浜名史学

歴史や現実を鋭く見抜く眼力を養うためのブログ。読書をすすめ、時にまったくローカルな話題も入る摩訶不思議なブログ。

「風よ あらしよ」

2024-03-31 22:33:24 | 大杉栄・伊藤野枝

 映画「風よ あらしよ」が上映された。しかし私は観なかった。テレビでも放映された。でも私は見なかった。

 私は、伊藤野枝について、野枝が書いた文、野枝について書かれた文のほとんどを読んでいる。だから私には、野枝をはじめ、大杉や辻潤らのイメージをすでにもっている。私はそのみずからがつくりあげたイメージを大切にしたいと思う。だから見ない。

 子どもの頃、NHKの大河ドラマを見ていた。だから豊臣秀吉を思い浮かべようとすると緒形拳の顔が出てくる。

 だから映像化された歴史は、見ない方がよいという結論を持つに至った。とはいえ全く見ないわけではない。「朴烈と金子文子」の映画は見た。でも、朴烈のイメージと映画の男優とは重ならなかった。でも、朴烈を想起するとき、あの男優の顔が浮かび上がってしまう。

 「風よ あらしよ」を観た友人から、劇場で販売されていた『風よ あらしよ (劇場版)』が送られてきた。ずっと前に送られてきていたのだが、母の死などがあって今まで読んでいなかった。

 今日、読んでみた。

 野枝を演じた吉高由里子さんの「伊藤野枝を演じて」を読んでみて、吉高さんは野枝という人間の本質をとらえている、と思った。私がもつ野枝像と重なるからだ。吉高さんは野枝について書いているが、そこに書かれている野枝は、まさに伊藤野枝という存在であった。しかし野枝のイメージと、吉高さんはイコールではない。

 この映画にでてくる大杉も辻潤も、私のイメージとは大きく異なっている。みなくてよかったと思った。

 ブレイデイ・みかこさんの文はよかった。訪日したバートランド・ラッセルが野枝に会い、訪日中に会った日本人でもっとも「好ましい人物」として野枝をあげたことが記されている。ラッセルは、強い印象を野枝から受けたのだ。

 野枝の「奴隷になるな」という呼びかけは、今も尚生きていることをみかこさんは強調している。野枝が書いた文は、いまも読む価値がある、と私も思う。

 加藤陽子さんの文は、大杉と野枝、橘宗一が殺された「時」を解説している。私も、どこかに書いたことがあるが、1917年のロシア革命、その後のシベリア出兵、朝鮮の3・1独立運動で体験した権力者の意思が、大杉らの殺害の背後にあると考えている。だから、権力者は、いつか大杉らを抹殺しようと考えていたはずだ。

 私は、野枝は、こういう時代だからこそ、振り返らなければならないと思っている。今、他の仕事をしている関係で、野枝に関する書籍などは実家に置いてあるが、「時」が来たら、もう一度すべてを読み直してみようと思っている。

 この映画のパンフレットは、よい。

 この映画を制作した柳川さんがいつごろから野枝の魅力にとりつかれたのかは知らないが、私の場合はもう50年もまえだ。私のほうが先輩である。

 

 

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伊藤野枝の主張

2023-10-08 20:42:41 | 大杉栄・伊藤野枝

 私は学生時代から伊藤野枝に敬意を表してきた。野枝について、いろいろな誹謗中傷がなされていたが(栗原康の『村に火をつけ、白痴になれ』もその類いである)、彼女の主張は、今でも新鮮であるし、教えられるところをもっている。

 たとえば「禍の根をなすもの」という文がある。1923年、虐殺された年の『中央公論』6月号に掲載されたものだ。

 性問題を論じたものであるが、野枝はこう書く。

・・性問題を危険な傾向に導いたのは、みんな老人共の不純な精神だと。彼ら自身まづ性の差異に対する恥づべき意識を消すべきです。年若い子女達につまらない好奇心をわざわざ引き起さすような『隔絶』を止(よ)すべきです。男も女も、性別を意識するより先きに、まづ『人間』に対する識別を教へられるべきです。娘達は男の妻として準備される教育から解放されなければなりません。 男と女との差異を画然と立てた教育が先(ま)づ打破されなければなりません。子供の頭に、性の差別を激しく印象させる事が止められなければなりません。少年少女の間にある性別の意識を伴はないフレンドシップが自然に育てられなければなりません。

 野枝は、保護者や教育者が、性別の意識にこだわることから解放され、「男も女もおんなじに、一人前の『人間』をつくる事を先づ心がけなければなりません。『人間』が立派に出来あがりさへすれば、他人の為めに余計な心配をする必要」がなくなり、子どもたちを信ずることができるのだ、と主張する。

