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news commentary

非業の死

2007-12-28 16:38:15 | Weblog
●父娘横死――ベナジル・ブット、54歳、2007年12月27日、暗殺。ズルフィカル・アリ・ブット、51歳、1979年4月4日、処刑。

●母息子横死。インディラ・ガンディーとラジブ・ガンディー、暗殺。

●兄弟横死。ジョン・ケネディーとロバート・ケネディー、暗殺。

●一家皆殺し。ニコライ2世、妻、5人の子、ともども処刑。

人の世は不条理な死に満ちている。その中で政治的な横死が歴史の年表に記載されて残される。親子兄弟の権力者の非業の死はまことに無残である。半面、運がよければ紙一重の差で、親子兄弟で赫々たる権力の座を享受できたことをも意味する。

ロマノフ家はもとより、ケネディー、ガンディー、ブット、それぞれのファミリーも支配する側に属していた。たとえば、インディラ・ガンディーはネルー首相の娘。、異教徒の若者と恋に落ちた。インディラと結婚するためにその若者はヒンドゥー教徒に改宗のうえ、マハトマ・ガンディーの養子になった。インディラ・ガンディーはネルーを実父に、ガンディーを義理の父にもったインドでは名門中の名門の女性だった。

ガンディー母息子ほどではないが、ブット父娘も権力へのアクセスに恵まれた一族の出身だった。アリ・ブットは裕福な地主階級の生まれ。パキスタン人民党を創設した。娘ベナジルは父の死後、父に代わってパキスタン人民党の総裁に就任した。

1947年の独立以来、パキスタンでは軍事政権の期間が文民政権のそれよりも長い。1958年からアユブ・カーンとヤヒア・カーンの軍政が13年続いた。その後、パキスタン人民党を創設したアリ・ブットの文民政権1971年からが6年。1977年になると、ジアウル・ハク将軍がクーデターで政権を掌握、軍政が1988年まで続いた。ジアウル・ハクは1979年、アリ・ブットを処刑した。ジアウル・ハクは1988年破壊工作の疑いが濃厚な航空機事故で死んだ。そのあと、アリ・ブットからパキスタン人民党を引き継いだ娘のベナジルが首相になった。

ベナジル・ブット首相は2年後の1990年にイスハク・カーン大統領によって解任。その後、1991-1993年までイスラム教徒連盟を率いるナワズ・シャリフ政権。1993-1996年には第2次ブット政権が成立。1996年、当時のファルーク・レガリ大統領が汚職容疑でブット首相を解任。1997年に再びシャリフ氏政権となった。1999年、現在のムシャラフ現大統領(当時陸軍参謀長)が、クーデターで政権を奪取した。以後、ムシャラフが陸軍参謀総長をポストを嫌々手放した2007年まで軍政が続いていた。

ベナジル・ブットもナワズ・シャリフも海外に亡命していたが、今回の総選挙を目指して帰国していた。

カラチでのベナジル・ブット暗殺未遂では130人を超える人々が巻き添えで死んだ。12月27日の暗殺事件では10-20人が死んだとみられている。

巻き添えになったこれらの人々の死はただ数字でしか語られない。ベナジル・ブットの死よりも、はるかに不条理に満ちた非業の死である。

今年もまもなく除夜の鐘が陰陰滅滅と鳴る。

(2007.12.28 花崎泰雄)



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