継げないという伝統があった。老芸人は以来、失望し突き放そうとするが、少女は精いっぱい老人に尽くす。そして少女は償いのため幼い男の子を連れてくるが、そのために変面王が誘拐犯として逮捕されることに――。

 今回久しぶりに天平祭を訪ねたのも、実はステージショーの中に変面が含まれていたため。やはりこの早業の芸は大人気だった。椅子席はもちろん満席、多くの立ち見客もできるだけ間近で見ようと前の方に集中していた。ステージに紫色の面を着けた男性が現れ、手を顔にかざすや瞬時に緑色や白い面に。司会者が事前に「声を出さずに拍手をお願いします」とアナウンスしていたものの、会場からは思わず「すごい」「ワー」といった歓声が起きた。

 変面師はその後、朱雀門の壇上から降りて次々に瞬間芸を披露し、観客の小さな女の子を抱き上げるサービスも。瞬時に面を取り替えるこの変面にはどんなカラクリがあるのだろうか。演技中、ずっと目を凝らし見ていたが、やはり仕掛けはよく分からなかった。中国の“国家機密”とまでいわれる変面。素人に分からないのは当然か? ただ写真の1枚を拡大すると、目の上下に横に走るごく細い透明の紐状のようなものがかすかに写っていた。これが早業に何か関わりがあるのだろうか。

 2日目の23日、朱雀門の歌舞音曲ステージでは奈良朱雀・奈良商工高等学校の「和太鼓 秋篠」やインドネシア芸能「ガムラン演奏&舞踊」などが行われる。

コメント
  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

<奈良市埋文センター> 秋季特別展「また!ナニこれ?」

2022年10月21日 | 考古・歴史

【関係者が頭をひねる用途不明の出土品】

 奈良市埋蔵文化財調査センター(大安寺町西2丁目)で秋季特別展「また!ナニこれ? ―奈良市出土の用途不明品」が開かれている。2年前開催の「ナニこれ?」展の続編。前回は奈良時代の平城京出土品に絞ったが、今回は対象を奈良市内全域の縄文時代から江戸時代までの出土品に拡大した。発掘調査員や研究者が頭をひねる用途不明品などを①コレなに?②ナニを表現?どんな意味が?③どのように使ったの?④どんな願いが?――の4つに分類して展示・紹介している。会期は11月30日まで。

刺突紋がある土器(弥生時代後期。東九条町で発見された溝から出土)

 高さ3㎝、幅4㎝の土器片。上面の平坦面の端と側面の底部付近に小さな円形の孔が連続して開けられ、側面には直径2㎝程度の大きな円形の孔があり、その上には綾杉紋が施されている。復元では径8㎝ほどの器台状に。「器台とするにはあまりにも小さく、この上に載る器も想像できない」という。

蓋に突起が付いた亀甲形陶棺(飛鳥時代。秋篠阿弥陀谷横穴遺跡の1号墓から出土)

 全長189㎝、高さ88.5㎝。棺蓋の稜線突帯と縦位突帯の交差点上の小さな扁平の突起が特徴的。このような突起がある陶棺は他に例がない。何かを模した装飾なのか、あるいは棺蓋と棺身とを紐で縛って固定する実用的なものなのか?

リボン記号の墨書土器(奈良時代。平城京東市と推定される場所の井戸から出土)

 13点見つかった。内訳は土師器の皿もしくは杯が4点、須恵器杯6点、杯の蓋2点、鉢1点。「リボン形の意味は所有者または特定組織を表すマークとみられる」

密封した土器を重ねた埋納遺構(奈良時代。平城京左京五条四坊十坪で発見)

 蓋をした須恵器の杯が上下に2つ重ねて穴の中に据えられていた。杯の直径は約18㎝、高さ約6㎝。上段の杯の中には何も残っていなかったが、下段の杯には和同開珎や小石、鉄滓などが入っていた。埋納遺構は土地や建物に災いが起きないことを願う地鎮・鎮壇や、生まれた子どもの長寿などを祈って胎盤を納める胞衣(えな)埋納、または墓などと考えられるが、さて、この遺構は?

