く~にゃん雑記帳

音楽やスポーツの感動、愉快なお話などを綴ります。旅や花の写真、お祭り、ピーターラビットの「く~にゃん物語」などもあるよ。

<橿原考古研・付属博物館> 特別陳列「十二支の考古学―申(さる)」

2015年12月26日 | 考古・歴史

【最古の猿の墨画は長屋王邸跡から出土、皿の外面に5匹の猿】

 奈良県立橿原考古学研究所付属博物館(橿原市)で、新年の干支に関する出土品や考古資料を紹介する年末年始恒例の特別陳列「十二支の考古学」が開かれている。来年は十干十二支で「丙申(ひのえさる)」に当たる。猿と人のつながりは古く、西日本の縄文時代後晩期の遺跡からはニホンザルの骨が多く出土している。猿は食料のほか骨角器として様々な道具や装身具などに利用されていた。

 

 平城京の長屋王邸跡の井戸(奈良時代前半)から出土した土師器の皿には5匹の猿が描かれている(上の写真)。1匹は全身が描かれ、それ以外は顔だけ。その描写や筆遣いから、専門の絵師が本格的な絵を描く前に下書きしたものと推測されている。猿が描かれた土器は意外に少ない。この皿は唐招提寺金堂の梵天像の台座に描かれた墨画より30~40年古く、国内最古の猿の墨画といわれる。正倉院に伝わる「纈屏風(ろうけちのびょうぶ)」にも樹上に猿が描かれている。

 ただ猿を表現したものとしてはもっと古い土製品や埴輪などがある。青森県の十面沢(とつらざわ)遺跡からは縄文晩期の猿の形を模した土製品が出土した。兵庫県灘区で出土した弥生時代の桜ケ丘1号銅鐸には弓矢を構えた人物の横に犬や鹿とともに猿が刻まれている。奈良県天理市の小墓(おばか)古墳や茨城県の大日塚古墳からは背中に小猿を背負ったような痕跡が残る猿の埴輪が出土した。

 

 猿は信仰の対象にもなっている。比叡山の麓に鎮座する日吉大社の「日吉山王曼荼羅」には神の使いとして御幣を持つ猿が描かれ、今も神猿舎では2匹の猿が飼われている。滋賀県長浜市の鶏足寺にはユーモラスな表情の木彫りの猿の神像「日吉大宮像」が伝わる。民間では庚申信仰の広まりとともに各地に青面金剛像を祀る庚申堂が建てられた。奈良市の奈良町では家々の軒先に青面金剛の使いの猿をかたどった「身代わり申」が魔除けとして吊るされている。会場には吉備姫王墓(明日香村)などに置かれている大きな「猿石」の複製品5体も展示中。1月17日まで。

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<大濠公園> 広大な水景公園はいま水鳥たちの楽園に!

2015年12月25日 | メモ

【羽を休めるカモやカモメ、サギ、カワウ……】

 福岡市中心部に位置する市民の憩いの場「大濠公園」。久しぶりに訪ねると、そこは多くの水鳥たちの楽園になっていた。この公園には冬場を中心にカモやカモメ、サギなど30種類ほどが飛来するという。池の外周は約2キロ。園路で散策やジョギングを楽しむ市民も多く、訪ねたときはある中学の全校マラソン大会が開かれていた。

 「大濠」の名前は黒田長政が福岡城築城の際、博多湾の入り江だったこの地を埋め立てて城の外濠としたことに由来する。池に浮かぶ3つの島を4つの橋でつなぐ。まず橋を渡った後、池の外周を時計回りに1周した。水鳥で最も多く見かけたのはカモの仲間たち。頭が赤茶色のホシハジロ(星羽白)をはじめマガモ(真鴨)、カルガモ(軽鴨)、全身真っ黒で口の辺りだけ白いオオバン(大鷭)……。

 

 池の中に点々と打ち込まれた杭の上ではカワウ(河鵜)が羽を左右に広げて乾かしていた。そばにはユリカモメ(百合鴎)たちも。ただ一つぽつんと浮かぶ鴨島はふだんカワウのすみかになっているそうだが、その日はトビ(鳶)たちが占拠していた。水辺にはアオサギ(蒼鷺)やコサギ(小鷺)の姿も。水鳥たちはここで休息を取って、餌は博多湾や周辺の川や池に食べに行くそうだ。

 

