く~にゃん雑記帳

音楽やスポーツの感動、愉快なお話などを綴ります。旅や花の写真、お祭り、ピーターラビットの「く~にゃん物語」などもあるよ。

<ムジークフェスト奈良⑤> 12人のチェロアンサンブル「セロ弾きのコーシュ(巧手)」

2014年06月29日 | 音楽

【2週間余にわたった音楽の祭典もきょう29日で閉幕】

 関西にゆかりのある12人のチェリストが一堂に集結したチェロアンサンブルの演奏会が28日、奈良市の奈良県文化会館で開かれた。宮沢賢治の作品に引っ掛け、題して「セロ弾きのコーシュ(巧手)」。編成は曲目に応じて8人、12人と毎回変化し、アンコールの2曲も含め8曲を演奏した。あらためてチェロという楽器の表現力の深さを再確認し、同時にアンサンブルの醍醐味も味わわせてもらった。

  

 メンバーの多くは主要オーケストラや室内楽グループの一員、または独奏チェリストとして活躍中。メンバー紹介では地元奈良出身の西谷牧人と伊東裕にひときわ大きな拍手が送られた。西谷は現在、東京交響楽団の首席チェロ奏者。伊東は東京芸術大学在学中で12人中最年少の22歳だが、高校在学中に日本音楽コンクールで1位に輝き、若手のホープとして将来を嘱望されている。しかも2人は同じ奈良高校、東京芸大の先輩後輩でもある。

 外国出身者2人も加わっていた。米国出身のドナルド・リッチャーはジュリアード音楽院在学中から首席チェリストとして活躍し、現在は京都市交響楽団に在籍。アルトゥンベク・ダスタンはカザフスタン出身で国立音大大学院を卒業。2人とも妻は日本人女性という。12人のうち女性は3人。第6回東京国際室内楽コンクール優勝者の水谷川(みやがわ)優子、第2回ローマ国際室内楽コンクール優勝者の福富祥子、「四次元三重奏団」の一員として活躍中の池村佳子。他に日本センチュリー交響楽団首席チェロ奏者の北口大輔ら、実に錚々たるメンバーが一堂にそろった。

 演奏曲目はパブロ・カザルス編曲のスペイン・カタルーニャ地方の民謡「カニグーの聖マルタン祭」▽ブラームス「インテルメッツォ」▽ヴィラ=ロボス「ブラジル風バッハ舞曲第5番」▽ナンダヤーバ編曲のメキシコ民謡「ラ・サンドゥンガ」▽ユリウス・クレンゲル「賛歌」▽ヴィラ=ロボス「ブラジル風バッハ舞曲第1番」。アンコールはカザルス編曲のカタルーニャ民謡「鳥の歌」とトーマス・ミフネの「ワルツ・コラージュ」。

 3曲目の「ブラジル風バッハ舞曲第5番」ではソプラノの浅井順子が加わってチェロ8人の伴奏でアリアを熱唱した。チェロの深みのある音色と伸びやかなヴォカリーズ(母音歌唱)。その2つの響きが温かく溶け合って、いつまでも耳に残る心地よい演奏だった。この曲のチェロアンサンブルでトップを務めた辻本玲は演奏後「いつも自然の声のように弾きなさいといわれているので大変勉強になった」と話していた。

 アンコール曲の「鳥の歌」はカザルス自身がニューヨークの国連本部で「私の故郷カタルーニャの鳥はピース(平和)、ピース、ピースとさえずる」と話して演奏したことで有名。亡くなる2年前の1971年、カザルス94歳のときだった。この曲の演奏も心の奥底まで染み込んだ。この日の演奏会は関西が〝名チェリストの宝庫〟であることを内外に強く印象付けるものとなった。アンサンブルのメンバーは前日、本番に備え焼肉で英気を養ったという。その成果(?)も遺憾なく発揮されたようだ。 

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<川路聖謨を讃える会> 「幕末の大通詞 森山栄之助」

2014年06月29日 | 考古・歴史

【長田光男氏講演、「開国を迫る諸外国との交渉に通訳として大活躍」】

 「川路聖謨を讃える会」(孝田有禅会長)の講演会が28日、奈良市の中小企業会館で開かれ、大和郡山市文化財審議会会長の長田光男氏が「幕末の大通詞 森山栄之助」と題して講演した。森山栄之助(1820~71、写真㊨)は江戸時代末期、語学力を生かして開国を迫る諸外国との外交交渉で通詞(つうじ=通訳)として活躍した。長田氏は「功績の割にはあまり知られていないが、交渉を実質的に取り仕切った人物であり、日本の英語研究の草分けとしても評価されるべきだ」などと話した。

    

 森山は長崎のオランダ通詞の家に生まれた。そのためオランダ語はできたが、いずれは英語も必要になるとみて猛勉強してマスター。1853年にロシア使節のプチャーチンが来航した際には使節応接掛の川路聖謨(かわじ・としあきら、元奈良奉行)に随行し通訳を務めた。森山はこの年「大通詞」という通訳のトップになっている。翌年の米使節ペリーの来航のときも通詞団首席として活躍し、日米和親条約の締結に貢献している。こうした活躍が幕府にも認められ幕臣に取り立てられた。

 1855年、35歳のときには勝海舟や箕作阮甫(みつくり・げんぽ)らとともに外国の文書を翻訳する「蕃書(ばんしょ)和解御用」になるとともに「蕃書調所」(後に開成学校→東京大学)の創設を命じられた。翌年には米国総領事として下田に駐在を始めたハリスの世話役にもなっている。さらに1862年には遣欧使節団に随行、「開港延期など重要な交渉は全て森山が担当した」。この年には外国奉行通弁役頭取となり、1867年には開港したばかりの兵庫の組頭(副奉行)に任じられている。