 いろいろな文を読むほどに、野枝の感受性の豊かさと、それをもとにした認識、判断力に感動するのだ。

 野枝と大杉とがパートナーとなる過程で、いろいろ問題が起こったが、それを乗り越える中で、野枝と大杉とは「同志」的なカップルとなっていった。

 私は大杉の、堀保子、神近市子、野枝との関係のなかで主張された「自由恋愛」論は、男にとって都合のいい身勝手な論理であると考えているが、それを経た野枝と大杉の関係は理想的なものであると思う。野枝の文には、二人のそうした関係が表現されている。

 

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『風よ あらしよ』文庫本

2023-05-01 20:50:14 | 大杉栄・伊藤野枝

 村山由佳の『風よ あらしよ』が、集英社文庫版として発売された。上下二巻で、それぞれ900円(+悪税90円)である。私は単行本を持っているので買わないでいたところ、下巻に書かれている「解説」を送ってくれた。「解説」を書いたのは、上野千鶴子さんである。

 上野さんは、瀬戸内寂聴の『美は乱調にあり』、『諧調は偽りなり』(以下瀬戸内本)と、栗原康の『村に火をつけ、白痴になれ』(以下栗原本)とを一応比較され、村山本についての解説を書いている。

 その解説は、以前私が某雑誌に書いた内容と本質的な違いはない。

 岩波書店から発売された栗原本は、実際検討に値しないものだ。事実を平気で無視し捏造するというように、歴史的事実にきちんと対応せず、きわめて主観的な野枝像をかきあげた。上野も、栗原本を「「私」満載、野枝にかこつけた全編、彼自身のアジテーション」と評価している。その通りである。野枝という人物を客観的に見つめるのではなく、「私」と野枝とを同化させてしまっている、そしてその「私」とは、「欲望を全開にして生きる野生の」「私」なのである。そういう「私」に野枝を引きよせるのだ、気持ち悪い!栗原本は、評伝とはとてもいえない。

 瀬戸内本は、私はそんなに違和感を持っていない。瀬戸内は、野枝だけではなく、社会主義に生きた女性の評伝など、いろいろ書いていて、それぞれその段階での歴史研究の成果を採り入れて書いているからである。

 さて村山本では、客観的歴史的事実と村山の作家としての想像力とがうまく調合され、その結果、生身の野枝(野枝だけではなく周辺の人物も)を描いてくれたように思う。

 伊藤野枝を知りたいなら、この本を読むのがよいだろう。

 上野さんは、末尾で「野枝というひとが身近にいたら?・・・ほんとうを言うとお友だちにはなりたくない。」と書いているが、しかし私は学生時代からずっと野枝にご執心なのだ。

 

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大杉栄らの墓とアール・デコ

2023-02-14 20:24:20 | 大杉栄・伊藤野枝

 昨年書いた文を掲載する。今年は関東大震災から100年。その混乱のなかで虐殺された大杉栄、伊藤野枝、橘宗一の墓は、静岡市の沓谷霊園にある。今年はその墓を訪れる人も多いと思うので、これからいくつかを紹介する。まずその墓のデザインについての言及である。

はじめに

 ある日、H氏からメールが届いた。H氏の友人から、静岡市・沓谷霊園にある大杉栄らの墓が「アール・デコ調」だと指摘された、というのだ。これについて教えてほしい、というメールであった。

 確かに大杉らの墓をよくみると、ふつうの墓とは異なり、意匠が加えられている(写真参照)。アール・デコといわれればそのようにも思える。そこで、問われたことについて、考察してみたい。

大杉らの墓建設の経緯

  なぜ静岡・沓谷霊園に大杉らの墓があるのかということについては、別の機会に掲載する。ここでは墓がどのようにつくられたかを記す。

 当初、大杉栄の父・大杉東が葬られている鉄舟寺への埋葬を企図したが反対もあって実現しなかった。その後臨済宗妙心寺派の真福寺(清水区)が候補にあがったが、これも拒否され、結局静岡市在住の柴田勝造・菊(大杉の妹)の尽力によって、共同墓地である沓谷霊園への埋葬となった。

 さて墓石であるが、真福寺檀徒の志田繁作が中心となった。その経緯を、『静岡新報』1925年7月14日付が、「墓石の世話人は、前記真福寺の檀徒志田繁作氏で、設計構図は同氏の弟志田政次郎の手に成り、市内辻町石工柴田恵作方の所に於て隠密裡に製作し、数日前出来上がったので、十二日深夜夜陰に乗じ七台の貨物自動車で前記共同墓地へ運搬し了ったのである。墓碑は基礎石から三段、其の上に大杉栄之墓と墓銘を刻んだコンクリート石が建てられ、頗る現代式のもので墓銘は大杉氏が自伝に認めた字体を模擬したものである(以下略)」と報じている。

