く~にゃん雑記帳

音楽やスポーツの感動、愉快なお話などを綴ります。旅や花の写真、お祭り、ピーターラビットの「く~にゃん物語」などもあるよ。

<宮跡庭園> 6年がかりの保存整備工事、完了間近に!

2020年01月28日 | 考古・歴史

【景石を保存化学処理、池底・護岸の玉石や礫敷きも修理】

 国の特別史跡・特別名勝「平城京左京三条二坊宮跡庭園」(奈良市三条大路一丁目)の保存整備工事が3月末の完成に向け最後の仕上げ段階に入っている。この宮跡庭園は約1250年前の奈良時代中期に造られた古代の庭園。遺構を1985年度に保存整備し、露出展示という形で実物を一般公開してきた。しかし、それから30年余を経過し園池の景石に亀裂や破損が見られることなどから、2014年度から6年がかりで保存整備工事を進めてきた。

 この庭園は1975年に奈良郵便局庁舎の移転に伴う発掘調査で発見された。宮跡庭園という名は「北宮」と記された荷札木簡が出土し、平城宮の離宮的な施設や皇族の邸宅(宮)だったとみられることによる。庭園は平安時代の初めまで存続していたとみられ、奈良時代の当時の姿をそのまま残す貴重な庭園として、1978年に国の特別史跡、92年には国の特別名勝に指定された。この両方に指定されているのは他には平城宮東院庭園と毛越寺庭園(岩手県平泉町)しかない。

 庭園中央を占めるのはS字状に屈曲する幅2~7mの小川のような石組みの池。池の底には径20~30cm大の玉石が敷き詰められ、汀も玉石が一列に並んで輪郭を縁取る。池の中など要所要所には数十cmから1m大の景石がアクセントとして約120個配されている。池の総延長は約55m、水深は20~30cm。曲水の宴を催すことができる宴遊施設だったとみられる。池の底2カ所からは水生植物を植えていたと思われる木枠で組まれた桝形も出土した。庭園西側には池を観賞する南北に長い高床式の建物が復原されている。

 今回の保存整備工事の最大の課題は亀裂や破損が見られた景石約60個の修理。鎖と滑車のチェーンブロックを使って人力で一つひとつ吊り上げ、洗浄や乾燥、接着、薬剤含浸などの保存化学処理を施したうえ、再びミリ単位の精度で元の位置に戻していった。景石の修理は2017年度までに終了し、昨年度は護岸の玉石や池底石などの修理を行った。最終の今年度は池周辺の礫敷き部分の整備に続いて芝の張り替え、樹木の剪定・伐採などに取り組む。池全体を覆う工事用の素屋根もまもなく取り払われ、再生した古代の庭園が再び姿を現す。

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<京都地名研究会> 「梅は既に弥生時代には渡来していた」!

2020年01月27日 | メモ

【沖村由香さん、講演で万葉学者の通説(7世紀後半~)に反論】

 京都地名研究会(小寺慶昭会長)の第54回地名フォーラムが1月26日龍谷大学大宮学舎で開かれ、沖村由香さん(日本語語源研究会理事)と中島正さん(花園大学、同志社女子大学非常勤講師)のお二人が講演した。『令和と万葉集―地名の語る梅の渡来』の演題で講演した沖村さんは、梅の渡来時期について万葉学者の間で「7世紀後半~奈良時代初め」が通説になっていることに対し、核など梅の遺物が各地の縄文~古墳時代の遺跡から出土していることなどを論拠に「遅くとも弥生時代には渡来していた」などと話した。

 新しい元号「令和」の出典は万葉集の梅花の歌32首の序文に登場する「時に初春の令月にして、気淑(よ)く風和らぎ……」による。その梅は万葉集の中で萩に次いで多い約120首が詠まれている。しかも万葉後期(710~759年)に集中し、万葉前期(629~710年)の歌はなく記紀にも梅の記述がない。そのため7世紀後半から奈良時代の初めごろにかけ遣唐使によって渡来したというのが万葉集研究者の通説。万葉学者上野誠氏は「当時、梅は舶来の輸入植物で、珍貴な植物で、貴族の家の庭にしかなかった。だから好んで歌われた」とし、中西進氏も「外来の珍木として当時もてはやされていた。当時多くやって来ていた中国・朝鮮からの渡来人たちは、わが家の庭に梅を好んで植えたらしい」と記す。