 「語学に堪能な森山はぴっぱりだこで、長崎、江戸、下田、そして海外と忙しく動き回り、休む暇もないほど働いた」。この間の1859年には江戸・小石川の自宅に英語塾も開いた。その門下には福沢諭吉や農学者の津田仙(津田塾大学創設者津田梅子の父)や作家・ジャーナリストの福地源一郎(桜痴)らがいた。「英語の日本人通訳としてはジョン万次郎が有名だが、森山の活躍もめざましく、日本での英語研究の草分け的な存在でもあった」。

 だが、明治に入るとぱたっと表舞台から消え去る。その背景について長田氏はこう推測する。「諸外国との条約の締結は、その時としては精いっぱいの外交努力の結果だろう。しかし治外法権をはじめ日本に不利な点を含む不平等条約だったことも否めない。このためか、川路聖謨は井伊直弼から冷たい処遇を受け勘定奉行から西丸留守居役という閑職に追いやられた。森山も条約締結を手助けした1人として、明治新政府からあまり評価されなかったのではないか。また攘夷派から狙われる恐れもあり、自ら身を隠したということも考えられる」。

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<ムジークフェスト奈良④> ハンガリー国立フィル、ブラームス第1番を好演

2014年06月28日 | 音楽

【金子三勇士、敬愛するコチシュの指揮でリストのピアノ協奏曲第1番】

 来日中のゾルタン・コチシュ率いるハンガリー国立フィルハーモニー管弦楽団の演奏会が27日、奈良市の奈良県文化会館で開かれた。同フィルと音楽監督・指揮のコチシュの来日公演は2006年以来8年ぶり。この日は今最も注目を集めている新進気鋭のピアニストの1人、金子三勇士(24歳)との協演によるリストの「ピアノ協奏曲第1番」やブラームスの「交響曲第1番」などを演奏した。

 

 コチシュは1952年生まれで、ハンガリーを代表するピアニストとしても知られる。同フィルは約90年前の1923年創立の名門。〝炎のコバケン〟こと小林研一郎(現在桂冠指揮者)が1987年から10年間、常任指揮者・音楽監督を務め、コチシュはその後任として97年に就任した。作曲家としても活躍しており、この日の最初の演奏曲、リストの「ゲーテ記念祭の祝祭行進曲」もコチシュの編曲によるもので、オープニングにふさわしい華々しい演奏で幕開けした。

 金子三勇士は1989年、日本人の父とハンガリー人の母との間に生まれた。6歳の時、祖父母の住むハンガリーに単身で渡り、11歳でブダペストの国立リスト音楽院に入学。16歳で全課程を修了して日本に帰国した。2008年にはバルトーク国際ピアノコンクールで優勝している。金子がもともと音楽の道を志したのは幼児期にコチシュが演奏するピアノ曲を繰り返し聴いたのがきっかけ。その敬愛するコチシュと協演する高揚感は想像以上のものだろう。

 金子がコチシュ指揮でリストの「ピアノ協奏曲第1番」を弾くのは23日の東京での演奏会に続いて奈良が2回目。金子は時に全身を鍵盤に預けるように躍動的に力強く、時に滑らかな指使いでまろやかな音色を紡ぎ出し、技巧に溺れることなく最後まで冷静さを失わなかった。コチシュはピアノとオーケストラとの掛け合いをうまく律して一体感を生み出した。金子のアンコール曲はリストのピアノ曲「愛の夢第3番」(?)。

 ブラームスの「交響曲第1番」は「ベートーヴェンの第10番」ともいわれ、あのティンパニの連打で始まる。第2楽章のオーボエと第1ヴァイオリン首席奏者(コンサートマスター)がソロで奏でる美しい響き、第3楽章の軽快なクラリネット、第4楽章の柔らかいホルンと朗々とした弦楽器の響きも印象的だった。コチシュはこの大曲も暗譜で指揮した。情熱的な〝コバケン〟のような華々しさはないが、優れた統率力を感じさせる堂々とした指揮で芳醇な音色を引き出した。アンコールはブラームスの「ハンガリー舞曲第1番」とベルリオーズのオペラ「ファウストの劫罰」より「ラコッツィ行進曲」。  

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<藤ノ木古墳> 被葬者は「近い関係の男と男」「何らかの事件に遭遇!」

2014年06月27日 | 考古・歴史

【骨考古学者の片山一道氏、講演で「男と女」説をきっぱり否定】

 法隆寺の西側に位置する国の史跡「藤ノ木古墳」(奈良県斑鳩町)。石棺から見つかった2人分の人骨は男2人とみられているが、うち1人は「女では」とみる考古学者が現れ、性別論争が再燃している。これに対し、同古墳の人骨調査に長年携わってきた骨考古学者の片山一道氏(京都大学名誉教授)が26日、斑鳩町文化財センターで講演し「男と男」であることを改めて強調、さらに「2人は身体的特徴や埋葬状況から近しき関係で、何らかの事件に遭遇したとみられる」と指摘した。(写真㊨は古墳から出土した金銅製馬具の一部)

 

