く~にゃん雑記帳

音楽やスポーツの感動、愉快なお話などを綴ります。旅や花の写真、お祭り、ピーターラビットの「く~にゃん物語」などもあるよ。

<飛鳥資料館> 企画展「飛鳥の考古学2014―縄文・弥生・古墳から飛鳥へ」

2015年01月30日 | 考古・歴史

【飛鳥時代の宮殿や寺院の下層から出土した縄文、弥生土器など】

 奈良文化財研究所の飛鳥資料館(明日香村)で冬季企画展「飛鳥の考古学2014―縄文・弥生・古墳から飛鳥へ」が開かれている。飛鳥地域の歴史といえば7世紀を中心に都が置かれていた飛鳥時代ばかりが注目を集めがち。今回の企画展は「それ以前」に焦点を当て、宮殿や古代寺院の下層から出土した縄文時代~古墳時代の石器や土器類などを展示している。3月1日まで。

 

㊧大官大寺下層から出土した縄文土器、㊨飛鳥京跡下層から出土した弥生土器)

 飛鳥寺はわが国初の本格的な仏教寺院として知られるが、その下層からは古墳時代の土器や6世紀の竪穴住居跡が見つかっている。寺院が古墳時代の居住域に造営されたことを示す。弥生時代の土器や石器、さらにその前の縄文時代の土器や石棒(棒状の磨製石製品)も出土している。飛鳥四大寺の筆頭に挙げられた大官大寺跡からは約4000年前の縄文時代中期末~後期初頭に作られたとみられる縄文土器が大量に出土した。ここでも弥生土器や古墳時代の須恵器、土師器なども見つかっている。渡来系氏族鞍作氏の氏寺とされる坂田寺跡の下層からは古墳時代前期の土師器が出土した。

 宮殿跡からも様々な土器類が出土している。飛鳥京跡からは縄文後期~晩期の土器や石器、弥生時代前期~中期の土器や管玉、古墳時代の須恵器や土師器、碧玉が見つかった。蘇我馬子の邸宅跡とされる島庄遺跡からは縄文後期から古墳時代前期までの土器類が出土した。飛鳥川流域では30カ所以上の弥生集落の遺構が見つかり、島庄遺跡や御園アリイ遺跡、坂田寺下層などからは古墳時代の集落跡も確認されている。飛鳥地域でも飛鳥時代よりずっと古くから人々の生活が営まれていた!

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<平城京歴史館> 復原遣唐使船の内部公開

2015年01月28日 | メモ

【「スペシャルウィンター2015」開催に合わせ】

 奈良駅に向かう近鉄電車が平城京跡に差し掛かると、右手に遣唐使船と朱雀門が見えてくる。遣唐使船は2010年の平城遷都1300年祭に合わせ「平城京歴史館」前に復原された。その歴史館で27日「スペシャルウィンター2015 遣唐使の旅~その出航までの足跡」がスタート、3月1日まで復原遣唐使船の甲板船室の公開や天平衣装の体験、歴史教室の開催などが行われる。

 遣唐使船は絵巻物の「吉備大臣入唐絵詞(えことば)」や鑑真和上の渡航の様子が描かれた「東征絵伝」などの資料を基に復原された。規模は全長30m、幅9.6mで、排水量300トン、積載荷重150トン。2本の帆柱には竹や葦を薄く削って平らに編んだ網代帆を掲げた。乗船人数は約600人を4隻で派遣したといった記録から1隻当たり100~150人と推定している。

 

 甲板には3つの屋形が並ぶ。船尾側から遣唐大使部屋、賄い部屋、雑居部屋。いずれもこぢんまりとした造り。大使部屋の屋上に太鼓が描かれた絵図があった。櫓を漕ぐ水夫たちに合図として太鼓を叩いたのではないかという。船の右舷左舷には櫓を漕ぐための櫓棚が設けられ、その下の船側には竹束が結えられていた。船の横転を防ぐ浮きの役割を果たしたとみられる。

 遣唐使船は難波津から瀬戸内海を経て博多津へ。そこから中国に向けて海を渡った。航海が順調なら、ほぼ1週間で東シナ海を横断したという。ただ鑑真が来日したのは挑戦6回目。若くして唐に留学した阿倍仲麻呂はベトナムに漂着し帰国がかなわなかった。奈良時代に九州を出航した遣唐使船18隻のうち無事帰国できたのは14隻という。確率は8割弱。この数字を高いとみるか、低いとみるか。遣唐使1人1人にとってはやはり一大覚悟を要する船出だったに違いない。 

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<アリストロキア・サルバドレンシス> 奇怪な花姿はダース・ベイダー似?

