く~にゃん雑記帳

音楽やスポーツの感動、愉快なお話などを綴ります。旅や花の写真、お祭り、ピーターラビットの「く~にゃん物語」などもあるよ。

<おふさ観音> 「風鈴まつり」 2000の風鈴、夏風に揺られ涼やかに、

2014年07月31日 | 祭り

【全国の風鈴の展示も 南部・琉球・瀬戸・河内・明珍火箸風鈴……】

 奈良県橿原市にある高野山真言宗の別格本山、おふさ観音で「風鈴まつり」が開かれている(8月31日まで)。本堂前のバラ園を中心に境内いっぱいに吊るされた風鈴はその数、なんと2000個以上。それらの風鈴が夏風に揺れ一斉に涼やかな音色を奏でる。その光景はまさに壮観そのもの、しばし夏の暑さも忘れさせてくれる。日本各地の風鈴を集めた展示会や即売会も同時に開催中。

 風鈴まつりが始まったのは2003年。夏を無事に乗り切りたいと厄払いにやって来る参拝客に、少しでも心地よく過ごしてほしいと始めた。今や大和の夏を彩る風物詩の1つになっている。風鈴の起源はもともと古代中国で邪気除けとして寺院の軒先に吊るされた「風鐸(ふうたく)」。それが仏教とともに日本に伝わり、平安時代に貴族たちが屋敷に吊り下げたのが日本の風鈴の始まりといわれる。

  

 おふさ観音では6月末まで「春のバラまつり」が開かれていた。風鈴まつりはその直後の7月1日にスタートしたが、バラ園ではまだ色とりどりの名残の花が咲いていた。風鈴はその上に竹を組んで吊るされ、短冊には参拝者の思い思いの願いが書き込まれていた。本堂前の天井からもカラフルな短冊が下がった無数の風鈴。その大半はガラス製で、風に揺られては軽やかな音を奏でていた。

 風鈴展示会の会場は本堂北側にある「茶房おふさ」(入場無料)。一言に風鈴といっても、素材や形は実にさまざま。南部鉄器で作られた岩手の南部風鈴、「砂張(さはり)」と呼ばれる鋳物でできた小田原風鈴、高岡銅器製の高岡風鈴、琉球ガラスの琉球風鈴(下の写真上段㊨)、瀬戸焼の瀬戸風鈴……。「水戸駅の南部風鈴」は環境省の「残したい日本の音風景百選」にも選ばれている。姫路の伝統工芸・明珍火箸を使った火箸風鈴(下段㊧の右端)やリサイクル瓶を溶かし宙吹きで創作する河内風鈴(下段㊨)なども展示されている。

 

  

 風鈴まつり期間中、本堂では「生き人形」を特別公開中。生き人形は江戸末期から明治にかけて作られた、まるで生きているかのような人形を指す。公開中の人形は天才人形師といわれた初代安本亀八(1826~1900)作の「飯田喜八郎像」。高さ40cm足らずの小さな座像だが、髪の毛の生え際や口元のしわ、手の甲に浮き上がる静脈など、その精緻な表現にはただ驚くばかり。亀八の作品で完全な姿で残っているのは現在日本に数点しかないというだけに一見の価値はある。ちなみに、飯田喜八郎はおふさ観音の本堂建立などに尽力した人物という。

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<ふるさとミュージアム山城> 企画展「巨椋池と木津川をめぐる弥生遺跡」

2014年07月30日 | 考古・歴史

【南山城の弥生遺跡出土の土器や石剣など約300点を一挙に公開】

 京都府木津川市山城町の府立山城郷土資料館(ふるさとミュージアム山城)で、企画展「巨椋池(おぐらいけ)と木津川をめぐる弥生遺跡」が開かれている。巨椋池は宇治川、桂川、木津川の合流地点にかつてあった広大な池。昭和の干拓事業で姿を消したが、その周辺に多くの弥生集落があったことが次第に明らかになってきた。同展では10市町の22遺跡から発掘された土器や石剣、石斧、管玉など300点余を一堂に展示している。8月31日まで。

 

 巨椋池北西部には下鳥羽遺跡(京都市伏見区)や雲宮遺跡(長岡京市)などの弥生前期の遺跡がある。これらは府内で最も古い弥生時代の遺跡で、多くの土器をはじめ大陸系の磨製石斧、石包丁、木製農耕具などが出土した。雲宮遺跡の集落は2重の環濠に囲まれていた。木津川流域の弥生前期の遺跡にはいち早く方形周溝墓を採り入れた稲葉遺跡(京田辺市)がある。(上の写真㊧は雲宮遺跡から出土した最古級の壷、その右は神足遺跡出土の河内産台付き鉢。右の写真は市田斉当坊遺跡出土の弥生土器)

 

 弥生中期になると遺跡の数も大幅に増える。市田斉当坊遺跡(久御山町)からは国内最古級の木組み井戸や碧玉製管玉を作った工房が見つかり、近江や摂津、河内などの土器も出土した。神足(こうたり)遺跡(長岡京市)からは河内産の優美な台付き鉢も見つかっており、当時の地域間の活発な交流をうかがわせる。鶏冠井(かいで)遺跡(向日市・京都市)からは銅鐸鋳型が出土。下植野南遺跡(大山崎町)からは80基を超える方形周溝墓群と土器類が発掘された。墓域は広さ1万7000㎡に及ぶ(上の写真2枚)。

