く~にゃん雑記帳

音楽やスポーツの感動、愉快なお話などを綴ります。旅や花の写真、お祭り、ピーターラビットの「く~にゃん物語」などもあるよ。

<戸畑祇園大山笠・青木勇二郎さん> 名司会で最終日を盛り上げて35年!

2013年07月31日 | ひと模様

【「粋な法被姿が神さんの〝足〟になって進みます。ヨイトサ、ヨイトサ」】

 福岡県3大夏祭りの1つで国指定の重要無形民俗文化財「戸畑祇園大山笠」が今年も26~28の3日間、北九州市戸畑区で熱く繰り広げられた。昼の幟山笠が夜になると光のピラミッドに大変身。大山笠・小若山笠の全8基がそろう中日の競演会に続いて、最終日には東・西・中原・天籟寺の4地区ごとに地域内を巡行した。そのうち東地区では司会35年目という青木勇二郎さん(写真)の名調子が今年も千秋楽を盛り上げた。

 

 東地区は午後6時、太鼓や鉦などによるお囃子の披露から始まった。男女の小学生たち5チームが力強く「おおたろう囃子」などを演奏すると、観客からやんやの喝采。続いて、男子中学生が担ぐ小東山笠と高校生以上が担ぐ東大山笠の囃子方が演奏を披露した。山笠の運行は7時すぎから、まず幟の姿で始まった。

 「神さんの足になる男たちです。遡上する魚の群れのように進んでいます」。担ぎ手の足がそろった様はまるでムカデ競走。そして見どころの提灯山笠への姿変え。最上段の〝5段上げ〟に続いて1段ずつ組み立てていく。12段・309個の提灯が組み上がると高さ10m、重さ2.5トンの大山笠の完成だ。小東山笠は大山笠より少し低いが、それでも1.5トンもある。それを80~100人で担ぐ。小東山笠ができて今年はちょうど30周年の節目という。(下の写真は㊧と㊨は27日、㊥は28日)

  

 山笠が動き出すと提灯のろうそくの灯もゆらめく。1年前には大山笠が燃え上がり上5段分ほどが全焼するというハプニングがあった。「男たちはそんなことではひるみません。おやじが子どもの背中を押すように2つの山笠が進みます」。司会の青木さんは1937年生まれ。長年、競演会場のそばで眼鏡店を経営していた。今は戸畑郷土史会の事務局長を務める。東大山笠では〝中老代表〟で、今年喜寿のお祝いに濃紺のチャンチャンコを贈られた。

 以前、青木さんから戸畑祇園にまつわる〝秘話〟を教えてもらったことがある。戦後、進駐軍の高官が山笠の幟や幕などを母国への手土産として持ち帰ろうとした。それを関係者が懸命に説得、実際に祭りを見てもらうことで思いとどまらせた。ただ中には「青い目の前でなぜ担がないとダメなのか」と抵抗した熱血漢もいた。その男性はMPのジープで連行されたという。(下の写真は㊧26日の飛幡八幡宮への〝大上り〟㊨27日の競演会)

 

 戦後には〝針金事件〟もあった。山笠の運行中にろうそくが倒れて燃えないように提灯を針金で固定したことがあった。ところがその山笠は燃え上がる提灯を叩き落とせず、丸焼けになってしまった。今は麻のひもで提灯を括りつけており、燃えたら叩き落とし新しい提灯に替える。「幟も提灯のピラミッドも神様の依り代。その美しさこそが各山笠の誇りでもあるのです」。

 昨年の千秋楽に続き今年も思いがけないハプニングが起きた。「救急車が通ります」。青木さんのアナウンスに会場は一瞬静まり返った。小東山笠を担いでいた中学生たちが転んで足などを痛めたらしい。やがて2台の救急車が来て2人を搬送していった。その間約30分間の中断。残念な出来事だが、2人とも意識がしっかりしていたのは不幸中の幸いだった。「千秋楽はまだまだ続きます」。この後、陸上自衛隊小倉駐屯地所属の自衛官約40人が飛び入り。大山笠の前後の担ぎ棒を〝若中老〟たちと分担し、一緒に担ぎ上げて会場を往復した。

 戸畑祇園の全8基はこの後、8月3日に小倉北区で開かれる「わっしょい百万夏祭り」にも参加する。この数年はその年の当番山だけが参加していた。さらに9月には西と天籟寺の大山笠が60年に1度の〝平成の大遷宮〟を終えた出雲大社に遠征し山笠の勇壮な姿を奉納する予定という。

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<ボタンクサギ(牡丹臭木)> ピンクの小花が集まって〝くす玉〟のように

2013年07月30日 | 花の四季

【「ベニバナクサギ」「ヒマラヤクサギ」などの別名も】

 シソ科の落葉低木で、中国南部からヒマラヤ地方、インド北部にかけて分布する。クサギやゲンペイカズラ(ゲンペイクサギ)などと同じクサギ(臭木)属で、葉をもむと独特な異臭を放つ。中国名は「臭牡丹」。ボタンといえば中国では古くから「花の王」として愛された。そのボタンのように見事な大きな花を付けるから、こう呼ばれているのだろうか。

 7~8月頃、枝先に径が10~20cmもあるくす玉のような集散花序を付ける。つぼみの頃は濃い紅紫色だが、小さな5弁花が開くと薄紅色に変化し、遠目にはピンクのアジサイのようにも見える。花姿から「ベニバナクサギ」「タマクサギ」「クスダマクサギ」といった異名を持ち、原産地から「ヒマラヤクサギ」とも呼ばれる。

