浜名史学

歴史や現実を鋭く見抜く眼力を養うためのブログ。読書をすすめ、時にまったくローカルな話題も入る摩訶不思議なブログ。

天皇制

2014-06-30 10:05:26 | 日記
 今まで天皇について、敬語をつかうことはほとんどなかったが、この文だけは敬語を使用する。

 先日天皇陛下が沖縄を訪問され、対馬丸記念館に足を運ばれ、そして遺族や生存者の方々とことばを交わされた。両陛下は、先の大戦について、特別の思いをもたれていることがよくわかる。

 近年の天皇皇后両陛下が自ら行動で示されているのは、戦争はしてはならない、日本国憲法を変えてはならないというご意思である。

 その例。

 サイパン島を訪問されたとき、天皇皇后両陛下は日本人が悲劇にまきこまれたところだけではなく、植民地支配の下、戦争に協力させられてサイパン島で命を落とした朝鮮人の慰霊碑も訪問された。

 また未だ大日本帝国憲法が制定されない頃、八王子周辺の山奥の集落で庶民の学習と討論のなかで生み出された「五日市憲法草案」を、天皇皇后両陛下がご覧になられた。その時のご感想を、皇后陛下が示されている。

5月の憲法記念日をはさみ,今年は憲法をめぐり,例年に増して盛んな論議が取り交わされていたように感じます。主に新聞紙上でこうした論議に触れながら,かつて,あきる野市の五日市を訪れた時,郷土館で見せて頂いた「五日市憲法草案」のことをしきりに思い出しておりました。明治憲法の公布(明治22年)に先立ち,地域の小学校の教員,地主や農民が,寄り合い,討議を重ねて書き上げた民間の憲法草案で,基本的人権の尊重や教育の自由の保障及び教育を受ける義務,法の下の平等,更に言論の自由,信教の自由など,204条が書かれており,地方自治権等についても記されています。当時これに類する民間の憲法草案が,日本各地の少なくとも40数か所で作られていたと聞きましたが,近代日本の黎明期に生きた人々の,政治参加への強い意欲や,自国の未来にかけた熱い願いに触れ,深い感銘を覚えたことでした。長い鎖国を経た19世紀末の日本で,市井の人々の間に既に育っていた民権意識を記録するものとして,世界でも珍しい文化遺産ではないかと思います。
http://www.kunaicho.go.jp/okotoba/01/kaiken/gokaito-h25sk.html
 この民衆がつくった憲法草案は、人権規定が豊かなことで知られている。色川大吉さんらが発見したもので、ボクもこれには大いに感動したことがある。もう発売されてはいないだろうが、『民衆憲法の創造』や『三多摩自由民権資料集』などにそれは掲載されている。あきる野市のホームページからもそれらの資料を読むことが出来る。
http://archives.library.akiruno.tokyo.jp/database/index.php
 
 古代史の研究者である大山誠一さんは『天孫降臨の夢』(NHKブックス)で、天皇制は、藤原不比等が自ら政治権力を行使すべく、天皇を利用するために構築したシステムであると詳細に論じている。

 確かに、天皇は周辺の政治権力者に利用される存在であった(そうでなく、自ら政治の表舞台へと進み出た天皇もいたが)とみなさざるを得ないような事実は無数に転がっている。

 安倍首相らは、天皇制をどう考えているのだろうか。自民党の憲法草案は、天皇を国家元首と位置づけるなど、天皇制の強化を図ろうとしているようだが、やはり藤原不比等と同様な視点で考えているのだろう。
 
 天皇をほんとうに尊重したいと考えているのなら、改憲はありえない。天皇皇后両陛下の行動は、戦争はしてはならない、改憲すべきではないということを示しているからである。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

笑い

2014-06-30 08:40:28 | メディア
 日本の政治や社会、国際関係が大幅に質的に大きく転換しようとしているとき、何事もないようにテレビはそれぞれの番組を放映している。

 東日本大震災や大きな台風が上陸したときには、通常番組をやめても、全国をつないでそれに関する報道を続ける。

 しかし、集団的自衛権の行使容認という大転換を、テレビは全く無視している。ゴールデンタイムにはいつものおバカ番組を垂れ流し、申し訳程度にニュース番組を遅い時間に流す。日本テレビやテレビ朝日(朝生、たけしのテレビタックル)などは、ニュースをバラエティ番組と認識しているのか、無責任な大言壮語を吐く人士を招いて放言を語らせる。