 片山氏は1988年から90年にかけて内視鏡による石棺内調査や発掘人骨の検査・分析を担当、93年発表の「第2・3次調査報告書」の中で被葬者について1人は男性、もう1人も男性の確率が極めて高いと指摘した。考古学者の間では、2人は蘇我馬子に同時に暗殺された穴穂部皇子(あなほべのみこ)と宅部皇子(やかべのみこ)とする説が有力視されている。

 これに対し、考古学者の1人から2009年、南側の被葬者は手首や両足に装着された装身具から「女性ではないか」と疑問が呈された。性別に関してはこれまでも一部で異論が出ていた。その背景には南側被葬者が北側に比べ残っていた人骨が極めて少なく「100%男性」と断定されていなかったことがある。こうした中で片山氏は2011~12年、出土した人骨を改めて再検討、その結果を昨年12月「橿原考古学研究所論集」で発表した。

 問題の南側被葬者は足首や踵(かかと)の骨を詳細に調べた結果、「形や大きさ、構造から男の中でも男らしい骨」と断言する。死亡推定年齢は20~40歳、身長は166.6cm±5.5cmで、人物像は「たおやかで、無骨ではない男性」という。一方、ほぼ全身の骨が残っていた北側被葬者は17~25歳、身長164.5cm±3.3cmの「華奢な体格の青年貴公子」。2人とも当時としては身長が高く、血液型も同じB型だった。北側被葬者の右足の甲には少年の頃に大怪我を負った跡が認められた。これは「馬から落ちた時に怪我したのではないか」と推論する。

 女性説については「骨考古学に対する認識不足で的外れの指摘。これで〝男と男〟として最終的に決着がついたものと思う」とし、次のような結論を導き出した。「2人ともみまかりにくい若い年頃で亡くなっており、なんらかの事件もしくは事故に巻き込まれ、ただ事ならざる事由によって死を迎えた。2人は社会的にも血縁的にも非常に近しき関係にあったとみられる」。

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<ネムノキ(合歓木)> 涼やかに風にそよぐ淡紅色の花

2014年06月25日 | 花の四季

【「ネム」「ネブ」「ネンネコノキ」とも、英名は「シルクツリー」】

 マメ科の落葉高木で、日本や朝鮮半島、中国から東南アジアにかけて広く分布する。花期は6~8月。柔らかい刷毛のような淡紅色の花を上向きに付ける。夜になると羽状の小葉がぴったり閉じて眠りにつくことから単に「ネム」や「ネムリギ」「ネンエコノキ」などとも呼ばれる。漢字の「合歓木」から「コウカ」や「コウカギ」とも。英名では花糸を絹の糸に見立てて「シルクツリー」と名付けられている。

 万葉名は「ネブ」。「眠る」を古くは「ねふる」と言っていたことによるらしい。漢字では今と同じ「合歓木」と書いていた。万葉集にはネムノキを詠んだ歌が紀女郎と大伴家持の贈答歌を含め3首登場する。その贈答歌――。紀女郎の歌「昼は咲き夜は恋ひ寝る合歓木の花 君のみ見めや戯奴(わけ)さへに見よ」に、家持は「吾妹子(わがもこ)が形見の合歓木は花のみに 咲きてけだしく実にならじかも」と返した。

 マメ科の植物にはネムノキのように、夜暗くなると葉を畳んで眠るものが多い。これを「就眠運動(睡眠運動とも)」と呼ぶ。よく知られているのがオジギソウ(お辞儀草)。この植物は夜だけでなく、日中でも触られると葉を閉じてしまう。これは「就眠運動」とは別に「接触性傾注運動」と呼ぶそうだ。ネムノキの園芸品種に小型で花色が鮮やかなものがあり「一歳ネム」や「緋ネム」という名前で人気を集めている。樹皮を乾燥したものは漢方で「合歓皮(ごうかんひ)」と呼んで、打撲や咳止めなどに用いられる。

 ネムノキを題材にした歌として有名なのが皇后美智子さまが高校在学中に作詞された「ねむの木の子守歌」。「ねんねのねむの木 眠りの木 そっとゆすったその枝に 遠い昔の夜の調べ ねんねのねむの木 子守歌」。この詞に山本正美さん(故山本直純氏の奥様)が秋篠宮さまのお誕生祝いとしてメロディーを付けた。美智子さまの生家跡(東京・東五反田)はいま「ねむの木の庭」という名の公園になっており、正門そばにネムノキが植えられている。 

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<アンビリバボー> 春日大社参道に「下駄渡世人仲間」銘の燈籠!

2014年06月24日 | アンビリバボー

【「焼酎蒸溜業」や「越中富山売薬業」「全国文明会」「日丸講」…】

 春日大社には約2000の石燈籠と約1000の釣燈籠があるそうだ。最も古い石燈籠は1136年に関白藤原忠道から寄進されたと伝わる「柚木(ゆのき)燈籠」。石燈籠としては奈良・当麻寺にある白鳳時代のものに次いで2番目に古いという。寄進された燈籠は形も大きさも様々。先日、「一の鳥居」から東に伸びる参道を社殿に向かっていた時のこと、右手に並ぶ2つの燈籠に目が吸い寄せられた。

 目を凝らして見ると、どうも『下駄渡世人仲間』とある(上の写真)。えっ、渡世人。その下には十数人の名前。側面に建立した年月日が刻まれているが、残念ながら「○年」だけが読み取れない。「渡世人」というと、つい「任侠」や「やくざ」という言葉を連想し、番場の忠太郎や国定忠治や木枯らし紋次郎を思い浮かべてしまう。しかし、この燈籠の「渡世人」は「生業(なりわい)としている人たち」という意味に違いない。それプラス「仲間」で、今風に言えば「履物組合」と勝手に解釈して納得!

