く~にゃん雑記帳

音楽やスポーツの感動、愉快なお話などを綴ります。旅や花の写真、お祭り、ピーターラビットの「く~にゃん物語」などもあるよ。

<BOOK> 「日本の軍歌 国民的音楽の歴史」

2014年10月31日 | BOOK

【辻田真佐憲著、幻冬舎発行】

 略歴によると、著者辻田氏は1984年大阪府生まれ。ということは今年で30歳。その若さにして軍歌という組み合わせが目を引いた。軍歌の研究に〝開眼〟したのは中学生の頃という。世界中の軍歌の収集を始め、大学在学中にウェブサイト「西洋軍歌蒐集館」を開設した。「軍歌を中心とした世界のプロパガンダ」を研究テーマに掲げる。著書に「世界軍歌全集 歌詞で読むナショナリズムとイデオロギーの時代」など。

    

 「軍歌の誕生」「軍歌の普及」「越境する軍歌」など7章で構成する。著者は『軍歌』(後に『皇国の守』『来れや来れ』に改題)という軍歌が作られた1885年(明治18年)を軍歌元年とし、その後の日清・日露戦争の時期を第1次軍歌ブーム、満州事変から太平洋戦争を第2次軍歌ブームと呼ぶ。日清戦争の開戦からわずか2年間に1300曲以上が作られ、終戦までの60年間では「1万曲を下らないだろう」と推測する。

 軍歌作りには音楽家のほか詩人や文学者など多くの知識人が動員された。佐佐木信綱は『凱旋』を手始めに「日清戦争から太平洋戦争まで軍歌を作り続けたほとんど唯一の歌人」。森鴎外は『第二軍』、土井晩翠は『征夷歌』を作詞し、夏目漱石も『従軍行』という〝戦争詩〟を残した。夭折の天才作曲家・滝廉太郎も『我が神州』を作った。著者は「もし滝が長生きしていれば、山田耕筰のように軍歌を多く手がけ、戦争責任を追及されていたことは想像に難くない」という。

 新聞社や放送局、出版社などによる〝懸賞募集軍歌〟も多く生まれた。「勝って来るぞと勇ましく」で始まる『露営の歌』もその1つ。毎日新聞が募集し約2万5000篇の中から選ばれた歌詞に古関裕而がメロディーを付けた。選者は菊池寛、北原白秋ら3人だった。朝日新聞の募集からは『父よあなたは強かった』、読売新聞からは『空の勇士』などが生まれた。

 メディア間の競争で懸賞金が高騰した結果、いずれも応募が殺到した。講談社が募集した『出征兵士を送る歌』(林伊佐緒作曲)の応募は13万篇近くに達したという。終戦間近の1945年夏になっても、全国の新聞などが共同で本土決戦に向けた『国民の軍歌』を募集した。その締め切り日は奇しくも8月15日。過酷な状況にもかかわらず、応募は約1万5000篇に達した。

 著者は軍歌を「官民挙げての国民的なエンターテインメント」と位置づける。「軍歌の作り手たちは戦争を主導した『戦犯』でもなければ『民族精神』の祭司でもない。彼らの作った軍歌は何よりも『娯楽』であり『商品』であり、様々な利害関係の中から生まれてきたものだった」「当時も今も、老若男女、貴賎を問わずに消費されるこのような娯楽を他に見いだすことは難しい。その意味で軍歌は、日本史上最大のエンタメだったとさえいえるのではないだろうか」。

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<平城宮跡資料館> 「地下の正倉院展 木簡を科学する」

2014年10月30日 | 考古・歴史

【木簡の樹種①位ヒノキ②位スギ、極めて少ない広葉樹】

 奈良国立博物館で秋の風物詩「正倉院展」が開かれる中、奈良文化財研究所の平城宮跡資料館でも〝もうひとつの正倉院展〟が開かれている。今年で8回目となる「地下の正倉院展」(11月30日まで)。今回は「木簡を科学する」をテーマに、平城宮・平城京跡から大量に出土した木簡を科学的な視点から取り上げている。木簡にはどんな樹種が使われ、どんな木取りがされ、どんな方法で保存されているか――。

 

 展示中の木簡は保存に万全を期すため、会期を3期に分け2週間ごとに展示替えする。木簡に使われている樹種で最も多いのは材質が緻密できめ細かいヒノキ、次いでスギ。ヒノキ科のヒノキとサワラは肉眼での識別が難しいが、生物顕微鏡による分析でこれまでヒノキ材とみられていた木簡の中にサワラ材が一部含まれていることが分かった。スギ材は日本海側からの荷札の木簡に多い。