 そこには、いつも「笑い」がある。しかしその「笑い」は、空虚な「笑い」である。その瞬間に消えてしまう、何の価値ももたない「笑い」である。

 もうかなり前に亡くなったが、飯沢匡という劇作家がいた。飯沢はたくさんの喜劇を書いた。しかしそこに、無意味な「笑い」はなかった。彼が描く「笑い」は、岩波新書で『武器としての笑い』という書名に示されているように、「笑い」を庶民の武器として、権力者の行動を鋭くかつ適切なことばで刺すことによって生ずるものであった。「笑い」という表面にあらわれる感情表現の背後には、ときの政治構造や政治家の振るまいなどが隠されていて、観客が笑ったその瞬間に、観客はその引き起こされた「笑い」のなかに、恐怖や怒りといった別の感情を感じるのであった。

 今、そうした「笑い」はない。テレビ関係者が、自局が放映しているゴールデンタイムの番組を“おバカ番組”と自嘲的に語るように、そこには政治や経済、社会、様々な問題をするっとすり抜けた「笑い」だけがある。

 日本人は、しかし、「武器としての笑い」の伝統を持っていたはずだ。近世でも、狂歌や川柳があった。

 田沼(意次)政治を批判するものが多数生まれている。

 役人の子はにぎにぎをよくおぼえ

 年号は安く永しと変はれども 諸色高直(高い諸物価)いまにめいわ九
  ※年号を、明和9年に、安永元年と変えた。

 残念ながら、ゴールデンタイムのテレビ番組(もちろんNHKの7時のニュースにも)に、そうした「笑い」は皆無である。

 ただ言っておけば、ナベツネに支配されている『読売』、『産経』を除いては、新聞各紙はこの日本の大転換期を何とかしようという報道を繰り広げている。残念ながら、新聞を読む人口は、確実に減っている。

 日本の将来は、無意味な「笑い」に覆われ、その「笑い」のウラで、日本以外のどこかの戦場で、日本人が殺され、日本人が殺すという残酷が行われるようになるのだろう。

 そのとき、もっとも笑う者が、みずからは戦場に行かない、安倍、石破、村、そして山口(公明党)・・・・・そして都議会で下品なヤジをとばした輩、大企業の経営者、官僚たちなのだろう。

 他方で、庶民の「笑い」は確実に奪われていく。

 後から気がつくというのは賢明ではないのだが、庶民は突然みずからが当事者となったときにはじめて気がつく。想像力と知識が不足していたことを気づく。

 この後を想像できる賢明な人々こそ、今声を上げなければならない。「武器としての笑い」で日本全国を覆わなければならない。

 1945年、日本(人)は、真実を知り、怒り、反省し、後悔した。もう一度それを繰り返してはならない。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

働く人、働かない人

2014-06-30 00:15:16 | 日記
 「給料泥棒」ということばがある。働かないで給料をせしめる人のことをいう。

 実際職場にいると、仕事を出来るだけさぼろうとする人、一生懸命やろうよしているのだが、なかなか仕事が進まない人、必ずそういう人がいる。

 子細に見ると、それは事務能力の有無に関わるようだ。つまり事務能力のない人がいるのだ。事務能力がないと、仕事を合理的に処理していくということができない。

 たとえばー

 今の職場では、コンピュータが使えなければ、仕事をすることができないという状況だが、ボクが働いている時代は、徐々にコンピュータが入り込んでくるという時期であった。そのとき、進取の精神でコンピュータの技術を何とか自分のものにしたいと勉強する人、そういうものは苦手だからと手を出さない人、いろいろな人がいた。しかし、職場全体でコンピュータをつかって情報を集中させるという方向に動いてきたとき、個々の労働者はコンピュータに習熟する必要に迫られた。しかし、それでもなかなか習熟出来ない人がいた。

 コンピュータにデータを打ち込めない人がいた場合、どうしたか。ボクはまず教えてあげた。だが元来そういう人は、積極的に仕事をしようという意欲が強いわけではない。だからなかなか覚えない。何度か教えたあと、それでも覚えない場合、ボクは打ち込みの仕事をかわりにやってあげた。なぜか。教えるよりやってしまったほうが楽だからだし、早く片付く。

 さて、そういう人を、ボクは批判したかというと、もちろんこうしたほうがよいなどと助言はした。しかし「給料泥棒!」などと非難することはしなかった。

 この社会は、いろいろな人間が生きている。たとえば、心身に障がいをもっている人のことを想像してみると、障がいのない人と同じレベルで仕事をすることはなかなか難しい。しかし当然の如く、すべての人間は生まれながら幸福追求の権利をはじめ、すべての権利をもっている。しかし障がいのある人の場合など、権利を保障するためには、障がいのないひとと平等ではなく、個々の状態にあわせて何らかの援助が与えられなければならないのだ。