 花は葉と違って甘い香りを発する。それに引かれてクロアゲハなどが集まってきては盛んに蜜を吸う。ボタンクサギは繁殖力が強いことでも知られる。〝吸枝〟と呼ばれる地下茎を横に広げ、株元から離れた所で出芽して増えていく。このため一部地域では野生化している。神奈川県川崎市の県立東高根森林公園ではいつの間にか自生し、今では株が増えて群生しているそうだ。8月いっぱいが見頃という。

 ボタンクサギは葉や根に殺菌力があり生薬としても利用される。腫れ物や高血圧、下痢などに効果があるという。中国から日本に渡ってきた時期は不明。ただ英国の植物学者、ロバート・フォーチュン(1812~80)が19世紀中頃、広く紹介したともいわれる。フォーチュンはチャノキの苗を中国からインドに大量に移植したことで有名。日本を訪れたこともあり「幕末日本探訪記―江戸と北京」という著書も残している。

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<BOOK> 「クラシックの愉しみ」 (横溝亮一著、角川書店発行)

2013年07月29日 | BOOK

【副題「アナログ主義者が選んだ名指揮者・名歌手・名演奏家」】

 著者の横溝亮一氏は作家・横溝正史の長男。1931年生まれで、東京新聞の音楽担当記者を経て、77年から音楽評論家。本書「はじめに」の冒頭に自ら記したように「音楽鑑賞歴は非常に長い。半世紀はおろか、70年をこえているのではなかろうか」。渡航回数も優に100回を超える。

   

 「私の好む名演奏家は、みな半世紀も昔の人に集中している」という。「クラシック音楽を『再現芸術』としての『演奏』という行為によって、高い次元で『解釈、表現、伝達』できている人は、新しい世代には少ないと思う」からだ。本書では演奏家やオーケストラなど合わせて約60人・団体を取り上げているが、その大半が〝旧世代〟に属する。いずれも著者が生演奏を聴き、あるいは本人に直接会った人の中から選んだ。

 分野別などではなく順不同の構成のため、目次を参照にアトランダムに目を通した。まず「20世紀後半を担ったピアニスト」として挙げたマルタ・アルゲリッチ。「血の噴き出るような激情的な演奏を聴いて何度興奮したことか」と振り返り「彼女のロマン派を聴くと、ほかのピアニストのショパン、シューマンがつまらなく思える」とまで言い切る。

 「不世出のソプラノ歌手」マリア・カラス。著者は1974年の東京公演でのマスカーニ「カヴァレリア・ルスティカーナ」に「カラスの真骨頂を見た」という。「入魂の演技に驚倒し、感動して、思わず涙を流してしまった」。カラスはその3年後に亡くなる。享年53。著者は訃報を聴いてバイオリニスト佐藤陽子さんに電話をかけた。歌が好きな佐藤さんはなんとカラスに歌を習っていて、亡くなる直前、カラスから「眠れないのよ。何か不安で……」と電話が受けたという。

 2人のチェリスト、パブロ・カザルスとロストロポーヴィチを「権力と戦う熱き情熱」として取り上げた。2人は随分個性の違う演奏家だが、2人とも「世界の平和を願うヒューマニストとして大きな貢献をなした」。スペイン内戦のためフランスに亡命したカザルスは1971年、国連本部で「私の故郷カタルーニャの鳥はピース、ピースと鳴く」と演説し、カタルーニャ民謡「鳥の歌」を演奏した。シュヴァイツァー博士と共同で「核兵器の廃絶」を求める声明を発表したこともある。ロストロポーヴィチは作家ソルジェニーツィンを擁護し、旧ソ連政府から演奏活動停止を命じられ74年米国亡命を余儀なくされた。

 小澤征爾については師のレナード・バーンスタインと共に「ニューヨーク・フィルと若き日のオザワ」として取り上げた。小澤は1961年NYフィル副指揮者として故国の土を踏むが、体を激しく動かす小澤の指揮は「アメリカの軽薄文化の象徴」といった否定的な形でとらえる人も少なからずいたという。

 同様に指揮台で飛び跳ねるバーススタインの指揮スタイルも「これはクラシックではなくポップス」と一部批評家の不評を買った。バースタインは1970年、2度目の来日でマーラー「第9交響曲」を演奏した。その名演は初回の評価と全く違って音楽ファンの心を震撼させた。「この瞬間に、日本におけるマーラー・ブームが始まった」。小澤はその後、シカゴ、トロント、ボストン各交響楽団で音楽監督を歴任する。著者は米国で最もよく知られている日本人としてイチローとともに小澤を挙げる。

 この他、「スマートなカリスマ指揮者」としてカラヤン、「指揮者兼ピアニスト」としてウラディーミル・アシュケナージとダニエル・バレンボイム、「天性のユダヤ人バイオリニスト」としてアイザック・スターンとダヴィッド・オイストラフを取り上げている。また「言葉を大事にしたソプラノ歌手」としてエリーザベト・シュヴァルツコップ、「訪日した一流作曲家」としてストラヴィンスキーとブリテンを紹介している。

 欧米には「ユダヤ人はバイオリンを弾きながら生まれてくる」という言葉があるそうだ。ユダヤ系はバイオリニストだけでなく指揮者やピアニストなどにも多く、本書にもユダヤ系演奏家が多数取り上げられている。通読していかにユダヤ系が世界のクラシック界を席巻してきたかを改めて痛感させられた。

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<平城宮跡資料館> 「平城京どうぶつえん―天平びとのアニマルアート」