控えめな人面墨書土器(奈良時代。平城京左京三条三坊十一坪内の東堀河から出土)

 人面墨書土器にはヒゲを生やした恐ろしげな表情をした人の顔を大きく描いたものが多いが、この土器(手前)の顔は軽妙な筆遣いでごく小さく描かれており、笑っているようにも見える。その画工自身が控えめな性格だったのだろうか? 人面墨書土器の目的には諸説。疫病神除け、または息を吹き込んで穢れを封じ込め水に流す呪具、供物を入れて延命を祈願したとする説など。

円板状土製品(奈良~室町時代。市内各地で出土)

 孔を有し丁寧に円形に加工したものは糸を紡ぐ紡錘車、厚手のものは発火具などに使う舞錐(まいぎり)の弾車(はずみぐるま)の可能性。孔が無いものは冥土へ持っていく銭、印地(いんじ)と呼ばれる石合戦用の石、お手玉やおはじき――などとする様々な見方があるという。

束ねられた人形(平安時代。法華寺町の9世紀後半の井戸枠中から出土)

 最も外側にくる人形(ひとがた)が内向きになるようにして7~8枚が重ねられ紐で縛られていた。束がほどけた人形は全て胴部に「伊勢竹河」という人名が書かれており、全部で51枚あった。頭部に1カ所、胴部に2カ所、木釘または紐通しの孔が開けられ、紐で縛られていたことから人を呪う人形にもみえる。一方、病気治癒を願って何枚も書いた自身の形代を廃棄する際に束ねたとも考えられる。

球状土製品(平安時代。一条高校内の発掘調査で見つかった大型井戸枠内から出土)

 高さ約7㎝、幅約9㎝でやや横長の球状。上部中央に径約3㎝、深さ約2.5㎝の穴がある。9世紀後半のものとみられるが、「他に類例は見当たらず、用途も蝋燭立てぐらいしか思いつかない」。

車形木製品(鎌倉時代。奈良市役所北側の発掘調査で出土)

 一緒に出土した土器の年代から13世紀のものか。長さ40㎝、幅24㎝、車輪の直径10㎝で、前輪1個、後輪2個の計3個の車輪が付いていたとみられる(写真上部は復元模型)。鎌倉時代の絵巻物に子どもが同様の車を曳く場面が描かれており、玩具の可能性があるとする一方、『今昔物語』巻24に神事の際にミニチュアの車を使ったとの記述があることから、まじないの道具の可能性もあるという。

ヘラ書きがある備前産陶器の大甕(室町時代。奈良町遺跡から出土)

 高さ94㎝、胴部最大径80㎝。肩部に「三入」の文字が焼成前にヘラで書かれている。備前産大甕には他に「三石入」と記されたものがあることから、この「三入」は「三石入る」の意味とみられる。ただ実際には三石(540リットル=ドラム缶3本分弱)も入らないという。はてな?

コメント
  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

<新居浜太鼓祭り> 絢爛豪華な太鼓台が54台も!

2022年10月18日 | 祭り

【各地で「かきくらべ」100人超の男衆で差し上げ】

 愛媛県新居浜市で「新居浜太鼓祭り」が10月16~18日(一部地域は15~17日)にぎやかに繰り広げられた。徳島の阿波踊り、高知のよさこい祭りとともに四国を代表する祭りの一つ。この3日間、市内は金糸の刺繍で彩られた太鼓台54台が練り歩いて祭り一色に塗りつぶされた。最大の見どころは3トンもある太鼓台の差し上げ。男衆が「かき棒」を頭上高く持ち上げると、観客から大きな拍手が送られた。(写真手前の太鼓台は36年ぶりに新調した「岸之下太鼓台」、奥の「松木坂井太鼓台」も30年ぶりに新調=JR新居浜駅前で)

 新居浜の太鼓台を生で初めて目にしたのは3年前、2019年9月に松山城のそばで開かれた「大神輿総練(そうねり)」のときだった。新居浜太鼓台の参加は1台だけだったが、その豪華さと勇壮な姿に感激、ぜひ現地で祭りを見たいと思っていた。ところが新型コロナで2020年、21年と2年続けて中止に。今回ようやく念願が叶った。16日新居浜に着いて初めて目撃した太鼓台が、偶然にも松山で見た「口屋太鼓台」(下の写真)だった。その光り輝く金糸刺繍の飾り幕に改めて目を奪われた。

