く~にゃん雑記帳

音楽やスポーツの感動、愉快なお話などを綴ります。旅や花の写真、お祭り、ピーターラビットの「く~にゃん物語」などもあるよ。

<中津城> 初代城主は戦国時代の名軍師黒田官兵衛

2017年09月22日 | 旅・想い出写真館

【今春には〝続日本100名城〟の一つに】

 別府の温泉に一泊した翌日はレンタカーで小倉へ。JRに乗る予定だったが、台風18号の九州直撃で始発から運休。やむなくレンタカーを借りて雨の中、国道10号を北上したが、そのおかげで途中、初めて中津城(大分県中津市)に立ち寄ることができた。中津城は名軍師と謳われた黒田孝高(官兵衛・如水)が築城を始め、後に入城した細川忠興が完成させた。中津川(山国川の派川)の河口に位置し、今治城(愛媛県)、高松城(香川県)とともに〝三大水城〟の一つに数えられている。

 中津城は1871年、廃藩置県で御殿のみ残して廃城となり、御殿は中津県の県庁、小倉県の中津支庁舎として使われた。だが、その支庁舎も1877年の西南戦争で焼失。現天主は5階建ての鉄筋コンクリート造りで、約50年前の1964年に江戸中期以降居城とした旧藩主奥平家が中心になり、市民の寄付も合わせて建造されたという。中津城は今年4月6日(城の日)、公益財団法人日本城郭協会より〝続日本100名城〟の一つに選ばれた。

 

 築造当時の遺構は石垣と堀が残る。石垣は黒田時代のものと細川時代のものがあり、黒田時代の石垣には山国川上流の福岡県上毛町(こうげまち)にある古代の山城「唐原(とうばる)山城」(国指定史跡)から運び出された石が多く使われた。堀の脇には官兵衛、嫡男長政とともに、勇猛果敢な家臣団「黒田二十四騎」の名前が一人ずつ立て札として掲げられていた。キリシタンだった官兵衛は当時一般的だった側室を置かず、一夫一妻の仲睦まじい夫婦だったことでも知られる。その2人の像も並んで設置されており、官兵衛の像にはモットーとした言葉「我、人に媚びず富貴を望まず」、正室光姫の像には「才徳兼備」の文字が刻まれていた。

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<別府地獄巡り> 海→坊主→かまど→鬼山→白池→血の池→龍巻

2017年09月21日 | 旅・想い出写真館

【若いバスガイドさんの名調子で愉快な2時間半】

 3年ぶりの別府旅行。前回は湯布院からの帰途、単独で4カ所の地獄を回ったが、今回は別府地獄組合加盟の全7カ所を巡るJR別府駅前発の亀の井バスの定期観光バス「別府地獄巡りコース」を利用した。所要時間は約2時間半。台風18号の接近で断続的に小雨が降るあいにくの天候だったが、バスガイドさんの爽やかな語り口と案内で愉快な時間を過ごすことができた。(写真は間欠泉の龍巻地獄)

 地獄巡りは鉄輪(かんなわ)温泉地区にある海地獄からスタート。ここは鮮やかなコバルトブルーが売り物だが、この日は湿度が高いせいか、白い湯気がもうもうと立ち上って水面を覆っていた(下の写真㊧)。この後、徒歩で鬼石坊主、かまど、鬼山、白池地獄へ。各地獄では温泉の熱を利用し様々な動植物を飼育・栽培している。かまど地獄では亜熱帯性のスイレンやオオオニバスを栽培し、ワニを飼育する鬼山地獄は別名ワニ地獄とも呼ばれる。ワニはほとんどじっとしたままで、エサやりの光景を見ることができなかったのが少し心残り。(下の写真㊨はかまど地獄の六丁目)

 

 白池地獄はピラニアや巨大魚のピラルクなどを飼育する熱帯魚館を併設する。この園内には大分県の重要文化財に指定されている石塔「向原石幢(むかいがはらせきとう)」と「国東塔(にくさきとう)」があった。前者は永禄3年(1560年)の制作で、後者は約600年前の南北朝時代に造られたという。この後、バスで柴石温泉地区にある血の池と龍巻地獄に向かったが、血の池地獄も海地獄同様、一面白い湯気に覆われていた。間欠泉の龍巻地獄はタイミングよく、少し待っただけで熱湯が勢いよく噴き出した。安全面から噴出口の上部に天井が設けられているが、この天井がもう少し高ければ迫力も一段と増すに違いない。(上段㊧は別名ワニ地獄とも呼ばれる鬼山地獄)

 

 

 バスによる地獄巡りは亀の井バスの前身、亀の井自動車を設立して〝別府観光の父〟とも呼ばれた油屋熊八の発案で始まった。定期観光バスとしては国内で最も長い歴史を持つ。バスガイドの導入も同社が最も早く、リズムのいい七五調の観光案内で大きな評判をとったという。この日のバスガイド松本結香さんもこの名調子の七五調を交えながら、別府温泉や各地獄についてよどみなく紹介していた。笑顔の絶えない松本さんの名ガイドぶりが何にも増して最高の別府土産になった。

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<角島大橋> エメラルドグリーンの海に架かる人気スポット

2017年09月20日 | 旅・想い出写真館

【全長1780m・通行無料、島のシンボルは円筒形の角島灯台】

 山口県下関市豊北町(ほうほくちょう)にある離島角島と本土を結ぶ角島大橋。全長1780mで、17年前の2000年に完成した。通行料無料の離島架橋としては沖縄の伊良部大橋(3540m)、古宇利大橋(1960m)に次ぐ長さ。エメラルドグリーンの海に架かるこの長大橋は山口県内有数の観光スポットとして人気を集めている。かねて一度訪ねたいと思っていたが、別府~小倉への旅行を機にようやくその願いがかなった。

