暑い夏の毎日を別荘で過ごされているうらやましい方もいらっしゃると思いますが、そんな余裕もない私はつれづれなるままにクーラーに浸りながら、エッセイを書いてみました。
少し涼しい日を選んで、上野の西洋美術館で松方コレクション展を見てきました。西洋美術館自体がもともと松方コレクション主体の美術館ですので、なんでいまさらその展覧会を開いたのかと申しますと、開館60周年を迎えた記念として松方コレクション展を催したとのことです。
西洋美術館には何度となく通い、多くの展覧会を見てきました。最初は64年オリンピックの年に来た「ミロのビーナス展」です。中学校の行事として連れて行ってもらったので、長蛇の列には並ばなくて済んだのですが、とにかく人が多くて像の前で立ち止まることもままならず、トコロテンのように押し出されたのを覚えています。幸いビーナス像はルーブルでの展示同様高い位置に置かれていたので、十分に見ることができました。その神々しさに心を打たれたのをいまでもよく覚えています。
西洋美術館は16年に世界遺産に登録されました。私は正直申し上げて、世界遺産に値するか、若干の疑問を感じています。最近は全般的に世界遺産が安売りされ過ぎているように感じます。
しかし展覧会は日本を代表する美術館らしさをいかんなく感じさせてくれました。松方コレクションの歴史はNHKの日曜美術館をはじめ多くのテレビ番組などで取り上げられているので繰り返しません。よくご存じない方のために、以下に展覧会概要をHPから引用します。
「神戸の川崎造船所(現・川崎重工業株式会社)を率いた松方幸次郎(1866(慶応元年12月1日)-1950)は、第一次世界大戦による船舶需要を背景に事業を拡大しつつ、1916-1927年頃のロンドンやパリで大量の美術品を買い集めます。当時の松方のコレクションは、モネやゴーガン、ゴッホからロダンの彫刻、近代イギリス絵画、中世の板絵、タペストリーまで多様な時代・地域・ジャンルからなり、日本のために買い戻した浮世絵約8000点も加えれば1万点に及ぶ規模でした。
しかし1927年、昭和金融恐慌のあおりで造船所は経営破綻に陥り、コレクションは流転の運命をたどります。日本に到着していた作品群は売り立てられ、ヨーロッパに残されていた作品も一部はロンドンの倉庫火災で焼失、さらに他の一部は第二次世界大戦末期のパリでフランス政府に接収されました。戦後、フランスから日本へ寄贈返還された375点とともに、1959年、国立西洋美術館が誕生したとき、ようやく松方コレクションは安住の地を見出したのです。」
まことに数奇な運命をたどったコレクションです。できれば浮世絵を除いても約2千点にもなるコレクション全体を見てみたかったと思います。それと最後の記述はちょっと違いますね。
>1959年、国立西洋美術館が誕生したとき、ようやく松方コレクションは安住の地を見出したのです。
そうではなく、フランス政府に変換交渉し、フランス側が返還の条件として出したのが、「コレクションを散逸させないこと」でした。そこで収蔵する美術館をわざわざ作り、ここで全部引き取るので返還してくれ、と交渉したのです。
私は美術の専門家ではないので絵画のことはともかく、このコレクションの元々のオーナーであった松方一族について書くことにします。松方幸次郎は明治の元勲松方正義の息子で、兄弟には松方三郎がいます。松方正義は首相や大蔵卿を何度も経験していて、インフレを抑えるため「松方デフレ」を起こしたことで有名です。私は偶然、三郎氏の息子である長男の峰雄さん、次男の富士夫さんと知己を得ていました。素晴らしいお名前の兄弟は、きっと父の三郎がエベレストへの登山隊の隊長だったほどのアルピニストだったため付けたお名前だろうと想像します。そのとき1970年、日本人初登頂に成功したのが故植村直己氏です。
峰雄さんは松方家の4代当主で、私がJALの本社にいた80年代、東京支店長をされていました。絵にかいたような親分肌の方で、百名にもなる対代理店セールス部隊を率いていました。私は彼の部下のセールス部長と販売価格を巡って、本社側代表として攻防を繰りひろげていたのですが、支店長から「若造、それじゃ売れん!」と一喝され、おずおずと引き下がったのを覚えています(笑)。松方支店長はとても優しい方で、その後私を食事に誘ってくれました。
次男の富士夫さんは現役時代にトヨタ自動車に務めていらして、これまた偶然にもご近所さんかつゴルフ仲間でした。90年代に上野毛に住んでいたころ、お隣が高倉健さんの家だったというお話を以前しましたが、3軒先には富士夫さんが住んでいました。
そしてよく行くゴルフ練習場で頻繁に富士夫さんとお会いし、会話する仲でした。富士夫さんというお名前を伺い、「もしかして峰雄さんとはご兄弟ですか」と聞くと、「そうです」とのこと。当時富士夫さんは水戸の山奥にあるウィンザーパークというゴルフ場の支配人をされていて、時々そこでご一緒させていただいたり、学生時代の同期会コンペを開催させていただく機会がありました。
富士夫さんはゴルフの他、夏には富士山登山をされていました。それも80歳を過ぎても、一シーズンに日帰りで10回ほど登られるのです。お名前もさることながら、さすがアルピニストの親譲りの健脚で、恐れ入る以外ありませんでした。
そのご兄弟が大事にされていたのが、那須にある松方家の別荘萬歳閣で現在も存在し、昨年9月に放映された「ブラタモリ」では那須の代表的華族の別荘として紹介されていました。私は富士夫さんからゴルフ仲間とともに別荘泊バーベキュー付きのゴルフに誘われたのですが、残念ながら所用により参加することができませんでした。富士夫さんのお話では敷地が広大なため、戦国時代の合戦のロケ撮影では、しょっちゅう貸しているとのこと。隣の千本松牧場とどう区分けされているのかは知りません。ちなみに松方正義は千本松牧場も開墾したとのことで、その顛末をウィキベテアから引用します。
「千本松牧場は那須野が原開拓の一環として1902年、松方正義が那須開墾社から土地を譲り受けて開場。那須地方において、大型機械を投入する欧米式の農場経営の先駆的存在となった。牧場の名前の由来は、当時、周囲に多数自生していたアカマツ林から採られた。その後、1928年に蓬莱殖産株式会社(現:ホウライ株式会社)に移管する[1]。太平洋戦争後に酪農へ進出。1964年にジンギスカン料理の提供を始めて観光牧場としての面を強め、1980年代以降、東北自動車道が延伸を続ける西那須野塩原インターチェンジの直近という立地条件から人気が高まった。体験型農業施設、飲食、農産物などの物販を行っているほか、遊具などを置いてる。熱気球や乗馬・馬車の体験、温泉入浴なども楽しめ、年間80〜90万人程度が訪れる。2000年代においても牧場としての事業は継続中であり、200haを超える牧草地と500頭を超える乳牛を有し、日産8tの生乳を生産している[2]。」
千本松牧場の隣には私の大好きなゴルフ場、ホーライカントリーと西那須野カントリーが並んでいます。とても美しい赤松林の中にあり、赤松とグリーンの緑のコントラストにはほれぼれします。ゴルファー用の宿泊施設があるため、必ず一泊2プレーを楽しむことにしています。そして食堂には毎日搾りたて牛乳が置いてあって、自由に飲むことができます。
つれづれなるままに松方コレクションと那須のお話でした。