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news commentary

夏バテ

2009-10-07 20:57:26 | Weblog
  
一読、さすがにふきだしてしまった。

10月7日付朝日新聞(東京)夕刊8ページの文化面に、俳人の長谷川櫂という人が書いた「俳句はなぜ短いか」という文章が載っていた。

長谷川の直感によると、俳句の誕生は日本の夏の暑苦しさのせいなのだそうだ。彼の説明によると、①日本の夏は蒸し暑い②そんな国で多くの言葉をつかうのは暑苦しい③そこで言葉を最小限に切りつめた俳句がうまれた。

たとえばインドの首都ニューデリー。夏は呼吸すると肺が焼けるのではないかとおもうほどの熱気に包まれる。ムンバイやコルカタは日本同様湿度が高く蒸し暑い。そのインドでは、俳句のような短小文芸ではなく、マハーバーラタやラーマーヤーナのような重厚長大文学が生まれている。

俳人は俳句を詠むが、必ずしも俳句の歴史を知っているわけではない。だとしても、ここまでくれば笑ってしまう。

平凡社の百科事典によると、「俳句」という名称が現れたのは江戸時代だが、それが一般化したのは明治時代になってからだ。「五七五音の組合せを基本にした定型詩を指すようになったのは、明治時代、すなわち正岡子規による俳句革新が行われた過程においてである」と百科事典は説明している。それまでは「発句」といわれていた。発句とは連句の冒頭におかれる句である。連句はむかし俳諧の連歌とよばれていた。室町時代にさかんだった連歌は百韻といって五七五の長句50句と七七の短句50句を交互に並べたものだった。西洋のソネットより長く、行数にして白居易の長恨歌よりちょっと短い。俳諧の連歌もはじめは百韻で詠まれ、後に36句を連ねた歌仙とよばれる形式が盛んになった。

井原西鶴は機関銃の如く連続して句を読む大矢数でも知られた人で、一昼夜で2万以上の句を読んだと言い伝えられている。この記録は残っていない。大坂・生玉神社で西鶴が一昼夜で詠んだ俳諧独吟四千句は写本で残っている。それによると四千句は延宝8年5月7日から8日にかけて詠まれたという。旧暦5月は五月雨のころ。夏である。


昔の人は蒸し暑い日本の夏にもめげず、寄り集まっては百韻や歌仙や大矢数を楽しんでいた。

俳人は俳句制作に長けていればよいのであって、俳句の歴史について無知でもいっこうにかまわない。ただ、新聞の文化面にのせる散文であるから、その論旨にはそれなりの知的レベルが要求される。一方でこんな噴飯ものの文章を載せてしまった新聞の編集者は、知的職業人としての責任をとわれることになろう。

  夏バテはわすれたころにおとずれて頭の中を秋風がふく

(2009.10.7)
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