   

 最も大きくて目立つのは『砂糖商 大阪伊藤茂七』が建立した2つの燈籠(上㊧)。検索してみると、あった! 110年近く前の1898年(明治31年)の「砂糖税法新設ヲ非トスル意見書」の末尾に「大坂砂糖商組合 上京委員 伊藤茂七」とあった。伊藤氏は当時、輸入砂糖を取り扱う指折りの有力者だったらしい。『全国文明会 文明農機具』と刻まれた燈籠(上㊨)の文字も目を引いた。燈籠とのつながりは不明だが、鹿児島県日置市に「文明農機株式会社」という農機製造販売会社があった。創業は1919年(大正8年)で、取扱製品はサトウキビやたばこ、サツマイモなどの作業機械。まもなく100周年を迎える老舗だ。

 

   

 『越中富山 売薬業』(上の写真上段㊧)や『焼酎蒸溜業』(同㊨)『御免綿問屋』(下段㊧)などと刻まれた燈籠もなかなか風格がある。中には瓢箪(ひょうたん)が1つ浮き彫りになった苔むした燈籠も(上の写真下段㊨)。『日丸講』(下の写真㊧)が建立した燈籠は別の場所にもあった。『奈良そごう』の燈籠(同㊨)もなかなか堂々として立派だが、その行く末からか、少し寂しげに見えた。奈良そごうが長屋王の邸宅跡に開店したのはバブル絶頂期の1989年。だが、僅か11年後の2000年には閉店に追い込まれた。今はイトーヨーカドー奈良店が入っている。燈籠の1つ1つにも栄枯盛衰の歴史が刻まれていることを痛感!

     

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<ムジークフェストなら③> 「巴里の夜明け」仏作曲家の作品中心に

2014年06月23日 | 音楽

【サンサーンスの「白鳥」やフォーレの「ピアノ四重奏曲」など】

 フランスのクラシック作曲家の作品を中心に集めたコンサートが22日、斑鳩町の「いかるがホール」で開かれた。題して「巴里の夜明け」。出演者は日本、韓国、米国、フランスの4カ国5人。演奏前のプレトークで斑鳩出身の作曲家・児玉厚雄氏は「ドビュッシーとラヴェルはひとまとめにフランス印象派と呼ばれてきたが、ドビュッシーの音楽を漆塗りとしたらラヴェルは江戸切子。フォーレはフランス近代音楽の夜明けを告げた。それぞれの音楽を聴き比べてほしい」と話した。

 

 最初に登場したのはハープ奏者の福井麻衣。大阪生まれ、スウェーデン育ちで、パリ国立高等音楽院の大学院修士課程ハープ科を首席で卒業した逸材。パリ国際ハープコンテスト優勝という実績も持つ。ボッサ作曲の独奏曲に続いて、チェロの梁盛苑とサンサーンスの「白鳥」、ヴァイオリンのジェラール・プーレと同じくサンサーンスの「ファンタジー」を演奏、ハープの優雅で多彩な音色を堪能させてくれた。演奏後のキラキラ輝く笑顔も印象的だった。

 前半最後はラヴェルの「ヴァイオリンとチェロのためのソナタ」。チェロの梁盛苑は「白鳥」で深みのある演奏を聴かせてくれたが、この約20分に及ぶ大曲でも最後まで集中力が途切れない堂々たる名演奏だった。ヴァイオリンの澤和樹(東京芸術大学教授)との呼吸もぴったりで、とりわけ第2楽章の激しいピチカートの応酬は迫力があり圧巻だった。

 後半の主役は前半に「ファンタジー」でも登場したフランスのヴァイオリニスト、ジェラール・プーレ(1938年生まれ)と米国のピアニスト、アルバート・ロト(1946年生まれ)。プーレは天才少年といわれ18歳の時にパガニーニ国際コンクールで最優秀賞を受賞、これまで多くの国際コンクールで審査員を務めてきた。後半最初の演奏曲ドビュッシーの「ヴァイオリンとピアノのためのソナタ」は、指揮者でヴァイオリニストだった父親ガストン・プーレのバイオリンとドビュッシー自身のピアノ演奏で1917年に初演された。ドビュッシーは翌年亡くなっており、公の場に姿を見せたのはこれが最後だったという。

 プーレとロトはこの曲とモーツァルトの「ヴァイオリンソナタk376ヘ長調」を演奏したが、2人合わせて優に140歳を超えるとはとても思えない若々しい演奏だった。プーレは曲に合わせて体を大きく左右に揺らし、時折、ピアノのすぐそばまで寄って演奏。ロトは終始少し笑みを浮かべながら楽しげに演奏していた。まさに円熟の味わい。締め括りはヴィオラの澤とチェロの梁も加わってフォーレの「ピアノ四重奏曲第1番」。第3楽章の叙情的な旋律の美しさと第4楽章のオーケストラのようなスケールの大きな演奏が印象に残った。 

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<けいはんな文化カフェ> 「クマグスの森~南方熊楠が見た宇宙」

2014年06月22日 | メモ

【松居竜五氏講演、「100年前〝エコロジー〟を紹介したパイオニア」】

 第15回けいはんな文化カフェ(NPO法人けいはんなオブザーブ主催)が21日、京都府精華町の町立図書館で開かれ、龍谷大学国際文化学部の松居竜五教授(写真)が「クマグスの森~南方熊楠の見た宇宙」と題して講演した。松居教授は生物学者・民俗学者の南方熊楠(1867~1941)研究の第一人者。熊楠の生涯の軌跡をたどりながら「100年も前にエコロジー(生態学)という言葉を日本に最初に本格的に紹介した」など、熊楠の人となりや功績について語った。(右の2冊は松居氏の著作)

