く~にゃん雑記帳

音楽やスポーツの感動、愉快なお話などを綴ります。旅や花の写真、お祭り、ピーターラビットの「く~にゃん物語」などもあるよ。

<薬師寺> 国宝東塔の解体修理現場を最終公開!

2019年04月30日 | 考古・歴史

【工事は95%完了、来年4月に落慶法要】

 法相宗大本山の薬師寺(奈良・西ノ京)で、解体修理中の国宝東塔の一般公開が始まった。〝凍れる音楽〟と形容される東塔は約1300年前の天平年間の創建。今回の修理は明治時代以来約110年ぶりで2009年に始まった。これまでに工事の95%が完了、塔上部には奈良時代の水煙に代わって新しく製作された水煙も取り付けられた。東塔を覆う巨大な素屋根も夏から解体が始まる。今回の公開が完成間近の東塔を上から間近に見ることができる最後の機会とあって、連日多くの見学者でにぎわっている。5月6日まで。

 現場公開は4月27日から始まった。訪れたのは3日目の29日正午すぎ。工事現場の入り口前には長い行列ができていた。係員から見学整理券を頂いた。整理番号「8748」。初日からの通し番号とのこと。入場できるのは「多分30分後」とのことで、その間、薬師三尊像(国宝)や弥勒三尊像(重文)にお参りした。戻って白いヘルメットを着用し、いよいよ現場内へ。塔の高さは相輪を含めると優に30mを超える。木造の足場の階段をぐるぐる回って、ようやく三層(一番上の屋根)と同じ高さまでたどり着いた。

 

 東塔に使われている屋根瓦は約6万枚。それらを全て取り外したうえ目視や打音検査で破損状況を確認した。その結果、ほぼ3分の1に当たる1万9000枚を新しい瓦と取り替えたという。屋根の四角に据えられた上下2つずつの鬼瓦は「昭和・室町」「明治・平成」「平成・室町」など様々な時代のものが組み合わせられていた。屋根の中心から高く伸びる相輪の上部に青銅色の水煙が見えた。3月上旬の新旧水煙の同時公開で、透かし彫りの飛天など華麗な装飾を見たときの感動が甦ってきた。この水煙が最上部の宝珠とともに、これから先東塔を長く守っていく役目を担う。

 

 東塔の高さは今回の解体修理に伴って約34mから1m高い約35mになった。創建当時から残る基壇(約13m四方)をコンクリート板で覆って新しい基壇を造ったことによる。地盤が軟弱で柱を支える礎石の一部が不等沈下していた。工事費用の総額は約30億円。そのうち公費による補助を除く10億円を寺側が特別写経による勧進で賄う。納経料(一組2巻)は1万円。写経2巻のうち1巻は東塔内陣の棚に納め、もう1巻はインド・ブッダガヤの日本寺に納める。これまでに集まったのは東塔に納める予定の10万巻のうち8万巻分という。公開現場の一角にも写経用紙がうず高く積まれ、僧侶が見学者に協力を呼びかけていた。落慶法要は1年後の2020年4月22~26日の予定。

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<京都地名研究会> 綱本会長が退任記念講演「万葉の未詳地名」

2019年04月29日 | メモ

【新会長に小寺慶昭氏、副会長に金坂清則・小西宏之両氏】

 京都を拠点に学者や郷土史家らでつくる地名研究団体「京都地名研究会」の2019年度総会・講演会が28日、龍谷大学大宮学舎で開かれた。総会では2014年度から会長を務めてきた綱本逸雄氏が退任し後任の新会長に小寺慶昭氏(龍谷大学名誉教授)、副会長に金坂清則・小西宏之両氏を選任。この後、前副会長の糸井通浩氏が「偽書の偽善性と資料価値―『丹後国風土記残欠』の場合」と題して研究発表し、続いて綱本氏が退任記念講演を行った。

 綱本氏の演題は「万葉の未詳地名を考える(京都編)」。日本最古の歌集『万葉集』には天皇から庶民まで広範の人々が詠んだ歌約4500首が収められている。万葉研究者によって歌の解釈を巡って多くの注釈書や事典が出版されてきた。ただ歌の中に登場する地名に関しては「未詳」で済まされているものも多い。京都ゆかりの歌でも未詳地名が30カ所以上あるという。そこで綱本氏は主な未詳地名を取り上げ地形などを基にそれらの地名の場所や意味を掘り下げた。