  

(写真㊧広葉樹の木簡=部分=筑後国から送られてきたアユ加工品の荷札、写真㊨水溶液の中で保管されている木簡=部分=東方官衙大土坑から出土)

 一方、広葉樹の木簡は極めて少ない。ただ、大宰府が管轄していた西海道(さいかいどう=九州)地域からの荷札には広葉樹が多くみられる。なぜ広葉樹が選ばれたかははっきりしない。広葉樹の木簡は珍しいため、現在展示中の「肥前国から納められた真綿の荷札」は重要文化財に指定されている。第3期に展示予定の筑前国からの真綿の荷札も重要文化財。広葉樹は本来木質が堅いが、土中では脆くなりやすいため、保存処理の際には注意を要するという。

 出土直後の木簡は細胞内に水分をたっぷり含む。その状態を保つため調査・研究前の木簡はホウ酸とホウ砂を溶かした水溶液に漬けた状態で保管する。展示物の中にも水漬け状態の木簡があった。保存処理は大別して、水を別の物質に置き換え木の強化を図る工程と乾燥工程から成る。奈文研では強化剤としてポリエチレングリコールや高級アルコールを使う。

 

(写真㊧高級アルコール含浸法と真空凍結乾燥法の併用で保存処理された木簡=部分=長屋王家木簡、写真㊨柾目材の木簡=部分=上部にひげを生やした人物の顔が描かれている)

 乾燥には特殊方法として真空凍結乾燥法(FD)がある。カップ麺などを製造する際に採用されている方法と同じ。この乾燥法を施すと木肌が白みがかる。一方、高級アルコール含浸法で保存処理されたものは木本来の色味に近い風合いに仕上がるが、木質が硬くなる傾向がある。この2つの方法を併用すると変形のリスクが低くなる。このため、変形しやすい柾目材の木簡や傷みが激しい木簡に採用されることが多い。

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<大和文華館> 特別展「酒井抱一 江戸情緒の精華」後期入り

2014年10月29日 | 美術

【新たに「紅白梅図屏風」や「燕子花図屏風」など】

 大和文華館(奈良市学園南)で開催中の特別展「酒井抱一 江戸情緒の精華」は一部展示替えを行い、28日から後期入りした。新たに「紅白梅図屏風」や「燕子花(かきつばた)図屏風」など私淑した尾形光琳の画題・画風に倣った作品のほか、「瓜ばった図」「鬼図」「五節句図」(重要美術品)など20点余がお目見え、酒井の幅広い画業を紹介する。11月16日まで。

      

 「紅白梅図屏風」(六曲一双、上の作品=いずれも部分)は右隻の白梅と左隻の紅梅がそれぞれ中央に向かって枝を伸ばす構図。幹には所々、緑色のコケが生える。絹地を生かした精緻な幹の質感に目が釘付けに。「紅梅図」は梅の老木を墨と淡彩で描いた作品。左下に添えられた漢詩は酒井が身請けした遊女の筆という。酒井は吉原の妓楼・大文字屋の主人と親交があった。会場入り口正面にはその主人のために制作した文机「雪月花扇面賛文台」も展示されている。

      

 「十二ケ月花鳥図屏風」は前期の右隻に代わり左隻の第1~第3扇(上の作品)が登場。酒井は十二カ月花鳥図を得意とし、この屏風以外にも12図そろったものが5組現存。その多くは掛軸に仕立てられているが、もとは展示作品同様、押絵貼(おしえばり)屏風だったとみられる。この作品の隣には桜の花と瑠璃鳥が描かれた「桜に小禽」と柿の木にメジロが止まる「柿に小禽」の掛軸が展示されている。この2枚の題材も十二カ月花鳥図で3月と10月の組み合わせとして好まれたことから、もとは12図あったうちの2枚とみられる

 「燕子花図屏風」(二曲一隻)は光琳が得意としたカキツバタを題材としたもの。「C」の形に咲き誇る無数の群青色の花を配置し、その中に3輪の白花を置く。中央右手の葉先には1匹のハグロトンボ。「瓜ばった図」は姫路藩主を継いだ兄、忠以(ただざね)との合作。ウリの上に1匹のバッタが乗った構図で、兄が賛として「夏たけてあきに鳴子の市人は ばったばったとやすうりをする」という狂歌を添えている。抱一は様々な号を使ったが、この作品には「尻焼猿人(しりやけのさるんど)」と署名している。