 橋で結ばれた3つの島には松林の並木が続く。真ん中の最も広い松島に万葉歌碑が立っていた。「しろたへの袖の別れを難(かた)みして荒津の浜にやどりするかも」。この辺りは当時入り海で「荒津の浜」や「荒津の崎」と呼ばれていた。歌はこれから都へ帰る人、あるいは中国に渡る人が別れを惜しんで詠んだといわれる。池を1周した後、福岡市美術館の隣にある日本庭園を散策した。ここはサツキやツツジが咲き乱れる初夏が一番の見ごろらしいが、訪れる人も少ない冬場には静かな庭園を一人占めしているようなうれしさもある。

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<BOOK> 朝日新書「京大式おもろい勉強法」

2015年12月24日 | BOOK

【山極寿一著、朝日新聞出版発行】

 著者山極氏は1年前の2014年秋、京都大学総長に就任。人類の進化を研究テーマとする霊長類学・人類学者で、約40年前京大理学部に入って以来、主にアフリカのジャングルで暮らすゴリラの研究を続けてきた。著書に『ゴリラとヒトの間』『家族進化論』『「サル化」する人間社会』など。本書は「『おもろい』という発想」「考えさせて『自信』を育てる」「相手の立場に立って『信頼』が生まれる」など6章で構成する。

      

 野生動物の調査手法としては餌付けが一般的だが、山極氏らがゴリラの調査で採ったのは「人付け」。自由に動き回るゴリラの群れを追っかけて間近で観察する。当初何度も突進されたりドラミングで威嚇されたりしたが、そのうち警戒心をほどいて、そばにいることを許してくれるようになったそうだ。調査には現地の人たちの情報と案内が欠かせない。そのとき「対人力」や「対話」の重要性を痛感させられ、その術をアフリカの人々から学んだ。

 ゴリラ目線で人間を見ると「人間がとても不思議な動物に見えてきて、いつもとは違う発想がどんどんあふれ出てくる」。学長就任時に掲げたキャッチフレーズは「おもろいことをやりましょう!」。その後事あるごとに「大学はジャングルだ!」と口にしてきた。学内では様々な研究分野に取り組む多彩な研究者が共存する。それが生物多様性の象徴でもあるジャングルに酷似しているというわけだ。「研究者たちは各々ジャングルで暮らす猛獣。猛獣たちを一つの方向に向かわせるなど、しょせん無理な話。それなら彼らに互いに切磋琢磨してもらいながら、新たな考えや技術、思想を生み出してもらえばいい」

 アフリカでの調査は試行錯誤の連続だったが、悩んでいるとき現地の人から「There is no problem. There is a solution」と声を掛けられた。どんな困難に直面しても必ず解決策がある――。人間がゴリラやチンパンジーと違うところは目標を持つことや諦めないこと。「だからこそ、人間はいくつになっても変われる」。夢中になれるものと出合ったら「あの手この手を使ってその道を突き進む」こと。ただし、そのときは①相手の立場に立って物事を考える②状況に即して結論を出す③自分で決定する――の3点を道しるべにすべきだと強調する。

 ゴリラやチンパンジーはサルと違って餌を分け合って食べるそうだ。ゴリラのドラミングはまるで歌舞伎の見得とそっくりに見えたとか。アフリカに最初に行ったとき日本人というだけで空手家と思い込まれ噂に「ブルース・リーと同じ師匠についていたらしい」という尾ひれまで付いた。そんな愉快な話も盛り込まれている。

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<福岡市立のミュージアム3館> 〝秘密〟をテーマに連携企画展

2015年12月23日 | 美術

【福岡アジア美術館は「のぞく」をキーワードに】

 福岡市立の美術館・博物館3館による連携企画展「冬のおとなミュージアム」が始まった。「LOVE/愛」をテーマに昨年開いた企画展に続く第2弾。今年は「秘密」を共通テーマに掲げ、福岡市美術館は「かくす」、福岡アジア美術館は「のぞく」、福岡市博物館は「あばく」をキーワードにそれぞれのコレクション作品に秘められた謎に迫る。

   

 「のぞく」をキーワードとするアジア美術館(会期12月17日~4月5日)では収蔵品の中から15点を選んで展示中。『ワニと友だち』(写真㊨)はインドネシアのイ・デワ・プトゥ・モコさん(1934~)の作品。実際にテレビで見たワニをペットにする少女の映像をもとに描いたという。その様子を少年が窓の隙間からのぞき込む。ブルネイのザイニン・マンソールさん(1962~)の作品『毛布の中の敵、羊の皮を着た狼』は、布団の中に潜り込んだ毒蛇の尻尾がベッドの端からのぞく。が、ベッドの男性はまだ蛇に気づいていない。安全の中に潜む危険を暗示する。