 まず最初に「布当(ふたぎ)」。布当の宮、布当の野、布当山などの表現で恭仁京付近の地名として登場する。「布当山、山並見れば百代にも易(かは)るましじき大宮所」(巻6-1055)。綱本氏は「布当とは何か」という観点から検証した。恭仁京は木津川北側の高い段丘上に造営された。その東側で和束川が木津川に合流し、河口右岸に小高い流岡山が位置する。和束川右岸にある春日神社には「二井(ふたつゐ)」と呼ばれる名水があり、和束川の別称二井川もこれに因む。綱本氏は『和名抄』の長門国厚狭郡の郷名に二処郷(ふたゐのごう)があり、そこの地形がよく似ていることなども引き合いに出しながら、布当は二つの河川が合流する地を意味するのだろうと話した。

 次は「活道(いくぢ)」。活道岡・活道山・活道路として登場する。綱本氏は活道の路とは「恭仁京から聖武天皇が度々行幸した離宮・紫香楽宮へ〝往く道〟で、途中の和束町白栖に安積皇子(聖武天皇の皇子)の墓がある」と指摘。また大伴家持たちが宴を開いた活道岡は「恭仁京近傍で東に位置する流岡山だろう。和束へ向かう通り道にある」などと話した。他に「鴨川」「泉の杣」「高」「多奈久良(棚倉)」「鷺坂」「名木河」「宇治若郎子宮所」「彼方(をちかた)」などの地名も取り上げた。

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<アマドコロ(甘野老)> 近縁のナルコユリにそっくり!

2019年04月27日 | 花の四季

【和名は根茎に由来、万葉集に登場する「にこぐさ」?】

 全国各地の山地や草原の半日陰地に自生するキジカクシ科の多年草。朝鮮半島や中国にも分布する。草丈は30~80cm。4~5月頃、弓なりの茎の葉の付け根から花柄を伸ばし、先端が薄緑色の筒状の白花を1~2個ずつ下向きに付ける。その姿は近縁のナルコユリ(鳴子百合)に酷似し、葉に覆輪の斑(ふ)が入った園芸品種(写真)が園芸店でナルコユリの名前で売られることも多い。野生種にはもちろん斑入りのものはない。

 学名は「Polygonatum odoratum(ポリゴナツム・オドラツム)」。種小名は「芳香がある」を意味する。根茎は太くて節々で曲がり髭根が多く生える。和名は根茎の姿形がヤマノイモ科の蔓性植物トコロ(野老)に似て、甘味で食用にもなることから。「野老」は〝山野の老人〟を意味し、長い髭(触覚)を持ち腰が曲がった〝海の老人〟海老(エビ)に対する比喩表現。乾燥したアマドコロの根茎は漢方で「萎甤(いずい)」や「玉竹(ぎょくちく)」と呼ばれて滋養・強壮の生薬として利用され、美肌や打撲・捻挫の治療効果もあるそうだ。

 近縁のナルコユリは筒状の白花がいくつも並んで下垂する様子から、野鳥を追い払うため田畑に吊り下げられる鳴子にたとえて名付けられた。アマドコロが茎に稜線(りょうせん)があり角ばっているのに対し、ナルコユリは稜がなく円柱形なのが大きな違い。ナルコユリの花期は5~6月頃とやや遅く、草丈も大きくて一カ所に3~8個の花を付けるといった違いもある。アマドコロの花姿は一見ホウチャクソウ(宝鐸草)にも似る。これはイヌサフラン科チゴユリ属の有毒植物で「キツネノチョウチン(狐の提灯)」とも呼ばれている。

 万葉集に「にこぐさ」を詠んだ歌が4首ある。万葉表記は「爾古具佐」「似兒草」「和草」など。そのうちの一首「葦垣の中の和草にこやかに我れと笑まして人に知らゆな」(巻11-2762)。この「にこぐさ」がアマドコロとみられている。ただシダ植物の一種ハコネシダ(箱根羊歯)ではないかとみる説も。アマドコロの変種に草丈や花がやや大型のヤマアマドコロやオオアマドコロがある。

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<カジノキ(梶の木)> コウゾの仲間、和紙の原料に

2019年04月25日 | 花の四季

【雌雄異株、葉は七夕の短冊代わりにも】

 本州中部~九州の山野に自生するクワ科コウゾ属(カジノキ属とも)の落葉木で、樹皮の繊維が強いため古くから和紙の原料として栽培されてきた。単に「カジ(梶)」と呼ぶことも。日本のほか中国、台湾、インドシナ半島など東アジア~南アジアに広く分布する。雌雄異株で、花の形状が雌雄で全く異なるのが特徴。雌花は径1~2cmの球形で紅紫色の花柱が放射状に伸びる。一方、雄株の花序は長さ4~8cm、径1cmほどで穂状に垂れ下がる(写真)。