2015年01月27日 | 花の四季

【中米原産、葉や根には毒性成分

 ウマノスズクサ科ウマノスズクサ属(アリストロキア属)の多年生植物。原産地は中米のエルサルバドルなど。アリストロキア属は熱帯から温帯にかけ500種以上が分布し、日本にもウマノスズクサ(馬の鈴草)など数種が自生する。多くはつる性で樹木などに絡まって上に伸びるが、このサルバドレンシスは仲間のアルボレアなどと同じくブッシュをつくる立木性。

 アリストロキア属の植物は退化した花びらに代わって萼(がく)が発達し奇妙な形の花を付けるものが多い。サルバドレンシスの花は直径が5cmほど。内側は濃い茶色で上の方には目玉のような白い模様が2つ、外側にはマスクメロンのような白い網目模様が入る。その不思議な姿が映画「スター・ウォーズ」の悪役ダース・ベイダーに似ていると話題を集めている。1つの花の寿命は1週間ほどだが、株元から地際に伸びていく花茎の先に次々と花を付けていく。

 サルバドレンシスは食虫植物の1種で、地面を這う小さな甲虫などを捕食するという。属名はアリストロキア酸という毒性の成分を含むことに由来する。根や葉、果実などを大量に摂取すると腎機能障害を引き起こす恐れがあるそうだ。また国際がん研究機関(IARC)はアリストロキア酸を「ヒトに対する発がん性がおそらくある化学物質」としてグループ2Aに分類している。

 ただアリストロキアの元々の語源はギリシャ語のアリストス(最良)+ロキア(出産)から。仲間のある種の植物が安産に効果があったことに因むらしい。日本でもウマノスズクサは根や果実が生薬として利用されていた。アリストロキア属の植物はジャコウアゲハなどの蝶にとっては欠かせない食草。幼虫は葉に含まれる毒性物質のアリストロキア酸を体内に蓄積することで天敵の捕食者から身を守るといわれる。 

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<BOOK> 『戦争に隠された「震度7」 1944東南海地震1945三河地震』

2015年01月26日 | BOOK

【木村玲欧著、吉川弘文館発行】

 著者木村玲欧(れお)氏は1975年生まれ、2004年京都大学大学院情報学研究科博士後期課程修了。名古屋大学大学大学院助教、富士常葉大学准教授などを経て、現在、兵庫県立大学環境人間学部・大学院環境人間学研究科准教授。著書に『歴史災害を防災教育に生かす―1945三河地震』や『日本歴史災害事典』(共著)など。

    

 太平洋戦争末期の1944年(昭和19年)12月7日、紀伊半島沖で東南海地震が発生した。マグニチュード(M)7.9、死者・行方不明1223人。三重県尾鷲町(現尾鷲市)では最高9mの津波が襲来した。その37日後の45年1月13日には愛知県三河地方を震源とするM6.8の三河地震が発生、死者は2306人に達した。名古屋市から集団疎開していた国民学校の児童たちも多く犠牲になった。だが、2つの地震は戦時報道管制下で「意図的に隠された」。

 第1章「地震はいかにして隠されたのか」で、著者は「報道管制によって地震情報・適切な対応について住民への周知徹底ができず、被害拡大を招いた」とみる。言論統制は復旧・復興にも多くの困難をもたらした。「戦争で物資が不足している上に、報道管制によって被災地外へ地震・津波の被害情報がほとんど伝わらず、人的・物的支援がほとんどなかった」。

 第2章では報道管制の実態に触れながら、朝日・読売の全国紙2紙と地元の中部日本新聞を取り上げ、約4カ月にわたる地震報道を丹念に分析した。3紙に共通したのは①記事の大きさはベタ記事(1段見出しの記事)が主流②詳細な被害情報には触れず「被害微小」というあいまい、かつ事実に反した報道がなされた――など。「政府は被害を小さく見せ、国民の戦意喪失を回避し、敵国への情報漏洩を防ぐ意図があったことが推察される」。当時は激しい空襲の時期とも重なる。全国紙にとって地震報道は「相対的に掲載の優先順位が低かったことも考えられる」。

 第3~6章では2つの地震の被災者の体験談を通して、当時の時代背景が人々の災害に対する意識や行動にどう影響を与えたのかを探る。著者は仮定の話と断ったうえで「戦時中とはいえ、当時から地震・津波の知識の普及、自然災害に対する備え、津波警報発表の仕組みが存在していたならば、被害を極小化することも十分に可能であった」とし、最終第7章でも改めて防災教育の重要性を説く。

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<桜井市纒向学研究センター> 金原正明氏講演「花粉が語る纒向遺跡」

2015年01月25日 | 考古・歴史

【ベニバナやバジル「乾燥状態で染織や薬用としてもたらされた」!】

 桜井市纒向学研究センター(寺澤薫所長)主催の纒向学セミナーが24日、桜井市立図書館で開かれ、奈良教育大学教授の金原正明氏(環境考古学)が「花粉が語る纒向遺跡」と題して講演した。同遺跡の土壌から検出されたベニバナやバジル類の花粉について、金原氏は「(畑での)栽培としてもたらされたとするより、乾燥した植物体や花が染織や薬用としてもたらされたとみるのが妥当」などと話した。(写真㊨纒向遺跡全景)

