く~にゃん雑記帳

音楽やスポーツの感動、愉快なお話などを綴ります。旅や花の写真、お祭り、ピーターラビットの「く~にゃん物語」などもあるよ。

<ミフクラギ(目脹ら木)> 乳液に毒性、目に付くと腫れることに由来!

2016年10月31日 | 花の四季

【沖縄諸島に分布、別名「オキナワキョウチクトウ」】

 奄美~沖縄諸島から中国南部、東南アジアまで熱帯、亜熱帯地域に分布するキョウチクトウ科常緑高木。海岸など水辺に多く自生する。枝や葉などを傷つけると出る白い乳液は有毒。触れると皮膚に炎症を起こし、口にすると腹痛、嘔吐、痙攣などを起こす。和名の「ミフクラギ」も樹液が付いた手で目をこすると腫れるという沖縄方言「ミーフクヮーギー」に由来する。

 キョウチクトウ属とは別のミフクラギ属だが、樹冠を覆う白い花はキョウチクトウの白花によく似る。そのため「オキナワキョウチクトウ(沖縄夾竹桃)」という別名で呼ばれることも。花期は晩春から秋まで長い。葉は光沢のある深緑色で長さ20cm前後。花後に直径5~10cmほどの卵大の果実ができ、熟すと緑色が赤くなる。中は繊維の多い木質。海水にプカプカと浮き海流に乗って種子を広く散布する。

   

 有毒成分はアルカロイド系の「ケルベリン」など。インドなどに多いオオミフクラギは自殺や毒殺に用いられることが多いため英名で「自殺の木」と呼ばれる。沖縄ではかつてミフクラギの毒性を利用して毒流し漁が行われたという。また種子はすりつぶしてネズミ駆除のための毒団子を作ったそうだ。熟した実はグミや小さなマンゴーのようで一見甘くておいしそう。2013年9月、那覇市の公園でこの実を口に入れた1歳児が救急搬送され入院したことがあった。

 ミフクラギの学名は「セルベラ・マンガス」。属名「セルベラ」はギリシャ神話に登場する3つの頭を持つ冥界の番犬「ケルベロス」に由来する。この犬は白い毒を吐くという。種小名「マンガス」は「マンゴーのような実」を意味する。沖縄では成長が早く花が美しいこともあって街路樹や公園などによく植栽されている。名護市の「東江のミフクラギ」、大宜味村の「喜如嘉のミフクラギとフクギ」(2本の木が寄り添うように立つ)は「沖縄の名木百選」にも選ばれている。一方で、公園などを管理する市町村などは立て看板を設置し「実や樹液を絶対に口に入れないで」と注意を呼びかけている。(写真はいずれも沖縄県うるま市の「ビオスの丘」で)

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<沖縄点景⑤> まばゆいばかりの首里城正殿、日中の建築様式を融合

2016年10月30日 | 旅・想い出写真館

【守礼門の先の「園比屋武御嶽石門」も世界遺産の一つ】

 沖縄旅行は2000年1月以来。首里城跡や中城城跡、斎場御嶽などが「琉球王国のグスク及び関連遺産群」として世界遺産に登録されたのがその年の12月だから、その直前ということになる。首里城は約450年間続いた琉球王国の政治・外交・文化の中心地。戦時中には沖縄守備隊の総司令部が置かれていた。そのため1945年5月下旬、米軍の猛攻撃を受けて灰燼に帰した(総司令部はその後、南部の摩文仁に撤退)。18世紀の首里城をモデルに正殿が復元・公開されたのは1992年。鮮やかな朱色の正殿は16年前と同じ輝きを放って青空に映えていた。

 首里城のシンボル「守礼門」(下の写真㊧)は王国が礼節を重んじる国であることを内外に示したもの。1958年にいち早く復元された。この門は二千円札の表にも描かれた。だけど、そのお札、最近全く目にしない。一体どこに? 守礼門をくぐって、間もなく左手にあるのが「園比屋武御嶽石門(そのひゃんうたきいしもん)」(写真㊨)。一見地味だが、沖縄の世界遺産9カ所のうちの一つだ。国王が首里城を出るとき道中の安全を祈願した拝所。そばに世界遺産であることを刻んだ立派な石碑が立てられていた。

 

 城郭内に入る第一の正門「歓会門」(下の写真上段㊧)は守礼門に次いで1974年に復元された。左右に高い石垣が伸びる。次の「瑞泉門」(同㊨)に向かう階段下にあるのが湧き水の「龍樋(りゅうひ)」(下段㊧)。龍の彫り物から流れ出るこの湧き水はかつて王宮の飲料水として使われていたという。次の「漏刻門」の名前は門の上に水時計があり、太鼓で城内に時を告げていたことから。赤い「広福門」(下段㊨)は入場券の販売所を兼ねる。この門をくぐると、沖縄最大の木造建築物の正殿だ。

    

 

 正殿内部でひときわきらびやかなのが国王の玉座が飾られた「御差床(うさすか)」。国王を前に様々な儀式や祝宴が行われた。国王の椅子は1477~1526年に在位した尚真王の肖像画を基に再現したという。首里城跡では国王とその家族が暮らした「御内原(おうちばら)」を中心に今も復元事業が進む。国王と王妃の居間や寝室があった場所は「黄金御殿」と呼ばれ「奥書院」などとともに2014年から一般公開が始まった。この御殿の特別展示室では英海軍ライラ号の艦長バジル・ホールの来琉200年を記念した企画展「うらんだあLoo-Choo(琉球)来訪記―異国人のみた琉球」が開かれていた(~12月14日まで)。