2013年07月28日 | 考古・歴史

【1300年前に天平びとが創作した〝動物アート〟が大集合!】

 奈良文化財研究所の平城宮跡資料館(奈良市)で夏期企画展「平城京どうぶつえん―天平びとのアニマルアート」(9月23日まで)が始まった。馬に羊、猿、鳥、猪、亀、鹿、魚……。1300年前に作られたり描かれたりした動物たちを、土器や木簡、まじないの道具などを通してまとめて見ることができる。人形(ひとがた)や人面土器などヒトのコーナーもある。いずれも生き生きした表情で、天平びとの息づかいが聞こえるかのようだ。

 

 出土品の多くは平城京・平城宮の水路や井戸、ごみ捨て場などから見つかった。最も多く出土したのは奈良時代前半に権勢を誇った長屋王の屋敷があった場所。鳥形や馬形、猿や犬をらくがきした皿、牛の木彫りなどが見つかった。出土した木簡から本物の馬や犬のほか鶴まで飼われていたことが分かったという。

 会場には焼き物の土馬(上の写真㊧)や木でできた鳥形、馬形などが多く並ぶ。これらは病気や災厄を乗い払うためのまじないの道具とみられている。裏側に5匹の猿を描いたお皿(写真㊨)があった。国内で見つかった猿の絵としては最も古いものという。馬や鹿とみられる動物が描かれた木簡もあった。

 

 羊は頭部分だけが2頭分出土した。これらは羊の形をした硯(すずり)の一部ではないかとみられている(写真㊧=1頭分を硯に復元)。亀も硯の一部とみられる顔や手、甲羅などが見つかった。猫の足のようなもの(写真㊨)も多く出土したが、これは〝獣脚〟といわれるもので硯や火鉢の脚の部分の装飾に使われたとみられる。

 

 魚は平城宮の警護や儀式で使われた木製の盾の裏(写真㊧)に鳥とともに多く描かれていたという。ただ全面が黒ずんでおり、残念ながらよく確認できなかった。ヒトは人面土器のほかお面、あやつり人形、木簡に描かれたらくがきなども展示されている(写真㊨)。どれも表情が豊かで見ていて飽きない。馬の頭や亀、ネズミなど実際に平城京にいた動物の骨も展示されている。

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<ルドベキア> 和名「マツカサギク」 炎天下に鮮やかな黄花 

2013年07月27日 | 花の四季

【北米原産、明治中頃に渡来。一部で野生化も】

 キク科ルドベキア属(オオハンゴンソウ属)の宿根草(多年草)または1年草で、日本には明治中頃に渡来してきたといわれる。暑さ・寒さにも強く丈夫で育てやすい。花色は主に黄か橙色で、花びらを並行または反り返り気味に開く。花が終わると花芯(管状花)が盛り上がって松かさ状になる。そのため「マツカサギク」の和名を持ち、英名でも「コーンフラワー」と呼ばれる。

 ルドベキアの名前はスウェーデンの植物学者ルドベック(1630~1702)にちなむ。動植物の〝分類学の父〟といわれるリンネが恩師の遺徳をしのんで命名したという。ルドベキア属は北米に約30種が分布する。1年草の代表格は日本で「アラゲハンゴンソウ」と呼ばれるヒルタ種。花径が20cmにもなる大輪の「グロリオサデージー」や草丈が40cmほどの「ゴールドフレイム」などの園芸品種が出回っている。

 宿根草にはトリロバ種やフルギダ種、ラキニアタ種などがある。トリロバ種は3~5cmの小型の花を株いっぱいに付けるのが特徴。日本では「ルドベキア・タカオ」の名で広く流通している。濃い茶色の大きな花芯から、米国ではヒルタ種とともに「ブラック・アイド・スーザン(黒目のスーザン)」と呼ばれ、メリーランド州の州花にもなっている。毎年5月には「ブラック・アイド・スーザン・ステークス」と名付けられたサラブレッド3歳牝馬のレースまで行われているそうだ。

 ルドベキアの仲間はいずれも繁殖力が旺盛。中でもラキニアタ種は強健で、各地で野生化し大群落をつくっている。環境省は生態系を崩す恐れがあるとして、ラキニアタ種を外来生物法により「特定外来生物」に指定、輸入を規制している。また八重咲きの園芸種「ヤエザキオオハンゴンソウ(ハナガサギク)」や「アラゲハンゴンソウ」「ミツバオオハンゴンソウ」の野生化も確認されている。このため環境省はルドベキア属全種について、輸入に際しては外国政府機関等発行の種類名証明書を添付するよう求めている。

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<BOOK> 「雑草は踏まれても諦めない」 (稲垣栄洋著、中央公論新社発行)

2013年07月26日 | BOOK

【副題「逆境を生き抜くための成功戦略」】

 「雑草という草はない。どの植物にも名前があって、それぞれ自分の好きな場所を選んで生を営んでいる」。昭和天皇はこう侍従にお言葉を掛けたという。雑草を長年研究してきた著者も「雑草は自ら逆境に生きる道を選び、そこで生き抜く知恵を進化させてきた」とし、「そのしたたかな生き方が1つでもあなたの生きるうえでのヒントになれば」という。

  

 著者の稲垣氏は1968年静岡市生まれで、岡山大学大学院農学研究科を修了した農学博士。専攻は雑草生態学。農林水産省を経て、現在は静岡県農林技術研究所上席研究員、静岡大学客員教授を務める。著書に「身近な雑草の愉快な生きかた」「都会の雑草、発見と楽しみ方」など。

 本書は「逆境が知恵を授ける」「雑草が生き抜くために身につけた5つの力」「雑草はどう生き、どう死ぬか」「雑草と生きる」の4章構成。その間に「雑草の素顔」としてハコベ、エノコログサ、メヒシバなど13種の代表的な雑草を紹介している。雑草の生き抜くための5つの力として適応力、再生力、反骨力、忍耐力、多様力を挙げる。

 オオバコは「踏まれること」を巧みに利用して繁栄しているという。オオバコの種子は水に濡れると粘着液を出し、靴や動物の足にくっついて分布域を拡大するそうだ。ヒエの1種タイヌビエは引き抜かれないようにイネになりすまして肥料を吸い、時が来ればイネより頭1つ茎を伸ばして花を咲かせ、あっと言う間に種子をばらまく。

 〝鉄道草〟の異名があるキク科のヒメムカシヨモギは肥沃地や痩せ地など環境に応じて固体サイズを自由に変える。花を咲かすことができる限界の〝臨界サイズ〟が、ヒメムカシヨモギのような雑草は極端に小さいという。また雑草の多くは地下茎をわざとちぎれやすい構造にして、トラクターのロータリーに絡ませて畑から畑へ分布域を広げていく。

 スギナは1m以上も地下茎を伸ばすことから「ジゴクグサ」の異名を持つ。原爆を落とされた広島で、真っ先に緑を取り戻したのはスギナだったそうだ。「雑草たちは地上の喧騒をよそに、地中奥深くへもぐり、じっと戦況を窺っている」。このスギナやハマスゲはその「集中力」と「持続力」で道路のアスファルトさえも突き破る。芽の先端付近の細胞の圧力は10気圧にも及び、プロボクサーのパンチの破壊力に相当するそうだ。

 雑草にも世界を股にかける〝コスモポリタン〟がいる。北米原産のスズメノカタビラは熱帯から寒い地方まで生息域を広げ、ヨーロッパ原産のシロツメクサや熱帯出身のスベリヒユも世界中に広がっている。雑草は「パイオニアプランツ(開拓者植物)」としての特性も持つ。人間が破壊した環境や洪水・土砂崩れなどの自然災害で破壊された不毛の地にいち早く生える。

 雑草の中には寒い冬をロゼット状で過ごすものが多い。タンポポ、ナズナ、マツヨイグサ、ホトケノザ……。日の当たる面積を最大限確保するため、葉を地面すれすれに放射状に広げる。雑草は厳しい環境の中で仲間がおらず1個体だけで生えることも珍しくない。そのときのために雑草は自分の雌しべに自分の花粉をつけて受精する〝自殖〟の機能も発達させている。「逆境は味方である。敵ではない。これこそが雑草の生き方の真髄なのである」。

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<センノウ(仙翁)> ナデシコに似た炎のような深紅の〝幻の花〟

2013年07月25日 | 花の四季

【中国原産。室町時代には夏の贈答花として人気!】

 原産地は中国の中南部で、日本には鎌倉時代末期~室町時代初めに渡来したといわれる。ナデシコ科センノウ属の多年草。真夏に燃え盛るような深紅の、ナデシコに似た花をつける。「センノウ」の名は京都・嵯峨の仙翁寺に由来するといわれ、「センノウゲ(仙翁花)」とも呼ばれる。中国名は「剪紅紗花(せんこうしゃか)」。

  室町時代には切り花がお公家さんの贈答花として用いられるなど人気を集め、御所にも献上されたという。真夏に元気に咲き誇ることから〝長生不老の花〟ともてはやされたらしい。貝原益軒が著した「大和本草」(1709年刊行)には「剪秋蘿(センヲウ)」として取り上げられている。そこに「今世人賞玩シテ品類多ク出ツ 花紅ナリ又白色アリ褐色アリ」とあることから、江戸前期の頃もなお高い人気が続いていたようだ。その末尾には「嵯峨ノ仙翁寺ヨリ出タルユヘ名ツクト云。仙翁寺今ハナシ」と由来も記している。

 センノウはその後いつの間にか絶滅してしまったと思われ、いつしか「幻の花」と呼ばれていた。だが、まだ生き続けていた。関西では京都府立植物園が十数年前から、島根県で発見された株の一部を譲り受けて栽培している。染色体が3倍体で種が付かないため、挿し木による増殖に取り組んでおり、同じ場所を嫌うため1~2年ごとに移植を繰り返しているそうだ。

 同じ仲間のセンノウ属で日本在来種にはフシグロセンノウ、マツモトセンノウ、オグラセンノウ、エンビセンノウなどがある。フシグロは花が大型で、茎の節が膨らみ黒いのが特徴。マツモトセンノウの「マツモト」の語源は信州松本とも、花姿が松本幸四郎の紋所に似ているからともいわれる。オグラやエンビセンノウは環境省の絶滅危惧種に指定されている。「仙翁花や信濃へ越ゆる峠道」(桜木俊晃)。

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<奈良市埋蔵文化財調査センター> 「神功開宝鋳銭遺物と古代銭貨」展

2013年07月24日 | 考古・歴史

【3月の市文化財指定を機に公開】

 奈良市埋蔵文化財調査センターで平成25年度夏季速報展「神功開宝鋳銭遺物と古代銭貨」(8月30日まで)が開かれている。神功開宝は和同開珎の10倍の価値を持つ銅銭で、平城京の一角から鋳銭過程が分かる遺物がまとまって出土した。古代の貨幣鋳造技術を知るうえでも極めて重要な資料として今年3月、一括して市文化財に指定された。

  

 神功開宝は飛鳥時代から平安時代にかけて発行された銅銭「皇朝十二銭」の1つ。760年に和同開珎(初鋳708年)の10倍の価値を持つ万年通宝が発行されたが、その5年後の765年から万年通宝に代わる銅銭として鋳造が始まった。その鋳銭遺物が出土したのは奈良時代末の井戸跡から。銭笵(せんぱん)7個、鋳(い)放し銭3枚、鋳棹2個、坩堝(つるぼ)4個、鞴羽口(ふいごはぐち)4個、炉壁7個、銅滓付着瓦5個などの出土品が文化財に指定された。

 

 坩堝は地金を溶解し、溶けた銅を鋳型の銭笵に流し込むための容器。銭笵は銭を取り出す際に割られていた。鋳放し銭は鋳型の傷などが原因で鋳バリが残った状態のもの。銅滓が付着した丸瓦は地金の溶解時に塵除け・風除けなどの目的で坩堝の上に置いたのではないかという。

 古代の鋳銭遺物は国内最古の銅銭・富本銭の遺物が飛鳥池遺跡(奈良)で出土し、和同開珎の遺物は平城宮跡と平城京跡のほか長門鋳銭所跡(山口)、細工谷遺跡(大阪)で見つかっている。ただ神功開宝の鋳銭遺物の出土は平城京が国内で初めて。夏季速報展ではそれらの遺物のほかに、皇朝十二銭や無文銀銭、中国・唐の開元通宝なども展示している。

 和同開珎の10倍の新銭、万年通宝と神功開宝の発行に伴って、760年代には貨幣価値が急激に下がって、米や小麦など諸物価が急騰したそうだ。その後、平安時代にも旧銭の10倍の新銭が次々に発行されたが、銅不足と鋳造経費の削減から小型化・粗悪化し、乾元大宝(初鋳958年)を最後に銭貨鋳造は廃止になった。

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<ゲンペイカズラ(源平葛)> 紅白の花色を源平の旗色に見立てて

2013年07月23日 | 花の四季

【原産地は西アフリカ、「ゲンペイクサギ」とも】

 原産地は熱帯アフリカ西部で、日本には明治時代の中頃に渡ってきた。シソ科クサギ属のツル性の常緑低木で、他の植物などに枝を巻きつかせながら登っていく。鉢物として最近よく見かけるようになったが、寒さにやや弱いため日本では冬季、落葉することが多い。属名から「ゲンペイクサギ(源平臭木)」とも呼ばれる。

 白花に見えるのはガクで、五角形の袋状。その中から鮮やかな赤い筒状の花が伸びて、紅白のコントラストが美しい。「ゲンペイ」の名前も白いガクを源氏の白旗、赤い花を平氏の赤旗に見立てて名付けられた。ガクがピンク色の「ベニゲンケイカズラ(紅源平葛)」はこのゲンペイカズラにボタンクサギ(ベニバナクサギ)を掛け合わせて生まれた。

 同じ仲間のクサギ属にはボタンクサギの他にヒギリ、シマクサギ、ビロードクサギなどがある。葉や茎に独特な臭気があるという共通点を持つ。ゲンペイカズラは学名の「クレロデンドルム・トムソニアエ」から単に「クレロデンドルム」または「クレロデンドロン」と呼ばれることもある。ギリシャ語で「運命」と「樹木」を意味する合成語という。

 植物名にはこのゲンペイカズラの他にも頭に「源平」を冠したものが多い。源平桃に源平梅、源平椿、源平菊、源平シモツケ、源平ウツギ……。いずれも1本の草木に紅白の2色咲き分けの花を付ける。アサガオにも白地に赤い模様が入った「源平」という品種があるという。ただ、桜の源平咲きはまだ知られていないそうだ。

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<木津川市文化協会> 「西洋音楽との束の間の出会い~ピアノで語る信長・秀吉が耳にした音楽」

2013年07月22日 | 音楽

【〝考古ピアニスト〟伊賀高弘さんが演奏と解説】

 京都府木津川市の中央交流会館(いずみホール)で21日、木津川市文化協会主催の講演・演奏会が開かれた。テーマは「西洋音楽との束の間の出会い~ピアノで語る信長・秀吉が耳にした音楽」。地元在住の伊賀高弘さんが織田信長・豊臣秀吉が聴いたかもしれないルネサンス期の西洋音楽を、解説を交えながらピアノで演奏した。ユニークなタイトルに惹かれ出かけたが、期待以上の見事な演奏と語りで実に有意義なひとときだった。

  

 伊賀さんは自称〝考古ピアニスト〟というように本職は埋蔵文化財の調査・研究。1959年生まれで大学では日本古代史を専攻し、卒業後は京都府埋蔵文化財調査研究センターの職員として長く関西学術研究都市などの発掘調査に当たってきた。その傍ら、ピアノを京都市芸術大学の先生に師事して学ぶなどプロ顔負けの腕前を持つ。

 伊賀さんはまず安土桃山時代の内外情勢の説明から始めた。大航海時代、宗教改革、日本へのキリスト教伝来……。その後、大友宗麟ら九州のキリシタン大名がローマに派遣した「天正遣欧少年使節」の足跡をたどる形でルネサンス期の音楽を紹介した。使節団は1582年に長崎を立ちリスボン、ピサ、フレンツェなどを経て85年ローマで教皇に謁見。その後、ヴェネチアやミラノ、リスボンを経由して90年に帰国した。少年たちは翌91年、京都・聚楽第で秀吉を前に西洋音楽を演奏したといわれる。

 最初にピアノで弾いたのはスペインの作曲家・オルガニスト、アントニオ・デ・カベゾン(1510~66)の声楽曲。次いでローマ教皇庁の専属楽士だったパレストリーナ(1525~94)のミサ曲2曲をピアノと電子鍵盤のパイプオルガン音源で紹介した。彼のポリフォニー(多声音楽)は〝パレストリーナ様式〟として後の作曲家に多大な影響を与えたといわれる。「ポリフォニーは複数の旋律が積み重なって和声が作られる。その前の音楽は単旋律のモノフォニー、後のモーツァルトやベートーベンの音楽はホモフォニーといわれ主旋律に伴奏が付く」。

 次に紹介したのはイタリアの作曲家アンドレーア・ガブリエーリ(1510~86)。サンマルコ大聖堂(ヴェネチア)のオルガニストで〝ヴェネチア楽派〟の創始者といわれる。ガブリエーリが作った曲は「信長・秀吉が聴いたかもしれない西洋音楽の最有力候補」という。少年使節の謁見のための音楽を作曲したという記録が残されているそうだ。その曲は不明だが、伊賀さんは「フランス風カンツォン」という舞曲をピアノで弾いた。

 次いで、フランス国王ルイ11世のときルーブル宮殿の宮廷楽士として活躍したジョスカン・デ・プレ(1440~1521)。ガブリエーリよりかなり時代は遡るが、「少年たちが聚楽第で御前演奏したのはジョスカン・デ・プレの曲といわれている」。伊賀さんが演奏したのは「ミサ・パンジェ・リングァ―アグヌス・デイ」という曲。「テレビで秀吉の場面にグレゴリオ聖歌のような単旋律が流されることがあるが、秀吉が耳にした音楽はもっと複雑なポリフォニー音楽だったのではないだろうか」。伊賀さんはテレビの時代考証に疑問を投げかけた。

 安土時代前半まで寛容だったキリスト教政策はその後、江戸初期にかけて禁教令やバテレン追放令が相次ぎ弾圧へ一転した。そして1616年には鎖国令。「弾圧政策は植民地化を恐れたことによるもの。だが、西洋音楽がバッハの登場などで一番〝進化〟した時代に、鎖国によって日本が立ち会えなかったのは不運というしかない」。伊賀さんはクープラン(1668~1733)など2人の曲に次いで、最後をバッハ「フーガの技法」のピアノ演奏で締めくくった。

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<奈良大学考古学講演会> 「本音で語る! 縄文と弥生の世界」

2013年07月21日 | 考古・歴史

【4人の考古学者の講演とシンポジウム】

 奈良大学で20日、文化財学科考古学研究室などの主催による考古学講演会・シンポジウムが開かれた。タイトルは「本音で語る! 縄文と弥生の世界―有史以前の日本列島」。4人の考古学者がそれぞれの研究分野について講演、その後4人でシンポジウムを行った。多くの聴衆が会場の講堂を埋め尽くし最後まで熱心に聞き入っていた。

 

 最初に登壇した丹羽佑一氏(香川大学名誉教授)は「縄文時代の集落と社会」と題して講演した。多摩ニュータウン遺跡群(東京)を例に挙げながら「縄文時代の1つの集落の範囲は端から端までで約10キロと推測され、互いに家族構成なども知っているフェース・ツー・フェースの社会だった」「集落の中心に環状墓坑群があり、それとは別に住居のそばには連接墓坑群があった。埋葬される場所は血縁関係によって異なった」などと話した。

 泉拓良氏(奈良大名誉教授、京都大学大学院総合生存学館特定教授)は「縄文時代の暮らしとその変化」をテーマに講演した。人骨から得られる炭素・窒素の同位体分析によって「北海道縄文人の食生活は本州縄文人と少し異なり、(摂取していた)タンパク質が海産資源に偏る」ことが分かった。男女間の食生活の違いも明らかになってきたという。「男性は女性より海産物を多く食し、女性はドングリなど糖質類を多く摂っていたためか虫歯が多かった」。

 縄文文化を語るとき、よく引き合いに出されるものに東日本の〝サケ・マス文化論〟がある。サケ・マスという潤沢な食糧があったから繁栄したというわけだ。ただサケが遡上せず海から遠く離れた中部高地でも縄文文化が花開いた。泉氏はその理由について「海産資源ではないタンパク源があったからだろう。中部高地では縄文中期にいち早く大豆などマメ類の栽培が始まったと考えられる」と指摘する。ただ「最古のマメ類の現物は京都市聖護院遺跡で出土したアズキ。炭化した状態で出土した。アズキに関しては近畿地方で栽培化された可能性もある」。

 3番目に登壇した酒井龍一氏(奈良大名誉教授)の演題は「考古学徒に明日はあるか―弥生研究の場合」。酒井氏は最初に「ある」と結論を述べた。その理由として弥生時代の始まりや「最初の弥生式土器」といわれてきた遺物の製作時期への疑問などを挙げた。弥生時代といえば、紀元前3世紀に始まったというのが通説。ところが新たな水田遺構の発見などから最近では時代が遡り、紀元前10世紀という学説まで出ている。「弥生時代が一挙に2倍の1200年間に広がったわけで、弥生研究はまさに〝すき間〟だらけ」というわけだ。

 最後に元学長の水野正好氏(奈良大名誉教授、元興寺文化財研究所所長)が「縄文人の想ひ、弥生人の想ひ」と題して講演した。水野氏は縄文時代の土偶研究の第一人者でもある。素焼きの土人形・土偶は多くが東日本で出土しているが、完全な形での出土は極めてまれ。その点について水野氏は「もともと壊すことが目的。壊すことが蘇りにつながると信じられていた」などと〝故意破壊説〟を披露した。

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<アンビリバボー> 見よ、この杉の生命力! 落雷と火災を乗り越えて

2013年07月20日 | アンビリバボー

【生駒市の往馬大社、焼け焦げた幹から葉が青々と!】

 勇壮な火祭りで有名な奈良県生駒市の往馬(いこま)大社。ここを初めて訪れる参拝客には、拝殿前の杉の無残な光景に目を奪われる人が多い。黒く焼け焦げた幹の姿が痛々しいからだ。だが、よく見ると上のほうの枝からは青々とした葉が茂る。その脅威の生命力には誰もが畏敬の念を抱くに違いない。

 

 往馬大社の歴史は古い。最も古い記述は「総国風土記」の雄略天皇3年(458年)というから、それから1550年を超える。正倉院文書の記載から、奈良時代には朝廷との関わりがあったことも知られる。鎮守の杜は奈良県指定の天然記念物。火祭りは2011年、県の無形民俗文化財に指定された。

 その杉は参道の階段を上ってすぐ右手、拝殿のほぼ正面にある。神職の方のお話によると、戦前に落雷に遭い、さらに40年ほど前には火災にも遭った。火事の原因は不審火とも。幹は目通り直径が1.5m近い。高さは13~14mといったところか。幹の下部は半割の竹で覆われ、高さ2mほどの所に注連縄が飾られている。根元の周りを赤い柱の絵馬掛けが取り囲む。説明書きにはこうあった。「災いに負けない強い生命力を持った御神木として参拝者の信仰を受けています」。

 

 本来の御神木はその杉から10mほど離れた所にある杉の大木という。その説明書きは「鎮守の杜の木々の中で最も背が高く、杜全体を眺めると1本だけ飛び出して見えます。このような木々を神籬(ひもろぎ)といい、神の宿る木として信仰されています」。ただ雷が落ちるということは、その時点では拝殿前の杉が最も高かったのかもしれない。それとも古くは2本の杉がセットで〝夫婦杉〟として御神木だったのだろうか。

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<BOOK> 「水族館で珍(ちん)に会う」(中村元監修・写真、エンターブレイン発行)

2013年07月19日 | BOOK

【水族館プロデューサーが紹介する〝水族珍〟の数々】

 中村元氏は1956年三重県生まれ。大学卒業後、鳥羽水族館に入社しアシカトレーナー、企画室長を経て副館長。2002年「水族館プロデューサー」として独立した。これまでに新江ノ島水族館、サンシャイン水族館、山の水族館などの新設リニューアルを手掛け、集客増や顧客満足度のアップに貢献してきた。

   

 中村氏は水族館でもめったに会えないものや不思議な姿をしたものを独自に〝水族珍〟と呼ぶ。本書はそうした珍たちの魅力をより多くの人に知ってほしいと願って監修した。「クラゲ」「深海魚」「巨大」「海獣」「稀少」などの10章構成で、取り上げた生物は110種余りに上る。その途中に「深海は水族珍の宝庫」「日本人と巨大生物」などのコラムを挟み、巻末には「珍に会える! 全国水族館リスト」を載せている。

 世の中には不思議な生物がいるものだ。体長5ミリほどの小さな「ベニクラゲ」は若返り能力を持つという。といっても不死身ではなく、他の生物に食べられたりするが、理論上は永遠に生き続けることができるという。ダンゴムシのお化けのような「ダイオウグソクムシ」は最近3年以上も何も食べずに水族館で生きていると話題になった。シマウマのような柄模様の「ゼブラガニ」はなんとウニのトゲを刈り取って食べるそうだ。

 「ウオーキングバットフィッシュ」は脚のように変化した胸びれと腹びれで水底を歩く。爪楊枝のように細長い体を持つ「ヨウジウオ」はオスが〝出産〟する。メスが卵をオスの腹部にある育児嚢に産みつけ、オスはその卵がかえり稚魚として飛び出すまで保護する。「インドエンコウガニ」は背中にある日の丸のような真っ赤な円の模様が特徴。これまでに捕獲できたのはわずか12匹という伝説の生き物で、しかもその全てがオスだったという。

 「カイロウドウケツ」は水深1000mほどの深海に棲む円柱状のカイメンの1種。その名は偕老同穴に由来し、円柱の中に小さなエビが棲み付いていることによる。釜茹でにされた大泥棒・石川五右衛門に由来する「ゴエモンコシオリエビ」は熱水噴出口周辺に生息する。深海魚「ビニクン」はツルッとした頭を尼僧の比丘尼(びくに)に見立てたもの。「ウケグチノホソミオナガノオキナハギ(受口の細身尾長の翁剥)」は体の特徴をそのまま五・七・五で詠んだような名前で、魚の和名としては最も長い。

 「ホテイウオ」はでっぷりした姿が布袋様のように見えることから、その名が付いた。中南米に生息する「ヤドクガエル」は先住民がその毒を矢に塗り、部族間の抗争や狩りに用いた。 「オオカミウオ」は名前も見た目も怖そうだが、実際はおとなしく、他の魚を襲ったりすることはないという。「エラブウミヘビ」は沖縄で「イラブー」と呼ばれ、真っ黒な燻製の姿で売られているが、その毒はハブの70~80倍も強いという。ただ性質はとてもおとなしく、慣れた人は素手で捕まえるそうだ。

 「チョウザメ」は一見サメのように見えるが、サメではなく近い仲間でもない。「チョウ」は体の側面に並んだウロコの形が蝶に見えることから。「シノノメサカタザメ」もサメではなくエイの仲間。エイはサメから進化したものといわれ、エラの位置(エイは体の下、サメは体の側面)で見分けることができる。

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<京都府立植物園の温室㊦> 「紅紐の木」と「マイソルヤハズカズラ」

2013年07月18日 | 花の四季

【紐状の花序が長さ50cmにも!】

 ベニヒモノキ(紅紐の木)はその名の通り、まさに長い花序が赤い紐のように垂れ下がる。マレー半島からインドネシア、ニューギニアに分布するトウダイグサ科アカリファ属のつる性常緑低木。花序は長いもので50cmを超える。学名の「アカリファ・ヒスピダ」から単に「アカリファ」や「ヒスピダ」と呼ばれることもある。日本には明治末期ごろに渡来した。

 英名は「シェニール・プラント」。シェニールは刺繍や房飾りに使われる、毛足が長い光沢がある飾り糸のこと。フランス語で「毛虫」という意味もある。似た花に「アカリファ・ヒスパニオラエ」がある。花序の長さが5~10cmほどでベニヒモノキに比べると短くて太い。ネコジャラシ(エノコログサ)を赤くしたようなその花姿から「キャッツテール」とも呼ばれている。

【黄と赤のコントラスが鮮やか!】

 「マイソルヤハズカズラ」はインド南部原産で、マイソルの名前もインド南部の都市マイソールに由来する。学名から「ツンベルギア・マイソレンシス」と呼ばれることも多い。キツネノマゴ科のつる性の多年草。長く下垂した総状花序に多くの花を付ける。花径は4~5cmで、花筒内部の濃い黄色と、花を包む苞(ほう)の赤褐色のコントラストが実に鮮やか。

 日本に渡って来たのは1980年前後といわれ比較的新しい。ツンベルギア属の植物はアジアやアフリカの熱帯地方を中心に100種前後にも上る。その属名はスウェーデンの植物学者カール・ツンベルク(1743~1828)にちなむ。植物学者リンネの教え子で、江戸時代中期、オランダ商館付き医師として来日した。「日本植物誌」の著者としても知られている。

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<御所・鴨都波神社> 夏季大祭に合わせ勇壮な「ススキ提灯献灯行事」

2013年07月17日 | 祭り

【提灯の旋回や空中投げ…自由に操る妙技に喝采!】

 奈良県御所市の鴨都波(かもつば)神社(通称「鴨の宮」)で16日、県の無形民俗文化財に指定されている「ススキ提灯献灯行事」が繰り広げられた。起源は明らかではないが、江戸時代中期にはほぼ現在に近い形態で行われていたといわれる伝統の行事。この日は26本のススキ提灯が出て、太鼓が小気味よく打ち鳴らされる中、次々に勇壮な〝お練り〟を披露した。

    

 ススキ提灯は高さ4.5mほどで重さは約10キロ。竹製の支柱に上から2・4・4の合計10個の高張提灯を3段に取り付け、支柱先端に御幣を飾る。奈良県内では稲積みの形をススキまたはスズキと称し、葛城山麓では五穀豊穣・無病息災を願ってススキ提灯を奉納する神社が多い。その中でも鴨の宮の献灯は県内最大規模。秋田の「竿灯」や富山県魚津市の「たてもん」など大型の提灯献灯行事も、ススキ提灯が〝進化〟したものではないかともいわれる。

 

 各氏子地域に飾られていたススキ提灯は午後6時半頃から市役所そばの葛城公園に集まってきた(上の写真㊧)。7時20分、「ススキ提灯献灯行事」の幟を先頭に神社に向けて出発。花火が夜空を彩り、巡行が進むにつれ提灯のろうそくの灯も明るさを増した(同㊨)。参道両側には多くの夜店。祭り見物客や屋台目当ての若者でごった返し、提灯がそこを抜けるのもひと苦労だった。

 宮入り後、名乗りを受けた地区から順番にお練りを披露した。提灯をぐるぐる回しながら、観客すれすれに反時計回りに駆け回る。提灯の支柱を額や顎にうまく乗せると、いっせいに大きな拍手。中にはバランスを崩して提灯が倒れそうになることもあった。お練りが終わるたびに地区の関係者は拝殿に進んでお祓いを受けた。鈴を打ち振って舞う巫女役は地元の女の子たちだった。拝殿の脇では冷えたビールやお茶の無料接待が行われていた。

  

 各地区のお練りの間には男子小学生による子供提灯の披露もあった。伝統継承の狙いもあるのだろう、今年初めての試みという。トリに行われた鴨の宮若衆会の〝妙技〟は見ごたえ十分だった。ススキ提灯を肘で支えたり、横倒しにして早いスピードで旋回させたり、さらには4人が並んで提灯を宙に放り投げて受け止めたり……。まるで提灯の3段跳び! 若衆会のメンバーは今年2月、東京であった「NHK地域伝統芸能まつり」にも出演したそうだ。大太鼓・小太鼓を終始打ち続けた囃し方も見事だった。女性中心だったが、力強く息のあったリズミカルな演奏で祭りの雰囲気を盛り上げた。

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