 フィリピンのノベルト・ロルダンさん(1953~)の『ランゴニの9人』は手足を切断され逆さ吊りにされた9人の若者を、布や木を使って立体的に表現する。戒厳令下でバスケットボールに興じていた若者たちが共産主義者と間違えられ連行されて処刑されるという凄惨な事件があった。それを題材としたもので、国家権力による暴力を痛烈に批判する。インドネシア・バリ絵画のニョマン・メジャさん(1951~)の『ラーマーヤナ』は繊細な筆致でインドの叙事詩の一場面をユーモラスに描く。

 すでに福岡市博物館も開幕しており(~2月14日)、福岡市美術館は年明けから始まる(1月19日~2月28日)。期間中「ミュージアム探偵の事件簿―消えた少女の秘密」と題した記念品進呈のミステリー企画や3館の学芸員2人1組によるリレー・ギャラリートークなども計画されている。

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<鴻臚館跡展示館> 400年続いた飛鳥・奈良~平安時代の古代の迎賓館

2015年12月22日 | 考古・歴史

【万葉歌から約90年前、中山博士が〝福岡城内説〟を唱える】

 「可之布江(かしふえ)に鶴鳴き渡る志賀の浦に沖つ白波立ちし来らしも」「今よりは秋づきぬらしあしひきの山松かげにひぐらし鳴きぬ」。736年(天平8年)、遣新羅使が「筑紫館(つくしのむろつみ)」で詠んだ歌4首が万葉集に収められている。筑紫館は平安時代、外交・交易拠点として設けられた「鴻臚館(こうろかん)」の前身。鴻臚館は平安京、難波、筑紫の3カ所に置かれた。筑紫の鴻臚館があった場所はかつて西鉄ライオンズなどプロ野球の本拠地だった平和台野球場周辺で、今も発掘調査が続けられている。

 その福岡城跡の舞鶴公園の一角に「鴻臚館跡展示館」が立つ。20年前の1995年に開館した。館内には礎石など遺構が発見当時のまま展示され、建物の一部も復元されている。出土品は中国の陶磁器や新羅・高句麗の陶器をはじめ西アジアのイスラム系陶器、ペルシャ系ガラス器など実に国際色豊か。中国・越州窯青磁花文椀はエジプトのフスタート遺跡からも出土しており、鴻臚館が海のシルクロード「セラミックロード(陶磁の道)」で世界と結ばれていたことを示す。(下の写真㊧は奈良前期~平安前期の鴻臚館建物想像復元イメージ)

 

 鴻臚館の所在地は江戸時代から〝博多官内町説〟が通説になっていた。現在の博多駅北側の中呉服町周辺にあたる。それに疑義を唱えたのが中山平次郎博士(1871~1956)。京都市生まれで、九州帝国大学医学部教授を務める傍ら、著名な考古学者としても知られた。博士は前身の筑紫館で詠まれた万葉歌の情景から、その場所は志賀島と荒津浜を同時に見渡せ、しかも蝉時雨が聞こえる小高い場所だったと推測。さらに福岡城内で大量の古代の瓦や青磁を発見した。これらの〝傍証〟から、ここに瓦葺きの壮大な建物があったとみて、大正末期の1926年〝福岡城内説〟を発表した。(写真は㊧国際色豊かな出土品、㊨唐三彩の印花鴛鴦文陶枕=複製品)

 

 この説が裏づけられるのはそれから約60年後、博士逝去後約30年後のこと。1987年、平和台野球場の外野席改修工事に伴う発掘調査で鴻臚館の遺構が見つかった。野球場は97年に閉鎖され、99年からスタンドの解体とともに本格的な発掘調査が始まった。鴻臚館跡は2004年、国の史跡にも指定された。福岡城内はかつて陸軍歩兵24連隊の駐屯地になっており、市民に開放されるのはドンタクの日だけだった。その時をとらえスコップを手に調査に向かった中山博士は憲兵隊に挙動不審として連行される一幕もあったという。その後時間がかかったものの、〝福岡城内説〟が証明され遺跡保全につながったことを中山博士も喜んでいるに違いない。