 

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<沖縄点景④> ジンベエザメ3匹が悠然と泳ぐ美ら海水族館

2016年10月29日 | 旅・想い出写真館

【イルカショーの向こうに望むのは沖縄戦激戦地の伊江島】

 国内の水族館で最も人気を集める「沖縄美ら海水族館」(本部町)。2015年度の入場者数は340万人に達し過去最高記録を更新、2位「海遊館」(大阪)の245万人、3位「名古屋港水族館」(愛知)の205万人を大きく引き離す(総合ユニコム調べ)。最大の見どころは世界最大級の大水槽の中を悠然と泳ぐジンベエザメ3匹。このうち同水族館で唯一名前が付いているオスの「ジンタ」は今年3月、飼育開始から満21年を迎えた。もちろん世界の水族館で最長、今も記録更新中だ。

 大水槽は「黒潮の海」を再現したもので、その大きさは幅35m、奥行き27m、深さ10m。水量は7500トンに及ぶ。入場者との間のアクリルパネルも厚さが60cm。ジンベエザメのおなか部分は白いが、背中は灰色に白の斑点模様。それが着物の甚平に似ているとしてその名が付いた。遊泳速度は時速4キロほどで、眠っている間も終始泳ぎ続けるという。餌を食べる際には体を垂直にしてプランクトンやオキアミなど海面付近の餌を海水とともに一挙に吸い込む。食事タイムは毎日午後3時と5時だが、そのダイナミックな食事シーンを見ることができずに残念!

 

 

 同水族館はサメ、エイ類を中心とした繁殖で知られる。これまでに日本動物園水族館協会の「繁殖賞」を26種類の動物で受賞しているという。繁殖賞は生まれたこどもが半年以上生存し、それが日本で初めての場合に与えられる。ジンベエザメと同じ水槽で何匹も泳ぐ巨大なエイの一種、ナンヨウマンタの繁殖も同館が世界で初めて。ミナミバンドウイルカの繁殖にも成功している。大きな目標はジンベエザメの繁殖だ。寿命は60~70年とも100年ともいわれる。いつの日か「ジンタ」の2世が誕生することを期待したい。「黒潮の海」のほか「サンゴの海」や「熱帯魚の海」なども見どころたっぷりだった。

 

 水族館を出て次に向かったのは無料施設のイルカショー「オキちゃん劇場」。登場したのはバンドウイルカやオキゴンドウなど大小さまざまで、大きな口笛のような音で歌ったり、空中高いボールに大ジャンプしたりして、満員の観客から大きな拍手と歓声をもらっていた。会場真正面の沖合いには尖った山がそびえる伊江島が見えた。沖縄戦の激戦地の一つ。米軍が上陸した1945年4月16~21日の〝六日戦争〟で、日本軍の守備隊約2000人と村民約1500人が戦死したという。米軍は島を占拠後、日本陸軍の飛行場を補修し沖縄本島と日本本土への出撃基地とした。イルカショーの向こうに見える約70年前の悲劇の島を眺めながら、改めて平和の大切さに思いを巡らせた。

 

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<グンバイヒルガオ(軍配昼顔)> 葉形が行司の軍配に似ていることから 

2016年10月28日 | 花の四季

【ツル性の海浜植物、アサガオと同じサツマイモ属】

 海岸の砂地を好む海浜植物。熱帯~亜熱帯地域の東南アジアや南太平洋、南アフリカ、中南米など世界各地の暖地に分布する。日本での自生地は主に沖縄諸島や九州の宮崎県以南だが、大分県や高知県などでも群落が確認されている。葉の形に特徴があり、円形または広楕円形の葉の先端に浅い切り込みが入る。その形が相撲の行司が持つ軍配に似ていることから「軍配昼顔」の和名をもらった。

 ヒルガオやハマヒルガオと同じヒルガオ科だが、ヒルガオ属ではなくてアサガオと同じサツマイモ属。花の形も漏斗状でアサガオによく似る。花色は中心が濃い紫色で、その周りはピンクがかったうすい紫色(ハマヒルガオは中心の色が白)。ただアサガオが1年草なのに対し、こちらは多年草で、茎が砂地を這って群落を形成する。茎は長いものでは10mほどにも。沖縄地方ではかつてこの長い茎をものを縛る紐として利用したという。この植物の沖縄での方言名は「アミフィーバナ」。花を摘むと雨が降るという迷信に由来するそうだ。

 果実はアサガオに似て中に4つの種子が入っており、茶色の毛に覆われた種子は潮流に乗って各地に運ばれる。日本でも太平洋側では茨城県、日本海側では京都府や福井県、山形県などで発芽が確認されているという。ただ東日本では寒くなると枯れて冬越しはまず無理なようだ。宮崎、高知、大分の各県では絶滅危惧種。大分県ではNPO法人「おおいた環境保全フォーラム」が中心になって、「日本の渚百選」で県内唯一の群落地、元猿海岸(佐伯市)で環境保全活動に取り組んでいる。(写真は沖縄県の古宇利島で)