 社会には、いろいろな人がいるから、それぞれがそれぞれのもつ力を出し合って、協調してその社会を支えていくのである。だから、仕事が遅い人、ある分野が出来ない人、そういう人がいても、「給料泥棒」なんていわないで(非難なんかしないで)、助け合っていくべきなのである。

 職場によっては、仕事ができないからという理由で相手にしなかったり、無視するということもあるようだ。しかし働く場は、労働者同士がいがみあってはいけないのだ。

 事務能力がないというのも個性であるし、事務能力があるというのも個性なのだ。そうした個性が混じり合って社会は存在するのだ。

 他の例を出そう。民主的な税制度は、応能負担の原則だとされる。たくさん所得のある人がたくさん税を納めて、少ない所得の人は少しの税を納める、あるいは税を納めないで国家から逆に生活保護などを支給される人もいる。国家など公的権力は、そうすることによって、平等な社会をつくるのである。

 事務能力が低い人、仕事をさぼろうとする人がいても腹を立てるな。助け合いながら、それがずっと一方的であるかも知れないが、とにかく労働者は助け合って、連帯しなければならないのである。怒りではなく、助言と手助けを。

 能力主義的な発想、労働者はそれに賛同するべきではない。能力主義は、いつかはみずからに刃となって振り下ろされることもあるのだ。
 
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

「駆け付け警護」は、NGOを危険にする!!

2014-06-29 22:43:35 | 政治
 『毎日新聞』記事。よく読んで欲しい。安倍首相の非現実的な説明が、いかに危険な主張であるかを証明している。


集団的自衛権:NGO、駆け付け警護に危機感

毎日新聞 2014年06月29日 11時30分

 集団的自衛権行使に関する閣議決定案に盛り込まれた外国での「駆け付け警護」に対し、海外の紛争地を中心に活動する非政府組織(NGO)から批判の声が上がっている。自衛隊が活動することによって、NGOにとって大切な「中立性」が失われ、逆に危険にさらされるからだ。長年の経験があるNGOの代表者2人に話を聞いた。【小山由宇】

 「これまで日本人が世界で築き上げてきた信頼が崩れてしまう。『駆け付け警護』や、集団的自衛権行使の容認は絶対にやめてほしい」。アフガニスタンなどで1984年から医療や農業での支援を続けている「ペシャワール会」(福岡市)の現地代表、中村哲医師(67)は危機感をあらわにする。

 中村さんによると、アフガニスタンでは日本人は特別扱いされているという。中村さん自身、武装集団に軟禁されたり、タリバン政権に逮捕されたりしたことがあるが、日本人と分かると釈放された。「『日本は武力行使しない国で、侵略することはない』と思われている」と話す。

 「対照的なのはドイツ」と中村さんは指摘する。ドイツは従来、外国への派兵をNATO(北大西洋条約機構)域内に限定していたが、90年代に域外派兵を始め、アフガニスタンにも治安維持部隊を送った。中村さんによると、派兵以前は好感を持たれていたドイツのNGOが今では攻撃のターゲットになっているという。「ドイツは後方支援や治安維持のつもりだったのだろうが、現地の人からは侵略軍の一員と見られているからだ」

 中村さんは現地での活動の際「あらゆる勢力と等距離を保つこと」を心掛けている。日本政府に対しても「敵を作らない外交努力を進め、さまざまな国と信頼関係を築いてほしい。重要なのは、誘拐などの事件を未然に防ぐ予防措置だ」と要望する。「これまでの日本の国際貢献に感謝している人はたくさんいる。ODA(政府開発援助)やNGO活動で協力していくべきだ。日本はそれをできる数少ない国だ」と話す。

    ◇

 「『NGOを警護』と言うが、軍隊と行動すれば、逆に攻撃される危険が高まる。『駆け付け警護』についての安倍晋三首相の例示にはリアリティーがない」。スーダンやアフガニスタン、イラクなどで30年以上医療、農業支援などを手掛けてきたNGO「日本国際ボランティアセンター」(JVC)の谷山博史代表理事(56)も懸念する。

谷山さんも紛争地での活動には「中立の確保が重要になる」と話す。実際に誘拐が起きても「軍隊が乗り出して成功する確率は低く、交渉での解決が鉄則。アフガニスタンでは95%以上は交渉で解決している」という。