 訪れたのは台風18号が過ぎ去った直後の9月18日。台風一過の好天に恵まれ、祝日(敬老の日)ということもあって、角島大橋を遠くに望む国道191号沿いの道の駅「北浦街道豊北」はマイカーやツーリングの観光客でにぎわっていた。角島大橋は緩やかに弧を描きながら、響灘と日本海の海流が出合う海士ケ瀬(あまがせ)を跨ぐ。一帯は北長門海岸国定公園の景勝地の一つで、大橋は自動車のテレビCMのロケ地にもなっている。角島に向かう橋の中ほど左手には鳩島という無人の小島が浮かぶ。

 

 

 角島の名は2つの岬、牧崎と夢崎が牛の角のように突き出している地形に由来するという。この島は2005年公開の映画『四日間の奇蹟』(佐々部清監督)の舞台になったことでも知られる。西北端には島のシンボル、総御影石造りの角島灯台が立つ。明治政府のお雇い外国人リチャード・ヘンリー・ブライトン(1841~1901)が設計し、約140年前の1876年(明治9年)に初点灯した。レンズの直径は259cmもあり、国内の灯台で使用されているレンズでは最大規模。このレンズを使っている灯台は「第1等灯台」と呼ばれ、全国に5カ所しかないそうだ。角島のほかは犬吠崎(千葉県銚子市)、経ケ岬(京都府京丹後市)、出雲日御碕(島根県出雲市)、室戸岬(高知県室戸市)。

 

 角島大橋を様々な角度から堪能し、角島灯台も訪ねた後は海岸そばの懐石・海鮮料理店「齋座 わ田(さいざ わだ)」で腹ごしらえ。この日のメニューは台風でしけた影響だろう、イカやサザエ、イクラなどがピラミッド状に積まれた「海鮮丼」の一品のみ。まず頂上部を土佐醤油で刺身として頂き、次いで細かく刻んだ山積みの刺身を崩し、たれと卵黄をかけてどんぶりとして頂く。そして最後はレンゲの胡麻だれに出汁を加え茶漬けに。一杯で三度の味わい方が楽しめる海鮮丼はなかなか美味で食べやすく、これも角島の忘れがたい思い出の一つになった。

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<奥能登探訪㊦> 朝日も夕日も望める最北端の岬・禄剛埼

2017年09月14日 | 旅・想い出写真館

【揚げ浜式塩田、見附島、恋路海岸……】

 能登半島最北端の岬、禄剛埼(ろっこうざき)。外浦と内裏の分岐点にあり、古くは狼煙(のろし)をたく要所として知られた。その名残が今も「珠洲市狼煙町」という地名に残っている。そばには「道の駅狼煙」もある。その道の駅から急坂を登ること10分弱で、芝生広場の禄剛埼台地に着いた。青い日本海が遥か彼方まで果てしなく広がる。ここは同じ地点から朝日も夕日も望むことができる全国でも数少ない場所という。

 岬の突端にある白亜の灯台「禄剛埼灯台」はイギリス人技師リチャード・ヘンリー・ブライトン(1841~1901)が設計し、1883年(明治16年)に完成した。ブライトンは明治政府のお雇い外国人として来日し、多くの灯台を設計したことから〝日本の灯台の父〟と呼ばれる。正面には菊の紋章が輝く記念額が飾られていた。菊の紋章が掲げられた灯台は全国でもここだけとのこと。今は無人灯台だが現役で光は約35キロ先の沖合まで届く。「日本の灯台50選」の一つ。2008年には経済産業省から「近代化産業遺産」に認定された。この灯台は2年前のNHK連続テレビ小説『まれ』のオープニングに空撮が登場したことでも知られる。

 

 珠洲市北部の仁江海岸などでは「揚げ浜式」という製塩技術が連綿と受け継がれてきた。沿岸部の領民に米を前貸しし、塩で返納させる加賀藩の「塩手米(しおてまい)制度」によって江戸初期以降、急速に広まった。瀬戸内地方の「入浜式」は潮の干満を利用して海水を塩田に引き込む。一方、潮の干満の少ない能登地方の「揚げ浜式」では海水を汲んできて塩田に撒く作業を繰り返す。

 国道24号沿いには今もその揚げ浜式の塩田が点在する。「道の駅すず塩田村」のそばにある角花家の塩田(写真㊧)には「国指定重要無形民俗文化財 能登の揚浜式製塩の技術」と「『まれ』ロケ地」という看板が立っていた。『まれ』収録の際、この塩田を営む角花豊さんが塩田作業指導を務めたという。国道をしばらく進むと「株式会社奥能登塩田村」(写真㊨)があった。真っ黒に日焼けした男性が炎天下、海水を撒いた塩田で黙々と砂の乾燥作業に取り組んでいた。〝潮汲み3年、潮撒き10年〟。この言葉が揚げ浜式の過酷な製塩作業を物語る。

 

 能登のシンボルといわれる見附島はその形から軍艦島とも呼ばれる。高さは約28m。「飯塚珪藻泥岩」という堆積岩でできているそうだ。海岸そばの道路を南下し能登町に入ると、すぐの所に恋路海岸が弧を描く。ここにはこんな悲恋物語が伝わる。美しい娘の鍋乃と助三郎は人目を忍び逢瀬を重ねていたが、助三郎は二人の仲をねたむ男に騙され溺れ死ぬ。その直後、男は鍋乃に言い寄るが、鍋乃は拒んで海に身投げし助三郎の後を追う――。いま、見附海岸~恋路海岸の一帯は「えんむすびーち」「恋人たちの聖地」と呼ばれてカップルに人気があるそうだ。

