く~にゃん雑記帳

音楽やスポーツの感動、愉快なお話などを綴ります。旅や花の写真、お祭り、ピーターラビットの「く~にゃん物語」などもあるよ。

〈天理参考館〉 企画展「器にみるアンデス世界―ペルー南部地域編」

2024年04月21日 | 考古・歴史

【パラカス~ナスカ、インカの多彩な土器⋅木器を一堂に】

 世界の民俗資料と考古美術の博物館「天理大学付属天理参考館」(奈良県天理市)で企画展「器にみるアンデス世界―ペルー南部地域編」が始まった。3年前に開催した「ペルー北部地域編」の続編。ペルー南部からボリビアにかけて栄えた古代アンデス地域の土器や木器を、紀元前のパラカス文化からナスカ、インカ文化まで時代を追って紹介している。6月3日まで。

 パラカス文化は紀元前800年から紀元後100年頃にかけてペルー南海岸北部で栄えた。神や動物などを組み合わせた複雑なモチーフの織物が作られ、土器には幾何学文様や信仰の対象だったネコ科動物が多く描かれた。下の写真はパラカス前期の幾何学文皿。

 巨大な地上絵で知られるナスカ文化が栄えたのは紀元後100年頃から650年頃にかけて。土器のモチーフには陸上動物や魚類、海獣、栽培作物などが選ばれ、最盛期には10~12種もの顔料が使い分けられたという。

 写真㊤はナスカ前期の鳥が描かれた橋形把手付き双注口壷。鳥は猛禽類のオナガハヤブサと推定されている。写真㊦はナスカ後期の深鉢。胴の上部に海の最強の生き物シャチが擬人化されて大きく口を開き、中央と下部に女性の顔が描かれている。

 ボリビア~ペルー南部の高地では紀元後500年頃から1150年頃までティワナク文化が栄えた。一方、ペルー中央海岸北部では1000年頃から1470年頃にかけ、独自のチャンカイ文化が花開いた。チャンカイの土器は白い化粧土の上に黒色顔料で幾何学文様や動物⋅人物などを描いたのが特徴。写真は双耳壷。左側の把手基部にサルとみられる塑像が取り付けられている。

 

 15世紀半ばから16世紀前半にかけ勢力を拡大しアンデス一帯を支配下に治めたのがインカ帝国。広大な領域内はインカ道と呼ばれる道路網で結ばれ、様々な産物が運ばれた。インカの土器を代表するのが把手付きの皿。写真の皿には幾何学文様の両側にフクシアとみられる花の蜜を吸う鳥が描かれている。

 この企画展では真作の土器や木器に加え、「再生産、消費される古代文化」コーナーに贋作も展示。贋作の多くは当初、盗掘などで破損した部分を補修して完成品に見せかけていたが、1950年代以降はナスカ土器を中心に贋作が堂々と作り続けられているという。写真はいずれも贋作または部分的贋作と推定される壷。

 企画展会場では山形大学のナスカ研究所と付属博物館の協力で、ナスカの地上絵に関するパネルも展示中。山形大学が地上絵の分布調査を始めたのは20年前の2004年。12年には現地に研究所を設立し、これまでに新たに多くの地上絵を発見してきた。(MBS 毎日放送の番組案内によると、4月21日午後6時放送の世界遺産「空から迫る『ナスカ地上絵の秘密』」で山形大学新発見の地上絵も登場)

 地上絵があるのはペルーの南海岸から約50㎞内陸の砂漠台地(標高約500m)。砂礫層を掘ったり積んだりして様々な動植物などが描かれ、ユネスコの世界文化遺産になっている。その制作目的は? パネルによると、豊作を祈願するためという説が有力とのこと。長く残っているのは①極乾燥地で植物が生えない②風で礫(小石)が移動しない③流水の影響のない場所に描かれたーーなどによるそうだ。

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〈富雄丸山古墳〉 新たに木棺から3枚の青銅鏡!

2024年03月17日 | 考古・歴史

【被葬者の頭部分にリンを含む真っ赤な水銀朱】

 国内最大の古墳時代の円墳、奈良市の富雄丸山古墳(直径109m)で、埋葬施設の粘土槨内の木棺から副葬品の青銅鏡3枚が見つかり、奈良市教育委員会の埋蔵文化財調査センターが3月16日、発掘現場を一般公開した。

 木棺を粘土で覆ったこの粘土槨は昨年度の調査で北東側の造り出し部分から出土。被覆粘土の中から東アジア最長の「蛇行剣」とこれまで類例のない「鼉龍文(だりゅうもん)盾形銅鏡」が見つかった。このため未盗掘とみられる木棺内部の調査も大きな注目を集めていた。

 木棺の材質はコウヤマキで、幹を半分に割って内部をくりぬき、下半分を棺の身、上半分を蓋としていた。大きさは長さ5.6m、幅64~70㎝、厚さが約5㎝。内部は2枚の仕切り板で中央の主室と左右2つの副室の3つに区画され、木棺の両端は小口板で区切られていた。 

 銅鏡が見つかったのは被葬者の足側とみられる副室内の小口板のそば。鏡面を上向きに3枚重ねた状態で出土した。一番上の鏡は縁の断面から三角縁神獣鏡の可能性が高いという。今後慎重に取り出して鏡の種類や背面の文様などを調べる。

 被葬者が埋葬されていたとみられる主室(長さ2.4m)では、頭があったと想定される位置を中心に水銀朱を検出した。最も赤色の濃い部分には人骨に由来すると考えられる元素のリンを多く含んでいることも分かった。

 このほか被葬者の足側の仕切り板の近くから漆塗りの竹製の竪櫛(たてぐし)9点も出土した。ただ同時期の古墳時代前期後半(4世紀後半)の古墳と比べると、副葬品が少ないのが特徴。事前に出土した長大な蛇行剣と盾形銅鏡から、木棺内からも甲冑や武具など豪華な副葬品の発見が期待されていた。それだけに、やや期待外れだったことは否めない。

 では被葬者は誰だったのか。副葬品が鏡と櫛だけで、これらが化粧道具でありながら呪術にも利用されていたことから、奈良市埋蔵文化財調査センター所長の鐘方正樹さんはこう推測する。「墳頂部に眠る当時の支配者の兄が、祈祷⋅呪術で支えてくれた巫女の妹の魂を守るため、大切にしていた蛇行剣と盾形銅鏡を供えたのかもしれない」

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〈本薬師寺〉 南門の南東部から幅3.3mの石敷き!