 新居浜の太鼓台は高さが5m前後もある。最上部を飾るのは紅白の球形の天幕。太陽の輝きを表しているという。飾り幕は上から布団締め・水引幕・高蘭幕の3段。布団締めには一対の龍が4面に刺繍され、その下の幕も御殿や武者絵、唐獅子・虎・鷲・鷹・鯉などの禽獣が金糸で縫い施されている。その厚みのある立体刺繍はまさに絢爛豪華そのもの。同時に「かき棒」の長さにも驚いた。12~13mもある4本の丸太の棒が太鼓台を貫く。(下の写真は「岸之下太鼓台」の飾り幕)

 各太鼓台の運営を支えるのは自治会や青年団。地域は市内中心部を流れる国領川を境に大きく川東、川西、上部の3地区に分かれる。16日は上部地区の中の角野地区の太鼓台4台による早朝の内宮神社「石段かきあげ」から始まり、地区ごとに太鼓台が集まって夜遅くまで「かきくらべ」や「夜太鼓」が繰り広げられた。

 川西地区では午後5時から「市制施行85周年記念」と銘打って13台がメーンストリートの昭和通りに結集。1台ずつ太鼓に合わせて晴れ姿を披露し、差し上げにも挑戦していた。台上で「かき夫」に指示を送る男性たちは「指揮者」と呼ばれる。前後に2人ずつ計4人が担ぎ棒の上に乗って、笛と手旗で合図を送る。差し上げなどの演技の成否も、かき夫の人数と腕力もさることながら指揮者4人の呼吸にかかっているようだ。昭和通りでの夜太鼓は約2時間続いた。太鼓台13台はその後9台と4台に分かれ次の会場(スーパー2店の駐車場)に向かった。

 翌17日にも午前中から各地ごとにかきくらべが行われた。川東地区の会場は愛媛労災病院西側の河川敷公園。午前10時、花火を合図にまず9台が次々と広場に入ってきた。ただ天気はあいにくの小雨模様。このため多くの太鼓台が雨よけシートで覆われていたが、約1時間後、次の7台が姿を見せ始めた頃には幸い雨も上がっていた。

 各太鼓台が差し上げに挑戦したが、前日の川西地区の夜太鼓同様、なかなか頭上まで上がらず苦戦するところが目立った。新型コロナの影響でかき夫の人数がそろわなかったのが一因とも。会場が盛り上がりを見せたのは後半に登場した太鼓台同士のぶつかり合い。太鼓台が突進して担ぎ棒の先端をぶつけ合った。これを「端管合わせ」と呼ぶそうだ。その迫力のある瞬間を間近で見ようと、多くの観客が太鼓台を取り巻いた。衝撃で台上の指揮者が落ちそうになる場面もあった。

 この太鼓祭りは別名「喧嘩祭り」ともいわれる。川東地区のかきくらべでは交通整理の警察官に加え数十人の機動隊員が警戒に当たっていたが、幸いほぼ平穏のうちに終わった。ところが同じ17日の午後13台が参加して行われた川西地区でトラブルが発生した。新聞報道によると、このかきくらべの最中、太鼓台の激しいぶつけ合いや喧嘩で10人が負傷し救急搬送されたという。かき棒がへし折られた太鼓台があるとの報道も。その結果、祭り最終日の18日に予定されていた一部のかきくらべが中止されることになったそうだ。

 祭り見物に行くと、掛け声や太鼓・鉦・笛などのお囃子がしばらく耳に残って頭を駆け巡ることが多い。新居浜太鼓祭りではかき夫や指揮者の「チョーサジャ」(チョーサは「太鼓」のこと)「ソーリャ、ソーリャ」「上げるぞー」といった掛け声と「ドン・デン・ドン・空白)」という4拍子の太鼓の音。それに各会場で繰り返し流されていた都はるみのこぶしの利いた新・新居浜民謡の『ちょおうさじゃ』。「ちょおうさじゃ ちょおうせじゃ」で始まり「太鼓台(たいこ)見に行こ稲穂も黄金 男まつりは日本晴れ よいよ立派(ええ)ぞなにいはま太鼓台(だいこ)……」。都はるみの声が随分若い。調べてみるとレコードの発売はほぼ半世紀前の1973年だった。(下の写真は30年ぶりに新調し1週間前にお披露目したばかりの「松木坂井太鼓台」)

 