  さて設計は、志田政次郎による。当時志田政次郎は、東京で建築を勉強中であったという。当時、建築の方面では、アール・デコが席捲していた。

アール・デコ

  アール・デコは、「1910年代から30年代にかけてさかんに用いられた造形のスタイルである」と、『アール・デコ建築』(吉田鋼市、河出書房新社、2010年)は記している(6頁)。同書はその特徴として、以下のように説明している。

 「アール・デコの建物は、たいてい鉄筋コンクリート造であ」(9頁)り、「アール・ヌーヴォーはなめらかで流れるような非対称で自在な曲線的模様を特徴とする」が、「それに対して、アール・デコの造形はおおむね対称形をしており、非常に幾何学的でほとんどは定規とコンパスで描きうる。・・(中略)・・アール・ヌーヴォーの造形は曲線的・有機的・非幾何学的・非対称・平面的であり、アール・デコの造形は直線的・無機的・幾何学的・対称的・立体的ということになる。」(18頁)

 アール・デコは、もちろん日本へも波及してきた。「大正末期から昭和初期の建物は、多くがアール・デコのグループに属する」(吉田鋼市『日本のアール・デコの建築家』王国社、2016年、16頁)とされている。

大杉栄らの墓とアール・デコ

 大杉栄らの墓をみると、コンクリート製、左右対称であり、直線的、幾何学的であることがわかる。墓石の頂部が細められており、アール・デコの建築として有名な早稲田小学校の門柱とよく似ている(ただし現在の門柱はそれではない)。また墓石の上部にギザギザの文様が施され、「大杉栄之墓」と刻まれたところはくぼんでいる。

 アール・デコ建築の設計者は、「建物の用途や、建物の体現しなければならない性格を伝えるために、それぞれの状況に応じて様々な造形要素を使い分けた」(前掲『日本のアール・デコの建築家』、18頁)とのことであるが、大杉らの墓もそのような意図のもとに造形されたのではないかと推測できる。

 大杉栄らの墓の設計者は、東京で建築を学んでいた志田政次郎である。当時建築を学ぶということは、アール・デコの意匠を学ぶことでもあった。彼の足跡をたどろうとしたが出来なかった。

吉田はこう記している。

 アール・デコの建築家たちは、基本的には物言わぬ、言挙げしない建築家たちである。設計の主旨とか意図とか、建築のあり方とか、社会に対する問題意識などを声高には叫ばない人が多い。黙々と仕事をし、施主に気に入られ、それを使ったり見たりする人の記憶に入り込み、結局は時代の景観を作ってきた。そしてそのいくつかは、今日も同じ用途で使われ続けており、時には文化財となったり、景観重要建築物となったりして大切に保存され、時代の文化や雰囲気を伝える貴重な歴史的資産となっている。(『日本のアール・デコの建築家』、「あとがき」)

おわりに 

 大杉らの墓は、志田繁作が中心となって、政次郎が設計し、石工・柴田恵作が施工した。その墓は2025年で100年となる。独特の意匠を持った墓は、これからも、1923年9月の国家権力の暴虐と大杉栄、伊藤野枝らの記憶を語り続けていくはずである。

〈付記〉静岡市に於けるアール・デコの墓として、文化財にすることも可能ではないかと思われる。

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伊藤野枝のこと

2023-01-23 20:36:27 | 大杉栄・伊藤野枝

 埼玉県に住む方からの手紙の中に、伊藤野枝に関して言及があった。

 私は学生時代から野枝の生に大いなる関心をもってきている。だから、野枝が上京するまで生活をした福岡県の今宿周辺を歩いたり、野枝の甥にも会ったことがある。野枝に関して書かれた本は、ほとんど読んでいるし、全集は三巻本も、そのあとに出版された四巻本も持っている。

 私は、野枝はずっと闘い続けた女性だと思っている。闘う対象は時期によって異なるが、自らをもっともっと成長させたいという強い意欲を原動力に、ひるむことなく闘い続けてきたと思っている。

 いただいた手紙には、平塚雷鳥の野枝評が記されていた。ユーチューブでそれを知ったというので、私も見てみた。雷鳥の指摘には、なるほどと思うところがある。たとえば「野枝はみずからの思想を持ち得なかった」という点である。その通りだと思う。しかし野枝が殺されたのは28歳である。一般的に、28歳までにみずからの思想をつくりあげることができるのだろうか。私は、それに一面同意しつつ、しかし野枝自身の生き方それ自身が彼女の思想であると思っている。