 

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<奥能登探訪㊥> 壮観!日本海になだれ込む幾何学模様の棚田

2017年09月13日 | 旅・想い出写真館

【輪島名物の朝市、名舟御陣乗太鼓、黒島伝建保存地区…】

 輪島市街地から車で国道249号を東進すると15分ほどで白米(しろよね)千枚田に着く。奥能登を代表する観光名所だ。「千枚田ポケットパーク」から眼下を望むと、黄金色に輝く階段状の棚田が青い日本海の波打ち際まで続いていた。全国棚田100選の一つで、国指定の名勝でもある。2011年にはこの千枚田を含む「能登の里山里海」が国連食糧農業機関(FAO)から世界農業遺産に認定された。

 棚田は全部で1004枚あるという。山裾の急斜面の地形をそのまま生かしているため、水田は形も広さも様々。中には下の写真㊧のような小さな箇所もあった。これだけの棚田を地元の農家だけで耕作し管理していくのはなかなか容易ではない。そこで棚田オーナー制度を設けたり多くのボランティアの支援を受けたりしている。訪ねたのは刈り取り直前の絶好のタイミングで、棚田の上の方では既に一部刈り入れが始まっていた。10月8日~来年3月11日にはライトアップ「あぜのきらめき」と銘打ち、日没後、畦道に設置した約2万個のLED電球を自動点灯させるそうだ。

 

 輪島といえば朝市も有名。高山、呼子(佐賀県)とともに日本三大朝市ともいわれる。中心商店街の本町通り(約350m)に、多いときには200店を超える露店が並ぶ。開店時間は午前8時から正午まで。新鮮な鮮魚や野菜のほか手作りの草履や民芸品などを扱う店も多い。通りの一角には「炭火コーナー」があり、買ったばかりの魚貝類を早速自ら焼いて味わう観光客の姿も目立った。

 

 かつて輪島への公共交通機関はのと鉄道輪島線だったが、2001年に廃線となった。旧輪島駅の駅舎跡は「輪島ふらっと訪夢」としてバス・タクシーの交通ターミナルや交流施設、道の駅輪島として活用されている。プラットホームや線路の一部が保存されており、行き先案内では次が「シベリア」となっていた。朝市からこの駅舎跡に向かう途中、河井小学校の運動場脇にある桜の木の下の「日本海と太平洋をさくらでつなごう」と文字が目を引いた。もしかしたら桜の植樹に生涯を捧げたバスの車掌佐藤さんゆかりの桜では……。そばに寄って確かめるとやっぱりそうだった。「佐藤良二さん(岐阜県)から贈られたさくら(左右の二本)」「昭和49年十月二十九日植樹」と書かれていた。佐藤さんが植樹に努めたのは乗務していたバスの沿線、名古屋~金沢間とばかり思っていたが、奥能登の輪島まで足を運んでいたのだ。

 

 輪島近辺では御陣乗太鼓の発祥地名舟や重要伝統的建造物群保存地区の黒島地区(船主集落)、1枚岩の真ん中に直径2mほどの穴が開いた窓岩なども巡った。御陣乗太鼓の起こりは約440年前、攻め入ってきた越後の上杉謙信勢を、村人が樹の皮で作った仮面と海藻を被った異様な姿で太鼓を打ち鳴らし退散させたこと。以来「名舟大祭」では神輿渡御の先導役を務めている。黒島地区(下の写真㊨)は江戸時代、北前船の回船業で栄え、板張りの外壁や格子、黒い釉薬瓦などが往時の繁栄ぶりをしのばせる。能登半島地震で大きな被害を受けたが、地元住民が団結して町並み再生に取り組み、地震から2年後の2009年に伝建地区に選定された。

  

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<奥能登探訪㊤> にぎわう珠洲市の「国際芸術祭2017」

2017年09月12日 | 旅・想い出写真館

【11カ国・地域から39組の現代美術作家が参加】

 能登半島の先端に位置する石川県珠洲市で「奥能登国際芸術祭2017」が始まった。会期は9月3日から10月22日までの50日間。11カ国・地域から39組のアーティストが参加し、市内10地区の会場に力作を出品している。会期中初の日曜日となった10日には、全ての作品を鑑賞できるパスポート(一般2500円)を手に会場を巡る観客らでにぎわっていた(一部屋外展示作品などは無料)。下の写真は小山真徳さんの『最涯(さいはて)の漂着神』

 この芸術祭の総合ディレクターは「瀬戸内国際芸術祭」などでも手腕を発揮している北川フラム氏。「国内外から参加するアーティストと奥能登珠洲に眠るポテンシャルを掘り起こし、日本の〝最涯(さいはて)〟から〝最先端〟の文化を創造する試み」として企画した。2005年に廃船になった「のと鉄道能登線」の旧駅舎や人口減で廃校や廃館になった小中学校、公民館、保育所、映画館、銭湯、市内各地の海岸、バス停などが会場になっている。

 