 佐山尼垣外(さやまあまがいと)遺跡(久御山町)の弥生中期後半の方形周溝墓群からは線刻で数頭のシカが描かれた大きな壷が見つかった(下の写真2枚)。幸水遺跡(八幡市)や南垣内(みなみがいと)遺跡(京田辺市)からも方形周溝墓が発掘され、南山遺跡(同)からは竪穴住居16棟が見つかった。南山遺跡出土の板状鉄斧は数少ない弥生中期の鉄製品として注目される。

 

 弥生後期に入ると南山城全域で遺跡が激減する。その中で竪穴住居39棟と方形台状墓2基が見つかった木津城山遺跡(木津川市)は希少な存在。椋ノ木遺跡(精華町)では後期後半の溝から近江や東海地方など他地域産を含む大量の土器が出土した。内里八丁遺跡(八幡市)の洪水で砂に埋まった水田には稲株の痕跡が残っていた。南山城地域にはまだまだ多くの弥生遺跡が眠っているに違いない。

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<ニチニチソウ(日々草)> 熱帯育ち、炎天下に毎日次々と開花

2014年07月29日 | 花の四季

【マダガスカル島原産、本来は常緑の低木

 原産地はインド洋西部のマダガスカル島。もともとはキョウチクトウ科の常緑性の低木だが、寒さに弱いため日本では1年草として取り扱われる。7~9月頃、茎の先に赤や白、ピンクなどの花びらを青空に向けて平たく広げる。花は径3~5cmほどで、先が5枚に分かれた筒状花。雄しべや雌しべは真ん中の小さな穴に隠れてほとんど見えない。1つの花は短命で2~3日でしぼむが、次々に新しい花が咲き続けることから「日々草」の名が付いた。別名に「ニチニチカ(日々花)」。

 日本に渡来したのは江戸時代の中頃とみられる。1777年(安永6年)に水戸藩主徳川斉昭の命で編纂された図鑑『山海庶品(しょほん)』には「安永中、琉球ヨリ来ル……安永六年、広ク四方ニ伝フ」と記されているという。ニチニチソウには大きく分けて3つのタイプがある。草丈が50cm超の高性種、30~40cmで花壇や鉢植え向きの矮性種、それ以下でグランドカバーに向いた匍匐性品種。最近は風車咲き、先端がギザギザのフリンジ咲きなどの品種も出回っている。

 ニチニチソウは「ビンカ」と呼ばれることもある。これは以前ビンカ属に分類されていたことによる名残で、ビンカはニチニチソウ属とは別のツルニチニチソウ属の学名。ツルニチニチソウはヨーロッパ原産の常緑の蔓性植物で、春に青い花を付ける。その名は花の形がニチニチソウによく似ていることによる。繁殖力旺盛で日本各地で野生化している。

 ニチニチソウは葉を中心に全草にアルカロイド系の有毒成分を含む。口にすると嘔吐や痙攣、筋肉麻痺などの症状を引き起こす。同時に薬用植物としても知られる。原産地のマダガスカルでは古くから糖尿病の民間薬として使われてきたという。今では小児白血病など抗がん剤の製薬原料としても利用されている。「紅さしてはぢらふ花の日日草」(渡辺桂子)。

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<松村容子フルートコンサート> 古典派のクラシックから「荒城の月」まで全15曲

2014年07月27日 | 音楽

【生駒市の北コミュニティセンターで、ピアノ伴奏土居由枝さん】

 生駒市の北コミュニティセンターで26日「松村容子フルートコンサート」が開かれた。古典派のバッハやモーツァルトから、印象派のドビュッシー、超絶技巧で有名なパガニーニ、アルゼンチンの作曲家ピアソラ、さらに日本の唱歌までという幅の広い構成。アンコールも含め15曲でフルートの魅力をたっぷり堪能させてもらった。ピアノ伴奏は土居由枝(よしえ)さん。(写真㊧松村さん、㊨土居さん)

      

 松村さんは大阪教育大学特別教科音楽課程フルート専攻卒業、同大学院修了。その後、英国や米国に渡って研鑽を積み、海外オーケストラと協奏曲を協演したり、ウィーンフィル首席フルーティストの故ヴォルフガング・シュルツ氏親子とジョイントリサイタルを開くなど多彩な演奏活動を展開、後進の指導や病院でのボランティア活動などにも力を注いでいる。現在は大阪府立夕陽丘高校音楽科フルート講師。ピアノの土居さんは松村さんと同じく大阪教育大学教養学科芸術専攻音楽コース卒業後、同大学院修了。第18回吹田音楽コンクールピアノデュオ部門第2位(1位なし)。現在は大阪樟蔭女子大学児童学部非常勤講師などとして活躍している。

 1曲目はバッハの『管弦楽組曲第2番』よりポロネーズとバディネリ。続いてグルックの『妖精の踊り』、モーツァルトの『アンダンテ』。古典派に続いて19世紀フランスの作曲家ビゼーのオペラ『カルメン』よりハバネラと組曲『アルルの女』よりメヌエットの2曲。第1部最後はドップラーの『ハンガリー田園幻想曲第1部』だった。松村さんは1曲ごとにエピソードを交えながら分かりやすく紹介してくれた。

