河童メソッド。極度の美化は滅亡をまねく。心にばい菌を。

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OCNから2014/12引越。タイトルや本文が途中で切れているものがあります。

1686- ツィンマーマン、静寂と反転、ミサ・ソレムニス、メッツマッハー、新日フィル2014.10.3

2014-10-04 11:56:47 | コンサート・オペラ

2014年10月3日(金)7:15 トリフォニー

ベートーヴェン ミサ・ソレムニス

Ⅰ静寂と反転 (日本初演)、ツィンマーマン作曲9′
Ⅱキリエ 9′
Ⅲグロリア 17′
Ⅳクレド 18′
Ⅴサンクトゥス 16′
Ⅵアニュス・デイ 14′

ソプラノ、スザンネ・ベルンハルト
メッゾ、マリー=クロード・シャピュイ
テノール、マクシミリアン・シュミット
バス、トーマス・タッツル
栗友会合唱団

インゴ・メッツマッハー 指揮
新日本フィルハーモニー交響楽団


この演奏会の前に、郵便葉書がNJPから届きました。ツィンマーマンとミサソレは休憩が無く連続演奏されますとのこと。休憩が無くなったレベルの話をわざわざ葉書で送ってくれなくてもいいのにとその時は思いました。終演後あの葉書はあって正解だったと思ってしまった。
いつも最初にこのブログに書くデータとタイミングを見てほしいのですが、メッツマッハーの意図は明らかに、ツィンマーマンはミサ・ソレムニスの一部でした。ニ音という響きの親近性があり抵抗感なくはいりこめた。また、ⅠⅡⅢは連続演奏であり一つの完成された構築物を感じさせてくれる。冴えた解釈であり、葉書を出す値打ちのある演奏となりました。さらに終演後の残像としてあるのは、ベートーヴェンのミサ・ソレムニスのほうが自らツィンマーマンよりになって聴こえてきたというぐらい印象的なメッツマッハーの深い理解と表現力のことでした。
ミサ・ソレムニスに接着してしまうぐらい親近性のあるツィンマーマンのラスト作品、そして全く違和感なく双方の曲をブレンドさせて圧倒的な説得力を見せてくれたメッツマッハー、お見事。
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静寂と反転、キリエ、グロリア、これらは連続演奏で30分越え、そして、クレド、サンクトゥス、アニュス・デイ、しりつぼみ的に短くなっていきますが、メッツマッハーの緊張感は最初の連続演奏のところがものすごいもので、そこまででなんだか終わってしまったような雰囲気、ちょっと言い方が変ですね、山を越えたという感じですね。
クレドから後半開始といった雰囲気。力みのない演奏が展開されました。ベートーヴェンの巨大さが非常に丁寧に表現されている。精緻さはなかなか出てこないオケですが、丁寧な演奏と集中力で聴かせてくれました。モジャモジャさんのヴァイオリンソロもシリアスさが先に立ち、ハーディングと違い、コンマスの力量ならそこにいてあたりまえの仕事をしてくれないと困るといった雰囲気であり、べたべた感がなくシビア。メッツマッハーは特定コンマス馴れ合い病のようなものはハーディングと異なり、全くない。分相応の仕事をしてあたりまえだろうと。でないときっちりした仕事にはならないんだよと言いたげ。好ましく映ります。
誤解を恐れずに言えば、迎合を嫌う本格派指揮者。彼の場合、20世紀音楽の聴衆への理解伝播は、イージーさとか馴れ合いとか耳にやさしいとか、そういったあたりで始めるのではなく、作曲家に対する深い理解とそれをいかに表現するか、ということに腐心することから始まる、その深い理解が聴衆の先鋭化を招いておらず、相応に聴衆層の横への広がりをみせていくあたり、彼の理解と表現が聴衆の共感を得ているからであり、彼の意図するところでもあるのだろう。そのような意味から言ってもこの日の演奏会は成功裏に終えることになったし、当夜を含めた一連のツィンマーマン+ベートーヴェン・シリーズも、彼の場合このような見事な演奏会が多々あるのだろうと感じないではいられなかった。シリアスさが聴衆層を広げていく、最近はこのようなことはあまり見かけなくなりました、メッツマッハーはその点、忘れていたものを思い出させてくれるし、その忘れていたもの、深い思考は必要であるなぁ、と唸ってしまうわけです。
ハーディングを出汁に使ってしまいましたが、このオケの現在の両翼は彼とメッツマッハーであり好対照。二人で競い合っているとは思えないのですが、聴衆サイドからすると両翼の指揮者が入れ代わり立ち代わりで、それはそれで聴きごたえ、充実感があるものです。彼らがいるからこちらも考えさせられる、いいことですね。
おわり