2024年03月09日 | 考古・歴史

【巨大な礎石の抜き取り跡も発掘】

 奈良県橿原市の特別史跡「本薬師寺(もとやくしじ)跡」で、正門に当たる南門の南東部分から基壇の外周を巡る石敷きや南門の柱を支える礎石の抜き取り跡などが見つかった。発掘調査を担う橿原市文化財保存活用課が3月2日、現地(藤原京右京八条三坊)で見学会を開催、熱心な考古学ファンが説明者に次々と質問を繰り返していた。

 本薬師寺は680年に天武天皇が皇后(後の持統天皇)の病気平癒を祈って造営を発願し、天皇崩御後は持統天皇が継承し698年に完成した。710年の平城京遷都に伴って造営された奈良⋅西ノ京の薬師寺(平城薬師寺)の前身といわれる。伽藍配置もいわゆる「薬師寺式」と呼ばれ、金堂の南側に東西の両塔が並んでいた。本薬師寺は平安中期の11世紀まで存続したとみられている。

 今回の発掘調査で見つかった石敷きは幅が約3.3mで、20~30㎝大の石が南門南東の基壇の外周を直角に屈折する形で整然と敷き詰められていた。検出した石敷きの長さは約22m。この石敷きが南門の基壇全体をぐるりと囲んでいたとみられる。

 石敷き内には中央に南門の軒先から落ちる雨水を受ける石組みの溝が設けられていた。溝の幅は約60㎝で、深さは5~10㎝。南門南東部からは直径が2m近い礎石を抜き取った跡も見つかった。

 南門の規模は過去の発掘調査から東西約15m、南北約10mと推定されていたが、今回見つかった大きな礎石跡や、南東の隅柱から雨落ち溝までの距離が約4mもあることなどから、国家寺院の正面玄関にふさわしい壮大な建物だったことが改めて裏付けられた。

 その南門と北側の中門との間隔が平城薬師寺より約7m狭いことも新たに分かった。平城薬師寺の創建に関しては学界の一部に藤原京の本薬師寺の建物を移転した「移築説」もあるが、発掘調査による南門の構造や位置の違いは「新築説」の有力な補強材料にもなりそうだ。

 今回の調査では石敷きの外側から南門の屋根を葺いていたとみられる軒丸瓦や大きな平瓦なども出土し、数点が展示されていた。(下の写真は金堂跡と東塔跡の柱を支えた礎石) 

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<平城宮いざない館> 「アフター 発掘された日本列島2023」展

2024年02月04日 | 考古・歴史

【幻の都「西京」が地下に眠る大阪府八尾市の遺跡など】

 平城宮跡歴史公園(奈良市)の平城宮いざない館で「アフター 発掘された日本列島2023」展が開かれている。「発掘された日本列島」展は文化庁が最新の遺跡発掘の成果を広く紹介しようと1995年度にスタートし、以来、毎年全国5カ所ほどを巡回してきた。ただ23年度は文化庁の京都移転が重なったため山梨と長崎の2カ所に絞って開催し、そのダイジェスト版を「アフター展」として奈良で開いているもの。会期は2月12日まで。

 展示は大きく「我がまちが誇る遺跡」と「新発見考古速報」の2本立て。「我がまち」では奈良時代後半に称徳天皇と僧の道鏡が新しい都として造営を進めた「西京」が地下に眠る大阪府八尾市の遺跡など3カ所を取り上げている。道鏡はヤマト王権の軍事・祭祀を担った古代氏族物部氏一族の弓削氏出身。ゆかりの弓削の里一帯には古代寺院の由義寺(ゆげでら)跡や久宝寺遺跡、渋川廃寺、高安千塚古墳群など道鏡や物部氏に関わる遺跡が多く残る。

 同展ではこれらの遺跡からの出土品をパネルとともに展示中。高安古墳群のうち横穴式石室の大石古墳からは口縁にミニチュアの壷や鳥を配した豪華な須恵器の装飾器台なども見つかっている。久宝寺遺跡からは大型掘っ立て柱の建物群の跡が出土した。物部氏の居館跡ではないかといわれている。また7世紀前半創建と推定される渋川廃寺も物部氏との関係が指摘される。

 由義寺は長く幻の寺といわれていたが、2017年に一辺約21.6mの大規模な塔の基壇が見つかり、その実在が確認された。塔は全国各地に建てられた国分寺の塔と同様、七重塔だった可能性も。跡地は翌年、国の史跡に指定された。その北東側からは都造りが進められていたことを示す水路や船着場なども確認されている。「西京」の造営は蘇我氏との戦いに敗れた物部氏の復権という願いも込められていたのだろう。だが、その都造りも770年、称徳天皇の崩御に伴って中止され、下野薬師寺(埼玉県)に放逐された道鏡も2年後に没した。

(弓削道鏡といえば、つい頭をよぎるのが極悪人説とともに“巨根伝説”。平安初期の説話集『日本霊異記』などで広がった。髙樹のぶ子の小説『明日香さん霊異記』の中にも「道鏡みたいに、精力絶倫が明日香ちゃんのお好みなんか……トホホ」といったくだりも。巷では「道鏡は座ると膝が三つでき」という川柳も詠まれた。ただ、あくまで創作ともいわれる。海音寺潮五郎は「(中国の歴史書)『史記』の呂不韋列伝にある宦官と始皇帝の母后の話が原型」と唱えた。つい最近、秦の始皇帝とその母と野心家の商人・呂不韋の3人を中心とする壮大な中国宮廷ドラマ「コウラン伝 始皇帝の母」(62話)を全巻視聴したばかり。展示コーナーを見ているうち、そんなことが次々に思い浮かんできた)

 「我が町が誇る遺跡」では全国屈指の貝塚密集地域・宮城県の仙台湾周辺の遺跡と、日本の窯業生産の発祥の地・猿投窯など名古屋市の遺跡も取り上げている。仙台湾の中にある里浜遺跡(東松山市)は日本最大級の貝塚。南境貝塚や沼津貝塚(ともに石巻市)などとともに土器や石器、骨角器などの出土品を展示中(上の写真)。猿投窯では古墳時代中期の5世紀初頭から須恵器づくりが始まり、鎌倉時代まで陶磁器の生産が続いて、その技術は常滑窯、瀬戸窯など各地の“六古窯”に引き継がれた。

 「新発見考古速報」では全国最多の子持勾玉(こもちまがたま)45点が出土した北大竹遺跡(埼玉県行田市)や、最新の調査で墳長が270~280mで佐紀山古墳群の中で最大と分かったウワナベ古墳(奈良市)、これまで存在が知られていなかった3基の円墳が見つかった下里見天神前遺跡(群馬県高崎市)など全国各地の遺跡を紹介している。(写真は下里見天神前遺跡の円墳の周溝から出土した馬形埴輪)

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<奈良市教委・史料保存館> 企画展示「日新記聞が伝える明治の奈良町」