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<カシワバハグマ(柏葉白熊)> 葉が柏の葉に、花が仏具の払子に似ることから

2014年10月28日 | 花の四季

【日本固有種、キク科コウヤボウキ属】

 本州、四国、九州の山林内や林縁に生えるキク科コウヤボウキ属の多年草。高さ30~70cmの直立した茎の上部に細長い糸状の筒状花を付ける。遠目にはあまり目立たないが、近づいてみると放射状にパッと上向きに広がる花姿はなかなか個性的。花期は9~11月ごろ。

 「カシワバハグマ」の名は葉の形がカシワ(柏)に似て、花は仏具の払子(ほっす)に使われるハグマに似ていることから。払子はクマやヤクの獣毛や麻の繊維などを束ねて柄を付けたもの。はたきのような形で、僧侶が法要などで威儀を示すため手に持って中空を左右に払う。

 属名になっている「コウヤボウキ」もカシワバハグマに似た白い花を付ける。キク科のほとんどは草本だが、この植物は落葉小低木。細い枝がしなやかで丈夫なことから、高野山では枝を束ねて箒(ほうき)を作ったという。「高野箒」の名前もそこから。

 カシワバハグマの変種の1つ「ツクシ(筑紫)カシワバハグマ」は九州地方に分布し、カシワバハグマにはない花柄があるのが特徴。他に8枚の葉が車状に広がる「クルマバ(車葉)ハグマ」、関東・東北地方に分布する葉先が尖った「オヤリ(御槍)ハグマ」など。カシワバハグマは鹿児島、山口、兵庫、和歌山など8県で絶滅危惧または準絶滅危惧種としてレッドデータブックに掲載されている。ツクシカシワバハグマも大分と鹿児島の2県で準絶滅危惧種。

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<アンビリバボー> 桜実神社(宇陀市)の「八ツ房杉」 巨大!奇態! 

2014年10月27日 | アンビリバボー

【国指定の天然記念物、神武天皇お手植えの伝承も】

 杉といえば天に向かって直立するものとばかり思っていた。だが、この異様な樹形の杉によって、そんなイメージが打ち砕かれた。奈良県宇陀市菟田野佐倉の桜実(さくらみ)神社境内にある「八ツ房杉」。1カ所から何本もの太い幹が斜めに伸びて絡まりあう。中にはまるで大蛇のように地を這う幹もあった。

 八ツ房杉は国の天然記念物に指定されている。伝承によると、神武天皇が大和平定のため近くの「菟田の高城(うだのたかぎ)」に陣を張った際に植えたという。日本最初の城として古事記などにも登場する高城は桜実神社に向かう途中の丘陵にある。伝承を信じるとしたら、この杉の樹齢は一体どのくらいになるのだろうか。1800年? 2600年?

 

 案内板によると、大きさは「樹高14m、樹幹周囲9m」。八ツ房杉の由来は「八つの幹が巨大な株状を成す」ことからという。下から見上げた後、石垣の横から上って裏手に回った。四方に伸びる太い根元を目の前にして、その巨大さを改めて実感。木肌は赤く、コケむしていた。太い幹には倒れないようにワイヤーが張られ、はしご状の支柱も。八ツ房杉とその周囲には力強い生命力が漲っていた。

  

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<上野天神祭> 秋晴れの下、絢爛豪華なだんじりの巡行と鬼の行列

2014年10月25日 | 祭り

【24日「足揃の儀」と宵宮、今日25日に本祭】

 国指定の重要無形民俗文化財「上野天神祭」が三重県伊賀市の中心市街地で繰り広げられている。上野天神宮(菅原神社)の秋祭りで、約400年の伝統を誇る。本祭前日の24日には「足揃(あしぞろえ)の儀」と宵山・宵宮祭が行われた。絢爛豪華なだんじり(楼車)9基がそれぞれの町内を巡行し、名物の「鬼行列」は大勢の見物人が沿道を埋める中、約2時間にわたって行われ、大人や幼児の泣き笑いを誘った。

 

