く~にゃん雑記帳

音楽やスポーツの感動、愉快なお話などを綴ります。旅や花の写真、お祭り、ピーターラビットの「く~にゃん物語」などもあるよ。

<奈良県立ジュニアオーケストラ> ハイドン「チェロ協奏曲第1番」 横坂源と協演

2013年03月31日 | 音楽

【第2回定演、ブリテンの「シンプル・シンフォニー」も】

 2年前に創設された奈良県立ジュニアオーケストラの第2回定期演奏会が30日、奈良県文化会館で開かれた。団員は小学生から高校生までの44人。国内外で活躍する若手チェリスト横坂源をゲストに迎えてハイドンの「チェロ協奏曲第1番」を協演したほか、おなじみの「となりのトトロ」やブリテン作曲の難曲「シンプル・シンフォニー」なども披露、みずみずしい熱演に会場からは惜しみない拍手が送られた。

 横坂源は1986年、新潟市生まれ。桐朋学園女子高校を卒業後、ドイツのシュトゥットガルト国立音大などで研鑽を積む。13歳の時、東京交響楽団とサン=サーンスのチェロ協奏曲を協演し、15歳の時にはチェリストへの登竜門、全日本ビバホール・チェロコンクールで最年少優勝。2008年、斎藤秀雄メモリアル基金賞受賞、09年、全ドイツ学生音楽コンクール第1位、さらに10年にはミュンヘン国際音楽コンクール第2位と、世界的チェリストへの階段を着実に上っている。

 ハイドンのチェロ協奏曲はドボルザークと並ぶ傑作。英国の天才チェリスト、故ジャクリーヌ・デュ・プレが夫のダニエル・バレンボイム指揮/イギリス室内管弦楽団と協演した名盤の印象が深い。高度な技巧を要する曲だが、横坂はチェロに身を委ねるように目を閉じてチェロの豊かな表情を存分に引き出した。実態〝弦楽アンサンブル〟のジュニアオーケストラには奈良交響楽団からホルンとオーボエが応援に加わったが、リズムをほぼ正確に刻みチェロとの掛け合いもまずまずだった。

     

 横坂は協奏曲に続いてスペインのチェリスト、カサド作曲の「無伴奏チェロ組曲」を演奏。ここでも躍動感あふれる名演でチェロの魅力をたっぷり聴かせてくれた。ジュニアオーケストラはこのほかヘンデルの「アルキーナ組曲」、スタジオジブリ作品より「君を乗せて」「いつも何度でも」など4曲、ブリテンの「シンプル・シンフォニー」などを演奏し、最後は「上を向いて歩こう」で締めくくった。

 ジュニアオーケストラの音楽監督・指揮者の梅沢和人(元大阪フィルハーモニー・コンサートマスター)は横坂の演奏を〝神業〟と称えていたが、若いメンバーにとってもこの協演は今後の大きな励みになることだろう。県立オーケストラの創設は既存オーケストラへの補助金カットや市音楽団の存廃問題などで揺れる大阪への1つの〝アンチテーゼ〟としても興味深い。無報酬とプロの楽団という違いはあるが……。成長途上のジュニアオーケストラのさらなる飛躍を期待したい。

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<モモ(桃)> 源平・菊桃・矢口…花モモの多くは江戸時代に作り出された!

2013年03月30日 | 花の四季

【山梨・長野など各地の〝桃源郷〟で桃まつり、大阪城の桃園も見頃に】

 バラ科で日本には古く中国から渡来した。記紀や万葉集にもすでに見える。「春の苑紅にほふ桃の花 下照る道に出で立つ乙女」。大伴家持は越中守在任中にこう詠んだ。花が美しく庭木や切り花として栽培されるものを「花モモ」、果実を食用にする品種を「実モモ」と呼ぶ。日本でモモが食用として栽培され始めたのは明治以降と比較的新しい。

 花モモには1本の木に紅白の花が咲く「源平」(写真)をはじめ、緋色で八重の「矢口」、花の形が菊に似た「菊桃」、八重で緋紅色の「寒緋桃(カンヒトウ)」、白の大輪の「関白」、箒(ほうき)を立てたような樹形の「箒桃」などがある。このうち「源平」は源氏(白旗)と平家(赤旗)が入り乱れて戦った源平合戦にちなんで名づけられた。樹形から「枝垂れ源平」と「立ち源平」がある。花モモの多くが江戸時代に作り出され、江戸後期には200種もの品種があったという。

 「日本一の桃の産地」山梨県の笛吹市では桃の開花に合わせ4月1~21日「桃の花まつり」が開かれる。期間中「川中島合戦戦国絵巻」をはじめ多彩なイベントが繰り広げられる。甲州市では「えんざん桃源郷ひな飾りと桃の花まつり」(4月18日まで)が開催中。花の見頃は4月上旬から中旬にかけてという。「日本一の花桃の里」茨城県古河市では「古河桃まつり」(4月7日まで)を開いている。今年で37回目。会場の古河総合運動公園の桃林を中心に5品種・2000本が咲き乱れる。

 長野県上田市の「余里(より)の一里花桃」は文字通り1里約4キロにわたって2000本が咲き誇る。地元の「花咲じいさんクラブ」が地域おこしのため10年以上かけて植樹した。見頃は4月下旬~5月上旬。関西では大阪城公園内の桃園が名所の1つ。14年前の1999年春に開園した。本数は約200本とさほど多くないが「枝垂れ源平」など12品種と種類が多いのが特徴。大阪市東部方面公園事務所によると「早咲きはほぼ満開で見頃。源平は3~4分咲き」とのこと。