2023年11月28日 | 考古・歴史

【明治初期に発行された奈良県初の新聞】

 奈良市教育委員会の「史料保存館」(奈良市脇戸町)で、企画展示「日新記聞が伝える明治の奈良町」が開かれている。日新記聞は1872年(明治5年)3月から73年(同6年)11月まで発行された小冊子で、奈良県下初の新聞といわれる。発行期間は2年弱と短いものの、記事内容から“文明開化”に邁進する当時の様子が空気感とともに伝わってきた。

 発行元は金沢昇平(1827~93)らが設立した「日新報社」(後に「日新社」に改名)。記聞は縦22cm、横15cmの木版刷りで、発行は月3回だった。ページ数は概ね16ページ。第1号では役人が皆散髪して刀を持たず、洋服で靴のまま出入りしているなど、新しい奈良県庁内の様子を描写している。県は明治政府の「散髪脱刀令」を受け1872年秋、髪を剃らず帽子を被るよう布達「措髪戴帽の奨励」を出した。12号には洋髪散髪店の広告も掲載されている。

 ただ当時は相変わらず「月代(さかやき)」(半髪剃頭、ちょんまげ)をする人も多かった。そんな中、角振町の町民36人が県の説諭に応じて「半髪剃頭は一切いたしません」と連署した「半髪剃頭連印帳」(1873年8月)を作成した。参考文献として、その連印帳(角振町自治会の寄託史料)も展示している。

 記聞には▽人力車の出現でそれを職業にする者が増え、子どもたちも猿沢池を一周するのを楽しみにしている▽奈良県が若草山に牧場を開き乳牛を飼い始めた▽牛乳は子どもの内臓の弱りを補い、大人は肌が潤い、血液は増え、疲れや冷えなどの症状も治す▽近年肉食が盛んになって肉店の開店が相次いでいる――といった記事も見える。

 第9号には東大寺・正倉院宝物の図を掲載。正倉院では文部省が1872年8月に行った文化財調査(壬申の検査)の一環として、明治になって初の開封・調査が実施された。掲載の図はその時に行われた宝物の模写を元にしているとみられる。この時の調査が、1875年の第一次奈良博覧会での正倉院宝物約220点の出品につながった。第12号には政府の「神仏分離令」に伴う興福寺の廃寺に関する記事を掲載している。

 史料館では同時にならまち歳時記「春日若宮おん祭」の特別陳列と、館蔵史料「奈良暦」の特別公開も開催中。会期はいずれも12月17日まで。

 おん祭は1136年(保延2年)に天下泰平、五穀豊穣を祈って始まった大和最大の祭礼。今年12月で888回目を迎える。主な展示史料は江戸時代の「春日大宮若宮御祭礼図」「春日社若宮祭図解」「大和名所図会」など。御祭礼図は1730年(享保15年)の発行以降繰り返し再版されてきた。大宿所祭の図には巫女による湯立て(写真中央)やキジ・ウサギなど“懸け鳥”と呼ばれる供え物(右上)などが詳細に描かれている。

 「奈良暦」のコーナーには江戸時代後半に作成された綴暦(とじごよみ)が並ぶ。江戸時代、暦の作成は江戸・伊勢・三島・奈良・金沢・京都の6カ所に限られた。奈良では幕府の天文方で作成した暦の写本暦が奈良奉行所を通じて下げ渡され、それを元に版を作成し発行許可を得て10~11月に印刷した。販売・配布の権利を持つのは陰陽師(おんみょうじ)で、奈良陰陽町には江戸中期、陰陽師が十数軒あったそうだ。

 展示中の1868年(慶応4年)の暦には1月3~4日の上の余白部分に、鳥羽伏見の戦いについてこんな書き込みがあった。「伏見ニ会津薩州会大砲打合同所火」「上様京橋ヨリ舟候」。この戦いと将軍徳川慶喜の脱出劇は庶民にとっても衝撃的なニュースだったに違いない。1854年(嘉永7年)の暦には11月初め大地震があり、大阪では津波で多くの人が亡くなったと記されている。明治時代に入ると、暦類の出版が自由になったことから暦入り引き札(広告のチラシ)が盛んに発行されるようになった。

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<飛鳥宮跡> 舒明天皇の「岡本宮」の遺構?出土! 

2023年11月26日 | 考古・歴史

【延長35mの掘立柱塀の柱穴列、現地説明会を開催】

 飛鳥時代の宮殿遺跡「飛鳥宮跡」(国史跡)の発掘調査で、舒明天皇の飛鳥岡本宮の遺構とみられる掘立柱塀の柱穴列が見つかった。飛鳥宮跡には天皇の代替わりのたびに宮殿が造営された。ただ初期の遺構は下層に埋もれているため検出例はこれまで極めて断片的で、今回のようにまとまった形で区画施設が出土したのは初めて。奈良県立橿原考古学研究所が11月25~26日、現地説明会を開いた。

 飛鳥宮跡の宮殿遺構は大きくⅠ~Ⅲ期の3つの時期に分けられる。Ⅰ期の遺構は舒明天皇の飛鳥岡本宮、Ⅱ期は皇極天皇の飛鳥板蓋宮(いたぶきのみや)。Ⅲ期遺構は前半のA期と後半のB期に分けられ、A期が斉明天皇・天智天皇の後飛鳥岡本宮、B期が天武・持統天皇の飛鳥浄御原宮(きよみはらのみや)と考えられている。

 今回の発掘調査(飛鳥京跡第190次調査)の対象地域はⅢ期遺構の内郭(天皇の住まいなど宮殿中枢部)の西北部に当たる。Ⅰ期とみられる掘立柱塀の柱穴列はその長方形の調査区を北東から南西へ斜めに横断する形で見つかった。総延長は約35mで、柱間の長さは約2.7m。その場所には見学者にも分かりやすいように白いポールが立てられていた。

 飛鳥岡本宮については日本書紀に636年火災に遭ったとの記述が見られる。今回の発掘ではそれを裏付けるように、柱の痕跡や抜き取り穴に赤褐色の焼土や炭化物が多く混じっていた。これまでに周辺で確認されたⅠ期遺構とも共通することから、この柱穴列もⅠ期、つまり岡本宮の遺構と考えられる。

 飛鳥宮後半のⅢ期とみられる掘立柱の建物や石組み溝などの遺構も検出した。建物は2棟の跡が確認されている。いずれも東西棟で、両端の柱の桁行(けたゆき)と梁行(はりゆき)はそれぞれ約19m×約5.4m、約12m以上×約5.4m。建物の北側からは東西方向の幅約0.5mの石組み溝も出土した。