 能登半島の海岸線には朝鮮半島や中国など内外から様々な漂着物が流れ着く。海岸の展示作品にはそんな漂着物をテーマや素材に選んだ作品が目立つ。小山真徳さんの作品『最涯の漂着神』は難破船と鯨の骨を組み合わせたような作品。珠洲では鯨や難破船などの漂着物を、漁村に幸いをもたらす「エビス」として祀る神社が多く残ることにヒントを得たという。深澤孝史さんの『神話の続き』(上の写真㊧)は漂着したポリ容器などを素材とし砂浜に大きな白塗りの鳥居を築いた。リュウ・ジャンファさん(中国)の『Drifting Landscape』(写真㊨)は景徳鎮と珠洲焼の陶器の破片を、景勝地の見附島(軍艦島)を望む波打ち際にずらりと並べた。

 

 トビアス・レーベルガーさん(ドイツ)の『なにか他にできる』(上の写真2枚)は旧蛸島駅に近い小高い場所に置かれた鋼鉄製のカラフルな作品。その奥に設置された望遠鏡を覗くと、廃線となった線路の先に「Something  Else  is  Possible」という派手なネオンサインのようなものが見えた。廃線などで置き去りにされたこの地域への励ましと将来への明るい可能性を示唆しているように思えた。レーベルガーさんは2009年ヴェネチア・ビエンナーレの金獅子賞受賞者。

 

 村尾かずこさんの『サザエハウス』(上の写真㊧)は浜辺の船小屋の壁に無数のサザエの殻を張り付け、中に入ると真っ白で殻の内部を模して螺旋状になっていた。村尾さんはフレスコ画を通じて左官の仕事を学んだという。使った殻はおよそ2万個に上るそうだ。アレクサンドル・コンスタンチーノフさん(ロシア)の作品『珠洲海道五十三次』(写真㊨)は市内4カ所のバス停の待合所をアルミパイプなどで包み込んだ。

 

 古い銭湯を会場として使った麻生祥子さんの『信心のかたち』(上の写真㊧)は高い所から5分おきに泡があふれ出しては消えながら大きな泡の山を築く。泡を通して能登の人々の目に見えない信心の形を表現したという。その隣にある井上唯さんの作品『into the rain』(写真㊨)はあらゆる生命の源である水のしずくが滴り落ち、波紋となって広がる様を表現した。自ら染色したとのこと。涼しげな大きな蚊帳のようで、中に入って寝転び見上げることもできた。

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<安芸の小京都・竹原> 重厚な町家の中にモダンな洋館

2017年08月15日 | 旅・想い出写真館

 白壁の町柳井を後に、周防大島、宮島を経由して竹原へ。周防大島は瀬戸内海にある島では淡路島、小豆島に次ぐ大きさで〝瀬戸内のハワイ〟を標榜している。柳井には歌謡歌手松島詩子の記念館があったが、この島には作詞家星野哲郎の記念館があった。〝安芸の小京都〟といわれる竹原は江戸前期に播州赤穂から製塩技術を導入し製塩業で栄えた。風格のある商家の町並みが往時の繁栄ぶりを物語る。その本町通り一帯は国の重要伝統的建造物群保存地区。

 竹原はNHK連続テレビ小説「マッサン」のモデル、竹鶴政孝(ニッカウヰスキー創業者)の生まれ故郷。生家の「小笹屋 竹鶴酒造」(写真㊧)は江戸中期から塩造りに加え酒造りも始め、今も奥の酒蔵で酒を造っているそうだ。近くの広場には「竹鶴政孝&リタ像」もあった。竹原は儒学者頼山陽(1780~1832)の故郷でもあり、頼一族の建物が今も多く残る。重厚な構えの頼惟清(これすが)旧宅は県指定の史跡。惟清は山陽の祖父で紺屋を営んでいた。叔父の屋敷「春風館」などもある。本川に架かる新港橋のたもとには山陽の大きな座像も立っていた。

 

 重厚な建物が多い中でひときわ目立つレトロな洋館があった。竹原市歴史民俗資料館(旧竹原町立竹原書院図書館)。訪ねたときには入り口に「台風接近に伴い臨時休館致します」というお知らせが掲げられていた。竹鶴邸と資料館の中ほどにある石段を上った所にあるのが西方寺の普明閣。小早川隆景が京都の清水寺を模して創建したといわれ、眼下に竹原の市街地を一望できた。(写真㊧は頼惟清旧宅)

 

【〝潮待ちの港〟として栄えた鞆の浦】

 沼隈半島の先端に位置する広島県福山市の鞆の浦。ここは瀬戸内海のほぼ中央に位置し、潮の干満の分岐点に当たる。潮流は6時間流れて3時間止まり、その後6時間逆に流れるという。このため鞆の浦は〝潮待ちの港〟として栄え、江戸時代には北前船が入港し、朝鮮通信使も毎回寄港したという。シンボルになっている常夜灯は花崗岩製で約160年前の1859年(安政6年)に造られた。

 

 常夜灯に通じる石畳の路地の両側には、江戸時代や明治時代に建てられた白壁や虫籠窓の町家が軒を連ねる。その一つに「重要文化財 太田家住宅」「広島県史跡 鞆七卿落遺跡」という木製看板が掲げられていた(写真㊧)。幕末動乱期の1863年、公武合体派に追われ都落ちした三条実美(さねとみ)ら公卿7人が長州に下る途中に立ち寄った旧「保命酒屋」。保命酒は鞆の浦特産の滋養薬味酒で、醸造元や販売店をあちこちで見掛けた。古い町並みを歩きながら、景観保護と交通渋滞解消の両立の難しさも痛感した。

 

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<柳井市古市・金屋> 約200mにわたって白壁の商家の家並み