 しかし1980年代に大阪府八尾市の弥生中期の遺跡から梅の自然木の一部が出土、その後も各地の弥生時代や古墳時代の遺跡から梅の核などの出土が相次いだ。さらに近年は縄文遺跡からも梅の遺物が見つかっている。このため植物学者や考古学者の間では「弥生時代ごろに渡来した」との見方が支配的になっているという。万葉学者の通説とは650年~1000年以上の年代差があるわけだ。さらに「春日野に斎(いつ)く三諸の梅の花栄えてあり待て遷り来るまで」(藤原清河)などの万葉歌から、沖村さんは当時春日野などで梅が広く栽培され観梅が春の恒例行事になっていたのではとみる。また法隆寺の献納宝物の中から梅で染色された飛鳥時代の絁(あしぎぬ=絹織物の一種)が見つかったことから、その当時既に梅染に使う80年以上の梅の古木があったと推測する。こうしたことから沖村さんは渡来時期とともに「貴族の庭にしかない高貴な花だった」とみる万葉学者の説に疑問を投げかける。また梅は当時「生活に不可欠な有用植物でもあったのではないか」などと話した。

 続いて中島さんは『古代寺院の寺名と地名の考古学~山号・院号・法号・寺号』と題して講演した。寺院は現在「比叡山延暦寺」「高野山金剛峰寺」など「○○山△△寺(院)」と呼ぶのが慣例だが、平安時代の後半期以前は「比叡山寺」「高野山寺」のように地名の霊峰を冠した名称で呼ばれていたそうだ。また移建・再建を繰り返した場合、山階寺→厩坂寺→興福寺、法興寺(飛鳥寺)→元興寺など移転先によって呼称がしばしば変化した。寺院跡と考えられる遺跡の名称は現在の地名などを冠し「○○廃寺」と呼ぶのが通例だが、近年は墨書土器や木簡などの出土により不明だった寺院名が復元されるケースが増えているという。

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<大和文華館> 特別企画展「新春を迎えて―梅と桜の美術」

2020年01月20日 | 美術

【雪村「花鳥図屏風」や国宝「寝覚物語絵巻」など】

 奈良市学園南の大和文華館で特別企画展「新春を迎えて―梅と桜の美術」が開かれている(2月16日まで)。早春の花を代表する梅と華やかな春の訪れを象徴する桜をモチーフにした絵画や工芸品、陶磁器など計37点(特別・参考出陳6点を含む)。国宝『寝覚物語絵巻』(下の作品)や重要文化財の雪村周継筆『花鳥図屏風』、春日大社に伝わる江戸時代の『吉野図屏風』なども出展されている。

 会場に入って右手に「梅を愛でる―清澄と高潔」と題して梅の作品が並ぶ。雪村周継(1504~89?)は室町時代の武家出身の画僧で雪舟に私淑した。六曲一双の墨画『花鳥図屏風』は右隻に早春の朝の光景、左隻に夏の夜景が精緻な筆致で描かれている。春の情景では雪解け水がしぶきをあげて流れる川辺で、梅の古木が咲き誇りオシドリが羽を休める。『螺鈿蒔絵梅文合子』は尾形光琳と尾形乾山の合作を江戸後期の蒔絵師、原羊遊斎(1769~1845)が忠実に模した作品。原作は残っていないそうだ。

 江戸後期の文人画家山本梅逸(1783~1856)の『四君子図』は古くから草木の君子と称えられてきた梅・菊・竹・蘭の4種を一つの画面に描いたもの。富岡鉄斎(1837~1924)の双幅『寒月照梅華図』『梅華満開夜図』、江戸中期の有田(伊万里)の色絵磁器『色絵松竹梅文大壷』『色絵梅文大壷』、18世紀のドイツ・マイセン窯の『色絵金彩柿右衛門写梅竹虎文皿』、沖縄特産の型染め『琉球紅型衣裳』なども展示されている。

 会場左手には「桜を愛でる―清浄と華麗」と題した桜の作品群。『寝覚物語絵巻』は菅原孝標の娘の作といわれる物語「夜半の寝覚」を絵画化した平安後期の作品。女主人公中の君(寝覚の上)の息子まさこ君が女二の宮の姿を垣間見る場面など絵・詞書4段から成る。岩佐又兵衛(1578~1650)筆と伝わる『源氏物語図屏風』は六曲一隻の江戸前期の作品。岩佐は戦国大名荒木村重の子で風俗画に優れ、〝豊頬長頣(ほうきょうちょうい)〟と形容されるふっくらとした顔貌表現から浮世絵の祖といわれることも。田能村竹田(1777~1835)筆『親鸞上人剃髪図』や江戸前期の有田(古九谷様式)の『色絵桜文徳利』なども並ぶ。

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