 天神祭は昨年、台風のため中止になったため今年は2年ぶりの開催。だんじりは京都・祇園祭の山鉾に似た造りで、華麗な懸装品で飾られ、「其神山・葵鉾」や「薙刀鉾」のだんじりは高い鉾が屋根の上を飾る。お囃子も大半のだんじりが鉦・笛・太鼓の祇園囃子(「桐本」だけは三味線囃子)。だんじりの上で着物姿の女の子たちが「ソーレ」といった掛け声とともに鉦をたたく姿も見られた。

 

 鬼行列は午後2時から三之町筋で行われた。先導するのは高さ5m、重さ120㎏といわれる国内最大級の大御幣。太い荒縄を腰に巻いた若衆5人で支える。大御幣は五大力明王を表したものという。低い電線をくぐるのにも一苦労だが、それも見せ場のひとつ。その後ろに様々な表情の能面を付けた悪鬼や小鬼、役行者、山伏、太鼓打ちなどが続く。中には釣鐘を背負ったユーモラスな鬼や、鬼を退治し凱旋する鎮西八郎為朝に扮した武将の姿も。

 

 

 怖い形相の鬼たちが近づいてくると、沿道のあちこちから幼児の泣き叫ぶ声が響いた。「こわ~い」と母親の後ろに隠れる子、泣きながら必死に「バイバイ」と手を振る子、その姿を見て大笑いする大人たち……。これじゃ、ちびっ子たちが夢に見たりトラウマになったりするのでは、と心配になってくるほど。だが「泣き相撲」と同じで、子どもが大泣きするほど病気せずに健康に育つといわれているそうだ。

 

  

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<ハゲイトウ(葉鶏頭)> ヒユ科の観葉植物 「ガンライコウ(雁来紅)」とも

2014年10月24日 | 花の四季

【ケイトウは同科別属の植物、古名「カマツカ」?】

 原産地はインドなど熱帯アジア。ヒユ科ヒユ属(アマランサス属)の春まき1年草で、緑色の葉が夏以降次第に色づき、秋になると鮮やかな赤や黄に染まる。ケイトウが花を観賞するのに対し、ハゲイトウは葉を観賞するため、その名がある。ただしケイトウは同じヒユ科でもケイトウ属で別属の植物。属名アマランサスは「萎れない」「色が褪せない」を意味するギリシャ語を語源としており、葉物だけに観賞期間は長い。

 中国名から「ガンライコウ(雁来紅)」とも呼ばれる。雁が北の国から渡ってくる頃に葉が色づいてくることによる。「カマツカ」という古名も。その語源には諸説あり、「雁を待ち紅く染まる」が縮まったとも。清少納言の枕草子には「かまつかの花」として登場し「雁の来る花とぞ文字には書きたる」と記されている。ただ、その「かまつかの花」にもツユクサなど別の植物とする説がある。

 また植物名で現在「カマツカ」というと、各地の山野に自生するバラ科の落葉樹を指す。漢字で書くと「鎌柄」。材が堅く折れにくいことから鎌の柄などによく使われたことに由来するという。このカマツカは春に白く小さな5弁花をたくさん付ける。だが、俳句や短歌の世界ではハゲイトウを指すカマツカが今も秋の季語として詠まれているようだ。

 ハゲイトウの1種「ニシキバ(錦葉)ケイトウ」は葉色が赤、黄、紫とカラフルなのが特徴。「ヤナギバ(柳葉)ケイトウ」は葉が細長く波を打つ。別名「ホソバ(細葉)ケイトウ」。「ヒモ(紐)ゲイトウ」は真っ赤な花穂が紐状に垂れ下がる。種子は雑穀アマランサスとして食用に。「かくれ住む門に目立つや葉鶏頭」(永井荷風)。

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<大和文華館> 特別展「酒井抱一 江戸情緒の精華」

2014年10月23日 | 美術

【江戸琳派の祖、重文「夏秋草図屏風」など代表作一堂に】

 大和文華館(奈良市)で江戸時代後期の絵師、酒井抱一(1761~1828)の作品を一堂に集めた特別展「酒井抱一 江戸情緒の精華」(11月16日まで)が開かれている。姫路藩主酒井雅楽頭(うたのかみ)家に生まれた抱一は絵画をはじめ書、俳諧、能、茶の湯など多彩な教養を身に付けた。同展には幅広い画業を示すように、浮世絵美人画や華やかな金屏風、繊細な銀屏風、自作の句を添えた水墨、流麗な書などが出展されている。

   