2017年08月14日 | 旅・想い出写真館

 JR柳井駅(山口県柳井市)前の麗都路(レトロ)通りを北に進み柳井川を越えると、東西に白壁の町並みが広がる。国選定重要伝統的建造物群保存地区の「古市・金屋地区」だ。港町柳井は江戸時代、商業地として栄え岩国藩の御納戸(おなんど)と呼ばれた。この白壁通りを、産物を満載した大八車が行きかいにぎわったという。通りを散策していると、往時の繁栄ぶりが目に浮かぶようだった。

 白壁通りには「甘露醤油」を扱う店があり、製造過程を見学できる資料館(写真㊧)まであった。柳井名物という甘露醤油とは? 案内板によると、1780年代に当地の醸造家が造った芳香・美味な醤油を時の藩主に献上したところ「甘露、甘露」と賞賛されたのがその名の由来とか。1本買い求めようとある店に入ると、店内に「金魚ちょうちん」が泳いでいた。聞けば、8月13日の「第26回金魚ちょうちん祭り」を前に通りに飾っていたが、台風5号の接近で急遽〝避難〟させるよう連絡があったという。祭りでは約2000個の金魚ちょうちんが灯され、巨大な金魚ねぶたの総回しや金魚ちょうちん踊りなどもあるとのこと。昨日はさぞにぎわったことだろう。

 

 通りを歩いていてもう一つ目に飛び込んできたのが「かにが路上を横切ります 人も車もご注意を」という立て看板。2カ所に立っていた。えっ、本当に? 足元を注意していると、車に引かれたのか、ぺちゃんこになって成仏したカニがいた。そして、その先の狭い水路を覗き込んでいると……。いた! 石の隙間から顔を出したのはなんと、立派な赤い手を持つ「アカテガニ」だった。

 

【防府天満宮、春風楼、周防国分寺……】

 白壁の町柳井を訪れる前に、防府天満宮や周防国分寺を訪ねた。菅原道真を祀った神社は全国に約1万2000社あるそうだが、日本で最初に創建された天神さまがこの防府天満宮という。日本三大天神の一つ。「裸坊祭」として有名な御神幸祭(11月第4土曜日)は1004年、防府に遣わされた勅使が道真の御霊に一条天皇からの「無実の知らせ」を奏上したのに由来する。境内の一角にある「春風楼」(写真㊨)は1873年(明治6年)に完成した二層の楼閣洋式の建物。元々は1822年に五重塔として建設が始まったが藩の財政難により中断、後に五重塔の一層部分の組み物を床下に組み入れる形で建設した。石段を上ると、眼下に防府の市街地を一望できた。

 

 天満宮の参道脇にある防府市観光協会に「世界お笑い協会」という大きな看板が掲げられていた。なんともユニークな名前。立ち止まって見ていると、職員が資料を持って来てくれた。市内の小俣地区には鎌倉時代から天下の奇祭と有名な「笑い講」が伝わる。この笑いの文化を広げようと5年前に協会を設立したという。以来、地元の高校などと連携し「お笑い講世界選手権大会」、健康のための「お笑い体操」などに取り組んでいるそうだ。周防国分寺は創建時の寺域をほぼ維持しており国の史跡になっている。金堂(写真㊨)は萩藩7代藩主毛利重就(しげたか)によって再建された。国分寺の中で大規模な金堂が残っているのも珍しい。

 

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<津和野~萩> 掘割を泳ぐ錦鯉に心が和む津和野・殿町

2017年08月13日 | 旅・想い出写真館

 島根県西部の山あいにある〝山陰の小京都〟津和野町。最後に訪ねたのはもう二十年以上前になるが、落ち着いた佇まいの町並みは以前と変わらず、今回も殿町通りの掘割を泳ぐ色とりどりの錦鯉が出迎えてくれた。殿町には家老多胡家や大岡家の武家屋敷門、藩校養老館、津和野カトリック教会など味わいのある建物が並ぶ。

 養老館(県史跡)は1786年の創設。1853年の大火で焼失したが、55年に現在地で再建され、廃校となる72年(明治5年)まで続いた。この間、森鷗外や西周(近代日本哲学の祖)、山辺丈夫(日本近代紡績業の父)らが学んだ。ただ、建物の老朽化に伴って今は全面解体工事で休館中だった。津和野の町並みを望む高台に「日本五大稲荷」の一つに数えられる太鼓谷稲成神社が鎮座する。1773年に時の藩主が京都の伏見稲荷を勧請したのが始まりで、島根県内では出雲大社に次いで初詣客が多いという。朱色の社殿が目にまぶしい。表参道には奉納された鳥居約1000本が林立する。(下の写真㊧筆頭家老多胡家表門、㊨大岡家老門)

 

 今年は津和野に亀井氏が入城してちょうど400年目の節目。これに合わせ様々な記念イベントが開かれる。稲成神社宝物殿・亀井温故館・津和野町郷土館の3館連携特別展「津和野藩主亀井家の400年」(~11月12日)や津和野踊り伝来400年記念盆踊り(8月15日)をはじめ、記念式典・講演会、亀井氏入城ウォーク、3団体共演の津和野奴道中などを予定している。(下の写真㊧太鼓谷稲成神社、㊨神社境内から望む津和野の町並み)

 

【萩市の伝建地区は4カ所、京都、金沢と並んで全国最多】

 山口県萩市には国選定重要伝統的建造物群保存地区が4カ所ある。武家町の堀内と平安古(ひやこ)、港町の浜崎、そして6年前に選定されたばかりの佐々並市(ささなみいち)。伝建地区4カ所は京都市、金沢市と並んで全国で最も多い。堀内地区には以前訪れたときにはなかった「萩城跡外堀 北の総門」が復元されていた(写真㊨)。北の総門は3カ所あった三の丸(堀内)に入る総門の一つ。