 桃の花といえば思い出されるのが宝塚歌劇の「我が愛は山の彼方に」。鳳蘭、安奈淳の2トップと共演した娘役の大原ますみが歌った「桃の花」が忘れられない。「桃の花、桃の花、甘い香りを漂わせ……」。ふくよかな桃の花同様、実に優しく清楚な歌声だった。この演目が故長谷川一夫の宝塚初演出だったという。あれから、もう……。「源平桃地にも紅白散りみだれ」(鈴木花蓑)。

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<BOOK> 「読む事典 内田百 我樂多箱」

2013年03月29日 | BOOK

【備仲臣道著、皓星社発行】

 帯に「内田百読みの達人が案内する百鬼園ワールド!」。百鬼園は小説家・随筆家、内田百(1889~1971年)の別号である。百は岡山市の造り酒屋の一人息子として育った。夏目漱石門下で、ユーモアと諧謔精神に富む随筆を多く残した。

   

 筆者の備仲臣道(びんなか・しげみち)氏は1941年朝鮮忠清南道生まれで、45年日本に帰国。山梨時事新聞(廃刊)の記者を経て、82年「月刊新山梨」(93年休刊)を創刊、編集発行人に。愛息を末期がんで亡くしている。「彼の下宿へ遺品をかたづけにゆき蔵書の中に内田百が鎮座ましましているのを見た……百に傾倒していたことを、そのときに知った」。あとがきで百との出会いをこう綴る。

 以来、百を読み漁ったのだろう。2002年には随筆「メロンとお好み焼き」で第6回岡山・吉備の国内田百文学賞優秀賞を受賞した。本書は百の著作に出てくる言葉や作品を50音順に紹介・解説する。その数ざっと300件余。〝百事典〟づくりの狙いは? 「内田百は面白い……百の文を一度ばらばらの言葉にしたうえで、百がなにを考え、いかに生きたかを見れば、面白さの根源が判るだけではなくて、自分の思うとおり、偏屈を通して狷介に生きることが、この上なく楽しいことだと判るに違いない」(まえがき)。

 故郷岡山への愛着心がことのほか強かった。鉄道や琴、酒、猫なども深く愛した。事典の『琴』の項によると、中学初年級の頃に琴を習い始め、陸軍士官学校の教官のとき宮城道雄との親交が始まった。『宮城道雄』によると、宮城は「7歳の折りに失明してから目が不自由であったが、目についての冗談が好きで、頻繁に口から泡を飛ばして駄洒落を言った」そうだ。その宮城が1956年、大阪行きの夜行急行列車から転落し急逝する。百はその顛末を随筆『東海道刈谷驛』に記した。

 百は『夏目漱石全集』の編纂の仕事を他の3人と共に担当した。『推敲』によると「常に漱石先生が私の中のどこかに在って指導し叱咤する」。漱石には金銭面でも大いに面倒を見てもらった。『漱石』の項によると「恐る恐る(借金の)来意を告げると、漱石は叱りもせずに、いいよ、と軽く言った」。漱石は百が質入れしたものが流れないように利子分まで払ってやっている(『質屋』)。東京帝大時代に講義で知り合った『芥川龍之介』にもよくお金を借りた。

 『金』の項で筆者はこう記す。「高利貸ばかりか、先輩や友人たちからも、たびたび金を借りていた百は、世間の常識に対しても含蓄のある警告を発している。まず友達にお金を借りて見ることですね。そうすれば、相手の人の気持がよく分かります――などというのがそれである」。

 造り酒屋生まれの百は「お酒と言って、酒を呼び捨てにしなかった」(『酒』)、1945年5月26日の東京空襲の際には片手に目白を入れた袖籠、もう一方に1合ばかり酒の残った一升瓶を持って逃げた。食にも固執した。1960年5月には「31日間に22日も鰻重を食った」(『鰻』)、油揚げの焼きたても好物の1つで「これを〝じゅんばり〟と称して酒肴の列に加え、上席のほうに遇していた」(『油揚げ』)。この事典をめくるだけでも、百の奔放な生き様が目に浮かぶ。

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<サクラソウ(桜草)> 春を代表する鉢花 清楚・可憐な風姿!

2013年03月28日 | 花の四季

【埼玉・田島ケ原の自生地は国の特別天然記念物】

 サクラソウは江戸時代、武士の間で栽培ブームが起き、以来、交配で多くの園芸品種が作り出されてきた。奈良県御所市の高鴨神社には明治末期から先代宮司の父子が3代にわたって蒐集・栽培してきたサクラソウ約500種類が伝わり、毎年4月20日~5月10日頃「日本さくら草展」が開かれる。

 サクラソウ科の多年草で、海外のサクラソウと区別するため「ニホンサクラソウ」ともいわれる。西洋や中国などの海外自生種や交配種は一般に「プリムラ」と呼ばれる。ニホンサクラソウの学名は「プリムラ・シーボルディ」。江戸時代、オランダ商館医シーボルトが標本と種を持ち帰ったことから、この名が付けられた。国内でサクラソウとして販売されているもののほとんどはプリムラの系統という。「ポリアンサ」「ジュリアン」「マラコイデス」などの品種名がよく知られる。。

 サクラソウは埼玉県の県花で、さいたま市の市花にもなっている。さいたま市の田島ケ原サクラソウ自生地は国指定の特別天然記念物。荒川河川敷の約4ヘクタールに150万株が自生し、4月に入るとピンクの可憐な花が咲き誇る。今年は20~21日に「さくら草まつり」が開かれる予定。かつて田島ケ原とともに大群落地として知られた浮間ケ原(東京都北区)は地元有志の増殖活動で絶滅の危機を乗り越え、今では10万株まで増えたという。浮間桜草圃場で16~30日「さくら草祭り」を行う。