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<BOOK> 『日本と中国の絆』

2015年12月15日 | BOOK

【胡金定著、第三文明社発行】

 著者胡金定さんは1956年中国福建省生まれ。国立廈門(アモイ)大学卒業、神戸大学大学院文化学研究科博士課程修了。現在、甲南大学国際言語文化センター教授。1985年に来日し30年にわたって中国と日本の文化の比較研究を続けてきた。著書に『郁達夫研究』、『アクティブ中国』(共著)、中国語教科書など。幅広い交友関係を持ち「こきんちゃん」の愛称で親しまれている。(写真㊨は達筆な胡金定さんの署名)

        

 日中関係は領土問題や歴史認識などで1972年の国交正常化以降最悪ともいわれる。双方の国民の間でも反中、反日感情がかつてなく高まっている。日本の大学生の中国語選択者数は2~3割も減少しているそうだ。筆者は今こそ「以民促官(いみんそくかん)」の精神で民間交流を重ね友好の絆を深めていくべきだと指摘する。「民間先行、以民促官」はまだ国交がない時代に中国の周恩来総理が提唱したといわれる。

 序章「日本と中国の共通点」に続いて5つの章で日中友好や親善の懸け橋となった人々を紹介する。見出しの一部を列挙すると――。岡崎嘉平太の「刎頚の交わり」、魯迅と「藤野先生」の師弟関係、孫文を支えた梅屋庄吉、親善の橋かけた棋聖・呉清源、砂漠緑化に懸けた遠山正瑛、日中友好の先駆者・鄭成功の魂……。朱鷺(とき)が結ぶ日中の友好、友好の使者・高倉健、赤穂浪士・武林唯七、楊貴妃伝説、文化交流の創始者・徐福などもある。

  鄭成功(1624~62)は長崎生まれで母親は日本人。近松門左衛門の「国性爺(こくせんや)合戦」では「和藤内」の和名で知られる。明皇帝から名前を賜ったため人々から「国姓爺」と呼ばれた。鄭成功はオランダの植民地だった台湾を開放した英雄。東日本大震災の際、台湾から200億円もの義援金が寄せられたが、筆者はその背景の1つに台湾で「開発始祖」と崇められている鄭成功の母が日本人だったこともあるのでは、と推測する。赤穂浪士の武林唯七は祖父が中国人で、日本には漂流し流れ着いたといわれる。父と2代にわたって赤穂浅野家に仕えた。義挙後、幕府の命で切腹、享年32。辞世の句「仕合や死出の山路は花ざかり」。

 高倉健は文革直後の1979年に公開された主演映画「君よ憤怒の河を渉れ」(中国の題名は「追捕」)で一躍人気を集めた。当時大学生だった筆者はこの映画を通じて「日本に対する憧憬の念を一層強くした」そうだ。健さんは映画だけでなく、2006年に北京電影学院の客員教授に就任し、11年の雲南省の地震の際には被災地にヒマワリの種を送って村民を感動させたという。昨年11月訃報が伝わると中国でも大々的に報じられ、テレビは特集番組を組み新聞は追悼記事を載せた。筆者は健さんを「まさに日中友好の体現者」と称え、「日中両国に多くの高倉健が出現することを願ってやまない」と記す。

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<映画「海難1890」> 125年前と30年前の史実を基に「日土」感動の物語

2015年12月12日 | メモ

【忽那汐里が対照的な2役を好演―翳のある女性と気丈な教師役と】

 全国の映画館で公開中の注目作『海難1890』(田中光敏監督)。125年前に和歌山県串本町沖で起きたオスマン帝国の軍艦エルトゥールル号の海難事故と、その95年後の1985年にあったイラン・イラク戦争下でのトルコ救援機による邦人救出劇――その2つの史実を基に日本とトルコの強い絆を描いた感動作だ。5カ月ほど前、紀伊大島の海難現場付近を訪ねていたこともあって何度も目頭が熱くなった。

     

 明治天皇への親書を携え友好親善のため日本を訪れたエ号が遭難したのは1890年9月16日の夜半。トルコへの帰途、台風による激しい暴風雨のため樫野埼灯台直下の岩礁で難破した。600人近い多くの乗組員が犠牲になったが、大島島民の必死の救助活動によって69人が助かった。いま大島には「遭難慰霊碑」が立ち、「トルコ記念館」には犠牲者の名を刻んだ銘板や引き揚げられた遺品などの〝記憶遺産〟が展示されている。これらの施設や灯台を初めて訪ねたのは今年の7月8日。難破場所(下の写真)が切り立った海岸からあまりにも近いことに驚いた記憶が昨日のように蘇る。映画化を知ったのはそれからだいぶ後のことだった。

  