 「バッハの管弦楽組曲は4つの舞曲でできています。貴族階級が確立したのはバロック時代で、貴族には乗馬、剣術、そして踊りという3つの条件が不可欠でした」「日本とハンガリーの間には『塩』など発音が似た単語が多い、お尻に蒙古斑がある、音階が似ている――など共通点が多い」。横溝正史が推理小説「悪魔が来りて笛を吹く」を執筆中、毎晩のように近くの学生が練習を重ねるドップラーの『ハンガリー田園幻想曲』が聞こえてきたそうだ。このドップラーの名曲、国内のフルートコンサートでは定番の1つだが「ヨーロッパでは演奏される機会がほとんどない」という。なぜだろうか。

 後半はパガニーニの『カプリース』、続いてリムスキー=コルサコフの『くまんばちの飛行』から始まった。目にも止まらない速さの指使いやハチの羽音に似た独特な音色(巻き舌によるフラッター奏法)などに、観客からは溜め息も漏れていた。この『くまんばちの飛行』のハチは、実はクマバチではなくてマルハナバチだったという。フォーレの『ファンタジー』、ドビュッシーの『シリンクス』(この曲だけ無伴奏だった)、そしてピアソラの代表曲『リベルタンゴ』と続いた。

 松村さんは毎回、演奏会の中に日本の曲も織り込んできたという。この日も最後の3曲は『荒城の月』によるファンタジア(安田芙充央編曲)、『ふるさと』によるポエム(同)、『浜辺の歌』だった。アンコールは『小さな木の実』(ビゼー作曲)。短い休憩を挟んでたっぷり2時間10分。フルートとピアノの呼吸もぴったり。実に内容の濃い演奏会だった。

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<クサレダマ(草連玉)> 湿地に鮮やかな黄花、別名「硫黄草」

2014年07月26日 | 花の四季

【草+レダマ(マメ科の落葉低木)、よく似た花の色に由来】

 遠目からも鮮やかな黄花。水辺の小さな表示板には「クサレダマ 原産地日本(北海道~九州) サクラソウ科」とあった。クサレダマ? てっきり「クサレ(腐れ)+ダマ」と思い込んでいた。帰宅後調べて「クサ(草)+レダマ」と分かるまでは。だから、この植物に対して少々気の毒な思いがしていた。せめて漢字も併記してくれれば、そんな誤解も防げると思うのだが……。

 オカトラノオ属(リシマチア属)の多年草で、全国各地の日当たりのいい湿地に自生。7~8月ごろ、直立した茎(高さ50~100cm)の上部に多数の黄色い小花を円錐状に付ける。地中海沿岸地方原産のマメ科の落葉低木・レダマに花の色がよく似ていることから、クサレダマという名が付けられた。レダマの別名は「スパニッシュ・ブルーム」。このブルームはエニシダ(金雀児)のこと。クサレダマはその花色から「イオウソウ(硫黄草)」という別名も持っている。

 仲間にオカトラノオやヌマトラノオ、ヤナギトラノオなど。いずれも長い穂に多くの小花を付ける。属名のリシマチアは古代マケドニア王国のリシマコス王の名前にちなむ。猛り狂った牡牛に襲われたとき、トラノオの1種をムチのように使って難を免れたという伝説に由来するそうだ。クサレダマと同様に頭に「クサ(草)」が付く植物にはクサアジサイ、クサネム、クサフジ、クサソテツなどがある。

 クサレダマは地下茎を伸ばし湿原などで群落をつくる。だが、この植物も湿地の開発や水質の汚濁などで次第に生息域が狭められてきた。東京では野生種は既に絶滅したとみられ、埼玉や富山、京都、大阪、奈良、三重、徳島などの各府県でも絶滅危惧種に指定されている。「友達の友達になろ草連玉」(鈴木みのり)。

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<祇園祭・山鉾巡行後祭> 「大船鉾」蛤御門の変から150年ぶりに復活!

2014年07月25日 | 祭り

【沿道から「おめでとう!」の掛け声、花傘巡行も】

 京都・祇園祭のハイライト「山鉾巡行」の後祭(あとまつり)が24日、京都市中心部の都大路で繰り広げられた。交通事情などで1本化されていた山鉾巡行が前祭(さきまつり)と後祭に分離されるのは49年ぶり。今年は大船鉾(おおふねほこ)=下の写真=が150年ぶりに復興されたこともあって、長い伝統を誇る祇園祭にとっても画期的な年となった。

 山鉾巡行はかつて17日の神幸祭と24日の還幸祭に合わせ前祭と後祭が行われていた。後祭は「後の祭り」の語源ともいわれる。今年からほぼ半世紀ぶりに元の形に戻ったわけで、17日の前祭では23基、この日の後祭では10基が巡行した。午前9時半、山鉾は烏丸御池を東に向け出発、京都市役所前での〝くじ改め〟を経て河原町通、四条通と、前祭とは逆のコースをたどった。先頭は〝くじ取らず〟の橋弁慶山。続いて北観音山、八幡山、浄妙山、鈴鹿山、南観音山、鯉山、役行者山、黒主山。そして注目の大船鉾がトリを飾った。

 下の写真=上段㊧から橋弁慶山、北観音山、八幡山、中段㊧から浄妙山、鈴鹿山、南観音山、下段㊧から鯉山、役行者山、黒主山

  

  

  