 カジノキは同じ仲間のコウゾ、ヒメコウゾとともに総称して「コウゾ」と呼ばれることもある。コウゾはカジノキとヒメコウゾの雑種とみられている。ヒメコウゾはカジノキと違って雌雄同株。両者の交配で生まれたコウゾには雌雄の異株と同株のものがあるそうだ。これらはかつて差異が明確に識別されていなかった。カジノキの学名は「Broussonetia papyrifera(ブラウソネッティア・パピリフェラ)」、そしてヒメコウゾの学名が「B.kazinoki(カジノキ)」。いずれも江戸後期に来日したシーボルト(1796~1866)による命名だが、その学名そのものから混乱が見られる。シーボルトは和名のカタカナ表記でも前者に「カミノキ」、後者に「カジノキ」と記したという。

 カジノキの葉は大きな広卵形で、厚く表面がざらつく。そこに文字を書くと墨が乗りやすいため、七夕飾りの短冊のように利用された。大阪の四天王寺が所蔵する平安後期の装飾経『扇面法華経冊子』(国宝)には、葉に和歌を書いた当時の七夕の習慣が描かれている。江戸前期の園芸書『花壇地錦抄』の中にも「梶 葉はふやうの葉のごとく也。世俗、七月七夕ニ此葉ニ詩歌ヲ書テ二星に献ずなり」。古くから神聖な樹木とされ、神社の境内などによく植えられてきた。諏訪大社(長野県)の神紋はカジノキの葉を図案化したもの(上社「諏訪梶」、下社「明神梶」)。地元の諏訪氏をはじめ安部氏、松浦氏など梶の葉紋を家紋とした大名も少なくない。

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<ムベ(郁子)> 常緑性のアケビの仲間、別名「トキワアケビ」

2019年04月24日 | 花の四季

【語源は天智天皇が発したお言葉「むべなるかな」?】

 暖地の山地に自生するアケビ科ムベ属の蔓性植物。関東以西の本州・四国・九州のほか朝鮮半島の南部にも分布する。雌雄同株。4~5月頃、葉の脇から総状花序を伸ばし、6枚の萼片から成る可愛い小花を付ける。花弁はない。花色は外側が白く、内側は紅紫色。葉は手のひらを広げたような掌状複葉で、3枚または5枚または7枚の〝753〟の小葉が付くため造園業界では「縁起のいい木」とされているそうだ。

 ムベはアケビが落葉性なのに対し常緑性であることから「トキワ(常葉・常磐)アケビ」の別名を持つ。「ウベ」や「ノボケ(野木瓜)」と呼ばれることも。秋になると鶏卵よりやや大きい長さ6~8cmほどの赤紫色の実を付け食用とされる。アケビは実が熟すとぱっくり割れることから一説に「開け実」が語源ともいわれるが、このムベは実が裂けることはない。春先の新芽はおひたしや和え物に、蔓は染色して生け花の材料にもされてきた。

 語源には諸説。その一つに7世紀の天智天皇にまつわる伝説がある。近江(滋賀県)での狩りの途中、天皇が男子8人を持つ元気な老夫婦と出会う。「汝ら、いかにかく長寿ぞ」と問うと、夫婦は「この果実が無病長寿の霊果です」と答え差し出す。その果実を口にした天皇は「むべなるかな(もっともことだ、なるほど)」と納得し、毎年献上するよう命じた。その果実が以来「むべ」と呼ばれるように――。この伝説がある近江八幡市北津田町は毎秋、宮内庁や天智天皇を祀る近江神宮(大津市)へ献上し、ムベの収穫体験やエキスを利用したワイン・飴玉の開発など、ムベによる町おこしに取り組んでいる。語源には他に昔朝廷に献上されたことに因む「大贄(おおにえ)」からの転訛説などもある。「女の瞳ひらきみつむる郁子の花」(岸田稚魚)

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<四天王寺> 壮大な時代絵巻「聖霊会舞楽大法要」

2019年04月23日 | 祭り

【石舞台で舞楽と法要を交互に約4時間にわたって】

 大阪市の四天王寺で22日、聖徳太子の命日に因む「聖霊会(しょうりょうえ)舞楽大法要」が営まれた。御霊を慰めるために舞楽と法要が混然一体となって執り行われるもので、四天王寺にとっては年間行事の中で最も重要とされる儀式。地元で「おしょうらいさん」と親しまれているこの舞楽大法要は約1400年の歴史があるとされ、国の重要無形民俗文化財にも指定されている。

 舞楽大法要のステージは六時堂前の〝亀の池〟に架かる石舞台。正面の六時堂には華やかな五色幕が飾られ、石舞台の四隅には仏教で〝天の花〟とされる曼珠沙華をかたどった色鮮やかな赤い球状の紙花。ツバメのような鳥が何羽も吊り下げられ風に揺れていた。大法要は午後零時半から始まった。舞楽や雅楽の演奏を担当するのは「天王寺楽所雅亮会」のメンバー。舞楽は東側の左方と西側の右方に分かれ、それぞれ赤と緑の衣装を身に着けて交互に舞う。雅楽も同様に左右の楽舎に分かれて演奏する。