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<沖縄点景③> 往時の栄華を今に伝える雄大な今帰仁城跡

2016年10月27日 | 旅・想い出写真館

【沖縄古謡にも歌われた美しく波打つ〝百曲がり〟の城壁】

 沖縄本島北西部の本部半島の高台に位置する「今帰仁城跡」。沖縄の北部、中部、南部地域を北山(山北とも)王、中山王、南山(山南とも)王がそれぞれ支配した14~15世紀の〝三山鼎立時代〟、北山王はこの今帰仁城を拠点とした。2000年、世界遺産として登録された「琉球王国のグスク(城)及び関連遺産群」のひとつである。

 三山時代は1322年頃から1429年までの約100年間。14世紀の中国の史書『明実録』には琉球国の北山王として帕尼芝(はにじ)、珉(みん)、攀安知(はんあんち)の3代の国王が登場し、明の皇帝に使者を度々送って朝貢を行ったと記す。だが北山は1416年(1422年説も)、中山によって滅ぼされる。中山は北部地域管理のために監守を置き、今帰仁城を監守の居城として使った。その城も1609年の薩摩軍による琉球侵攻の際に炎上してしまったといわれている。

 

 城跡は外郭を含め7つの郭(区画)から成る連郭式の配置。外郭は高さ2mほどの石垣が数百メートル蛇行して伸びる(上の写真㊨)。その波打つ曲線の美しいこと。地形を巧みに生かして、最も高い場所に位置する主郭(本丸)を中心に全体がこうした曲線の石垣で囲まれる。沖縄最古の歌謡集『おもろさうし』でも「ももまかり、つみ、あけて」と百曲がりの石積みの美しさを称えた歌が紹介されているという。外郭から「平郎門」をくぐりまっすぐ進むと「大庭(ウーミャ)」。様々な行事に利用される重要な広場だった。「大庭」の先が「主郭(俗称本丸)」だ。

 

 「大庭」の左側に広がるのは女官の生活の場といわれる「御内原(ウーチバル)」。その一角に神聖な拝所「城内上の御嶽(ウタキ)」(上の写真㊨)があった。眼下は兵馬の訓練場所だった「大隅(ウーシミ)」。ここからは大量の馬の骨が出土したという。「御内原」からの眺望も青い海を一望でき最高だった。「主郭」の高い石垣上から望むのは「志慶真門郭(シゲマジョウカク)」(最上段の写真)。城主に仕えた人たちが住んでいたとみられ、4つの掘っ立て柱の建物跡が見つかっている。北山が滅びて約600年。長大な石垣が堂々と今なおほぼ原形をとどめていることに感動を覚えた。

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<タイワンモクゲンジ(台湾木欒子> 無数の黄花が目を引く〝金雨の木〟

2016年10月26日 | 花の四季

【ムクロジ科の落葉高木、台湾から40年ほど前に沖縄へ】

 ムクロジ科モクゲンジ属(ケールロイテリア属)の落葉高木。台湾原産で、日本には1980年ごろ緑化植物として沖縄に渡ってきた。沖縄では那覇市内など各地の街路樹や公園などに植栽されている。モクゲンジは中国原産で、日本には元禄年間(1688~1904)に渡来したといわれる。別名「センダンバノボダイジュ(栴檀葉の菩提樹)」。このタイワンモクゲンジは台湾に自生するモクゲンジということでこの名が付いた。

 属名の「ケールロイテリア」はドイツの植物学者で、交雑技術の研究で知られるJ.G.ケルロイター(1733~1806)の名前に因む。成長が極めて早く、台湾では大きくなると樹高が20m前後にも達する。ただ、日本では高くてもせいぜい5~7mほど。花期は9~10月ごろで、枝先に長さ30~60cmの長い円錐花序を付け、小さい黄色の5弁花をいっぱい付ける。

 その様子を金色の雨にたとえ、欧米では「ゴールデン・レイン・ツリー(金雨の木)」と呼ばれる。ただ開花の期間は短い。花の後、果実が大きくなるにつれてピンク色の果皮が目立つように。ブーゲンビリアの花びら(苞)に似た紙質の袋状で、鈴なりになって紅葉のように樹冠を覆う。葉が落ちた後も樹上に長く付いたままで、初めて目にする人は花と間違えることも多いそうだ。

 果皮の中には真っ黒な種子が数個入っている。直径5ミリほどで、極めて硬いことから数珠やネックレスの材料として利用されるという。タイワンモクゲンジは台湾北東部の宜蘭県、中南部の嘉義県などの「県の木」になっている。(写真は沖縄の世界遺産「今帰仁城跡」で)

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<沖縄点景②> 斎場御嶽、沖縄で格が最も高い祈りの空間

2016年10月25日 | 旅・想い出写真館

【眼下にコバルトブルーの太平洋が広がる景勝地「知念岬」】

 16年前の2000年、「琉球王国のグスク(城)及び関連遺産群」がユネスコの世界遺産に登録された。沖縄県南部の南城市にある「斎場御嶽(せーふぁうたき)」はその関連遺産群の一つ。「御嶽」は沖縄の聖なる祈りの場を意味し、斎場御嶽は琉球の創世神話に登場する7つの御嶽の中で最も格式が高いとされる。琉球王国で神の声を聞き祭祀を司るのは国王の親族の女性と決まっていたという。今でこそ誰でも御嶽に足を踏み入れることができるが、もともとは男子禁制で国王でさえ途中までしか入ることができなかったそうだ。