 大船鉾は幕末1864年の「蛤御門の変」による大火で車輪や木組みなどの大部分を焼失、以来、〝休み鉾〟となって巡行には参加していなかった。鉾の復興は多くの有志による寄付や他の山鉾町からの支援などで実現した。全長約7.5m、高さ約6.3mで、大きな船をかたどった重厚な造り。その雄姿を一目見ようと沿道には幾重もの人垣ができた。見物客からは「おめでとう」と掛け声が飛び、交差点で豪快に方向転換する〝辻回し〟がうまくいくと、ひときわ大きな拍手と歓声がわいた。四条町大船鉾保存会の松居米三理事長(下の写真上段㊨の前列手前)をはじめ関係者にとって、まさに感無量の1日だったに違いない。

 

 

 午前中には八坂神社と京都市役所間を往復する「花傘巡行」も行われた。山鉾の古い形態を再現した傘鉾とともに、子ども神輿や祇園太鼓、獅子舞、鷺踊など総勢約1000人が参加して、にぎやかに目抜き通りを練り歩いた。行列には祇園甲部と宮川町の舞妓さんたちも参加して彩りを添えた。この日夕から深夜にかけては、四条御旅所から3基の神輿が八坂神社に戻る還幸祭(別名「おかえり」)が行われた。1日に始まった祇園祭もこれで主な行事はほぼ終了。残す主な神事は31日の疫神社夏越祭(八坂神社境内)のみとなった。

 

   

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<伝香寺> 秘仏「裸地蔵」を特別開扉し〝着せ替え法要〟

2014年07月24日 | 祭り

【法衣を1年ぶりにお召し替え、昨年の衣は裁断してお守りに】

 「裸地蔵」と「散り椿」で有名な伝香寺(奈良市小川町)で23日、地蔵会「着せ替え法要」が営まれた。秘仏の地蔵菩薩立像(重文)の法衣を新調したものに着替えていただく伝統の行事。涼しげな水色の衣に鮮やかなオレンジ色の袈裟が映えて、お地蔵さんの表情も満足そうに見えた。

 裸地蔵は高さ97.3cmで、左手に宝珠を乗せ、右手に錫杖を持つ。裸形像は鎌倉時代に多いが、この木造の裸地蔵も像内から見つかった願文から鎌倉前期の安貞2年(1228年)の作とみられている。ご開帳されるのはこの日と「散り椿」が見ごろとなる3月12日の年2回だけ。散り椿は奈良の3名椿の1つといわれる。

  

 地蔵会は西山明彦住職らに加え興福寺から出仕の僧侶も加わって、午後4時から始まった。約20分余、読経や願文拝読などが続き、その後、興福寺の僧侶と住職のご長男、西山明範さん(眼鏡の方)の2人で着せ替えが行われた。まず後光と錫杖が取り外される。続いて衣が1枚ずつ丁寧に脱がされていく。白い下帯1枚だけのお姿になった際には、さすがのお地蔵さんも少々恥ずかしげに見えた。その下帯の取り替えは前を隠すようにして素早く行われた。

 

 

 その上に襦袢などが1枚ずつ着けられていく。木造でお体を自由に動かせないだけに、着せ替えもなかなか容易ではない。とりわけ袖を両腕に通したり、襟を合わせたりする作業は時間をかけて慎重に行っていた。法衣の色の取り合わせは昨年のものとほぼ同じだったが、水色の衣が少し明るく見えた。錫杖を持たせ、後光を取り付けると着せ替えが完了。最後にお地蔵さんの正面に御供物がそなえられた。着せ替えスタートから約20分だった。

 

 「まだ徒弟の身」という西山明範さんが着せ替えを行ったのは今回が初めてという。着せ替えの途中、そばで読経を続けていた西山住職が「袈裟が……」と声を掛ける場面があったが、それで納得がいった。昨年まで着せ替えは住職自ら行っていた。今年は息子の着せ替えデビュー。というわけで住職は気が気でなかったに違いない。この地蔵会は昨年まで開始時間が1時間遅い午後5時だったため、1時間早まったことを知らずに終了後やって来るグループもあった。西山明範さんはその方たちにお詫びの印として無料でお守りを差し上げていた。その気遣いに温かいものを感じた。

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<未明の森に> いた!いた! 昆虫の王者カブトムシたち

2014年07月23日 | メモ

【餌場で樹液を吸うペアと単独のメスの3匹】

 昨日早く寝たせいで、午前3時すぎに目覚め。新聞を読んでいて、ふと20日ほど前の白昼、近くの森で見た1本のクヌギの木のことを思い出した。10匹ほどのカナブンがおいしそうに樹液を吸っていた(下の写真㊨)。この木には毎晩、カブトムシが集まっているに違いない。久しぶり散歩がてらに行ってみるか。午前4時35分。その森に着いた頃には東の空も少し白んで、ヒグラシも鳴き始めていた。もう食事をすませて帰っているかも。と、その木に懐中電灯を照らすと、まだ、いた!

 

 高さ2mほどの所に仲良く樹液を吸うオスとメスのペア。オスは長い立派な角を持ち体全体が赤銅色の堂々たる体躯。体長は角も入れると8cmほどあるだろうか。顔の右上(前胸)には縄張り争いで相手の角で突かれたような傷跡が1つ。オスはメスに言い寄っているようにも見えたが、メスは樹液を吸うのに懸命だった。その様子を早速、記念撮影。2匹の下のほうには少し小さいメスが1匹いた(下の写真㊧)。

 

 この森でカブトムシを最後に観察したのは10年ほど前になるだろうか。夕方、目星を付けていたコナラの木のそばで待っていると、暗くなると同時に「ブ~ン」と大きな羽音を上げて飛んできた。1本の木に10匹を超えるカブトムシが集まっていたことも。木を蹴ると、クワガタが上から落ちてくることもあった。今年も夏休み入り。この森も虫籠と懐中電灯を持ったカブトムシが大好きなちびっ子たちでにぎわうことだろう。

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<アサザ(浅沙、阿佐佐)> 万葉集にも登場する色鮮やかな黄花

2014年07月22日 | 花の四季

【別名「花ジュンサイ」、若葉は食用にも】

 ミツガシワ科アサザ属の浮葉植物。北半球の温帯地域に広く分布し、日本では北海道を除く各地の池や湖沼の比較的水深の浅い所で群落をつくる。葉はスイレンに似た艶のある緑色で、6~8月ごろ、葉の間から茎を伸ばし先端に径3~4cmほどの色鮮やかな黄花を付ける。5枚に分かれた花びらの縁にはヒラヒラのひだ飾り。半日花で、早朝に開いて昼ごろにはしぼんでしまう。

 名前の由来には諸説。「朝咲く」や「浅く咲く」からの転訛、地下茎が絡まることを意味する「あざなふ」から来ているといった説など。アサザは若葉が食用になり「花ジュンサイ(蓴菜)」とも呼ばれる。そこから「水の浅い所に生える野菜」として「浅浅菜(あさあさな)」に由来するという説もある。アサザには「イケノオモダカ(池の沢瀉)」という別名も。英名は「イエロー・フローティング・ハート」。

 アサザは万葉集に「あざさ」として登場する。「か黒き髪に真木綿(まゆふ)もち あざさ結ひ垂れ……」(豊かな黒髪に木綿であざさを結い垂らし……)。万葉の時代、アサザの花は女性の髪飾りにもなっていたというわけだ。この長歌の前半には「うち日さつ三宅の原ゆ常土(ひたつち)に足踏み貫(ぬ)き……」とある。「三宅の原」は奈良盆地のほぼ中央にある今の奈良県磯城郡三宅町の辺り。その三宅町はアサザを万葉名の「あざさ」として町の花に指定、町内各所で栽培している(写真は三宅町保健福祉施設「あざさ苑」で)。

 仲間のアサザ属には白花を付ける「ガガブタ」や「ヒメシロアサザ」などがある。ある植物辞典によると、ガガブタの「ガガ」は「スッポン」を指し、亀の甲羅に似た葉っぱで水面に蓋をしたような姿から、こんな奇妙な名前が付けられたという。花はアサザより小型だが、ヒメシロアサザはさらに一回り小さい。アサザは環境省のレッドデータブックで準絶滅危惧種。都府県段階では大阪、京都、愛媛、鳥取など既に野生種が絶滅したとみられる地域も多い。「舞ひ落つる蝶ありあさざかしげ咲き」(星野立子)。

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<BOOK> 「オオカミたちの隠された生活」

2014年07月21日 | BOOK

【ジム&ジェイミー・ダッチャー著、岩井木綿子訳、エクスナレッジ発行】

 かつてオオカミは北米大陸のほぼ全域に生息していたが、19世紀後半から20世紀前半にかけて駆除が進み姿を消した。だが、1990年代に入って米国のアイダホ州中部とイエローストーン国立公園で再導入が始まった。著者のダッチャー夫妻(写真㊨)は90年から6年間にわたりアイダホ州でオオカミの群れに囲まれてテント生活を送り、その行動や序列などを詳細に観察した。3本の記録映画はエミー賞の最優秀撮影賞などを受賞している。夫妻は2005年、オオカミの保護と人との共生を目的にNPO「リビング・ウィズ・ウルブズ」を立ち上げた。

 

 本書は「ソートゥース群と共に暮らす」「オオカミの世界」「オオカミの来た道」「オオカミと共存する」の4章で構成する。ソートゥース群とはアイダホ州のソートゥース山脈の麓に放たれ、次第に家族が増えたオオカミの一群。最初の2頭には「目が開いた瞬間から哺乳瓶で乳を与え、彼らの信頼を得て絆を築いた」。その信頼感は夫妻がオオカミに頬を寄せたり、手と前足を合わせてハイタッチしたり、カメラをオオカミの鼻先に向けて撮影したりする写真からもうかがわれる。

 序文は俳優のロバート・レッドフォードが寄せている。「頂点捕食者をオオカミからライフルを持った人間に置き換えたことの影響が、長い時を経てさまざまなかたちで現れてきている」「牧場主、熱狂的な野生生物保護活動家、狩猟家、科学者それぞれが求めるもの。そして、忌み嫌われてきた社会性のある動物、つまりオオカミが必要とするもの。どのようにしてそれらに折り合いをつけるか、私たちは今、その妥協点を探る努力を迫られている」。レッドフォードは夫妻が立ち上げたNPOの名誉理事も務めている。