 

 舞楽の幕開けは「振鉾(えんぶ)」。御祓いの舞といわれ、この舞だけは左右の舞人各1人が一緒になって鉾を手に舞う。この後、右舞の「蘇利古(そりこ)」、左舞の「賀殿(かてん)」と続いた。演奏のたび観客の耳目を集めたのが楽舎の両脇に置かれた左右一対の鼉太鼓(だだいこ)。奈良の春日大社に伝わる鼉太鼓と並ぶ国内最大規模の太鼓で、腹に響くような大音響が境内に響き渡った。演目や法要の節目には合図を告げる行事鐘も打ち鳴らされた。

 

 舞楽と舞楽の間には願文の読み上げ、伝供(でんぐ)、祭文の奏上、散華といった儀式が組み込まれ、僧侶による声明が唱えられた。伝供はお供え物を石舞台から六時堂内へ次々と手渡ししながら送るもので、最後は童舞(わらべまい)の装束を身に着けた子どもたちがお堂の階段を昇って渡していた。伝供の後は「菩薩」と「獅子」。これらの演目はいずれも舞が失伝してしまったため、菩薩面を着けた2人と獅子2頭がそれぞれ舞台上で輪を描き交錯しながら往復した。この所作は「大輪小輪(おおわこわ)」と呼ばれるそうだ。

 この後、舞楽を再開。まず左舞「迦陵頻(かりょうびん)」が女児ら4人によって演じられた。背中には極楽にすむという霊鳥に因んで極彩色の鳥の羽根を模した飾り物。両手に持った銅調子を打ちながら舞台を飛び交った。次いで番舞(つがいまい)とされる右舞「胡蝶」。蝶の羽根を付けた女児ら5人が黄色い山吹の花を持って舞を披露した。そしていよいよ終盤に。「登天楽」(右舞)の後に勇壮な「太平楽」(左舞)が続いた。午後5時前、まだ明るいのに「太平楽」の最中に石舞台四隅で篝火が焚かれた。聖霊会でかつて暗くなるまで舞楽が演じられていた頃の名残という。雅な舞楽・雅楽の演奏と厳粛な法要の数々。仏教寺院での壮大な時代絵巻を堪能することができた一日だった。

 

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<水口曳山祭宵宮> 拝殿に神輿、その前に曳山1基

2019年04月20日 | 祭り

【20日の例大祭には5基が松並木を巡行して宮入】

 滋賀県指定無形民俗文化財の「水口曳山祭」が20日「例大祭」を迎える。水口神社(甲賀市水口町)の年間最大の祭礼で、その前日19日には拝殿に金色に輝く神輿が飾られて宵宮祭が執り行われた。境内には曳山1基が飾られ、水口ばやしの〝演奏体感会場〟では小さな子どもたちが楽しそうに小太鼓を打っていた。松並木の参道沿いや水口公園には屋台がずらりと並んで大勢の人並みでにぎわっていた。

 宵宮を訪ねたのは昨年の例大祭で祭りを支える地域住民の熱気と軽快な水口ばやしの響きに魅せられ、今度は宵宮での祭り気分を味わいたいとの思いから。曳山の始まりは江戸時代中期の約280年前、1735年(享保20年)といわれる。二層露天四輪の構造で、屋上には趣向を凝らした作り物のダシが飾られる。17町が16基の曳山を保有(1基は2町共同保有)しており、今年の例大祭にはそのうち5基が曳き回される。

 

 宵宮には毎年、神社に程近い場所に山蔵がある5基のうちの1基が曳き出され拝殿前に飾られる。今年は「大池(おいけ)町」の番で、午後6時前に宮入した。その間の2カ所(蔵の前と境内の手前)での方向転換が見ものだった。慎重にジャッキで徐々に前後輪を持ち上げる。そして、法被姿の男衆たちが一気に曳山をぐるっと直角に。狭い参道での見事な方向転換だった。隣の蔵に収納される「柳町」は20日の例大祭に参加する。それに備えて曳き出され、水口ばやしに乗って地元の町内へ。そばの「平町」の曳山前では小さな子どもたちが大人に交じって、練習の成果を見てもらおうと小太鼓を打ったり鉦を鳴らしたりしていた。

 

 日が暮れると、翌日の巡行を控えた曳山などの提灯に明かりが灯され、宵宮ばやしが奏でられた。水口は東海道五十三次の50番目の宿場町。町内を横断する旧東海道沿いなどの民家の前にも御神燈が掲げられ、幻想的な光景が祭り情緒を盛り上げていた。20日に巡行する「東町」の曳山の屋上には迫力満点のトラのダシが乗っていた。今年はほかに「田町・片町」「旅籠町」「天神町」の曳山も巡行し境内に曳き入れられる。