 

 纒向遺跡は三輪山北西麓に広がる弥生時代末期~古墳時代前期の大集落遺跡。遺跡内には最古の巨大前方後円墳といわれる箸墓古墳や纒向大塚古墳、ホケノ山古墳などがある。これまでに矢板で護岸された巨大水路や祭祀土坑、神殿跡とみられる多数の掘立柱建物、全国各地からの搬入土器などが出土しており、邪馬台国畿内説の有力候補地とみられている。

 遺跡ほぼ中央部の李田地区の3世紀中頃の溝からは大量のベニバナや微量のバジル類の花粉が見つかった。ベニバナは古く中国から日本に伝わり、日本では藤ノ木古墳や上之宮遺跡の6世紀末の検出が最古とみられていた。纒向遺跡での発見はそれを350年も遡る。花粉の検出から周囲や上流部にベニバナ畑があったことも想定されたが、金原氏は「畑の分布ではなく染織や薬用に由来するもの」とみる。他地点から花粉が検出されていないこと、溝は寄生虫卵の検出から下水のようなものだったことなどによる。ベニバナもバジルも上流に染織などの工房があって、その廃液中に花粉が混ざっていたのだろうというわけだ。

 李田地区東側の辻地区の土坑からは大量の果実や魚骨が見つかった。モモやウリの種は2000個を超えた。人に食べられ排泄して堆積された場合、寄生虫卵が検出されることが多い。だが、そこから寄生虫卵は検出されなかった。そのため、金原氏は「食べられずに投棄されたとみなされる。魚も同様。神殿跡とみられる掘立柱建物に隣接することから、供献されたものが祭祀を伴って土坑に埋められたのだろう」と推測する。

 山側の巻野内家ツラ地区からは木製品を組み合わせた導水施設が出土した。その下層の堆積物からは多量の寄生虫卵が検出され、食用になる種実や花粉も多く検出されたことなどから「導水施設自体が水洗式便所としての機能を有していたとみなされる」。ただ古事記の「禊ぎによって汚穢を洗い流す」の記述などを踏まえ、金原氏は「単純に水洗式便所や水の祭祀遺構とみなすことはできず、汚穢を祓う禊ぎを行う場所とみるのが妥当と考えられる」としている。

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<奈良県立美術館> 企画展「富本憲吉展 華麗なる色絵・金銀彩」

2015年01月23日 | 美術

【富本が色絵技法を研究した九谷焼の名品も】

 奈良県立美術館で企画展「富本憲吉展 華麗なる色絵・金銀彩」が始まった。奈良県が生んだ近代陶芸の巨匠、富本憲吉(1886~1963)の陶業50年を代表する作品を一堂に紹介、同時に富本が石川県で色絵技法を研究したことにちなんで九谷焼の名品も展示している。3月15日まで。

 

 富本が陶芸の道に進むのは英国留学から帰国後の27歳のとき。親交があったバーナード・リーチの影響を受け、1913年、奈良県安堵村(現安堵町)の自宅裏に窯を作って楽焼の制作を始めた。富本の陶業は拠点とした場所から大和時代(1913~26年)、東京時代(26~46年)、京都時代(46~63年)の3つに分けられる。東京時代の1936年には石川県に滞在して色絵を研究し色絵磁器の制作に取り組んだ。(上の写真は㊧「色絵四弁花更紗模様六角飾筥=かざりばこ」、㊨「色絵円に花模様飾筥」)

 金銀彩に成功したのは京都時代の1952年頃。それまで金と銀の同時焼き付けは適温が異なるため不可能とされていた。富本は銀泥に金泥を加え、さらに白金(プラチナ)を少量混ぜる方法を考案し金銀彩技法を確立した。同じ頃、連続する羊歯(シダ)模様を創案し、金銀彩と併用することで華麗な作品を編み出した。

 

 その代表作の1つが53年制作の「赤地金銀彩羊歯模様蓋付飾壷」(写真㊧)。高さ18.0cm、直径22.9cm。金色と銀色のシダの文様が格調の高い輝きを放つ。現在は奈良県立美術館の収蔵品になっているが、かつては在米日本大使館に飾られていたという。富本は55年、色絵磁器で重要無形文化財保持者(人間国宝)に認定された。(写真㊨は「金銀彩羊歯模様大飾皿」)

 展示中の九谷焼も逸品ぞろい。17世紀の古九谷をはじめ、19世紀の若杉窯や吉田屋窯の作品、富本が滞在した窯元の北出塔次郎や交流のあった陶芸家の二代徳田八十吉、森一正の作品が並ぶ。さらに「現代に息づく九谷焼の伝統と美」として、二代浅蔵五十吉や三代徳田八十吉、人間国宝の吉田美統(みのり)の作品なども展示されている。(下の写真㊧北出塔次郎作「金襴手額面<胡砂の旅>」、㊨吉田屋窯「梟に太湖石図平鉢」)