 6年間の観察を通じて夫妻が痛感したのは「オオカミの社会的な序列」と「群れのメンバー同士の固い絆」という。リーダーはアルファと呼ばれる。アルファは群れの秩序を維持するのが役目。「通常、繁殖するのは雌雄のアルファ・ペアだけ」。序列第2位はベータ。その他の大半は中位に位置し、最下位はオメガと呼ばれる。オメガは服従を示すために、しゃがみ込んで体を小さく見せようとする。食事も最後。その一方でしばしば群れの仲間を誘って遊びに引き入れる。オメガは「群れの緊張を緩和するという重要な役割を担っているからだ」。

 オオカミは人と同じように「友情を育み、終生続く絆を結ぶ」という。「彼らは非常に社会性の強い動物で、群れ、つまり家族に対してとても強い献身的愛情を示す。個々のオオカミがそれぞれを大切に思い、友情を育み、病気や怪我を負った群れの仲間を養うのだ」。群れの1頭がピューマに殺された時には6週間、全く遊びが観察されず、遠吠えも悲しみに沈み、襲われた場所をしばしば訪れては地面の匂いを嗅いでいたという。「彼らが群れの仲間を偲び、喪に服しているように見えた」。

 オオカミたちは米国で1973年に成立した絶滅危惧種法で30年余にわたって保護されてきた。この間、イエローストーン国立公園ではオオカミの復活によって増え過ぎていたワピチ(シカの一種)やコヨーテの数が減り、若木が食べられていたポプラやヤナギなどが生気を取り戻すなど生態系が徐々に回復してきた。だが2011年、米国議会はオオカミを絶滅危惧種リストから除外した。これを機にアイダホ州やワイオミング州では再び、20世紀初頭以来の激しいオオカミ狩りが展開されているそうだ。

 夫妻は6年にわたるオオカミとの触れ合いを通じて「彼らの知性や学習能力、適応能力を考慮に入れれば共存への道が見えてくることが、私たちにはわかってきた」という。「まず必要なのはオオカミが家畜や猟獣、さらには観光や生態系にどんな影響を与えるか、マイナス面もプラス面も含めて偽りなく、徹底的に分析することだ。その次のステップは、オオカミの真の性質を理解し、その性質に反するのではなく、それを生かした努力をすることである。オオカミだけを管理してもだめなのだ。私たち自身のオオカミとの関わり方も管理していかなければならない」。

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<ニンジンボク(人参木)> 風にそよぐ花穂、うす紫の小花が涼しげに

2014年07月20日 | 花の四季

【中国原産、和名は葉の形が朝鮮人参に似ていることに由来】

 中国大陸原産のシソ科の落葉低木。日本には享保年間(1716~35)に薬用植物として渡来したといわれる。7~8月ごろ、長さ20cmほどの花穂を伸ばし、うす紫色の唇形の小花をたくさん付ける。その花の蜜はアゲハチョウや花バチたちの大好物。樹木としては珍しい紫花で、風にそよぐ姿が涼しげなことから庭木や公園木としても人気が高い。

 葉は長い楕円形の3~5枚の小葉からなる〝掌状複葉〟。手のひらを広げたような形で、小葉の先端は尖り縁にはギザギザの鋸歯が入る。その形が薬用の朝鮮人参(御種=オタネ=人参)の葉に似ていて、草本でなく樹木であることから「人参木」の名が付いた。花後の小さな黒い果実は漢方で「牡荊子(ぼけいし)」と呼ばれ、風邪薬などに用いられる。

 同じ仲間のヴァイテックス属(ハマゴウ属)にはハマゴウやセイヨウニンジンボク、タイワンニンジンボクなどがある。ハマゴウ(浜栲)はよく似た紫色の花を穂状に付ける(2013年12月5日ブログ参照)。セイヨウニンジンボクは南欧~西アジアに分布し、イタリアニンジンボクとも呼ばれる。日本には明治時代中期に渡来した。

 セイヨウニンジンボクは花色の紫が濃く、小葉も5~7枚と多いのが特徴。木全体に芳香があり、果実はかつてコショウの代用品として用いられた。英名は「純潔の木」を意味する「チェイストツリー(chaste tree)」。セイヨウニンジンボクには白花の品種もある。タイワンニンジンボクはインドから中国南部、マレーシア、台湾にかけて分布する。「藪のうしろの人参木よひるのつき」(安井浩司)。

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<平城宮跡資料館> 「平城京ビックリはくらんかい―奈良の都のナンバーワン」

2014年07月19日 | 考古・歴史

【「一番多い・大きい」から「一番おそろしい」「一番くさそう」まで】

 奈良文化財研究所の「平城宮跡資料館」(奈良市佐紀町)で夏期企画展「平城京ビックリはくらんかい―奈良の都のナンバーワン」が始まった。平城京の発掘開始から約55年。この間に見つかった膨大な出土品の中から何でも「一番」を集めた。夏休みを中心にした子ども向けの企画だが、分かりやすい展示方法に加え展示物の大半が本物であることから、大人の来館者にもなかなか好評だ。9月21日まで。            

 これまでに出土した木簡の中で一番長いのは長屋王の屋敷跡から見つかった125cmのもの。「都祁氷室二處深各一土……」と書かれており、氷室をどうやって造ったかを説明する内容。逆に一番短い木簡は平城宮の役所で見つかった2.8cmのもので荷札とみられる。一番小さい文字で書かれたものは直径2.2cmの巻物の軸の回りに書かれた18文字。最大の文字は瓦工房で見つかった木簡で、書き出しの「越」の字は縦横3.3cmもあった(左端=部分)。最も長い文字は「行」の字を練習した木簡で、最終画の長さが15.2cmもあった(左から2番目=部分)。