 これとは別に東側で南北方向の石組み溝も見つかった。この遺構は東西の溝より早いⅡ期の遺構とみられる。幅は約0.6mで、底石には径10cmほどの小礫、側石には人頭大の石が使われている。今回の発掘調査で、飛鳥時代の宮殿の構造や変遷がまた一つ明らかになった。

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<平城宮いざない館> 「飛鳥のモティーフ~葬りのカタチ」展

2023年11月07日 | 考古・歴史

【キトラ古墳壁画発見40周年を記念し】

 1983年11月7日のことだった。奈良県明日香村のキトラ古墳で、石室内に挿入されたカメラのモニターに「Q」の字のような画像が映し出された。「あっ、玄武!」。玄武は四神の一つ、亀と蛇が絡み合う形で描かれる。高松塚古墳に続く国内2例目の極彩色の壁画発見に、関係者から驚きの声が上がった。それから丸40年。国営平城宮跡歴史公園(奈良市)の「平城宮いざない館」でいまキトラ古墳壁画発見40周年記念展「飛鳥のモティーフ~葬りのカタチ」が開かれている。

 キトラ古墳は古墳時代末期から飛鳥時代にかけて造られた終末期古墳の一つ。その発見の11年前、1972年には高松塚古墳の壁画が見つかっている。ただ最大の違いは高松塚で盗掘によって失われたとみられる南壁の「朱雀」像が、キトラ古墳ではほぼ完全な形で残っていたこと。会場の企画展示室入り口正面には明日香村在住の日本画家・烏頭尾靖(うとお・せい)さんが描いた「発見された直後の朱雀再現図像」が飾られている(上の写真)。

 朱雀は壁画4面のうち最後に見つかった。翼を大きく広げ、今まさに飛翔しようとする鳥の姿が生き生きと描かれていた。南壁は閉塞石としての役割も兼ねていることから、この壁のみ屋外で描かれたのではないかといわれる。会場には工作機械メーカー、DMG森精機が立体的に復元したほぼ実物大の朱雀像も展示されている。古墳の石室内部探査時に、カメラを挿入する穴のガイドパイプ設置のため利用された掘削用ドリル(長さ2m)も展示中。

 飛鳥地方では高松塚やキトラより前の古墳から渡来人が活動していたことを示す出土品も多く見つかっている。渡来系氏族の古墳を代表するのが真弓鑵子塚(かんすづか)古墳。石室の天井は百済をはじめとする韓半島に特徴的なドーム状で、ミニチュア炊飯具や須恵器、ベルトを飾る獣面飾金具、馬具などの副葬品(上の写真)が見つかっている。(下の写真はカイワラ2号墳と真弓スズミ1号墳から出土したミニチュア炊飯具)。

 7世紀に入ると巨大な前方後円墳に代わって方墳・円墳・八角墳が造られる。畿内で確認されている八角墳は5基あり、そのうち3つは宮内庁により天皇陵に治定されている。段ノ塚古墳(奈良県桜井市)が舒明天皇陵、御廟野古墳(京都市山科区)が天智天皇陵、野口王墓古墳(明日香村)が天武・持統天皇陵。また牽牛子塚古墳と中尾山古墳(いずれも明日香村)もそれぞれ斉明天皇陵、文武天皇陵とする説が有力。会場には野口王墓古墳の鮮やかな朱色の夾紵棺(きょうちょかん)や蔵骨器(いずれも複製)も展示されている。(下の写真は牽牛子塚古墳の出土品と墳丘斜面の凝灰岩)

 また飛鳥時代に造られ、現在は吉備姫王檜隈墓に安置されている「猿石」4体(山王権現・女・男・僧)と高取城の「猿石」1体(いずれも複製)も会場中央に展示。明日香村の村内には他にも古い石造物が多く残っており、これらは斉明天皇の都づくりの一環として迎賓館や庭園など主要施設に配置されていたとみられる。記念展は12月10日まで。

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<奈良市埋文センター> 秋季特別展「亀甲形陶棺―変化と地域性」

2023年10月11日 | 考古・歴史

【所蔵陶棺を一挙公開、多彩な副葬品なども】

 古墳時代の後期から飛鳥時代にかけて、カメの甲羅のような亀甲形などの陶棺が作られ古墳や横穴墓に納められた。これまでに全国で出土した陶棺は岡山県と近畿地方を中心に約800点。奈良県内では約60点が見つかっており、うち43点が奈良市北西部の丘陵地から出土した。奈良市埋蔵文化財調査センターは開催中の秋季特別展「亀甲形陶棺―変化と地域性」(10/2~12/1)でそれらの陶棺を一挙に公開、形や大きさの変遷などを分かりやすく展示している。

 陶棺は粘土で成形し焼成したもの。多くは箱形だが、円筒形のものもある。焼成方法により赤みを帯びる土師質陶棺と、硬質で青灰色の須恵質陶棺に分かれる。また蓋の形によって亀甲形と家形の陶棺の2種類。奈良市内で出土した陶棺は土師質の亀甲形が大半を占める。その中には全長が2mを超える大きなものも。通路や展示室にずらりと陶棺が並ぶ光景はまさに壮観そのものだ。

 陶棺が多く出土する代表的な遺跡に「赤田横穴墓群」やその北側の「秋篠阿弥陀谷横穴墓群」など。展示中の赤田21号墓(6世紀後半)出土の亀甲形陶棺は全長208㎝、最大幅73㎝、高さ106㎝で、8行3列合計24本の円筒形の脚が付く。それより前の陶棺出現期の中山横穴墓(6世紀中頃)のものは全長約220㎝で脚は10行3列と、より大型に復元されるという。

 時代が下ると、陶棺は次第に小型化し脚の数も減っていく。赤田1号墓(7世紀前半)の出土品は全長が150㎝ほどで脚は6行2列。その後、赤田横穴墓群からは長さが100~120㎝で、脚の数も4行2列のものも現れる。小型化に伴って棺蓋と棺身を飾っていた突帯の模様もなくなり作りが簡素になっていく。

 さらに7世紀中頃以降、亀甲形陶棺は姿を消し、代わって円筒形や砲弾形が作られるように。これらの陶棺は小型化した亀甲形同様、大人の遺体を納めるには小さすぎることから、一度埋葬した遺体を白骨化させて納めた再葬容器の可能性が高いと推測されている。(写真㊤赤田18号墓出土の円筒形陶棺、㊦宝来横穴墓群出土の砲弾形陶棺)

 陶棺からは被葬者が身に着けていた装身具や鉄製品などが見つかっている。中でも副葬品が多く出土したのが2基の陶棺が並んで置かれていた赤田5号墓。土器類をはじめ耳環や碧玉製管玉、ガラス玉、鉄刀、鉄鏃などが見つかった。その耳環の輝きには目を奪われた。ただ副葬品も時期が下るにつれて種類が減少し簡素になっていく。