 

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<BOOK> PHP新書「どんな球を投げたら打たれないか」

2015年01月21日 | BOOK

【金子千尋著、PHP研究所発行】

 オリックス投手、金子千尋は昨シーズン16勝5敗・防御率1.98でリーグ最多勝と最優秀防御率の2冠を達成、初の沢村賞にも輝いた。今や日本の球界を代表するナンバーワン・ピッチャー。昨年オフには一時メジャー移籍話も浮上したが、オリックスに残留しリーグ優勝・日本一を目指すことになった。今年も金子の〝快投〟乱麻の活躍に注目が集まることだろう。  

     

 社会人野球のトヨタ自動車に所属していた金子がプロの世界に入ったのは10年前の2004年。自由獲得枠でのオリックス入団だった。1年目は肘の故障もあって一軍での登板はゼロ。しかしスカウトの期待に応え次第に力を発揮する。2008年から4年連続2ケタ勝利。2010年に初の最多勝、13年には最多奪三振、そして昨年の大活躍。 

 この間、金子は「どうすれば、自分みたいなピッチャーが、プロの世界で勝てるようになるのか」自問自答してきた。「その命題と真正面から向き合ったからこそ、おそらく他のピッチャーとは違う思考を身につけ、そして新たな球種を一つずつ習得していったのです」。金子の持ち球は実に多彩。カットボール、スライダー、シュート、チェンジアップ、スプリット、カーブ、パワーシンカー、ツーシーム――。

 「ストレートだけでは抑えられないから、変化球をたくさん投げるしかない。自信を持っているのではなく、打者を抑えるために、必然的にいろんな変化球を投げ分けている」という。「打者から見て、一番打ちにくいのはどんな変化をするボールなのか。ピッチャー目線を捨て、打者目線で変化球を考えるようになったとき、それまでとはまったく違う発想が芽生えた」とも。、

 では、金子が考え抜いた末の理想の変化球とはどんなものなのか。「指先を離れたボールがストレートと同じ軌道で打者に向かっていって、打者がヒッティングの動作を始めたポイントで左右、あるいは下に変化していく、というもの。まっすぐ伸びたボールが、途中でいろんな方向に枝分かれしていくようなイメージ」。そして理想のピッチングは「27のアウトをすべて凡打で、100球以内の投球で終わらせること」という。

 最終章第6章「ライバルに学ぶ」の最後に「強打者の才能が、ピッチングを磨いてくれる」という1項目を立てている。その中で「ピッチャーとして一番嫌なのは、どのコースへ投げても、しっかりと振りきってくる打者」として、ソフトバンクの内川聖一や李大浩、柳田悠岐、長谷川勇也らの名前を挙げる。今シーズンの開幕は3月27日。金子と好打者の対戦がますます楽しみになってきた。

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<帝塚山大学付属博物館> 企画展「漆の器―近世漆工芸の用と美」

2015年01月20日 | メモ

【実習生が展示作業から解説パネルの作成まで】

 磁器が英語で「チャイナ」なら、漆器は「ジャパン」。漆工芸品はまさに〝用の美〟を備えた日本の伝統工芸品の代表格といえる。その漆器類を集めた企画展「漆の器―近世漆工芸の用と美」が帝塚山大学付属博物館(奈良市)で開かれている。実習生による企画展示で、同大学が所蔵する漆工芸品のうち食の器を中心に約40点を、実習生が作成した解説パネルとともに展示している。2月3日まで。

 

 パネル「漆の歴史」によると、漆が使われ始めたのは縄文時代前期まで遡る。「飛鳥時代には仏教伝来と共に大陸から脱乾漆法が伝えられ、聖徳太子墓といわれる磯長陵(しながのみささぎ)では漆棺が作られた。また奈良時代には興福寺阿修羅像が作られた」。平安時代以降に登場した蒔絵は江戸時代に入ると一段と豪華を極める。(上の写真は㊧根来塗の蓋付椀、㊨秋草文皿)

 徳川3代将軍家光の長女、千代姫が尾張藩主徳川光友に興し入れする時に携えた婚礼調度類の中核は「初音蒔絵調度」と呼ばれた。お抱えの蒔絵師が丸3年を費やして完成させたといわれる。江戸時代には各藩も漆産業の奨励と保護に努めた。江戸中期以降になると、漆の膳や食器類が一般の町民の間にも次第に普及していった。(下の写真は上段㊧菖蒲漆絵椀、㊨水草漆器椀、下段㊧脚付盥=あしつきたらい、㊨「丸に吉」文方口銚子)

 

 