   

 熊楠の「熊」は熊野地方の熊から、「楠」は熊野古道99王子社の2番目・藤白王子社(和歌山県海南市)のクスノキの巨樹(楠神)からもらったという。熊楠は幼い頃から10代前半にかけ「三花類葉集」や「本草綱目」「和漢三才図会」など図鑑や百科事典の筆写に明け暮れた。「それが人間と自然の関わりの中で全体をとらえようとする熊楠のものの見方の基礎を形作った。子どもの好奇心を晩年まで持ち続けたことは驚くべきこと」。

 熊楠は20歳から34歳までの青年期を米国、英国で過ごした。英科学誌「ネイチャー」に掲載された英文論文は生涯に51本に上ったというからすごいの一言。熊楠は自分が見た世界の姿を詳細に記述したり収集したりした。キノコの図譜3500枚、粘菌標本 7000点、藻類のプレパラート4000枚……。他に膨大なノートや手紙、日記なども残っている。「森羅万象を偏執狂的に記録した。これまで生きてきた人の中で熊楠が1番多く字を書いたかもしれない」。

 熊楠が後半生で最も力を入れたのが明治政府の神社合祀令への反対運動。1町村に神社1つとする合祀令によって、小さな神社は次々に壊され境内の森林も伐採されていった。和歌山県や三重県では神社全体の9割が廃されたともいう。社叢林の伐採により周囲の自然環境が急速に悪化することを憂慮した熊楠は1911年、和歌山県知事に書簡を送った。「千百年来斧斤を入れざりし神林は、諸草木の関係はなはだ密接錯雑致し、近ごろはエコロギーと申し……」。熊楠は100年前に生物が相互に関連し合って生息していることを強く認識していた。

 反対運動の高まりの中、1918年、貴族院で合祀令の誤りを認める決議が行われた。熊楠らによる運動がなければ、鎮守の森は全国規模でなくなっていたに違いない。熊楠は1920年代半ば以降、宮内省からの依頼で摂政宮(後の昭和天皇)に粘菌標本を数回にわたって献上、さらに29年には天皇を神島(田辺市)にお迎えし艦上で進講した。松居教授は「熊楠がやってきたことが正しかったと、世間的に認知される側面もあった」とみる。約30年後、南紀を訪れた昭和天皇は白浜で神島を望みながら歌を詠んだ。「雨にけふる神島を見て 紀伊の国の生みし南方熊楠を思ふ」。その歌碑が南方熊楠記念館(白浜町)のある山の上に立つ。

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<ムラサキ(紫)> 古くから根が紫色の染料や薬用に

2014年06月20日 | 花の四季

【万葉集にも多くの歌、今は環境省の絶滅危惧種に】

 ムラサキ科の多年草で、かつては日本各地の山地や草原に自生していた。6~8月ごろ、直立した細い茎の先に径5~7cmほどの白い小花を数輪付ける。地味で目立たない花だが、根がシコニンという紫色の色素を含んで染料になることや火傷、解熱などの薬用になることから、古くから大切に扱われてきた。別名に「紫草」「根紫」「若紫」「鴉銜草(あかんそう)など。

 ムラサキは万葉集にも多く詠まれている。「託馬野(つくまの)に生ふる紫草(むらさき)衣(きぬ)に染め いまだ着ずして色に出にけり」(笠郎女)。額田大の歌「あかねさす紫野行き標野行き……」の紫野は、ムラサキが当時既に栽培されていたことを示す。その後の「源氏物語」や「新古今和歌集」などの文学作品にもしばしば取り上げられてきた。ムラサキの根で染めたものを「紫根染(しこんぞめ)」という。紫色は推古天皇時代に制定された「冠位十二階」(605年)で最高の位階を表す色に指定されるなど、その希少性もあって高貴な色や権力を象徴する色として扱われてきた。

 ただ原料としては高価で、染めの手間もかかることから、アイ(藍)やスオウ(蘇芳)、アカネ(茜)などで代用されることも多く、本来の紫根で染めたものを「本紫」、代用を「似紫(にせむらさき)」と呼んだ。明治以降には新しく登場した合成染料に押され、さらに自生地も薬用や草木染のための乱獲、ゴルフ場の造成などで急減した。今では環境省のレッドデータブックに近い将来、絶滅の危険性が高い「絶滅危惧ⅠB類」として登録されている。

 東京郊外の武蔵野はかつてムラサキの自生地として有名で、それで染めた色は「江戸紫」といわれた。山田耕筰作詞の「東京市歌」(1926年)でも「紫においし武蔵の野辺に 日本の文化の花咲きみだれ」と歌われた。だが、この武蔵野をはじめ既に絶滅したとみられる地域も多い。ただ、かつて良質のムラサキの産地として知られた東北の南部地方で〝南部紫根染〟が復活するなど、各地で保存の機運も高まっている。宮沢賢治は「紫根紫について」と題する童話を書いた。ムラサキの根を扱う山男から染めの製法を聞き出そうと酒宴に招く。そして、苦心の末に復活させた紫根染が東京大博覧会で2等賞に――。

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<ムジークフェストなら②> ストラビンスキー「兵士の物語」(安東伸元編)

2014年06月19日 | 音楽

【語りと7人による演奏、兵士と悪魔の軽妙な演技】

 「ムジークフェストなら」5日目の18日、奈良市のなら100年会館でストラビンスキー作曲の音楽劇「兵士の物語」が上演された。「大和座狂言事務所」を主宰する狂言師、安東伸元の演出によるもので、バイオリニスト若林暢(のぶ)が音楽監督を務めた。約1時間半の休憩なしの公演だったが、兵士役の狂言師の所作と悪魔役のドイツ人の軽妙な演技が見事なまでに好対照を見せ、和と洋のコラボによる総合芸術を堪能させてくれた。

 

 「兵士の物語」はロシアの民話を題材として作られたもので、100年あまり前の1918年に発表された。その前年はロシア革命。この音楽劇はそんな社会的経済的な混乱の中で生まれた。そうした時代背景による影響もあったのだろう、楽器はバイオリン、コントラバス、ファゴット、クラリネット、トランペット、トロンボーン、そして打楽器と小規模な7人編成になっている。

 物語は帰省中の兵士に悪魔が付きまとい、悪魔の魔法の本と兵士のバイオリンを交換するところから始まる。「大金儲けができる」という本を手にした兵士は巨万の富を得るが、心は充たされない。兵士はトランプの賭けでわざと負けて有り金全部を悪魔に渡す代わりに、バイオリンを取り戻す。その後、王女と結婚し幸せな日々を過ごすが、母と一緒ならもっと幸せになれるはずと考える。そして2人は悪魔の警告を無視し母のいる村に向かう。だが、国境を越えたところで悪魔が出現し、兵士は再び悪魔の手の中に――。

 自ら導入部の能舞と朗読を担当した安東伸元が音楽の合間に「二兎を追う者は一兎をも得ず」「幸福は1つあればいい。2つあればないのと同じ」と教訓めいた語りを挿入する。悪魔を演じたのはドイツ人の尺八演奏家ウベ・ワルター(1953年生まれ)。茅葺きの里として知られる京都府南丹市美山町在住で、時々関西弁を交えながら自由奔放な演技を披露して、会場の笑いを誘った。とりわけ最後の「悪魔の勝利の行進曲」に合わせた軽やかな踊りは、とても還暦とは思えない若々しさ。アンコールでもこの踊りを再度見せてくれた。兵士役を演じた安東元(あんどうげん)の張りのある発声と所作も見事だった。瞬き1つせずにまっすぐ正面を見据えて演じる姿に見入ってしまった。

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<奈良県立図書情報館> 企画展「会津八一の奈良」生涯に35回奈良に!

2014年06月18日 | 美術

【杉本健吉との合作書画集や写真コンテスト入賞作も展示】

 奈良県立図書情報館(奈良市大安寺西)で企画展「会津八一の奈良」が開かれている。歌人で書家の会津八一(1881~1956)は古都奈良をこよなく愛し、たびたび奈良を訪れては歌に詠み書にしたためた。その生涯をパネルの肖像写真で辿るもので、洋画家・杉本健吉との合作書画集と第7回「会津八一の歌を映す」写真コンテストの入賞作品も同時に展示している。29日まで。

   

 八一が初めて奈良を訪れたのは1908年。そのとき20首の短歌を詠んだ。その旅は傷心を癒すためのものだったともいわれる。八一は鏑木清方の美人画にも描かれたという美貌の画学生・渡辺文子に恋焦がれていた。だが文子の父に結婚の希望を告げたが断られたそうだ。奈良への訪問はこれを皮切りに35回に上った。県内には現在、八一の歌碑が16カ所に17基設置されているという(写真㊨は興福寺境内に立つ歌碑)。奈良県は八一が取り持つ縁で、一昨年2月、出身地の新潟市と「歴史・文化交流協定」を結んでいる。

 企画展では八一の誕生から学生時代、奈良での交遊や鹿と遊ぶ様子、定宿にしていた旅館などの白黒写真が並ぶ。杉本健吉との合作書画集「春日野」(全21枚)は60年前の1954年に出版された。八一の歌の左半分や下半分に杉本の絵が添えられたコラボレーション。法隆寺の「東院夢殿にて」の歌には「夢殿は静かなるかな物思(ものも)ひに 籠りていまもましますがごと」、秋篠寺を詠んだ歌は「秋篠のみ寺を出でて顧みる 生駒が岳に日は落ちむとす」。いずれの作品にも奈良に寄せる2人の深い思いが詰まっている。

  

 写真コンテストは会津八一記念館(新潟市)の主催で、八一の和歌の素晴らしさを永遠に万人の胸に留めてほしいと2006年から始まった。第7回では応募作117点の中から新潟市の坂井征栄一氏の作品(写真㊧)が最優秀の「秋艸道人賞」に選ばれた。八一の歌「(夢殿の救世観音に)天地(あめつち)にわれひとりいて立つごとき このさひしさを君はほほ笑む」をもとに、雪が残る湖のほとりに満開の桜が1本佇む静寂な情景を切り取った。入賞、入選作を合わせ計30点を展示中だが、最優秀も含め7点がこの歌を題材に採っていた。(写真㊨は「早稲田大学会津八一記念博物館賞」の若林茂敬氏の作品)

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<アザミ(薊)> 世界に約300種、日本はその3分の1が分布する〝アザミ王国〟