   

 病気や厄を祓うため水に流すおまじないの人形(ひとがた)は普通、手のひらに乗るぐらいの大きさ。だが、平城京からは長さが119cmもある大きなものが見つかった(左から3番目=部分)。人形の中には心臓や目に釘が打ち込まれたままのものもあり「一番おそろしい出土品」として展示されている。右端の写真のうち右側の人形には「坂部秋近」という名前も刻まれていた。その人物に対する執念深いのろいが今も続いているとは、ああ恐ろしや。

 

 同じ漢字を何度も書いて練習したとみられる木簡の中で、一番多いのは意外にも「大」を練習したもので511枚も見つかった。平城宮の役所の近くの穴からは8万個以上という大量の植物の種が出てきた。木苺やメロンの仲間の種が最も多かったという。大膳職(だいぜんしき)という役所の井戸からは櫛(くし)が22点もまとまって見つかった(上の写真㊧)。平城京郊外の「頭塔」の心柱の下からは、123枚もの銭(萬年通寶や神功開寶など)を紐に通した「さし銭」が発見された(㊨)。地鎮祭祀で埋納されたとみられるが、平城京でこれほど多い例は他にないそうだ。

  

 「一番くさそうな土器」として展示されているのは墨で「小便」と書かれたもの(㊧)。トイレ代わりに使って、たまったら捨てに行っていたのだろうか。「一番寝にくい枕」は中国の唐から運ばれてきた唐三彩の焼き物(㊥)。いかにも硬そう。「一番奇妙な木簡」は2つの耳が描かれたもの(㊧)。しかも書かれている文章は耳とは無関係という。はてな? このほか、1300年前から「ず~っとおんなじ!」として奈良時代のサイコロや鈴、耳かき、ものさし、下駄など、「すっかりかわった!」としてトイレットペーパー代わりの籌木(ちゅうぎ)、木を刳りぬいて作った木靴、数を計算する道具の算木(さんぎ)なども展示している。

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<法華寺> 幻想的な灯りの中で厳かに「蓮華会式(茅の輪くぐり)」

2014年07月18日 | 祭り

【悪疫解除祈願の法要、〝茅の輪粥〟の無料接待も】

 平城宮跡のすぐ東側にある光明皇后ゆかりの尼寺・法華寺(奈良市法華寺町)で17日夕、茅の輪をくぐって悪疫解除を祈願する「蓮華会式」が営まれた。境内には300基を超える灯籠が整然と並べられ、ロウソクの灯りで幻想的な雰囲気。茅の輪くぐりの前には暑い夏を元気に乗り切ってほしいとの願いから、参拝者に「茅の輪粥(がゆ)」が無料接待された。

 法華寺は東大寺を創建した聖武天皇のお后、光明皇后の発願で日本の総国分尼寺として創られた。正式名は「法華滅罪之寺」。もともと藤原不比等の邸宅だったものを娘の皇后が宮寺としたのが始まり。本尊は皇后が蓮池のほとりを歩くお姿を写したといわれる国宝の十一面観音立像。門跡寺院として代々、皇族や公家が住職を務めてきたが、昨年、一般出身者としては初めて樋口教香門跡代行が住職に就任した。

 

 蓮華会式は午後7時に始まった。樋口住職をはじめ6人の尼僧が本坊を出て、境内を練り歩いた後、本堂正面に設えられた茅の輪の前に。まずお祓いをし輪の中のカヤの結界を取り除いて、住職を先頭に順番に茅の輪をくぐった。これに一般の参拝者が続いた。本堂内では本尊を前に8時近くまで法要が営まれた。 

   

 日が暮れるに従って灯籠や小さなコップ形の灯明が明るさを増し、境内には幻想的な雰囲気が漂った。和紙を貼った灯籠にはそれぞれ施主のお名前と「息災延命」「家内安全」「心願成就」といった願いが書き込まれていた。中には「和」や「平凡」など一言だけのものや「手術成功」「労務災害ゼロ」といったものも。ちなみに灯籠は1基2000円、灯明は500円だった。

 

 境内は蓮華会式が始まる前の午後5時から無料開放された。古い茅葺きの「光月亭」では「茅の輪粥」の無料接待もあった。中央に小豆が載っており、なかなかの美味。小皿に添えられた大きな梅干はそばの庭で収穫したものという。例年400~500食が出るそうだ。庭には花びらの縁がうすいピンク色で彩られた「法華寺蓮」をはじめ、様々な草花や樹木が植えられていた。金宝樹、源平桃、紫式部、桔梗、大山れんげ、花いかだ、利休梅、侘助……。1つ1つに名前も記されていて、尼寺らしい雰囲気と気遣いにあふれた庭園だった。

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<カラー> 南アフリカ原産、ミズバショウに似た美しい立ち姿

2014年07月17日 | 花の四季

【日本には江戸時代後期に渡来、和名「オランダカイウ(和蘭海芋)」】

 サトイモ科の球根植物で、原産地は南アフリカ。5~9月ごろ、ミズバショウに似た白や黄色の花を咲かせる。花弁に見えるのは仏炎苞(ぶつえんほう)と呼ばれる花を包む苞で、本来の花はその真ん中で見え隠れする棒状の肉穂花。交配によって花色も赤、橙、紫、ピンクなど豊富になり、鉢植えや切り花として人気が高い。白花はウエディングブーケとしてもよく使われる。