 

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<奈良市写真美術館> 瀬戸正人写真展「旅しないカメラ」

2019年04月19日 | 美術

【同時開催「祈り」テーマに入江作品35点】

 奈良市写真美術館で写真家瀬戸正人氏の「旅しないカメラ…まだ見ぬ、もう1枚の写真を求めて!」と題した写真展が始まった。瀬戸氏は1990年に日本写真協会新人賞を受賞、さらに95年には一連のシリーズ作品で第21回木村伊兵衛写真賞を受賞。一方でエッセイ集『アジア家族物語』を発表するなど文筆分野でも活躍している。「入江泰吉『祈り』」も同時開催中。6月16日まで。

   

 瀬戸氏の「binran(ビンラン)」シリーズはガラス張りのショーウインドーふうの箱の中でガムのような嗜好品を売る台湾の光景を紹介した作品群。ビンランはヤシ科の植物で、種子の中に石灰を塗りキンマと呼ばれるコショウ科の植物の葉でくるんで噛む。噛み続けるうちに軽い興奮と高揚感が得られる。煙草のように習慣性があるが、覚醒作用があるため長距離トラックやタクシーの運転手に好まれているという。台湾で夜初めてこの光景に遭遇したとき、瀬戸氏は何を売る店か皆目見当がつかず「水槽のようなボックスとその中を熱帯魚のように赤いビキニ姿で泳ぐ女を眺めるばかりだった」と振り返る。

 「Cesium(セシウム)」シリーズの展示作品は大きなモノクロ10枚。最初目にしたときにはドキッとした。この作品群は東北大震災の1年後(2012年2月)フランス環境大臣の視察に同行したときに撮影した。目に見えない恐怖を写真で残そうと思い、福島の山林や河川、田畑など自然の中に分け入った。そこで瀬戸氏は「見てはならぬモノを見てしまった気がする」と述懐する。ドキッとさせられたのは最初の1枚目の作品。曲がりくねった大きな木の幹なのだが、まるで黒焦げになった人の死骸のように見えた。降り注いだ放射能への人の恨みを代弁しているかのように思えた。「picnic(ピクニック)」シリーズは芝生の上で寝転んだり抱き合ったりするカップルたちを撮ったもの。その一見幸せそうな明るい作品群の横に瀬戸氏のこんなコメントが添えられていた。「消えそうに淡く、そして危ういその瞬間こそが写真かもしれませ」

   

 同時開催の入江泰吉「祈り」の展示作は1970年代の作品を中心に35点。70年代は写真集『古色大和路』『萬葉大和路』『花大和』などを次々に発表した熟年入江の絶頂期。75年には『萬葉大和路』が世界書籍展(東ドイツ)で金賞も受賞している。初のエッセイ集『大和路のこころ』も発表した。展示作の一つ「飛鳥石舞台古墳夕暮」は夕焼けの中でまるで巨大な亀が頭を持ち上げているようにも見える。盛り土が削られたむきだしになったこの古墳の被葬者は飛鳥時代に権勢を誇った蘇我馬子が有力視されている。「飛鳥伝入鹿首塚飛鳥寺」は首塚の背後をレンゲソウが赤紫色に染める。入鹿は馬子の孫に当たる。

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<ダイコン(大根)> 菜の花のような十字形の4弁花

2019年04月18日 | 花の四季

【古名は「おほね」、春の七草では「すずしろ」】

 アブラナ科ダイコン属の2年草で、栽培の歴史は古い。約4000年前にはエジプトのピラミッド建設労働者にニンニクなどとともに供されていた、との記録が碑文に残されているという。シルクロードを経由し日本にも古い時代に中国から渡ってきた。国内で品種改良が重ねられ新品種が次々と生み出された。その数は優に100種を超える。青首大根をはじめ各地で栽培される主な〝地大根〟だけでも、挙げるときりがない。三浦、練馬、亀戸、聖護院、桃山、守口、伊吹、源助、桜島……。生産・消費量は日本が世界全体の9割を占めるともいわれる。まさに世界最大の〝大根超大国〟だ。