 酒井抱一は江戸琳派の祖ともいわれる。尾形光琳(1658~1716)に私淑し、光琳百回忌に遺墨展を開くなど顕彰活動に力を注いだ。同展にも光琳の「波涛図屏風」を写した作品や百回忌に合わせ光琳の菩提寺、京都・妙顕寺に奉納した「観世音図」などが出品されている。六曲一双の「四季花鳥図屏風」は金地濃彩を用いて四季の花と鳥を鮮やかに描いた大作。琳派の華やかで装飾的な画風があふれる。

 「夏秋草図屏風」二曲一双(重要文化財、上の作品)は光琳筆の「風神雷神図屏風」の裏面に描かれていたもの(現在は別々に表装)。銀地に雨に打たれる夏草と風になびく秋草を描いたもので「風雨草花図」とも呼ばれる。広い余白と動きに富む草花が特徴で、華やかさはやや影を潜め繊細で叙情的な雰囲気が支配する。作品の依頼主は11代将軍徳川家斉の父、一橋治済という。「兎に秋草図襖」は秋草を墨や深緑色で描き、斜めに走る板地の木目で吹き付ける風を表す。こちらも一瞬の動きをとらえた描写で空白を生かした渋い作品。

 「四季花鳥図巻」(上の作品)は抱一の花鳥図の代表作の1つ。上下2巻合わせて長さが7mを超える巻物で、そのうち秋冬の花・鳥・虫を描いた下巻が展示されている。下巻は月にかかる萩と鈴虫、松虫から始まる。他の作品に「十二ケ月花鳥図屏風」「糸桜図」「桜に小禽図」「朝顔図」など。これらの作品に描かれた小枝や蔓(つる)の伸びやかで繊細な描写にも目を奪われた。(前後期で一部展示替え、前期は26日まで、後期は28日から) 

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<ミズヒキ(水引)> 花穂を祝儀袋を飾る紅白の水引にたとえ

2014年10月22日 | 花の四季

【野趣に富み茶花にも、果実は〝ひっつき虫〟】

 タデ科の多年草。日本各地の山野で夏から晩秋にかけて、ごく普通に目にすることができる。細長い花穂に径3~4ミリの小さな花を付ける。花といっても花弁はなく、花びらのように見えるのは4枚の萼(がく)片。上半分は赤く、下半分は白い。「ミズヒキ」の名もその花穂の姿を祝儀袋などの水引に見立てて。

 渋く野趣に富む佇まいで、名前も縁起がいいとあって、江戸時代から茶花として好まれてきた。庭の片隅に植えられ、生け花にもよく使われる。仲間に紅白交じりの花を付ける「ゴショ(御所)ミズヒキ」、白花種の「ギン(銀)ミズヒキ」、葉に白や黄の模様が入る「フイリ(斑入り)ミズヒキ」などがある。

 別名「ミズヒキグサ(水引草)」。地方によっては花姿から「アカゴ」や「アカマンマ」「センコウハナビ」「ミズクサ」「ヤマタデ」「スジコバナ」などとも呼ばれる。花柱の先端は鉤形に曲がり、花後の果実にもそのまま残る。いわゆる〝ひっつき虫〟の1種で、その鉤でそばを通りかかった動物の毛や人の衣服に付着する。

 全国各地で見られる野草だが、南国では野生種の減少が目立つ。沖縄県はごく近い将来に絶滅の危険性が極めて高いとして絶滅危惧ⅠA類に指定、鹿児島県でも準絶滅危惧種になっている。ミズヒキは秋の季語。「水引草はびこり母をよろこばす」(山田みづえ)、「水引の耳掻きほどの花弁かな」(大橋敦子)。

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<BOOK> 「反骨の棋譜 坂田三吉」

2014年10月21日 | BOOK

【大山勝男著、現代書館発行】

 著者大山氏は1953年神戸市生まれ。夕刊紙、地方紙を経て現在『週刊大阪日日新聞』記者。ノンフィクションライターとしても活躍しており、著書に『あるシマンチュウの肖像―奄美から神戸へ、そして阪神大震災』『愛しのきょら島よ―悲劇の北緯29度線』などがある。

   

 大阪が生んだ希代の棋士、坂田三吉(1870~1946)の一代記。「中世の自由都市・堺の出身」「千日手で開眼」「関西から関東へ」など8章で構成し、別稿で坂田三吉の「一人語り」を演じている評論家・木津川計のインタビュー記事や坂田の年譜などを添えている。