2014年06月17日 | 花の四季

【スコットランドの〝国花〟、根や葉は食用にも薬用にも】

 キク科アザミ属の多年草。北半球の暖帯から寒帯にかけて約300種が分布、日本にはそのうち3分の1以上が自生する。その多くが固有種という。日本のアザミは夏から秋にかけて開花するものが大半だが、「ノアザミ」は晩春の5月から7月ごろにかけて、ちょうど今頃、本州や四国、九州の山野でよく見かける。

 

 「ハナアザミ(ドイツアザミ)」はノアザミを改良した園芸品種で、花色が多彩なことから切り花として人気が高い。日本で大正時代に作出された。では、なぜ「ドイツ」? その由来は不明だが、品種の目新しさを売り込むために「ドイツ」が付けられたともいわれる。日本原産には他に「フジ(富士)アザミ」「サワ(沢)アザミ」「ハマ(浜)アザミ」「ノハラ(野原)アザミ」「キセル(煙管)アザミ」「チシマ(千島)アザミ」「ナンブ(南部)アザミ」「ヨシノ(吉野)アザミ」「ツクシ(筑紫)アザミ」など。

 アザミは葉に鋭い棘を持つ。英国スコットランドではその棘が侵入者から国を守ってくれたという伝説から、スコットランドの国花になっている。その伝説とは――。13世紀、ノルウェー軍が侵攻してきた時のこと。夜の闇に乗じてスコットランド軍に近づいた斥候がアザミの棘を踏み叫び声を上げたため奇襲が発覚し、スコットランド軍が勝利した。10世紀のヴァイキングの侵略でも同様にアザミが救ってくれたという言い伝えもある。スコットランド最高の勲章は「シッスル(アザミ)勲章」。英国全体でも「ガーター勲章」に次ぐ2番目の騎士団勲章になっている。

 アザミの根は食用になるものが多い。ゴボウによく似た香りや食感から、山菜や加工品の漬物などが「山牛蒡(やまごぼう)」の名前で売られている。ただ同名の植物に有毒の「ヤマゴボウ」(ヤマゴボウ科)があるから要注意。アザミの若葉は天ぷらやおひたし、和え物などにも使われる。根や葉は古くからやけどや虫刺され、腫れ物などの薬草としても用いられてきた。「越中富山の薬売り」で知られる富山市ではアザミが「市の花」になっている。アザミといえば倍賞千恵子の「あざみの歌」も懐かしい。「ふれてみしあざみの花のやさしさよ」(星野立子)。

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<ムジークフェストなら①> 100を超える会場でクラシック中心に多彩な音楽会

2014年06月15日 | 音楽

【オープニングの14日には「序の宴」としてシューベルト特集】

 今年で3回目を迎える音楽の祭典「ムジークフェストなら」が14日開幕した。29日までの16日間に100を超える会場でクラシックを中心にした多彩なコンサートが繰り広げられる。初日の14日夕には「序の宴 菩提樹の花咲く頃に」と題して、シューベルトの歌曲「冬の旅」とピアノ五重奏曲「ます」の演奏会がなら100年会館(奈良市)で開かれた。

 今回注目を集める演奏家の1人がピアニストのアルバート・ロト(写真㊧)。主な演奏会だけでも14日を皮切りに16日、20日、22日と相次いで出演する。ロトはポーランド人の父とウクライナ人の母との間に1946年、ニューヨークで生まれた。ジュリアード音楽院卒業。65年にはモントリオール国際コンクールで優勝、翌66年にはブゾーニ国際コンクールで金賞に輝いている。

    

 この日のコンサートはロトのピアノ独奏から始まった。曲目はシューベルトの「4つの即興曲作品142」の第2曲。続いてバリトンの小玉晃(写真㊨)が登場し、「冬の旅」全24曲の中から人気のある「おやすみ」「菩提樹」「春の夢」「からす」「辻音楽師」の5曲を演奏した。この歌曲の伴奏はピアノが一般的だが、この日は弦楽四重奏が担当した。バリトンと弦楽四重奏による「冬の旅」の演奏は国内で多分初めてという。

 小玉晃は1969年奈良県橿原市生まれ。京都市立芸術大学大学院修了後、ウィーン国立音大に留学。主にドイツ歌曲や宗教曲の分野で活躍している。「冬の旅」の中でも最も有名な「菩提樹」は情感たっぷりに朗々と歌い上げ、最後の「辻音楽師」では切々と深みのある歌声を披露した。弦楽4人との息もよく合っていた。

 ピアノ五重奏曲「ます」ではピアノのロトが繊細な弱音からダイナミックな強音まで多彩な音を自在に紡ぎ出した。その優しく温厚な表情と同様、演奏にも温かみが溢れていた。特に第4楽章の「ます」変奏曲や最終の第5楽章は聴き応えがあった。第5楽章の途中で演奏が終わったと思ったのか、一度「ブラボー」の声が掛かり、その後も途中で拍手が起きる場面があった。ご愛嬌というべきか、それとも興醒めというべきか。

 この曲では同じようなことがよくあるらしい。五重奏のうち弦楽器の演奏者はジュリアード音楽院出身のバイオリニスト若林暢、韓国を代表するチェリスト梁盛苑ら4人だったが、梁は「またか」というような苦笑いの表情を浮かべていた。帰路「ブラボーと叫ぶなら、もっと聴き込んでからにしてほしいなあ」とこぼす2人連れの姿も目にした。

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<BOOK> 「森とともに生きる中国雲南の少数民族―その文化と権利」