 同展では北陸の輪島塗や紀伊の根来塗、東北の秀衡塗、浄法寺塗など各地を代表する漆器類を展示中。根来塗は新義真言宗総本山・根来寺の僧侶たちが日常に使う器として作り始めたもの。使い込むうちに朱漆の下から所々黒漆が見えてくる。そこに趣があるとして江戸時代の茶人に好まれた。秀衡塗は平泉文化を華開かせた藤原秀衡に因む。大正時代に当時の盛岡市長が特産品として漆椀を売り出す際に秀衡の名前を冠したのが始まりという。漆工芸品は木の文化を象徴する日本の誇り。その魅力の一端に触れさせてもらった。

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<日本写真作家協会展> 会員の作品と公募入賞・入選作合わせ約480点

2015年01月19日 | 美術

【テーマ「地球はいま」、公募展は新部門「日本の災害と復興」も】

 日本写真作家協会(JPA)の写真展「JPA展」が14日から18日まで大阪市立美術館(大阪市天王寺区)で開かれた。JPAはプロやアマ、報道関係者などが会員となって1989年に発足。今回で会員展は25回目、公募展は12回目を迎えた。総合テーマは「地球はいま」。会員の作品と応募展の入賞・入選作を合わせて約480点が展示された。東京、大阪に続いて広島展(2月24日~3月1日、広島県立美術館)、米子展(3月19~24日、米子市美術館)が開かれる。

 

 公募展には全国の写真愛好家794人から2310点が寄せられ、そのうち入賞・入選作の249点を展示。JPA大賞・文部科学大臣賞に選ばれた四方康子さん(埼玉)の「春一番」(写真㊧)は突風の一瞬を捉えた。髪が真横になびく女性と腕をつかんで支える男性、風に抗して歩く背後の女性が風の強さを物語る。銀賞に選ばれた三好学さん(奈良)の「祈り」(写真㊨)は拝むように線香を両手でしっかり握りしめた女性の真剣な表情が印象的。

 鳥取県知事賞の難波康實さん(岡山)の「争奪戦」(下の写真㊧)は1匹の鵜が魚を奪われないように高く持ち上げ、他の数十匹の鵜の視線を集めててピラミッド状の構図になっているのがおもしろい。広島県知事賞の杉岡常久さん(広島)の「我慢比べ」(下の写真㊨)は突っ走るブタから振り落とされないように男性がしがみつくユーモラスな作品。今回から新設されたテーマ「日本の災害と復興」部門では寺田功子さん(滋賀)の「黒い涙」が銀賞・JPA会長賞に選ばれた。津波で流され回収された自転車だろうか、その前かごに乗った石像の顔から涙のように何本もの黒い筋が流れる。

 

 会員展の作品は新入会員の20点を含め228点。一宮美穂さん(神奈川)の「春の夢」は満開の枝垂れ桜の桃色と幹の黒さが印象的でまるで一幅の日本画。野水正朔さん(兵庫)の「春のダム」は満開の桜の背後でダムの壁面を伝って落ちる水が美しいレース模様を描く。奈良県明日香村の早朝の山並みを切り撮った笠井健介さん(東京)の「大和の朝」や、島谷昭平さん(兵庫)の「雪中の托鉢僧」、カンボジアで自転車の女生徒たちが明るい表情で通学する坂元豊さん(神奈川)の「未来の星たち」なども印象に残った。

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<東京大学管弦楽団> 100人超の大編成でマーラー第5番を熱演!

2015年01月18日 | 音楽

【大阪のザ・シンフォニーホールで第100回記念定期演奏会】

 東京大学音楽部管弦楽団の「第100回記念定期演奏会」が17日、大阪市のザ・シンフォニーホールで開かれた。100回目という節目の演奏会に選んだ曲目はシューベルトの「ロザムンデ(魔法の竪琴)序曲」「交響曲第7番(未完成)」とマーラーの大曲「交響曲第5番」。管と弦が一体となって1つのものを作り上げていこうとする学生たちの熱気が充満し、力強く瑞々しい演奏にブラボーと拍手が鳴り止まなかった。1週間後の25日には東京・サントリーホールで同じ曲目が演奏される。

     

 指揮は常任指揮者の田代俊文(東京音楽大学指揮科准教授)。この日は阪神大震災20年目ということもあって、午後2時の開演に先立ち「1.17へ気持ちを込めて演奏します」との場内放送が流れた。「ロザムンデ序曲」に続いて「未完成」注目の冒頭部分。低弦チェロ、コントラバスの深い音色、さざ波のようなバイオリンのトレモノ、オーボエとクラリネットが奏でるふくよかな旋律。実に心地よい出だしで、かつ緊張感が漲った演奏だった。

 マーラー第5番は全5楽章の大規模編成の交響曲。演奏時間は優に1時間を超える。この日も弦だけで70人弱、管が約30人、それに打楽器やハープも加わって100人を超えた。一番の聴きどころは第4楽章「アダージェット」。ヴィスコンティ監督の仏伊合作映画「ベニスに死す」(1971年)で使われ、マーラーブームを呼び起こしたともいわれる。弦とハープが奏でる甘美な旋律にはただ酔いしれた。大編成による全奏者による総奏(トゥッティ)の醍醐味も味わうことができた。とりわけ弟5楽章終結部の演奏は迫力満点だった。