 

 佐々並市地区は萩市街の南東約15キロに位置する。1604年萩に入府した毛利輝元が整備した瀬戸内側と結ぶ萩往還(約53キロ)の沿線上にあり、かつては宿場町として栄えた。写真㊧は人馬やかごの調達などをする「目代所」があった場所に、明治時代に建てられた町家「旧小林家住宅」。萩市街の吉田松陰の誕生地・墓に程近い東光寺(写真㊨)は1691年創建の黄檗宗の名刹で、毛利家の菩提寺。総門には1693年の開山慧極(えごく)筆「護国山」の扁額が掲げられている。8月15日の「萩・万灯会」では約500基の石灯籠に灯が入る。

 

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<松江城> 国宝指定から2年余、年間登閣者50万人突破!

2017年08月12日 | 旅・想い出写真館

【出雲大社から日御碕灯台、ゆうひライン石見へ】

 松江城の天守閣が重要文化財から国宝になったのは2年前の2015年7月。その〝格上げ効果〟は絶大で、15年の登閣者数は前年を3割以上も上回り、16年には約52万人と初めて50万人を突破した。松江城は1611年に松江開府の祖、堀尾吉晴と孫の2代藩主忠晴によって築かれた。石垣にもその堀尾家の家紋である分銅の形が刻まれた巨石があった。白壁の姫路城が白鷺城と呼ばれるのに対し、木造黒塗りの松江城は千鳥城の別称を持つ。

 しゃちほこは高さ2.08mの木彫銅張り。現存する木造のものでは最大という。5層のうち3層の中央に寺院洋式の「華頭窓(かとうまど)」が設けられ、天守入り口の防備を強固にするため「附櫓(つけやぐら)」があることなども松江城の特徴。城内にある洋風建築「興雲閣」は1903年に松江市工芸品陳列所として建てられたが、本来の目的は明治天皇行幸の行在所として使うことだった。行幸は実現しなかったが、4年後、皇太子(後の大正天皇)と乃木希典学習院院長一行が宿泊されたという。

  

 城の堀のそばにある「松江歴史館」は松江藩政下の文化や暮らしを紹介する観光拠点として2011年春にオープンした。来場者の目を引くのが館内の一角にある「喫茶きはる」の店頭を飾る華麗な工芸菓子2点。店主で「現代の名工」でもある和菓子職人、伊丹二夫(つぎお)さん(下の写真㊨)が2年がかりで作ったそうだ。今まさに飛び立ちそうな白鷲、ボタンやツバキなど色艶やかな花……。使った材料は和菓子づくりに使う砂糖だけという。本物と見まがうような質感に、しばし見入ってしまった。

  

 出雲大社では2013年に「平成の大遷宮」の主要行事が執り行われた。大国主命が祀られる本殿はもちろん国宝。現在の高さは約24mだが、かつては今の2倍の約48m、あるいはその倍の約98mあったという言い伝えも。平安時代の貴族子弟向けの教科書『口遊(くちずさみ)』は大きな建物の順に「雲太、和二、三京(うんた、わに、きょうさん)」と記す。1位出雲大社、2位東大寺大仏殿、3位平安京大極殿というわけだ。2000年には境内の地下から直径1.35mの杉の巨木を3本束ねた柱が見つかった。今後の調査が注目される。

 

 島根半島の西端に立つ白亜の日御碕灯台は「世界灯台100選」の1つに選ばれている。高さは日本一の43.65m、夜間に光は約39キロ先まで届くという。そばにある日御碕神社は徳川3代将軍家光の命により造営された。朱塗りの社殿は国の重要文化財。島根県西部を走る国道9号などは夕日が美しいことから「ゆうひライン石見」と呼ばれる。8月5日にはちょうど浜田漁港周辺で「石州浜っ子夏まつり」が開かれていた。高台にある道の駅「ゆうひパーク浜田」から、日本海に沈む夕日と打ち上げ花火を楽しむことができた。

 

 

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<倉吉白壁土蔵のまち> 風情あふれる土蔵と石橋と石州瓦

2017年08月11日 | 旅・想い出写真館

【地元出身の英雄、横綱琴櫻の銅像も】

 「山口ちょうちんまつり」見物を機に、車で中国地方を5泊6日で1周した。京都で国道9号に入って鳥取、島根、山口を巡り、帰りは国道2号や188号、250号などを使って広島、岡山、神戸と時計回りに。初日は鳥取の浦富海岸や砂丘、伯耆(ほうき)一ノ宮倭文(しとり)神社などを回った後、倉吉市打吹(うつぶき)玉川地区の白壁土蔵群を訪ねた。

 鳥取県のほぼ中央に位置する倉吉は打吹城の城下町で、江戸時代には商都としても栄えた。今も旧市街地の本町通りと玉川周辺には江戸末期から明治時代にかけて建てられた土蔵群が残る。一帯は国選定の伝統的建造物群保存地区。玉川には鯉が泳ぎ、いくつもの石橋が架かる。屋根は赤褐色の石州瓦。造り酒屋や醤油屋、町家などを改造した建物は「赤瓦○号館」と命名され、1号館から16号館まである。京風建築の6号館「桑田醤油醸造場」(明治9年創業)は県指定保護文化財。

  

 倉吉市は「緑の彫刻プロムナード」と銘打って市民の散歩道に個性豊かな彫刻を配置している。伝建保存地区の一角にある「ひとまちひろば」にも犬の彫刻がベンチにねそべっていた。制作者は奈良県のマスコットキャラクター「せんとくん」の作者としても知られる籔内佐斗司氏。白壁土蔵群を南に下ると、倉吉市役所前の県道38号に出る。その交差点に「琴櫻顕彰碑」が立っていた。琴櫻(1940~2007)は地元出身の第53代横綱。押し相撲を得意として「猛牛」の異名を取り、現役引退後は佐渡ケ嶽親方として琴風や琴ノ若、琴欧洲ら多くの関取を育てた。幕内最高優勝5回。白壁土蔵群の一角には化粧回しや優勝額などゆかりの品々を展示した「琴櫻記念館」もある。

  

 倉吉を訪ねる前に鳥取県で最初に向かったのは山陰海岸ジオパークの浦富海岸(岩美町)。海水浴場には「全国ベスト5認定 環境省・水質調査」という案内板が立っていた。鳥取砂丘ではラクダのライド体験に家族連れが列を作っていた。砂丘を出て西に行くと、神話「因幡の白うさぎ」で有名な白兎海岸。その近くに国指定天然記念物の「ハマナス自生南限地帯」があった。ハマナスは高さ1mほどのバラ科の落葉低木。花期は5~6月頃で、この時期には色鮮やかな橙色の果実をたくさん付けていた。

  

 伯耆一ノ宮倭文(しとり)神社(湯梨浜町)は東郷湖に近く、御冠山の中腹に鎮座する。この地の主産業が日本古来の織物「倭文織(しずおり)」だったことから、倭文部(しとりべ)の祖神建葉槌命(たてはづちのみこと)を主神として祀る。平安後期に銅経筒や金銅観音菩薩立像(白鳳時代)などが埋納された経塚は国指定史跡。東郷湖は汽水湖で、湖畔には東郷温泉、はわい温泉がある。湖の中央付近の湖底からも温泉が湧いているそうだ。

 

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<水郷柳川> どんこ舟に揺られ詩情豊かな川下り

2017年07月29日 | 旅・想い出写真館

【北原白秋生家、柳川藩主立花邸「御花」…】

 柳川藩の城下町として栄えた柳川(福岡県柳川市)は水郷の町として知られる。2年前の2015年3月には川下りコースが「水郷(すいきょう)柳河」として国の名勝に指定された。「御花(おはな)」の名で親しまれている柳川藩主立花邸も「立花氏庭園」として国指定の名勝。近代日本の〝詩聖〟北原白秋の生家は柳川地方で一、二を競う造り酒屋だったという。この生家は県指定の文化財史跡。市内には白秋をはじめ高浜虚子、檀一雄らの詩碑・歌碑なども多く、これらの碑を巡る文学ファンも多いそうだ。

 

 

(写真上段=㊧北原白秋生家、㊨立花氏庭園「西洋館」、下段=㊧立花氏庭園「松濤園」、㊨川下りで最も狭くて低い橋の下を通るどんこ舟)

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<錦秋の有馬温泉> 関西屈指の紅葉の名所「瑞宝寺公園」

2016年11月22日 | 旅・想い出写真館

【秀吉お気に入りの〝日暮らしの庭〟、愛用の「石の碁盤」も】

 国内最古の温泉ともいわれる有馬温泉(神戸市北区)で1泊2日の同窓会。関東や九州方面から懐かしい面々が2年ぶりに集う。20日早めに有馬入りし、下見のため関西屈指の紅葉の名所といわれる瑞宝寺公園へ。モミジは盛りをやや過ぎていたが、それでも多くの観光客でにぎわっていた。湯治のため度々有馬を訪れた豊臣秀吉は、ここの紅葉を「いくら見ていても飽きない」と褒めたたえて終日を過ごしたとか。そこから〝日暮らしの庭〟とも呼ばれている。

 瑞宝寺公園には太閤秀吉が愛用したといわれる「石の碁盤」(下の写真㊧)や伏見城から移築したという旧瑞宝寺の山門も残る(瑞宝寺は1873年に廃寺)。茶頭の千利休を引き連れて度々茶会も催したそうだ。この公園など温泉街では有馬をこよなく愛した秀吉を偲んで毎秋11月2~3日「豊公を偲ぶ有馬大茶会」が開かれ、多くの茶道愛好家が集う。1950年に始まって今年で67回目。さらに、公園を訪ねた20日も野点を気軽に楽しんでもらおうと「もみじ茶会」を開催中で、和装の女性たちがお茶をたてていた。

 

 有馬の湯が広く世に知られるようになったのは奈良時代に僧行基が温泉寺を建立したのがきっかけ。温泉街の一角にその行基像が立つ(下の写真㊧)。鎌倉時代に入ると仁西上人が12の宿坊を設けたことから湯治場としての名声が一気に広まり、その後、秀吉は有馬に「湯山御殿」を建てた。その御殿も徳川時代になると取り壊されて、跡地に浄土宗の念仏寺、極楽寺(下の写真㊨)が建てられた。念仏寺がある場所には秀吉の正室ねねの別邸があったと伝えられている。

 

 