コメント
  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

<枚岡神社秋郷祭> 宮入3年ぶり! 太鼓台勇壮に次々と

2022年10月15日 | 祭り

【14日宵宮で20台余、15日の本宮には神幸行列も】

 河内国一之宮の古社、枚岡神社(東大阪市)で秋の実りに感謝する秋郷祭(枚岡まつり)が始まった。14日が宵宮で15日が本宮。両日とも9地区の太鼓台23台(うち大太鼓9台)が担がれて市内を巡り、地車(だんじり)3台も曳き回される。太鼓台の宮入は3年ぶり。宵宮の境内はその勇壮な姿を一目見ようと観客で溢れかえった。本宮15日には宮入の前に神幸行列・神輿渡御、還幸祭なども行われる。

 枚岡神社の一の鳥居(上の写真)は二の鳥居から800mほど下った鳥居町にある。建立されたのは220年前の1802年。14日午後2時「出雲井・鳥居」の太鼓台がその鳥居を潜って参道を進み始めた。秋郷祭の宮入はこの太鼓台がいつも一番乗りを務める。神社の鎮座地が出雲井町で、宮元に当たるためだ。二の鳥居に至る参道は長い上りの坂道が続く。途中小休止を挟んで午後3時すぎ「がんばれー」の声援に励まされて太鼓台が上ってきた。(写真は近鉄奈良線の踏切を渡り、最後の胸突き八丁の坂道を上る「出雲井・鳥居」の太鼓台)

 宮入は午後3時半から。「出雲井・鳥居」の後に「額田」「宝箱」「豊浦」「喜里川」……と続いた。各太鼓台は二の鳥居から入って「チョーサ」の威勢のいい掛け声とともに緩やかな参道を上っていく。突き当たりの広場に達するとUターン、参道を埋め尽くした観客を掻き分けるように二の鳥居と広場の間を往復した。太鼓台が無事、広場の所定位置に納まると、観客からどっと拍手と歓声が沸いた。

 この後も「五條」「客坊」「河内」の太鼓台が次々と宮入。しんがりを務める「四條」の大太鼓が入ってきたのは午後5時半すぎ、宮入開始から約2時間が経っていた。四條には9地区で最も多い4台の小太鼓がある。最後の小太鼓が二の鳥居を潜ったのは5時50分だった。先に宮入した太鼓台は夜の“中垣(なかがき)”と宮出に備え提灯に火を灯す準備に取り掛かっていた。

 この日の宮入では担ぎ手が重さに耐え切れなかったのか、小太鼓台の前方が突然ガクンと落ちる場面を2度ほど目にした。「怪我してない?」と心配するほどの衝撃。そばで見ていた熟年の男女は「こんなの見たの、初めて。びっくり。練習不足かなあ?」「2年間のブランクが大きいのかも」などと話していた。大太鼓台のバランスが崩れることもしばしばで、参道脇の幼児の上に倒れ込んだ法被姿の男性に、母親とみられる女性が激しく食って掛かる一幕もあった。また宮入する太鼓台を紹介するマイクの音が割れることが多くて聞き取れなかったことも残念だった。

コメント
  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

<堂本印象美術館> 特別企画展「山口華楊―いのちに心をよせて」

2022年10月13日 | 美術

【代表作の「洋犬図」「黒豹」など50点余】

 京都府立堂本印象美術館(京都市北区)で、動物画を得意とした日本画家、山口華楊(1899~1984)の代表作を集めた特別企画展「山口華楊―いのちに心をよせて」が始まった。第1回新文展に出品し政府買い上げとなった「洋犬図」をはじめ「黒豹」「仔馬」などの有名な作品が一堂に。これらに一部、下図や素描も加え54点が展示されている。鋭敏な写実性の中に気品があふれた華楊の世界を堪能するまたとない機会だろう。11月23日まで。

 会場の美術館は大正~昭和に活躍した日本画家、堂本印象(1891~1975)が自ら建物をデザインして1966年に開館した。華楊は堂本の8つ年下だが、同じ京都市立絵画専門学校(現京都市立芸術大学)で学び、二人とも京都・衣笠を活動拠点とした。1936年には堂本が母校の教授、華楊が助教授に就任している。会場の一角には美術館開館日にやって来た華楊の写真も飾られていた。

