く~にゃん雑記帳

音楽やスポーツの感動、愉快なお話などを綴ります。旅や花の写真、お祭り、ピーターラビットの「く~にゃん物語」などもあるよ。

<奈良市写真美術館>〝十二人目の練行衆〟入江泰吉の「お水取り」展

2014年01月31日 | 美術

【30余年二月堂に籠って行法の全てを活写】

 東大寺二月堂のお水取り(修二会)まであと1カ月。奈良市写真美術館(奈良市高畑町)ではこれに合わせて「入江泰吉 お水取り」展を開催中(3月16日まで)。戦後、大阪から郷里奈良に引き揚げた入江は二月堂の鐘の響きに誘われるようにお水取りに参籠し、練行衆11人と同じ世界に身を置いた。それは30有余年にもわたり、厳しい行法を記録し続けた入江は〝十二人目の練行衆〟とも呼ばれた。(写真は「東大寺お水取り お松明」)

  

 お水取りの本行は3月1日からの2週間だが、その前に「別火」と呼ばれる前行がある。火打ち石で起こした火を使って精進潔斎の生活をするもので、前半の「試(ころ)別火」(2月20~25日)と後半の「総別火」(26~28日)に分かれる。この間、練行衆にはやるべきことが多い。声明や法螺貝の稽古、椿の花拵(こしら)え、紙衣(かみこ)づくり……。こうした前行の様子を、白黒写真を中心に紹介する。(下の写真は㊧「夜の別火坊」、㊨「貝の吹き合わせ」)

   

 本行に入ると毎日6回、十一面悔過(けか)法要が行われる。本行の写真も二月堂に上堂する際の「お松明」や一部写真を除いてほとんどがモノクロ。食堂(じきどう)作法、神名帳の読み上げ、走りの行法、五体投地、達陀(だったん)の行法……。これらの写真から行の厳しさとともに冷気まで伝わってきた。ご飯を鳥のため紙に包んで放り投げる「生飯(さば)なげ」の写真もあった。

 美しいカラー写真も会場を彩った。とりわけ紅色に白の絞りが入った大輪の椿が地面を埋め尽くす「良弁堂のりこぼし」にはハッとさせられた。お水取りが終わると、古都奈良にも春がすぐそこに。会場出口には二月堂を背にソメイヨシノが咲き誇る「二月堂春宵」と「春めく二月堂裏参道」の2枚の大きな写真が飾られていた。

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<薬師寺> 休憩所の傍らに〝国宝 東塔古代釘〟

2014年01月30日 | アンビリバボー

【高純度で錆びない〝千年釘〟、西塔・金堂などに使用の復元釘とともに】

 写経勧進で次々に伽藍が復興され、いま世界最古の木造建築「東塔」の解体修理が進む奈良・薬師寺。金堂の薬師三尊像と大講堂の弥勒三尊像に手を合わせ、その北東にある東僧坊へ。休憩所や売店、御朱印授与所も兼ねるその建物に入ると、北側出入り口のそばに「千年の釘」が展示されていた。少し大きめの菓子箱のようなケースにさりげなく。覗き込むとなんと「国宝 東塔古代釘」とあった。

 箱の中には長さが30cm近い火箸のような釘と少し小さい釘と赤茶けた釘の3本。「国宝 東塔古代釘」は「国宝」だけが赤字で、錆びた釘には「創建期発掘釘片」という説明が添えられていた。こう表示すると、まるで「東塔古代釘」が国宝のよう。この赤字の「国宝」は「東寺」だけに掛かるのでは? その横には古代の復元釘が入った箱(下の写真㊧)と、復元した鍛治職人を紹介した小学校の教科書(写真㊨)も展示されていた。 

 館内には東南角にある記念品の売店コーナーに女性が1人。その女性によると、古代釘の復元が「千年の釘にいどむ」(内藤誠吾著)という題で国語の教科書に取り上げられていることもあって小学生の見学も多い。このため、復元釘と合わせて実際に東塔の解体で見つかった釘も見てもらおうと展示しているとのことだった。

 釘の復元に取り組み教科書でも取り上げられたのは松山市の白鷹幸伯(ゆきのり)さん。古代の大工道具を復元していたこともあって、薬師寺再建や法隆寺の修理に携わった西岡常一棟梁から千年持つ和釘の製作を頼まれた。高炉で大量生産する鉄で作った現代の洋釘は不純物が多くて錆びやすく寿命はせいぜい50年。これに対して砂鉄を原料に踏鞴(たたら)という方法で作られた古代の和釘は極めて純度が高いため錆びにくいという。

 釘の形状も異なる。古代釘は先から徐々に太くなり、真ん中が膨らんで表面はデコボコ、頭近くになるとまた細くなる。その釘を一度打ち込むと頭が錆びてもなかなか抜けない。古代釘には昔の鍛治職人の知恵が詰まっているというわけだ。白鷹さんが試行錯誤して作った復元釘は薬師寺の西塔、大講堂などの伽藍再建のほか山口・錦帯橋の架け替え、松山城天守閣の修理などにも使われているそうだ。

 教科書から…「千年先にもしかじ職人がいて、この釘を見たときに、おおこいつもやりよるわいと思ってくれたらうれしいね。逆に、ああ千年前のやつは下手くそだと思われるのははずかしい。笑われるのはもっといやだ。これは職人というものの意地だね」。白鷹さんは笑った。千年前の職人たちも、同じことを思っていたのかもしれない。

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<BOOK> 「富士山噴火の歴史 万葉集から現代まで」

2014年01月29日 | BOOK

【都司嘉宣(つじ・よしのぶ)著、築地書館発行】

 昨年「信仰の対象と芸術の源泉」として世界文化遺産に登録された霊峰富士。静かで雄大な富士山はまさに日本のシンボルだが、かつては活発な火山活動を繰り返し度々噴煙を上げていた。本書は万葉集をはじめとする和歌集や俳句集、紀行文など奈良~江戸時代の文学作品の中で、富士の姿がどう描かれていたのかを丹念に追った富士山の噴火史である。

   

 著者都司氏は東大理学系大学院で地球物理を専攻し修士課程を修了。主に古地震、津波を研究する理学博士で、2012年に東大地震研究所を定年退官し、現在は深田地質研究所の客員研究員を務める。本書の初版発行は約20年前の1992年だが、その後の東日本大震災の発生、世界遺産登録に伴う富士山ブームなどを機に、新たな知見を加えて改訂版の出版に至った。

 「万葉集」には長文の雑歌のほか、富士の噴煙を詠んだ作者不詳の歌が2首ある。そのうちの1首「吾妹子に逢ふ縁を無み駿河なる 不尽の高嶺の燃えつつかあらむ」(恋人に逢うすべがないので、駿河の国の富士山のように私は心を燃やし続けるだろう)。柿本人麻呂の撰といわれる「柿本集」にも1首、「古今和歌集」にも5首ある。いずれも内に秘めた恋心を富士の噴煙になぞらえている。

 平安中期の歌人和泉式部の歌にも2首。そのうちの1首「不二の嶺の煙絶えなんたとふべき 方なき恋を人に知らせん」。鎌倉時代の和歌集にも噴煙を詠んだ歌が見られる。西行「けぶり立つ富士に思ひの争ひて よだけき恋をするが辺ぞ行く」(山家集)、源頼朝「道すがら富士の煙もわかざりき 晴るる間もなき空の景色に」(新古今和歌集)、紀貫之「しるしなき煙を雲にまがへつつ 世を経て富士の山と燃えなむ」(同)。

 江戸時代に入って1707年には「宝永の大噴火」が起きた。この噴火による降下石砂の厚さは静岡県小山町須走で約4mに達し、降り積もった砂は御殿場で1m、小田原で90cm、藤沢で25cm、江戸でも15cmだったという。この大噴火は〝千年震災〟といわれる1703年の「元禄関東地震」の4年後、「宝永地震」の49日後に起きた。その後、噴出活動はほとんど止まった。

 昨年夏、著者は長野県小布施町の北斎館で偶然、葛飾北斎の版画の中に噴煙が上がる富士の絵があるのを発見した。北斎が40代に描いた「新板浮絵忠臣蔵」の中の「初段鶴ケ岡」で、鶴岡八幡宮の背景に噴煙が空高く立ち上る富士山が描かれている。制作年は1803~05年。この頃、噴煙を実際に見ることができた可能性は小さいことから、著者は忠臣蔵が起きた時代(討ち入り1702年)に噴煙が絶えず上っていたことを北斎が知っていて描いたとみる。北斎が60代に描いた代表作「冨嶽三十六景」には噴煙が全く描かれていない。

 著者は西暦700年からこれまでの約1300年間のうち噴煙があった時期を積算すると実に約650年に達するという。「つまり歴史の時代を長い目でみれば富士は半分の時期は浅間や阿蘇とおなじく日本列島を代表する活火山でありつづけた」。そして「現代は……噴煙が見られない時期が約300年もつづいてきた」が、「こんなことは長い富士の噴煙史上にはなかった。つまり富士は噴煙のない状態が長くつづいたほうが異常なのだ」と指摘する。

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<奈良・植村牧場> 創業130年、住宅地で乳牛30頭、お向かいは般若寺!

2014年01月28日 | アンビリバボー

【牧童は知的障害者たち、カフェの店名は河瀬監督が命名し紫舟さんが揮毫】

 奈良市般若寺町にある「植村牧場」は奈良県内最古の牧場。130年前の1883年(明治16年)に創業した。奈良市の〝まちかど博物館〟の1つにもなっている。奈良県庁の東側の通りを北上し、国宝の東大寺転害門を越え、さらに北に進むと左手にあった。周りは住宅街。真向かいはコスモスの花で有名な般若寺で、国宝の楼門がで~んと構える。

 現在の牧場主は4代目の黒瀬礼子さん。病弱だった曽祖父の初代が医者から牛乳を飲むよう勧められ、自ら1頭の乳牛を飼い始めたのが始まりという。牧場の広さは約6000平方メートルで、今も明治時代に建てた木造平屋瓦ぶきの牛舎を使っている。ここで30頭のホルスタインを飼育しており、一番奥には生後3週間余りというかわいい子牛がいた(下の下の写真㊧)。牧場では他にペットとして羊1頭とウサギ3匹も飼っている。

 

 酪農も機械化が進んでいるが、ここでは餌やりから搾乳、牛乳の殺菌、瓶の洗浄、瓶詰めなど作業の大半が手作業で、昔ながらの牛乳づくりの伝統を守ってきた。こうした作業を知的障害を持つ青年たちが支える。職業安定所の紹介もあって約30年前から〝牧童〟として雇用を始め就労を支援してきた。青年たちの多くは住み込みで、日夜ひたむきに働いてくれているという。

 牧場の朝は早い。毎日朝5時と夕方5時の1日2回搾乳する。搾乳量は1日約300リットルで200ccの牛乳瓶に換算すると約1500本。そのほぼ半分を家庭に宅配し、約600本分を小学校に配達する。残りはホテルやレストラン向け。牛乳は短時間高温殺菌が一般的だが、ここでは風味を生かすため「75度で15分」と時間をかけて低温殺菌している。

 

 宅配先からは「懐かしい味がする」「濃厚でおいしい」と好評。古くからの植村ファンも多く、週末には京都など遠方からやって来るお客さんも多いそうだ。牧場を案内してくれた菊川長郎(たけお)さんが苦労話を1つ打ち明けてくれた。「台風などで突然警報が出て小学校が休校になったときが大変。特に金曜の配達予定分が止まると処分するしかないので……」。餌となるオカラや牛舎にまくオガクズは豆腐店や製材所からの頂き物。牛のし尿はオガクズと混ぜて乾燥処理し、有機肥料として近隣の農家に配っている。

 牧場の入り口右手にあるカフェレストランは牛乳を使った様々な料理を提供しようと10年前に開店した。店名の「いちづ」の名付け親は映画監督の河瀬直美さん。「酪農ひとすじ」「障害を持っていても一途に」といった思いが込められているという。大きな木製の看板(上の写真㊨)はNHK大河ドラマ「龍馬伝」の題字で有名な書家紫舟さんが書いてくれた。紫舟さんは上京前、奈良で3年間研鑽を積んだが、その時、牧場にもよく訪ねてきてくれたという。レジの後ろにも「御礼」という紫舟さんの書が飾られていた。

 

 入り口左手にある牧場の案内所には小学生が描いた牛の絵や牧場の紹介記事などが天井にまで所狭しと貼られていた(上の写真)。展示品の中には昔使っていた学校給食用の金属性配達容器や牛乳の遠心分離機なども。手づくりの牛乳、障害者が働きやすい環境づくり、消費者や近隣農家との近い関係、環境にやさしいリサイクル……。植村牧場が奈良市のど真ん中で130年もの長きにわたって続いてきた理由が分かったような気がした。

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<松谷茂・京都府立植物園名誉園長> 「樹木に見る、生き抜く戦略」

2014年01月26日 | 花の四季

【帝塚山大学の市民大学講座で講演】

 帝塚山大学考古学研究所・付属博物館(奈良市)共催の市民大学講座が25日に開かれ、京都府立植物園の前園長で現在名誉園長の松谷茂氏(京都府立大学客員教授)が「樹木に見る、生き抜く戦略」と題して講演した。松谷氏は光合成のための光の獲得や受粉、結実、種子の散布などで特徴的な樹木を紹介しながら、「植物には〝不思議〟と〝根性〟のDNAが詰まっている。わずかな太陽の光も逃すまいとする植物の生き方は(エネルギー問題に直面している)人間も見習うべきところが多いのではないか」などと話した。

   

 最初に挙げた樹木はスギ科の針葉樹「ヌマスギ(落羽松)」(下の写真㊧)。この木は地下の通気性が悪い湿地でも生きられるように、地上や水面に気根(呼吸根)を出して根に酸素を送る(昨年7月5日付ブログでも紹介)。ナンヨウスギ科の「ウォレミアパイン」(写真㊨)は上部の枝は上向き、中ほどは横向き、下部は下向きに伸びる。より多くの光を受け止めるためだ。恐竜時代の植物で絶滅したとみられていたが、20年前の1994年にオーストラリアで見つかった。このため日本では「ジュラシックツリー」とも呼ばれている。

 

 アカネ科のツル性植物「カギカズラ」(下の写真㊧)は葉の付け根にカギを下向きに付ける。カギは1本・2本・1本・2本……と規則的に並んでおり、ツルが風で揺れて周りの木の枝に触れるとカギが巻き付く。カギは成長し太くなって絶対に枝を離さず、ツルは上へ上へと伸びていく。アスナロは枝が垂れて地面に付くと、そこから根を出す。「伏条更新」と呼ばれるもので、アジサイも同じ性質を持つという。

 「花が咲くのは昆虫などを誘って受粉するためで、花を美しいと感じるのは人間だけ」。アジサイの1種「クレナイヤマアジサイ」は花を囲むガク片が白からピンク、さらに真っ赤に変化する。ピンクになったときに花が咲いて昆虫を誘う。チョコレートの原料になる「カカオ」(写真㊨)は花や実が幹から直接出る。これを「幹生花」「幹生果」と呼ぶ。「夜に咲く花は匂いで虫や鳥をおびき寄せる」。その1つとして「アフリカバオバブ」を挙げた。この樹木は肉が腐敗したような(松谷氏によればキャベツや白菜が腐ったような)独特な匂いで受粉を手伝ってくれるコウモリを誘う。

 

 種子の拡散方法にも巧妙な生き残り戦略が見られる。弾けて種を飛ばす〝自発的散布〟や〝風散布〟では親元ではなく遠くまで飛んでいって繁殖地を広げる。種に翼のような大きな羽根を付ける「アルソミトラ・マクロカルパ」はグライダー発明のヒントにもなったという。ナナカマドやウメモドキなどの赤い実は鳥が食べて種だけ排泄してくれる。「排泄までの時間はおよそ10分から20分。このため種は親元から少し離れたよく似た環境の地面に落ちる。しかも発芽を抑制していた果肉が取れるので芽も出やすくなる」。

 松谷氏は「人間が植えた植物は水をやったり支柱を立てたり面倒を見ないと育たない。だが、自然界の樹木は常にバトルの連続の中で生存競争を続けており、そう簡単にはくたばらない強い性質を持っている」と話していた。(植物写真の撮影場所は「ヌマスギ」が大阪市立大学理学部付属植物園、その他の3点は京都府立植物園)

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<薬師寺・山田法胤管主> 「怖いのは天災・人災による火事」防火ゼミナールで

2014年01月25日 | メモ

【講演終了後、解体中の国宝東塔を現場上部から見学】

 奈良市の薬師寺で24日午前、放水はしご車も参加して消防訓練があり、続いて「まほろば会館」で奈良市消防局主催の文化財防火ゼミナールが開かれた。ゼミナールでは山田法胤管主(法相宗管長)が聴講者約120人を前に「薬師寺の今昔と防災」と題して講演。この後、奈良県教育委員会文化財保存課の馬塲宏道・薬師寺出張所主任の講演「文化財の防火と東塔工事」があり、終了後、国宝三重塔・東塔の解体現場見学会も行われた。

 山田管主は法隆寺の若草伽藍焼失(670年)や平重衡による東大寺・興福寺焼き討ち(1180年)、文化財保護法制定の契機となった法隆寺金堂壁画の焼損(1949年)、放火による金閣寺炎上(1950年)などを挙げながら、「一番怖いのは雷・地震・水害などの天災」とし、次に怖いものとして「恨み・嫉み・怒りなど人の心の動きによって起きる人災」を挙げた。

 「人の感覚は6つから成る。目・耳・鼻・舌・皮膚、そして心。だから心身を清らかな状態に保とうと〝六根清浄〟を唱える」「仏教では心の中で火が燃えカッカとすることを火難、情に溺れることを水難、風の便り・世間のうわさに惑われることを風難という。3つの難を整えることによって災いから守られる」。

 

 薬師寺は1528年、戦乱の兵火によって東塔を除き金堂や西塔などをことごとく焼失した。その後、長く荒廃したままで「昭和31年(1956年)に小僧として入寺したときも東塔しかなかった」。だが、その後管主に就任した高田好胤師が提唱した写経勧進によって伽藍が次々に復興されてきた。

 全国から寄せられた写経はこれまでに760万巻に上る。それらの写経はいま金堂内の納経蔵に納められている。怖いのは火災。「写経の紙は和紙のため長持ちするが、紙は火事・水・風に弱い」。山田管主は訓示の中でいつも「一に火の用心、二にも火の用心」と繰り返しているそうだ。

 山田管主の講演はリニア中央新幹線の中間駅誘致問題にも及んだ。奈良県内では生駒市や大和郡山市などが候補地に名乗りを上げ誘致合戦を展開中。これに対し山田管主は「もっと日本全体のことを考えて奈良が1つになって考えることが大切」と強調したうえで、「平城京の南にあった羅城門を復元し、そのそばに駅を誘致したらどうだろうか」との持論を披露した。

 この後、巨大な素屋根で覆われた東塔の解体現場を見学した。解体は2009年に始まり、18年には竣工の予定。すでに水煙などの相輪や屋根瓦などは下ろし終えており、現在は三重のうち二重目の部材の解体作業が進められている。高さ20mほどの所から見下ろすと、真ん中から太い心柱が突き出ていた。復元された三重部分の柱には破損や腐食も目立つ。16年度中には全ての解体を終わる予定だが、今後の解体作業でどんな新発見があるのだろうか。

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<大安寺・笹酒祭り> がん封じに御利益! 竹筒で酒を振る舞う〝笹娘〟

2014年01月24日 | 祭り

【長寿だった奈良時代・光仁天皇の故事にちなみ】 

 奈良市の大安寺で23日「がん封じ笹酒祭り」(光仁会)が行われた。奈良時代、光仁天皇(709~81年)が境内の竹林から切り出した青竹で酒を飲んで長寿を保ち、62歳で天皇に即位した故事にちなむ。多くの参拝客が「笹娘」から青竹の杯にお酒を注いでもらい大切そうに口に運んでいた。

  

 がん封じの祈祷が行われる本堂の前には、参拝客の長蛇の列が途切れることがなかった。祈祷を受けた後は本堂裏手の笹酒接待場所へ。着物姿の若い笹娘7~8人が長い竹筒を持ってずらりと並ぶ。笹娘の中には中国からの留学生という女性もいた。竹筒の中には焚き火で温めたお酒。お代わり自由とあって、繰り返しもらってペットボトルに注ぐ参拝客もいた。

 

 

 車を運転してきた参拝客向けには祈祷ずみという〝笹水〟を振る舞った。そのそばには「笹水 こちらでおあがり下さい」の看板。だが竹筒で笹水を差し出す笹娘は同じ格好なので紛らわしく、「水です」という言葉に「えっ」と言ってお酒の方に移動する参拝客も目立った。地元の特産品などを売る露店も多く出店し、境内は終日にぎわった。

  

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<帝塚山大学付属博物館> 「写真で巡る大和・山城の社寺彫刻」展

2014年01月23日 | 美術

【仏像写真家・永野太造の作品をパネル展示】

 奈良市の帝塚山大学付属博物館で、昭和後期に仏像写真家として活躍した「鹿鳴荘」主人、永野太造(1922~90年)の作品展が開かれている。題して「写真で巡る大和・山城の社寺彫刻―永野鹿鳴荘の写真作品から」。博物館実習生による企画展示で、実習生が展示作品の選定や解説キャプションの作製などに取り組んだ。2月3日まで。

   

 「鹿鳴荘」は奈良国立博物館本館(現なら仏像館)の東入り口のそばにあった仏像・古美術の写真店(現在は土産物店)。永野はここを拠点に写真撮影に没頭した。仏像写真家といえば入江泰吉や土門拳が有名だが、永野の作品も「大和古寺大観」「奈良六大寺大観」などの美術書に多く使われた。帝塚山大学は永野の作品125点を所蔵する。

 展示コーナーに並ぶ作品は東大寺の不空羂索観音立像や月光菩薩立像、興福寺の阿修羅像や弥勒如来坐像、法隆寺の釈迦三尊像、峰定寺の千手観音坐像、法華寺や室生寺の十一面観音菩薩立像、新薬師寺の伐折羅大将立像など。永野の仏像写真は「文化財調査を原点としたため、撮り手側の脚色をできるだけ抑えた写真を目指したのが特徴」という。

 永野は写真を通じて仏像の魅力を広く紹介する一方、仏像保存運動にも積極的に取り組んだ。約30年前の新聞にその思いをこう寄せている。「平安、鎌倉といった昔につくられたお寺や仏像が荒れるにまかしてあるのは見るにしのびなかった。私たちは拝観したり、研究したりするだけでなく、それらを大切に後世に引き継ぐお手伝いをしたい」(1982年9月18日付日本経済新聞朝刊文化面)。

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<奈良県立万葉文化館> 「絵画で綴る大和古道」展

2014年01月22日 | 美術

【〝万葉日本画〟中心に100点余】

 奈良県内には古代「官道」が縦横に走っていた。三輪山の麓から難波宮に続く「横大路」、南北に貫く「下つ道」「中つ道」「上つ道」の三道、飛鳥と斑鳩を結ぶ「筋違道(太子道)」、奈良盆地東側の「山辺の道」……。奈良県立万葉文化館(明日香村)で開催中の「絵画で綴る大和古道」展はこれらの古代の道を、万葉集の歌をモチーフにした館蔵の〝万葉日本画〟を中心に100点余の絵画でたどる。

  

 会場入り口正面を飾るのは平山郁夫の「額田王」(上㊧)。万葉日本画にはそれぞれモチーフとなった万葉歌と口語訳が添えられている。この作品には「君待つとわが恋ひをればわが屋戸の すだれ動かし秋の風吹く」(額田王)。濃い紫色の絹地に金泥の曲線で歌姫が描かれており、哀愁とともに高貴な雰囲気が漂う。この作品を皮切りに12の古道や地域ごとに作品が並ぶ。

 奥田元宋の「明日香川夕照」(上㊥)のモチーフは「明日香川黄葉流る葛城の 山の木の葉は今し散るらむ」(作者未詳)。奥田は自然風景をよく赤で表現したが、この作品も〝元宋の赤〟を彷彿とさせる。上㊧の作品は辰巳寛の「月出づ」。万葉集の中で斑鳩を詠んだ歌は「斑鳩の因可(よるか)の池の宜しくも 君を言はねば思ひそわがする」(同)の1首だけ。井上稔の「斑鳩夕景」(下㊧)はこの歌を題材とした。

  

 平岩洋彦の「早蕨(さわらび)」(上㊨)のモチーフは志貴皇子の有名な歌「石ばしる垂水の上のさ蕨の 萌え出づる春になりにけるかも」。平岩は「小さな蕨に目を留めるほどの繊細な歌を詠んだ皇子に少しでも近づかねば」との思いで描いたそうだ。万葉集で最も多く詠まれた植物は萩の花。今展でも市川保道の「萩」、林潤一の「秋風」など、萩を描いた作品も多く出品されている。

 

 静かな風景画が多い中で、絹谷幸二の「大和国原」(上㊧)はカラフルな色使いが際立つ。題材となった万葉歌は舒明天皇の「大和には群山あれど とりよろふ天の香具山…うまし国そ蜻蛉島大和の国は」。絹谷は「鳥のように大空を巡っていくようなはるかな視線に万葉人の眺望のスケールを感じざるをえない。古代人の飛行する心に私自身の筆をのせてみたいと思った」との言葉を寄せている。

 川崎春彦のメルヘン調の作品「鳥の声」(上㊨)も目を引く。木々に止まる様々な鳥の奥には山のような大きなゾウの姿。山部赤人の歌「み吉野の象山(きさやま)の際の木末(こぬれ)には ここだもさわく鳥の声かも」をモチーフとした。川崎は象山を求めて吉野を歩き回って、万葉の世界が今もそこにあるのを感じたそうだ。「象山はよく見ると、アチコチの山全部が象の形に見えてきた。飛鳥の人達が象の山を愛した素直な童心が漂ってくるようで嬉しかった」という。同展は3月2日まで。

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<イチゴノキ(苺の木)> 赤い球形の実と壷状の白い小花が同時に

2014年01月20日 | 花の四季

【地中海地方原産、実は果実酒やジャムなど食用に】

 ツツジ科の常緑低木で、地中海地方から西ヨーロッパまで広く分布する。10~12月頃、アセビやドウダンツツジに似た小さな壷状の白花を下向きに付ける。その花が受粉すると、ほぼ1年かけて果実が緑色から黄色に変化し、11~12月頃に赤く熟す。つまり花期と前年の花の果実の熟期が重なり、秋から初冬にかけて花と実を同時に楽しめるというわけだ。

 英名は「ストロベリー・ツリー」。赤い果実をイチゴに見立てて名付けられた。和名のイチゴノキもそれを直訳したものとみられる。ただ、その実は直径1.5~2cmの真ん丸。表面には小さな粒々が付いてザラザラとした感触。イチゴというより、むしろヤマモモの実に似ている。

 赤く熟した実は果実酒やジャムに利用され、ポルトガルではその実を使って「メドロンホ」という強いブランデーが造られるという。ただ実そのものは味気なく、生食には向かないようだ。イチゴノキは学名から「アルブツス・ウネド」とも呼ばれるが、その「ウネド」は「1回食べる」を意味する。裏返すと「2度と食べたくない」という思いが込められているそうだ。

 

 日本では少し前までなじみの少ない樹木の1つだった。だが、最近では小型の「ヒメイチゴノキ」や赤花系の「ベニバナイチゴノキ」などの園芸品種が出回って人気を集め始めている。花の少ない時期に花と実を同時に楽しめること、比較的暑さ寒さに強く土質を選ばないこと、果実が野鳥を呼んでくれることなどが人気を集めているようだ。(写真上段は昨年11月24日、下段2枚は今年1月17日に京都府立植物園で)

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<竹の〝寒干し〟> 全国一の「茶筌の里」生駒市高山の冬の風物詩

2014年01月19日 | メモ

【25日ごろから本格化、田んぼに円錐形の幾何学模様】

 全国の茶筌(ちゃせん)生産量の9割を占める「茶筌の里」奈良県生駒市の高山地区で、材料の竹を天日干しする「寒干し」が始まった。竹の水分を飛ばし堅くツヤを出すための大切な作業。例年12月後半から3月初めにかけて行われる。今年は25日ごろから最盛期を迎えそうという。

 

 高山の茶筌は室町時代の中頃、高山城主の次男・宗砌(そうせつ)が、侘び茶の始祖で親友の村田珠光(1422~1502)から制作を依頼されたのが始まり。その後、家臣16人による〝一子相伝〟の秘伝の技として受け継がれてきた。今では高山茶筌生産協同組合に茶筌師21人が加入し、年間生産量は30万~40万本に上る。高山は柄杓、茶杓、茶合、花器などの茶道具や編み針の生産地としても知られる。

 寒干しは油抜きした直径2~3cmの3年生の竹を約1.5mに切って、冬の厳寒の日差しの中で干すもの。期間は1カ月から1カ月半。その間に満遍なく日が当たるように1週間に1回程度、竹を回転させるそうだ。仮に寒干しをしなかったらどうなるのか。地場産業振興拠点「生駒市高山竹林園」資料館(㊦㊨の写真)の久保建史さんによると「生カビが生えて茶筌の材料としては使えない」そうだ。

 

 寒干しが終わった竹は倉庫で1年以上眠らせた後、皮むき→大割り→片木(へぎ)→小割り→味削り→面取り→上編み・下編み→腰並べ→仕上げという工程を経て完成品になる。そのほとんどが小刀を使う手作業。中でも穂先を薄く加工する味削りは「茶の味は味削りによって変わる」といわれるほど重要で、繊細な熟練の技が要求されるそうだ。資料館では毎週第1と第3日曜日に制作実演を公開している。

 一口に茶筌といっても形状や竹の種類、流派により60種類以上あるという。三千家の場合、表千家は煤竹(すすだけ)、裏千家は淡竹・白竹(はちく)、武者小路千家は黒竹を使う。ちなみに「ちゃせん」は一般的に「茶筅」と書くことが多いが、この「筅」は元々鍋などの焦げ付きを落とす道具「筅・簓(ささら)」に由来するという。このため「ちゃせん」を芸術の域まで高めた高山では、古くから「茶筌」の字を当てるのが通例になっているそうだ。

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<京都府立植物園> 新春を飾る「寄せ植えハンギングバスケット展」開催

2014年01月18日 | 花の四季

【全国からの応募作品106点を展示、2月2日まで】

 京都府立植物園(京都市左京区)で「新春を彩る寄せ植えハンギングバスケットコンテスト展」が開かれている。植物園と日本ハンギングバスケット協会京都支部の共催で、3回目の今回のテーマは「新春を実感し、花と緑のある暮らし」。西日本を中心に全国から106点の応募があり、それら全作品を2月2日まで展示する。(敬称略)

 

 

㊤㊧「迎春のよろこび」只井桂子(愛知県日進市)、㊤㊨「京の華」高見周一(大阪府八尾市)、㊦㊧「春光」長井栄子(富山県高岡市)、㊦㊨「きぼう」大嘉芳美(京都府亀岡市) 

 展示会場は北山門そばの噴水広場周辺。それぞれの作品には作者名とタイトル、使用植物名が記載されている。寄せ植えも壁掛け式のハンギングバスケットも葉ボタン、南天、千両、万両、ヤブコウジ、パンジー、クリスマスローズなどを使ったものが多く、いずれも新春にふさわしい見事な作品ばかり。来園者の中にはじっと見入ったりカメラに収めたりする人の姿も目立った。

   

㊤㊧「栄花」山下活子(大阪府寝屋川市)、㊤㊥「迎春お・も・て・な・し」森下啓子(京都府舞鶴市)、㊤㊨「初春の共演」宮脇とよ子(京都府亀岡市)

 来園者による人気投票も実施中。全作品の中からお気に入りの作品1点の番号を書いて投票すると、「人気NO.1賞」に投票した人の中から10人に植物園特製のカレンダーや、植物園と隣接する「陶板名画の森」の共通招待券がプレゼントされる。投票は1月21日まで。作品展示の最終日2月2日には知事賞、植物園長賞、植物園協力会長賞などの表彰式が行われる。

 

㊤㊧「輪」近藤嘉代子(三重県桑名市)、㊤㊨「振袖」堀井直子(滋賀県大津市)

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<BOOK> 『料亭「吉兆」を一代で築き、日本料理と茶の湯に命を懸けた祖父・湯木貞一の背中を見て……』

2014年01月17日 | BOOK

【京都吉兆嵐山本店3代目総料理長・徳岡邦夫著、淡交社発行】

 タイトルは「……」の後「孫の徳岡邦夫は何を学んだのか」と続く。異例の長さのタイトルが示すように、徳岡邦夫(1960年生まれ)が天才料理人といわれた祖父、湯木貞一(1901~97)の教えや思い出を記した読み物である。「徳岡邦夫の人生」「湯木貞一の人生」「京都吉兆のこれから」の3章構成で、特別対談『戸田博×徳岡邦夫 茶碗「広沢」から在りし日の祖父を偲ぶ』で締めくくる。

    

 湯木貞一は茶道の精神を日本料理に融合させて独自の懐石芸術を確立したといわれる。吉兆は1930年、大阪市西区で産声を上げた。間口1間2分5厘・奥行き6軒のこぢんまりとした「御鯛茶處(おんたいちゃどころ)吉兆」。湯木、29歳の時だった。小さな店の一角に茶釜を備え食後に釜の湯でお茶を点てた。その斬新なアイデアと精魂込めた料理が多くの客の人気を集めた。

 「日本料理は単なる料理ではなく、茶道に基づいた佇まいや侘び寂びがある」。湯木は日本料理には他にない気品があるとして「世界之名物 日本料理」を信条とした。昨年「和食・日本人の伝統的な食文化」がユネスコ無形文化遺産として登録された。湯木もことのほか喜んでいるに違いない。87歳の時には料理界初の文化功労者に選ばれた。湯木は茶道具の収集家としても知られ、1987年には大阪市内に「湯木美術館」も開館、初代館長を務めた。

 徳岡邦夫は湯木の次女の長男として生まれたが、実父は2歳の時に他界した。幼少期の遊び場は嵐山本店の厨房。20歳の時、祖父湯木のいる大阪の高麗橋店に住み込みで修業を始めた。95年、35歳で総料理長に就任する。その間、湯木の背中を追って育った徳岡は「今でも祖父のことは神さまだと思っている」。

 ただ「私は祖父の盛りつけを踏襲するつもりはありません。今の時代に合うように、器に新しい変化を求めていこうと思っています」という。「お客さまにどうしたら喜んでもらえるか――祖父は常にそのことを考えていました。私もその気持ちを忘れず、祖父と同じように新しい試みを続けていこうと思います」。徳岡はいま嵐山本店を含む京都吉兆の6店を統括する立場にある。「祖父が茶道で学んだもてなしの心――京都吉兆では今もしっかりと受け継がれています」。