 「湯山御殿」の存在が再び脚光を浴びるのは1995年の阪神大震災後。震災で壊れた極楽寺の庫裏を再建するため発掘調査を行ったところ遺構の一部が見つかった。その場所にはいま「神戸市立太閤の湯殿館」がある(上の写真㊧)。岩風呂(㊨)や半地下式の蒸し風呂の遺構、出土した瓦や茶器などの陶磁器類(下の写真㊧)が展示されている。温泉街には他にも秀吉に因むものが多い。有馬川には赤い欄干の「太閤橋」と「ねね橋」が架かり、その間の親水公園の中には秀吉の馬印「千成瓢箪」のような模様も。ねね橋のそばには「ねね像」が立つ。真っ赤なモミジが映えるその像の前は絶好の紅葉撮影ポイントにもなっていた。

 

 

 同窓会は半年前に予約しておいたホテル側(兵衛向陽閣)の見事な会場設営や美味な料理、瑞宝寺公園への送迎などきめの細かい配慮もあって無事に終了。参加者は翌日、一緒にロープウエー・バス・ケーブルカーを乗り継ぎながら六甲の紅葉を堪能した後、それぞれ帰途に就いた。その翌日、参加者の一人から「同窓会も有馬も六甲もみんな良かったです」とのメールをもらった。遠路各地から集まってくれた参加者に満足してもらえたのがなによりも嬉しかった。

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<高野山> 壇上伽藍を彩るモミジ 息をのむ美しさ! 

2016年11月15日 | 旅・想い出写真館

【金剛峯寺に至る〝蛇腹路〟はモミジのトンネルに】

 半年ぶりに高野山へ。900mの山上に広がる一大宗教都市の高野山は紅葉狩りの人気スポットでもある。例年、見頃の最盛期は10月下旬~11月上旬とのこと。だけど間に合った! 11月中旬に入ってイチョウの黄色い葉はかなり落ちていたが、紅や赤、橙色のモミジはまだ見頃で壇上伽藍に華やかな彩りを添えていた。

 壇上伽藍は奥之院とともに弘法大師(空海)が開いた真言密教の聖地。金堂や根本大塔などが威容を誇り、開創1200年に当たる2015年には中門が172年ぶりに再建された。色とりどりのモミジがこれらの壮麗な建造物や静かな佇まいの六角経蔵などを一層美しく引き立てていた。秋季企画展「『真田丸』の時代と高野山」を開催中の高野山霊宝館の周辺もモミジで明るく彩られていた。

 

 最大の見どころは壇上伽藍から高野山真言宗の総本山・金剛峯寺に向かって東に伸びる〝蛇腹路〟と呼ばれる参道。半年前の5月には瑞々しいモミジの若葉に覆われていたが、今は燃えるような赤いトンネルになっていた。空海は高野山の地形を「東西に龍の臥せるがごとく」と形容したという。壇上伽藍を龍の頭とすれば、この参道が龍の腹の部分に当たるとして蛇腹路と名付けられたのだろう。11月30日まで夕方5時以降ライトアップされているそうだ。まさに幻想的な光景に違いない。

 

 

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<綾の照葉樹林> 4年前 「ユネスコエコパーク」に、国内5カ所目の登録

2016年11月10日 | 旅・想い出写真館

【宮崎県中央部に位置、官民五者が保護・復元へ連携】

 宮崎県の中央部に位置する「綾の照葉樹林」は日本に残された最後の広大な照葉樹林といわれる。中心部の600haに周辺部も含め約2000ha(東京ドーム428個分)。綾川流域に光沢のある深緑色の常緑広葉樹の樹林帯が広がる。4年前の2012年には「綾ユネスコエコパーク」として登録された。国内でユネスコのエコパートに登録されたのは屋久島、大台ケ原・大峰山、白山、志賀高原に続いて5カ所目だ。 

 綾の照葉樹林は九州中央山地国定公園内にあり、林野庁の「水源の森百選」や「森林浴の森百選」に選ばれている。さらに「綾川湧水群」として環境省の「名水百選」にも。かつて各地にあった照葉樹林は開発やスギ・ヒノキの人工林の増加などで多くが失われた。しかし、ここではコナラ属やマテバシイ属などのブナ科をはじめクスノキ科、ハイノキ科、ヤブコウジ科などの多様な樹木が生え、原生的な景観を残している。綾の照葉樹林を構成する植物は実に263種に上り、このうち高木だけでも24種あるそうだ。綾の森には絶滅危惧種のイヌワシやクマタカ、特別天然記念物のニホンカモシカなど貴重な動物も生息する。

   

 シンボル的な存在が綾川渓谷に架かる全長250mの「綾の照葉大吊橋」。この橋の上からは照葉樹林を360度眺めることができる。橋のたもとには新しい石碑の横に「歩く吊橋 世界一」と刻まれた石碑もあった。今の吊橋は5年前の完成だが、それまであった吊橋は1984~2006年の間、人道吊橋として世界一の規模を誇ったという。古い石碑はその名残で、「架橋に込めた当時の意志を後世に伝えるため『世界一』の碑をそのまま残しています」という説明が添えられていた。 

 

 綾の照葉樹林は官民の連携によって保護されてきた。その核となっているのが九州森林管理局、宮崎県、綾町、日本自然保護協会、「てるはの森の会」の五者。この五者で連携会議を構成し、人工林から照葉樹林への復元や森林環境教育など「綾の照葉樹林プロジェクト」に取り組む。事務局を置く「てるはの森の会」(2005年設立、会員約170人)は観光客を案内するガイドボランティアも行っている。照葉樹林の復元は植栽するのではなく、スギやヒノキの間伐などによって林内に光を取り入れて照葉樹木の生育を促し、大きく育ったところで人工林を伐採するという。50年後、100年後を見据えた息の長い活動だ。ユネスコのエコパークとして登録されたのも、そうした地道な保護・復元への取り組みが評価されたという。

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