 手紙に書かれていた雷鳥の野枝評として、「その都度の愛人の思想が彼女の思想」だというものがあった。私はそうは思わない。今宿に生まれ、豊かではない生活の中で、みずからを成長させるためにおじさんにすがって学校に行かせてもらったり、野枝は常に主体的にみずからの生を築き上げようと生きていた。最初の、親族に強制された結婚から逃れたのも、そうした生き方からである。その逃れた先に辻潤との生活があった。野枝は辻から多くのものを学んだ。しかし辻のように生きることはなかった。その後、大杉と同志的な関係に入り、大杉からも多くを学んだ。

 野枝の生の軌跡をみつめると、主体は常に野枝にある。私は野枝の文も、大杉の文もすべて読んでいるが、大杉の思想=野枝の思想だと思ったことは一度もない。共同生活をしているから、影響し合うことはもちろんあったが、「愛人の思想」をそのまま野枝の思想だという指摘は、間違いだと思う。

 もう一つ、雷鳥は「野枝の理性(理知ではないか?)を信じない」とあるが、それは雷鳥の勝手であろう。

 その手紙には、「野枝の身勝手」についても言及している。確かに、野枝の周りの人びとは、野枝の主体的な生の渦巻きに巻き込まれて、野枝に「身勝手」を感じたこともあるだろう。

 野枝がどんな逆境にあっても、みずからの生をみずから創っていく、というその強い意欲に、私は大いに心を動かされている。

 私が野枝への思いを瀬戸内晴美さんに語ったことがある。瀬戸内さんが『美は乱調にあり』を刊行し、『諧調は偽りなり』を書いている頃だ。瀬戸内さんは、「あなた、野枝さんはたいへんよ。」というようなことを言われた。

 私もそれには同意する。しかし、明治から大正にかけての時代、ひとりのイナカに生まれた女性が、みずからの生をみずからの力で創り上げていこうとするとき、それを阻止する力は途轍もなく大きなものであったはずだ。その力に抗するには、それらを押しのける強さが必要とされた。

 その強さに、私はひかれるのだ。その強さが、時代を切り開いてきた。その強さは、雷鳥ももっていたはずである。

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大杉榮のこと(5)

2020-09-22 14:53:42 | 大杉栄・伊藤野枝
 人間の「生の拡充」を阻害(疎外)する者がいる。大杉は「奴等」と表現する。

◎「奴等」をどう見たか。(「奴等の力」、1913年、『全集』2)

奴等の力

なるほど奴等は力を持つてる。
一寸でも刃向へば直ぐ殴りとばされる。
いかにも奴等は強そうだ。
だから皆んな奴等の前にへこたれてる。
だが本当に奴等は強いんだらうか。
これは事実上問題にならん問題のやうだ。
しかし僕等には何うも疑はれてならん。
僕等はだいぶん奴等に当つて見た。
そして其のたんびに僕等は負けた。
だが僕等は只負けて了つたんぢゃない。

負けるたんびに僕等の心に勝利が萌してた。
奴等は弱いんだ。奴等は力も何んにもないんだ。
只へこたれてる皆んなで奴等の力を作ってるんだ。
今に僕等が奴等の弱い事を見せてやる。
奴等の力を支へてる皆んなをどけてやる。

 大杉は、「生の拡充」の妨げるものに対して果敢に挑戦していくという決意を記す。そのためには「奴隷根性」を消し去らなければならない。

◎奴隷根性を消し去ること(「奴隷根性論」、1913年、『全集』2)
主人に喜ばれる、主人に盲従する、主人を崇拝する。これが全社会組織の暴力と恐怖との上に築かれた、原始時代からホンの近代に至るまでの、ほとんど唯一の大道徳律であったのである。
そしてこの道徳律が人類の脳髄の中に、容易に消え去ることのできない、深い溝を穿ってしまった。服従を基礎とする今日のいっさいの道徳は、要するにこの奴隷根性のお名残りである。
政府の形式を変えたり、憲法の条文を改めたりするのは、何でもない仕事である。けれども過去数万年あるいは数十万年の間、われわれ人類の脳髄に刻み込まれたこの奴隷根性を消え去らしめることは、なかなかに容易な事業じゃない。けれども真にわれわれが自由人たらんがためには、どうしてもこの事実は完成しなければならぬ。