 ダイコンは記紀に「おほね(おおね)」として「淤富泥」「於朋泥」「於保爾」などの表記で登場する。仁徳天皇が嫉妬深い皇后、磐之媛(石之日売)に向けて詠んだ歌の一つ「つぎねふ山背女の木鍬持ち打ちし於朋泥根白の白腕枕かずけばこそ知らずとも言はめ」。平安中期の辞書『和名類聚抄』には「ヲホネ」の項で「和名を於保祢と称し、俗に大根と記される」とある。このことから平安時代には既に「おほね」を漢字で「大根」とも書いていたことが分かる。今のように音読みで「だいこん」と呼ぶようになったのは中世の鎌倉~室町時代の頃らしい。室町中期の15世紀後半に編纂された『節用集』の中に「大根(だいこん)、又蘆菔(ろふ)、羅菔(らふ)、大根(おほね)」とあるそうだ。

 ダイコンの花はアブラナ科の植物に特徴的な十字形の4弁花で、花の色は白または淡紫色。よく似た近縁の植物にハマダイコンがある。これは栽培されていたダイコンが畑から逃げ出して浜辺や河原などの砂地で野生化したもの。「大根」が冬の季語なのに対し「大根の花」は晩春。「宗次郎におかねが泣きて口説き居り 大根の花白きゆふぐれ」(石川啄木)。俳句で「花大根」というときは音数調整により普通「はなだいこ」と読む。「花大根黒猫鈴をもてあそぶ」(川端茅舎)。「花大根」と書いて「はなだいこん」と読む場合、最近は中国原産の帰化植物で赤紫色の花を付けるオオアラセイトウ(別名諸葛菜=しょかつさい)を指すことが多い。

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<ニワウメ(庭梅、郁李)> 小枝の節々に梅に似た5弁花

2019年04月17日 | 花の四季

【中国原産、万葉集にも「はねず」として登場!】

 バラ科サクラ属(スモモ属)の落葉低木。樹高は1~2mほどで、よく分枝し葉に先立って4月頃、小枝の節々に淡紅色の一重咲きの小花を2~3輪ずつ付ける。庭梅の名は花が梅に似て庭木として植えられることから。7~8月頃、丸い果実が紫赤色に熟す。生食されるほか果実酒に漬けることも。種子は漢方で「郁李仁(いくりにん)」、根は「郁李根(いくりこん)」と呼ばれ利尿、便秘、歯痛などに用いられる。

 原産地は中国。古い時代に日本に渡ってきたとみられ、万葉集に「はねず」として詠まれた植物がニワウメではないかといわれる。万葉表記は「唐棣」「朱華」「波禰受」などで4首ある。そのうちの1首に「思はじと言ひしてものをはねず色の移ろひやすき我が心かも」(大伴坂上郎女)。はねず色は梔子(クチナシ)と紅花で染めた黄色がかった薄い赤色。色が褪せやすいことから、心移りや移ろいやすい愛情を導く枕詞になったそうだ。

 ニワウメの学名は「Prunus japonica(プルヌス・ヤポニカ)」。属名の語源はスモモを意味するラテン古名から。種小名は中国原産にもかかわらず「日本の」を表すヤポニカになっている。名付け親は江戸中期に長崎の出島商館付き医師として日本に滞在したスウェーデンの植物学者カール・ツンベルク(1743~1828)。彼はシーボルト、ケンペルとともに〝出島三学者〟の一人といわれた。ニワウメによく似た近縁種に八重咲きの「ニワザクラ(庭桜)」がある。「郁李に春光あはき蝶のかげ」(西島麦南)

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<原種スイセン> ヨーロッパ南西部~北アフリカ原産

2019年04月16日 | 花の四季

【多くが小型種、原種の交配で多くの園芸品種が誕生】

 スイセンはヒガンバナ科スイセン属(ナルキッスス属)の球根植物。主な原産地はヨーロッパ南西部(スペインやポルトガル、フランスなど)から北アフリカ(アルジェリア、モロッコなど)にかけて。40種ほどの原種が確認されており、総称して「原種スイセン」と呼ばれている。それらの交配や品種改良で無数ともいわれる園芸品種が生まれた。原種スイセンには小型のものが多く、園芸品種に比べると華やかさに欠けるが、素朴で楚々とした美しさがある。

 原種スイセンでよく栽培されるものの一つに「ナルキッスス(N)・カンタブリクス」がある(上の写真)。種小名はスペイン北部の地名「カンタブリア」に因む。花期は12月~3月頃で、細長い花茎の先に直径3cmほどの白花を一つずつ横向きに付ける。花は外側にある小さな披針形の花被片とその内側の大きな漏斗状の副花冠で構成する。「N・バルボコディウム」(下の写真)は遅咲きの黄花で4月頃まで咲く。その交配種にはカンタブリクスに似た白花も。種小名バルボコディウムは「柔毛に覆われたバルブ(球根)」を意味する。この原種スイセンの系統は花の形から「ペチコートスイセン」とも呼ばれる。