 映画では主演の内野聖陽が遭難者を手当てする医師役を演じる。どっしりとした存在感が印象深い。ヒロインの忽那汐里は前後半で一人二役を演じた。前半は許婚を海の事故で亡くして以来ショックで口が利けない女性役、後半はテヘラン日本人学校の先生。ほぼ1世紀という時を隔てた2つの時代で、翳のある暗い女性と日本人生徒・家族の帰国のため堪能な英語を駆使しながら奔走する気丈な女性を見事に演じ分ける。

 もう1人、トルコの男優ケナン・エジェも一人二役を演じた。前半は遭難した軍艦の海軍機関大尉役。1人ひざまずき涙を流して大破した愛艦をずっと見下ろす場面や漂流物の刀剣などをきれいに磨く地元民の姿を感動の面持ちで見る場面が印象に残る。後半は駐テヘラン・トルコ大使館の職員役。当時、イラクのサダム・フセイン大統領は48時間の猶予期限が過ぎたら、イラン上空を飛ぶ航空機を無差別に攻撃すると宣言していた。大使館職員がテヘランの空港でトルコの救援機にはまず日本人に乗ってもらおうと大勢のトルコ人を説得し、トルコの少年が日本の少年の手を引いて搭乗口に向かう場面は感動的だった。

 トルコ救援機のおかげでイラン在住の日本人200人余は猶予期限が迫る中、無事に脱出できた。日本人の搭乗を優先したことにトルコ人の間で抗議の声はなかったという。大島の「トルコ記念館」で、救援機派遣に関する当時の駐日トルコ大使のコメントが紹介されていた。大使は救援機派遣の背景にはトルコ人の親日感情があり「その原点は1890年のエルトゥールル号の海難事故です」とあった。記念館にはエ号海難事故を詳しく紹介したトルコの小学校高学年用の教科書も展示されていた。地元串本町はいまトルコの2つのまちと姉妹提携を結んで交流を続けている。

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<ピラカンサ> 赤や橙色の実が小枝にびっしり

2015年12月10日 | 花の四季

【南欧~中国原産、実には青酸配糖体という毒成分!】

 バラ科ピラカンサ属(トキワサンザシ属)の常緑低木。「ピラカンサス」や「ピラカンタ」とも呼ばれる。春に白い小さな5弁花を開き、晩秋から冬にかけて果実が赤や橙色に熟す。枝には鋭い刺がある。ピラカンサの「ピラ」はギリシャ語で「火・炎」を意味する「ピュル」から。果実の色鮮やかな色を表す。それに「刺」を意味する「アカンサ」が合わさってピラカンサという属名が生まれた。

 ピラカンサ属の植物はヨーロッパから西アジア、中国にかけて6種あるといわれる。その中で日本で多く栽培されているのはトキワサンザシ(常盤山査子)、ヒマラヤトキワサンザシ、タチバナモドキ(橘擬)の3種。いずれも耐寒・耐暑性があり剪定にも強いことから、庭木や生垣、鉢植え、花材などとして人気がある。実は日当たりがいい場所ほど多くつくそうだ。

 日本でピラカンサという場合、一般的にはトキワサンザシを指すことが多い。ヒマラヤトキワサンザシは葉や実が一回り小さいが、より多く実をつけるのが特徴。インドトキワサンザシ、カザンデマリ(華山手毬)とも呼ばれる。タチバナモドキは実が橙色で、トキワサンザシより葉幅が狭いことからホソバトキワサンザシという別名を持つ。

 ピラカンサは実に青酸配糖体という毒成分を含む。1997年に長野県で渡り鳥レンジャクの大量死があった。その鳥たちの食道や胃からピラカンサの実が見つかり、胃の内容物からシアンが検出された。そのため検査機関は青酸配糖体によるシアン中毒が原因ではないかと推測した。ヒヨドリなどは中毒が起きない程度に少しずつ食べるという。また毒成分は実の熟成とともに消失していくともいわれる。鳥たちもそのことを知っていて年明けを待っているのかもしれない。「海に珊瑚庭にピラカンサスの土佐」(伊藤敬子)。

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<BOOk> スポーツ学の射程 「身体」のリアリティへ

2015年12月09日 | BOOK

【井上邦子・松浪稔・竹村匡弥・瀧元誠樹編著、黎明書房発行】

 収録しているのは主に大学に籍を置くスポーツ史や身体論、健康文化論などの研究者を中心とする18人による論考18編。「<競争>を問う」「<歴史>を紐解く」「<民俗>をみつめる」「<身体>を感じる」の4章構成で、既存の見方に捉われることなく独自の視点で「スポーツとは何か」という根源的な問題に切り込む。体育教育やスポーツに携わる人だけでなく、広くスポーツを愛する一般の人にとっても興味深い読み物になっている。

