浜名史学

歴史や現実を鋭く見抜く眼力を養うためのブログ。読書をすすめ、時にまったくローカルな話題も入る摩訶不思議なブログ。

東京へ

2023-12-16 21:50:08 | 学問

 今日は東京へ。明治大学で行われた某研究会に参加した。他者からの知的刺激を受けることも必要だと思い、研究会だけを目的に上京した。行くたびに、東京は高層ビルが増えている気がする。そして東京はどこでも人が多い。地方では高校生や中学生以外の若者は、東京ほどたくさんいない。お茶の水周辺ではそうした若者がたくさんいた。そして東京にはたくさんの人がいて、地方からときたま上京する者を疲労させる。

 研究会が終わったらすぐに帰った。帰りは「こだま」を利用した。空席が目立っていた。人びとは「こだま」ではなく、より速く走る「ひかり」に集中する。私も行きは「ひかり」を利用したが・・・

 今日話を聞いていて、大杉や野枝が遺した言説を単なる言説に終わらせないためには、現代の視点から捉え直しをする必要がある。だが彼らの言説を現代の視点から捉え直すというとき、どのような方法を採用するのか。彼らの言説は彼らが生きた一定の時間・空間のなかで生み出された言説なのである。その一定の時間・空間のなかで課題としてとりあげた問題が、今もって未解決の課題のまま残されていることを指摘することによって捉えなおすという手法もあるだろう。その実例としては、東大日本史担当の加藤陽子さんが「100分de名著 フェミニズム」で、野枝の「不覚な違算」を取りあげたことがある。ではそれ以外の手法はどうなのか。

 その捉えなおしというとき、みずからが対象者に入り込み、その対象者をみずからを表現する手段にする手法は、とるべきではない。そういう手法をとる「評伝」めいたものが多くなっているという。私はその一つを厳しく批判したことがある。

 過去の人物が遺した言説を捉えなおすというとき、やはり方法論を考えなければならないだろうと思う。過去の人物が遺した言説を説明することはそんなにむつかしいことではない。それを現代の視点から捉えなおすというときには、やはり方法論が問われるのではないかと思う。

 

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世代の転換

2023-10-08 17:05:46 | 学問

 『法律時報』という日本評論社の雑誌がある。法学部出身の私は、『法律時報』をしばしば購入して読んでいた。とりわけ臨時増刊号はほとんど購入していた。しかし今年、すべてを捨てた。そこに書かれていた論説は、現実によって踏み荒らされてしまったという気がしたからであり、さらにもうそうした本を読み、法律論を闘わすことはなくなったと思ったからである。

 私が『法律時報』を読んでいた頃の執筆陣は、今刊行されている『法律時報』には見当たらない。もうほとんどがいなくなった。浦田賢治先生はご存命ということだが、もうあまり書かれていないようだ。

 法学部にいながら日本史の勉強をしていたが、その分野でいろいろ教えを受けた先生たちはもうほとんど亡くなられてしまった。私は退職と同時に、歴史学関係の雑誌の購読をすべてやめた。それは、故田村貞雄さんに倣ったものだ。私が書いたものを読み、丁寧な感想をおくってくれたひろたまさきさんも亡くなられた。

 『法律時報』も、歴史学関係の雑誌も、書いている人は、知らない人ばかりになっている。不運にも亡くなられたり、齢を重ねて引退されたのだろう。

 齢を重ねてから、書くことをやめた学者もいるし、書きつづける人もいる。書くことをやめた歴史学者には、原口清先生や海野福寿先生がいる。齢を重ねても書きつづけた学者の原稿を編集したことがある。いずれもひどい文となっていた。以前は素晴らしい分析力と文章力を持っていたのに、送られてきたものはひどいもので、その方が以前書かれたものを読みながら修正に修正を加えたこともある。名誉のために、その方々の名前は明かさないが、歳をとるということはそういうことでもある。衰えるのだ。原口先生や海野先生はそういうことを自覚され書くことをやめた。私は、原口先生、海野先生に倣おうと思う。