 東大管弦楽団が「学友会音楽部」として発足したのは1920年(大正9年)。その翌年に第1回定演を開いた。初代指揮者に迎えたのは「軍艦マーチ」の作曲で知られる海軍軍楽隊の瀬戸口藤吉だった。長い定演の歴史には往時の世相も映し出されている。1938~44年の定演では毎回冒頭に「君が代」や「海行くば」が演奏された。終戦後、定演が復活したのは10年後の1954年(第40回)。70~80年代にはマーラーブームを反映してマーラーの交響曲がしばしば演奏された。定演での第5番の演奏は76年(第61回)と85年(第70回)に続いて3回目。

 アンコール曲は同じマーラーの「花の章」だった。交響曲第1番(巨人)の中で第2楽章として演奏されることも多い。トランペットをはじめ管楽器のソロが奏でる旋律が伸びやかで美しい。余談だが、会場内の各トイレの手洗いの脇に、管弦楽団名に「演奏を楽しんでください」と添えて1輪の大きなバラの花が飾られていた。その気遣いもうれしかった。

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<BOOK> 『身近な生きものの子育て奮闘記 育児上手なオスはモテる!』

2015年01月16日 | BOOK

【稲垣栄洋(ひでひろ)著、筑摩書房発行「ちくま文庫」】

 著者稲垣栄洋氏(1968年生まれ)は岡山大学大学院農学研究科修了の農学博士。農林水産省、静岡県農林技術研究所などを経て、現在は静岡大学大学院教授。雑草生態学専攻で『身近な雑草の愉快な生きかた』『身近な虫たちの華麗な生きかた』『蝶々はなぜ菜の葉に止まるのか』などの著書がある。

     

 2部構成。第1部「生物にとって『子育て』とは何か?」の中で、恐竜マイアサウラとオヴィラプトルを取り上げて恐竜の子育てという興味深い話題に触れている。最近の研究でオスも子育てに参加していたことが分かってきたという。「恐竜はオスも卵を温めたり、エサを運んだりと、子育てをしていたことが報告されている。すでに何億年も前の地球上に『イクメン』は存在していたのである」。

 第2部「子育て上手なオスに学べ!」では魚類、両生類、鳥類、哺乳類などに分け、38種類の生きもののユニークな子育て法を紹介する。例えば――。【コモリウオ(子守り魚)】繁殖期になるとオスのおでこ部分にある突起が発達し、メスはその突起に卵を産み付ける。オスはブドウの房のような卵の塊を突起に引っ掛けたまま孵化するまで守る【タツノオトシゴ】オスが妊娠する! オスの腹部にある育児嚢にメスが産卵管を挿入して卵を産む。その卵は未受精卵で育児嚢の中で受精し、孵化すると子どもたちはオスのおなかから出てくる。

 【サンバ(産婆)ガエル】メスが透明のチューブ状の卵塊を産み付けると、オスは卵塊を足に巻き付け卵が孵るまで足に付けたまま移動する【オオサンショウウオ】オスはメスのために産卵の巣穴を用意し、産んだ卵に精子をかけて受精させる。その後、卵が孵化するまで巣穴にとどまって敵から守り続ける【エミュー】メスは産卵するとどこかに行ってしまい、残されたオスは孵化までの約8週間、飲まず食わずで卵を抱き続ける。この間に体重は半分に減るという。孵化後も18カ月間、オスは口移しでヒナにエサやり。

 【コウテイペンギン】メスは大きな卵が地面に落ちて凍りつかないように前足の上に産む。オスはその卵を自分の足の上に移動させ、それから2カ月間、ブリザードが吹き付ける中、何も食べずに温め続ける【フンコロガシ】オスはメスにアピールするため大きく立派な糞玉を作り、相手のメスが見つかるとメスを糞玉に乗せて運ぶ。穴を掘って糞玉を埋めると、メスは糞の中に卵を産み付ける。オスの役割は子どもが大人になるまで守り、子どもが食べていけるだけの糞玉を作ること。力持ちのオスは自分の体重の1000倍以上の重さの糞玉を転がすことができるそうだ。 

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<カエンカズラ(火焔葛)> 炎のように鮮やかな花色から

2015年01月15日 | 花の四季

【ブラジル原産、ノウゼンカズラ科のつる性植物】

 南米のブラジルやパラグアイ、ウルグアイなどの原産で、鮮やかなオレンジ色の花が群れ咲く様が遠目に炎が燃え上がるように見えることから「火焔葛」の名が付いた。ノウゼンカズラ科ピロステギア属の常緑つる性植物。巻きひげが周りの樹木や棚、フェンスなどに絡み付いて高さ10m以上にもなる。