 代表作「洋犬図」は38歳のときの作品。華楊はこの絵を描くため、美しい大型犬のボルゾイを探し求め東京まで出かけたという。「猿猴(えんこう)」は少し前の36歳の頃の作品で、ニホンザルの親子が樹上でくつろぐ表情が繊細なタッチで描かれている。その絵を見ているうちに高島屋史料館(大阪市)で開催中の「画工画(がこうが)展」に出品されている「夜桜に猿」「紅葉に猿」が頭をよぎった。対とみられるこの2点は美術染織品用の下絵で署名や印がないため作者は不詳だが……。今回の企画展には「玄花」など高島屋史料館所蔵の5点も出品されている。

 「黒豹」を描いたのは55歳のとき。京都の動物園で初めて黒豹を見て興味を持った華楊は「多くの仲間を見なければ気が済まない」と、東京・名古屋・大阪・神戸に足を運んだ。その中で一番気に入ったのが大阪・天王寺動物園の黒豹。半月ほど毎日京都から大阪に通っては1日中写生を続けたという。「仔馬」は「黒豹」の翌年の作品で、日本芸術院賞を受賞した。華楊は当時の心境をこう書き残している。「迷いというものの中には、いい絵を描きたいという欲もある。その欲が消えて虚心に画布に向かうことができるような気がしてきた」

 展示作品の中には75歳、今でいう“後期高齢者”になって以降のものも多い。「茄子」(76歳)、「行潦(にわたずみ)」(78歳)、「幻化」「玄花」(80歳)、「雨歇(や)む」(81歳)、「原生」(82歳)、「十六夜満月(素描)」(83歳)……。これらの作品を眺めながら、ふと江戸時代の浮世絵師葛飾北斎の言葉が浮かんできた。「八十歳でさらに成長し、九十歳で奥義を極め、百歳で神妙の域に達するだろう」。華楊も晩年までそんな心持ちだったのかもしれない。

コメント
  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

<高取町市尾の古墳> 国指定史跡の「墓山」と「宮塚」

2022年10月11日 | 考古・歴史

【墓山古墳の被葬者は豪族巨勢男人?】

 大和盆地南部に位置する奈良県高取町は県内有数の古墳密集地域として知られる。古墳の数は700基を超え、県内では天理市、御所市、桜井市に次いで4番目。“古墳密度”は高松塚やキトラ、石舞台などで有名な北隣の明日香村を抑えて1位という。その高取町で最大の古墳が「市尾墓山古墳」。近くには同じく国の史跡に指定されている「市尾宮塚古墳」もある。その二つの前方後円墳を初めて訪ねた。

 近鉄吉野線市尾駅を降り立つと、駅前に地元民手作りの小さな「はにわ公園」(今年4月完成)があった。その上、奥の方に緩やかな2つのこぶを持つ墓山古墳の墳丘が見えた。古墳まで徒歩で5~6分の距離。墳丘は長さ70m、高さ10mで、モミジの大木が1本シンボルツリーのように立っていた。後円部の横穴式石室まで上り階段があるが、入り口は固く閉じられていた。カビ対策のため5年ほど前から石室の公開を中止しているという。ただ墳丘は登ることができ、前方部の丘の上から北西側に二上山を望むことができた。

 石棺はその二上山周辺から運ばれた凝灰岩製で、蓋の長さが約2.7mもある県下最大級の刳り抜き式家形石棺。内面には赤色顔料が鮮明に残っているという。石室からは副葬品のガラス玉や鉄刀、鉄鏃、馬具の鞍金具や杏葉、須恵器や土師器などが出土した。墳丘表面には朝顔形や円筒の埴輪が並べられ、周溝からは木製の鳥・笠・盾なども見つかった。

 古墳の築造時期は6世紀初頭。被葬者はこの地域の有力な豪族だった巨勢氏の首長とみられ、大伴金村らと共に継体天皇を擁立した大臣の巨勢男人(こせのおひと)が有力視されている。石室から出土した副葬品は奈良県立橿原考古学研究所付属博物館(橿原市)に展示中。博物館では「横穴式古墳のはじまり」と題したコーナーで市尾墓山古墳を例に挙げ「家形石棺を納めるために長方形の石室がつくられた」と解説、図解の「大和の大型横穴式石室の変遷」などでも取り上げ、石棺の大きな写真パネルも展示されている。

