く~にゃん雑記帳

音楽やスポーツの感動、愉快なお話などを綴ります。旅や花の写真、お祭り、ピーターラビットの「く~にゃん物語」などもあるよ。

<生駒在住の画家・安部敬二郎さん> 往馬大社で「日本の馬展」開催

2014年05月31日 | 美術

【木曽馬・寒立馬など在来馬を描いた油絵を中心に約40点】

 奈良県生駒市在住の洋画家、安部敬二郎さん(1951年生まれ)の個展「日本の馬展」が生駒市壱分町の往馬(いこま)大社で開かれている。安部さんが描く絵のテーマは「日本の村の風景」と「干支(えと)」の2つ。その一環として30年ほど前から全国各地の在来馬を訪ねて描いてきた。今回の馬展は今年の干支・午(うま)にちなんだもので、木曽馬や寒立馬、御崎馬などを描いた油絵をはじめ、馬の郷土玩具や同大社の流鏑馬(やぶさめ)などを描いた水彩画など約40点を展示している。7月2日まで。

 

 在来馬の作品は30号の大作が中心で、馬の親子の強い絆を感じさせるような作品が多い。昨年4月の作品「生命の賛歌」(下の写真㊧、部分)は誕生から数時間後の木曽馬「淡雪」と母馬を柔らかいタッチで描く。「初夏の御嶽山麓」(同㊨)はその4カ月後の8月の親子の様子。「御崎馬親子(宮崎県都井岬)」や「対州馬(長崎県対馬)」「寒立馬(青森県尻屋崎)」などの作品でも、母馬が子馬に優しく寄り添う。

 

 会場の「高座」入り口には横2.5m、縦1.2mという最新の大作「夏の海」が掲げられている。北海道の道産子から宮崎の御崎馬まで在来馬の子馬を1枚の画面に収めた。その上には「木曽馬『淡雪』」(写真㊧)、右横には「野間馬らん」(写真㊨)という2つの作品が並ぶ。 前者は昨年12月に描いたもの。淡雪生後8カ月ほどの頃の作品だが、順調にすくすく育っているようだ。らん号は20歳を超える調教馬という。

           

 随分前になるが、木曽馬に会うため長野県の開田高原を訪ねたことがある。当時、木曽地域で70頭の木曽馬が飼われていたが、木曽馬保存会の会長さんが「絶滅の危機にある」と話していたことが忘れられない。その理由の1つが近親交配による奇形や脳障害を持つ子馬の相次ぐ誕生。訪ねた年も春に生まれた7頭のうち3頭に障害が現れ、うち1頭は既に死んでいた。弊害を防ごうと体形や性格が似ている道産子の血を導入する試みが進む一方で、あくまでも純粋種を保存すべきとして他種の導入には異論も出ていた。安部さんの絵の「淡雪」のように、みんな元気に生まれ育つことを願うばかりだ。

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<ブーゲンビリア> フランス探検隊長ブーガンヴィルの名前にちなみ

2014年05月29日 | 花の四季

【オシロイバナ科、原産地は南米】

 ハイビスカスとともに熱帯を代表する花、ブーゲンビリア。オシロイバナ科のつる性植物で、鋭い棘のある枝の先に白、黄、紫、赤、桃などカラフルな色の3枚の薄い〝花びら〟を付ける。ただ、花びらのように見えるのは実は苞葉(ほうよう)。本当の花はその苞に包まれた中心部にあり目立たない。

 原産地は南米。日本には明治時代に渡ってきた。「イカダカズラ」という和名や「ココノエカズラ」の呼び名もあるが、学名から「ブーゲンビリア」または「ブーゲンビレア」が広く使われている。その名前はフランスの探検家、ルイ・アントワーヌ・ド・ブーガンヴィル(1729~1811)にちなんで名付けられた。

 ブーガンヴィルは18世紀半ば、ルイ15世の命を受けて世界一周探検航海に乗り出した。その航海で多くの植物を採集した植物学者フィリベール・コメルソン(1727~73)が、ブラジルで見つけた植物に隊長名を付けたというわけだ。ちなみにパプアニューギニアのブーゲンビル島も隊長のブーガンヴィルにちなんで名付けられた。

 寒さに弱いため冬場は温室栽培が一般的だが、沖縄や紀伊半島南部など温暖な地域では野外でも育つ。和歌山県すさみ町の恋人岬は4~9月、熱海の糸川沿いは5~8月が見頃という。ブーゲンビリアは沖縄の那覇市や豊見城市、宮古島市、西原町、南風原町などの「市の花」「町の花」になっており、海外ではグアムで「島の花」に指定されている。ハワイの州花はハイビスカスだが、ブーゲンビリアもハクレイ(花冠)によく使われる。

 歳時記に記載がないこともあって俳句に詠まれることはあまりない。「筏かづら露路と名付けむ我家前」。これは戦前からタイに在住し、泰国日本人会の「メナム句会」創設者の1人だった横田赤楊氏(1985年他界)の作品。和名「イカダカズラ」を使ってブーゲンビリアを詠み込んだ。ブーゲンビリアはタイ語で「空に向かって花を開く」を意味する「フアンファー」として親しまれているという。

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<北九州市立美術館> 「特集:浜田知明 戦争とその表象」展

2014年05月28日 | 美術

【「初年兵哀歌シリーズ」の版画や彫刻など53点】

 北九州市立美術館本館(戸畑区)でコレクション展「浜田知明 戦争とその表象」が開かれている。浜田知明(96歳)は戦後日本を代表する彫刻家・版画家。従軍体験を基に戦争の残酷さや不条理をえぐり出した版画『少年兵哀歌シリーズ』などで知られる。今展は浜田自身から昨年、彫刻20点の寄贈があったことを記念したもので、少年兵シリーズ15点をはじめ版画や彫刻合わせて53点が出品されている。7月6日まで。  

 浜田は1917年熊本県生まれ。東京美術学校(現東京芸大)油画科卒業後召集され、1939年から通算5年近く軍隊生活を余儀なくされた。その間「幾重に張廻らされた眼に見えぬ鉄格子の中で、来る日も来る日も太陽の昇らない毎日であった。僕は自殺のことのみ考えて生きていた」「戦争の体験によって人生観に於いても、作画する態度に於いても、僕はそれを切り離してものを考えることが能(で)きなくなってしまった」。

     

 初年兵シリーズの中の『歩哨』(写真㊧)は銃口を喉元に当て、今にも左足で引き金を引こうとするような構図。目からは1筋の涙。『便所の伝説』でも目から涙がこぼれる。自身の当時の暗澹(あんたん)たる思いを描いたものだろう。浜田は少年兵をしばしば芋虫としても表現した。『銃架のかげ』(㊥)もその1つ。数匹のうち1番手前の芋虫には何本ものピンが突き立つ。

       

 浜田は戦後1950年代を中心に戦争を主なテーマに多くの作品を生み出したが、その後、人間や社会を鋭く洞察して皮肉やユーモアを込めた作品にも取り組んだ。両手を頭に載せた作品『アレレ…』(上の写真㊧)や『いらいら(A)』(㊨)、『噂』『群盲』……。しかし、80年代以降に挑戦を始めた彫刻では再び戦争をテーマにした作品を制作している。

  

 彫刻『風景』(写真㊧、部分)は1995年の作品で縦88cm、横49.5cm。棺のような台に兵士の骸骨が横たわる。頭の上には墓標のように長い銃が立てられ、右目からは草木が生える。『檻』は救いを求めるように右手を鉄格子の間から突き出す。この作品は初年兵シリーズの版画『檻』の構図とほとんど同じ。彫刻でも兵士を芋虫に擬人化しており、『芋虫の兵隊(A)』(㊨)や『芋虫の兵隊(B)』などが出品されている。

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<オオキンケイギク(大金鶏菊)> 土手などの緑化用として推奨され各地で大繁殖

2014年05月27日 | 花の四季

【今では「特定外来生物」に指定、販売・栽培は規制され駆除の対象に】

 キク科ハルシャギク属の多年草。原産地は米国の中部~南東部のミシガンやフロリダ、ニューメキシコなどで、日本には1880年代に観賞用として持ち込まれた。5~7月ごろ、明るく色鮮やかな花を一斉につけて一面を黄色に染める。花の直径は5~7cmほど。花びらの縁にギザギザの切り込みが入り、一見、秋に咲くキバナコスモスに少し似ている。

 名前の由来は花びらの形を鶏の鶏冠(とさか)に見立て、キンケイギク(1年草)より一回り大きいことによるとも、金色に輝く花をキジ科のキンケイ(金鶏)にたとえたともいわれる。繁殖力旺盛で病虫害にも強い。このため戦後〝ワイルドフラワー〟として河川の土手などの緑化植物として注目を集め、全国各地で大量に種子が蒔かれた。緑化フェアなどの催しで種が配布されることもあった。同時に品種改良も進み、草丈が低い矮性種や八重咲き種など様々な園芸品種が作り出され、ポット苗としても販売されてきた。

 写真は滋賀県近江八幡市の長命寺川の土手を埋め尽くすオオキンケイギク。規制前に県が法面(のりめん)補強などのため種子を蒔いたという。今では川と並行する湖周道路(さざなみ街道)沿いにも約3キロにわたって黄花が咲き誇る。世界自然遺産に指定されている屋久島でも県道沿いに咲き乱れているという。ちなみに鹿児島県では特攻隊があった鹿屋基地周辺に多く群生していたため「特攻花」とも呼ばれてきたそうだ。

 緑化植物として推奨されてきたものの、8年前の2006年、外来生物法に基づき「特定外来生物」に追加指定されて、この植物を取り巻く環境は一変する。カワラナデシコなど在来の野草の生育場所を奪い、生態系を壊す恐れが強いというのがその理由。これを境に販売や栽培、移動が法律で規制され、違反した場合には罰則として懲役あるいは罰金刑が科せられることになった。日本生態学会もオオキンケイギクを「日本の侵略的外来種リスト100」に挙げている。

 これに伴って、全国の自治体は「庭に植えないで」「駆除は種子がつく前に根こそぎ引き抜いて枯れ死させ、燃えるゴミとして処理を」などと呼び掛けに躍起。ところが、オオキンケイギクは他の特定外来生物(アレチウリ、ボタンウキクサなど)と違って、明るく爽やかな花をお花畑のように一斉に咲かせる。このため晩春~初夏の草花として地域住民に親しまれてきた側面もある。自治体主導で花の盛りに駆除していると「なぜきれいな花を抜くのか」といった苦情が寄せられることもあるそうだ。

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<東近江大凧まつり> 100畳敷き大凧(重量700キロ)浮いた!揚がった!

2014年05月26日 | 祭り

【凧名人や愛好家の競演も、ミニ大凧コンテストには38チーム参加】

 巨大な凧揚げで有名な滋賀県の「東近江大凧まつり」が25日、東近江市ふれあい運動公園で開かれた。この日は100畳敷の大凧揚げをはじめ、ミニ大凧コンテスト、全国各地の凧揚げ名人や愛好者による凧揚げなど、まさに〝凧尽くし〟の1日。約4万2000人の観客が大空を舞う凧の競演を楽しんだ。

 

 東近江大凧は江戸中期、5月の節句に男子出生を祝って揚げられたのが始まり。その最大の特徴は目を瞠るほどの大きさ。最近では1984年に220畳敷きが揚げられた。大凧まつりでは毎年、縦13m横12mの100畳敷きが揚げられている。使用する材料は6寸竹約50本と手すきの特製美濃和紙360枚。重さは約700kgもある。1993年には「近江八日市の大凧揚げ習俗」として国の選択無形民俗文化財に選ばれた。

 東近江大凧のもう1つの特徴が「判じもん」。凧の上部に墨で鳥や魚を、下部に朱色で文字を描いて意味を持たせる。図柄は3年ごとに新調しており、今年はその1年目。新しい図柄は向き合った「燕(つばめ)」の下に「繋」という文字で、燕の音読み「えん」から「縁あって繋(つな)がる」という意味を持たせた。「ふれあい」をテーマに図案を公募し、25作品の中から選ばれた。

 

 大凧揚げは正午すぎに3回、午後2時すぎに3回行われた。「風の女神」の女性たち4人が赤い大うちわをあおいで風を送る中での挑戦だったが、1回目は少し浮いただけで「記録なし」。2回目は高さ30mまで揚がったものの、3回目はすぐに落ちて、観客からは「この(弱い)風じゃ、あかん」との声も。6回のうち最も高く揚がったのは4回目で飛揚時間1分ジャスト・高さ48mだった。2番目の好成績は5回目の45秒・40m。

 挑戦のたびに観客からは拍手が沸いたり溜め息が漏れたり。一般から募集した人を中心に100人余りが引き手に加わったが、観客側もつい力が入って「ああ疲れた」とつぶやく人も。過去には1~2時間も空を舞った年があったという。それでも会場が安全上の問題などで愛知川(えちがわ)河川敷から移ったばかりの昨年の記録を上回ったというから「よし」とすべきか。記録よりも6回も挑戦したことに、東近江大凧保存会の方々の誇りと伝統継承への強い決意を感じた。

 

 

 ミニ大凧コンテストには38チームが参加した。ミニといっても大半は2畳敷きの大きさで、高さは2mほどもある。図柄審査と2回の凧揚げ審査の結果、「能登川地区体育協会」が大賞を射止めた。この日は1都2府17県から59団体の凧揚げ名人や愛好家約200人も参加し、各地の郷土凧や自慢の凧を披露した。

 

 いくつもの凧が連なる連凧の中には105枚という、まさに天まで届くような長い凧もあった(上の写真)。〝パイロット〟と呼ぶ先端の凧がうまく揚がると、あとは次々に揚がっていくそうだ。凧糸を手に取ると、すごい張力。糸が切れることがないか聞くと、中に最強の繊維といわれるケプラー糸が入っているので絶対に切れないとのこと。この日はフランスやイギリスなど海外からも凧の研究者らが見物に訪れていた。

 

  

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<BOOK> 中公新書「スキマの植物図鑑」

2014年05月24日 | BOOK

【塚谷裕一著、中央公論新社発行】

 タイトルの「スキマ」は隙間。文字通り、アスファルトの割れ目や電柱の根元、石垣やブロック塀の小さな穴などを指す。本書は都会の真ん中でこういった隙間から顔を出して力強く生きる身近な植物たち約110種類を、春・初夏・夏・秋・冬と季節ごとにカラー写真で紹介。それぞれの植物の特徴や似た植物との見分け方などの解説も添えている。

    

 著者塚谷氏は1964年鎌倉市生まれで、現在、東京大学大学院教授。専門は植物学で、葉の発生を司る遺伝子経路の解明を主なテーマにしている。その傍ら、趣味として長年、スキマ植物の探索・撮影に取り組んできた。著書に『植物の<見かけ>はどう決まる』『植物のこころ』『変わる植物学 広がる植物学』など。

 スキマ植物から思い起こされるのが10年近く前、話題を集めた〝ど根性大根〟。アスファルトの隙間から生えた大根が大きく成長し、植物のど根性ブームの先駆けとなった。だが、著者は「つい何でも私たちヒトになぞらえて擬人化して見てしまう習性」に疑問を投げ掛けながら、こう指摘する。

 「一見、窮屈で居心地の悪い場所に思えるが、こうしたスキマは実は植物たちの『楽園』なのだ」「隙間に入り込むことに成功した瞬間、その植物はそのあたり一帯の陽光を独り占めできる利権を確保したことになる。これほど楽なことはない」「隙間に生えるということは、過酷な環境への忍耐などではなく、むしろ天国のような環境の独り占めなのだ」――。

 「隙間を好む花の代表」として本書で詳細に紹介しているのがスミレの仲間たち。タチツボスミレやヒゴスミレなど10種類を写真とともに取り上げている。タネに付着する「エライオソーム」という脂質分はアリの大好物。アリは巣に持ち帰って、その部分を餌にした後タネを放棄する結果、アリが掘った隙間の中から芽吹くというわけだ。カタバミやタツナミソウのタネも同様にアリによって運ばれる。

 日本在来のゲンノショウコに似た北米原産の帰化植物、アメリカフウロはなんと放置されたトラックの荷台の隙間から生えていた。実が熟してはじけたタネがたまたま荷台の上に着地したのだろう。民家の雨樋の水が流れ込む集水器からは青々とした立派なクロマツが生えていた。背後には大きな松の木。そこからタネがくるくる舞って雨樋に落ち、枯葉などがたまった集水器の所で芽を出したに違いない。

 他にコンクリートの割れ目やブロック塀、石積みの間などから顔を出すオダマキ、ノースポール、ユキヤナギ、ヒメヒオウギ、キンギョソウ、ヤグルマギク、ドクダミ、オオムラサキツユクサ、ペチュニア、ヒガンバナ、タマスダレなどの草花も紹介している。

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<キジムシロ(雉筵)> 放射状に広がる葉姿をキジが座る筵にたとえて

2014年05月23日 | 花の四季

【バラ科、日当たりのいい野原や土手などに広く分布】

 バラ科キジムシロ属の多年草。日当たりのいい山野や丘陵地などに自生する野草で、北海道から九州まで広く分布する。草丈は10~20cm程度と低く、茎を放射状に伸ばして葉が円座状に広がる。その姿をキジが座る筵(むしろ)にたとえて「キジムシロ」という名が付いた。

 花期は主に4~6月頃。茎の先に径1.5~2cmほどの黄色い5弁花を次々に付ける。葉は花が終わった後、大きく成長し広がる。キジムシロのように語尾に「ムシロ」と付く植物は筵を敷いたように一面に広がるものが多いという。キキョウ科のアゼムシロ(畔筵)は「ミゾカクシ」とも呼ばれ溝が隠れて見えなくなるほどに広がる。キジムシロは子どもたちから「ハトノオザシキ」「ハトノフトン」などとも呼ばれてきた。

 キジムシロ属は日本に約20種あり、その多くが黄色または白のかわいい5弁の小花を付ける。エチゴキジムシロは一回り大型で、北陸~東北の日本海側に分布する。キンロバイは中部以北の高山の岩場に自生。他にツルキンバイ、ミツバツチグリ、チシマキンバイ、ミヤマキンバイなど。以前ヘビイチゴ属に分類されていたヘビイチゴやヤブヘビイチゴもキジムシロ属に含まれている。

 その中でキジムシロの花に特によく似た花を付けて紛らわしいのがミツバツチグリとツルキンバイ。キジムシロの葉の付き方は「奇数羽状複葉」と呼ばれ、小葉の枚数が5~9枚で先端の3枚の葉が他より大きい。一方ミツバツチグリの小葉はその名の通り3枚。ツルキンバイは関東以西と分布域が限られ、葉の縁の鋸歯が粗く尖っているのが特徴。キジムシロは仲春の季語。「畦道を好き放題に雉筵」(高田正子)。

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<絹谷四郎・福川美佐男写真展> 半世紀前の奈良町を活写

2014年05月22日 | 美術

【「奈良を観る」シリーズ第1弾、モノクロ80点を展示】

 奈良市美術館(イトーヨーカドー奈良店5階)で「絹谷四郎・福川美佐男写真展~約半世紀前の奈良町」が開かれている。奈良の歴史や文化、芸術に焦点を当てて古都の魅力をアピールする「奈良を観る」シリーズの第1弾。昭和20~30年代の奈良町の風景や暮らしを、写真愛好家2人が撮ったモノクロ写真約80枚で紹介している。25日まで。 

 絹谷四郎氏(1923~90年)は奈良市生まれで、元林院町で老舗料亭「明秀館」を経営する傍ら、愛蔵のライカで多くの写真を撮った。『桜まつり』(昭和29年、写真㊧)は奈良にいた駐留軍がブラスバンド演奏する一コマ。桜まつりは昭和23年から34年まで行われた。『特車が来る!』(昭和33年)というタイトルの写真にはギョッとさせられた。特車とは戦車のこと。その特車がジープに先導されて、興福寺の五重塔と東金堂の前を横切る。あやめ池遊園地で開かれていた「平和のための防衛博」という催しに関連して特別公開されたという。

 

 『輪タク』(昭和29年頃、写真㊨)は三輪自転車にエンジンを付けたもので、客のほとんどが外国人だった。『もちいどの商店街』(同)は現在のようなアーケードはまだなく、すずらん灯と呼ばれる照明が並ぶ。終戦から9年。人通りも多く往時の活気が伝わってくる。『中日ドラゴンズのキャンプ』(同)は春日野グラウンドでの中日のキャンプの模様を撮った4枚写真。その中にはキャンプを訪れたNYヤンキースのジョー・ディマジオとパドレス監督のフランク・オドウールも写っていた。

 福川美佐男氏(1931年~)は大阪市生まれだが、幼少の頃、両親の故郷奈良に戻った。大和路の風景を定点観測する〝今昔写真〟をライフワークとして今も撮り続けている。『奈良市東寺林町』(昭和32年、写真㊧)は旧奈良市役所前から興福寺五重塔を望んだもの。和服に下駄姿の男性たちと、その後ろで元気に遊ぶ子どもたちの姿が印象的。『奈良市猿沢池畔、五十二段下』(同、写真㊨)は五重塔をバックに写真に収まる修学旅行生。当時、興福寺境内につながる〝五十二段〟は修学旅行の格好の撮影ポイントだったという。

    

  『捨て置かれた人力車』(昭和32年)は春日大社一の鳥居のそばに放置された人力車の前で、雄鹿2頭が角を突き合わせる構図。かつて隆盛を誇った人力車も戦後になると輪タクに押され乗り手が激減した。しかし、半世紀たって復活し、また観光客の人気を集めている。各写真の下には現在の様子と比較できるように、最新のカラー写真が添えられている。近代化し様相が一変した場所がある一方で、ほとんど変わらず昔の風情をそのまま残している町並みも多い。

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<キンギョソウ(金魚草)> 花姿をぷっくりとした金魚に見立てて

2014年05月21日 | 花の四季

【地中海沿岸地方原産、英名は「スナップドラゴン」】

 原産地は南ヨーロッパ~北アフリカの地中海沿岸地方。英国を中心に品種改良が繰り返され、様々な品種が生み出されてきた。春~初夏の花壇を華やかに彩り、切り花としても人気が高い。本来は茎が基部から木質化していく多年草だが、園芸上は1年草として扱われている。

 花は直径3~4cmほどの唇弁花で、上下の唇を大きく開けたような形。その花姿を尾ひれの長いぷっくりとした金魚に見立てた。花色は白、赤、黄、桃、橙、紫など豊富。直立した穂状の茎に下部から次々に花を付けていく。英名は「スナップドラゴン」。こちらは花の形を竜が口を開けた姿に見立てた。学名から「アンティリヌム」とも呼ばれる。

 草丈は20~30cmほどの矮性種から1m以上にもなる大型種まで幅広い。主な開花期は4~7月ごろ。秋蒔き春咲きが一般的だが、春に種を蒔くと8~9月ごろに咲く。春~初夏に咲いた後、草丈を3分の1ほどに切り戻しても秋に再び開花する。温室栽培や露地栽培の見ごろは1~4月と早い。露地栽培で有名なのが鹿児島県指宿市の長崎鼻近くにあるキンギョソウ畑だが、恒例の「お花狩りイベント」は今年も5月のゴールデンウイークで終了した。

 キンギョソウは愛知県弥富市の「市の花」。弥富は奈良の大和郡山と並ぶ金魚の一大産地として知られる。同じ地中海沿岸地方原産のリナリア(和名「紫海蘭」)はキンギョソウの花を一回り小さくしたような姿から「ヒメキンギョソウ」とも呼ばれる。いずれもオオバコ科の植物だが、キンギョソウがキンギョソウ属なのに対し、このヒメキンギョソウはウンラン属と異なる。「金魚草よその子すぐに育ちけり」(成瀬櫻桃子)。

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<瓦の来た道Ⅲ> 「中国・朝鮮、そして日本へ」瓦の歴史を辿る総集編

2014年05月20日 | 考古・歴史

【帝塚山大学付属博物館10周年記念特別展示】

 帝塚山大学(奈良市)の付属博物館で同大学創立50周年・付属博物館10周年記念の特別展示「瓦の来た道Ⅲ 中国・朝鮮、そして日本へ」が開かれている。昨年度から2回にわたって開いてきた「瓦の来た道」の総集編。同博物館が所有する膨大な古瓦コレクションから特徴的な50点を選んで展示している。31日まで。

   

 瓦は中国で3000年以上前に生産が始まり、日本には約1400年前、朝鮮半島を経由して伝えられた。今回の展示ではその歴史を振り返りながら瓦の変遷を辿っている。展示の内訳は中国10点、朝鮮半島11点、日本29点。その中で最も古いのは紀元前12世紀の中国・西周時代の平瓦。これに続いて戦国時代の半瓦当、「長生無極」の銘が入った漢の軒丸瓦、南朝時代の蓮華文や獣面文入り軒丸瓦、さらに龍の文様が入った清の黄釉瓦などが並ぶ。

 朝鮮半島で最初に瓦づくりが始まったのは前漢・武帝が漢四郡を設置した時期(紀元前108~107年)以降。その後、三国時代に高句麗、4世紀に入って百済、5世紀には新羅でも瓦づくりが始まった。日本での瓦づくりは588年、飛鳥寺建立のため百済から渡来した瓦博士の手によって始まった。そのため、日本の初期の瓦は百済の瓦と非常に似ている。ただ、620年ごろには新羅の影響も受け、蓮弁中央に凸線が入った瓦も出現した。

 

                     

 上段㊧は飛鳥時代の川原寺の瓦。子葉を2枚並べた複弁形で、同寺が建立された660年代以降、各地に広まった。同㊨は法隆寺の軒平瓦で、中心の飾りから唐草文を展開させている。694年に遷都した藤原宮は瓦を使用した最初の宮殿で、その文様は本薬師寺の瓦(下段㊧)を踏襲している。下段㊨は平城宮の瓦。藤原宮や大官大寺の意匠を基に創作され、その文様は奈良時代の瓦の基本形になった。

   

  東大寺の瓦(上㊧)の文様は京の西寺の瓦に見られるように平安時代にまで受け継がれた。上㊨は東大寺の鎌倉復興期に製作された軒平瓦で「東大寺大仏殿」の銘文が刻まれている。江戸復興期の瓦にも同様の銘文が入った。下㊧は安土桃山時代の軒丸瓦。豊臣家の家紋の桐文に金箔が貼り付けられている。江戸時代の軒桟瓦(下㊨)は丸瓦と平瓦を一体化したもので、1674年に西村半兵衛という人物が発明したという。その瓦は後の瓦葺き建物の普及に大きな役割を担った。

  

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<ムサシアブミ(武蔵鐙)> 仏炎苞を武蔵の国で作られたアブミになぞらえ

2014年05月19日 | 花の四季

【雌雄異株、方言では「くちなわびしゃく」「おしゃかのて」とも】

 サトイモ科テンナンショウ属の多年草で、関西以西の海に近い湿った林床や谷筋などに生える。日本以外では朝鮮半島、中国、台湾にも分布する。花期は3~5月ごろ。同じサトイモ科のミズバショウやザゼンソウ、ユキモチソウなどと同様、白い肉穂花序を包み込む〝仏炎苞〟を持つ。

 ただ、その仏炎苞が実に奇妙な形。白く垂直に立ち上がるミズバショウなどと違って、先端が手前に強く反り返る。外側は緑色で多くの白い筋が入り、内側は暗紫色で耳形に開く。その形が昔、武蔵の国で作られた馬具の鐙(あぶみ)に似ているとして「武蔵鐙」の名が付いた。鐙は馬の騎乗時に足を乗せるもので、武蔵の国のものが最高級とされた。『伊勢物語』第13段に「武蔵鐙」として登場することから、平安初期には広く知れ渡っていたとみられる。

 ムサシアブミはその特異な形から地方の方言では「くちなわびしゃく」「へびのしゃくし」「おしゃかのて」などとも呼ばれてきた。名前に「武蔵」と入るが、今の関東地方にはほとんど自生しないという。『原色日本野外植物図譜』には「関東地方(群馬)に産するとして報告されたものはその後、観賞のため移植されたものが繁殖し野性化したもの」などと記されている。

 雌雄異株。栄養状態が良くて地中の球根が大きくなると雄株から雌株に転換する。この性転換という変わった性質は同じ仲間のミツバテンナンショウなどテンナンショウ属の植物に共通するもの。球根が大型になり雌花を付けるようになっても、球根を切って小型にするとまた雄花を付けるようになるそうだ。ある植物の事典には球根の重さで「20g前後」が雌雄の境界とあった。

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<今井町並み散歩㊦> 順明寺で87歳・中井良雄さんの個展開催中

2014年05月18日 | 美術

【今井町の古民家や自画像など16点】

 順明寺で開催中の「中井良雄個展」(17~18日)をのぞいてみた。油彩と水彩合わせて16点で、自画像1点のほかは全て今井町の町並み。『重文上田家』(写真㊨、部分)は重厚な屋根瓦が長い歴史を物語る。瓦1つ1つの描写が実に繊細で味わい深い。「本葺きの屋根瓦に惹かれます。その時々の光の加減で様々に輝いて見えますから」と中井さん。『山門の桜』は今回の個展会場でもある順明寺の春の盛りを描いたもので、10年前に同寺に寄進した作品。他に『東蘇武より順明寺』(下の写真㊧)『床屋のある家並み』(写真㊨)などが出品されている。

 

 中井さんは地元の今井町生まれで87歳。戦後、小学校教員を務める傍ら、武蔵野美術学校(現武蔵野美術大学)の通信教育で絵画を学んだ。その後は独学で各地の古民家を描いてきた。今は自宅で「かしはら画塾」を開いており、創造美術協会常任委員、橿原市文化協会専任委員なども務める。

 

 「古民家も1軒だけでは存在しない。町並みの中に和して隣近所と仲良く存在している。その佇まいが好きで長年描き続けてきた」。中井さんの絵に温かみを感じるのはそんな思いが凝縮されているからだろう。これまでに奈良、大阪など近畿各地のほか、うだつのある町並みとして有名な徳島県脇町や岐阜県美濃市などにも足を運んだ。

 遠方の場合、気候のいい春か秋に車で出かけ、初日に4~5カ所の家並みを選んでそれぞれ約2時間ずつかけて写生。そして、翌日また同じ時間帯に同じ場所で描き、3日目もその繰り返しでほぼ完成させる。その間は車中泊。後は自宅に戻ってから最終的に仕上げるという。

 

 これまでに描いた作品は油絵を中心に500点ほどに上る。そのうち150点を選んで昨年秋、DVD「米寿記念画集―今井町と畿内外の古い家並み」(1000円)を制作した。別に7枚セットの「今井 油彩原画」第1集、第2集(いずれも500円)も作っている。ベレー帽を被った中井さんは柔和な表情で来場者1人1人に応対。帰りに署名した人たちには礼状と作品2点を印刷した絵葉書入りの封筒を渡していた。上の写真2枚はその絵葉書で、左は「駒ケ谷月読橋(羽曳野市)」、右は「新緑の頃・竹内街道(太子町)」。

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<今井町並み散歩㊤> 重文の民家・伝統的建造物を無料公開!

2014年05月18日 | 祭り

【18日には「茶行列」や「今井六斎市」なども】

 かつて「大和の金は今井に七分」「海の堺、陸の今井」といわれるほど栄えた今井町(奈良県橿原市)。往時のまま約500軒の町家が整然と連なる町並みは国指定の重要伝統的建造物群保存地区の中でも全国最大規模。その今井町で「町並みはみんなのもの」をテーマにした催事「今井町並み散歩」が開かれている。17~18日には重要文化財に指定された町家を無料公開、18日には今井町ゆかりの茶人今井宗久にちなむ「茶行列」や昔、月6回開かれていた市を再現した「今井六斎市」などが開かれる。

 

 これを機に17日、久しぶりに今井町を訪ね3時間余り散策した。西端にある今西家住宅は惣年寄の筆頭を務めていた家柄で、1650年に建てられた建物は城郭のような重厚な構造。その規模もさることながら、土間の前の出入り口に設けられた板戸が目を引いた。黒光りした板戸に光が当たると松竹梅の絵模様が浮かび上がった(上の写真㊨)。ボランティアガイドの方によると「もともとは天然色でしたが、長年、かまどの煙でいぶされるうちに真っ黒になったようです」とのこと。(上の写真㊨は今井町の町並み、右手の建物は上田家住宅)

 

 上田家住宅は1744年ごろの建築。優美な衝立が室内を飾り立て、柱の上の桁には赤いヘルメットのようなものがずらり。さらにその奥には寺院の釣り鐘のようなものまであった(上の写真㊧)。はてな? 担当者に問うと、上田家は今西家とともに惣年寄を務め、消防団の取りまとめ役も果たしていたという。納得! ヘルメットは火消しが被るもの、鐘は叩いて火事を知らせるためのものだった。

 豊田家住宅は1662年の建築。今井宗久ゆかりの茶室跡が残る。室内では18日の催事「筝のしらべ」を控えて、女の子5人が琴の練習に励んでいた。細田家では今井町の古地図を展示中。順明寺境内では地域の特産販売やそば打ちの実演などの「今井町衆市」が開かれていた(写真㊨)。また町内では「町かどアート」と称して20カ所を超える会場で様々な展示会も開かれている。

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<シラユキゲシ(白雪芥子)> 4弁の白花はケシに似て清楚だけど…

2014年05月17日 | 花の四季

【中国名「血水草」、茎を折るとオレンジ色の液がたら~り】

 中国東南部原産の多年草。ケシ科イオメコン属(シラユキゲシ属)の植物だが、この属はシラユキゲシ1種のみからなる。属名イオメコンの語源はギリシャ語で「東方」と「ケシ」から。山地の林床や林縁の湿った半日陰を好む。花期は4~6月。高さ20~40cmの茎の先に、ケシに似た直径3~5cmの白い4弁花を数輪つける。葉はハート形でフキに似る。

 英名は「スノーポピー」。和名、英名ともロマンチックだが、中国では「血水草」と呼ばれる。茎を折るとオレンジ色の樹液が出ることに由来するという。そこで茎を1本失敬して折ってみると、実際に橙色の液がたら~りと出てきた。根茎を生薬で「黄水芋(おうすいう)」、葉や茎を干したものを「黄水草」と呼び、解毒、消炎、打撲、皮膚病などに用いられる。。

 シラユキゲシは繁殖力が旺盛で、地下茎を四方に伸ばして生息地域を広げていく。神奈川県川崎市の「生田緑地」では2004~05年に数輪咲いていたにすぎなかったが、06年には数カ所で群落ができていた。このため、特定非営利活動法人「かわさき自然調査団」は生態系を壊す恐れがあるとして、以来毎年、駆除活動に取り組んでいる。

 群馬県桐生市でも2009年、スギ植林地の林道のそばで7m×4mの群落が発見された。県内では初めて。翌10年の群馬県立自然史博物館研究報告「短報」は「花が美しいシラユキゲシをスギ植生地の林床に意図的に植えたか、または自宅で増殖した株を何らかの理由で遺棄したと考えられる」と推測している。シラユキゲシに罪はない。だが、将来「特定外来生物」や「要注意外来生物」に指定されるかもしれない。

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<後藤正治氏> 「『奇蹟の画家』をめぐって―神戸の画家、石井一男さんの世界」

2014年05月16日 | メモ

【大阪自由大学で講演、「女神像は自画像ではないだろうか」】

 イコン(聖画)のような女神像を黙々と描き続ける神戸市在住の画家・石井一男さん(1943年生まれ)。その彼の半生と絵に魅せられた人々を追って『奇蹟の画家』(2009年、講談社)を書いたノンフィクション作家、後藤正治氏の講演会が15日、大阪市内で開かれた。大阪自由大学の連続講座「挑戦する表現者たち」の一環で、講演タイトルは「『奇蹟の画家』をめぐって―神戸の画家、石井一男さんの世界」。

   

 石井さんは約20年前、神戸市の画廊オーナーに見出されて49歳のとき初の個展を開催。最近では個展初日に完売するほどの人気を集めている。独身。アトリエを兼ねた木造長屋の2間の自宅で日々制作に励む。その姿や清貧の暮らしぶりが2010年1月「情熱大陸」というテレビ番組でも取り上げられた。

 講演の中でもその番組の模様が放映された。石井さんは寡黙で柔和な表情。石井さんを取材していて後藤氏が「一番困ったのはシャイで無口なこと。取材ノートが全然埋まらなかった」という。「だけど石井さんと接した後の帰り道ではいつも心地よさを感じた」。後藤氏は石井さんを描く手法の1つとして、絵に魅せられ購入した人たちを訪ね歩いた。

 その中で特に印象に残った人が2人いた。1人はターミナルケア(終末期医療)の末2007年に亡くなった元N新聞社勤務のKさん。家族の写真とともに石井さんの絵をベッドから見える位置に架け、その女神像に見守られるように穏やかに亡くなったという。もう1人は神戸市の公務員Nさん。急性骨髄性白血病の治療のため無菌室に入るとき、やはり石井さんの絵を持っていった。

 後藤氏自身も石井さんの作品を2点所有する。「彼の絵を見ていると祈りや慈悲といった言葉が浮かぶ。だが、石井さんは『人を救おうとして絵を描いているわけではないし、ただ思うがままに手を動かしてきただけ』という言い方しかしない」。後藤氏は石井さんが描き続ける女神像について最近「自画像ではないかと思い始めている」そうだ。「文は人なりというが絵も人なり。彼自身の現在が表現されているのではないだろうか」。

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