 さて岩波書店の『世界』。私にとって、現代を分析し考える重要な文献で、だからずっと購読しているのだが、最近の『世界』には迫力ある文が少なくなっているように思われる。私は読むと、目次のアタマに、◎や〇、×などを書いていくのだが、最近◎をつけるものが少なくなっている。もちろんそれぞれの文には、部分的に触発されるものはあるのだが、文全体からは受けなくなっている。

 全てを読み終えたわけではないが、今月号で、もっともよかったのは、田中伸尚さんの大杉栄らと一緒に虐殺された橘宗一についての文、それ以外には立石泰則さんと辻野晃一郎さんによる対談“「劣化したリーダー」がなぜ増えたのか?”がよかった。

 「結局、権力者は何でもできるし、誰も罪を問えないという状況になってしまった」

  新自由主義が席捲し、その思考のもと、トップに権限が集中するということが、企業や政府、自治体、学校などにも浸透してしまった。そして、

 「トップが節度を失って、権力を濫用するようになったときに、組織の中で声をあげると非常にまずい立場になってしまうというのが日本の組織の常」

 だとする。組織の中に闘う組合があればよいのだが、現在ではほとんど一掃されてしまっている。トップに権限が集中するというとき、そのトップがトップとしての力量をもたないとき、その組織は崩壊へと向かう、今の岸田政権もそうだ。私たちもその船に乗っている。彼らのなかには、

 「自分の会社さえ良くなれば、他はどうでもいい」

 と考える者がおおくなり、その結果利権がはびこり、進歩がなくなり、衰退の一途をたどるということになる。

 「トップ人事は非常に大切なわけです。」

 それはいかなる組織、自治体においても、重要なことばである。

 「組織が官僚化したら、会社では個人の自由な活動が規制されるようになります」

 トップの顔色ばかりをうかがい、トップからの指示をひたすらこなす官僚的な人種が増えている。

 組織を活性化するためには、

 「社長公選制を導入するだけではあまり効果がない。管理職の公選制の導入が大企業病を防ぎ、組織を活性化させる重要な手段になる」

 その通りだと思う。振り返って見れば、学校現場は校長、教頭を除き、中間の主任クラスは実質公選であった。文科省がひたすらそういう民主的な慣行を潰し、トップダウンの形態となるようにすすめてきた。文科省は、いらない!

 あらゆるところで、現在のヒドイ状態をなんとかするためには、

 「やっぱり諦めずに自分にできることをやるしかない。自分にできることは何かというと、まずは、自分の意見を隠さず、ひるまず、しっかり発信していくことと、そしてその意見に責任をもって行動していくということではないでしょうか。」

 「間違っていることは間違っていると、おかしいことはおかしいと声をあげることからはじめなければいけない」

 結論はありきたりではあるけれども、確かにこれしかない。

 

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自治体史の著作権

2023-04-15 08:08:20 | 学問

 世田谷区で大きな問題が起きている。世田谷区では、新たに区史の編纂を始めているようだ。もちろん、そうした歴史の編纂に当たっては、市職員ができるものではなく、ある程度の専門性が求められるから、歴史研究者にその編纂を委嘱する。

 自治体史の編纂に当たって、委嘱された者たちの多くは、史料調査を行い、その史料を生かすために、その史料に関わる関連する文献を読み込み、あるいは当該自治体に住む方々から話を聞き、何を書くべきかを考え、文章にまとめていく。自治体史編纂に関わると、多くの時間と、また文献を購入するために多額のカネをつかう。まさに自治体史の原稿を書くことは、委嘱された者にとっていわば全身全霊をつぎこむ作業なのだ。もちろん、何を書くかは、委嘱された者の価値観に左右される。

 私もいくつかの自治体の歴史編纂の仕事をしてきたが、今まで一度も書いたものに関して修正を要求されたことはない。ただ一回、書いた原稿を送ったところ、なぜそういうことが書けるのかとクレームを受けたことがある。もちろん歴史というものは資料に基づいて書くわけであるから、まったく事実がないことを書くわけがない。私は、その資料は、当該市のホームページに掲載されてもいるし、市が発行するパンフレットにも書かれていることを指摘したら、当該市の担当者が謝罪に来られた。それには私もさすがに呆れた。