         

 第1編目の『スポーツにおける判定を考える』(筆者松本芳明)はスポーツ界全体で導入が進むビデオ判定について「生身の肉体の生き生きとした動きやダイナミックな流れといった人間のもつ豊かな内実の多くが捨象され……『モノとしての肉体』の動きのみによる判定ということにならざるをえなくなる」として疑問を投げかける。同時に体操やフィギュアスケートでの審判の分業制度の問題点も指摘する。

 『「無気力試合」を「問題」とする問題』(筆者鵤木千加子)は2012年ロンドン五輪のバドミントン女子ダブルスで中国などの4ペア8選手が意図的に負けたとして失格になった問題の背景を探る。当時、選手の倫理観や大会運営システムの問題がクローズアップされたが、筆者は国家間のメダル競争こそが根源にあると強調する。『体罰の起源を探る』(筆者松浪稔)は近代学校制度開始以降、学校での集団秩序の維持のために軍隊経験者の体操教師らによって体罰が持ち込まれたと指摘する。

 『戦時下のプロ野球』(著者玉置通夫)は戦時下にスポーツ大会が次々と休止する中、プロ野球の公式戦が終戦前年の1944年まで可能だった理由を推論する。筆者は用語の日本語化、軍需産業などに従事しながら試合を行うといった軍当局への迎合、親会社が鉄道や新聞社など国民生活を支える重要産業で当局が介入しにくかったことなどを挙げる。『生きる/動く,からだ』(筆者井上邦子)はモンゴルの伝統的な暮らしとスポーツ文化の関わりに触れ「モンゴルでは、生きることはからだを動かすことであり、からだを動かすことは生きることである」「牧畜の身体技法が相撲の技と一つながりになっている」と指摘する。

 他に『レースは過酷だったのか アムステルダム五輪女子800m走のメディア報道がつくった「歴史」』『集団体操時代の「変な体操」日本体操(やまとばたらき)とその周辺』『野見宿禰は河童なのか 「橘」と兵主の関係から探る』なども。

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<高梨沙羅> W杯スキー・ジャンプ初戦、優勝で飾る!

2015年12月05日 | スポーツ

【2シーズンぶり個人総合制覇へ好発進、伊藤は10位】

 ノルディックスキーの2015/16ワールドカップ(W杯)ジャンプ女子が開幕した。ノルウェー・リレハンメルで4日午後3時(日本時間午後11時)に始まった第1戦(HS100m)で、日本のエース19歳の高梨沙羅(クラレ、写真中央)が優勝し、3回目の個人総合優勝に向けて好スタートを切った。W杯通算31勝目。伊藤有希(土屋ホーム)は10位だった。

 

 昨季総合2位だった高梨は最後から2番目に滑走し1本目95.5m、2本目97.5mで着地のテレマークも決まった(合計251.7ポイント)。2位はスロベニアのマヤ・ヴティッチ(写真㊧)で1本目はこの日最長の101.5m、2本目は93.0m(240.2ポイント)。3位は地元ノルウェーのマーレン・ルンドビー(㊨)で96.0m、92.0m(233.6ポイント)だった。ソチ冬季五輪の銀メダリストで昨季W杯総合優勝のダニエル・イラシュコは僅か2.7ポイント差で表彰台を逃した。

  このイラシュコをはじめオーストリア勢4人が4~7位を独占した。昨季のW杯総合5位で今季の飛躍が期待される伊藤は10位と振るわなかった。日本勢の残り2人、勢藤優花(北海道メディカルスポーツ専門学校)は16位、岩渕香里(松本大学)は20位。ソチ五輪金メダリストで昨季W杯総合3位のドイツのカリーナ・フォークトは15位スタート。

  W杯のジャンプ女子は4年前の2011/12シーズンから始まり、米国のサラ・ヘンドリクソンが初代女王に輝いた。翌12/13シーズンは16歳高梨が16戦中8戦を制し2代目女王となり、さらに13/14シーズンでは18戦15勝と圧倒的な強さで連覇を飾った。ただ金メダル候補の大本命といわれたソチ五輪は追い風という不利な条件もあって4位入賞と惜しくも表彰台に届かなかった。さらに昨季W杯(6勝)は最終戦までダニエル・イラシュコと競り合ったものの3連覇はならなかった。