 石碑のそばの「御門口」から入って緩やかな上りの石畳を進むこと10分あまり。樹木が鬱蒼と茂る中、「大庫理(うふぐーい)」「寄満(ゆいんち)」などと呼ばれる拝所(祈りの場)を過ぎると、間もなく三角形の巨大な岩のトンネルで有名な「三庫理(さんぐーい)」が見えてきた。なるほど神秘的な光景。奥に進むと、左手の樹間から久高島(くだかじま)が見えた。琉球開闢(かいびゃく)の祖神が降り立った場所といわれ「神の島」と呼ばれる。琉球王国時代、国家的な祭事の際にはその島から聖なる白砂を運び御嶽全体に敷き詰めたという。

 

 「大庫理」「寄満」「三庫理」の三カ所はいずれも首里城内にある部屋と同じ名前を持っており、当時の首里城と斎場御嶽の深い関わりを示す。「三庫理」などからは金製の勾玉(まがたま)や中国の青磁気、銭貨なども見つかっており、国の重要文化財に指定されている。石畳の中ほどに水がたまった「艦砲穴」があった。1945年の沖縄戦の際に撃ち込まれた砲弾の跡。終戦直後には沖縄本島内の至る所にあったが、大半は埋められたりして残っていないという。この穴はいわば沖縄戦の凄まじさを物語る〝生き証人〟だ。

 

 斎場御嶽に向かう途中、太平洋に突き出た「知念岬公園」に立ち寄った。公園といっても東屋と岬の突端に下りる散策路があるぐらい。ただ眼下に広がるリーフとコバルトブルーの海、その先に伸びる水平線の眺めはまさに絶景の一言だった。ここからも神の島・久高島が望める。知念岬は日の出を拝む絶好の場所という。また夜になると満天の星空を満喫できるそうだ。そんな幻想的な光景をいつでも体感できる地元の方々がちょっとうらやましく思えた。

 

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<奈良県立万葉文化館> 彬子女王と中西進氏が対談「日本の美を語る」

2016年10月24日 | メモ

【開館15周年記念「万葉の日記念フォーラム」で

 奈良県立万葉文化館で23日、開館15周年記念の「万葉の日記念フォーラム」が開かれ、近代美術史の研究者として知られる彬子女王と同館の初代館長で文学博士の中西進氏が「日本の美を語る―文学と絵画」をテーマに対談した。コーディネーターは朝日新聞編集委員の大西若人氏。対談の内容は東西の文化の違いから子どもへの伝統的な日本文化の伝承まで多岐にわたり、抽選に当たった聴衆300人がお二人の熱い対談に聴き入った。

 彬子さまは学習院大学卒業後、英国オックスフォード大学に留学。主に海外に流失した日本美術に関する調査・研究に取り組み、2010年に博士号を取得した。皇族の博士号は秋篠宮さまに次いで2人目、女性皇族としては初めて。現在は各地の大学の特別招聘教授や研究員などとして学究に励む傍ら、子どもたちに日本の伝統文化を伝える目的で立ち上げた「心游舎」や「中近東文化センター」「日本・トルコ協会」などの総裁を務めている。一方、中西氏は日本文化の研究・評論活動で知られ、日本学士院賞、菊池寛など数多くの賞を受賞している。文化功労者。現在は社団法人日本学基金理事長、全国大学国語国文学会長などを務める。

 対談はまず日本文化の〝流失問題〟から始まった。明治維新の時期や終戦直後、日本の多くの美術工芸品が二束三文で欧米に渡ったが、彬子さまは浮世絵を例に挙げながら「日本人が興味を持っていなかったものに外国人が興味を持った。おかげで戦争や震災、火災などで壊れたり焼失したりせず、今外国で見ることができる。しかも体系的なコレクションとなって、日本での評価も高まった」と話された。さらに「日本の美術史は西洋と日本の相互の関係の中で影響を受けながら独自のものが作り上げられてきた」とも。

 中西氏は「絵画と違って文学は(東西の交流が)遅い」とし「ヨーロッパにはヨーロッパの美学・詩学がある。ダブルスタンダードの対極として、常に違った物差しを当てることが大切」と語った。彬子さまは「翻訳本に対する限界を感じることがある。源氏物語の翻訳本には違和感を感じた。日本語は形容詞で語る文学で、英語は動詞で語る文学と思う」とし、ノーベル賞の文学賞に選ばれたボブ・ディランの歌詞についても「原文に当たることが大事では」と話された。

 外国人が理解しにくいものに「余白の美」がある。中西氏は「余白(という表現)には誤解がある。『風神雷神図』(俵屋宗達筆)のあれは〝余白〟ではなく〝有白〟」とし、「カキツバタの絵を見て外国人は宙に浮いて根がないと言うが、根っこを描かなくても根っこはそこにある」と話した。カキツバタは尾形光琳の屏風絵『燕子花(かきつばた)図』などを念頭に置いた発言だろう。彬子さまは「日本人が当たり前と思っていることを外国人はそう思っていない。文化の違いから相容れない部分もあるが、どう折り合いをつけるかが大切ではないか」と話された。