 ニホンズイセンの原種は1本の花茎に数輪ずつ付ける房咲き種の「N・タゼッタ」。これがシルクロードから中国経由で改良されて室町時代に日本に伝わったといわれる。ちなみにニホンズイセンの学名は「N・タゼッタ var.(変種)キネンシス(中国の)」。原種スイセンにはほかにラッパズイセンの元親「N・プセウドナルキッスス」や「N・ポエティクス」「N・キクラミネウス」「N・ルピコラ」「N・ロミエウクシィ」「N・トリアンドルス」などがある。このうち「N・ポエティクス」は花姿から「クチベニ(口紅)ズイセン」とも呼ばれる。ギリシャの詩人たちはこの花を好んで競って詩を作ったという。ポエティクスの名前も「詩人の」を意味する。

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<オキナグサ(翁草)> 花後の長い白銀の毛を老人の白髪に見立てて

2019年04月15日 | 花の四季

【宮沢賢治も愛した山野草、乱獲で激減し絶滅危惧種に】

 「うずのしゅげを知っていますか。うずのしゅげは、植物学ではおきなぐさと呼ばれますが、おきなぐさという名はなんだかあのやさしい若い花をあらわさないようにおもいます……」。これは宮沢賢治の短編「おきなぐさ」の冒頭部分。アリにこの花を好きか嫌いか尋ねると、アリは「大すきです。誰だってあの人をきらいなものはありません」と答える。

 オキナグサはキンポウゲ科の多年草。本州~九州の日当たりのいい草地などに自生し、4~5月頃、長さ10~15cmの茎の先端に暗赤紫色の花を1つ、うつむき加減に付ける。6枚のガク片が花弁状になったもので、花の裏や葉、茎などは産毛のようなもので覆われる。花が終わると、タンポポのように白くて長い羽毛状の毛が密集する。これをお年寄りの白髪に見立て「翁草」の名が付いた。学名は「プルサティラ・セルヌア」。

 「芝付の御宇良崎(みうらさき)なるねつこ草 相見ずあらば我恋(こ)ひめやも」。万葉集のこの歌(巻14-3508、作者不詳)に登場する「ねつこ草(原文=根都古具佐)」はオキナグサとする説が有力。花後の様子が能楽「善界(ぜがい)」で天狗姿の善界坊がかぶる赤熊(しゃぐま)に似ることから「善界草(ぜがいそう)」や「シャグマグサ」とも呼ばれる。この他にも全国各地で様々な呼称。「オジノヒゲ」「ウバシラガ」「カワラノオバチャン」「フデクサ」「ネコノミミグサ」「ユーレイバナ」……。

 黄花が多いキンポウゲ科の中にあって、オキナグサは珍しく濃い赤紫色で豪華な雰囲気が漂う。このため盗掘被害に遭うことも多く、環境省のレッドデータブックには「絶滅危惧Ⅱ類」として登録されている。群生地として有名なのが栃木県塩谷町の鬼怒川河川敷で、数千株が群生する。地元住民や高校の生徒会などが保存・増殖活動に取り組んでおり、塩谷町も活動支援の一環として2014年に、罰則付き(違反者への過料、復元命令)の「希少植物保護条例」を制定した。「生きることかくもむづかし翁草」(後藤比奈夫)

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<奈良公園バスターミナル> 渋滞解消へ県庁東側にオープン

2019年04月14日 | メモ

【新観光拠点にも! 若草山・大仏殿・興福寺五重塔などを一望】

 奈良県庁の東側に隣接して「奈良公園バスターミナル」が13日オープンした。奈良公園周辺の渋滞解消と新しい観光拠点とするのが狙い。2階建ての西棟と東棟の2棟から成り、延べ床面積は約5000㎡。その間の地上部に大型バス16台分の乗降スペースを設けた。東西の建物は2階と屋上部分で連絡通路によって結ばれており、屋上からは若草山や春日山原生林、東大寺大仏殿、興福寺の五重塔などを一望できる。(写真は屋上で演奏する奈良女子大学付属中等教育学校器楽部のメンバー)

 建物内には300人収容のレクチャーホールをはじめ、「観る・食べる・買う・体験する」の4つのテーマごとに自分だけの〝お散歩マップ〟を作ることができるコーナー、タッチパネルで奈良にまつわるエピソードや豆知識を学ぶ〝奈良ストーリー〟のコーナーがある。奈良公園一帯の1000分の1の模型も。また喫茶やレストラン、着物レンタル店、土産物店なども出店している。

 

 開業初日の13日にはレクチャーホールで大画面による「春日山原始林への旅」の上映やマリンバの演奏があり、屋上では奈良女子大学付属中等教育学校の器楽部や高円高校吹奏楽部による演奏などもあった。屋上は奈良公園をはじめ市内中心部を一望できる絶景ビューポイント。ふわふわの芝生の回りにはベンチも配置されており、観光客だけでなく市民の憩いの場としても人気を集めそうだ。