 亀甲形陶棺が多く出土する奈良市北西部は古墳の造墓や埴輪の生産に携わったとされる土師氏の本拠地といわれる。菅原東遺跡からは埴輪窯跡群が見つかり、ここからは陶棺の蓋や身、脚の破片なども出土した。このため埴輪と同じ窯で陶棺が生産されていた可能性が高いとみられる。

 横穴募からは陶棺や副葬品のほか、以前に作られた埴輪も見つかった。赤田19号墓(7世紀中頃)からは朝顔形埴輪と人物埴輪が出土した。それらは6世紀前半頃のもので、近隣の古墳から抜き取って再利用されたとみられる。センターでは陶棺の作り方や埴輪の存在から「赤田横穴墓群は土師氏の墓域の一つと考えられる」とし、埴輪の再利用についても「氏族伝承を再確認するための行為かもしれない」と推測している。

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<名勝大乗院庭園文化館> 「発掘された庭園」資料展

2023年09月19日 | 考古・歴史

【平城宮跡東院庭園、平等院庭園なども紹介】

 名勝大乗院庭園文化館(奈良市高畑町)で「『発掘された庭園』~つちに埋もれた古の庭~資料展」が開かれている。発掘調査によって再び地上に現れて復元・整備された古代~中世の“発掘庭園”をパネルで紹介している。10月9日まで。

 大乗院は興福寺の門跡寺院で1087年に創建された。現在地に移転後、足利将軍家に仕えた善阿弥によって作庭が始まり、完成後は「南都随一の名園」と称えられた。1995~2007年の発掘調査で、江戸時代末期の「大乗院四季真景図」などに描かれた往時の姿が地下に眠っていることが判明。埋め戻した後、盛り土の上に遺構を復元し2010年から一般公開を始めた。庭園の広さは約1万3000㎡。「旧大乗院庭園」として名勝に指定され、日本ナショナルトラストが管理している。(東大池の中島に架かる朱色の反橋は庭園のシンボル的存在)

 2枚のパネルのうち1枚目には奈良文化財研究所による発掘調査位置図や出土した石組み井戸、東大池の護岸、埋まっていた西小池などの写真を掲載。もう1枚で庭園史家の重森三玲(1896~1975)が昭和初期の1938年に庭園を調査したときに作製した平面図と記録写真を紹介している。重森は国内の古典的な庭園の大半を実測調査する傍ら、生涯に約200の作庭を手掛けた。主な庭に東福寺、松尾大社(京都)、岸和田城(大阪)、旧友琳会館(岡山・吉備中央)などがある。(復元された西小池には4つの小さな橋が架かる)

 平城宮の東南隅から発掘された「東院庭園」と、奈良時代初期に長屋王の屋敷があった場所の南側から発掘された「宮跡庭園」(平城京左京三条二坊六坪)もそれぞれパネルで紹介中。東院庭園の池には小石を敷き詰めた洲浜があり、自然風景を模した日本庭園のルーツといわれる。この東院庭園は遺構保存のため埋め戻したうえでの復元だが、宮跡庭園は出土した石材などに保存処理を施し、埋め戻すことなく発掘当時の姿で公開しているのが特徴。

 奈良県内で現在進行形の発掘庭園といえば、やはり「飛鳥京跡苑池」(明日香村)だろう。これまでに南北2つの大きな池と水の祭祀に使われたとみられる流水施設(写真)などが出土した。7世紀の斉明天皇の時代に築造が始まり、天武天皇のときに改修されたと推測され、日本最初の本格的な宮廷庭園といわれている。県は2025年度にまず中島や噴水とみられる大きな石造物などが見つかった南池の史跡整備工事に着手する予定。どのような姿で復元・公開されるか、今から楽しみである。

 今回の資料展では京都市の「大沢池・名古曽滝跡(大覚寺御坊跡)」や京都府宇治市の「平等院庭園」など奈良以外の発掘庭園も取り上げている。旧大乗院庭園を訪れたのは2022年6月以来1年3カ月ぶり。前回はあちこちに「カラスが背後から飛来接近してくることがありますのでご注意ください」という貼り紙や立て札があったが、今回は取り払われていた。

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<橿考研付属博物館> 発掘調査速報展「大和を掘る38」

2023年08月13日 | 考古・歴史

【縄文~室町時代の31遺跡の出土品約450点!】

 奈良県立橿原考古学研究所付属博物館(橿原市)で夏恒例の発掘調査速報展「大和を掘る」が開かれている。38回目の今年は2022年度に発掘調査が行われた県内13市町村・31遺跡から出土した約450点を一堂に展示中。馬の絵が書かれた井戸枠、国内最大級の子持ち勾玉(まがたま)、用途が不明な土製品など注目を集めそうな出土品も並ぶ。9月3日まで。

 2022年度に最も話題を集めたのが国内最古・最大の蛇行剣(保存処理中)が出土した富雄丸山古墳(奈良市)。会場内ではこの古墳の円丘部南東側から出土した湧水施設形の埴輪を、独立したガラスケース内で展示している。水の祭祀に関わるものとみられる。同古墳を紹介する別のコーナーでは盾形埴輪や管玉、鍬形石などの出土品も展示中。

 京奈和自動車道奈良IC開発に伴う平城京左京六~八条・一~三坊(奈良市)の発掘調査では墨書で馬の絵を描いた板が見つかった。1頭の馬が生き生きと描かれており、井戸の枠材として転用されたとみられる。大型動物の骨なども出土した(下の写真)。当初は馬の骨とみられていたが、専門家に調べてもらったところ牛と判明した。平城京で馬のほか牛も利用されていたことを示す貴重な遺物だ。

 平城京南方遺跡(奈良市)からは奈良時代の瓦窯1基が出土した。調査地北側にある五徳池が古い文献に出てくる越田池と考えられることから、長屋王邸北側の側溝から出土した木簡に記された「越田瓦屋」の一部と推定されている。

 史跡東大寺旧境内の第194次調査では、鐘楼周辺から「大佛餅」と書かれた赤膚焼の皿や茶碗が見つかった。昭和に入って焼かれたものとみられる。かつて鐘楼近くには茶店がいくつもあったという。大仏殿の基壇北辺部からは奈良時代の基壇の規模を示す石敷き遺構を検出した。

 中遺跡(五條市)からは鎌倉前期の青銅製の印章が見つかった。県内の出土古印としては7例目、銅印としては3例目。印文は篆書体で「市」とも読め、有力な家・人物の私印とみられる。