 対談は終盤、子どもへの文化の継承に及んだ。「心游舎」の発起人代表でもある彬子さまは主にお寺や神社で子どもたちに本物の日本の伝統文化を伝える活動に取り組まれている。「トップダウンではなく下からのボトムアップの方式で日本文化を守っていかないといけない。未来を担う子どもたちに(日本文化に触れて)楽しいなと思ってもらいたい」と話す。つい最近も石清水八幡宮(京都府八幡市)で小中学生を対象にワークショップを開いたそうだ。子たちからは「なんで?」と問われることも多い。彬子さまは「大人になると『なんで』と考えなくなりがち。考えると新しく気付くこともある」と話されていた。

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<沖縄点景①> 沖縄戦の悲惨さ伝える「ひめゆりの塔」と第三外科壕

2016年10月23日 | 旅・想い出写真館

【「平和の礎」犠牲者24万人余を刻銘、国籍や軍人・民間人の区別なく】

 沖縄戦戦跡の一つ「ひめゆりの塔」(糸満市)を訪ねた。2回目。米軍の沖縄上陸作戦開始から3カ月後の6月19日、ガマ(自然洞窟)の第三外科壕が米軍の手榴弾攻撃を受ける。中にいたのは看護要員として動員されていた「ひめゆり学徒隊」ら96人。その大半の87人(うち42人が学徒と教師)が犠牲になった。ひめゆりの塔は終戦直後の1946年4月、地元民の手によってガマの前に建立された。ガマを挟んで正面には1957年に建てられた新しい「ひめゆりの塔」。白壁には沖縄師範学校女子部・沖縄県立第一高等女学校のシンボルだったユリ1輪と戦没した教師・学徒の名前が刻まれている。

 ガマの中を覗き込もうとしたが、柵があってよく見えない。約40年前の1975年夏、この場所で過激派の活動家が沖縄訪問中の皇太子(今上天皇)と美智子さまに火炎瓶を投げつけるというゲリラ事件があった。皇族による沖縄訪問は戦後初めて。犯人2人は6日前からこのガマに潜入していた。事なきを得た皇太子は警備担当者を処分しないよう依頼したが、県警本部長は減給処分、警察庁から警備責任者として派遣されていた佐々淳行警備課長は辞表を提出したという(受理されず)。献花した後、「ひめゆり平和祈念資料館」に向かった。亡くなった学徒の多くは16~17歳。修学旅行生たちが近い年代ということもあって真剣な表情で遺影や遺品、生存者の手記などを見つめていた。資料館の出口付近には多くの千羽鶴が掛けられていた。

 

 次に向かったのは沖縄戦終焉の地、摩文仁の丘を望む台地にある「平和祈念公園」。「平和の広場」を中心に沖縄戦の犠牲者の名前が刻まれた「平和の礎(いしじ)」の刻銘碑が放射状に広がる。21年前の1995年6月23日に建設された。この日は沖縄での組織的戦闘が終結した「慰霊の日」。ここで毎年この日「全沖縄戦没者追悼式」が開かれる。刻銘碑は国籍や軍人・民間人などの区別なく、今も「慰霊の日」に毎年追加される。今年6月現在で24万1414人(沖縄県14万9425人、県外7万7417人、米国1万4009人など)。「沖縄県平和祈念資料館」には県民の4人に1人が犠牲になった沖縄戦の写真や遺品、証言集などが並ぶ。資料館の展望室から望むと、「平和の礎」の反対側に真っ白な「平和祈念堂」が平和の大切さを訴えるように輝いてそびえていた。

 

 

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<ショウキズイセン(鍾馗水仙)> ヒガンバナの仲間、鮮やかな黄花

2016年10月22日 | 花の四季

【花びらの縁が波打つ様を鍾馗様の長いひげにたとえて!?】

 温暖な四国、九州、沖縄の山野に自生するヒガンバナ科ヒガンバナ属(リコリス属)の多年草。同属の仲間にヒガンバナ、ナツズイセン、キツネノカミソリなどがある。花期は9~10月ごろで、ヒガンバナ属の中では最も遅い。ヒガンバナ同様、葉を出す前に花茎を伸ばして遠目にも鮮やかな黄色い花を横向きに付ける。その花はヒガンバナ属の中で最も美しいともいわれる。

 花茎は50~70cm、花の径は6~10cmほどで、茎の先に4~10個が輪生する。花弁は6枚で、縁が波打ってしわになり少し反り返る。和名はその様を厄病の悪神を追い払ってくれるという鍾馗様の長いひげにたとえて付けられたという。花弁の中央から長い雌しべと雌しべの花柱が突き出す。

 別名に「ショウキラン(鍾馗蘭)」。ただ同じ名前の植物がラン科にもあることから、混同を避けるためショウキズイセンと呼ばれることが多い。ラン科のショウキランは夏に径3cmほどの淡紅紫色の花を付ける。ショウキズイセンは属名からヒガンバナなどとともに「リコリス」とも呼ばれる。この名前はギリシャ神話に登場する海の神リコリスに由来する。英名は「ゴールデン・スパイダー・リリー」。

 葉は細長い剣状で、花が終わった後に出て、冬を越し翌年の夏に枯れる。ショウキズイセンは中国、台湾にも分布するが、日本のものに比べ葉の幅が広く「オーレア」と呼ばれるという。シロバナヒガンバナはこのショウキズイセンとヒガンバナの交雑種といわれる。またショウキズイセンとキツネノカミソリの交雑種は「アケボノショウキズイセン」と呼ばれる。地下の鱗茎はヒガンバナと同じくリコリンなど有毒なアルカロイドを含む。(写真は沖縄県の世界遺産「今帰仁城跡」で)

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<平城宮跡資料館> 「地下の正倉院展 式部省の木簡の世界」

2016年10月21日 | 考古・歴史

【奈良時代の下級役人も厳格な勤務評価で管理されていた!】

 今年も奈良国立博物館(奈良市)で正倉院展(10月22日~11月7日)の時期を迎えたが、国立文化財機構奈良文化財研究所の平城宮跡資料館でも秋恒例の「地下の正倉院展」が一足早く15日から始まった。10回目の節目に当たる今回のテーマは「式部省木簡の世界~役人の勤務評価と昇進」。式部省は役人の管理・養成を担当した役所で、平城宮の東南端に位置した。今年は式部省の木簡群が大量に発見されて丸50年。その一部180点余を11月27日までの会期中、3期に分けて展示する。

 

 奈良時代の初めには式部省が役人の人事・勤務評価を一手に受け持っていた。当時の長官は長屋王。だが、長官職は後に藤原氏の手に移り、人事も文官は式部省、武官は兵武省と分担するように。今回展示する木簡は主に「東西溝SD4100」(下の写真㊧)と呼ばれる長さ約50mの溝跡から出土したもので、奈良時代後半の天平神護年間から宝亀元年(765~770年)のものが大半を占める。

 

 これらの木簡群は①点数が1万3000点と厖大なこと②その大半が削り屑だったこと③削り屑のほとんどが役所に勤務する下級役人の勤務評価の際に作られた木簡を削ったものだった――という特徴を持つ。位階五位以上の貴族に対し、六位以下が下級役人と呼ばれた。勤務評価には毎年の評価と、毎年の評価を一定年数分総合して位階の昇進を決定するものの2種類があった。前者は「考選木簡」、後者は「選叙(せんじょ)」と呼ばれ、両方合わせて勤務評価を「考選」、そのための木簡を「考選木簡」と呼んでいる。

 木簡の新品は厚さが2~3cmあったとみられ、その側面の上部に穴を開けて使い始め、勤務評価が終わると表面を削って再利用した。木簡には個人カードとして官職・位階・姓名・年齢・本貫地8本籍地)が記載され、考選の木簡には最上部に前年の評価と今年の評価、最下部に出勤日数などが書き加えられた。考課は常勤か非常勤かなどで9段階評価と3段階評価のものがあった。また選叙の木簡には各年の勤務評価の内訳や昇進の判定結果などが記された。(下の写真は㊧勤務評価に使われた木簡の完形品と穴から下部を折ったり切ったりしたもの、㊨勤務評価に使われた木簡を別の用途の木簡に再利用したもの)

 

 非常勤役人の場合、3段階評価の「中」を6年間続ければ一階昇進、3年「中」・3年「上」で二階昇進、6年連続「上」で三階昇進。1年でも「下」が付くと、他の年の「上」で相殺できないと昇進できなかった。当時の位階は最下位の「少初位(しょうそい)下」から最上位の「正一位」まで30段階。下級役人が無位からスタートし、仮に30年間毎年「中」や「中中」の評価をもらってもやっと八位に到達できるだけだった。当時の役人は考課と選叙による勤務評価によって厳格に管理されていたわけだ。勤務評価は5位以上の貴族も対象だったが、位階は「勅授(ちょくじゅ)」として天皇の決定に委ねられた。

 

 木簡には特別の昇進などがあった場合、その旨が註記された。政争に巻き込まれて役人としての道を絶たれたケースも。上の写真㊧の右側の木簡には「仲万呂支党除名」と記されていた。藤原仲麻呂の乱後の連座が下級役人にも及んだことを示す。「大学寮解 申宿直官人事 員外大属破斯清道」(写真㊨)と記された木簡も。「破斯」はペルシャ(波斯)のことで、出身国名をそのまま氏名としている。この木簡の記述は当時ペルシャ人が式部省の役人養成機関である大学寮に勤めていたことを示している。

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<パラ・トライアスリート秦由加子> フラミンゴの刺繍入り手提げ袋!