2014年06月14日 | BOOK

【比嘉政夫監修、大正治・杉浦孝昌・時雨彰著、明石書店発行】

 雲南省は中国の南西部に位置する広大な山岳地帯。面積は日本よりやや大きく、ベトナム、ラオス、ミャンマーと国境を接する。2002~03年、日中の研究者12人がメコン川最上流に当たる同省南西部の9つの村の少数民族(タイ族、ワ族、ハニ族など)を対象に、伝統的な焼畑など森林の利用状況や森林に関する信仰などについて現地調査した。本書はその調査を踏まえつつ、森林と共生する少数民族の生活様式や森林文化の現代的な意義を指摘する。

     

 中華人民共和国成立直後の1950年代、中国では食料増産のための「大躍進」政策と人民公社化運動で、木材の伐採が全国規模で行われた。さらに60~70年代の文化大革命の時期には「改天換地」のスローガンの下、山や谷が全て段々畑に改造された。少数民族の多くが万物に霊的存在を認め、山や森林にも神が宿ると信じていたが、この間、神樹や聖域の森林も容赦なく伐採された。その結果、「森林破壊が進んだだけでなく、元来あった森林利用権も多く変化を被ったので、各地で権利紛争が多発した」。

 転機となったのが98年に発生した長江(揚子江)と黄河での大洪水。これを機に中国政府は「退耕還林」という政策を打ち出した。「過去40年来進めてきた、森林を農地に変えるコースを180度転換して、耕地を森林に戻す」方向に舵を切った。「世界最大の自然環境対策事業」と自負する政策で、退耕地造林面積だけで906万ヘクタール(日本の森林総面積の2.6分の1)に達した。ところが2007年、政府は「退耕還林の暫時停止」を発表し急ブレーキをかける。「このまま続けると、農地と食料が不足する恐れが出てきた」という判断によるとみられる。

 少数民族は多くが焼畑農耕を山林利用の中核に据えてきた。1年ないし数年の短期間耕作した後、長い間休閑して森林を回復する。休閑中に再び土壌に養分が蓄積され、休閑林は山菜や薬草、果実、小動物などを採集して自給や販売もできる。少数民族はそれを何百年も繰り返してきた。

 焼畑といえば森林破壊の元凶とみなされることが多い。中国政府も退耕還林策を打ち出した際、「長江の大洪水は上流の傾斜地において長期にわたって続いた粗放農法が原因」と、責任を焼畑に転嫁した。だが本書は「化学肥料にも農薬にも頼らない点で、伝統的焼畑は人類生存と生命健康の観点からいえばすぐれた農法」「農林業を復活させるのは農業と林業を同時に営むアグロ・フォレストリだと言われているが、焼畑こそその元祖」と指摘、森林の荒廃が進み土砂崩壊が増えている日本でも「焼畑を維持復活していきたい」と望む。

 最終の第Ⅲ部第3章「新しい森林政策と思想」では、①森林保護は少数民族文化の保存をベースに②少数民族の土地・森林利用権を認め充実する③自然との共生を優先し商品経済を制御する――ことを提言する。そして最後をこう結ぶ。「新しい森林政策は、森林に生きる少数民族を排除するものであってはならない。彼らの多くは焼畑という生業によって地域々々の豊かな生態環境を生み出し維持してきたのであるから、焼畑農法を禁止するのではなくそれを活かす方向で森林政策を再構成すべきである」。

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<フウリンソウ(風鈴草)> 別名「ツリガネソウ」パステルカラーの花色が人気

2014年06月13日 | 花の四季

【ヨーロッパ南部原産、「カンパニュラ」の1種】

 キキョウ科カンパニュラ属(ホタルブクロ属)で、主な原産地はヨーロッパ南部。4~7月ごろ、長さ4~5cmの鐘の形をした花を横向きに付ける。草丈は60~100cm程度。花姿から「ツリガネソウ(釣鐘草)」とも呼ばれる。花色は白や青紫、ピンクなどのパステルカラーが中心で、庭植えや鉢植え、切り花などとして人気を集めている。

 

 カンパニュラ属は世界で300種以上あるといわれており、和名でフウリンソウと呼ばれるのはそのうち「カンパニュラ・メディウム種」。カンパニュラの中でも大きく華やかな花を付けるのが特徴で、国内で単に「カンパニュラ」といえばフウリンソウを指すことが多い。カンパニュラの語源は「小さな鐘」を意味するラテン語の「カンパーナ」から。英名では花の形をイギリス国教会の総本山、カンタベリー大聖堂の鐘に見立て「カンタベリー・ベル」と呼ばれているそうだ。

 磯野秀直氏の「明治前園芸植物渡来年表」によると、フウリンソウは江戸末期の文久2年(1982年)12月に渡来した。遣欧使節が持ち帰ってきた250種を超える植物の種子類の中に含まれていたという。本来は春に種を蒔き、ロゼット状で一冬越して翌年開花する2年草だが、最近は秋蒔いて翌年開花する改良品種も登場している。フウリンソウにはガクが花びらのように変化した八重咲きの変種もある。

 カンパニュラ属の中にはもともと日本に自生しているものもある。その1つでフウリンソウによく似た「ホタルブクロ(蛍袋)」は子どもが花の中にホタルを入れて遊んだことに由来するともいわれる。「イワギキョウ(岩桔梗)」は中部以北に自生する高山植物。「ヤツシロソウ(八代草)」は九州の阿蘇山の草原などに自生し、リンドウに似た花を付けることから「竜胆(りんどう)咲きカンパニュラ」とも呼ばれる。ただ、このヤツシロソウは近い将来に絶滅する危険性が高いとして、環境省のレッドデータブックに絶滅危惧ⅠB類として掲載されている。

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