 

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<造幣局・桜の通り抜け> 約650mの間に134品種・338本

2019年04月12日 | 花の四季

【〝今年の桜〟は赤い花が枝先に集まった「紅手毬」】

 浪速の春を彩る造幣局恒例の「桜の通り抜け」が9日スタート、連日多くの花見客でにぎわっている。南から北への一方通行の構内に植えられた桜は八重桜を中心に134種338本。11日訪ねるとまだ蕾や2~3分咲きのものも少なくなかったが、〝今年の桜〟に選ばれた「紅手毬」や満開の「笹部桜」などの周りには写真に収めようと花見客の輪ができていた。

 造幣局の通り抜けは明治初期に藤堂藩の蔵屋敷から移植され、1883年(明治16年)に当時の局長の発案で始まった。戦時中に一時中断したが1947年に再開され、その2年後からは夜間公開の夜桜も始まった。最も多い品種は「関山」の62本で、次いで「普賢象」や「松月」の10本余り。ただ大半の品種は1~3本だけで、中には「大手毬」など他ではめったに目にすることができない品種も。久しぶりに来て、名品・珍品の桜が実に多いことに改めて感心させられた。

 

 〝今年の桜〟の「紅手毬」(上の写真㊧)は枝先に多くの花が密集して紅色の手毬状になることからその名が付いた。構内で販売されている今年の記念貨幣セットの図柄にも使われている。「笹部桜」(写真㊨)は水上勉の小説『桜守』のモデルとなった〝桜博士〟笹部新太郎氏(1887~1978)の名前に因む桜で、今が盛りと淡い紅色の花をびっしり付けていた。白花の「蘭蘭」は東京・上野動物園のパンダ蘭蘭の死を悼んで、1980年のこどもの日に北海道松前町の子どもたちによって命名されたという。

  

 「太白(たいはく)」(上の写真㊧)は一重の大きな白花。かつて日本から英国に渡り、日本ではその後絶滅していたが、1930年代に英国の桜研究家コリングウッド・イングラム氏から接ぎ穂が日本に寄贈されて復活したそうだ。北門出口近くに「大阪に花の里あり通り抜け」という句碑が立つ。建立されたのは半世紀ほど前の1964年で、句の作者は大阪で活躍した川柳家の本田渓花坊氏。その句碑を見守るように「千原桜」(写真㊨)という満開の白い花が覆っていた。『平家物語』の祇王・祇女に因む淡紅色の「祇王寺祇女桜」や花色が淡紅色から白色に変わる大輪の「永源寺」などもちょうど見ごろを迎えていた。今年の通り抜けは15日まで。 

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<ノゲシ(野芥子)> ヨーロッパ原産のキク科の〝史前帰化植物〟

2019年04月10日 | 花の四季

【「ケシアザミ」や「チチグサ」「ウマゴヤシ」などの別名も】

 キク科ノゲシ属(ソンクス属)の越年草で、日当たりのいい道端や空き地などでごく普通に目にできる。秋に芽生えてロゼット状で冬を越し、春になると高さ50~100cmの茎を立ち上げ、径2cmほどのタンポポに似た黄色い花をいくつも付ける。茎は中空。花は朝開き夕方にはしぼむ。原産地はヨーロッパといわれ、古い時代に中国経由で渡来した〝史前帰化植物〟と考えられている。

 ノゲシの名は葉がケシに似て、葉や茎を傷つけるとケシ同様に白い乳液が出ることから。別名「ケシアザミ」。これは葉がアザミのように羽状に裂け、縁に鋸歯があることによる。乳液から「チチグサ」や「チチナ」と呼ばれることもある。若い葉は古くからサラダや和え物など食用とされてきた。学名の「オレラセウス」(種小名)も「食用蔬菜の」を意味する。また家畜の飼料として利用されたことから方言で「ウマゴヤシ」や「ウサギグサ」などと呼ぶ地方もある。

 ノゲシは草姿がよく似て秋に花が咲く「アキノノゲシ」と区別するため「ハルノノゲシ」とも呼ばれる。ただアキノノゲシは同じキク科でも全く別属で、野菜のレタスと同じアキノノゲシ属(ルクシカ属)。草丈も1~1.5mとやや大きい。この植物もかつて家畜の飼料とされ、ニワトリの餌として広く栽培されたこともあるという。ノゲシと同属の仲間に「オニノゲシ」がある。明治時代に渡来した帰化植物で、ノゲシの葉が軟らかいのに対し厚くて鋸歯が刺になっていて触ると痛い。その荒々しい葉の姿から「オニ(鬼)」と冠された。

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