 坂田には「無学で風変わりで粗野な人物」というイメージがつきまとう。没後、坂田の生涯が舞台や映画、テレビドラマなどとして取り上げられ、村田英雄の『王将』(西条八十作詞、船村徹作曲)は300万枚を超える大ヒットとなった。こうした中で脚色された〝奇人・坂田〟のイメージが作られてきた。

 事実、坂田は貧困のため教育をろくに受けられず、生涯に覚えた漢字は「三」「吉」「馬」の3字だったともいわれる。だが、坂田の実像は謙虚かつ礼儀正しい人物だった。本書も歪曲化されたイメージを正そうと、生前の坂田を知る人のコメントなどに多くの紙幅を割く。「非常に律儀で、とにかく『真っ直ぐ』な心情だ」(故大山康晴15世名人)、「決して奇行でもなければ、変人でもない。将棋の奇手は坂田独特の作戦なのだ」(故星田啓三8段)……。

 坂田が生涯のライバルとなる関根金次郎と初手合わせしたのは24歳のとき。以来、息詰まる対局が続く。36歳のときには「千日手」で敗れる。千日手は双方で同じ指し方が繰り返され局面が進展しない状態を指す。決死の覚悟で初めて上京したのは43歳のとき。「明日は東京に出ていくからは/なにがなんでも勝たねばならぬ……」(演歌『王将』)。

 関根はその後、13世名人となる。生涯の2人の対局は坂田の16勝15敗1分だった。関根は昭和21年7月に死去、坂田もその5カ月後の12月、後を追うように亡くなる。関根享年79、坂田享年77だった。坂田の死亡記事の扱いは小さく、たった10行で写真も掲載されなかったという。日本将棋連盟は昭和30年、坂田に「名人位」「王将位」を追贈した。

 著者は坂田を〝盤上の哲学者〟と形容する。読み終え、最後に「あとがき」を開いて驚いた。その書き出しに「将棋については門外漢の私が……」とあったからだ。本書は昔から将棋を指す著者の趣味が高じて結実した作品と思い込んでいた。だから、最後に「門外漢」と知って仰天してしまった次第。差別問題をテーマの1つに掲げる著者らしい作品といえよう。

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<奈良カエデの郷「ひらら」> 約1200種3000本、紅葉の季節到来!

2014年10月20日 | 花の四季

【開園から1年半、26日に手づくり市など多彩なイベント】

 昨年4月に開園した「奈良カエデの郷・ひらら」(宇陀市菟田野古市場)のカエデが赤や黄に染まり始めた。園内には内外のカエデ約1200種・3000本が植樹されており、廃校になった小学校の木造校舎を背景に色とりどりのカエデを楽しむことができる。紅葉の見頃は今月下旬~来月下旬。1週間後の26日(日)には手づくり市や野外コンサート、地元野菜や果実の直売などが予定されている。

 

 カエデの郷の開設は旧菟田野町が2005年、カエデ研究家・写真家の矢野正善氏からカエデの木々を蔵書約1万冊とともに寄贈を受けたのがきっかけ。それを町村合併で誕生した宇陀市が引き継ぎ旧宇太小学校跡を活用して開園した。同小学校は130年を超える歴史を刻んできたが、少子化に伴って2006年廃校に追い込まれた。

 

 運営母体はNPO法人の「宇陀カエデの郷づくり」。園内には様々なカエデが植えられた広大なガーデンのほか、栽培施設のハウス、苗木販売所、カフェ、お土産販売コーナー、ギャラリーなどがある。カエデの中には「菟田野ノ里」「室生大紅」など地元の地名にちなむ名が付いた品種も。カエデは元禄時代に園芸として流行し、明治時代の頃から海外にも輸出されたという。カエデの種類の豊富さに改めて驚かされた。

 

 ガーデンの前面に立つ2階建て校舎は昭和初期の建設。ノスタルジックな雰囲気に包まれており、かつてNHK朝の連続小説『あすか』のロケ地になったこともあるという。職員室や教室は廃校になった当時の姿を留める。壁面には表彰状や地図が貼られたまま。音楽室には主が居ないピアノや鍵盤ハーモニカが寂しげに置かれ、黒板にはハクボクで音符が書かれていた。校庭には立派な「創立百周年記念之碑」も。今にも子どもたちの元気な声が教室や運動場から聞こえてきそうな気がした。カエデとともにこの校舎も一見の価値がありそうだ。