 世田谷区は、なにゆえに編纂を委嘱した者の著作権を奪おうとするのか。まったくわからない。委嘱した者には、とうぜん原稿料その他を支払うから、世田谷区は原稿料を払うということは著作権を得る、ということだと考えているのだろうか。しかしそれは間違いである。

 こういうことがあった。あるとき、自治体史の関係者から、私が書いた原稿(すでに自治体史として発行されている)をやさしく書き直すので、その許可が欲しいという連絡があった。私に著作権があるので、その対応は当然のことである。私はすぐに許可するという文書を送った。

 なお私は、自治体史であろうとも、書く内容については一切妥協しない。全身全霊を投入して書き上げるのだから、専門的(学問的)な見地からではない物言いを受け付けるわけにはいかないのである。

 世田谷区の区史編纂室には、歴史の専門家が入っているのだろうが、全時代について歴史の見地を持つ者はいないだろう。専門的な知見を持つからこそ、専門家が書いたものについては尊重するのである。

 そういう要請が来たら、私なら委嘱を断るが、それを問題にした研究者がいたからこうして報じられている。その研究者に委嘱しないという決定を、世田谷区が行ったという。

 これは大きな問題である。たとえば東京都なら都知事がそう考えていないからということで、関東大震災における朝鮮人や中国人虐殺が歴史叙述から消されることにもなりかねない。ネトウヨが否定する佐渡金山における朝鮮人の強制労働は「新潟県史」に書かれているし、東京都の過去の自治体史に関東大震災の際の虐殺も書かれている。歴史的事実は歴史的事実なのである。過去のそうした忌まわしい歴史的事実をきちんと踏まえたうえで、現在や未来をつくっていくのである。

 

 

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歴史を、勝手な「記憶」にされてたまるか!

2022-04-17 20:27:51 | 学問

 『世界』臨時増刊号を読んでいる。そのなかの、橋本伸也氏の「「紛争化させられる過去」再論」を読んだ。

 現役を退いた私は、当然の年金生活。昔のように高い本でもどんどん買い込むということはしなくなった。どうしても必要なものしか買わないと心に決めている。購入して読んでいない本もたくさんあり、これ以上増やしたくないという思いもある。

 だから関心を持っても読んで来なかった本がある。橋本氏らの「記憶」に関わる論考の数々である。

 日本でも歴史修正主義がはびこり、しっかりした歴史研究の方法に則って研究され叙述された過去の歴史(記憶)を、否定したり、あるいは史料等に基づかない荒唐無稽の説を創出して、定説を相対化させるようなことが起こっている。

 また教科書に関しても、歴史研究の成果ではなく、政治・行政の思惑から強権的に「訂正」させるということも行われてきた。その1つに朝鮮人の徴用工について、「強制連行」という言葉の使用が奪われた。私は、在日朝鮮人の歴史について研究もしてきたが、私は「強制的な労務動員」と書いてきた。

 戦時下、日本政府は、日本の労働力不足を補うために朝鮮人を大量に動員してきたが、動員されてきた朝鮮人への聞き取り、あるいは公的な資料によっても、そこには強制の契機がかならず存在した。「強制連行」でもかまわないと思うが、私としては厳密な意味で、「強制的な労務動員」として書いてきた。単なる「労務動員」では間違いであって、そこに「強制」の契機を書き込まないと、戦時下の朝鮮人の労務動員を説明したことにならないからだ。

 なぜそのような書き方をするかというと、中国人の強制連行と明確に書き分けるためである。中国人の場合は、まさに日常生活の中で、突然日本軍兵士や傀儡軍により拉致され、食事も水も与えられない状態で一定の数が確保されるまで塘沽の収容所に閉じこめられた。そして痩せ細った身体を抱えたまま日本に連れてこられ、列車に乗せられ、到着した時には現場に向かうためのトラックにも乗れないほど衰弱していた。したがって、多くの中国人が収容所で、現場で殺されたのである。

 そのように強制連行された中国人の本質を明確化するために、私は、中国人は「強制連行」、朝鮮人は「強制的な労務動員」とするのである。

 以上のように、歴史を叙述するときには、かなり神経をつかう。史資料に厳密に沿いながら書かなければならないし、間違ったことは書いてはいけないし、もしわからなかったらわからないとしなければならない。

 ところが、その歴史が政治に従属し、書き替えられている。政治に都合が良いように、歴史は書き替えられ、それにももとづいて政策などが打ちだされているというのだ。橋本氏は、それを「記憶の戦争」といい、ロシア、そしてソ連支配下にあった中東欧諸国について研究をおこなっている。そこで、「歴史の国有化」が起きているというのだ。

 自分たちに都合のいいように、歴史を書き替え、それをもとに「国民の記憶」をつくりだしていく。「国民記憶院」とか「歴史家委員会」などがつくられ、組織的にそれが行われているというのだ。

 歴史は、客観的なもので、よいこともわるいこともあり、それを総体として認識する必要がある。自分勝手に構築できるものではないのである。とくに国家はそれに介入してはならない。

 ロシアがウクライナ侵攻を開始したとき、プーチンが「特殊軍事作戦」開始の演説をしたそうだ。私は読んではいないが、かなり歪曲されていて、粗雑な事実認識の上に構築されたものだという。

 歴史が書き替えられ、権力者の悪行を正当化するための手段に使われてしまう。

 何ということだ、と私は思う。歴史を研究し、叙述するということは、史資料の断片を積みあげていく作業でもある。時間はかかるし、集中力は求められるし、たいへんな仕事である。

 そうしてできがったものを権力者が足蹴にする。許せないことだ。

 

 

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読む価値あり

2021-12-21 10:40:49 | 学問

京都学派の思想とその多重性とは。能勢陽子評「ホー・ツーニェン:ヴォイス・オブ・ヴォイド−虚無の声」展

 唱えられた「無」には、そのなかに様々な「有」を入れ込むことができるようになる。しかしその「有」は結局「無」に帰するわけだから、責任は霧散解消する。

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「実証主義」

2021-04-20 09:31:53 | 学問

 議論をする中で、「私は実証主義だから」ということばを聞くことがある。それは、みずからの考えや思想を持っていないということを「自白」するものである。

 学問というのは、批判の学である。批判するためには、みずからの思想を持たなければいけない。思想が、学問の拠って立つところだからである。

 東島誠の『自由にしてケシカラン人々の世紀』(講談社選書メチエ)を読んでいたら、こういう個所にあった。

「「私は実証主義だから」というのは、通用しない。それは自分自身の認識の限界を他者に開示できない者の泣き言であり、・・・・「観点」「前提」をはっきりさせることは、まさに「致命的」に重要である」(143)

 はっきりいえば、思想なき研究は全く面白くない。私自身の知性を震わせることがないからだ。思想のある研究に会うと、私は読みながら立ち止まり、また立ち止まり、その度に様々に思考を飛翔させる。思想のないものは、それがない。失礼ながら、成田龍一の文はまさにそれだ。そうした研究者はたくさんいる。増えているようにも思う。

 古代史研究の先達である石母田正は、こう書いている。1946年の文である。

戦後の歴史学界には再び実証主義への復帰の強い傾向が見られる。戦時中極端な国家主義をとなえて、歴史学を台無しに壊してしまった学者が、今度は口を拭って自分たちは本来実証主義的歴史学者だったと言訳がましく弁解しているのである。いわゆる実証主義が戦犯的歴史家の避難所となりつつあるのは興味ある事実だ。

 

歴史における実証主義というのは、それほど深い根柢を持つものではない。普通には史料の丹念な蒐集とその批判的操作(それも精々ベルグハイム式の)に基づいて、歴史を客観的にあとづけるのが、実証主義的だと考えられているようである。これは確かに市民的歴史学が史学史上に果した大きな業績であって、近代の歴史学はこの意味でなら実証的でなければならないのは至極当然である。史料の蒐集とその客観的な分析というものに基礎をおく歴史記述というものは、いかなる傾向の歴史学にとっても当然の前提であってこの点で争おうとする歴史家は一人として存在する筈はないのである。

 

歴史学とはいうけれども、日本の歴史学は実は学問として最も水準の低い学問であった。これは全体として日本の学問のみじめさということを念頭においても、歴史学の全体的低さは話のほかなのである。学問という以上それは何よりもまず方法と体系を生命とするものであって、このような論理的なものを欠いた場合それは学問ではない。この近代の学問の本質は歴史学以外の部門でも勿論十分意識され実現されてはおらないとしても、しかし方法や体系のない学問というものは成立することはできない。

ところが歴史学は学という名称を僭称しながら、全くの無方法と無体系が一般的なのである。ある問題についての若干のあるいは沢山の資料を並べて、それを考証的に記述すれば、それは立派な歴史学の論文であり、かかる論文を若干書けば専門的な歴史家となれるのが歴史学界の現状である。しかもこのような学風は実証的であるという理由で許されるばかりでなく、堅実な学風とさえ見做される。

したがって歴史家には「考える」ということは必要な条件でないばかりでなくむしろ考える学者は異端視さえされる。このような伝統と環境の内に育った歴史家は思考力という点では殆ど零といってよいほどの不具な状態にあることはいうまでもない。

歴史学ほど包括的な思考力を必要とする学問がないにかかわらず、歴史家ほど対象について考えない人間はないということは、この学問の将来にとって最も憂慮すべき点であろうと思う。

 

いわゆる実証的研究は1月にとって欠くことのできない前提である。しかしそれは他方において、歴史学を絶えず後退させる傾向を内在している。実証主義のもつ無性格と無思想は歴史学の進歩を抑える何よりの強い原因となっている。歴史の客観的認識、純粋認識としての歴史学という言葉は、この無性格と無思想を粉飾する合言葉となっているが、しかし実際に両者がいかに関係のない二つのものであったかは戦時中の歴史学の動向を反省すれば十分である。実証主義的歴史家こそ専制主義の弁護に第一に立ち上り、客観的歴史学をはずかしめた最も軽薄な学者たちであった。

歴史学は史実によって科学的に構成されるべきものである。この構成するということの意味が理解されない限り学問としての歴史は存立することさえ出来ない。資料を蒐集し、対象と格闘するのも一つの建築物という全体をきずきあげるためである。この努力の中に、方法の錬磨、理論の鍛錬がはじめて生れる。箇々の煉瓦の属性を研究してもそれは建築とはならない。建築家は材料のすべての性質を知っておかねばならないが、建築は全体への構成力や構想力なくしては行い得ない。この構成力、構想力は決して個人的な素質や歴史家的センスやその他の主観的なものではなく、そこにこそ論理と思考力と方法が最も生きる学問の世界があるのである。対象の中に潜む内的な連関や法則は方法なくして発見されるものではないという学問の最も初歩的な考え方が、歴史学界においてはまだ市民権を得ておらない。実証主義者はこれを頑強に拒否し、それによって自己の怠慢を弁護しようとしているからである。このことを告白することは外部の人にははずかしいことだが、しかし偽りのない歴史学界の現状である。

(『石母田正著作集』第16巻、「実証主義への復帰」)

 

 昨日、伊藤隆氏へのインタビュー記事を読んで、石母田正の「実証主義」の歴史家こそが専制主義の弁護者であったという文を思い起こした。まさに符合したという気持ちである。

 近年は、実証主義といいながら、史料ではなく、文献を渉猟して、自らの問題意識に都合の良い文献を並べてこれが何々の歴史でございます、などというものが増えている。そのなかには、著者の「思い違い」を平気で書いている者もいる。

 私たちは史実の確定にこだわる。幾つかの史料(資料)を比較検討して史実を確定し、ほんとうにひとつひとつレンガを積むように、確定した史実を積み重ねながら一定の歴史像を描いていくのである。近年の学者たちの、「思い違い」を平気で書く姿を見ると、おいおいそれでは歴史研究者としてはアウトだよと言いたくなる。だが、それでも通用するというのが現代である。その多くは「歴史社会学」という分野の研究者である。