 市尾宮塚古墳は飛鳥と紀伊を結ぶ古代の官道「巨勢路(紀路)」沿いの天満神社の境内にあった。墳丘は長さ44mで、高さは後円部が7m、前方部が4.5m。こちらの横穴式石室は入り口に近づくと照明ランプが点灯するよう設定されており、柵越しに内部を見学できた。玄室に納められている家形石棺は墓山同様、内外に赤色顔料が塗布され、石室内からはトンボ玉や水晶切子玉、金銅装の大刀、馬具、鈴、須恵器などが出土した。築造時期は墓山よりやや遅い6世紀中頃。被葬者はこちらも豪族巨勢氏の首長とみられている。

 現在の高取町一帯は古代、渡来人氏族の勢力圏だったともいわれる。100基余の円墳や方墳が密集する「与楽(ようらく)古墳群」は国指定史跡。その中の代表的な古墳「与楽カンジョ古墳」(一辺36mの方墳)や「与楽鑵子塚(かんすづか)古墳」(直径28mの円墳)は東漢氏(やまとのあやうじ)一族の首長墓ではないかといわれている。

コメント
  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

<橿考研付属博物館> 秋季特別展「宮廷苑池の誕生」

2022年10月09日 | 考古・歴史

【飛鳥京跡苑池を中心に庭園の変遷や特徴を紹介】

 奈良県立橿原考古学研究所付属博物館(橿原市)で秋季特別展「宮廷苑池の誕生」が始まった。明日香村の「飛鳥京跡苑池」(国の史跡・名勝)発見から約23年。国内初の本格的な宮廷庭園といわれるこの遺跡は昨年までの15次にわたる発掘調査で全容がほぼ明らかになった。今展では同苑池と他の県内の遺跡の発掘成果を踏まえながら、宮廷庭園の成り立ちや変化、特徴などを詳しく紹介している。会期は10月8日~12月4日。(写真は飛鳥京跡苑池=2021年12月の現地説明会で)

 飛鳥京跡苑池は1999年に飛鳥川右岸の河岸段丘で見つかった。その場所は7世紀に天皇の宮殿かあった飛鳥宮内郭跡のすぐ北西。遺跡の範囲は東西100m、南北280mに及び、南北2つの池と渡堤、水路、掘立柱の建物跡などから成る。南池からは噴水のような巨大な石造物と水を溜める石槽(写真㊦=同博物館入り口に常設展示)が出土した。苑池は斉明天皇の時代に造営が始まり、7世紀後半の天武天皇のときに改修されていたことも分かった。

 特別展はプロローグ+3部で構成する。プロローグのタイトルは「宮廷苑池の源流を古墳時代の水のまつりにみる」。5世紀の南紀寺遺跡、阪原阪戸遺跡などを、出土した土器や石製品などとともに紹介する。飛鳥京跡苑池の北池からは祭祀場だったとみられる湧き水を流す石組みの流水施設が出土しているが、これらの遺跡からも“湧水点祭祀場”が見つかっている。(写真は飛鳥京跡苑池北池、中央上部が湧水部分=2020年11月の現地説明会で)

 第1部は「飛鳥時代の宮廷苑池~モノクロームの世界」。ここでは飛鳥京跡苑池をはじめ7世紀の飛鳥時代の石神遺跡、上之宮遺跡、島庄遺跡などの出土品を展示している。飛鳥時代の苑池の共通点は①直線を基調とする幾何学的な平面形②池の護岸は石貼り・石積み③大型石造物がある④池の中に小島が浮かぶ⑤湧水点がある――など。ただ「大型の石造物や石積みの池は壮観だが、華やかなイメージとは違う世界が展開していた」。(下の写真は飛鳥京跡苑池からの出土品)

 第1部の関連史料としてただ1点、8世紀の奈良時代のものが単独で展示されている。MIHO MUSEUM(滋賀県甲賀市信楽町)所蔵の「伎楽面迦楼羅(かるら)」(写真㊦)。鳥を神格化したもので、頭頂に鶏冠(とさか)がありくちばしが突き出す。飛鳥京跡苑池からは「川原寺」と書かれた墨書土器や木簡などとともに木製の面も出土している。南池には舞台状の木造施設があったとみられ、橿考研ではこの木面を用いて舞台で伎楽が演じられた可能性もあると推測する。

 会場中央には橿考研が復元した酒船石遺跡の巨大な亀形石槽と小判形石槽のレプリカも展示中。現物は明日香村岡の酒船石がある小高い丘を下りた所で2000年に発見された。亀の頭部分が小判形の石槽からの取水口になっており、甲羅に水を溜めて尻尾部分から流れ出す。斉明天皇の時代に造られ何らかの祭祀に用いられたとみられている。