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<長田光男氏講演会> 「わがまち郡山の歴史といのち」

2014年10月19日 | メモ

【利休と秀長の2人「〝軍師官兵衛〟以上に秀吉を支えた」!】

 大和郡山市文化財審議会会長、長田(おさだ)光男氏の講演会が18日、同市植槻町の社会福祉会館で開かれた。主催は郡山地区社会福祉協議会。長田氏は「わがまち郡山の歴史といのち―明治以後の移ろいと未来への切符」と題して講演、大和郡山の歴史を辿りながら「町づくりは市民の力にかかっている。夢を持ち『私たちの町』という意識で取り組むことが大切」などと話した。

    

 大和郡山は戦国時代、筒井順慶が拠点とし、順慶亡き後には豊臣秀吉の弟、秀長が郡山城に入った。「郡山はまさに天下を動かす拠点の1つだった」。長田氏はNHKの大河ドラマ『軍師官兵衛』にも触れ、「ドラマの主役は官兵衛だが、秀長にはもっと登場してほしかった」と話す。「官兵衛以上に秀吉を支えたのは千利休と秀長の2人。秀長は参謀役として秀吉に知恵を授けた。歴史に〝if(イフ)〟は認められないが、秀長が長生きしていたら、秀吉も(無茶な朝鮮出兵などをせずに)もっとしっかり国を治める仕事をしていたかもしれない」。

 

 江戸時代になると、郡山は俳諧や書画など文芸のまちとして名を馳せ、博学多芸で知られる柳里恭(りゅうりきょう)らの文化人を輩出した。歴代藩主が文芸に力を注いだことが大きい。郡山には著名な俳人も多く訪ねてきた。大和郡山城内には蕉門十哲の1人、森川許六(きょりく)の句「菜の花の中に城あり郡山」の石碑も立つ。長田氏は赤膚焼の名匠、青木木兎(もくと)や奥田木白(もくはく)の名を挙げ「郡山の文化の特徴は一般の民衆が開いた文化でもあった」と力説した。(写真は「写真で見る郡山の移ろい」として映し出した約40枚のうちの2枚。㊧昭和35年頃のJR郡山駅の金魚出荷風景、㊨昭和60年の郡山城築城400年祭・親子まつりの修羅引き)

 大和郡山市は昭和29年(1954年)、奈良市、大和高田市に次いで県内3番目の市となる。当時の人口は約4万3千人。現在は約8万8千人で、目標の10万人に届かないばかりか、最近は減少傾向。長田氏は「観光面でも商業の面でも町として中途半端。よそから多くの人が集まって元気なのは全国金魚すくい大会と(古事記を編纂した稗田阿礼にちなむ)記憶力大会の日ぐらい。仮に(誘致運動中の)リニア中央新幹線の中間駅ができても、見てもらえるものが何もない」と厳しい現状を指摘したうえで、「私たちのまち」としてどうしていくのか、市民全体で真剣に考えていく必要性を強調した。長田氏は大和郡山市の都市計画審議会委員や観光協会常任理事も務める。町づくりを役員たちに任せきりにしないで市民も自分たちの問題としてもっと自覚してほしい――。お話の端々にこんな願いが込められているようにも感じた。

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<セージ> 薬用・香辛料として人気のハーブ

2014年10月17日 | 花の四季

【シソ科アキギリ属、欧米でサルビアといえばセージのこと】

 シソ科アキギリ属で、アキギリ属はサルビア属とも呼ばれる。日本でサルビアというと鮮やかな赤い花を連想する人が多いに違いない。これは「ヒゴロモソウ(緋衣草)」という和名を持つサルビア・スプレンデス種のこと。アキギリ属で花を観賞するものを日本ではサルビアと総称し、アキギリ属のうち薬用や香辛料になるものをセージと呼ぶ傾向が強い。

 一方、欧米でサルビアというと一般にセージを指す。セージは古くから薬草として利用されてきた。古代ローマの植物学者プリニウスの『植物誌』にもその効用などが記されている。サルビアの語源は「健康」や「治療」「救い」を意味するラテン語から。セージという言葉自体もサルビアがフランス語のソージュとなり、これが英語のセージに転訛したともいわれる。

 単にセージというと地中海沿岸地方原産の「サルビア・オフィキナリス種」を指す。このオフィキナリスは「薬用」を意味し、和名にも「ヤクヨウ(薬用)サルビア」と名付けられている。他のセージと区別するため「コモンセージ」とも呼ばれる。ヨーロッパ原産で「○○セージ」と呼ばれるものには、他に小型の「スパニッシュセージ」や大型の「クラリーセージ」(和名オニサルビア)などがある。