 狐井(きつい)稲荷古墳(香芝市)は墳丘長約80mの前方後円墳。これまでに出土した土器片などから5世紀後半ごろに築造された狐井丘陵で最初の古墳であることが分かった。この古墳からは日本最大級の子持ち勾玉も見つかっている。大きさは長さ13㎝、幅10㎝、厚さ5.5㎝。小さな突起の子勾玉が10個付いている。

 櫟本辻子(いちのもとずし)池上遺跡(天理市)では名阪国道北側の丘陵に挟まれた岩屋谷から、古墳時代中期~後期の礫敷き流路が見つかった。ミニチュアの土器や木製品が多く出土しており、祭祀遺跡の可能性が指摘されている。

 鴨都波(かもつば)遺跡(御所市)ではこれまでの出土品の再整理中に、用途不明の土製品があることが分かった。長さ33㎝、幅8cm、厚さ2㎝の扁平な棒状で、一方の端部分はY字状に口を開けたような不思議な形状。古墳時代前期の埴輪や中期の須恵器などとともに出土した。「用途が分かった方はご一報ください!」。説明文にこんなお願いが添えられていた

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<東大寺ミュージアム> 特集展示「戒壇院の夏安居」

2023年06月17日 | 考古・歴史

【中世の仏事を記した『年中行事』や『鑑真和尚像』など】

 東大寺ミュージアム(奈良市)で特集展示「戒壇院の夏安居(げあんご)」が開かれている。夏安居は僧侶たちが雨期に外出しないで一カ所に集まって修行すること。東大寺では大仏殿を中心とする僧侶集団とは別に、戒壇院でも独自に安居が行われていた。今回の特集では戒壇院で行われていた夏安居の始まりの儀式「結夏(けつげ)」を中心に取り上げている。7月18日まで。

 展示中の『戒壇院年中行事』は室町時代(15世紀)の墨書で、中世にいつどんな仏事が営まれていたかを知ることができる貴重な史料。4月16日(旧暦)の条には夏安居の始まりを告げる結夏作法が詳細に記されている。それによると、釈迦を挟んで北に鑑真和尚、南に南山大師の御影が懸けられた。戒壇院では他の寺院と異なり、鑑真和尚の肖像を掲げるのが特色という。

 鎌倉時代(14世紀)作の『鑑真和尚像』(写真㊨=部分)と『南山大師像』(写真㊧=部分)は並べて展示中。鑑真像は唐招提寺の乾漆像を模して描かれたとみられる。南山大師道宣(596~667)は唐代の南山律宗の開祖。鑑真は道宣の弟子から律宗の教えを受けた。苦難の末に来日した鑑真が聖武上皇や孝謙天皇らに授戒したのは754年(天平勝宝6年)。その後、大仏殿前の戒壇を移設し戒壇堂をはじめ伽藍を築いて戒壇院を造営した。展示中の『東大寺戒壇院指図』は多くの伽藍を焼失した1446年の失火後の再建計画図とみられ、重要文化財に指定されている。

 『梵網戒本疏日珠鈔(しょにちじゅしょう)巻四十四』(東大寺凝然撰述章疏類のうち)は鎌倉時代1318年に学僧の凝然が記したもの。その中には夏安居に触れたこんな一節も。「植物にも命があり、それを踏み殺してしまうのを嫌うために夏安居を設ける」「西国の僧は多く遊行するが、虫を踏み傷つけることを嫌うために仏陀は夏安居を設けた」。『優婆離唄(ゆばりばい)』は声明用の楽譜で、中国・宋代の発音(宋音)でルビが付されているのが特徴。優婆離は釈迦の十大弟子の一人で、最も戒律に精通していたという。

 東大寺ミュージアムは南大門のすぐ北西側にある。常設展示は本尊の千手観音菩薩立像、法華堂(三月堂)伝来の日光・月光菩薩像、奈良時代の誕生釈迦仏像、金堂(大仏殿)鎮壇具など。耐震化工事中の戒壇堂の四天王立像も特別公開中(8月27日まで)。

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<橿考研付属博物館> 特別展「神宿る島 宗像・沖ノ島と大和」

2023年05月11日 | 考古・歴史

【大和との強いつながりを示す国宝の数々!】

 奈良県立橿原考古学研究所付属博物館(橿原市)で春季特別展「神宿る島 宗像・沖ノ島と大和」が開かれている(6月18日まで)。沖ノ島は九州・玄界灘のほぼ中央に浮かぶ孤島。島全体が宗像大社(福岡県宗像市)の境内地で沖津宮が鎮座する。この島では古墳時代前期の4世紀後半から平安時代の9世紀にかけ、航海の安全を祈願する国家的な祭祀が連綿と続けられた。“海の正倉院”とも称される沖ノ島は2017年ユネスコの世界遺産に登録された。出土品などを展示する宗像大社神宝館をそのうち訪ねたいと思っていたところ、幸いこの特別展で代表的な国宝の数々と間近に接することができた。(写真は沖ノ島5号遺跡出土の「金銅製龍頭」)

 沖ノ島では1950年代から60年代にかけ3次にわたる調査が行われ、23カ所の祭祀場から約8万点もの遺物が見つかった。それら全てが国宝に指定されている。祭祀は遣唐使が廃止される平安時代の9世紀末まで約500年続いた。この間、祭祀場は島の岩上→岩陰→半岩陰・半露天→露天と変遷、同時に奉献品の内容も変化していった。今展での沖ノ島関連の展示品は20件165点(うちレプリカ2件2点)で、奈良県内の出土品と並べて展示中。その中には瓜二つのようにそっくりなものも多く、それらは沖ノ島と政治的な中枢であった大和の強い結びつきを示していた。(写真㊦沖ノ島18号遺跡出土「三角縁四神文帯二神二獣鏡」)

 初期の岩上祭祀段階(4~5世紀)では70面を超える銅鏡や腕輪形石製品、鉄製の武器・工具、鉄鋌(てってい)という延べ板状の鉄の素材などが見つかった。奈良の黒塚古墳(天理市)や島の山古墳(川西町)などの大型前方後円墳からも同様の出土品が見つかっており、橿考研では「沖ノ島の奉献品と個別に共通するだけでなく、組み合わせも共通する」(吉村和昭氏)と指摘する。(写真㊦沖ノ島16号遺跡出土の「鉄鋌」)

 岩陰祭祀段階(5世紀後半~7世紀)には銅鏡が減って鉄製の武器・武具、金属製の雛形品(鏡・紡織具・楽器)などが増える。新羅系の金銅製馬具やササン朝ペルシャのカットグラスなど東西交流を示す渡来品も多く見つかった。展示会場でひときわ目を引くのがガラスケース内に鎮座した「金銅製龍頭」(6世紀中国・東魏時代)で、まばゆいばかりの輝きを放っていた。同様の龍頭は統一新羅の王城(慶州)の月池でも出土しており、権力者に好まれる装飾品だったという。

 露天祭祀段階(8~9世紀)の主な奉献品は金属製雛形品、さまざまな土器類、滑石製形代(人形・馬形・舟形)、八稜鏡など。6点展示中の「奈良三彩小壷」(沖ノ島1号遺跡)は平城京跡など奈良県内の出土品と形も大きさもそっくり。同じような小壷は三重県・神島、岡山県・大飛島など重要な航路上に位置する島の祭祀遺跡からも出土。いずれも平城京周辺の官営工房で製作されたとみられる。

 このほかの展示品に「子持勾玉」(5~6世紀、写真㊤)や「鉄地金銅張剣菱形杏葉」(6世紀、写真㊦)、「金銅製雛形五弦琴」(7世紀、写真㊦)など。勾玉のうち右側のものは全長15.3㎝、最大幅7.5㎝もある。これら大型の子持勾玉は「大和の王権祭祀が執り行われた形跡として重要」という。杏葉は馬具の飾りで、同様の剣菱形は奈良県の条池南古墳(御所市)や大阪府の河内愛宕塚古墳(八尾市)などからも出土している。五弦琴は木製の琴を模したミニチュアとみられ、小さな琴柱(ことじ)も5個見つかった。よく似た類品に伊勢神宮内宮神宝の「鵄尾御琴(とびのおのおんこと)」があるそうだ。

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<せいぶ大和学講座> 「『赤田横穴墓群』の謎」

2023年03月11日 | 考古・歴史

【奈良市埋蔵文化財調査センターの鐘方正樹所長が講演】

 「赤田横穴墓群」(奈良市西大寺赤田町)は大和西大寺駅の西北約1.2キロに位置する。これまでに直近の8基も含め24基の横穴墓が確認され、大小様々な陶棺や木棺、副葬品、埴輪などが出土した。赤田の北側に位置する秋篠町でも4年前に飛鳥時代の横穴墓4基が見つかり「秋篠阿弥陀谷横穴墓群」と名付けられた。奈良盆地北西部で横穴墓が多く出土するのはなぜか。陶棺や埴輪はどこで造られたのか。そんな疑問に答える講演会(せいぶ大和学講座)が3月10日奈良市学園南の西部公民館で開かれた。

 講師は奈良市文化財埋蔵調査センター所長の鐘方正樹氏、演題は「『赤田横穴墓群』の謎―佐紀古墳群と土師氏と陶棺」。同センターでは「春季発掘調査速報展」で新たに見つかった横穴墓8基の陶棺や埋葬品などを公開中。鐘方氏は「横穴墓群が西側の住宅地域(の地下)にも続いている可能性が大きい」と指摘する。これまでに出土した亀甲形陶棺は横幅が2m以上のものから1mほどの小さなものまであった。古いものは大きく、新しいものほど小さくなっていく。(写真は赤田17号墓から見つかった亀甲形陶棺。登り窯に入るように真ん中で切断して焼いた)

 陶棺は突帯と呼ぶ紐状の模様や分布域などで大きく「北大和」と「南河内」の2つの系統に分類される。北大和系は製作集団が奈良盆地北部中心に分布し、格子状突帯・蓋に突起がない・脚部を倒立して製作する――といった特徴を持つ。同じ北大和系でもさらに「a」と「b」の2系列に分かれるそうだ。一方、南河内系は大阪府南部に分布し、波状突帯・蓋に突起がある・脚部を正立して製作する。いずれも埴輪生産遺跡から陶棺やその破片も出土している。

 赤田横穴墓群に近い所に4世紀後半の宝来山古墳(垂仁陵)築造に伴って営まれた集落跡「菅原東遺跡」がある。この遺跡からは古墳時代後期6世紀の集落と埴輪の窯跡も見つかった。近くから陶棺の破片も出土している。使われた土が埴輪と同じことから陶棺もその埴輪窯で作られたようだ。(写真は菅原東遺跡の埴輪窯跡=2021年2月20日、奈良市横領町「菅原はにわ窯公園」で)

 古墳時代前期~中期に巨大古墳が集まる佐紀古墳群への埴輪の供給を担っていた「東院埴輪窯」が役目を終え、埴輪供給の中心地が「菅原東埴輪窯」に移ったとみられる。鐘方氏はそこで作られた埴輪が秋篠川を下って大和北部一帯に造営された中小古墳群に供給されたとみる。

 “埴輪の祖”といえば天覧相撲で当麻蹴速と戦った野見宿禰。垂仁天皇の后日葉酢媛(ひばすひめ)が亡くなったとき、陵墓に殉死の代わりに埴輪を立てるよう進言、その功績によって「土師」の姓を賜った。続日本紀は「土師氏に四腹有り」と記す。「四腹」とは北大和の「菅原」「秋篠」と南河内の「古市」「毛受(もず)」の4つの支族を指す。

 奈良市の菅原、秋篠の地名も土師氏一族が居住地を基に姓を菅原、秋篠に改めた名残。南河内には藤井寺市に「土師ノ里」、百舌鳥古墳群がある堺市にも「土師町」という地名が今も残る。土師氏一族はそれぞれの地に集落を構え窯を築いて古墳の造営に貢献したわけだ。赤田横穴墓に眠るのも土師氏の後裔ではないかと考えられている。

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<奈良市埋蔵文化財センター> 赤田横穴墓群で新たに8基!

2023年03月09日 | 考古・歴史

【合計24基に、速報展で陶棺や副葬品を公開】

 奈良盆地北西部では古墳時代後期から飛鳥時代にかけ、南側斜面に横穴を掘って遺体を埋葬する横穴墓が多く築造された。代表的な遺跡が奈良市西大寺赤田町にある「赤田横穴墓群」。これまでに16基が確認されていたが、2021年の発掘調査で新たに8基が見つかった。奈良市埋蔵文化財調査センター(大安寺西2丁目)は開催中の「令和4年度春季発掘調査速報展」で、接合・復元作業を完了した陶棺や副葬品などの出土品を公開している。3月31日まで。

 発掘調査は大和中央道建設に伴って実施したもの。新たに見つかった8基(17~24号墓)は従来の16基から西側に続く場所で見つかった。大和中央道建設に伴う発掘調査では2019年に赤田横穴墓群の北側に位置する秋篠町で、飛鳥時代の横穴墓4基が出土している。こちらは新しく「秋篠阿弥陀谷横穴墓群」と名付けられた。

 17号墓(6世紀後半)は全長9.3m以上で、床面は初葬時と追葬時の2面があった。初葬時の墓室からは全長2.12mの亀甲形陶棺(10行3列合計30本の脚付き)が出土(写真㊤)。未盗掘だったが、棺内に副葬されていたのは刀子1点だけだった。追葬時には木棺が安置されたとみられ、土師器の壷などの副葬品が見つかった。

 18号墓(7世紀中頃)からは円筒形陶棺(写真㊤)が蓋身を合わせ口にして横たわる状態で出土した。棺内から鹿角装刀子と鉄鏃各1点が見つかった。以前に赤田9号墓から出土した円筒形陶棺が縦置き型なのに対し、18号墓は横置き型になっているのが特徴。この横穴墓も追葬時には木棺が置かれていたとみられる。

 19号墓(7世紀中頃)には木棺の底板の一部(写真㊤)が残存していた。木棺は長さ1.67m、幅0.6m程度に復元できる。墓室入り口からは横穴墓築造時より古い6世紀前半~中頃のものと推定される朝顔形埴輪と頭部が欠けた人物埴輪(写真㊦)が出土した。いずれの埴輪も底部が欠失しており、近くの古墳から抜き取って再利用したとみられる。

 20号墓(7世紀前半)には木棺があったとみられ、須恵器長頸壷や土師器椀などが出土。21号墓(6世紀後半)には盗掘によって壊された亀甲形陶棺が出土し、土師器長胴甕を用いた蔵骨器も出土した。23号墓と24号墓(いずれも6世紀後半)にも木棺があったとみられ、土師器の甕、須恵器の台付長頸壷、提瓶などが副葬されていた。なお22号墓には墓室がなく埋葬されずに放棄された可能性が高い。(下の写真は20~24号墓から見つかった副葬品)

 今回の速報展では奈良時代の瓦窯1基が新たに見つかった「平城京南方遺跡」(北之庄町)についても出土物やパネルなどを使って紹介している。

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<橿考研付属博物館> 特別陳列「豪族と渡来人―高取の古墳文化」

2023年02月14日 | 考古・歴史

【薩摩遺跡から市尾墓山・宮塚、与楽、束明神古墳まで】

 奈良県立橿原考古学研究所付属博物館(橿原市)で、特別陳列「豪族と渡来人―高取の古墳文化」が始まった。奈良盆地の東南部に位置する高取町には約800基の古墳があり、〝古墳密度〟は隣の明日香村を凌ぎ県内1位といわれる。昨秋、高取を代表する2つの前方後円墳、市尾墓山古墳と市尾宮塚古墳を初めて訪ねた。このブログでも取り上げた(10月11日)が、その4カ月後にまさか高取の古墳に焦点を当てた特別展が開かれようとは……。会期は3月21日まで。

 館内に入ると、展示会場入り口手前で市尾墓山古墳、与楽(ようらく)カンジョ古墳など4カ所の横穴式石室・石槨の360度回転映像が流れていた。会場では弥生時代後期~古墳時代前期(2-3世紀)の薩摩遺跡から始まって、古墳時代終末期(7世紀末)の束明神(つかみょうじん)古墳まで時代を辿る形で出土品や写真パネルなどを展示。薩摩遺跡の古墳群の周溝や集落跡からは当時の広域的な交流を物語るように近江、東海、吉備産などに加え韓式など外来系土器も出土した(上の写真)

 古墳時代前期も後半になると副葬品も充実。代表例としてタニグチ古墳群の1号墳を挙げる。直径20mの小型の円墳だが、銅鏡や鉄製甲、中国や朝鮮半島との関連をうかがわせる長大な素環頭大刀や鉄鉾などが出土した(上の写真)。中期に入ると、小規模墳の築造が本格化する。市尾今田古墳群の1号墳、2号墳には多数の武器・武具類が副葬され、ヤマト政権中枢との関係を示す帯金式甲冑、朝鮮半島の影響を受けた鉤状鉄器や鉄鉾も出土した。(下の写真は市尾今田2号墳出土の儀仗形埴輪)

 高取最大の前方後円墳、市尾墓山古墳は6世紀前半に築造された。墳丘長は70m、周濠と外堤を合わせると100mを超える。続いて6世紀後半にはその南西側に市尾宮塚古墳が築かれた。2つの古墳はいずれも国史跡。石室からは首長墓にふさわしい多彩な副葬品が見つかった。築造者は地元に拠点を置いた豪族巨勢氏とする説が有力で、墓山古墳の被葬者は継体天皇の擁立に関わった巨勢男人では、といわれる。その一方で稲目以前の蘇我氏とする説も。橿考研は「石室の系統が巨勢谷一帯でまとまる点、継体朝と関わりの深い遺物が見られる点は重視すべき事実であろう」としている。(写真は㊤市尾墓山古墳出土のガラス玉など、㊦市尾宮塚古墳出土の耳環やトンボ玉など)

 古墳時代後期には小規模墳が密集した群集墳の造営が盛んになる。その代表格が約100基からなる与楽古墳群(国史跡)で、一帯は渡来系集団東漢氏の墓域だったといわれる。渡来系集団の横穴式石室を市尾の首長墓と比べると、天井が高いことや釘付け式木棺を2つ並べて置くケースが多いことなどが大きな特徴。これらの石室の造り、釘付け式木棺、二棺並葬・夫婦合葬という葬制が「一体のものとして百済から伝わったと考えられる」という。

 渡来系集団の古墳の石室からは木棺を打ち付けた多くの鉄釘が見つかっている。ミニチュア炊飯具が副葬されることも多く、与楽古墳群では鑵子塚(かんすづか)、カンジョ、ナシタニ支群、寺崎白壁塚などから見つかっている(上の写真は与楽ナシタニ6号墳出土のミニチュア炊飯具など)。装身具ではかんざしの一種、釵子(さいし)や銀製の耳環などの出土例が目立つ。市尾宮塚古墳などで見つかった耳環は太めの中空で作ったものが中心だが、渡来系の群集墳からは細身の針金状で中実のものが多い。藤井イノヲク古墳群からは鍛冶具、ミニチュア農耕具、土器棺に転用した煙突形土製品、銀装円頭大刀などが出土した。被葬者は渡来系鍛冶工人の親方層ではないかといわれる。(写真は㊤藤井イノヲク12号墳出土の煙突形土製品、㊦同1号墳出土の鍛冶具など)

 終末期古墳の束明神古墳は対角長30mの八角形墳で、凝灰岩の切石を積み上げた横口式石槨を持つ。発掘調査は橿原考古学研究所と高取町教育委員会によって1984年に行われた。その被葬者として有力視されているのが天武天皇と持統天皇の間に生まれ、早世した草壁皇子(追号岡宮天皇)。宮内庁が皇子の陵墓として管理している岡宮天皇陵は少し離れた南側にある。橿考研付属博物館の前庭には束明神古墳の復元石槨が展示されている。

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