 実際、「奴隷根性」をなくさないと、自由人にはなれないし、事業も推進できないのである。だが人々は、鎖につながれている。

◎鎖につながれているという現実、そこからの脱出(「鎖工場」、1913年、『全集』2)
 夜なかに、ふと目をあけてみると、俺は妙なところにいた。
 目のとどく限り、無数の人間がうじゃうじゃいて、みんなてんでに何か仕事をしている。鎖を造っているのだ。
 俺のすぐ傍にいる奴が、かなり長く延びた鎖を、自分のからだに一とまき巻きつけて、その端を隣りの奴に渡した。隣りの奴は、またこれを長く延ばして、自分のからだに一とまき巻きつけて、その端をさらに向うの隣りの奴に渡した。その間に初めの奴は横の奴から鎖を受取って、前と同じようにそれを延ばして、自分のからだに巻きつけて、またその反対の横の方の奴にその端を渡している。みんなして、こんなふうに、同じことを繰返し繰返して、しかも、それが目まぐるしいほどの早さで行われている。
 もうみんな、十重にも二十重にも、からだ中を鎖に巻きつけていて、はた目からは身動きもできぬように思われるのだが、鎖を造ることとそれをからだに巻きつけることだけには、手足も自由に動くようだ。せっせとやっている。みんなの顔には何の苦もなさそうだ。むしろ喜んでやっているようにも見える。
 しかしそうばかりでもないようだ。俺のいるところから十人ばかり向うの奴が、何か大きな声を出して、その鎖の端をほおり投げた。するとその傍に、やっぱりからだ中鎖を巻きつけて立っている奴が、ずかずかとそいつのところへ行って、持っていた太い棍棒で、三つ四つ殴りつけた。近くにいたみんなはときの声をあげて、喜び叫んだ。前の奴は泣きながらまた鎖の端を拾い取って、小さな輪を造っては嵌はめ、造っては嵌めしている。そしていつの間にか、そいつの涙も乾いてしまった。
 またところどころには、やっぱりからだ中鎖を巻きつけた、しかしみんなに較べると多少風采のいい奴が立っていて、何だか蓄音器のような黄色な声を出して、のべつにしゃべり立てている。「鎖はわれわれを保護し、われわれを自由にする神聖なるものである、」というような意味のことを、難しい言葉や難しい理窟をならべて、述べ立てている。みんなは感心したふうで聴いている。
 そしてこの広い野原のような工場の真ん中に、すばらしい立派ななりをした、多分はこの工場の主人一族とも思われる奴等が、ソファの上に横になって、葉巻か何かくゆらしている。その煙の輪が、時々職工の顔の前に、ふわりふわりと飛んで来て、あたりのみんなをいやというほどむせさせる。
 妙なところだなと思っていると、何だか俺のからだの節々が痛み出して来た。気をつけて見ると、俺のからだにもやっぱり、十重二十重にも鎖が巻きつけてある。そして俺もやっぱりせっせと鎖の環をつないでいる。俺もやっぱり工場の職工の一人なのであった。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
ああ、俺はあんまり理窟を云ひすぎた。理窟は鎖を解かない。理窟は胃の腑の鍵を奪ひ返さない。
 鎖は益々きつく俺達をしめて来た。胃の腑の鍵も益々かたくしまつて来た。さすがのなまけものの衆愚も、そろそろ悶え出して来た。自覚せる戦闘的少数者の努力は今だ。俺は俺の手足に巻きついている鎖を棄てて立つた。
しかし、その力や光も、自分で築き上げてきた現実の地上から離れれば離れるほど、それだけ弱まっていく。すなわちその力や光は、その本当の強さを保つためには、自分で一字一字、一行一行ずつ書いてきた文字そのものから放たれるものでなければならない。

 自らの力で、鎖を断ち切らなければならない。大杉は、少数であっても、そういう人々に期待するのである。

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大杉榮のこと(4)

2020-09-17 07:33:38 | 大杉栄・伊藤野枝
大杉栄の思想を紹介していく。

 大杉の思想や行動の根本には、今、実際に生きているみずからのこの生を、どこまでも拡充させていくという強い意志があった(「生の拡充」)。

 運動には方向はある。しかし所謂最後の目的はない。一運動の理想は、其の所謂最後の目的の中に自らを見出すものではない。理想は常にその運動と伴ひ、其の運動と共に進んで行く。理想が運動の前方にあるのではない。運動其者の中に在るのだ。運動其者の中に其の型を刻んで行くのだ。
 自由と創造とは、之れを将来にのみ吾々が憧憬すべき理想ではない。吾々は先づ之れを現実の中に捕捉しなければならぬ。吾々自身の中に獲得しなければならぬ。
 自由と創造とを吾々自身の中に獲(え)るとは、即ち自己の自己である事を知り、且つこの自己の中に、自己によつて生きて行く事を知るの謂である。
・・・・・・・・
 自由と創造とは、吾々の外に、又将来にあるのではない。吾々の中に、現に、あるのだ。
(「生の創造」、1914年、『全集』2)