 花は7~8cmほどの細長いラッパ形で先端が裂けて反り返る。その形や花色から「フレーミング・トランペット」(フレーミングは「炎」)や「オレンジ・トランペット」とも呼ばれる。熱帯植物のため国内では沖縄など暖地以外での露地栽培は難しく、植物園などで温室栽培されることが多い。

 沖縄を代表する花といえばブーゲンビリアやハイビスカスがすぐ思い浮かぶが、このカエンカズラも民家の門や塀を彩る花として親しまれている。開花期は1~3月頃。生長が早いこともあって、沖縄県緑化推進委員会などでは緑化植物として苗を栽培し、市町村や自治体を通じ配布している。旧佐敷町(合併し南城市に)はカエンカズラを町の花の1つとしていた。

 つる性植物で花色がよく似たノウゼンカズラは中国原産で「チャイニーズ・トランペット・フラワー(またはバイン)」とも呼ばれる。花色が濃いアメリカノウゼンカズラは北米原産。いずれも花期は夏の盛り。同じノウゼンカズラ科のカエンボク(火焔木)はアフリカ原産の常緑高木で、花の形から「アフリカ・チューリップ・ツリー」という英名が付いている。

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<BOOK> 『なぜ芭蕉は至高の俳人なのか』

2015年01月13日 | BOOK

【大輪靖宏著、祥伝社発行】

 著者大輪氏は上智大学名誉教授・文学博士で、日本伝統俳句協会副会長や国際俳句交流協会常務理事などを務める。著書に『芭蕉俳句の試み』『俳句に生かす至言』『俳句の基本とその応用』『大輪靖宏句集』など。本書には「日本人なら身につけたい教養としての俳句講義」という副題が付けられている。

        

 〝俳聖〟松尾芭蕉(1644~94)が没してから約320年。近代俳句の礎を築いた高浜虚子は著書『俳句はかく解しかく味う』の中で「多少の盛衰もあり多少の変化もあるにしたところで、要するに俳句は即ち芭蕉の文学である」と書いた。著者も「はじめに」の中で、「芭蕉への道程と芭蕉の試み、および芭蕉精神の継承ということを十分に理解することが、俳句そのものを理解するということなのである」と指摘する。

 「芭蕉までの一五〇年の歩み」「芭蕉句 その試みと達成まで」「芭蕉以降の俳句と俳人」の3章構成。芭蕉の時代には「俳句」という言葉はなく俳諧の発句から単に「発句」といった。「だから、芭蕉など古典作者の句は発句と呼ぶのが正しい」。本書中に引用した発句は芭蕉と弟子の宝井其角、服部嵐雪、向井去来ら〝蕉門十哲〟の代表作を中心に約450句に上る。

 「春や来し年や行きけん小晦日(こつごもり)」。芭蕉が最初に作ったのは19歳のときのこの句とみられる。以来、20代で松永貞徳らによる「貞門派(ていもんは)」の俳諧に触れ、30代になると西山宗因、井原西鶴らによる「談林派」の影響を受ける。40代に入ると『野ざらし紀行』を皮切りに『笈の小文』『更科紀行』『おくのほそ道』と旅に出て、「蕉風」と呼ばれる独自の作風を確立する。

 「蛇食ふと聞けばおそろし雉子(きじ)の声」「鶯や餅に糞する縁の先」――。芭蕉は自由で意外性のある句も多く残した。著者は「破壊のための破壊はせずに伝統を守りつつ新味を出しているのだ。この新味が『日比工夫の処』なのだろう」とみる。ただ「数日腸(はらわた)をしぼった」と告白するなど苦心の末に生み出した作品も多い。どちらの句がいいか迷って弟子たちにたずねることもよくあったそうだ。人間味にあふれる芭蕉の一面がうかがわれる。

 芭蕉は卓越した指導者でもあった。「芭蕉は弟子の個性を生かし、伸ばしてやることができた。そして、弟子もまた存分に自己を発揮した」。著者は「おわりに」でこう結ぶ。「俳句は生き物である……芭蕉の中でも俳句は成長を続けるのであり、その試行錯誤から生じるさまざまな形態もそのまま俳句の巾として認識できるのだ。そして、最終的に芭蕉が到達したところにこそ、俳句の気品の高さと意味の広がりの大きさが発揮されるのである」。

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<メディニラ・クラサタ> 房状の小花はまるで豪華なシャンデリア!