 サクラソウは大阪府の「府民の花」にもなっている。愛好者でつくる「浪華さくらそう会」は発足が1936年だから、約80年という長い歴史を誇る。埼玉県戸田市や千葉県四街道市の市の花にもなっており、四街道市では4月21日、中央公園で「サクラソウフェスタ」が開かれる。このほか20日には靖国神社・春季例大祭で、16~21日には東山動植物園(名古屋市)で「さくらそう展」が開かれるなど、4月はまさに春爛漫。「我国は草もさくらを咲きにけり」(小林一茶)。

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<BOOK> サイエンス・アイ新書「あなたが知らない動物のふしぎ50」

2013年03月27日 | BOOK

【中川哲男著、ソフトバンククリエイティブ発行】

 著者の中川氏は1943年大阪生まれで大阪市天王寺動物園の元園長。動物園勤務は約30年間に及び、その間、世界の先進的な動物園・水族館を多く視察した。園長在任中は動物の〝生態的展示〟に力を注ぎ、爬虫類生態館やガラス越しに水中遊泳を観察できるカバ舎、アフリカサバンナ区草食動物ゾーンの設置などに取り組んだ。

   

 本書は著者が見てきた多くの動物たちの中で、とりわけ驚かされた動物の生態や魅力などを細かく紹介する。第1章の「姿形が異形な動物のふしぎ」から第6章の「海外で見た動物のふしぎ」までの6章構成。オールカラーで、取り上げた動物は合計50種類に上る。身近に動物と触れ合ってきた動物園のプロならではの話題が随所に盛り込まれている。

 フラミンゴの雛は孵化後3週間、親から口移しで栄養たっぷりの「フラミンゴミルク」をもらう。メスだけでなくオス親もそのミルクを分泌する。ミルクは赤血球や赤い色素を含むため真っ赤。雛に与えるとき、そのミルクがこぼれて親の翼に付着することがある。これを見た入園者が怪我をしていると勘違いして通報してくることもよくあるそうだ。

 日本は〝ペンギン大国〟。国内でのペンギン飼育数は11種3770羽(昨年3月現在)で世界の飼育数の4分の1を占める。皮下脂肪が厚いペンギンは石油が発見されるまで、アザラシやオットセイ同様、欧米で油を採るために乱獲された。英国の採油会社は1867年に約40万羽のオウサマペンギンを捕獲し、約23万リットルの油を採ったとの記録も残る。「ペンギンは鳥類です」。入園者の中には哺乳類と勘違いしている人も多いという。

 日本は〝レッサーパンダ王国〟でもあるそうだ。世界の飼育数の半分に当たる約250匹を国内で占めるからだ。両足で立つレッサーパンダが一時話題になったが、「もともとヒトやチンパンジー、クマと同じように足の踵骨を地面にくっつけて歩くので、立ち上がることはそんなに不思議なことではない」。見出しも「めずらしくはない、立って当たり前!」。

 アリを主食とするオオアリクイは「全てのアリ塚を破壊して食べ尽くすのではなく、少量を食べて次のアリ塚に移るなどして食糧の温存確保に努めている」。では動物園では? アリの代わりに馬か鶏のミンチ肉にドッグフードやヨーグルトをミキサーにかけ液状にして与えるという。1分間に約100回も舌を出し入れして食べるそうだ。

 クロオオカミに8匹の赤ちゃんが生まれた。親が母乳で育てた4匹の毛は親と同じく真っ黒なのに、人工哺育した4匹は茶褐色に変色した。「母乳の特に初乳の中に毛色などの形質を伝える因子が含まれるのでないか」と推測している。

 このほかにも動物の不思議やエピソードを満載。全身真っ黒な猿フランソワルトンの赤ちゃんは全身鮮やかなオレンジ色▽キングチーターは黒い斑点が帯状に連なるが、突然変異種のためか普通のチーターと交配しても固有の斑紋を持つチーターはなかなかできない▽江戸では12軒の猿曳き(猿回し)に免許が交付され正月などに将軍の前で猿舞を披露。猿曳きの元締めの扶持は旗本よりも高かった――。

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<ボケ(木瓜)> 春の訪れを告げる「報春花」

2013年03月26日 | 花の四季

【中国原産、夏目漱石「余も木瓜になりたい」】

 バラ科ボケ属の低木で、春の訪れを告げるため「報春花」や「放春花」と呼ばれる。中国原産で日本には平安時代に渡来した。果実がウリに似ており、木に成る瓜ということで「木瓜」となった。ボケはその漢名の読み「もっけ」から転じたとも、古名の「毛介(もけ)」が訛ったものともいわれる。同属で日本在来種に背丈が低い「クサボケ(草木瓜)」がある。別名「シドミ」「ノボケ」。

 ボケといえば鮮やかな緋色というイメージが強い。「緋木瓜」という品種を最もよく見かけるためだが、白や紅白の咲き分けなどもある。「白木瓜」は花が純白、「淀木瓜」は大輪の濃紅色、「更紗(さらさ)木瓜」は白と紅の混色、「香篆(こうてん)木瓜」は枝がねじ曲がり淡い紅花。ボケ愛好者でつくる「日本ボケ協会」は毎春、新潟県秋葉区(全国最大のボケ生産地)で「日本ボケ展」を開く。36回目の今年は3月1~10日に開かれ、1万5000鉢ものボケが展示即売されたという。