 未来に理想社会を夢見る者は、理想社会ができたら・・・という思考を持ちやすい。未来に希望を託し、今はそのための手段とみる。あるいは理想社会ができていないのだから、今は我慢しよう、と考える。あくまでも理想社会は、彼岸のことなのだ。

 ところが大杉は、そうは考えない。今生きているこの現在、現時点において、まさにここに、理想(社会)を刻印していくのだと考えた。

 となると、当然自らを包囲し、それを妨げるものと闘っていかなければならない。生の拡充には、叛逆の精神が付随する。

 自我は活動と反省とによって、これを捕捉し発育せしめることができる。そして吾々はまず、この捕捉し得たる自我をして、その固有の性質たる自由と創造とを、自由なる思索と行動とを、その為し得る一切の方面に働かさねばならぬ。
 かくして吾々は、はじめてそこに、自我と周囲との峻烈なる闘争を見るのである。新人の恐るべき努力を見るのである。
 この努力と闘争とのないところに、自我の真の発展は見出され得ない。自我の強大はこの努力と闘争との仲にのみ求められべきものである。自由と創造との理想の信仰には、人格の鍛錬には、必ずこの闘争の野を経なければならぬ。
 しかも今日の如き、ほとんだあらゆる社会的制度が、自我の圧迫と破壊とにつとむる場合において、自我の向かうところは、これ等の社会的諸制度に対する叛逆のほかはない。
(「生の創造」、1914年、『全集』2)

 みずからを取り囲む社会的制度その他が、自我のみならず生そのものを圧迫し破壊してこようとするとき、それに叛逆しなければ生の創造はあり得ないのである。(続く)



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大杉栄のこと(2)

2020-09-14 20:48:15 | 大杉栄・伊藤野枝
 大杉栄は1923年9月16日に殺された。大杉栄が書きのこした諸々の文章は、『大杉栄全集』(パル出版)に掲載されている。しかし、大杉とはどのような人物であったのかを知るためには、誰かが書いたものから知るしかない。

 『新編 大杉榮追想』という本がある(土曜社)。これは『改造』の1923年11月号の特集「大杉榮追想」の部分をまとめたものである。9月に殺されたわけであるから、かなり早く出版したものである。

 そこには、山川均、村木源次郎、安成二郎、山崎今朝弥、和田久太郎、賀川豊彦、岩佐作太郎、堀保子、内田魯庵、松下芳男、土岐善麿、近藤憲二、馬場孤蝶、宮嶋資夫、有島生馬、久米正雄の文が掲載されている。

 私は学生時代から伊藤野枝ファンであったが、大杉にも魅力を感じていた。女性はもちろん大杉に吸い込まれていったが、男も大杉の魅力に惹かれていた。

 山川はこう書いている。

 大杉君には一種の徳が備わっていた。大杉君の性格には、それほど人を惹きつけ、それほど人を親しませるところがあった。あれほどの剛情張りで、あれほど人を人とも思わぬ態度で、あれほど言いたい放題を言い、仕たい放題をし、あれほど我押し通して、しかもあれほど人を怒らせず、あれほど人から親しまれた人はない。

 大杉君の周囲には、大杉君の「説」を讃美する者よりも、「人」を讃美する者をよく惹きつけた。

 このように記された大杉に会ってみたいと思うのは、私ばかりではないだろう。

 しかし彼は、甘粕憲兵大尉等に虐殺された。

 そのことを一番憤っているのは、有島生馬である。

 今度の殺害事件について一言しよう。甘粕大尉の無智無謀と当局の弁明書とは実に国家の一大汚辱なりとは、ほぼ識者の論じ尽くしたところであるから今さらそれを言う必要はあるまい。ある個人が将来にこんな悪事をするであろうからという予想のもとに憲兵大尉がこれを司令部内で死刑に処するということになれば東京市民全体に対する一大恐怖と言わねばならない。(中略)
 しかしこの違法犯罪よりも、無智よりも、さらに私の憎しみに堪えないものは彼らの残忍性である。人間らしい憐愍の情の露ほどもない獣性の表れである。何らの用意もない大杉を、不意に絞殺し、その同じ腕で再び野枝を殺し、頑是ない宗一を殺させたことを聞くと、われわれとは異なった一種の劣等人種があるのではないかという感がする。自衛団その他の出来事でもみな同じくこの想像できない獣性がわれわれ同胞の間にも隠されているということに気付いて嫌な心持になる。強盗などよりももっと悪い、なぜなら強盗などにはどこか冷やかでない幾分自衛上やむをなく(ママ)とか意識の曇ったようなところがある。しかるにこの殺人者らの行為はあたかも当然のことを名誉をもって行うという風な非人情的な、天真の欠乏した、まったく誤った心状にあるからである。いかなる場合でも憐愍の情なく人を殺すごときは最も恐るべきかつ許すべからざる行為である。強盗の殺人よりも憎むべき野蛮人の行為心状だからである。

 この本には、大杉の人となりが、様々な方向から描写されていて、大杉に関心を持つ人にとっては、たいへん参考になる本である。



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大杉栄のこと(1)

2020-09-13 21:09:57 | 大杉栄・伊藤野枝
 1923年9月16日、大杉栄、伊藤野枝、橘宗一が、関東大震災の混乱の中(といっても、朝鮮人中国人の虐殺が行われた時から10日以上経過した頃であった)、甥の橘宗一少年を連れ自宅に帰ろうとした大杉、野枝を、東京憲兵隊が連行していった。もちろん、大杉らには警察官の尾行がついていた。

 大杉栄について、不定期に書いていこうと思う。

◎現在と大杉の時代
 残念ながら、現代は19世紀ないし20世紀前半の政治社会に戻りつつある。

 大杉の時代は、様々な弾圧法規と、それを実効せしめる機関(軍隊、警察機構、裁判所など)の存在により、自由は大きく制約されていた。そのため、国家・政治に異議を唱える運動や、その組織は力を持つことができず、まさに民衆は「臣民」(天皇に従属する・支配される人)として位置づけられていた。

 また学校や軍隊は、国家に従順な「臣民」を育成する機関として存在し、その役割を十二分に果たしていた。

 ブレイディみかこの『This is Japan』(太田出版、2016)に以下のような記述があった。「英国の労働運動史のプログレスの歴史」として、
①労働者が闘う労働者を侮蔑して妨害した時代から、
②労働者同士が団結して闘う時代に移行し、
③別の問題で闘っている団体とも協力する時代が訪れ、
④労働者たちが社会には様々な問題があることを知覚できるようになり、ユナイトしてすべての人々の権利のために闘うようになる。

をあげ、「日本の労働運動は、ひょっとするといま、①の状態なのではないか」と記している。

 しかし私は、①にいく前の段階に「戻された」状態であると思う。すなわち、現在ある労働組合のほとんどが労働組合としての機能を果たしていないし、労働者の権利を守らない。それだけではなく、民衆の生活を擁護し、権利を拡充するために、国家や体制に異議を唱える組織(社会団体)が弱体化している状況がある。そして裁判所も、学校も、あの時代と同じ機能を持つようになっている。

 20世紀後半の民主主義的な諸運動の成果が蓄積されなかったということである。

 となると、大杉らが生きた時代と現代とは、あまり変わらないのではないか。だからこそ、運動の形態として、SEALDsのような動きがでてきた。

 大杉は、
僕の政治的理想は、・・各個人が相課する事なくして相合意する。そして此の個人より成る各団体も亦同じく相課する事なくして相合意する、個人も団体も全く自治の連合制度である。そして此の理想は、高遠に若しくは実現する事の出来ない性質のものでなく、既に吾々の日常生活に於ける個人と個人との関係及び種々なる団体と団体との関係の間に既に実現されて、しかも其の真実なる生活であるとされてゐるものである。吾々はただ、吾々の日常生活の中にある此の事実を益々充実せしめ益々拡張せしめて、更に此の真実をして他の種々なる社会生活を、そして遂に政治的領域を支配せしめればいいのだ。(「個人主義者と政治運動」)
と記している。

 つまり社会運動やその対象となる政治的領域は、日常生活と断絶したものではなく、日常生活の関係を、社会的な運動へと拡張していくこと、そして社会生活、政治的領域において主体となるように、日常生活を押し広げていくことを主張する。

 大杉の主張は、閉塞的な現代社会で、それを克服するための思考の端緒を示しているように思われる。


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大杉栄・伊藤野枝・橘宗一墓前祭について

2020-09-12 22:08:26 | 大杉栄・伊藤野枝
 9月12日、静岡市の沓谷霊園で、大杉栄・伊藤野枝・橘宗一の墓前祭が行われた。開始前に降っていたこぬか雨もあがり、曇天の下、午前11時、墓前祭は開始された。コロナ禍の中、今年は墓前祭のみで、午後に予定されていた講演会は中止となった。

 ところで、なぜ大杉栄・伊藤野枝・橘宗一の墓が静岡市にあるのかを説明しておこう。

 大杉栄、伊藤野枝、橘宗一は9月16日、関東大震災の混乱の中、甘粕憲兵大尉を中心とした国家権力により惨殺され、遺体は東京憲兵隊の古井戸に投げ捨てられた。この事実がどのように明らかにされていったかは、鎌田慧『自由への疾走』(岩波書店)などを読んでいただくとして、陸軍第一衛戍病院から引き渡された遺骨は荼毘に付され分骨された。分骨された一つは、福岡へ運ばれた。

 大杉らの葬儀は、1923年12月16日に行われるはずだったが、葬儀当日、弔問を装って来訪した右翼・大化会の下鳥繁造ら3人の男に遺骨が奪われ、遺骨は大化会会長の岩田富美夫の手に渡った。内務省警保局、北一輝らの動きにより、遺骨が返還されることとなり、12月25日に警視庁に提出されたのだが、しかし、「虎ノ門事件」が起きたことから遺骨の返還は遅れ、結局引き渡されたのは、1924年5月17日となり、弟の大杉勇が警視庁で受け取った。

 そして静岡の共同墓地・沓谷霊園に遺骨が埋葬されたのは、1924年5月25日。墓の建立は、1925年7月14日。

 ではなぜ沓谷霊園なのか。

 栄の父、東(陸軍歩兵少佐)は日露戦争で負傷し退役、再婚した妻かやの故郷清水・三保に隠居し、「赤旗事件」で大杉が獄中にいるときに死去(1909年)。その遺骨は、清水の鉄舟寺に葬られた。栄も鉄舟寺に葬られるはずだったが、檀家や在郷軍人会、青年団が猛反対したため、結局沓谷の共同墓地に葬られることになった。当時静岡に住んでいた栄の妹である菊夫妻(柴田勝造、菊)が求めたもので、1924年5月24日、遺骨は東京から柴田家に運ばれ、その夜葬儀が行われた。翌25日、遺骨が埋葬された。当時の新聞は、こう伝えている。

「柴田家の六畳座敷に南向きに安置された栄、野枝、宗一の三名の遺骨をひとまとめにした骨箱とこれを左にして栄氏の実弟伸氏の遺骨とが相並べて安置され、其前には栄、野枝、宗一三名の最近の肖像に僅かばかりのバナナと西洋菓子の一皿が置かれてあり、如何にも物淋しい部屋の中には香の煙が満ち満ちて居るのみで、他には喪章の付いた花輪が淋しく立って居るのみであった。葬儀は午後三時半から始められ新善光寺僧侶の読経が終わって一同は臼井、富田、金原の三刑事に衛られ、清水山麓の共同墓地に向かった。宗一の母橘あやめは紺サージの地味な洋服姿で、栄、野枝、宗一三名を、伸氏の遺骨は栄氏の実弟勇、進両氏の手に護られて腕車で墓地に向かった。会葬者は栄兄弟、柴田一家と他に親戚の熊谷、宇佐見両氏の十二名であった。
 栄氏の遺骨は小高い丘の南部に面した約二坪ばかりの所に埋められたのであるが、穴掘りが穴を掘るサベル(シャベル)の音をあやめは堪えられないやうな面持ちでじっと聞いていたが、柴田氏妻女菊子(あやめの実姉)に勧めらるるままに兄等と愛児宗一と野枝の遺骨の上に手もて土を落とし祈りを捧げた。折柄吹きしきる烈風に雨雲が空一杯に拡がり墓地は益々物淋しさを増して来た。斯くて薄命の栄と夫人野枝並に果報ない最後を共にした橘宗一は永遠に此共同墓地に眠りを続けるのである」(『静岡民友新聞』1924年5月26日付)

 その後1925年7月、清水の大工・志田繁作により、コンクリート製の墓碑が建立された。「大杉栄之墓」の文字は、菊宛て書簡の自署を模写したもので、大杉の自署である。

 戦後、この墓を訪れた山川均は、「おお、これは大杉の字だ!」といって、墓を抱きしめたという。また戦前、近くにあった女子師範学校の学生が、愛の成就を願って、この墓にお詣りに来ていたという。
 しかし、この墓、大杉だけでなく野枝や橘宗一の遺骨も埋葬されているのに、墓は大杉栄の名だけが刻まれている。

 また分骨された宗一の名古屋の墓は、1972年に発見された。覚王山日泰寺ちかくの団地に住む女性が夏草に覆われた墓石を発見した。そこには「宗一ハ再渡日中東京大震災ノサイ大正12年9月16日夜、大杉栄、野枝ト共ニ、犬共ニ虐殺サル」と刻まれていた。

 また福岡の墓は、菩提寺の前にあるNさん宅の庭にあったとのこと。劇作家の宮本研氏が「すでにいくつにも砕けていたが、Nさんの好意なのだろう、つる草をからませ原型が保存してある。文字はない。ただの石塊(いしくれ)である。」と、「青鞜の女」に書いていた。今は移されて、山の中にあるという。「石塊」は、三つに割れているとのこと。福岡の墓だけ、未見である。



  
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