人間の「生の拡充」を阻害(疎外)する者がいる。大杉は「奴等」と表現する。
◎「奴等」をどう見たか。(「奴等の力」、1913年、『全集』2)
奴等の力
なるほど奴等は力を持つてる。
一寸でも刃向へば直ぐ殴りとばされる。
いかにも奴等は強そうだ。
だから皆んな奴等の前にへこたれてる。
だが本当に奴等は強いんだらうか。
これは事実上問題にならん問題のやうだ。
しかし僕等には何うも疑はれてならん。
僕等はだいぶん奴等に当つて見た。
そして其のたんびに僕等は負けた。
だが僕等は只負けて了つたんぢゃない。
負けるたんびに僕等の心に勝利が萌してた。
奴等は弱いんだ。奴等は力も何んにもないんだ。
只へこたれてる皆んなで奴等の力を作ってるんだ。
今に僕等が奴等の弱い事を見せてやる。
奴等の力を支へてる皆んなをどけてやる。
なるほど奴等は力を持つてる。
一寸でも刃向へば直ぐ殴りとばされる。
いかにも奴等は強そうだ。
だから皆んな奴等の前にへこたれてる。
だが本当に奴等は強いんだらうか。
これは事実上問題にならん問題のやうだ。
しかし僕等には何うも疑はれてならん。
僕等はだいぶん奴等に当つて見た。
そして其のたんびに僕等は負けた。
だが僕等は只負けて了つたんぢゃない。
負けるたんびに僕等の心に勝利が萌してた。
奴等は弱いんだ。奴等は力も何んにもないんだ。
只へこたれてる皆んなで奴等の力を作ってるんだ。
今に僕等が奴等の弱い事を見せてやる。
奴等の力を支へてる皆んなをどけてやる。
大杉は、「生の拡充」の妨げるものに対して果敢に挑戦していくという決意を記す。そのためには「奴隷根性」を消し去らなければならない。
◎奴隷根性を消し去ること(「奴隷根性論」、1913年、『全集』2)
主人に喜ばれる、主人に盲従する、主人を崇拝する。これが全社会組織の暴力と恐怖との上に築かれた、原始時代からホンの近代に至るまでの、ほとんど唯一の大道徳律であったのである。
そしてこの道徳律が人類の脳髄の中に、容易に消え去ることのできない、深い溝を穿ってしまった。服従を基礎とする今日のいっさいの道徳は、要するにこの奴隷根性のお名残りである。
政府の形式を変えたり、憲法の条文を改めたりするのは、何でもない仕事である。けれども過去数万年あるいは数十万年の間、われわれ人類の脳髄に刻み込まれたこの奴隷根性を消え去らしめることは、なかなかに容易な事業じゃない。けれども真にわれわれが自由人たらんがためには、どうしてもこの事実は完成しなければならぬ。
実際、「奴隷根性」をなくさないと、自由人にはなれないし、事業も推進できないのである。だが人々は、鎖につながれている。
◎鎖につながれているという現実、そこからの脱出(「鎖工場」、1913年、『全集』2)
夜なかに、ふと目をあけてみると、俺は妙なところにいた。
目のとどく限り、無数の人間がうじゃうじゃいて、みんなてんでに何か仕事をしている。鎖を造っているのだ。
俺のすぐ傍にいる奴が、かなり長く延びた鎖を、自分のからだに一とまき巻きつけて、その端を隣りの奴に渡した。隣りの奴は、またこれを長く延ばして、自分のからだに一とまき巻きつけて、その端をさらに向うの隣りの奴に渡した。その間に初めの奴は横の奴から鎖を受取って、前と同じようにそれを延ばして、自分のからだに巻きつけて、またその反対の横の方の奴にその端を渡している。みんなして、こんなふうに、同じことを繰返し繰返して、しかも、それが目まぐるしいほどの早さで行われている。
もうみんな、十重にも二十重にも、からだ中を鎖に巻きつけていて、はた目からは身動きもできぬように思われるのだが、鎖を造ることとそれをからだに巻きつけることだけには、手足も自由に動くようだ。せっせとやっている。みんなの顔には何の苦もなさそうだ。むしろ喜んでやっているようにも見える。
しかしそうばかりでもないようだ。俺のいるところから十人ばかり向うの奴が、何か大きな声を出して、その鎖の端をほおり投げた。するとその傍に、やっぱりからだ中鎖を巻きつけて立っている奴が、ずかずかとそいつのところへ行って、持っていた太い棍棒で、三つ四つ殴りつけた。近くにいたみんなはときの声をあげて、喜び叫んだ。前の奴は泣きながらまた鎖の端を拾い取って、小さな輪を造っては嵌はめ、造っては嵌めしている。そしていつの間にか、そいつの涙も乾いてしまった。
またところどころには、やっぱりからだ中鎖を巻きつけた、しかしみんなに較べると多少風采のいい奴が立っていて、何だか蓄音器のような黄色な声を出して、のべつにしゃべり立てている。「鎖はわれわれを保護し、われわれを自由にする神聖なるものである、」というような意味のことを、難しい言葉や難しい理窟をならべて、述べ立てている。みんなは感心したふうで聴いている。
そしてこの広い野原のような工場の真ん中に、すばらしい立派ななりをした、多分はこの工場の主人一族とも思われる奴等が、ソファの上に横になって、葉巻か何かくゆらしている。その煙の輪が、時々職工の顔の前に、ふわりふわりと飛んで来て、あたりのみんなをいやというほどむせさせる。
妙なところだなと思っていると、何だか俺のからだの節々が痛み出して来た。気をつけて見ると、俺のからだにもやっぱり、十重二十重にも鎖が巻きつけてある。そして俺もやっぱりせっせと鎖の環をつないでいる。俺もやっぱり工場の職工の一人なのであった。
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ああ、俺はあんまり理窟を云ひすぎた。理窟は鎖を解かない。理窟は胃の腑の鍵を奪ひ返さない。
鎖は益々きつく俺達をしめて来た。胃の腑の鍵も益々かたくしまつて来た。さすがのなまけものの衆愚も、そろそろ悶え出して来た。自覚せる戦闘的少数者の努力は今だ。俺は俺の手足に巻きついている鎖を棄てて立つた。
しかし、その力や光も、自分で築き上げてきた現実の地上から離れれば離れるほど、それだけ弱まっていく。すなわちその力や光は、その本当の強さを保つためには、自分で一字一字、一行一行ずつ書いてきた文字そのものから放たれるものでなければならない。
自らの力で、鎖を断ち切らなければならない。大杉は、少数であっても、そういう人々に期待するのである。