 そういう人たちには、史料をもとに史実を確定する作業をしたことがないようだし、また思想もない。石母田式に言うなら「無性格・無思想」である。したがって、その研究はきわめて平板で、「建築物」とはとうてい言えないようなものが多いのだ。

 すでに亡くなられた多くの歴史家の文章から、精緻な研究とその背後にある思想を読むことができる。戦後歴史学を担った研究者の文献をきちんと読むことから、歴史研究は始められなければならないと思う。

 

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ギリシアの古代民主政

2021-01-10 19:07:11 | 学問

 朝日新聞社が発行している『Journalism』1月号、その特集は「民主主義の行方」である。副題は「この国はどこに向かうのか」である。

 何故にこのような特集にしたのか。言うまでもなく、安倍政権以降の日本の民主主義が極めて危機的な状況にあるということを憂えた結果であろう。

 有益な論考が並んでいるが、特集に関わってもっとも触発されたものは、橋場弦「「直接民主政=衆愚政は方便」である。ギリシアの民主政に関して、私はほとんど理解していなかったことを発見した。

 デモクラシーのもとになったギリシアの「デモクラティア」は、「民衆の支配」という意味であることは知っていた。

 「ギリシア民主政の命脈は、世界史全体の流れに置いてみると、ほとんど一瞬の光芒に過ぎない。やがてギリシア世界を征服し、地中海の覇者となったローマ共和政は、貧富の差によって参政権に著しい格差を設け、一握りのエリートからなる元老院が実質的な支配者集団となったから、ギリシア人から見ればまぎれもなく寡頭政(少数支配)であり、民主政の系譜に連なるものではなかった。・・前近代の世界に登場した支配体制のほとんどが、君主や貴族による垂直型の強権支配だったといってよい。ギリシア民主政のように権力や権威を集中せず、市民相互の自由と対等を原則とする水平型の支配は、世界的に見ても例外中の例外であった。」

 橋場は、近代民主政を正当化するためにいろいろな理由をつけて古代ギリシア民主政を批判するという。

「・・直接民主政が実現不可能な近代国家では代表性(代議制)が最も合理的であるとか、衆愚政に陥った古代の轍を踏まぬためには選挙で選ばれた少数の優れた人々が統治にあたるべきだとか、基本的人権の上に成り立つ近代民主政が本物の民主主義である、という正当化である。」

 しかし本当にギリシャの民主政をわれわれは理解しているのであろうか。

「古代民主政は小国だから可能だったというが、民主政が最も典型的に発展したアテナイは、つねに小国分立状態にある当時のギリシア世界では、例外的な大国であった。住民人口は20万から30万人、領域面積も神奈川県に相当した。ほかならぬそのアテナイで最も民主政が発展したのはなぜか。歴史学の立場からすればそれこそが問題である。」

「古代民主政には「代表する」という考え方自体が存在しなかった。・・・古代ギリシア人がもし今日の議会政治を目にしたならば、彼らはそれを民主政とは呼ばず、(プラトンにはアリストテレスでさえ)極端な寡頭政と捉えたに違いない。彼らにとってデモクラティアとは、文字通り民衆が権力を行使することにほかならなかったからである。」

近代民主制が普遍的となり、かつ認められるようになったのは第二次世界大戦後のことである。つまり100年経っていないのだ。しかしアテナイ民主政は186年間も生き続けだという。

「「代表すること」、「代表を選ぶこと」ではなく、すべての市民が公共性に「あずかる」こと、公共の問題を「分かちあう」こと、それが古代民主政のキーワードであった。」

 現在の、見るも無惨な日本の代議制の「民主政」は、すでに機能していない。それは日本だけではない。私たちは、この代議制による民主政治というものが否定されなければならない時代に生きているように思うこの頃である。

 

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学問世界のゴマすりが拡がっている

2020-11-14 21:11:22 | 学問

国に対して批判的? 琉球大、日米地位協定めぐる准教授コメントの一部を修正要請

 琉球大学、情けない!

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