2016年10月20日 | スポーツ

【リオ五輪のトライアスロンで6位と健闘、2020年東京の目標は表彰台】

 「健常者、障害者を問わず、優れた運動選手が会心の瞬間に見せる姿の美しさには胸を打つものがあり、そうした写真の幾つもを切り抜いて持っています」。20日に82歳の誕生日を迎えられた皇后美智子さまが、9月のリオデジャネイロ五輪・パラリンピックについて宮内記者会の質問に文章でこう回答された。今回のパラリンピックでは金メダルこそゼロだったが、メダル総数は銀10個、銅14個の計24個に達し、16個だった4年前のロンドン五輪を大きく上回った。

 リオ・パラリンピックではトライアスロンが初めて正式競技として採用された。運動機能障害PT2クラス(下肢切断など)には密かに応援していた秦由加子選手(35)=マーズフラッグ・稲毛インター=が出場。得意の競泳(750m)で8選手中2位につけたが、バイク(自転車、20km)で6位に後退、最後のラン(5km)では後続選手の追い上げをかわし6位をキープしてゴールした。1~3位は米国勢が独占した。秦選手はゴール直後に倒れこんだが、その後インタビューに対して「力を出し切れた」と晴れやかな表情で語った。

 その秦選手から「後援会の皆様へ 応援ありがとうございました!」と、デニム生地の手提げ袋が送られてきた。「YUKAKO HATA」と「JAPAN」の文字の間に4羽の1本足で立つフラミンゴを刺繍であしらったデザイン。添えられたメッセージの前半には「初のパラリンピック出場ということで、日の丸を背負う重みと世界の舞台に立つことへの緊張を感じながらレースに臨みました」とあった。4年ほど前に水泳からトライアスロンに転向して以来、内外の大会で好成績を収めてきたが、やはり五輪は普通の国際大会とは全く違う特別のものだったようだ。

 スタートラインに立ったとき「ずっと目指してきた場所に今まさに自分がいるという実感が沸き、涙が込み上げた」という。「バイクやランの間中、コースの端から端まで声援は途切れることなく続き、世界中の方々が各国の旗を振りながら声援を送ってくれました。青いカーペットのトランジション・フィニッシュエリアに入った時の声援と場内アナウンスは、自分に向けられているとは信じ難い程で、全てが夢のような経験でした」。そして最後をこう結ぶ。「これからも自分の可能性を信じ、挑戦し続けていきたいと思っております」。メッセージの下には手書きで「○○様 応援ありがとうございます。秦」とあった。

 秦選手は13歳のとき、骨肉腫で右足の大腿部から下の部分を失った。以来、スポーツとは無縁の生活を送っていたが、社会人になって水泳を始め、31歳のときにトライアスロンに転向、2014、15年の世界トライアスロンシリーズ横浜大会では連覇を果たした。リオ五輪前、秦選手は「私の姿を見てトライアスロンをやりたいと思ってくれる人がいたら、その人の人生も自分と同じように変わっていってくれると思う」と話していた。それだけに五輪では表彰台を目指した。だが、かなわなかった。このメッセージの中で秦選手は「今の力を精一杯出し切ることはできたと思っておりますが、やはりメダルを獲得できなかったことは悔しく思います」と正直に吐露している。秦選手はすでに4年後の東京を見据えているようだ。

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<那覇市> 街路樹にコチョウランやカトレアなど華やかなランが着生!

2016年10月19日 | 花の四季

【住民らの美化活動の一環、通りが癒しの空間に】

 久しぶりの沖縄旅行。早朝、那覇市の宿泊先のホテルから海岸の若狭海浜公園に向かって散歩していると、街路樹の幹になんとランの花が! ミズゴケを詰めた黒い網目の袋からランの根が伸びて、赤や白などの美しい花を付けていた。初めて見る光景。近隣にお住まいの方々が通りの美化活動の一環としてランの着生に取り組んでいるらしい。1本の幹に数種類のランが張り付いた街路樹も。さすが亜熱帯気候の沖縄!

  場所は「ソルヴィータホテル那覇」から北西に伸びる通りで、市立若狭小学校の前まで二、三十本の街路樹に目の高さでランが取り付けられていた。コチョウラン(胡蝶蘭)が多いようだが、カトレアのような花も。港には巨大な観光クルーズ船が停泊。「海の上ビーチ」では早朝にもかかわらず観光客らしき男女十人ほどが水着姿で水とたわむれていた。その帰途「対馬丸記念館」に至る緑地の前の街路樹にもランの花が咲いていた。

 

 沖縄県のホームページ「おきなわ緑と花のひろば」を開くと、「首里金城町の蘭通り(ダム通り)」が「花と緑の名所100選」の1つとして挙げられていた。首里城の西方に位置し、地元の「金城ダム通り会」が那覇市と道路ボランティア協定を結び、「クロキ(黒木)」という街路樹約200本にランを着生させているという。100選に認定されたのは昨年3月。ランの着生活動によって、通りに癒しの空間が生まれただけでなく、ごみが少なくなり、挨拶をよく交わすようにもなったといった効果も出ているそうだ。

 

  街路樹に取り付けるランは土に根を下ろす〝地生ラン〟ではなくて、樹木の幹や岩の上に根を張り付かせる〝着生ラン〟。金城町の蘭通りではコチョウランやデンファレ、オンシジューム、カトレアなどが通りに彩りを添えているという。着生ランは根で吸収した水と葉から取り入れた二酸化炭素で光合成を行う。網目の袋から街路樹の幹に根を四方八方伸ばす様に、着生ランの力強い生命力を見る思いがした。 

 

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<筥崎宮> 楼門に「敵国報復」の扁額、亀山上皇の宸筆を拡大!

2016年10月18日 | 旅・想い出写真館

【日本三大八幡、境内各所に元寇ゆかりの遺物や石碑など】

 宇佐神宮、石清水八幡宮とともに〝日本三大八幡〟といわれる福岡市東区の筥崎宮(はこざきぐう)。社伝によると、創建は延長元年(923年)で、応神天皇(八幡大神)とその母神功皇后、玉依姫命(神武天皇の母)の三神を祭る。社殿は鎌倉時代中期の元寇(蒙古襲来)の際などに焼失し、現在の本殿と拝殿は1546年、楼門は1594年に再建されたもの。いずれも国の重要文化財に指定されている。

 その楼門で参拝者の目を引くのが金文字で大書された「敵国降伏」という扁額。筥崎宮には平安時代に醍醐天皇から「敵国降伏」の宸筆を下賜されたのをはじめ、後の天皇からも同様の宸筆が納められたという。ただ現在掲げられている扁額の文字については「文禄年間、筑前領主小早川隆景が楼門を造営した時に、亀山上皇の御宸筆を謹写拡大したもの」という。

 

 亀山上皇は蒙古襲来の際、敵国降伏を祈願したといわれ、楼門左手には高さが約6mもある上皇の木彫像を安置した「尊像奉安殿」も設けられている。「敵国降伏」の文字は本殿裏側の鳥居にも刻まれている。第二次世界大戦末期、わが国の郵政当局は戦勝祈願のため、この「敵国降伏」をデザインした普通切手を発行した。だが、この切手が全国の郵便局に届く前に終戦を迎えたという。

 

 境内には元寇にまつわる遺物や石碑などが多い。「蒙古軍船碇石(いかりいし)」は博多港中央波止場付近の海中から引き上げられたもの。長さは2mほどで、石質は赭色(しゃしょく)凝灰岩。この種の石材は蒙古軍の造船基地だった朝鮮全羅南道長興南方の天寇山で産するという。碇石の手前には「防塁石」があった。防塁は蒙古軍の侵入を防ぐ目的で博多湾の海岸一帯に築かれた。

 「元寇歌曲碑」は陸軍軍楽隊員の永井建子(けんし、1865~1940)が明治中期に作詞・作曲した唱歌『元寇』の歌詞と音符を刻んだもの。国を挙げて蒙古軍の日本侵略の野望を打ち砕いたことをたたえる内容で、日本唱歌保存愛唱会が35年前に元寇ゆかりのこの地に建立した。境内には謡曲『唐船』に登場する「唐船塔」という石塔も立つ。日本に捕らわれた唐人を迎えに来た2人の子が、父が死んでいたら建てようと持参した供養塔といわれる。その前にある「夫婦石」で唐人は日本人妻と腰掛け別れを惜しんだという。

 

 筥崎宮は〝神風〟によって蒙古軍を退散させたことから、勝運・厄除けの神として篤い信仰を集める。楼門の前にはソフトバンクホークスをはじめ福岡を地盤とする野球、サッカー、ラグビーチームなどの大きな必勝祈願の絵馬が飾られていた。楼門に至る参道は1キロほどもある。その長い参道の両側に多くの露天が出店する9月の「放生会(ほうじょうや)大祭」はどんたく、祇園山笠と並ぶ博多三大祭りの一つで、毎年大勢の人出でにぎわう。筥崎宮は正月の「玉せせり」、7月の祇園山笠の「お汐井とり」でも知られる。

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<オオゴチョウ(大胡蝶・黄胡蝶)> デイゴ・サンダンカと並ぶ沖縄三大名花

2016年10月17日 | 花の四季

【花が風に揺れる様を舞う蝶の姿にたとえて】

 中米カリブ海に浮かぶ西インド諸島原産の熱帯性常緑樹。沖縄県では県花のデイゴ(梯梧)、サンダンカ(三段花)とともに〝沖縄三大名花〟の一つに数えられている。渡来時期は明治初年といわれ、各地の公園や庭園に植えられて初夏から秋まで長く咲き続ける。

  花色は赤みがかったオレンジ色のものが多く、花びらの縁にはフリルのように縮れた黄色い模様が入る。花弁の中央から長い10本の雄しべと雌しべの花柱が突き出す。その花が風に揺れる様を蝶が舞うように見えることから「大胡蝶」の名前が付いた。写真のように花の色が鮮やかな黄色いものもあり「キバナノオオゴチョウ」と呼ばれる。葉は小葉が左右に整然と並ぶ2回羽状複葉で、ネムノキの葉によく似る。

 マメ科ジャケツイバラ(蛇結茨)属で、学名は「カエサルピニア・プルケリマ」。属名のカエサルピニアは16世紀のイタリアの医師・哲学者で、ピサ植物園の園長を務めた植物学者、アンドレア・チェザルピーノ(1519?~1603)の名に因む。主箸に『植物分類体系』(全16巻)。種小名プルケリマは「大変美しい」を意味する。

 英名は「ピーコックフラワー」。遠目では花全体がクジャクの羽のように見えるからだろうか。カリブ海の最東端に浮かぶ小国バルバドスではオオゴチョウが1年中咲き乱れる。オオゴチョウはその国で「プライド・オブ・バルバドス」(バルバドスの誇り)と呼ばれ国花になっている。国の紋章の中央にもオオゴチョウの赤い花が2つ描かれている。(写真は沖縄県南城市の「おきなわワールド」で)

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