 群馬県太田市の源義経ゆかりの冠稲荷神社には樹齢400年ともいわれるボケの大樹がある。高さ3.5m、根周り3mで樹形は大きな半円形。県の天然記念物に指定されている。品種は「緋木瓜」で、毎年4月上旬から5月にかけ紅色の花を無数につける。古くから「子宝伝説」があり、子育てや縁結びを祈願する参拝者も多いそうだ。

 文豪夏目漱石はボケファンだったという。「草枕」にこう記した。「木瓜は面白い花である……評して見ると木瓜は花のうちで愚にして悟ったものであろう。世間には拙を守るという人がある。この人が来世に生まれ変わると、きっと木瓜になる。余も木瓜になりたい」。要領は悪くても愚直に自らの生き方を貫きたい――。漱石はそんな思いを俳句にも残した。「木瓜咲くや漱石拙を守るべく」。

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<バレー女子> レギュラーラウンド終了 1位NEC、2位久光、3位東レ、4位岡山

2013年03月25日 | スポーツ

【得点王はトヨタ車体のダニエルソン、東レ荒木ブロックなど3部門独占】

 バレーボールV・プレミアリーグ女子は24日レギュラーラウンドの最終戦が行われ、新外国人や若手の活躍が光ったNECが首位の座を守った。以下、2位久光製薬、3位東レ、4位岡山シーガルズ。この4チームで4月5日から始まる決勝ラウンドを戦う。7位デンソーと8位パイオニアはチャレンジリーグ上位チームとの入れ替え戦に回る。

レギュラーラウンドの順位と得失セット数

1位 NEC    23勝5敗(得74、失40)

2位 久光製薬   21勝7敗(得73、失43)

3位 東 レ    20勝8敗(得68、失47)

4位 岡 山    15勝13敗(得64、失51)

5位 トヨタ車体  12勝16敗(得49、失65)

6位 J T      9勝19敗(得47、失63)

7位 デンソー   7勝21敗(得39、失73)

8位 パイオニア  5勝23敗(得42、失74)

総得点ランキング 

①カナニ・ダニエルソン(トヨタ車体)550点②迫田さおり(東レ)491点③浅津ゆうこ(パイオニア)459点④イエリズ・バシャ(NEC)434点⑤福田舞(岡山)428点⑥長岡望悠(久光製薬)426点⑦荒木絵里香(東レ)393点⑧近江あかり(NEC)380点⑨新鍋理沙(久光製薬)373点⑩吉澤智恵(JT)364点

【岡山、新エース栗原の負傷が響き後半息切れ】

 前半の4強がそのまま決勝ラウンドに回ることになった。ただ前半10勝4敗で3位につけていた岡山は、後半5勝9敗と大きく負け越した。前半、得点ランキングでカナニ・ダニエルソン(トヨタ車体)に次いで2位だった栗原恵が、2月後半に右膝の靱帯を痛めベンチから外れたことが響いた。岡山はフルセットになった10試合のうち7試合を落としており、点が欲しいここ一番での弱さも目立った。NECは最下位だった前季とは見違える試合巧者ぶりで、第2レグから首位をキープした。新加入のイエリズ・バシャ(トルコリーグから移籍)が期待通りの活躍を見せ、近江あかりをはじめ若手の成長もチームに活力を与えた。

 元日本代表セッターの中田久美が新監督に就任した久光はアタック決定率、アタック決定本数(1セット当たり)、サーブ効果率、サーブ成功率がいずれもリーグ1位と、攻守のバランスの良さが光った。とりわけ活躍が目立ったのがサウスポー長岡望悠。得点ランキングで5位になり、新鍋理沙や石井優希とともにチームを牽引した。チームの要だった木村さおりが抜けた東レは前半波に乗れなかったが、尻上がりに調子を上げた。中でも迫田さおりはリーグ2位の得点を上げ、荒木絵里香はブロック、アタック決定率、サーブ効果率の3部門でリーグトップの活躍を見せた。

 下位チームでは前半5勝9敗と低迷していたトヨタ車体が、カナニ・ダニエルソンの活躍などで後半は7勝7敗とイーブンに盛り返した。一方、前半6勝8敗の5位で折り返したデンソーは後半、攻守とも精彩を欠いて14戦で僅か1勝にとどまり、入れ替え戦に回ることになった。

【4月5~7日に4強によるセミファイナル】

 4強による決勝ラウンドは4月5~7日に千葉県船橋市で1回戦総当たりのセミファイナル、同13日に東京で優勝戦と3位決定戦を行う。レギュラーラウンドの対戦を振り返ると、1位NECは2位久光に4戦全勝したものの、3位東レには1勝3敗と負け越し。NECに全敗の久光は東レには4戦全勝。4位岡山はNECに2勝2敗のタイだが、久光には1勝3敗、東レには4戦全敗している。上位3チームの激しい戦いが予想されるが、岡山の奮起も期待したい。

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<中田勝康写真展> 奈良時代~昭和の石組みの日本庭園 大迫力の作品45点

2013年03月24日 | メモ

【「自然界と人工造形は対極であるべき」講演会で】

 日本庭園をこよなく愛し全国の名園を撮り続けている中田勝康氏の写真展「日本庭園の石組み 時代思想と造形」(16~24日)が、けいはんな記念公園(京都府精華町)の水景園内の「ギャラリー月の庭」で開かれている。巨大画面の写真45点が壁面いっぱいを使って展示されており、その迫力は圧倒的。23日の講演会で、中田氏は「庭園には時代思想(宗教)が反映している。自然界と人工造形の庭園は対極であるべきだ」などと語った。

 

 展示は自然の洲浜をデフォルメした奈良時代の平城京東院庭園からスタートする。遣唐使が唐から学んだ外来説と古墳の礫石を葺き直したという古来説があるという。この後、平安時代から江戸時代にかけての代表的な名園をたどる。「須弥山」を石組みで再現した毛越寺(岩手・平泉)、「禅の庭」の永保寺(岐阜・多治見)、瑞泉寺(鎌倉)、天龍寺(京都)、光前寺(長野・駒ケ根)……。

 茶人上田宗箇(1563~1650年)が作庭した徳島城や名古屋城、和歌山城の迫力のある石組み写真も並ぶ。「空間構成美の庭」として紹介するのは龍安寺(京都)をはじめ旧秀隣寺(滋賀・高島)、朝倉氏遺跡(福井)の諏訪館跡、玄宮園(滋賀・彦根)など。龍安寺について中田氏は「空間構成美の極地。龍安寺なくして日本庭園は語れない」とし、玄宮園は「水の龍安寺といえる大名庭園の白眉」と讃える。

 中田氏が「愛してやまない」というのが昭和の作庭家重森三玲(1896~1975年)。「重森三玲庭園の全貌」という著書もある。重森は生涯に約200の庭を作ったが、その代表作として東福寺(京都)や岸和田城、旧友琳会館(岡山・吉備中央)、福智院(和歌山・高野町)、遺作となった松尾大社(京都)の庭園など10点の写真を展示。とりわけ旧友琳会館(下の写真)については「現代日本庭園の道標。パリの美術館にあっても違和感がない庭」と評価する。

  

 中田氏は「日本庭園 石組みの意味」と題した23日の講演会で「自然の美しさを求めるのであれば自然の野山に勝るものはない。自然とは対照的な抽象的な人工造形こそが、大自然の造形と緊張関係をつくり新しい価値を生む」と話した。さらに重森について「日本の古典庭園の大半を実測したが、その手法をまねるのではなくヨーロッパの抽象絵画から得たモダニズムの思想を加え、現代における日本庭園を独学で創作した」と業績を讃えた。

 重森の作品を大別すると①激しい立体造形の庭②静かで爽やかな枯山水の庭③鮮やかな色彩とシンプルな曲線・直線で構成した庭④デザイン性の高い露地――の4つに分かれるという。「とりわけ小面積でも造園可能な枯山水庭園の手法を確立したことは特筆すべきこと」などと語った。中田氏は荒廃した日本庭園の保護活動に取り組んでいるが、特に重森の庭の「登録記念物(名勝)」化に傾注しているそうだ。

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<アンビリバボー> 大木ムクロジの幹から竹が5本林立!

2013年03月23日 | アンビリバボー

【春日大社一の鳥居の参道脇に異様な光景】

 松や杉、楠などの巨樹が立ち並ぶ奈良市の春日大社参道。一の鳥居からまっすぐ東に延びる参道を進むうち、左手奥にある風変わりな巨木の幹が目に留まった。木肌がやや赤茶け凸凹に盛り上がっている。そばの立て札によると「ムクロジ」という落葉高木で高さ15.5m、幹周り(地上1.3m)4.6m。これまで何度も通った参道だが、その存在に気づかなかったのは中元の〝万燈籠〟など日が落ちて来ることが多かったからか。

  

 「果皮には大量のサポニンが含まれ、かつて石鹸として利用されてきた。種子は正月の羽根突きの球や数珠に使われた」と立て札にあった。近づいて木肌を見た後、見上げたところ「アンビリバボー!」。ムクロジが2つに枝分かれした高さ5mほどの所から、なんと竹が5本林立しているのだ。その高さは優に5m以上あり、青々とした葉っぱを茂らせていた。しかも5本の竹とは別に、ムクロジの片方の幹の上部も竹の葉で覆われている(下の写真㊨)。なぜ、どうして? 周りを見渡しても竹は見当たらない。そばにあったもう1本のムクロジにも別に異常はなかった。もちろん立て札にも竹のことに触れていない。

 

 5本の竹はいずれも直径が10cmぐらいありそう。竹の節の環は1本に見える。ということは環が2本のマダケ(真竹)ではなくて、モウソウチク(孟宗竹)だろうか。モウソウチクなら、もっと大きく成長するはず。4月になるとタケノコが出てくるかもしれない。栄養分を吸い上げられるムクロジは、果たして今年も元気に新緑を見せてくれるのだろうか。

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<ギンヨウアカシア> オーストラリア原産 木全体が真っ黄色に!

2013年03月22日 | 花の四季

【「ミモザ」「ミモザアカシア」とも】

 マメ科アカシア属で、同じ仲間のフサアカシアとともに「ミモザ」や「ミモザアカシア」と呼ばれることが多い。ただミモザは本来、オジギソウ属の学名。ギンヨウもフサアカシアも2~3月頃、黄色の小花が集まった球形の花を無数につけ、木全体が黄一色に染まった姿が遠くからでもひときわ目をひく。ギンヨウはフサアカシアに比べると葉がやや小さく、ギンヨウ(銀葉)の名の通り、葉っぱが銀白色または灰緑色に見えるのが特徴。

 原産地はオーストラリア東南部。ギンヨウアカシアは明治時代の末期に渡来した。成長が早く庭木や公園木のほか、切り花用として伊豆や房総などの暖地で栽培されている。オーストラリアではフサアカシアに似た「ゴールデン・ワトル」が国花になっており、ユーカリと同じく全土でよく見かけるそうだ。花期シーズンの9月1日は「ワトルデー」。国の紋章にも黄色い花をつけたワトルツリーの小枝がカンガルー、エミューとともにあしらわれている。

 ミモザは南フランスに春の到来を告げる花としても有名。約130kmに及ぶ「ミモザ街道」(ボルム・レ・ミモザ~グラース間)沿いの村々には切り花用や香水用のミモザ栽培農家が多く、花で飾ったフロート(山車)のパレードなどがある「ミモザ祭り」は毎年多くの観光客でにぎわう。今年も2月15~24日に行われたそうだ。

 お隣のイタリアでは3月8日が「ミモザの日」と呼ばれ、男性が女性への感謝の気持ちを込めてミモザの花を贈る習慣がある。この日は国連が定めた「国際女性デー」にも当たる。ちなみに、ミモザサラダはサラダの上に満遍なくふりかける卵の黄身をミモザの花に見立てて名付けられた。

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<小林研一郎> 〝炎のチャイコスフキー〟 第4番とバイオリン協奏曲を熱演!

2013年03月21日 | 音楽

【バイオリンの有希・ヤンケ、繊細・まろやかな名演】

 大阪市の「ザ・シンフォニーホール」で20日、世界的指揮者の「炎のマエストロ」小林研一郎を迎えて、大阪フィルハーモニーの演奏会が開かれた。曲目はチャイコフスキーのバイオリン協奏曲と交響曲第4番。バイオリン独奏はドイツ在住で、ドイツ人の父と日本人の母を持つ注目の若手バイオリニスト、有希・マヌエラ・ヤンケ(1986年生まれ)。名器ストラディバリウスで期待通りの繊細かつ力強い演奏を披露した。

       

 このバイオリン協奏曲が作曲されたのは1878年、第4番はその前年の77年。その時期はチャイコフスキーにとって1つの転機でもあった。モスクワ音楽院教授だった77年、37歳の彼は音楽院の元生徒(28歳)と結婚する。だが、わずか80日間で破綻。77年はその後13年間にわたって経済的に援助した富豪フォン・メック夫人の支援が始まった年でもあった。夫人とは一度も会わなかったが、音楽や文学などについて頻繁に文通し、手紙は双方合わせて千通を超えた。第4番は支援への感謝を込めて夫人に贈られた。バイオリン協奏曲は多額の資金援助で生活にゆとりができた翌年に完成した。

 有希・ヤンケは26歳の若さだが、2004年パガニーニ国際コンクール最高位、07年チャイコフスキーコンクール3位、サラサーテ国際バイオリンコンクール優勝と実績は十分。昨夏から460年の伝統を誇るドイツの名門オーケストラ「ドレスデン・シュターツカペレ」初の女性コンサートマスターとして活躍している。使用しているバイオリンは日本音楽財団から2007年から貸与されているストラディバリウスの1736年製「ムンツ」。そのバイオリンが昨秋、日本での演奏旅行の帰途、ドイツの空港で押収され1億円を超える多額の関税を請求される騒ぎに巻き込まれた。その後、無償で返却されたが、その間どれほど不安だったことか。

 華やかな濃紺のドレス姿で登場した有希・ヤンケはやや大柄の堂々たる体躯。体格では指揮者のコバケンを凌ぐ。第1楽章。哀愁に満ちた弱音の旋律をややゆっくりした速さで弾き始める。実にまろやかな音。1音1音大切にしている感じが伝わってくる。高音はどこまでも繊細。それでいて低音も下からどっしり支えているという重厚な響き。チャイコフスキーが当時の名バイオリニストに献呈しようとしたところ「演奏不能」と拒否された難曲を、有希・ヤンケは確かな技術で見事に弾きこなした。アンコール曲はイザイの無伴奏バイオリンソナタ第2番第1楽章。

 第4番は第5番、第6番(悲愴)と並んで人気が高い交響曲。大阪フィルにとってもチャイコフスキーは故朝比奈隆以来、得意のレパートリーになっている。管楽器の力強い演奏で始まる第1楽章。憂いに満ちた第2楽章、弦のピッチカートが小気味よい第3楽章。爆発的なフォルテッシモの第4楽章。コバケンは情熱的な指揮で管・弦一体の響きを引き出した。本人の息づかいが会場まで伝わり、とても2年前に古希を迎えたとは思えない力演だった。演奏後5分間にわたって楽団員1人1人と握手し、名演を讃えていたのが印象的。さらに「2週間前、同じこの第4番をロンドンで録音したばかりだが、それに勝るとも劣らない演奏だった」と褒め称えた。アンコールはブラームスのハンガリー舞曲第5番だった。

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<甲子園球場>カレー・コーヒー・水洗トイレ…完成当時は「最先端の風俗スポット」

2013年03月20日 | スポーツ

【大阪自由大学公開サロンで玉置通夫氏が講演】

 球春到来! 球児にとって最大の憧れの場・甲子園球場で22日「春の甲子園」センバツが開幕する。その甲子園は〝野球の聖地〟としてどんな歴史を刻んできたのか。19日大阪・梅田のキャンパスポート大阪で、大阪自由大学主催の公開サロン(演題「文化財としての甲子園」)が開かれた。講師は元毎日新聞編集委員の玉置通夫氏。「甲子園球場物語」の著書もある玉置氏は完成時のエピソードを交えながら、「甲子園は野球場の枠を超え全国に情報を発信する最先端の風俗スポットだった」などと語った。

  

 甲子園球場の完成は今から約90年前の大正13年(1924年)。夏の中等学校野球大会は前年まで鳴尾運動場で開かれていた。ところが地元勢の活躍もあって観客が溢れるなど大混乱。このため主催者の大阪朝日新聞は新球場の建設を阪神電鉄に打診。武庫川の支流、枝川と申川の廃川敷を買収済みだった阪神電鉄は、沿線開発のため集客施設造りを模索していたこともあって「渡りに船」とばかり球場の建設を決めた。地鎮祭が行われたのはその年の3月半ば。夏の大会に間に合わせるため8月1日には開場式が行われている。