 カラーには湿地性のものと畑地性のものがある。「アエチオピカ種」は川や池などを好む湿地性の白花で、アフリカ各地の水辺に群生する。「リリー・オブ・ザ・ナイル」とも呼ばれ、エチオピアの国花にもなっている。これが1843年(天保14年)オランダ船で長崎・出島にやって来た。球根が薬草栽培箱の土の中に混入していたという。こうした経緯と塊茎が太く里芋に似ていることから、カラーに「オランダカイウ(和蘭海芋)」という和名が付けられた。

 畑地性には「エリオチアナ種(キバナカイウ)」「レーマニー種(モモイロカイウ)」「アルバマクラタ種(シラホシカイウ)」などがある。栽培が比較的容易で、花色がカラフルなことや葉に白い斑点が入って観葉植物としても楽しめることなどから人気を集めている。英名「カラー・リリー」のカラーは修道女が着用する服のカラー(衿)にちなんで名付けられたという。カラーの語源は「美しい」を意味するギリシャ語の「カロス」に由来するそうだ。

 ただサトイモ科には一般にカラーと呼ばれる「オランダカイウ属」とは別に、「ヒメカイウ」という1属1種の「カラー属」があるから少々ややこしい。ヒメカイウは北海道から本州中部にかけて自生する湿生植物で、和名はオランダカイウに似ていて株全体が小さいことによる。別名に「ミズザゼン」や「ミズイモ」。このヒメカイウは環境省のレッドデータブックに準絶滅危惧種として登録されている。「海芋咲き日射し俄かに濃き日なり」(藤松遊子=ゆうし)。

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<奈良文化財同好会> 「皇位継承に果たした皇妃の役割」

2014年07月16日 | 考古・歴史

【白石太一郎氏講演、「〝大后〟は6世紀前半の継体朝から始まった」!】

 奈良文化財同好会の月例講演会が15日、奈良市の中央公民館で開かれ、大阪府立近つ飛鳥博物館館長の白石太一郎氏(国立歴史民俗博物館名誉教授)が「皇位継承に果たした皇妃の役割―6世紀を中心に」と題して講演した。白石氏は「天皇の(複数いる)后の中で特定の后が大后(たいこう)として特別扱いされ始めたのは6世紀前半の継体天皇と安閑天皇の時代からではないか」などと話した。

   

 講演は継体天皇(531年没)の陵墓所在地の話から始まった。宮内庁は太田茶臼山古墳(大阪府茨木市)を継体陵としているが、白石氏は出土した円筒埴輪などから同古墳は5世紀中頃のもので年代が合わないと指摘。さらに延喜式の記述「摂津国嶋上郡」から、継体陵は同じ大阪府三島野古墳群の中にある今城塚古墳(高槻市)に間違いないと話した。

 「問題は継体陵が淀川右岸の摂津にあること。ヤマト王権の地域的な基盤は畿内の南側の大和川水系。それまでの大王墓も大和、河内、和泉に集中していた。それだけに継体陵は極めて特異。そこには継体天皇の出自が大きく関わっていたに違いない」。継体天皇は近江で生まれ、父の没後は母の故郷、越前で育った。河内樟葉で即位したものの遷都を重ね、大和の磐余玉穂に移るまでに長い歳月を要した。

 その背景を白石氏はこう説明する。「継体天皇を支えた勢力は畿内東辺の近江、越前や淀川水系の摂津などの豪族で、大和に基盤を置いた大王家とのつながりを持たなかった。そのため、即位してもなかなか大和に入れなかった」。継体天皇を支えたのが手白香(たしらか)皇后。仁賢天皇の娘で、武烈天皇の姉(妹説も)でもある。白石氏は「継体天皇は入り婿という形で、ヤマト王権につながることができ、反対勢力も皇位継承を認めざるを得なかった」と話す。

 宮内庁は大和(おおやまと)古墳群のうち西殿塚古墳(天理市)を手白香皇后陵に治定しているが、この古墳も含め大和古墳群の大半は3~4世紀のもので年代が合わないと指摘する。ただ1基だけ前方部を北側に向けた6世紀前半築造とみられるものがある。西殿塚のすぐ北西に位置する西山塚古墳。西殿塚に比べるとやや小さいが、それでも全長が114mもある。白石氏はこれが手白香皇后陵とみる。

 継体天皇没後には最初の后といわれる目子媛(めのこひめ)との間に生まれた安閑天皇、次いで宣化天皇の兄弟が即位する。目子媛は尾張の豪族の娘だった。安閑天皇は仁賢天皇の娘、春日山田皇女を后とし、宣化天皇は義母の手白香皇后の姉妹、橘仲皇女を后とした。「この2人の天皇もいわば入り婿で、皇位継承の正当性を担保する狙いがあった」。

 高屋城山古墳(大阪府羽曳野市)が安閑天皇陵、島屋ミサンザイ古墳(奈良県橿原市)が宣化天皇陵とされ、当時としては珍しく夫婦が合葬されているという。白石氏は「当時の人たちからみれば、皇后の墓に天皇が合葬されたという意識が強かったのではないか」と推測する。宣化天皇没後には継体天皇と手白香皇后の間に生まれた欽明天皇が即位する。

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