2015年01月12日 | 花の四季

【フィリピン原産の熱帯花木】

 フィリピン原産のノボタン科メディニラ属の熱帯花木。高さ1~1.5mほどの常緑低木で、枝先から長さ20cmほどの大きな房状の花序が垂れ下がり、ブドウの房のように枝分かれした先に半透明の小花を多く付ける。その花姿はまるで豪華なシャンデリアを連想させる。

 メディニラ属の植物は東南アジアや熱帯アフリカ、太平洋諸島に150種以上あり、そのうち100種以上がフィリピン諸島に分布する。属名は19世紀初頭にマリアナ諸島(現在米領)の知事を務めたスペイン人、ホセ・デ・メディニーリャにちなむ。その知事名はマリアナ諸島の1つ、サンゴ礁に囲まれたメディニラ島にも名を留めている。

 メディニラ属の中で人気が高いのが「メディニラ・マグニフィカ」。フィリピン原産で、マグニフィカは「大きい」を意味する。花序の長さは30~40cmもあり葉も大型なうえ、大きな苞(蕾を包む葉)が花を覆うのが特徴。和名では「オオバヤドリノボタン(大葉宿野牡丹)」と呼ばれている。

 もう一つ「メディニラ・スペキオサ」はインドネシアのジャワ島原産で、花の形状から「サンゴノボタン(珊瑚野牡丹)」の和名が付けられている。写真の「メディニラ・クラサタ」同様、花の基部に苞は付かない。ほかにボルネオ島原産で葉の幅が細い「メディニラ・ペンデュラ」、ニューギニア島原産で色鮮やかな赤花の「メディニラ・コッキネア」などがある。 

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<帝塚山大学市民講座> 日本最初の出家者は僧じゃなく尼さんだった! 

2015年01月11日 | 考古・歴史

【清水昭博氏「飛鳥仏教と尼寺」と題し講演

 帝塚山大学(奈良市)主催の市民大学講座が10日開かれ、文学部准教授・考古学研究所所長の清水昭博氏が「飛鳥仏教と尼寺」と題して講演した。日本に仏教が伝来したのは6世紀中頃。以来、百済から男性の僧たちが交代で派遣されてきた。では日本最初の出家者は? 清水氏によると「6世紀後半に出家した善信尼ら3人の尼」で、日本から最初に百済に留学したのも僧ではなく尼さんだったそうだ。

 善信尼は渡来人の司馬達等の娘・嶋。その弟子である禅蔵尼、恵善尼と共に、敏達13年( 584年)、蘇我馬子の要請を受けて桜井道場で高句麗系渡来僧の下、修行を積んだ。善信尼たちは588年、正式に受戒し比丘尼になるため学問尼として百済に留学、2年後に帰国し多くの尼の指導者になったという。

 

 では飛鳥時代にどれくらいの尼がいたのだろうか。『日本書紀』推古32年(624年)の記録によると、46の寺があり僧816人、尼569人がいたという。尼が出家者全体のほぼ4割を占めたというわけだ。46の寺のうち何カ所が尼寺だったかは不明だが、「尼の人数からみて18~19カ所の尼寺があったとみられる」。善信尼たちが修行した桜井道場はその後、桜井寺と呼ばれ、推古天皇の宮の跡地に移されて豊浦寺になった。このため「記録の上で豊浦寺を最古の尼寺と位置づけることができる」。(写真は㊧豊浦寺跡、㊨坂田寺跡)

 豊浦寺とともに『日本書紀』に登場する坂田寺、小墾田(おはりだ)寺も尼寺だったとみられる。坂田寺は鞍作鳥が金剛寺として建立した。小墾田寺は「大后寺」という法号で呼ばれた可能性も浮上しており、「大后=推古天皇の発願か、あるいは天皇の死を契機に創建された小墾田宮の付属寺院である可能性が考えられる」。小墾田寺があったのは明日香村奥山の奥山廃寺跡とみられる。

 『法隆寺伽藍縁起并流記(るき)資財帳』に記された聖徳太子建立七寺の中にも橘尼寺(橘寺)、中宮尼寺(中宮寺)、池後(いけじり)尼寺(法起寺)、葛城尼寺の4つが含まれる。橘寺は聖徳太子生誕の地、あるいは上宮跡として知られる。中宮寺は太子が母の穴穂部間人皇后のために宮を寺に改めたといわれる。創建時の三重塔が残る法起寺は聖徳太子の遺言により息子の山背大兄王が岡本宮を寺に改めたのが始まり。葛城尼寺の所在地は諸説ある中で、橿原市にある和田廃寺跡とする説が有力になっている。

 豊浦寺や小墾田寺に比定される奥山廃寺から出土した軒丸瓦はそれぞれ豊浦寺式、奥山廃寺式と呼ばれ各地で生産された。中宮寺の創建瓦には豊浦寺式と奥山廃寺式、法起寺でも奥山廃寺式が出土している。中宮寺は斑鳩僧寺の法隆寺に対し斑鳩尼寺とも呼ばれる。にもかかわらず創建瓦として法隆寺系統の瓦は採用しなかった。なぜか。清水氏は「尼寺のネットワークが介在していたのではないか」とみる。「豊浦寺、小墾田寺(奥山廃寺)はともに推古天皇が関わって造営された尼寺。そうした尼寺の影響力を瓦の分布は反映しているのではないだろうか」。

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