 僅か4カ月半であの大球場が完成したとは! なぜ可能だったのか。玉置氏は①豊富な労働力②労働環境③空梅雨――の3点を挙げる。「当時は労働基準法や児童福祉法などもなく、いくらでも安い労働力を確保できた。しかも建設場所が狐や狸がすむ原野のため昼夜を問わず突貫工事をやることもできた。加えて天の恵み。工事は梅雨本番の6~7月に山場を迎えたが、工事報告書によると雨で工事ができなかったのは僅か9日間だけだった」。

 その年の夏の大会は最初の3日間は不入りだったが、4日目から連日満員になった。それを後押しした要因として玉置氏がまず挙げるのが球場の食堂で提供したカレーライスとコーヒー。「当時カレーのルーは発売されておらず、家庭で簡単に作れる料理ではなかった。それを球場で味わうことができるのは画期的だった。しかも一般化していなかったコーヒーと組み合わせたことで話題を集めた」。ちなみに価格はセットで30銭(今の700円ぐらい)だったという。

 球場に水洗トイレを完備したのも評判を呼んだ。「当時、水洗を備えていたのは一流ホテルなどごく一部だけ。水洗トイレはそれほど珍しく、トイレを使うためわざわざ球場に行く人も結構多かったそうだ」。選手にとっても初体験でどうしていいか分からない。垂れ下がった鎖を引っ張ると水が勢いよく流れ出したのを、トレイを壊したと勘違いして大騒ぎになったなど失敗談が今に伝えられている。

 さらに玉置氏は「野球といえばやるのも見るのも男性だったが、甲子園球場はスポーツを女性にも開放する手助けをした」と指摘する。「中等学校の野球熱は女学生の間でも広がっていたが、女性の観戦は好奇の目で見られることが多く相当の勇気が必要だった。広々した甲子園はそんな不自由さを払拭し、先生に引率された女学生や洋装姿の女性が彩りを添えるようになった」。

 昭和2年(1927年)の夏の大会からはラジオによる実況中継も始まった。ただ阪神電鉄側は当初、NHKからの中継の申し入れに「放送されると観客が来なくなる」と抵抗したという。初めての中継にアナウンサーも臨場感を伝えようと苦心したようだ。打球の音や審判の声などがはっきり入るようにホームベースの下にマイクを埋め込んだ。ところが打者が打つ前にバットでベースをたたく耳障りな音がしばしば流れ、苦情が寄せられて1日で取り止めになったという。

 甲子園を本拠地とする大阪野球倶楽部(現阪神タイガース)が設立されたのは球場完成から11年後の昭和10年(1935年)。その後、甲子園は野球だけでなく、スキーのジャンプ大会や6代目尾上菊五郎の野外歌舞伎の舞台にもなった。戦時中には大鉄傘の供出を余儀なくされ、広島が被爆した8月6日には甲子園も空襲によって被災した。昭和20年10月には進駐軍に接収され、接収が完全解除されたのは9年後だった。「甲子園球場は激動の大正・昭和・平成時代を見続けてきた〝歴史の生き証人〟でもある」(玉置氏)。

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<ハクモクレン(白木蓮)> 春の日差しを浴びて大きな純白の花!

2013年03月19日 | 花の四季

【中国原産、赤紫花のモクレンより早く開花】

 モクレンというと一般的に赤紫色の花を指すが、白花と混同されることも多い。このため白花のハクモクレン(別名ハクレン)と区別するため、シモクレン(紫木蓮)と呼ばれることもある。原産地はいずれも中国。渡来時期ははっきりしないが、ハクモクレンは遅くとも江戸時代初期にはやって来ていたともいわれる。中国では古くから種から油を搾ったり、花や蕾を薬用に利用したりしており、日本にも最初は薬用として渡来したらしい。

 モクレンは花がハスに似ているため、和名には「木蓮」の字が当てられている。モクレンの漢名「辛夷」は、日本ではコブシを指す。これは江戸時代の植物学者で「大和本草」を著した貝原益軒の誤解によるそうだ。ハクモクレン、シモクレンのほか、雑種で花がピンク主体のサラサ(更紗)モクレンや、葉が細長く花がやや小型のトウモクレン(ヒメモクレン)などがある。シモクレンのうち特に色の濃いものをカラス(烏)モクレンと呼ぶ。

 ハクモクレンは幹が直立し、大きいものでは樹高が10~15mにも及ぶ。花弁は6枚だが、萼3枚も真っ白なため、花びらが合計9枚あるように見える。日差しを浴びると開花し、夕方日が落ちると閉じる。開花時期は3~4月で、桜(ソメイヨシノ)より一足早く咲く。シモクレンの開花はハクモクレンよりやや遅い。

 千葉県大網白里市や埼玉県宮代町、大阪市城東区、名古屋市東区などがモクレンを「市の木」や「町の花」「区の木」などに指定している。静岡県浜松市北区には長さ約8kmにわたり600本近いハクモクレンが並ぶ「モクレン通り」がある。兵庫県姫路市安富町の「モクレンの里」では毎年3月下旬~4月上旬にハクモクレン約500本が咲き誇る、奈良県下市町にも「木蓮の里」。「白木蓮の散るべく風にさからへる」(中村汀女)。

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<奈良国立博物館> 完成時に景観論争も 「奈良公園の景観にそぐわない!」

2013年03月18日 | メモ

【「帝国奈良博物館誕生の頃」テーマにサンデートーク】

 「帝国奈良博物館誕生の頃―人・建築・景観」をテーマに17日、奈良国立博物館サンデートークが開かれた。講師は同館学芸部資料室長の宮崎幹子さん。帝国奈良博物館本館(現なら仏像館、写真)は〝宮廷建築家〟として名を馳せた片山東熊(1854~1917年)の設計で、約120年前の1894年(明治27年)に竣工、翌年開館した。明治時代を代表する欧風建築として国の重要文化財に指定されているが、完成当時には「奈良公園の景観にそぐわない」として景観論争に発展したという。

  

 片山は山口県萩市出身で、国の工部省が明治初期に設置した高等工業技術教育機関「工部大学校」(後に東京帝国大学と合併)の第1期生。上野博物館や鹿鳴館などを設計した英国の建築家ジョサイア・コンドルらお雇い外国人教師から、19世紀のヨーロッパ建築について学んだ。同期に東京駅丸の内駅舎や日銀本店を設計した辰野金吾(1854~1919年)がいる。

 片山が設計した帝国奈良博物館はパリのオペラ座と同じネオ・バロック建築。正面入り口の左右に2本1対のコリント式柱がそびえ、上部を華麗な装飾で彩る。「壁面の厚さが約90cmもある重厚なレンガ造りで、その耐震性能は今の基準も満たしており補強の必要もない」。竣工3年前に内陸型地震としては国内最大規模の濃尾地震があった。そのため堅牢な造りを大きな目標に掲げていたという。屋根を一段高くした越屋根(こしやね)からの採光方式を導入したのも特徴の1つ。壁面構造による耐震化のため窓が少ないのをカバーする狙いがあった。

 宮崎さんはこの帝国奈良博物館には3つの歴史的な意味があると指摘する。①日本建築家が残した現存する最初期の建築作品②奈良県で建設された最初の本格的な西洋建築③現存する最初期の博物館建築――の3点だ。①については奈良より前に片山自身が設計した日本赤十字社中央病院病棟(愛知県犬山市の明治村に移築)などがあり、③も片山の設計と伝わる神宮農業館などがあるため「最古」ではなく「最初期」というわけだが、「近代建築史の中で極めて重要な建物であることは変わらない」。

   

 帝国奈良博物館は建設中から多くの見物客が詰め掛けたが、「西洋建築は奈良公園に似合わない」と不評だったという。「その反動から、その後完成した旧奈良県庁舎や奈良県物産陳列所は近代和風建築となった」。旧県庁舎は県の嘱託建築家・長野宇平治の設計。県物産陳列所(上の写真㊧)は県技師・関野貞の設計で重要文化財に指定されており、現在、奈良国立博物館の仏教美術資料研究センターになっている。片山は帝国奈良博物館に続いて帝国京都博物館(現京都国立博物館、上の写真㊨)や東宮御所(赤坂離宮迎賓館)なども手掛けた。

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<六斎念仏> 奈良市で講演と「八島の六斎念仏」特別公開

2013年03月17日 | 祭り

【鹿谷勲氏「日常生活の中で受け継がれてきた〝庶民の声明〟」】

 奈良市南部公民館で16日、「六斎念仏」をテーマにした「信仰と文化講座」が開かれた。鉦や太鼓に合わせて「南無阿弥陀仏」を唱える六斎念仏。奈良県内では長い歴史の中で多くが消えてなくなったが、一部地域では今なお連綿と続く。この日は奈良県立民俗博物館の鹿谷勲学芸課長の講演に続き、地元奈良市の「八島の六斎念仏」が特別公開された。

 鹿谷氏によると、五條市の西福寺に残る六斎念仏供養塔には室町時代中期の「延徳2年」(1490年)の紀年銘がある。しかも、その板碑には約70人のお坊さんや男女の名前が刻まれているという。「今の六斎講は集落単位で、在家の男性で構成されているのが一般的だが、昔は男女を問わず、もっと大きなグループとして営まれていたようだ」。

 六斎の「斎」は神仏に仕えるため身を慎むこと。精進潔斎すべき6日間(8、14、15、23、29、30日)を六斎日と呼んだ。平安時代後期の良忍上人が唱えた「融通念仏」がこの六斎と結び付いて六斎念仏が生まれたという。「自らの極楽往生を願うとともに同じ共同体の成員の菩提を弔うもので、日常の生活の中で〝庶民の声明〟として受け継がれてきた。様々な念仏芸能の原点といえる」。

 六斎念仏を大別すると鉦だけを使う「鉦念仏」と、鉦とともに太鼓も用いる「太鼓念仏」がある。県内に残る六斎念仏のうち、御所市東佐味と安堵町東安堵は鉦念仏、奈良市八島には鉦念仏と太鼓念仏の両方の曲目が伝わる。この3カ所の六斎念仏はいずれも県無形民俗文化財に指定されている。八島で現在も使われている鉦の中には「寛永18年」(1641年)の刻銘を有するものも。江戸初期から500年近い歴史の〝生き証人〟だ。

 この日の特別公開では八島鉦講の講員12人によって、今日まで伝わる6曲のうち鉦念仏の「ハクマイ」と「バンド」、太鼓念仏の「念仏行者」の3曲が披露された。声明の「音頭」に当たる先導役「ドウシンマイ」に続いて「ヒラ」が念仏を唱和する。背後には涅槃図。室町時代の作ではないかという。様々な抑揚がついた素朴な念仏の調べとリズミカルな鉦・太鼓の響きに、受講者も心地よさそうに聴き入っていた。

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