 谷山さんは指摘する。「イラク、アフガン戦争の失敗で、武力行使よりも、貧困や差別の解消に手を貸す『平和構築』を評価する認識が国際的に強まっている。日本に必要なのは、武力を使わない『積極的平和主義』の推進だ」

 【ことば】駆け付け警護

 国連平和維持活動(PKO)などで海外に派遣されている自衛隊が、現地で活動する非政府組織(NGO)の職員や他国の兵士が武装集団に襲われた際、救援に駆け付けること。この場合、従来は憲法9条に抵触する恐れがあるため自衛隊に武器の使用は認められなかった。27日明らかになった閣議決定案では武器使用ができるよう法整備を進めることが盛り込まれた。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

大学の「改革」

2014-06-29 21:06:38 | 政治
 あらゆる場面で、「改革」が進んでいる。明治維新、戦後改革、そして現在。現在は日本の大変革期である。

 大学も変えられつつある。

 今日帰宅したら、机の上に『けーしの風』第83号が置いてあった。この雑誌は、「新沖縄フォーラム刊行会議」が発行している季刊誌である(本土では直接購読)。いつもの号は、基地問題をはじめとした平和に関わるテーマであるが、今号は「子どもたちのいまと〈教育〉」という特集であった。そのなかで、大学に関する論考が2本あった。

 実は、今国会で審議され、自民党・公明党が学校教育法、国立大学法人法の改正案を通過させようとしている。これが通過すると、大学は大きく変貌する。

 まず、教員採用やカリキュラムなど、教育の内的事項についての決定権は、各学部の教授会にあった。ところが、いわゆる教授会による自治を剥奪し、内的事項を含めた大学運営に関するすべての権限を大学理事会に集中させ、その理事会も学外から大半を集めるという方式へと変えようとしているのだ。最近の傾向をみると、学外からの理事は、もと官僚や会社経営者などが就任している。

 つまり政府は、大学運営を、文科省を中心としたもと官僚と民間企業の経営者にやらせようとしているのだ。

 最近の大学教員の生活はかなり厳しくなっている。給与は引き下げられ、講義の持ち時間数は増え、研究費もどんどん減額されている。どこの職場も、労働強化と賃金の低下(名目賃金が上昇しても可処分所得がまったく増えない!)に働く人々が苦しめられているが、大学も同様の状況となり、さらに悪化させる法案が通過しようとしているのだ。

 元官僚と民間企業の経営者に実権を掌握させ、法律とか文学とかそういう学問研究ではなく、職業教育を中心とする教育機関へと改造しようとしているのだ。すでに大学の「専門学校化」はかなり前から指摘されていたが、今度は全国の大学をそうしようとしているのである。

 自分のお金で企業に即戦力となる能力を開発・育成させようという魂胆なのだ。何というずるがしこい奴らだ。そういう輩が、政治を動かしている。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

東松照明

2014-06-29 20:46:34 | 日記
 東松照明という写真家がいた。今日の夜の「日曜美術館」は、その東松照明の人生と写真についてであった。

 名古屋市に生まれた照明の近所に、敗戦後米軍基地があった(現在は自衛隊基地となっている)。写真家としての照明は、「占領」を写真で表現しようとした。リアリズムそのものではなく、現実を撮るのだが、しかし現実をよりリアルに捉えられるような、ある種のシンボリックな写真になっている。

 占領の姿を捉えようと、彼は沖縄に渡る。沖縄には米軍基地があった。沖縄に米軍基地があるのではなく、米軍基地のなかに沖縄があることを彼は知り、それを撮影した。

 その後彼は、沖縄の離島を訪ね、そこで大いに驚いた。アメリカにいっさい影響を受けていない沖縄がそこにあったのだ。

 日本本土にも米軍基地があった。しかし鉄条網で囲まれた米軍基地=アメリカは、鉄条網から漏れ出て、日本全体を覆っていった。彼はそれをアメリカニズムと呼んだ。だが、占領が続く沖縄には、アメリカニズムに侵略されないところがあったのだ。

 照明は、それはなぜなのかと考えた。同時に、照明は沖縄に捕らえられた。
 写真を撮るために沖縄に渡り、沖縄を見つめた。眼だけではなく、全身を眼として、沖縄を見つめた。だが、本当は、彼が沖縄から見つめられた、沖縄が東松照明を凝視し、照明を沖縄に釘付けにしたのだ。そして彼は沖縄で最期を迎えた。

 ボクたちが沖縄をみつめるとき、照明の眼を通して見るということもありうる。

https://www.google.co.jp/search?hl=ja&site=imghp&tbm=isch&source=hp&biw=1366&bih=633&q=%E6%9D%B1%E6%9D%BE%E7%85%A7%E6%98%8E&oq=%E6%9D%B1%E6%9D%BE&gs_l=img.1.0.0l10.2798.4586.0.6784.11.11.0.0.0.3.147.987.6j4.10.0....0...1ac.1.48.img..4.7.746.AnFVCL_FEG4
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

「改革」は善ではない

2014-06-29 13:09:35 | 政治
 今日の『中日新聞』の「ニュースを追う」は、法科大学院、ロースクールについてである。

 今から10年前、法科大学院が設置された。弁護士や検察官など司法試験に合格して法曹の仕事につくためには、そこを卒業しなければならなくなった。

 政府の考えは、こうだ。これからはアメリカのように訴訟件数が増えていくだろう、そのためには法曹人口を増やさなければならない、というのが、まず前提である。そして法曹の仕事をする者には、幅広い知識と教養をみにつけてもらいたい、司法試験受験は法科大学院の卒業生に限るようにしようと考えたのだ。

 しかし、法科大学院が出来る前、大学の法学部などで学んだ者が司法試験を受験し、合格して法曹の仕事に就くというシステムに問題があったわけではない。もし法曹人口を増やしたかったら、合格者の人数を増やせばよかったのである。だが、政府はそうは考えなかった。

 アメリカのようにしたかったのだ。日本の近年の制度改革は、アメリカにならえ、というものが多い。若手官僚たちの多くがアメリカの大学院に派遣され、アメリカを学んで帰国する。そして彼らにより、様々な分野で「改革」が行われるのだが、そのほとんどがアメリカの真似になってしまう。官僚は、何らかの改革をすることによって出世していくから、改革をとにかくするのだ。その改革がうまくいっても、いかなくても、とにかく変えれば出世の糸口となる。改革した後は他の部署に異動しているから、あとは知らぬ存ぜぬである。その改革が問題とされても、矢面に立つのは後任者。しかし自らが制度設計したわけではないので、きちんとそれに対応できない。まさに官僚組織の無責任体制が巣くっているのだ。

 この「司法制度改革」もその例である。

 まず法科大学院はカネがかかる。だから法曹志望者は、法科大学院を避けて、カネのかからない「予備試験」制度を利用する。また、司法試験合格者が増えすぎた結果、法曹としての仕事につけない者が多数出現した。訴訟件数がアメリカのように増えもしなかったので、供給過剰となったのである。司法試験を合格しても弁護士として仕事をする場がないという事態が出現したのである。

 政府は、年間3000人を合格させ、法曹人口を増やすという方針を撤回した。

 法科大学院は、ここ静岡大学にもあるが、そこに入学する者はすくない。

 法科大学院をへて司法試験という制度が決まってから、全国各地の大学が法科大学院を設置したのだが、定員に達しているところは少なく、また地方の法科大学院からの司法試験合格者は少ない、という状態だ。

 「司法制度改革」は完全に破産したのである。それを企画した官僚は責任をとらない。その改革の波にのって、法科大学院に実務の教員として弁護士を送り出した弁護士会も責任をとらない。

 「司法制度改革」の「改革」の必然性はなかったにもかかわらず、変える必要もない制度を変えて、そして結果的に破綻を来す。

 こういうことは最近しばしば起きる。その多くは、アメリカを真似する政策である。何でもアメリカの真似をすればよいとする官僚の姿勢はどうにかならないものか。

 アメリカがくしゃみをすると、日本は風邪を引くといわれるが、そうした自立しない日本のあり方は、恥ずかしくないのか。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

これが安倍政権の姿勢

2014-06-28 07:22:31 | 政治
 今日の『朝日新聞』配信記事(一部)。ほとんどの企業が納めていない法人税を引き下げ、国民には東日本大震災の復興資金として、所得税・住民税を増税する。
 労働者の求人は非正規ばかり。企業の姿勢は、労働者は利潤を上げるための使い捨ての道具としかみていない。

 企業が栄えて、庶民の生活は衰えるばかり。

 それでも、自民党なのか?


(人手不足列島)雇用、増えるは非正社員ばかり 求人22年ぶり高水準でも

2014年6月28日05時00分

 5月の有効求人倍率が1・09倍と、バブル経済崩壊直後の1992年6月以来、約22年ぶりの高水準となった。数字上はバブルの余韻が残る時期に並ぶ「人手不足」だが、いまはパートや派遣社員など非正社員の求人が中心で、雇用の「質」は当時と大きく異なる。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

下品な人たち

2014-06-28 07:17:00 | 日記
 東京都民は、こういう人たちを議員として選んでいる。『朝日新聞』が、都議会での録音を分析した結果を紹介している。下品なヤジ。愚劣としかいいようがない。こういう愚劣な人々を議員として選んでいる東京都民も愚劣で下品なのか。

塩村都議:東京は、都会であるがゆえに周囲との関係が希薄で、女性が妊娠、出産、育児にかかわる悩みを一人で抱えてしまうという弊害があります。(中略)妊婦さんを支える仕組みはとても重要であり、私も所属をする厚生委員会で、この件についての充実をお願いをしてきました

鈴木章浩都議の声:早く結婚した方がいいんじゃないか

男性の声:自分が産んでから

男性の声:がんばれよ

(議場で笑いが起きる)

塩村都議:今後、妊娠、出産に関して

男性の声:動揺しちゃったじゃねえか

塩村都議:悩みを抱える女性たちの問題に対し(中略)具体的な取り組みをお願いいたします。

男性の声:いやー、先生の努力次第

塩村都議:また、不妊の原因は女性だけではなく

男性の声:やる気があればできる

塩村都議:男性にも原因があります。男性の協力を得る難しさから、悩みが大きくなる女性たちのサポートも必要です
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

憎悪の量産

2014-06-27 07:18:00 | 政治
 今日の『中日新聞』第一面に、「平和」を主張していた公明党が、「集団的自衛権」行使を認めた、という記事があった。

 創価学会=公明党の宗教的教義には、「王仏冥合」がある。国家権力と宗教が一体となるという考え方だ。だから創価学会=公明党は、国政でも、地方自治体でも、政権政党や地方自治体首長を支持し「与党」となってきた。

 今回は、「王仏冥合」をとるか「平和」をとるか、という岐路に立たされたわけだが、創価学会=公明党は前者を選択したようだ。権力の内部にいることのほうが、「平和」より大切であると判断したわけで、しかしこの選択は予想されていたことだ。なぜなら、今までも、守るべき社会的価値と「王仏冥合」とが天秤にかけられたとき、創価学会=公明党は、いつも「王仏冥合」を選択してきたからだ。

 それほど権力につながっていること、「与党」であることは、「おいしい」ことなのだ。

 さて、今後、自衛隊を先頭として、海外での戦争に参加していくことになりそうだが、この選択に関して、現在の戦闘がどういうものであるのかをきちんと認識しておくことが肝要であると思う。

 戦争とは、破壊と殺戮である。殺し殺され、破壊することなのだ。おそらく戦場は日本国内ではなく、海外であろう。そして、アメリカやヨーロッパでテロ事件が起きているが、今後日本国内でもそうした政治的テロが起きるだろうし、あるいは海外にいる日本人が襲撃されることも出てくるだろう。そうしたことから日本(人)を守ってきたのは、日本が海外での武力衝突とは常に一線を画してきたからである。それをやめるというわけだから、日本(人)も、他者(他国)から怨まれることになる。

 戦争は、その戦闘が終わっても、必ず憎悪が残される。その憎悪は、消えない。人々の心の奥底に、世代がかわろうとも、残され、きっかけがあれば再び燃え上がる。

 日本(人)は、「大日本帝国」の時代、アジア太平洋地域で、殺し、破壊し、憎悪を残してきた。その憎悪が、時に噴出することがあることを体験しているはずだ。

 戦後、日本(人)はそうした憎悪を生み出してこなかった。これからは、再び憎悪の「量産体制」に入るのだろう。

 平和ぼけの政治家たちが、自分以外の若者を戦場に送ろうとしている。日本のすがたかたちが、まったく変質しようとしている。

 これを、日本の人々は、認めるのだろうか。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

「集団的自衛権」の行使へ(2)

2014-06-26 22:29:32 | 政治
 『琉球新報』の社説も鋭い。

解釈改憲自公合意 姑息な「コネ入学」に等しい2014年6月26日

 自民、公明両党は集団的自衛権行使を可能とする解釈改憲の閣議決定案に大筋で合意した。いくら詭弁を弄(ろう)そうとも、ことの本質は日本の自衛隊が外国で戦争をするか否かだ。外国での戦争に国民的合意はない。自公合意は不当だ。

 解釈で憲法の根本を左右するのは立憲主義の否定に等しい。合否を恣意(しい)で決める「コネ入学」のようなものだ。与党は姑息(こそく)なことをせず、外国で戦争すべきか否か、憲法改正の是非を堂々と国民に問うべきだ。解散総選挙、あるいは憲法改正の国民投票を提起すべきだ。

 自公が合意した閣議決定案は「自衛権発動の3要件」に代わり、「自衛の措置としての武力行使の3要件」との名称にし、海外での軍事行動に道を開いた。

 さらに、武力行使について「国際法上は集団的自衛権が根拠となる場合もある」と記した。集団的自衛権を明示したばかりでなく、「場合も」と書くことで、集団安全保障への参加の余地も残した。

 集団安全保障とは、湾岸戦争のように多国籍軍で軍事行動をすることだ。参加すると、当然、自衛隊員から戦死者が出ることが想定される。相手の国の兵士・国民を自衛隊が殺害することもあり得るし、恨みを買うことにもなる。それがなぜ国民の安全を高めることになるのか、理解できない。

 自公両党の協議は「集団安全保障」との文言を明記するか否かが焦点であるかのようだった。明記しないことで、あたかも自公両党の意見を足して2で割ったように見せてはいるが、偽装に等しい。問われるべきは日本が外国で軍事力を使うか否かであり、その意味では「ゼロか百か」しかあり得ない。自公の答えは「百」である。

 憲法9条は「武力の行使は、国際紛争を解決する手段としては、永久に放棄する」と定め、「国の交戦権は認めない」とうたう。解釈改憲は外国での戦争を可能にするのだから、放棄したはずの「武力行使」であり、認めないはずの「交戦権」である。これでは憲法9条は完全に空洞化する。これを認めれば、9条は何のための条項か、置く意義が何も残らなくなってしまう。

 憲法の完全な空洞化を、一内閣の政治的思惑で実行することは許されない。外国での戦争を容認して公明党は「平和の党」と言えるのか。原点に戻り、従来の主張との整合性を見詰め直してほしい。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

「集団的自衛権」の行使へ

2014-06-26 22:23:23 | 政治
 『信濃毎日新聞』の社説が、わかりやすいので掲載させていただく。


安保をただす 武力行使要件 海外派兵に道を開く 06月26日(木)

 憲法をどう読んだらこんな解釈が成り立つのか。自衛隊の海外での武力行使に道を開く閣議決定案だ。自民、公明両党が大筋合意した。これでは、9条はないも同然になる。

 自民党の高村正彦副総裁が示した「自衛の措置としての武力行使の3要件」を閣議決定に盛り込むことで両党が一致した。

 要件の第一は、こうだ。「わが国に対する武力攻撃が発生したこと、またはわが国と密接な関係にある他国に対する武力攻撃が発生し、これによりわが国の存立が脅かされ、国民の生命、自由および幸福追求の権利が根底から覆される明白な危険があること」

 「自衛の措置」としながら、他国への攻撃にも反撃できる。他国を守るために武力を使う集団的自衛権の行使を認めるものだ。自衛隊の海外での活動が大きく広がる。日本が攻撃されて初めて自衛権を発動できる今の3要件とは前提が変わる。

 歴代の政府は、海外での武力行使を認めないことで9条と自衛隊を両立させようとしてきた。ここを変えて、合憲といえるのか。

 自衛隊の活動は、歯止めがなくなりかねない。公明党の主張で当初の案を修正してはいる。「明白な危険」はもともと「恐れ」としていた。「他国」の前に「密接な関係にある」と付け加えた。それでも、政府の一存で対象が広がり得ることに変わりはない。

 前回の協議で自民が持ち出した集団安全保障での武力行使への参加は、曖昧な形で決着させた。高村氏は「できるともできないとも決まっていない」とする。「自衛権発動の3要件」を「武力行使の3要件」と言い換えたのは、参加の余地を残すためだろう。

 集団安全保障は、侵略国などに対し、国連安全保障理事会の決議に基づいて各国が団結して制裁を科すものだ。集団的自衛権の行使は、安保理が必要な措置を取るまでの一時的な対応とされる。

 国連決議が出た途端に自衛隊が撤退するのはおかしい―。自民側は前回、そう指摘していた。集団的自衛権の行使を認めた場合、いずれ、切れ目なく対応するため集団安全保障での武力行使が必要―となっていきかねない。

 自衛隊が攻撃すれば、反撃を受ける。交戦で「血を流す」ことも覚悟する必要がある。これほどの重大事を密室での与党協議だけで決めさせるわけにはいかない。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

「日本の教員 勤務時間最長」

2014-06-26 09:29:35 | 日記
 そうだろうな、と思う。

 ここで調べられた勤務時間のなかに、土曜日、日曜日の出勤はきちんと入っているのだろうか。教員にとって、休日は部活動指導や試合のためにある。つまり出勤である。部活動指導を行う教員にとっての休日は、年末年始と8月中旬のみ、それ以外の休日は基本的にはない。

 学校教育での諸悪の根源は、部活動である。授業など最も基本的なことが疎かにされ、部活動のためだけに生活する子どもや教師がたくさんいる。24時間の生活全てが、部活動を中心にしてまわっている。あたかも、部活動こそが学校教育の中核であるかのような雰囲気がある。
 高等学校の部活動の中には、午後10時、11時頃まで行うものもある。夜遅く、高校生が自転車で走っている姿を見たことはないだろうか。
 定期テストの最中でも、部活動を行う。中学校でも、高等学校でも。

 また教員志望の理由に、部活動指導をしたいから、という者も多い。

 読書をすすめ・・・とかいうが、そんな暇は生徒にはない。日本人の知的水準の低下は、部活動が原因ではないかとさえ思う。

 部活動は、本来あるべき学校教育を歪め、学ばない、本を読まない子どもたちを大量に生み出している。それでいて、国際的な水準から見れば、日本のスポーツが良い成績を出しているわけではない。オリンピックのメダル数をみれば明らかだ。

 スポーツなどの部活動は廃止すること、そしてスポーツの指導は、長時間練習すれば強くなるとか、根性を鍛えれば試合に勝つとか、そういう非科学的な練習方法を変えるべきだ。


 

 
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

「井の中の蛙」

2014-06-26 08:17:06 | 日記
 熱狂のうちに、サッカーW杯騒動は終わった。始まる前は、「優勝」に手で届きそうな発言がみられた。第一次リーグは確実に突破することも報道された。

 しかし、FIFAによる日本のランクは46位。C組では最下位であった。日本の成績は、1分け2敗。客観的な評価からすれば、想像できた結果と言えよう。

 今日の『中日新聞』、このW杯に関する連載記事「理想の盲点」が始まり、その見出しに「井の中の蛙 連携混乱」とあった。

 その記事中には、「最初から力関係を見誤っていた」とある。その通りだと思う。

 客観的にみずからの持つ力を踏まえる、ということがなおざりにされ、主観的願望が実力からどんどん離れて行ってしまった。

 1941年12月に始まった対米英戦争と同じような道を歩んだと言えよう。

 客観的な実力を顧慮せずに、「日本のサッカーを表現すれば勝てる」ということばは、戦時中の「日本には大和魂があるから勝てる」という幻想と通じているのではないか。サッカーというスポーツは相手があるのだから、問題は、「日本のサッカー」が通じるかどうかなのだ。「日本のサッカー」というものを、きちんと客観的に評価してきたのか、ということだ。

 メディアの報道には、「・・・・を信じる」などということばが飛び交った。

 アジア太平洋戦争末期も、アジア太平洋地域での積み重なった敗北、激しくなる本土空襲、それでも日本人は「勝利を信じていた」、いや「信じようとした」。

 日本(人)は、客観的にみずからの力を評価することが不得手なのではないかと思う。主観的な願望は、客観的な評価と、それこそ連携しながらのものでなくてはならない。

 メディアは、主観的な願望を書きたてるのではなく、スポーツ報道でも冷静で客観的な報道をすべきなのである。

 
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

「地域の皆様へ」

2014-06-25 23:04:40 | その他
 昨日「地域の皆様へ」という印刷されたものが二通配達された。某県会議員からであった。
 私と娘宛だ。もう娘は大学に行ってから、ここには住んでいない。今年結婚したから婚姻届を出すまでは住民票がここにあったので、その関係で送られてきたのだろう。

 その議員、名前は知っているが個人的には一切関係ないし、選挙で投票したこともない。

 議員が発行している活動報告誌「地域共創」という印刷物も入っていたが、それは第四号。「この度、・・・・・が完成いたしましたので、ご送付させていただきます」だって。一号から三号までは送られていない。

 選挙の時だけこのように送るのはやめてもらいたいものだ。この議員にとって、ボクの存在は一票という価値しかないということだ。選挙が近づいてきたから・・・ということでしかない。

 この区のおそらく全戸に送るわけだから、相当なカネがかかるのだろう。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする