く~にゃん雑記帳

音楽やスポーツの感動、愉快なお話などを綴ります。旅や花の写真、お祭り、ピーターラビットの「く~にゃん物語」などもあるよ。

<徳島中央公園> 海蝕痕、貝塚、青石の石垣、楠の巨木…

2019年09月30日 | 旅・想い出写真館

【「日本の100名城」徳島城跡、見どころ多彩!】

 JR徳島駅から程近い徳島中央公園。国の史跡で「日本の100名城」にも選ばれている徳島城跡を利用して整備された公園で、1989年には「日本の都市公園100選」にも選定されている。久しぶりに徳島を訪れたのを機に、公園の中心に位置する城山の周りをぐるっと一周した。そこには数千年前の海蝕痕や貝塚に、城の石垣、平和記念塔、クスノキの巨木、文学碑、蒸気機関車などもあって実に見どころいっぱいの公園だった。

 城山の東側に波の浸食作用による海蝕痕が数カ所あった。岩肌に残る円形の窪みは波に浸食された跡で、縄文時代前期の5000~6000年前に一帯が海の波打ち際だったことを示す。海蝕痕の近くからは縄文時代後期~晩期の2300~4000年前とみられる貝塚も3カ所見つかった。その1つからはハマグリやカキなどを中心に厚さが60~100cmにも及ぶ貝の層が見つかり、ほぼ完全な屈葬人骨1体を含む3体分の人骨も出土した。

 

 徳島藩主蜂須賀氏の居城だった徳島城は明治初期の廃城令で建物の大半が取り壊され、本丸東側の石垣などが往時の面影を残す。ただ城山は標高約62mとあまり高くないものの、案内板によると「斜面は急で傾度の平均は35.9度」。それを見て足首を痛めていることもあって登るのを断念した。しかし城山の麓にも何カ所か石垣が残っている。石垣に使われているのは「阿波の青石」と呼ばれる緑色片岩。青みがかった石垣は他の城の石垣にない渋みを放っていた。その近くに「竜王さんのクス」と呼ばれる城山最大のクスノキの古木があった。85年前の室戸台風で倒壊したそうだ。

 

 「子供平和記念塔」は終戦まもない1948年に竣工した。高さは4.6mで、最上部にブロンズ製の小便小僧が立つ。総工費36万8000円は全額徳島県下の子どもたちの献金で賄ったという。塔に埋め込まれている石は全国の小中学生やアメリカの子どもたちから送られてきた石や化石で、当時の皇太子(現上皇さま)から贈られた那智の名石2個も含まれているそうだ。園内には徳島城を築いた蜂須賀家政(1558~1639)の像や地元出身の推理作家海野十三(1897~1949)の文学碑、徳島県遺族会が建立した「父の像」、大正~昭和時代に県内を走り回った8620形式蒸気機関車なども展示されている。市民の間からは徳島中央公園の名称を「徳島城公園」あるいは「徳島城址公園」へ変えてほしいという要望も出ているそうだ。

 

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<ヤブミョウガ(藪茗荷)> 白い小花と瑠璃色の実が同時に!

2019年09月28日 | 花の四季

【ツユクサ科の多年草、ショウカ科のミョウガとは無関係】 

 関東以西の山野の林縁や藪に生えるツユクサ科ヤブミョウガ属の多年草。白い根茎が横に這って繁殖し群生する。葉の表面は暗緑色で長さ20~30cmの長楕円形。先端が尖り基部は茎を抱く。ヤブミョウガの名はその姿がミョウガの葉によく似ることから。ただヤブミョウガに薬味として使われるミョウガができることはない。ミョウガは分類上ヤブミョウガとは全く無関係のショウガ科に属す。

 8~9月頃、直立した茎の先に円錐状の集散花序をつくり、輪生状に白い小花を多数付ける。花は萼片3枚と花弁3枚からなり、花弁は1日で萎むが萼は残る。1株の中に雄しべが長く黄色い葯が目立つ雄性花と、雌しべが白くて長い両性花が混在する。果実は径5mmほどの球形。熟すにつれ緑色から光沢のある瑠璃色に変わっていく。花期後半には写真のように花と実が同時に付いた株を見かけることも。

 学名は「Pollia japonica (ポリア・ヤポニカ)」。鎖国期の江戸時代に長崎の出島商館付き医師として来日したスウェーデンの植物学者カール・ツンベルク(1743~1828)が命名した。ツンベルクは〝植物分類学の父〟カール・フォン・リンネの弟子で、シーボルト、ケンペルとともに〝出島三学者〟の一人といわれた。属名「ポリア」はそのツンベルクに資金援助したオランダ人「ポールさん」への献名。種小名は「日本の」を意味する。

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<香川・引田> 往時の繁栄を偲ばせる町並み

2019年09月25日 | 旅・想い出写真館

【織豊時代の石垣が残る引田城、「続日本100名城」にも】

 香川県の東の端に位置する東かがわ市引田(ひけた)。古くから播磨灘に面した天然の良港として知られ、高松と徳島を結ぶ国道11号が南北に貫く。交通の要衝として中世には引田城の城下町として栄え、廃城後も回船業や漁業、醤油や砂糖の製造などで栄えた。旧阿波街道沿いを中心に今も往時の繁栄を偲ばせる豪商の屋敷跡などが点在している。

 とりわけ目を引くのがなまこ壁とベンガラの赤壁が印象的な「かめびし屋(岡田家)」。1753年創業の老舗の醤油醸造元で、店舗や蔵など18棟が国の登録有形文化財になっている。醤油の製法は国内唯一という〝筵麹(むしろこうじ)法〟による長期熟成。店内では醤油の販売のほか、飲食メニューとしてうどんやピザなども提供している。

 

 そばの御幸橋を渡って誉田(ほんだ)八幡宮に向かう途中、右手になんとも不思議な円形の石を積み重ねた石垣があった。この丸い石、サトウキビを搾るために使った石臼という。引田はかつて「和三盆糖」と呼ばれる高級砂糖の原料、サトウキビの一大産地だった。讃岐和三盆は地元の伝統産業として今も守り続けられている。観光客向けに〝和三盆型抜き体験〟を行っているのが観光交流拠点の「讃州井筒屋敷」。この施設は江戸時代~昭和末期に井筒屋として醤油と清酒の醸造業を営んだ豪商佐野家の屋敷で、合併前の旧引田町が買収し2005年にリニューアルオープンした。

 

  引田にはほかにも往時の佇まいを残す屋敷が少なくない。日下家は江戸初期から明治初期まで続いた大庄屋で、旧家の岡田家、佐野家とともに引田御三家と呼ばれた。長崎家は江戸後期に創業した回船業者、松村家は魚の卸商や薬種商などを営んだ。旧引田郵便局は昭和初期建築のレトロな洋風建築で、今は喫茶店として営業している。これらも国の有形登録文化財。

 

 引田城跡は引田港を挟んで町の北側に位置する城山(標高82m)にある。築城時期は不明だが、戦国時代には阿波三好氏との間で攻防が繰り広げられ城主も何度か入れ替わった。1587年に播州赤穂から入城したのが豊臣秀吉の家臣生駒親正(1526~1603)。ただ讃岐国を治めるには地理的に東に偏りすぎとして程なく宇多津、高松に移った。城は一国一城令で1615年に廃城となるが、生駒氏が築いた石垣や曲輪などは今も残る。2年前の2017年には日本城郭協会により「続日本100名城」に選ばれた。

 

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<栗林公園> 降り蹲踞(つくばい)が小川の中に!

2019年09月24日 | 旅・想い出写真館

【石組みや置き石にも深い味わい】

 江戸時代に造られた大名庭園、栗林公園(高松市)は紫雲山を背景に6つの池と13の築山を配した池泉回遊式庭園。約75ヘクタールもの広さがあり、全国36カ所の特別名勝の中でも最大の面積を誇る。「箱松」「屏風松」「お手植え松」など手入れの行き届いた個性的な松の木々が人気を集めているが、巧みに配された石組みや置き石も味わい深い。明治43年(1910年)の高等小学読本に「木石ノ雅趣…三公園(兼六園・後楽園・偕楽園)ニ優レリ」。その雅趣をもう一度満喫しようと3年ぶりに栗林公園を訪ねた。

 石州流の茶室「日暮亭」そばの小川の中に風流な〝降り蹲踞(おりつくばい)〟がある。高松藩5代藩主松平頼恭(1711~71)の頃、この小川に沿って「戞玉亭(かつぎょくてい)」という茶室があった。茶室はその後移築されたが、この降り蹲踞は当時使われていたという貴重な遺構だ。小川の中に右側から前石、手燭石、湯桶石、手水鉢が並ぶ。その手前にある円形の井筒は南側にある涵翠池から送られた水が湧き上がる仕掛けになっている。

 

 栗林公園の置き石として有名なのが「見返り獅子」と「ぼたん石」。いずれも自然石で、獅子が振り返った姿やボタンの花に似ていることから名付けられた。江戸時代には大名が築庭する際、各藩の藩主が名木や奇石などを贈り合う習慣があったそうだ。園内にも薩摩藩主の島津公から贈られたという朝鮮半島産の「鶏林石」があるが、この2つの置き石もさる大名からの贈り物なのだろうか。

 

 南湖の中に「仙磯(せんぎ)」と名付けられた岩組みが浮かぶ。仙人が住むという中国の伝説の理想郷を表したもので「蓬莱島」とも呼ばれている。「小普陀(しょうふだ)」は100個余りの石組みの小高い築山。園内の石組みの中では最も古いもので、栗林公園が始まった場所ともいわれる。小普陀の名は中国の霊場普陀山に因む。西湖の西側には「石壁(赤壁)」と呼ばれる自然の高い岸壁がそそり立つ。流れ落ちる滝は人工的に造られた「桶樋滝(おけどいたき)」。かつては背後の紫雲山の中腹に置かれた桶まで人力で水を汲み上げていたという。今は西湖の水をポンプアップして流しているそうだ。

 

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<センニンソウ(仙人草)> 山野に自生する白い十字花のつる植物

2019年09月23日 | 花の四季

【クレマチスの仲間、その名は種子に密生する羽毛状の綿毛から?】

 キンポウゲ科センニンソウ属(クレマチス属)の多年性つる植物。全国各地の日当たりのいい山野に自生し、朝鮮半島や中国、台湾などにも分布する。晩夏から初秋にかけて茎の先や葉の脇から集散花序を出し、直径3cmほどの十字型の白花を上向きに付ける。花弁に見えるのは萼片で、中心部から多数の雄しべが放射状に広がる。

 学名は「Clematis terniflora(クレマチス・テルニフローラ)」。属名クレマチスは「ツル」や「巻き上げ」を意味するギリシャ語に由来し、種小名は「3つの葉の」を意味する。センニンソウの葉は奇数羽状複葉で3~7枚の小葉からなる。センニンソウ属は日本にテッセン、カザグルマ、ボタンヅル、ハンショウヅルなど20種あまりある。その中でセンニンソウによく似るのがボタンヅル。その名の通りボタンの葉に似て、小葉の縁にはギザギザの鋸歯がある。

 花後にできる果実は卵形で扁平な痩果(そうか)。雌しべの花柱が落ちずに残って長く伸び、白い綿毛に覆われる。その様子を仙人の髭や白髪にたとえてセンニンソウと名付けられたという。他のキンポウゲ科の植物同様プロトアネモニンなどの有毒成分を含み、葉や茎から出る汁に触るとかぶれや水ぶくれなどを引き起こす。センニンソウを「ウマクワズ」や「ウシクワズ」と呼ぶ地方も。これも有毒なため馬や牛でも口にしないことから。「白雲の一朶蘺の仙人草」(川島彷徨子)

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<丸亀城> 石垣の名城 現存木造天守としては最小

2019年09月22日 | 旅・想い出写真館

【見返り坂、扇の勾配、悲しい伝説の二の丸井戸……】

 全国に12カ所しかない木造天守のうち4つが四国に現存する。松山城、宇和島城、高知城、そしてこの丸亀城(別名亀山城・蓬莱城)。現存12天守はいずれも国宝または国の重要文化財に指定されている。重文の丸亀城は高さが約15mで、12天守の中では最も小さい。ただ山全体を高い石垣で強固に堅め亀山(標高66m)山頂に築かれた城は美しい〝石垣の名城〟として広く知られる。

 北側の大手門をくぐって天守に向かうと、まず迎えてくれるのが長くて急な坂道。途中で右に曲がると勾配はますますきつくなる。あまりに急なため登ってきた道をつい振り返ってしまうため「見返り坂」と名付けられた。登っていた若い女性も「急すぎでしょ、この坂」とぼやいていた。三の丸に至るその坂の右手には高さが20mを超える城壁がそびえる。美しい曲線を描いた算木積みの石垣は「扇の勾配」と呼ばれている。

 

 天守は入母屋造り、本瓦葺きの三層三階建て。壁面は白漆喰の総塗籠で、唐破風や千鳥破風などの意匠を凝らす。そばで見上げると小ぶりながら毅然とした風格と佇まい、均整のとれた美しさについ見とれてしまった。昭和の解体修理のとき見つかった板札から、天守の完成は万治3年(1660年)とみられる。四国の現存4天守の中では最も古い。天守からの眺めも素晴らしい。眼下の丸亀の市街地の向こうに〝讃岐富士〟といわれる飯野山や瀬戸大橋などをくっきりと望むことができた。

  

 丸亀城には築城にまつわる悲しい伝説が残っている。その一つが石垣を築いた〝裸重三〟こと羽坂重三郎にまつわる二の丸井戸伝説。殿様が石垣を前に「これでは空飛ぶ鳥以外に城壁を乗り越えるものはあるまい」と絶賛する。これに重三郎は「尺あまりの鉄棒を下されば容易に登れます」と言って目の前ですいすいと登ってしまった。殿様は重三郎が外敵に通じることを恐れ、重三郎が二の丸の井戸(絵図によると深さ約65m)に入っている間に石を落とし殺してしまった――。時の城主は生駒親正とも山崎家治ともいわれている。豆腐売りの人柱伝説もある。城の人柱として捕えられ生き埋めにされた豆腐売りの怨霊が雨の降る夜毎「トーフトーフ」と泣き続けたという。

 

 丸亀城では最近のインスタ映えブームを反映してか、「幸運のハート石」も注目を集めている。その石があるのは大手二の門の真正面の石垣の中。そばに「幸運のハート石 これを触ると良縁のご利益があるとか」と日本語と英語と中国語で書いた案内板が立っていた。ただハート石というほど上側がくぼんでいなくて少々こじつけっぽい感じもしないでもなかったけど……。

 

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<道後公園 湯築城跡> 中世の伊予国の政治・軍事拠点

2019年09月20日 | 旅・想い出写真館

【国史跡、日本100名城、日本の歴史公園100選】

 わが国最古の温泉といわれる道後温泉の南側に国の史跡「道後公園 湯築城跡(ゆづきじょうあと)」がある。広さは8.5ヘクタール。南北朝時代から戦国時代まで(14世紀前半~16世紀末)約250年間にわたって伊予国の守護だった河野氏の居城として政治・軍事・文化の拠点となった。往時の遺構が良好な状態で残り歴史的価値が高いとして2002年国の史跡に指定された。その後、日本100名城、日本の歴史公園100選にも選ばれている。

 湯築城は地形を利用して造られた平山城で、近世の城郭のような天守や石垣はない。築城当初は中央の丘陵部を利用した山城だったが、16世紀前半には外堀を築いて堀と土塁をそれぞれ二重に巡らせた平山城になったと推測されている。発掘調査で出土した建物の礎石や土塀の遺構から、内堀~外堀間の平地部西側が河野氏の家臣団居住区、東側が庭園区・上級武士居住区だったとみられる。西側の湯築城資料館のそばには復元した土塀や武家屋敷2棟があり、東側には上級武士居住区の遺構を平面表示した芝生広場、土塁内部の構造が分かる土塁展示室、ゴミ捨て穴の土坑などがある。

 

 出土したものには瀬戸、美濃、備前など国内はもとより外国製の陶磁器類も少なくない。その中には中国製の青磁、白磁、優雅な染付の青花磁器、高麗青磁なども。天目茶碗や風炉、茶釜など茶の湯に関わる道具類も多数出土した。資料館の展示品の中に、猫の足跡が皿の底にくっきり残った珍しい土師質土器があった。成形直後のまだ土が軟らかいうちに偶然足跡が付いたのだろうか。当時も話題を集めたに違いない。

 

 湯築城跡北側の一角には河野氏ゆかりの愛媛県指定文化財の「石造湯釜」(通称「湯釜薬師」)が展示されている。花崗岩製で直径約167cm、高さ約158cm。製造時期は奈良時代の天平勝宝年間(749~757年)ともいわれ、道後温泉本館で125年前まで湯の湧出口に設置されていたそうだ。湯釜上部の宝珠に刻まれた「南無阿弥陀仏」は鎌倉幕府御家人の河野通有(1250?~1311)が、河野氏一族で時宗の開祖一遍上人(属名河野時氏・通秀)に頼んで書いてもらったとされる。一遍上人は源平合戦で源氏方として功績を上げ伊予国の統率権を得た河野通信(1156~1222)の孫に当たる。湯釜本体には河野氏最後の当主河野通直(1564~87)の命によるという温泉の効験が刻まれている。(写真㊨は湯築城跡の土塁展示室)

 

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<ゲッカビジン(月下美人)> 一夜限りの妖艶な花

2019年09月17日 | 花の四季

【純白の大輪と芳香で〝送粉者〟のコウモリを誘引!】

 メキシコ~ブラジルの熱帯雨林地帯に自生するサボテン科クジャクサボテン属の多肉植物。日本には大正時代の末期に渡来したといわれる。着生サボテンの仲間で、原産地では老木の幹などに根を張るが、日本では行灯仕立ての鉢植えで栽培されることが多い。花期は6~10月ごろ。開花時期が近づくと下向きだった蕾が次第に上向きとなって急激に膨らむ。そして開花当日、日が落ちてから咲き始めて夜9時ごろ満開となり、翌朝には萎んでしまう。

 純白の花びらが折り重なった花は直径が20cmほどもある。中心部から怪しげな形状の雌しべが突き出し、その根元を絹糸状の無数の雄しべが囲む。開花と同時に甘い香りを遠くまで放つのも特徴の一つ。花の寿命は短いが、複数の蕾が付けば咲く日がずれ、また生育条件が良ければ年に数回咲く。自生地のジャングルでは小型のコウモリがゲッカビジンの受粉を媒介する〝送粉者〟の役目を果たす。そのコウモリは花の蜜や木の実を餌とする「果実コウモリ」。暗い夜に目立つ純白の大輪の花を開き強い香りを放つのも、その夜行性のコウモリを誘うためといわれる。

 優美な名前の由来は昭和天皇が皇太子時代に台湾を訪問した1923年まで遡る。当時の台湾総督、田健治郎氏(1855~1930)は皇太子からこの美しい花の名を問われとっさに「月下の美人です」と答えた。以来、月下美人という和名が日本で定着したそうだ。近縁種や園芸品種に小型で多花性の「姫月下美人」、月下美人と姫月下美人の交配種「満月美人」、ドラゴンフルーツに似た赤い果実を付ける「食用月下美人」などがある。「人待つごと月下美人に正座かな」(野辺祥子)

    …………………………………………

【月下美人またまた開花!】

 今年これでなんと4回目。前回は蕾が5つ付き9月12~18日の間に日を置いて1~2個ずつ咲き長く楽しませてくれた。その後蕾がまた5つ。そして今回はうち4つが昨晩(10月11日)同時に開花した。甘い香りを放ちながら夜8時前には全開に。残り1つも蕾が大きく膨らんできており今晩には咲きそうだ。(10月12日記)

 

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<松山城> 四国屈指の名城、現存12天守の一つ

2019年09月16日 | 旅・想い出写真館

【二之丸跡には巨大な大井戸遺構や残酷な「俎石」】

 松山城は江戸時代またはそれ以前に築城され今なお残る現存天守12城の一つ。勝山山頂(標高132m)に本丸、中腹に二之丸、山麓に三之丸を置いていた。天守・小天守・隅櫓を渡り櫓で結ぶ構造はわが国を代表する連立式天守を備えた城郭といわれる。国指定重要文化財の建造物は天守をはじめ戸無門、隠門、隠門続櫓、紫竹門、乾櫓、野原櫓など21棟にも上る。

  

 二之丸跡地は「二之丸史跡庭園」(開園1992年)として公開されている。広さは約1.6ヘクタールで、「表御殿跡 柑橘・草花園」と「奥御殿跡 流水園」の二つに大きく分かれる。発掘調査や古い絵図に基づいて、遺構上にミカンなど柑橘類を植えたり水が流れる区画を仕切ったりして二之丸の部屋の間取りを再現した。庭園東側には露岩を背景に池や滝を配した回遊式の「林泉庭」もある。

 

 二之丸は出羽国の藩主から伊予松山藩の2代目藩主となった蒲生忠知の時代(1627~34)に完成した。蒲生氏郷は忠知の祖父に当たる。「林泉庭」の北側にその忠知にまつわる「俎石(まないたいし)」がひっそり置かれていた。説明文によると、忠知は当初名君といわれたが、世継ぎが生まれないことが原因で次第に傍若無人な振る舞いが目立つように。ついには遠眼鏡(とおめがね)で出産間近な妊婦を見つけては捕らえ、自ら「まないた石」と名付けた石に縛りつけて腹を裂き胎児を取り出した。そのため領内の身重な女性は恐れをなして外に出ることができなかったという。忠知はその後、参勤交代の途上京都で病没し、嗣子がいないためお家断絶となったそうだ。

 

 その残酷話の一方で、二之丸跡の「大井戸遺構」からはロマンスを秘めたものも出土している。遺構の規模は東西18m、南北13m、深さ9m。二之丸御殿の火災に備えた防火用の貯水施設とみられている。埋め立てられたその遺構から、ロシア人の男性捕虜と日本人女性看護師の名前が刻まれた帝政ロシア時代の金貨が見つかった。日露戦争当時、松山には捕虜収容所が設けられ、二之丸跡にあった陸軍病院にも多くのロシア人が入院していたという。この金貨、加工の跡からペンダントとして使われていたのではないかと推測されている。二之丸史跡庭園は6年前、NPO法人地域活性化支援センターによって〝恋人の聖地〟に選ばれた。

 

 松山城をロープウエーで下って二之丸庭園に向かう途中、「坂の上の雲ミュージアム」のそばにある「萬翠荘」に立ち寄った。大正年間の1922年に旧松山藩主の子孫に当たる久松定謨伯爵が別邸として建てた純フランス風の洋館。2011年に国の重要文化財に指定された。設計したのは大阪を拠点に多くの公共建造物を設計した木子七郎(1884~1955)で、木子は松山市内で愛媛県庁本館や石崎汽船旧本社などの設計も手掛けている。

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<オニバス(鬼蓮)> 絶滅危惧種、巨大な葉の両面に鋭いトゲ

2019年09月15日 | 花の四季

【子どもが乗るオオオニバスは南米原産の外来種】

 巨大な浮き葉を持つスイレン科オニバス属の日本最大の水生植物。北限は新潟市の福島潟で、本州・四国・九州の比較的栄養に富む池や沼などに自生する。国外では中国からインドにかけても分布する。オニバス属の植物はこの1種だけ。よく似たものに葉の縁が立ち上がるたらい状のオオオニバス(オオオニバス属)がある。植物園のイベントなどで葉の上に幼児が乗ることで知られるが、こちらの原産地は南米のアマゾン地方。

 オニバスの葉は大きいものでは直径が2mほどにもなる。葉の両面には硬くて鋭いトゲ。茎や花の萼などにも無数のトゲが生える。「鬼蓮」の名前も葉の形がハスに似て大型でトゲに覆われていることから。学名は「Euryale ferox(エウリアレ・フェロックス)」。属名はギリシャ神話の中で神罰によって怪物に姿を変えられた3姉妹の一人の名前に因む。種小名は「トゲの多い」を意味する。花期は8~10月。茎の先に径3cmほどの小さな紫色の花を付ける。オニバスにはこの〝開放花〟とは別に、水中で蕾のまま自家受粉して結実する〝閉鎖花〟がある。

 種子の寿命は長く、数十年の休眠期間を経て再び発芽するケースも少なくない。ただ池の埋め立てや水質の悪化などで自生地の減少が続いており、環境省は絶滅の危険が増大しているとして絶滅危惧Ⅱ類に分類している。富山県氷見市の「十二町潟オニバス発生地」は国指定の天然記念物。このほか東京都葛飾区の水元公園、静岡県掛川市の中新井池、埼玉県加須市の「オニバスの郷」、香川県善通寺市の前池、福岡県遠賀町の蟹喰池(がにはみいけ)、鹿児島県薩摩川内市の小比良池など各地の自生地が自治体の天然記念物に指定されている。「鬼蓮の水を破りて亀の首」(橋本榮治)

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<ミズアオイ(水葵)> 東日本大震災の津波で蘇った水生植物!

2019年09月14日 | 花の四季

【古名「ナギ」、万葉集の中にも登場】

 水深の比較的浅い淡水に生えるミズアオイ科ミズアオイ属の抽水植物。水底の土壌に根を張り、葉と茎の一部は水面上に顔を出す。花期は8~9月頃で、茎の上部に穂状の総状花序を形成し青紫色の涼しげな花を数個ずつ付ける。花径は3cmほど。雄しべ6個のうち5個の葯(やく)は黄色いが、残りの1個は紫色でやや下向きに垂れ下がる。

 葉は光沢のあるハート形。和名はその形がアオイに似て水生植物であることによる。古くは「水葱(なぎ)」と呼ばれ、万葉集にも「水葱」「小水葱(こなぎ)」「植ゑ子水葱(うえこなぎ)」などとして詠まれている。「苗代の小水葱が花を衣(きぬ)に摺り なるるまにまにあぜか愛(かな)しけ」(14巻3576、作者未詳)。「水葱」は本来「菜葱」を意味し、古くから若葉は和え物や汁物など食用として、また花は染料として利用されてきたという。

 河川や水路の改修、除草剤の使用などによって全国的に生育場所が減少し、環境省はレッドリストに準絶滅危惧種として掲載している。そのミズアオイが東北地方の太平洋沿岸部を襲った東日本大震災で一躍注目を集めた。津波によって地面を覆っていた表土が削られた結果、地下で休眠していた種子が発芽し各地でミズアオイの群落が蘇った。「藻畳にもり上りをり水葵」(浅野白山)

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<松山・大神輿総練> 神輿17基に加え太鼓台や牛鬼も

2019年09月13日 | 祭り

【水軍太鼓が鳴り響く中、勇壮に練りや差し上げ】

 愛媛県内の神輿や太鼓台など秋祭りの主役が集結する「大神輿総練(おおみこしそうねり)」が8日、松山市堀之内の城山公園で開かれた。9回目の今年は松山神輿17基に加え新居浜市の太鼓台、宇和島市の牛鬼などが参加。松山水軍太鼓が鳴り響く中、3時間余にわたって勇壮な練りや差し上げ、神輿同士がぶつかり合う鉢合わせなどが次々に披露された。

 出場した松山神輿17基の内訳は「まどんな神輿」「紅媛(くれない)神輿」などおんな神輿6基、「湯之町大神輿」「大唐人(おおとうじん)神輿」など八町会の神輿8基、そして「おみこっさん」として親しまれている古町の「千木(ちぎ)神輿」「四角神輿」「八角神輿」の3基。新居浜からは「口屋太鼓台」、宇和島からは「丸穂牛鬼保存会」が参加した。

  

 神輿や太鼓台などの入場に先駆け、オープニングとして「大洲藩鉄砲隊」による火縄銃の演武や、今治の「九王獅子連」による〝継ぎ獅子〟などが披露された。この継ぎ獅子は人の上に人が何段も乗るもので、春の大祭では海上に浮かべた船を舞台に演じることで有名という。この日は〝四継ぎ〟と呼ばれる4段の継ぎ獅子を完成させ、観客から割れんばかりの拍手が送られていた。

 

 松山東雲中学・高校吹奏楽部によるマーチングバンドや「山鳥坂鎮縄神楽(やまとさかしめかぐら)保存会」による「大蛇(おろち)退治の舞」などもあった。そしていよいよ神輿や太鼓台、牛鬼のパフォーマンス。太鼓台の見どころは豪華絢爛な飾りと差し上げ。重さ約2.5トンもある太鼓台をかき夫100人余が力を合わせ頭上に高く持ち上げる。台上前面中央に中村時広知事が乗り込み、かき夫を鼓舞する場面も見られた。

 このイベントを勇壮な太鼓の響きで終始盛り上げていたのが「伊豫之國松山水軍太鼓保存会」のメンバーたち。水軍太鼓は40年前の1979年に松山市制90年を記念し創作された郷土芸能で、今では演奏曲目が15曲に上るという。旧市内の全小中学校にも太鼓を配置しているそうだ。この日も法被姿の小さな男の子が太鼓を打ち鳴らしていた。そのバチさばきの見事なこと! 息の合った太鼓や笛の演奏を、身動きせずにじっと見つめる外国人女性の姿も印象的だった。

 

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<大和文華館> 「樹のちから―東洋美術における樹木の表現」

2019年09月05日 | 美術

【15~20世紀の東アジアの作品36点を展示】

 奈良市学園南の大和文華館で「樹のちから―東洋美術における樹木の表現」が開かれている。「山水世界の創出」「場面を彩る樹」「人の想いに寄り添う樹」の3章構成で、樹木の様々な表情を描いた15~20世紀の中国、日本、朝鮮半島の作品36点が並ぶ。会期は9月29日まで。

 展示作品の中でとりわけ圧倒的な存在感で迫ってきたのが富岡鉄斎(1836~1924)の墨画「古木図屏風」(写真、制作年未詳)。六曲一双のうちの左隻で、古木図や樹石図を多く描いた鉄斎にとっても最大級の作品だ。金箔を散りばめた金箋(きんせん)に、老いてもなお生気漲る古木とその周りに奇石、竹、鳥などを配置した。古木がまるで樹の精や樹の妖怪のようにも見えなくもない。解説には「厳しい環境でも節を曲げずに生きる、高潔な老人の精神を投影したのだろう」とあった。自らの信念と生き様をこの老木に託したに違いない。

 伝周文筆の六曲一双の「山水図屏風」は国の重要文化財。周文は室町時代中期に活躍した京都・相国寺の画僧で、雪舟の師としても知られる。ただ作者には周文の弟子岳翁や小栗宗湛などの説も出ているそうだ。鑑貞筆の「瀟湘八景図画帖」は中国湖南省の風光明媚な瀟湘の景色を描いた作品。水墨画家鑑貞は奈良・唐招提寺の総持坊に住していたといわれる。「閑屋秋思図」は中国清時代初期に活躍した高其佩(1672~1734)の作品。彼は筆の代わりに指や爪で描く指頭画(しとうが)を始めたことで名を馳せた。

 このほか富岡鉄斎の「松鶴図」や与謝蕪村に南画を学んだ呉春の「春林書屋図」、中国明時代の惲向筆「冬景山水図」、張宏筆「越中真景図冊」、清時代の楊晋筆「山水図冊」、伝余崧筆「桐下遊兎図」、朝鮮中期の「群鹿図」なども展示中。

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<サンゴジュ(珊瑚樹)> 鮮やかな赤い実をベニサンゴにたとえて

2019年09月04日 | 花の四季

【防火樹として生垣や庭木に、横浜・大東・防府・坂出の「市の木」】

 レンプクソウ科(旧分類ではスイカズラ科)ガマズミ属の常緑樹。高さは通常3~6mほどだが、大きいものは10mを超える。本州の関東以西と四国、九州、沖縄の海岸近くの山地に自生し、生垣や庭木、公園樹などとしてもよく植えられる。海外では朝鮮半島南部や台湾にも分布する。

 7~8月頃、枝先に円錐状の花序を伸ばし、上向きに白い小花を密に付ける。9月頃から赤い楕円形の実(径7~8ミリ)をたわわに結び始める。和名はその姿を美しいベニサンゴ(紅珊瑚)にたとえた。晩秋になると、実は次第に青黒くなっていく。葉は厚く光沢があり、水分を多く含んで燃えにくい。このため火除けの〝防火樹〟としても人気を集めてきた。成長が早いうえ、排ガスなど公害や潮害にも強い。

 サンゴジュを「市の木」と定めているところも。大阪府大東市や香川県坂出市、山口県防府市などで、横浜市でも6種類ある市の木の一つに、イチョウやツバキなどとともに名を連ねている。サンゴジュの葉は「サンゴジュハムシ」というハムシ科の昆虫の大好物。幼虫も成虫も食べるが、特に成虫の活動が活発な夏場以降まさに虫食い状態になった葉を見かけることも少なくない。「朱の深き珊瑚樹の実や鐘撞けば」(加藤知世子)

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