 第2部のタイトルは「奈良時代の宮廷苑池~カラフルな世界」。ここで紹介しているのは平城宮の東院庭園や宮西南隅苑池、長屋王邸・藤原麻呂邸、宮跡庭園、法華寺阿弥陀浄土院など。これらの苑池をもとに飛鳥時代との主な相違点として、①池の形状が直線から曲線基調に変化②岸辺は石積み護岸から洲浜状へ③大型石造物から景石の配置へ――などを挙げている。(下の写真は平城京左京二条二坊十二坪から出土した施釉瓦)

 奈良時代の苑池からは色鮮やかな三彩瓦や陶器、華麗な金属装飾品や遊具などが出土しているのも特徴。池のほとりには施釉瓦葺き建物が設けられ、そこでは雅楽や詩歌、相撲などの観賞・観戦、饗宴などが華やかに催されたとみられる。まさに飛鳥時代の「モノクロームな世界」が奈良時代には「カラフルな世界」へ大きく変化したわけだ。橿考研ではその背景を「遣唐使の本格化などで中国・唐との直接的な影響があったからではないか」と分析する。第3部では「東アジアの宮廷苑池」として7世紀の新羅と8~9世紀の渤海の庭園を紹介している。

コメント
  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

<高取かかし祭り> 土佐街道沿いに200体

2022年10月04日 | 祭り

【エンゼルスの大谷翔平選手も!】

 奈良県高取町で秋恒例のイベント「高取かかし祭り」が開かれている。2009年にスタートし今年で14回目。近鉄吉野線壺阪山駅前から、緩やかな上りの石畳が続く土佐街道沿い50カ所に約200体の町民手作りのかかしが並ぶ。今年は米大リーグで“二刀流”として活躍するエンゼルス大谷翔平選手のかかしも登場し、見物客の人気を集めている。

 土佐街道は日本三大山城の一つ高取城(1873年廃城)に続く旧城下町のメーン道路。今でも虫籠(むしこ)窓や連子格子(れんじこうし)などを持つ古い町家が多く残り、情緒ある町並みをつくっている。大谷選手のかかしは街道脇に鎮座する高取恵美須神社内にあった。大谷選手の横にはイチロー選手。右手を肩に掛けているのは通訳の水原一平さんだろう。 大谷の足元には黒字で「ベーブ・ルースを超えた」、赤い大文字で「やったぜ大谷君!!」。その下にはホームラン「35号」、勝利投手「15勝」の紙が貼られていた。3日現在の実際のホームラン数は34本だが、期待を込めての「プラス1本」か。

 メーン会場は「街の駅城跡(きせき)」内のイベント会場。ここは春恒例の「町家の雛めぐり」のメーン会場にもなっている。昨年のテーマは「東京五輪」、その前に訪れた2015年のときは「薬の街」だったが、今年は「ザ・スモールワールド」。巨大な雛壇には世界各国の子どものかかしや様々なミニチュアで飾られていた。鉄道ジオラマなどもあった。

 このかかし祭りの特徴の一つが、普段の暮らしを切り取ったような場面がかかしで再現されていること。祭りの縁日の屋台や縁石でくつろぐご夫婦、サッカーの練習に出かける子どもたち……。壺阪山駅の駅頭では祭りの案内マップを置いた机の周りで3体のかかしが出迎えてくれた。そばには「マスク着用 お願い致します」と大書した看板。街道沿いの一角には子ども向けのかかしの「迷路」も造られていた。

 ちなみに土佐街道という名前は古い時代の四国・土佐の国名に因む。「上土佐」「下土佐」という町名も残っている。街道沿いの立て札に「土佐町由来」としてこう書かれていた。「六世紀の始め頃、大和朝廷の都造りの労役で故里土佐国を離れこの地に召し出されたものの、任務を終え帰郷するときには朝廷の援助なく帰郷がかなわず、この地に住み着いたところから土佐と名付けられたと思われる……」。文末にはこんな歌一首も。「望郷の想ひむなしく役夫らのせめて準(なぞら)う土佐てふその名」。その立て札のそばに、たこ焼き屋などのかかしが並んでいた。10月31日まで。

コメント
  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする