く~にゃん雑記帳

音楽やスポーツの感動、愉快なお話などを綴ります。旅や花の写真、お祭り、ピーターラビットの「く~にゃん物語」などもあるよ。

<オウバイ(黄梅)>〝迎春花〟早春に明るく愛らしい黄花が次々と

2015年02月28日 | 花の四季

【中国原産、梅と違ってモクセイ科の合弁花】

 原産地は中国北部で、和名の「オウバイ」は漢名「黄梅」の音読み。その名の通り、梅の時期に梅の花の形によく似た黄色い小花を次々と咲かせる。彩りの乏しい時期にいち早く咲くため、中国では「迎春花」とも呼ばれる。名前から梅の仲間と思われがちだが、モクセイ科ソケイ属(ジャスミヌム属)の半つる性植物で、梅とのつながりはない。

 

 2~4月頃、葉が出る前に前年伸びた細い枝に花径2cmほどの小花をたくさん付ける。花びら6枚でできた離弁花のように見えるが、基部がくっ付いた合弁花。細い枝は緑色の四角形で、弓状に枝垂れ地面に触れた所から根を出す。この時期、石垣から垂れ下がったオウバイの鮮やかな花色が遠くからも目を引く。

 渡来時期は不明。ただ、江戸時代前期の園芸書「花壇地錦抄」(1695年、伊藤三之丞著)に「黄梅、花形梅花のごとく黄色なり。木はかづらにもあらず、れんぎょうのるい」と紹介されており、それ以前に日本に渡っていたことは間違いない。この記述のように同じモクセイ科で弓状に多くの黄花を付けるレンギョウ(連翹)の花姿に少し似たところも。

 仲間のソケイ属には花から香油のジャスミンが採れるソケイ(素馨)やキソケイ(黄素馨)、マツリカ(茉莉花)などがあり、芳香を放つものが多い。ただオウバイには香りはない。花付きがいい、寒さに強い、挿し木で容易に根が付く、剪定に強いことなどから、オウバイは盆栽用花木としても人気が高い。「黄梅の日射日増しに眩しかり」(安居修一)。

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<アンビリバボー> 紅白ツートンカラーの大根、その名は「コンコン」!

2015年02月26日 | アンビリバボー

【馬見丘陵公園館で展示中、「ハクコン」や「チンコン」も】

 奈良県馬見丘陵公園館(河合町)の玄関ホールで、大根と様々な野菜を掛け合わせた〝合体野菜〟が展示されている。大根の上にキャベツが載った「キャベコン」は一昨年のブログ(2013年6月9日)でも紹介ずみだが、それに加えて赤大根×大根の上下紅白の「コンコン」や、白菜×大根の「ハクコン」、チンゲンサイ×大根の「チンコン」も。それらの奇怪な姿が来館者の注目を集めている。

  

 合体野菜は十数年前、農林水産省中国農業試験場(現近畿中国四国農業研究センター)が、キャベツなどアブラナ科野菜に多い根こぶ病対策の一環として「キャベコン」の栽培技術を開発したのが始まり。奈良県下では大和郡山市にあった県フラワーセンターの研究員が栽培に取り組んでいたが、2012年の同センター閉園に伴って馬見丘陵公園館が栽培技術を引き継いだ。(下の写真は㊧「チンコン」、㊨「キャベコン」)

 

 合体野菜は種を蒔いて1~2週間後、本葉が出始める頃に互いを水平に切り、大根を下に、キャベツや白菜など他の野菜を上に載せて接木。その後、真っ暗にしビニール袋で密閉して少しずつ外気に慣らしていく。接木はうまくいけば10日間ぐらいで成功するが、成功率は10%程度という。栽培担当者は「生産効率の面から市場に出回ることはまずないでしょう」と話していた。展示期間は合体野菜の状態によるが、少なくとも3月いっぱいは展示の予定とか。  

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<BOOK> ものと人間の文化史シリーズ 「椿」

2015年02月24日 | BOOK

【有岡利幸著、法政大学出版局発行】

 法政大学出版局が1968年にスタートした百科叢書「ものと人間の文化史」シリーズの168件目。著者有岡氏は1937年岡山県生まれ。56~93年大阪営林局で森林の育成・経営計画業務などに従事、その後、(財)水利科学研究所客員研究員などを務めた。著書に「森と人間の生活―箕面山野の歴史」「松と日本人」などのほか、同シリーズでも「松茸」「梅Ⅰ」「梅Ⅱ」「秋の七草」「春の七草」「檜」「桃」「柳」など多数執筆している。

    

 「記紀・万葉時代の椿」「近世初期に大流行した椿」「神仏をまつる社寺と椿」「近・現代の椿事情」など8つの章で構成する。日本原産のヤブツバキは学名が「カメリア・ジャポニカ」。椿は有用材として古くから様々な形で利用されてきた。約5000年前の縄文時代の鳥浜遺跡(福井県三方町)からは赤い漆塗りの櫛や石斧の柄などが出土している。樹種別の加工品の遺物件数では杉、樫、ユズリハに次いで多い。

 わが国でツバキに対して椿の字を当てたのは万葉集が最初。坂門人足は「巨勢山のつらつら椿つらつらに……」と詠んだ。万葉集には椿のほか万葉仮名の都婆伎や海石榴などの表記も。椿油や種子は遣隋使や遣唐使によって中国にも運ばれた。ところが、その椿も平安時代の和歌や随筆、物語にほとんど登場しない。椿が再び注目を集めるのは茶道の茶花として。江戸時代には「寛永(1624~44年)の椿」など一時期園芸ブームも起きた。

 しかし「明治維新で近代となると、椿は古いものだと見捨てられ、愛好者がほそぼそと楽しむにすぎなくなった。この傾向は昭和初期の終戦直後まで続いた」。一方、江戸時代シーボルトらによってヨーロッパに紹介された椿は「冬のバラ」としてもてはやされ、熱狂的な栽培ブームが巻き起きた。そんな世相を反映し小デュマの小説「椿姫」が生まれ、ヴェルディによってオペラ化された。米国で全国組織のツバキ協会が発足したのは1945年。欧米での流行に刺激されて、本家日本で日本ツバキ協会が創立されたのは8年後の1953年だった。

 海石榴をツバキと読むのは「遣唐使によって中国に渡ったツバキがかの地でこう記されていたからで、中国では海をわたってきた石榴に似た実をつける樹という意味で海の字が頭についた」。古代、三輪山麓にあった市場「海石榴市(つばいち)」の読みは「ツバキイチがツバイチに転訛したもの」。その名の由来は「三輪山にたくさん生育している海石榴や周辺の山地に生育しているツバキの種子を、あるいは種子をしぼったツバキや、椿の木を燃やした灰を商品としていたことに因んだものと考えられる」という。本書は椿の品種や全国各地の椿にまつわる昔話・民俗、ゆかりの神社なども詳細に紹介している。

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<馬見丘陵公園館> 歴史教室「馬見古墳群を考える―主墳と陪塚」

2015年02月23日 | 考古・歴史

【泉森皎氏「巣山古墳が陪塚のルーツ」!】

 奈良県馬見丘陵公園館(河合町)で22日、考古学者の泉森皎氏(元奈良県立橿原考古学研究所付属博物館館長)を講師に迎えて、歴史教室「馬見古墳群を考える―主墳と陪塚」が開かれた。泉森氏は馬見古墳群を代表する大型前方後円墳の巣山古墳とその出島状遺構、隣接する2つの古墳のつながりから、「巣山古墳が陪塚のルーツ」「馬見古墳群が陪塚の発祥地」などと話した。

   

 陪塚(ばいづか、ばいちょう)は大王(おおきみ)や王(きみ)を埋葬する大型の古墳に隣接して、臣下ら従者を埋葬した中小型の古墳。ただ「陪塚は死者だけを埋葬したのではない」と泉森氏は強調する。大型古墳の埋葬者のために武具や馬具、装身具などの副葬品を埋葬するために築造した古墳もあった。それらは「埋葬用陪塚」と呼ばれる。

 巣山古墳は全長約220mの国指定特別史跡。馬見古墳群では最大規模で、4世紀終わり頃の築造とみられる。出島状遺構は2003年、前方部西側から見つかった。周濠に張り出した16m×12mの四角形で、墳丘と幅2mの土手でつながっていた。出島からは水鳥や蓋(きぬがさ)形の埴輪が出土し、すぐそばからはひょうたん形の島も見つかった。泉森氏はこの出島状遺構が「陪塚の始まりではないか」とみる。

 巣山古墳のすぐ西側には三吉2号墳(全長89.8m)と狐塚古墳(86m)がある。いずれも前方部が短い帆立貝式で、この2つも「巣山古墳の陪塚的性格を持つ」。泉森氏はこうした点から巣山古墳を「陪塚のルーツ」とし、「後の仁徳陵に引き継がれた」とみる。泉森氏が「古墳の一番完成した姿」ともいう仁徳天皇陵(大仙陵古墳、全長486m)には、堤や周濠に帆立貝式古墳を中心に十数基の陪塚が整然と築造されている。

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<オオベニゴウカン> 無数の雄しべが放射状に まるで化粧用パフ!

2015年02月21日 | 花の四季

【漢字は「大紅合歓」、英名は「レッド・パウダーパフ」】

 南米のボリビアやペルーなどに自生するマメ科ベニゴウカン属(カリアンドラ属)の常緑低木。花姿がネムノキ(合歓の木)に似た紅色で、メキシコ原産のベニゴウカン(紅合歓)より大きいことから「オオベニゴウカン(大紅合歓)」の和名が付けられた。沖縄では街路樹や庭園木として広く植樹されており、12月から翌年の4月頃まで咲き続ける。

 属名の「カリアンドラ」はギリシャ語の「カロス」(美しい)と「アンドロス」(雄しべ)の合成語。花径は5~10cmほどで、濃い紅色の雄しべが中心部から放射状に長く突き出す。その花姿がふわふわの化粧用パフに似ていることから、英名では「レッド・パウダーパフ」と呼ばれる。「アカバナブラシマメ」という別名も。

 カリアンドラ属の植物は南米や西アフリカ、インドなどに約200種分布する。いずれも赤や紫、白などカラフルで長い雄しべを持つ。その中で広く栽培されているのがこのオオベニゴウカン。そのため単に「カリアンドラ」といえばオオベニゴウカンを指すことも。その園芸種に白花の「シロバナオオベニゴウカン」もある。

 ベニゴウカンの花径は3~5cmほどで、葉の形はネムノキやオジギソウにそっくり。「緋合歓」と書いて「ヒネム」や「ヒゴウカン」とも呼ばれる。同じマメ科の近縁種に濃い黄花を付ける「キンゴウカン(金合歓)」や白い花を付ける「ギンゴウカン(銀合歓)」も。それぞれ「キンネム」「ギンネム」ともいわれる。

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<天理市文化センター> 冬の文化財展「古墳のまち天理」

2015年02月20日 | 考古・歴史

【市制60周年を記念、発掘調査の成果一堂に】

 天理市文化センターで市制60周年記念事業の一環として、平成26年度冬の文化財展「古墳のまち天理」が開かれている。天理は市内に1500基以上の古墳が分布する県内屈指の古墳密集地域。市教育委員会が30年以上にわたって取り組んできた発掘調査の成果を一堂に展示している。3月15日まで。

 

 市南部に広がる大和(おおやまと)古墳群のうち東殿塚古墳からはゴンドラ形の大型船が描かれた円筒埴輪が出土した(下の写真㊧)。帆や7本の櫂(かい)などが鮮明に刻まれている。この埴輪が見つかった古墳前方の突出部には大小の埴輪を三角形に並べた祭祀の場があることから、線刻されているのは葬送の船とみられる。

 

 仙之内古墳群の小墓(おばか)古墳周濠からも円筒、朝顔形、盾形、人物、馬形、水鳥形、鶏形、家形など多様な埴輪が出土した。そのうち「盾持ち人」と名づけられた人物埴輪(上の写真㊨)は盾形埴輪の上部に顔が取り付けられたもの。顔には入れ墨を表す線刻が施されている。この埴輪は古墳の外側に向かって立てることで、聖域を外の世界から守る役割を担っていたとみられる。

 

 入れ墨が刻まれた埴輪は他の古墳からも見つかっている。新蒔古墳から出土した人物埴輪6点のうち1点の男性には鼻の両側に入れ墨模様が描かれている。魏志倭人伝の記述に「男子無大小皆黥面文身」(男子は大人も子どもも区別なく皆顔や体に入れ墨をしている)。荒蒔古墳の築造は古墳時代後期とみられる。その頃もまだ入れ墨の習慣が続いていたということだろうか。他の5点は首飾りをした女性、弦楽器を持つ男性など。この古墳からは翳形(さしばがた)埴輪(上の写真㊨)も出土した。翳は貴人に差しかけて顔を覆い隠すもの。この形状のものは特に「双脚輪状文(そうきゃくりんじょうもん)埴輪」と呼ばれ、全国で8例ほどしか出土例がないという。

 

 荒蒔古墳からは犬形と猪形の埴輪も1点ずつ出土している(写真㊧)。犬と猪の埴輪はセットで見つかることが多い。猟犬による猪狩りの場面を表すものとみられる。犬は飼い犬らしく首輪が巻かれ、猪の上半身は赤く塗られている。天理市北部の長寺(おさでら)遺跡からは円筒埴輪が水路の排水管に転用された遺構も見つかった(写真㊨)。これらの埴輪はもともと近隣の古墳の周囲に並べられていたものとみられる。 

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<BOOK> 『「朝敵」と呼ばれようとも 維新に抗した殉国の志士』

2015年02月19日 | BOOK

【星亮一編、現代書館発行】

 明治の初め、新政府軍と旧幕府勢力が1年半にわたって繰り広げた戊辰戦争(1868~69年)。「朝敵」「賊軍」という汚名を着せられた佐幕派は〝負け組〟としてこれまで光が当てられることが少なかった。本書に登場する14人もその多くが一般には広く知られていない。だが、彼らの中にも先進的な思想の持ち主で国の将来を真剣に考えていた人物が多くいた。

    

 編者の星亮一氏は仙台市出身で「戊辰戦争研究会」を主宰する。本書はその研究会の会員と関係者14人が綿密な取材を基に、騒乱の時代を駆け抜けた「殉国の志士」の姿を生き生きと描く。星氏は「はじめに」に記す。「彼らは何を考え、この戦争に突入していったのか。それぞれに事情があり、目標も異なったが、掲げた理想は誇り高きものがあった」。

 仙台藩士・玉虫左太夫の『航米日録』は今も一級資料として名高いという。1860年、日米修好通商条約の批准書交換使節団の一員として渡米した時の様子を全8巻にまとめたもの。鳥羽・伏見の戦いが起きると、玉虫は新政府のやり方への不信感から新政府打倒と会津藩救済に動く。奥羽越列藩同盟が成立すると、自ら理想とする「人心一和」の理念を盛り込んだ建白書を記した。その後、箱館での理想の国づくりに思いを馳せるが、蝦夷の地に渡る前に捕まって死刑に。

 松岡磐吉は長崎海軍伝習所で学んだ後、1860年に玉虫と同時期に咸臨丸で渡米した。松岡も蝦夷共和国建設を目指す榎本武揚に同調し、軍艦「蟠龍」の艦長として行動を共にする。しかし榎本軍の降伏後、江戸に送られて赦免となる半年前に獄死。中島三郎助は1853年のペリー来航の際に日本人として最初に乗船して接触、日本初の洋式軍艦の建造にも尽力した。中島の元には吉田松陰の紹介で長州藩士桂小五郎(木戸孝允)が造船術を習うため弟子入りしたという。中島はその後、長崎海軍伝習所出向を経て軍艦操練所教授方に就任。その後、箱館で戦死した。

 他に猛将として勇名を馳せた会津藩士で後に警視庁の大警部となった佐川官兵衛、箱館戦争の宮古湾海戦での戦いぶりを東郷平八郎が賞賛した甲賀源吾、坂本龍馬が暗殺された近江屋事件の犯人の1人ともいわれる京都見廻組の桂早之助、桑名藩の全責任を負って切腹に追い込まれた森弥一左衛門陳明(つらあき)らも登場する。その森の辞世の句「うれしさよ尽くすまことのあらはれて君にかはれる死出の旅立」。 

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<橿考研付属博物館> 特別陳列「大和の豪族たちと藤ノ木古墳」

2015年02月17日 | 考古・歴史

【棺が埋葬された古墳の〝主丘径〟から被葬者の地位を探る!】

 奈良県立橿原考古学研究所付属博物館(奈良県橿原市)で特別陳列「大和の豪族たちと藤ノ木古墳」展が開かれている(3月22日まで)。今年は1985年の藤ノ木古墳発掘調査の開始から丸30周年。被葬者2人については性別も含めなお論争が続く。同展では棺が埋葬された施設がある場所「主丘(しゅきゅう)」の径を、大和の他の首長墓と比較することで藤ノ木古墳の被葬者の地位を探る試みに挑戦。藤ノ木古墳と同時代の古墳8カ所の出土品も一堂に展示している。(写真㊧装身具復元品、㊨被葬者のそばに収められていたガラス製の小玉)

 

 展示会場入り口に「6世紀前半~7世紀前半の大和の大型古墳被葬者所属階層一覧表」という大きなパネル。大和を中心に主な古墳49カ所の築造時期を、出土した須恵器や横穴式石室の型式を基に25年単位を1世代として525年から625年まで5つに分類。さらに各時期の中で主丘径の大きさから4つの階層に分類している。主丘径は前方後円墳なら後円部の直径、円墳は直径、方墳は一片の長さを基準とした。

 藤ノ木古墳築造の中心年代は真ん中の575年。それまで大型古墳のなかった斑鳩地域に突如現れた直径50mの円墳で、その規模は4分類中、上から2番目の階層に当たる。展示企画を担当した小栗明彦学芸員は「墳丘や石室の規模などから、中央政権内で大王に次ぐ階層に属して活躍した斑鳩地域における首長の墓」とみる。斑鳩地域の他の主な古墳は次世代の方墳・仏塚古墳(1辺23m)だけ。こちらの規模は600年前後築造の古墳の中では4分類中最下位。

 

(上の写真は㊧藤ノ木古墳出土の鉄地金銅張り馬具の鐘形杏葉、㊨三里古墳出土の鐘形杏葉。形や材質は同じだが藤ノ木古墳埋葬品の方が格段に大きく、三里古墳被葬者との地位の違いを端的に物語る)

 その藤ノ木古墳から仏塚古墳への動向は、馬見丘陵周辺の北葛城地域で1世代後の600年前後に築造された牧野(ばくや)古墳(直径48m)と625年前後に築造の平野1号墳(26m)の関係と通じる。いずれも突如2番目の規模として現れ、次世代の古墳は大幅に縮小し最下位の4番目に落ちる。主丘径もよく似ている。

 小栗学芸員は藤ノ木古墳と牧野古墳の被葬者について「中央政権内での地位や担っていた役割が似ていたのだろう」と類推する。また藤ノ木古墳は「次世代の規格を先駆けて採用したことを示しており、被葬者を考える上で参考となる」とも指摘する。古墳の型式も6世紀後半から7世紀にかけ、それまで主力だった前方後円墳から円墳、方墳に移行していく。

 「被葬者の地位が似ていた」という牧野古墳は、敏達天皇の皇子で舒明天皇の父である押坂彦人大兄皇子の成相墓(ならいのはか)に該当する可能性が高い。藤ノ木古墳の被葬者2人については諸説ある中で穴穂部皇子と宅部皇子が有力視されている。穴穂部皇子は欽明天皇の皇子で聖徳太子の叔父、宅部皇子は宣化天皇の皇子。仲が良かった2人は587年、皇位を巡る争いで蘇我馬子に相次いで暗殺された。

 

 藤ノ木古墳の出土品展示コーナーには装身具やその復元品、馬具、埴輪、須恵器などが並ぶ。「藤ノ木古墳の被葬者と同時代を生きた豪族たちの墓」コーナーでは平林古墳、烏土塚古墳、牧野古墳、三里古墳など8カ所の出土品を展示し、それぞれの墳丘や石室の規模から藤ノ木古墳の被葬者の地位と比較している。

 同博物館では特別展示に併せて「三次元で〝作る〟! 藤ノ木古墳の国宝・馬具」展も同時開催中(上の写真)。石室に収められていた馬具の鞍金具に表された「鬼神」と「象」と「鳳凰」の図案を抜き出き、石膏の粉末を使って3Dプリンターで精巧な複製品を作製した。ふだん触ることができない国宝を手に取ってもらおうと企画した。(写真は㊧3Dプリンターで印刷した複製品、㊨鞍金具後輪を飾る象の部分の拡大写真)

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<アンビリバボー> 塊茎内部に中空の迷路、それはアリのための住処! 

2015年02月16日 | アンビリバボー

【アカネ科の着生植物、その名もずばり「アリノスダマ」】

 表面がゴツゴツした鏡餅のような大きな塊。異様なその姿にまず目が吸い寄せられ、内部の構造を知ってさらにびっくり。自ら迷路状のトンネルを作り、アリに住処(すみか)として提供しているという。ボルネオ島やニューギニア島など東南アジアの熱帯地域に分布するアカネ科の着生植物で、「アリノスダマ(蟻の巣玉)」という和名が付けられている。

 この植物を見たのは京都府立植物園の温室内。これまでも度々訪れているが、華やかな花にばかり気を取られ見過ごしていたようだ。アリノスダマはマングローブの樹上や岩の裂け目などで育つ着生植物。常緑の小低木で、塊茎(擬鱗茎)の上部から数本の枝を伸ばし、白い花を付けるという。(下の写真は㊧塊茎内部の様子、㊨塊茎表面の拡大写真)

  

 塊茎は種子の発芽直後から作られ始め、大きくなるに従って複数の空間(部屋)ができトンネルで結ばれていく。女王アリは早い段階で入り込んで塊茎の生長とともにコロニーを形成していく。大きなものでは数百匹のアリがその中で生活するそうだ。アリは塊茎の中央下側から出入りする。アリノスダマはアリに住処を提供する代わりに、アリの排泄物や餌の食べ残しなどを養分としてもらう。

 アリノスダマのようにアリと共生関係にあるものを「アリ植物(アント・プラント)」と呼ぶ。東南アジアの熱帯地方には他にも同じアカネ科の着生植物「アリノトリデ(蟻の砦)」やシダ植物「アリノスシダ(蟻の巣羊歯)」などがあるという。ただ日本でこれらの植物を栽培しても、日本のアリは塊茎内で生活する習性がないため、共生場面を見ることはまず期待できないそうだ。

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<万葉文化館> 「万葉人心情 ―景―」 万葉日本画約40点

2015年02月14日 | 美術

【柿本人麻呂・大伴旅人ら5人の歌をモチーフにした作品群】

 奈良県立万葉文化館(明日香村)で「万葉人心情―景―」展が開かれている。現代日本画家が万葉集の歌を基に描いた同館所蔵の〝万葉日本画〟は全部で154点。今回はそのうち柿本人麻呂・大伴旅人・山上憶良・山部赤人・大伴家持の5人の風景・心情を詠んだ歌に焦点を当て、それらの歌をモチーフに描かれた作品約40点を集めている。会期は3月15日まで。

 最も展示数が多いのは柿本人麻呂の歌にちなむ作品12点。西田俊英作『秋山迷ひぬる』は妻を失った悲しみを詠んだ歌「秋山の黄葉を茂み迷ひぬる妹を求めむ山道知らずとも」がテーマ。真っ赤に染まった秋の山道を馬に乗ってさまようのは人麻呂自身だろう。「み熊野の浦の浜木綿百重なす心は思へどただに逢はぬかも」。小島和夫作『浜木綿』は万葉集の中にただ1首だけ登場するハマユウの花を描いた。

  

 山部赤人は人麻呂とともに「歌聖」と称された。松尾敏男作『鶴(たづ)鳴きわたる』(上の作品)の画材は赤人の歌「若の浦に潮満ち来れば潟をなみ葦辺をさして鶴鳴き渡る」。若の浦は今の和歌浦(和歌山市)。赤人が724年の聖武天皇の紀国行幸に随って若の浦を訪れた際に詠んだ。8羽の鶴に生命の躍動感が漲っている。

 長谷部権次呂作『平城京沫雪(あわゆき)』に添えられた歌は、大伴旅人の「沫雪のほどろほどろに降り敷けば平城の京し思ほゆるかも」。大宰府に赴任した旅人が奈良の都を懐かしんで詠んだ。加山又造作『月と秋草』(下の作品)は山上憶良の秋の七草を詠んだ歌にちなむ。その歌の最後に登場する「朝顔の花」は今のキキョウを指すといわれる。筑前の国守として赴任した憶良は旅人と共に九州で歌壇を形作った。

  

 大伴旅人の子、家持の歌をモチーフにした作品も11点展示中で、人麻呂に次いで多い。その中には中島千波作『散りのまがひ』、川島睦郎作『菖蒲草(あやめぐさ)』、上村松篁作『春愁』なども。江戸時代に描かれた『柿本人麻呂像』(法眼泰晋画、伝安井門跡讃)や明治時代の菅楯彦作『大伴旅人卿羨酒壺』、板橋貫雄作『貧窮問答歌画賛幅』なども同時に展示されている。

 一流の現代日本画家が描いた〝万葉日本画〟の数々は万葉の時代と現代を歌と絵でつなぐ貴重な財産。作品を通じ改めて万葉歌人の心情の一端に触れることができた。ただ、残念だったのは大伴旅人に関連する展示パネルや展示目録で、赴任先の役所名「大宰府」が「太宰府」に、また官職名「大宰帥(だざいのそち)」が「太宰帥」や「太宰師」になっていたこと。単なる変換ミスだろう。そう思っていたところ「現在の表記に合わせた」とまさかの回答。ちなみに同館発行の図録「万葉日本画の世界」で旅人のページをめくると、こちらは「大宰府」と正確に記されていた。

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<キンカチャ(金花茶)>50年前、中国南部のベトナム国境近くで発見!

2015年02月13日 | 花の四季

【ツバキ属初の黄花として脚光、今では中越両国で50種以上も】

 ツバキ科ツバキ属の常緑中低木。50年前の1965年に中国南部のベトナム国境に近い広西チワン族自治区で発見された。ツバキ属の仲間は中国の中南部から日本、東南アジアにかけて広く分布するが、黄花はそれまで知られていなかった。それだけにキンカチャは大きな注目を集めた。

 和名は漢名「金花茶」の音読み。学名は「カメリア・クリサンタ」。ラテン語で「金色のツバキ」を意味する。英語でも「ゴールデン・カメリア」と呼ばれる。半日陰の暖かく湿った場所を好み、冬の初めから終わりにかけて、径3~7cmほどの色鮮やかな盃形の黄花を付ける。葉は長楕円形で長さが15cmほどもある。

 黄花ツバキは今から100年以上前、フランスの植民地だったベトナムで最初に採取され標本としてヨーロッパに送られた。だが、その後の長い戦乱もあって実物が確認されず「幻の花」といわれていた。そんな中で発見されたのがこのキンカチャ。その後、中国で新種が続々と見つかり、1990年代半ばから調査が本格化したベトナムでも発見が相次いだ。これまでに両国で見つかった黄花は50種を超える。

 園芸関係者の悲願は交配によって耐寒性に優れた色鮮やかな黄花ツバキを作り出すこと。日本では1880年代から主にキンカチャとヤブツバキの掛け合わせで交配が盛んに行われ、新品種が次々に発表されてきた。だが、その多くは黄色というよりクリーム色がかったもの。観賞価値の高い黄花の誕生にはもうしばらく時間がかかりそうだ。 

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<廣瀬神社・砂かけ祭り> 大和の奇祭! 砂が土砂降りの雨のように

2015年02月12日 | 祭り

【五穀豊穣を願う御田植祭、砂かけが激しいほど豊作に】

 廣瀬神社(奈良県河合町)で11日「砂かけ祭り」が行われた。「オンダ(御田)」とも呼ばれる御田植祭。田人(お百姓さん)や牛役が鋤やスコップで参拝者に向かって砂を激しく撒き散らす。参拝者も心得たもので、雨合羽やゴーグル、マスクなどで完全武装。負けじと砂を固めて投げつけていた。砂を雨になぞらえ、砂かけが激しいほど雨に恵まれ豊かな実りの秋を迎えることができるという。

 同神社は多くの河川が合流して大和川となる奈良盆地の西部に位置する。砂かけ祭りは1300年前、天武天皇が水の神を祀って五穀豊穣を祈願するため始めた「大忌祭(おおいみのまつり)」が起源ともいわれる。祭りは午前中の「殿上(でんじょう)の儀」と午後の「庭上(ていじょう)の儀」の2部構成。「殿上の儀」は拝殿内で田人や早乙女が苗代作り、モミ撒き、田植えなどの所作を行い、最後に巫女が神楽を奉納。

 

 「庭上の儀」は午後2時に始まった。拝殿前には四方に青竹を立て注連縄が張られた〝田んぼ〟。太鼓の合図で全身白尽くめの田人や木製の牛面を被った黒装束の牛役が登場。反時計回りに一周して田植えの所作が終わるやいなや、砂かけ合戦がスタートした。田人や牛が近づくと逃げる人、逆に追いかけて砂をぶつける人。境内のあちこちで田人や参拝客が入り乱れて激しい砂かけが繰り広げられた。テレビ局の女性アナウンサーは土砂降りの砂を浴びながらカメラに向かって絶叫していた。

 

 5分ほどすると太鼓が鳴って第1ラウンドが終了。それが1時間半ほどにわたって10ラウンドも繰り広げられた。そのたびに境内は混沌とした無法状態に。これを奇祭と言わずしてなんと言えようか。最後に〝田んぼ〟が均され早乙女2人が田植えの所作を行って「庭上の儀」は無事終了。その後、境内中央に置かれたやぐらの上から御供撒きがあった。撒かれたのは松葉で作った「松苗」と薄い小さな四角形の「田餅」。松苗は厄除けのお守りに、田餅はこれを食べると1年を無病息災で過ごせるという。

 

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<大和文華館> 「おめでたい美術」吉祥の願いを込めた絵画・工芸品たち

2015年02月11日 | 美術

【龍・鳳凰・牡丹・蓮・ブドウ・ザクロ・鶴・亀・富士山……】

 大和文華館(奈良市学園南)で開催中の「おめでたい美術」展(15日まで)も閉幕まで残りわずか。10日には梅のシーズンに合わせ「うめの無料招待デー」として無料公開された。梅は多くがまだ蕾で期待外れだったが、陳列された絵画や美術工芸品の中には逸品も多く、同館収蔵品の豊富さと質の高さを改めて実感させられた。

 展示作品は長寿や子孫繁栄など様々な願いが込められた絵画や工芸品85点。まず「おめでたい年の初めに」として富岡鉄斎の作品8点が並ぶ。鉄斎は「神国日本の象徴」として富士山を好んで描いた。30代後半には自ら富士登頂も果たしている。8点のうち富士山の作品が2点。そのうち『攀嶽全景図』は約1.4m×2.2mの迫力のある大作で、画面右上には富士と天皇を賛美した長い賛文が添えられている。『福神鯛釣図』(下の写真=部分)は交流のあった松山の近藤家当主文太郎氏に「貴家の御清栄を祈って」との書状と共に贈ったもの。

    

 展示作のうち半数強は中国の作品。動物では龍や麒麟、鳳凰、亀を題材としたものが目立つ。古代中国ではこの4つが「四瑞」として尊ばれた。よく問題になるのが龍の爪の本数。中国では5本龍は皇帝の象徴として皇帝以外の使用が厳禁された。展示品のうち『白磁黒釉印花雲龍文鉢』(元時代)や『五彩龍文透彫硯』(明後期)などは5本だが、『青花龍文梅瓶』(明後期)など4本のものも数点あった。

 会場正面入り口に飾られた『紅花緑葉福字文合子』には表蓋の「福」の字の区画内に5本爪の龍が描かれている(下の写真㊧)。容器の大きさは直径19.7cm、高さ9.4cm。底裏の銘から明時代の嘉靖年間(1522~66)の作とされる。制作方法は「彫彩漆」で、下から順に黄、緑、朱の漆の層が塗り重ねられ、彫る深さで文様の色が彫り分けられる。

 

 植物では蓮の花や多くの実を付け子孫繁栄を表すザクロ、ブドウなどが主に吉祥のモチーフとなる。『素三彩果文皿』(清時代、写真㊨)の見込みには霊果といわれた桃やザクロが三彩釉で色鮮やかに描かれている。ブドウは朝鮮王朝時代にも画材として好まれた。朝鮮王朝時代の作品はブドウをモチーフにしたものだけでも『螺鈿葡萄文衣裳箱』など4点が出品されている。

 他に重要文化財の『金銅蓮華形磬』や雪村周継筆『呂洞賓図』、狩野探幽筆『古画縮図(花鳥)』、宋紫石筆『ライオン図』、青木木米作『赤絵龍文盃』なども展示されている。

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<BOOK> 「鳥獣害ゼロへ! 集落は私たちが守るッ」

2015年02月10日 | BOOK

【日本農業新聞取材班著、こぶし書房発行】

 鹿やイノシシなど野生鳥獣による農作物被害が深刻度を増している。2012年度の被害金額は約230億円。4年連続して200億円を超えた。本書は農業専門紙「日本農業新聞」が2013年度年間キャンペーン企画として昨年3月まで連載した「鳥獣害と闘う」をまとめたもの。このキャンペーンは「農政ジャーナリストの会」主催の第29回農業ジャーナリスト賞を受賞した。

     

 第1章「招かれざる隣人」でまず全国各地での農業被害の実態を覗く。その隣人とは鹿、イノシシのほか猿、ヌートリア、アライグマ、カラスなど。北海道では鹿の侵入防止柵が東部を中心に数千キロに及び〝万里の長城〟と呼ばれているという。だが「列島を縦断するほど長い柵も管理が行き届かず、被害軽減の決め手に欠く」。山口県のある集落では高さ1.2mの柵を設置した結果イノシシ被害はなくなったが、最近は鹿がその柵を跳び越えて侵入し、若い芽を根こそぎ食い荒らす。

 第2章以降で各地での創意工夫の対策を取り上げる。静岡県富士宮市は「シャープシューティング」という方法で鹿の駆除に成果を上げているという。米国で始まった狩猟方法で、鹿を餌付けして集め銃で一気に仕留める。同じ鹿でも奈良公園の鹿は春日大社の創建以来、守るべき大切な神の使い。たまにドングリを与えたりして癒されているだけに、少々可哀想なやり方にも思える。だが深刻な被害に直面する農林関係者にとっては、苦慮の末に辿り着いた方法ということだろう。

 広島県庄原市の集落では地区全員が獣害対策の情報を共有し学ぶ場として共同畑を設けた。大分県では「有害獣と戦う集落十箇条」を作るとともに、鳥獣害対策に重点的に取り組む50集落をモデル地区に指定、半数以上の27集落が3年間で被害をゼロにすることに成功した。宮崎県は現場目線で被害対策の指導・助言を行う「鳥獣被害対策マイスター」の育成に力を入れる。

 兵庫県丹波市のある集落では農家以外の住民も含め全戸で当番制を敷いて鳥獣害防護柵の点検や管理を徹底。福井県小浜市も防護柵設置時に維持管理を義務とする協定を住民と結ぶ。香川県さぬき市の集落は野生獣の侵入を防ぐ電気柵に軽トラックも通れる幅5~10mの管理道を併設することで、イノシシ被害の撲滅に成功した。

 最終第8章では各界の識者が被害克服のためのコメントを寄せている。宇都宮大学農学部教授の大久保達弘氏は「鳥獣害対策と里山再生は地域農業振興の両輪。鳥獣害対策は地域がまとまる機会にもなる。被害軽減がゴールではなく、里山再生のスタートとすべきだ」と主張。JTB常務で日本ジビエ振興協議会顧問の久保田穣氏は「鳥獣害対策を好循環させるためにはしっかりした出口対策が必要。ジビエ(野生鳥獣肉料理)は一つの鍵になる。ジビエを活用する際には肉の品質、安全基準のチェック体制を地域一丸でつくり、慎重かつ丁寧に進めるのがよいのではないか」と指摘する。 

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<三輪恵比須神社> 初えびす 笹の葉で湯を振りまく「御湯の神事」

2015年02月08日 | 祭り

【鯛引き行列や太鼓演奏、餅まきなども】

 日本最古の市場「海石榴市(つばいち)」の守護神を祀る三輪恵比須神社(桜井市)で5~7日「三輪の初えびす」が行われた。宵宮の5日には一刀彫の巨大な鯛などを曳き回す「鯛引き行列」や三輪素麺初市相場奉告祭、初市大祭の6日には煮麺の無料接待。そして最終日7日には「御湯(みゆ)の神事」やごくまき(餅まき)などもあって、3日間多くの参拝客でにぎわった。

 同神社はJR三輪駅から南西に徒歩数分。「御湯の神事」は午後2時に始まった。拝殿前には8つの古い釜。それぞれに木がくべられ湯気が立ち上る。巫女さんが両手に持った笹の葉を釜の湯に浸し上下に振ると、そのしぶきが勢いよく飛び散った。しぶきが掛かると無病息災などの御利益があるという。神事が終わると、参拝客はお守りになるという笹の葉をもらったり、湯飲み茶碗で釜の湯を頂いたりしていた。

 

 その後、同神社青年会のメンバーでつくる太鼓グループ「和太鼓大美和」が勇壮な太鼓の演奏を披露。午後4時からは紅白の屋台の上から餅まきがあった。餅が2個ずつ袋入り。後方にいたため収穫ゼロだったが、中には大量の餅が入ったポリ袋を手に笑顔で帰る人の姿も。境内の一角に佐藤春夫の句碑があった。「海石榴市の野路に飛び交ふ蟲や何」。1963年に三輪山麓の海石榴市伝承地を訪れたときに詠んだという。

    

     

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