 中南米原産には「アメジストセージ」と呼ばれ秋~初冬に咲く「メキシカンブッシュセージ」=上段の写真=や、濃い青紫色の花が印象的な「メドーセージ」=下段の写真=、パイナップルに似た香りの「パイナップルセージ」などがある。セージはローズマリーとともに強い抗酸化作用を持つハーブの代表格。英国のバラード『スカボロー・フェア』には「パセリ、セージ、ローズマリーにタイム」という歌詞が繰り返し出てくる。 

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<石上神宮> 例祭「ふるまつり」 総勢150人余の渡御の行列

2014年10月16日 | 祭り

【平安時代から約900年の伝統を誇る神宮最大の祭礼】

 国内最古の神社の1つといわれる石上(いそのかみ)神宮(奈良県天理市布留町)で15日、同神宮最大の祭礼「例祭(ふるまつり)」が行われた。『石上大明神縁起』によると、白河天皇の勅命により平安時代の永保元年(1081年)に始まったという。稚児による荷前(のさき=初穂)奉納などの祭典終了後、午後1時に渡御の行列が御旅所に向けて出発、華麗な時代絵巻を繰り広げた。

 御旅所があるのは4キロ離れた厳島神社の境内。同神社が同市田町(旧田村)にあることから「田村渡り」とも呼ばれる。行列は御霊代を乗せた御鳳輦(ごほうれん)を中心に神職ら150人余。御鳳輦の大きさは県内では最大規模という。先払い、太鼓を先頭に馬上の甲冑武者、猿田彦、弓・矢・太刀持ちなどが続き、御鳳輦の後には風流傘や花鉾などが従った。

 

 神宮を出発した行列は国道25号から天理教の教会本部前、商店街の天理本通り、古い町並みの丹波市町などを通って御旅所へ。途中の田畑では刈り取り直前の稲穂が黄金色に輝いていた。氏子地域の各町内には「献燈」の提灯が高く掲げられ、家々の玄関口にも「御神燈」の提灯。お年寄りの方々は御鳳輦が差し掛かると手を合わせ頭を下げていた。この日は各町から子ども神輿も繰り出し、法被姿の子どもたちも沿道で行列を出迎えた。

 

 

 行列が御旅所に到着したのは出発からちょうど1時間後の午後2時。御旅所祭の後、午後4時から還御祭。翌16日には後宴祭が執り行われる。

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<ハブソウ(波布草)> 蛇毒に効く(?)薬用植物 花はかわいい5弁の黄花

2014年10月15日 | 花の四季

【熱帯アメリカ原産、かつてはハブ茶の原料にも】

 米国南部~メキシコの熱帯アメリカ原産のマメ科カワラケツメイ属(センナ属)の1年草。日本には江戸時代に薬用植物として渡ってきた。ハブなど毒蛇にかまれたとき、葉を揉んですり込むと良くなるということから「ハブソウ」の名が付けられた。実際には草汁に蛇毒を中和する作用はないものの、カやブヨなどの虫刺されには効くそうだ。

 花は怖そうな名前とは違って、茎の先に明るくかわいい黄色の5弁花を数輪ずつ付ける。花後に長さ10cm前後の細長い鞘ができ、その種子は煎じてハブ茶の原料として利用されてきた。ただ最近のハブ茶に使われているのは主に同属の「エビスグサ(夷草、胡草)」。薬効成分がほとんど変わらず、栽培が容易で収量も多いことによる。

 このエビスグサも北米原産の1年草で、名前はかつて「夷(えびす)」と呼んでいた異国から渡来してきたことに由来する。よく似た黄花だが、ハブソウのほうがやや大きく、ハブソウは葉先が尖っている。鞘もエビスグサが湾曲し垂れ下がるのに対し、ハブソウは斜め上を向くといった違いもある。

 ハブソウは漢方で「望江南(ぼうこうなん)」と呼ばれ、整腸や利尿、眼病などに効果があるといわれる。ハブソウには「クサ(草)センナ」という別名もある。「イシャイラズ」「ドクケシマメ」と呼ぶ地方も。「マムシグサ」と呼ばれることもあるが、サトイモ科の有毒植物にもマムシグサがある。エビスグサは生薬名で「決明子(けつめいし)」と呼ばれている。

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