  だが今年の高梨には再び勝負強さが蘇ってきた。夏のグランプリでは5戦全勝で個人総合4連覇を達成し、秋の全日本選手権、NHK杯も快勝。そして昨季3位だったW杯開幕戦が今季は幸先よく1位に。個人総合の優勝争いは今季も高梨を中心に繰り広げられそうだ。今季W杯の個人女子は来年3月6日の最終戦まで全19戦。第2~第3戦は12~13日にロシアのニジニ・タギルで、続く第4~第7戦は年明け1月に日本の札幌・宮の森(16~17日)と蔵王(22~23日)で行われる。

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<大和文華館> 特別企画展「花と鳥の楽園―花鳥を表した絵画と工芸」

2015年12月03日 | 美術

【雪村の「花鳥図屏風」や応挙の「雪汀双鴨図」など60点余】

 大和文華館(奈良市学園南)で特別企画展「花と鳥の楽園―花鳥を表した絵画と工芸」が開かれている(25日まで)。展示作品は花鳥をはじめ樹木や草、虫、魚などをモチーフにした日本、中国、朝鮮の古代~近世の美術・工芸品64点。雪村周継の『花鳥図屏風』、伝毛益(中国・南宋時代の宮廷画家)筆『蜀葵遊猫図』『萱草遊狗図』の重要文化財3点を含む。

       

 雪村周継(1504~89?)は室町時代の武家出身の画僧。特定の画家に師事することなく雪舟に私淑した。『花鳥図屏風』は六曲一双の紙本墨画で、花鳥図の名品として名高い。早春の朝の光景を描いた右隻ではしぶきを上げる雪解け水の流れに乗って2羽のカモが滑るように泳ぐ。左隻は夏の夜の光景で、カモは川辺で眠りにつき、ツバメは巣に向かう。明るく躍動的な右隻と静寂が支配する左隻が好対照をなす。

 六曲一双の屏風がもう一つ。江戸中期に京都で活躍した絵師・渡辺始興(1683~1755)の『四季花鳥図押絵貼屏風』。こちらは紙本著色で12枚の花鳥画を屏風1扇ごとに貼り付けたもの。梅や萩、菊、ボタンなど四季の花と鶴、ヒバリ、オシドリ、チョウ、バッタ、カマキリなど鳥や虫がセットで描かれている。いずれも花鳥の写生を通じ画技を確立した始興らしい精細な筆致。始興には63種の鳥類を描いた『鳥類真写図巻』があるが、後に〝写生派の祖〟といわれる円山応挙(1733~95)はその図巻を模写している。

 その応挙の作品も1点展示されている。同館の新しい収蔵品の『雪汀双鴨図』。雪が積もった水辺で雌雄のカモが寒そうに首を縮めて寄り添う。応挙40歳すぎの1774年(安永3年)の作品。「平安人物志」の安永4年版には画家の部の筆頭に応挙の名が挙がっており、京都画壇で応挙の名声が高まった頃に当たる。他に伝狩野源七郎筆『叭々鳥図』、山口宗季筆『花鳥図』、大友月湖筆『双鶴図』、呉春筆『孔雀図』、松村景文筆『雪芦鴛鴦図』なども出展されている。

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<帝塚山大学付属博物館> 特別展示「東アジアの塼(せん)―その連続の美」

2015年12月02日 | 考古・歴史

【日本には6世紀末の仏教建築の導入とともに朝鮮半島から】

 帝塚山大学付属博物館(奈良市)で特別展示「東アジアの塼(せん)―その連続の美」が開かれている。塼は煉瓦の一種で、粘土を型に入れて成型し、乾燥または焼成したもの。中国での塼の歴史は古く、少なくとも紀元前4世紀頃まで遡る。日本には6世紀末に仏教建築の導入と同時に朝鮮半島から伝えられた。博物館所蔵の塼を通して、中国から朝鮮半島、日本への流れを辿る。19日まで。(下の写真2枚は中国・三国~西晋時代の採画文塼)

 

 塼は中国・漢代に大きく発達した。初期の塼は構造材として墓や城壁、家屋などに用いられたが、次第に様々な文様が施され装飾としての役目も担ってくる。楽浪郡(前漢の武帝が紀元前108年に朝鮮半島・平壌付近に設置)出土の塼には、長方形の側面に幾何学文や動物・銭貨などの文様が見られる。墓室を飾った塼には型ではなく採色で文様を描いた〝採画墓塼〟もあった。後漢時代に入ると、人物や花鳥、物語の一場面を表した塼も多く作られるようになる。(下の写真上段の2枚は朝鮮半島・楽浪の文様塼、下段は㊧中国・北宋時代の騎馬文塼、㊨統一新羅時代の宝相華文塼)