 食品偽装が問題になっている最中、京都吉兆でも本書が出版された直後の昨年11月、カタログ販売していたローストビーフに結着剤が使われていたとして販売が取り止めになった。さらに製造委託先の食肉加工責任者の自殺騒ぎにまで発展した。本書で吉兆のお客様本位のもてなしの心に触れ感銘を受けていただけに、この一連の騒動が残念でならない。吉兆創業から80年余。嵐山本店が「ミシュランガイド」で三つ星になったことを喜ぶのもいいが、もう一度全社を挙げて湯木貞一の創業の精神に立ち返る必要があるのではないだろうか。

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<奈良史料保存館> 「奈良町の動物~馬・鹿・『懸鳥』」展スタート

2014年01月16日 | メモ

【なら工芸館でも「干支展」開催中】

 奈良市立史料保存館(奈良市脇戸町)で15日「奈良町の動物~馬・鹿・『懸鳥』」展が始まった。奈良町は世界遺産・元興寺を中心に古い町家が立ち並ぶ旧市街地。その奈良町の暮らしや行事で身近な動物のうち新年の干支「午(馬)」や鹿、「懸鳥(かけとり)」に焦点を当てて、古文書や絵馬、遺跡出土品などで紹介している(3月16日まで)。保存館に程近い「なら工芸館」でもいま馬の工芸品を集めた「干支展」(1月19日まで)が開かれている。

 

 保存館の馬の展示品は法蓮ヤイ古墳(6世紀)から出土した馬形埴輪や平城京跡から見つかった8世紀の土馬、興福寺南円堂脇にある一言観音に奉納された古い絵馬類、「大和名所図会」の馬が描かれた場面など。土馬は脚が折られたり壊された状態で出土することが多いため、土馬を疫神の乗り物と見立て、脚を折ることで厄病の流行を防ぐまじないに使われたのではないかともいわれる。

 

 鹿関連の展示は江戸時代の角伐(き)りの様子を描いた「南都神鹿角伐之図」(上の写真㊨=一部)、春日社参拝客から「火打焼(ひうちやき)」という菓子をもらう鹿を描いた「大和名所図会」(上の写真㊧)、奈良~平安時代の曲げ物の底板に描かれた鹿の絵など。角伐りは江戸時代も多くの見物客でにぎわう人気行事で、当時は奈良各町の出入り口にあった木戸を閉めて鹿を追い込み、奈良奉行所与力らの立ち会いの下、角伐り人足によって行われたという。「懸鳥」は春日若宮おん祭の大宿所祭に奉納されるキジ・ウサギ・タヌキのこと。その懸鳥に関する古い記録「大宿所日記覚帳」(1715年)などが展示されている。

 

 史料保存館から歩いて数分の所にある「なら工芸館」の干支展は、県内の様々な分野の作家が作った馬の置物や香合わせ、茶盌、吉野杉の壁掛けなどが並ぶ(上の写真㊧)。同工芸館では英国チャールズ皇太子・カミラ夫人のサイン入り赤膚焼(直径約30cm)も展示されている。皇太子夫妻は2008年秋、日英外交関係樹立150周年に合わせて来日した。東大寺や正倉院事務所などを見学した際、一刀彫や奈良漆器など特産を展示した同工芸館にも立ち寄り、来館記念に素焼きの皿にサインした。

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<パンジー> 仏語「パンセ」に由来 物思いにふけるような花姿から

2014年01月15日 | 花の四季

【和名では「三色菫」や「遊蝶花」「人面草」とも】

 寒さに強いパンジーは花の少ないこの時期に花壇や窓辺をカラフルに彩ってくれる。スミレの仲間の5弁花で、19世紀前半以降、英国や北欧で野生のスミレを交配して多くの園芸品種が作り出された。磯野直秀氏の「明治前園芸植物渡来年表」によると、日本には明治末期の1866年に渡ってきた。オランダ船によって持ち込まれたようだ。

 本来は春の花だが、品種改良によって花期は10月頃から翌年の5月頃までとかなり長い。可憐な花姿の中に、冬の低温で早朝凍結していても日が差すと元に戻るたくましさも併せ持つ。大別すると大輪系の「ガーデンパンジー」と小輪系の「タフテッドパンジー」に分類される。最近では花の径が10cmを超えるものも出てきた。日本では直径2cm前後で多くの花を付けるものを、パンジーとは別にビオラと呼んで区別することが多い。

 パンジーの和名「サンシキスミレ(三色菫)」は学名の「ビオラ・トリコロル」に由来する。花びらが主に白・黄・紫の3色で彩られていることによる。パンジーという名前はフランス語の「パンセ(思索、物思い)」にちなんで名付けられた。花が人の顔に似て少し前かがみに咲くさまを、物思いに沈む人に見立てた。このことからパンジーは「ジンメンソウ(人面草)」とも呼ばれる。

 花びらの形がヒラヒラ舞う蝶々の姿を連想させることから「ユウチョウカ(遊蝶花)」や「コチョウスミレ(胡蝶菫)」という優雅な呼び名もある。残念ながらこう呼ばれることはほとんどないが、俳句の世界ではたまに使われてきた。「遊蝶花春は素朴に始まれり」(水原秋櫻子)、「パンジーの仔熊の顔に似たりけり」(森田峠)。

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