日本の社会は大きく劣化していると感じさせられる事件である。
政治家としてなにも考えることなく、ただ権力の周辺で生きることのみをめざしてうまく動き回るひとりの女。だから彼女は、政治のレベルではなにものをも残すことはない。権力の周辺で生きていくためには何をすればよいか、何をしてはいけないか・・・これだけが彼女の価値判断である。
先ほど、若桑みどり『女性画家列伝』(岩波新書)を読み終えた。そこにひとりの女性画家をとりあげたところに、以下のような記述があった。
女たちのサクセスストーリーには、美貌が不可欠の要素である。美貌を武器にして男の社会で出世する女性はいつの時代にもいるが、このような人がいくら輩出しても、女性一般が尊重され、平等に扱われた、ということにはならない。これらの人々は、女でなければほとんど歴史に登場する力量さえなかったのである。モデル達は自分が描いてもらう画家が、同じようなうまさならば、美人で愛想がよい方がいいと思ったであろう。女たちの成功のきわめて多くの部分が、男たちの好みに酔っていた。誓っていうが、彼女がブスだったら、これほどの大成功はおさめなかっただろう。
話題になっている女性政治家が「美貌」の持ち主だと思ったことはないが、男たらしであることだけは間違いないようだ。
若桑が紹介している女性画家は、アンゲリカ・カウフマン(1741~1807)である。当時は途轍もなく有名で、彼女は生きている間、カネと名誉に囲まれ、「幸せの頂上でくらすことができた」。
しかし、若桑はこうも指摘している。
美術史上には、生前には神のごとく崇められて、死後は忘却されてしまった人々は、その逆の人よりはるかに多い。
現在彼女の作品は、「空疎で、センチメンタル」だと評され、画家としての彼女を知る者はほとんどいない。美術史上では無名となっているが、生前と死後とのアンバランスの例として、彼女は知られている。
今話題になっている学歴詐称の女性も、カウフマンと同じ道を歩むことになるだろう。なぜなら東京都知事に立候補するに当たって提出した「七つのゼロ」(待機児童ゼロ、介護離職ゼロ、残業ゼロ、都道電柱ゼロ、満員電車ゼロ、多摩格差ゼロ、ペット殺処分ゼロ)と「東京大改革の一丁目一番地は情報公開にあり」など、いずれも口先だけであったことが暴露されている。
まさに「空疎」そのものの人物である。その「空疎」な女性に振り回され、「空疎」な質問しか出来ない記者たちの「空疎」さ。
カイロ大学も、実態がなくても卒業証明書などを発行するという。カイロ大学も「空疎」である。
東京都知事の周辺は、「空疎」で固められている。