 

  

 朝鮮半島でも百済・武寧王(462~523)の墓や百済最後の都、扶餘の寺院跡などから蓮華文や幾何学文、獣身文などの文様塼が出土している。日本には百済から派遣された瓦博士によって塼も導入されたとみられる。ただ、わが国最初の本格的寺院、飛鳥寺(奈良県明日香村)から文様塼は出土していない。また飛鳥周辺には7世紀以降多くの寺院が建立されたが、川原寺の緑釉波文塼や岡寺の飛天・鳳凰文塼などごく一部を除き、文様塼の使用は確認できていない。同博物館では「百済の技術者が伝えた塼は建物の床や壁の材料として使う実用的な無文塼だけだったのかもしれない」と推測する。

 塼の一種で、型で仏像を浮き彫りにした塼仏(せんぶつ)は中国・唐の時代に本格的に流行した。火付け役は『西遊記』で有名な唐の高僧、玄奘三蔵(602~64)といわれる。玄奘がインドから持ち帰った仏像や経典の保管のため長安(現在の西安)に建立された大雁塔(大慈恩寺)付近からは多数の塼仏が出土している。塼仏が日本に伝わったのは7世紀後半頃。ただ、日本に塼仏を伝えたのは玄奘の弟子、道昭(629~700)とみる説もあるという。

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<天理大学付属図書館> 玄関脇に巨大な大砲がで~んと鎮座!

2015年12月01日 | アンビリバボー

【江戸初期に長崎港で爆沈したポルトガル船に搭載】

 全国有数の蔵書数を誇る天理大学付属天理図書館。その玄関口の向かって左側に巨大な大砲が展示されている。各地の神社で大砲や砲弾を見かけることは多い。その多くは戦勝の御礼として奉納されたもの。だが、全国あまたの図書館の中でも〝シンボル〟として大砲が入り口に飾られているのはここだけではないだろうか。

 大砲は長さが2mを超える重厚なもの。そばに「マードレ・デ・デウス号大砲」のタイトルで、そのいわれが書かれた説明板が立つ。「慶長14(1609)年5月長崎に入港したポルトガル貿易船マードレ・デ・デウス号に搭載されていた大砲。この年12月12日、肥前国日野江藩主有馬晴信との戦闘の末に長崎港口で自爆自沈した(マードレ・デ・デウス号事件)……」。大砲は昭和の初めに引き揚げられ、1933年に天理図書館に収蔵されたという。

 有馬晴信(1567~1612)は日野江藩(後の島原藩)の初代藩主で、熱心なキリシタン大名として知られた。事件の発端は前年に遡る。晴信の朱印船がポルトガル領マカオに寄航した際、乗組員の水夫や家臣とポルトガル人との間で騒擾事件が発生、多数の日本人が殺されたうえ積荷も奪われた。この騒ぎの鎮圧を指揮したのがマカオ総督のアンドレ・ペッソア。恨みに燃える晴信側からの報告で事の顛末を知った徳川家康は報復の許可を出す。

 

 そのペッソアが翌年、船隊司令官としてデウス号で長崎にやって来た。幕府はペッソアに江戸への召還命令を出すが、ペッソアは警戒して応じようとせず、身の危険を感じてデウス号で逃走を図ろうとした。これに対し晴信は多数の軍船を動員して包囲する。数日間の戦いの末、ペッソアはもはやこれまでと観念し、自ら火薬庫に火を放ってデウス号を爆沈させた。

 これで一件落着かと思えたが、事件はその後も尾を引く。晴信は戦功として旧領回復の仲介の労を取るという岡本大八(幕府の重臣本多正純の家臣)の口車に乗せられる。岡本は多額の賄賂と引き換えに「旧領安堵」という家康の朱印状を渡す。ところが、これが真っ赤な偽物だった。さらに、この事件の過程で晴信による長崎奉行暗殺計画も露見してしまう。結局、晴信には切腹、岡本には火あぶりの刑が言い渡された。2人はキリスト教徒だった。岡本大八事件は家康が禁教を決意した背景の1つとなり、晴信の死や禁教による信者弾圧は後の島原の乱(1637~38)にもつながっていく。大砲は日本の歴史上、大きな転換点となった2つの事件のいわば〝生き証人〟だった。

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