浜名史学

歴史や現実を鋭く見抜く眼力を養うためのブログ。読書をすすめ、時にまったくローカルな話題も入る摩訶不思議なブログ。

魂の行方

2024-01-24 13:31:14 | その他

 以前、「近代日本の国学」という歴史講座で、平田篤胤をとりあげたことがあった。賀茂真淵や本居宣長はもちろん、近世国学の流れのなかにある民俗学もとりあげ、国学が現代社会においても様々なかたちで息づいていることを話した。

 ただ、平田の著作を読んでも、私の能力不足で理解ができないものがたくさんあった。

 そのなかで、幕末の維新動乱の中で、平田の国学が多くの人びとに支持されたことは確かで、島崎藤村の『夜明け前』に見られるように、平田神道のネットワークが全国にあった。宮地正人さんは、それを「知のネットワーク」と呼んでいた。

 なぜ平田神道が、各地の庄屋階層らの支持を得られたのかをかんがえたとき、もちろん幕藩体制の崩壊へと向かう混乱、その中で現れた尊王攘夷運動などもあるが、庶民にとって重要な死者の「魂の行方」について平田が一定の「理論化」を行ったことが大きいと思った。この頃の庶民は、死者たちの魂が、今生きている庶民の周辺に「存在」していると考えていた。それは今でも同じである。

 私は唯物論者であり、私が亡くなったあとには、私の存在は消えてなくなると思っている。私は、しばらくの間、私を知る家族やその他の人々の記憶のなかにのみ「存在」するが、彼らがまた死者となっていくとき、私という「存在」は完全に消えていく、と認識している。

 そのように考えている私であるが、しかし私は、早くに亡くなった父(といっても二歳の時に他界したから、記憶はない)に話しかけることがある。最近亡くなった方の遺族の話を聞いても、やはり死者に語りかけることをしている。現在の日本の人びとも、死者はみずからの近くに「存在」しているかのようにしている。

 それはもちろん、死者を記憶しているからで、代を重ねていけばその死者は消えていく。したがって、記憶のなかにあるから、あたかも「存在」しているかのように死者と対するのだ。

 キリスト者が亡くなるとき、「昇天」ということばをつかう。キリスト者は、亡くなると神の存在する天に昇っていく。天国という異世界にいく。

 また仏教徒は、亡くなると浄土に向かう。浄土という異世界である。「西方浄土」ということばがあるように、仏教全盛期の中世においては、生者が浄土に行くつもりで西に向かい、海に身を投げてもいたという。仏教が盛んな時代において、日本の人びとは「極楽浄土」という異世界をめざした。

 最近出版された『現代思想』の増刊号、「平田篤胤」のなかに、大出敦の「魂の行方」があった。日本に外交官として滞在したポール・クローデルの「魂」に関する言説を書いている。そのなかでラフカディオ・ハーンの「日本人の発想では、死者は生者と同じように此の世にいるのである。死者は、国民の日常生活に関わっていて、ーごくごく日常的な不幸や喜びを共有しているのである。死者は、家族と食事をともにし、家族の幸福を見守り、彼らの子孫の繁栄を手助けしたり、喜んだりする」を紹介し、クローデルが滞日していたときの日本人の「魂の行方」はどういったものかを記し、そこに平田篤胤のコスモロジーが入り込んでいることを指摘する。

 つまり死者は私たちには見えない世界(幽冥界)にあり、その幽冥界は異世界ではなく、私たちが生きる世界と隔たることのないところに存在しているのだ、という平田の言説。

 私は平田の言説が先にあってそれを庶民が信じたのではなく、そのような庶民のある種の信仰心を、平田が「理論化」し、正当化したこと、そこに平田神道が支持される理由があったと考えているのだが、いずれにしても近世末期以降、そうした原初的な信仰が庶民の心の中に育っていた、ということである。

 なぜそのようなある種の信仰心ができあがったのか、またそれが現在に生きる人々にも残されていることなど知らなければならないこともあるが、今回はこれで終わる。

 最近、ふたつの葬儀に参列し、死というものについて考えるところ多かった。

 「平田篤胤」については、もっと勉強しなければならないと思い、少しずつ『現代思想』臨時増刊号を読み進めている。

 

 

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情勢の変化

2023-12-28 20:44:42 | その他

 刻々と世界情勢、日本の政治状況などが変化している。その変化の実態を知り、その変化の意味を捉え考えることがなされなければならないと思う。

 今夏は猛暑であったことから、その後の農作業が徹底的に遅れてしまった。9月下旬から夏草をとり、耕し、畝を作るという作業と並行して、野菜の種まきを行った。前者は、さつまいもを収穫しながらおこなったことから、今もってやり終えていない。とにかく、農作業が遅れている。農業は気候の影響を直接受けるので、ファーマーとしてはどうしようもない。

 やり終えていないのに、急に寒くなり、畑は遮るものがなく、また遠州の空っ風が強く、夏の時期と同じように、畑に行く時間が減った。

 そのために、読書の時間は増えたのだが、しかし今日、大学時代の後輩である高世仁さんのブログをみたら、彼とはほとんど年齢は変わらないのに、彼は国境を越えてとても活発に動いていて、その動きに応じた文や写真をアップしている。久しぶりにのぞいてみたら、私自身がいかに世界情勢をきちんと見つめていないかを反省させられた。

 情勢をしっかりとつかみ、その意味を常に考えていないと、どうしても退嬰的になってしまう。何とかしようという意欲が減退してしまう。

 今年は、担っていた静岡市での大杉栄・伊藤野枝・橘宗一墓前祭も虐殺から100年ということで、一応ピリオドを打つことにしたことから、精神的に余裕が生まれたのだが、その余裕が精神の弛緩へとつながったようだ。

 自分自身、買い貯めた本をどんどん読んでいこうと思っていて、実際そうしているのだが、しかしそれらは現在の情勢とは直接つながってはいない。高世さんは、情勢のその中(現場)に飛び込んで、そこから発信している。そんなことを今の私ができるわけはない。ほんとうはそのような動きをしなければならないのだろうが、そこまでの意欲は持てない。20年ほど前までは、歴史調査の必要があれば、中国や韓国など国境を越えて何度も渡航したが、今はその元気がない。

 「人の振り見て我が振り直せ」である。きちんと情勢の変化を追わなければならないと思った。

 

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勘違い

2023-11-27 20:57:46 | その他

 研究会があった。その研究会(以後、会とする)は、研究という文字を入れるだけあって、確かに研究する人たちが集まって出来た。

 しかし、集まった人たちは、皆が皆専門の研究者ではなかった。いろいろな仕事に就いている人びとが集まった。もちろん専門の研究者もいた。

 毎月研究する人びとが集まり、会員の発表を聴き、終了後は懇親会を行った。会員は、自分自身が調べたこと、研究したことを皆の前で発表した。専門の研究者も、そうでない人びとも、発表された報告にたいして、和やかな質問をした。あるいは専門の研究者からは有益な情報が提供された。

 懇親会では、いろいろなことが語られた。専門の研究者も、そうでないものも、自由に発言した。懇親会の場は、学びの場でもあった。

 学問研究の方法や問題意識をもつことの重要性などが、何となく参加者の胸の中に入り込んでいった。そこで学んだことを土台にして、人びとはそれぞれが自分自身の関心に基づきながら研究していった。そしてその成果を皆の前で発表するようになった。

 そこに参加していた人びとは、研究会を「市民の学会」と呼んでいた。

 パブリック・ヒストリーということばがある。アカデミックな歴史学の外で行われる歴史実践、という意味合いである。

 その研究会は、アカデミックな歴史学とパブリック・ヒストリーのちょうど境界線上にあったように思う。

 それはそうだ。研究とは、一定の方法や訓練が求められるから、専門の研究者の研究を学ぶ、つまりアカデミックな世界から学びとることも必要なのだ。だから、アカデミックな歴史学との境界線上に研究会はあった。

 だがそうした初心がいつのまにか消えていく。研究会が、「市民の学会」ではなく、アカデミックの世界に入っていく?

 

 

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今週の『週刊金曜日』

2023-11-17 16:00:29 | その他

 特集は、「なぜ記者たちは新聞社を辞めるのか」である。辞めるということは、すなわち新聞社に魅力がないということなのだろう。

 新聞の購読者が減っている。わが家に新聞を配達している販売店も、将来のことを考えたのか、他の分野に進出を始めている。

 私は、メディアの中で、新聞がもっとも信頼に足るものだと思っている。

 テレビを見ることから離れてもうかなり経つ。テレビが権力の走狗になってしまっているので見ることはない。テレビの放映の原動力は、テレビ局のカネ儲けであって、それ以外ではないことがもう明白である、公共の電波を利用してのカネ儲け会社であることが主目的になっているので、もうテレビは面白くない、という人がほとんどである。テレビを見ているのは、やることのない老人だけだという指摘もある。そうかもしれない。

 新聞は『東京新聞』をとっているが、毎日読みでがありたいへん満足している。これだけ自由に書けるなら、やめる記者はいないだろう。

 要するに、記者になるということは、自分自身が主体的に自由に取材し、書くことができるから、ということだろう。やる気のある者ほど、自由が必要だ。その自由がなくなれば、それはもう辞めるしかないだろう。残念ながら、自由がなくても平気だという輩がコースに乗って「出世」していく。そういう輩が「上司」となったら、もう辞めるしかないだろう。

 最近、市役所の担当者とごみ有料化に関して何度も話し合いを持っているが、彼等は政府やトップの命令の下に、それを実現するだけの仕事をしているようだ。彼等には自由さがないようで、こういうところで働かないでよかったとつくづくと思う。もし役所になんか就職していたら、きっと早い内におさらばしただろうと思う。

 主体的に自由にものごとに取り組むことが出来ることこそ必要だ。私はカネを稼ぐために就職したが、可能な限り自由に生きてきた。ストライキをやって処分を受けたことがあり、そのぶん収入は減ったが、やりたいことを自由にやってきたからこそ、生きて来れたという気がする。

 そうした自由を求める気風というのは、中学生にその萌芽が芽生え、高校生の時に全開し、それがずっと続いているような気がする。

 『週刊金曜日』には、今週も「「本多勝一のベトナム」を行く」の連載があった。ベトナム戦争、その支援活動に参加することによって、私は自由を求める気風を養った。ベトナム戦争、そしてベトナム人民の不屈の闘いが、私自身の成長に大きな影響を与え、だからこそ今も、私はベトナム人民に感謝し続けている。

 今週も、女性の闘士の現在が紹介されている。彼女たちは、もちろん会ったことはないが、私の同志のようなものだ。この連載は、たいへん楽しみである。かつての女性闘士のほうが年令は上だが、同時代を生きてきたという感じがする。

 

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自由の唄

2023-04-21 22:28:00 | その他

 車を運転しているとき、NHKFM放送か、CD(SDカードに録音しておいた音楽)を聴く。今は中島みゆきの唄が多い。

 さてNHKFMで、レナード・バーンスタイン指揮の、ヴェートーヴェンの第九を流していた。その第九は、ベルリンの壁が崩壊して冷戦体制が終焉を迎える、という期待の中で演奏されたものだ。1989年、希望があった時代である。

 東西ドイツや英米の演奏者、合唱も東西ドイツの人たちによるものである。ユーチューブで聴くことができるので、今聴いているところだ。

 聴いていると、演奏は丁寧で優しく(特に第三楽章)、第四楽章は迫力あるものであった。第四楽章。重厚な弦の演奏が歓びのうたを導いていく。それはときに重厚に、ときに優しく軽やかに響く。合唱がはいるまえの歓びのうたの演奏は、まさに歓びに満ちている。そして自由を謳いあげるのだ。自由、自由・・・・

 自由に向かって行進しよう、と演奏は進む。そして自由がやってくる。人びとは自由のなかでくつろぐのだ。自由は、万人に与えられなければならない。それなしに平穏ではない。

 万人が、自由のうたをうたう、奏でる。

 希望があった時代、高らかに自由がうたわれた。

 希望があった時代があった、ということは、再び希望がある時代がやってくるかもしれない。 

 自由のうたをうたい続けよう。

 

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chatGPTは中庸な意見が好きなようだ。

2023-02-16 21:36:27 | その他

 もう一つ聞いてみた。

【質問】

人間が生きていくうえで、緑豊かないなかに住むべきか、それとも高層ビルが立ち並ぶ都会に住むべきか、あなたの意見を教えてください。
 
【回答】

個人的な意見としては、緑豊かな環境に住むことが重要だと考えます。緑が多い場所に住むことで、自然とのつながりを感じることができ、心身ともに健康的な生活を送ることができます。また、自然環境が豊かな場所に住むことで、地球環境への配慮もできます。

一方で、都会に住むことも必要不可欠な面があります。都会には様々な文化や産業が集積しており、多様な人々との出会いや新しい情報に触れることができます。また、都会には先進的な技術やサービスが充実していることが多く、快適な生活を送ることができる場合もあります。

そのため、住む場所は個人のライフスタイルや優先順位によって異なると考えられます。緑豊かな環境に住むことが好きな人もいれば、都会で活躍することを重視する人もいます。重要なのは、自分自身が心地よく過ごすことができる場所を選ぶことだと思います。

 

【考察】最初文字が出てきたときは、自分の意見をしっかりと主張するのかと思ったが、続いてでてきた文字を追っていたら、また当たり障りのない回答になった。chatGPTは、中庸な回答を好むようだ。敵を作らない回答、ということでもある。

 

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chatGPTを試してみた。

2023-02-16 21:16:34 | その他

今話題になっているchatGPTに、こういう質問をした。

【質問】日本の未来は明るいですか?

【回答】

私はAI言語モデルであり、将来を正確に予測することはできません。ただし、日本は技術革新、教育、健康、安全、経済的な面で高い水準を保ち、多くの分野で世界のリーダーの一人として認められています。しかしながら、日本は人口減少、高齢化、労働力不足、地方都市の過疎化などの課題に直面しています。これらの課題を克服するために、日本政府は積極的な取り組みを行っており、将来的にはさらなる進歩と発展が見込まれます。

【質問】

日本は2011年大地震が起きました。この後日本には大きな地震がくるでしょうか。

【回答】

地震は予測が難しく、どの時点でも起こり得ます。また、日本は地震の多い国の一つであり、地震に備えた防災対策を行っています。しかし、過去の地震から得られた知見を元に、地震の発生確率や規模などを予測する試みは行われています。

具体的には、日本では地震活動が活発な地域や断層などを調査し、過去の地震データや地盤の情報をもとに、地震予知の研究が行われています。しかし、現在の科学技術では、具体的な地震発生日時を予知することはできないため、万が一の地震に備えて、日頃から防災意識を持ち、防災訓練などの準備を行うことが重要です。

【質問】

原子力発電所の稼働期間を60年にすると日本政府は言っています。はたして原子力発電所を60年間稼働させて安全が保たれるでしょうか。

【回答】

原子力発電所の稼働期間を60年にするという考え方は、原子力発電所の設計寿命が40年であることから、既存の原子力発電所を長期間にわたって稼働させることで、将来的なエネルギー需要を満たし、温室効果ガスの排出削減に寄与することを目的としています。

しかし、原子力発電所の稼働期間が長くなると、機器や部品の老朽化や劣化が進み、安全性が低下する可能性があります。このため、原子力発電所の安全性を確保するためには、厳格な点検・メンテナンス・改良を継続的に実施する必要があります。

また、原子力発電所に関する技術や安全性に関する知見は、長期間にわたって蓄積されることになります。今後の科学技術の進歩に伴い、新しい安全技術や改良が生まれることも期待できます。

総じて言えることは、原子力発電所を60年間稼働させることができるかどうかは、安全性の確保について十分な措置を講じるかどうかにかかっているということです。政府や原子力発電所の運営者は、安全性を最優先に考え、必要な対策を講じることが求められます。

 

【考察】当たり障りのない回答に終始しているように思える。これでは毒にも薬にもならない。面白味もなく、学生のレポートなら合格点はもらえるだろうが、具体性やユニークさがないために高い評価は得られないのではないか。

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久しぶりに・・

2022-06-17 20:59:51 | その他

 3・11の大地震とあの大きな津波を見て、ああ自分は楽しいことや喜ばしいことは今後避けなければならないと思った。2011年の3月、私は早期退職した。退職後は、海外を旅しようと思っていた。しかし、あの地震と津波は、その思いを消し去った。

 今年2月24日、ロシアがウクライナに侵攻し、庶民を殺し、庶民の生活の場を破壊する姿を見て、あゝ自分は戦争が続いている限りは、戦争の姿を見続けなければならないと思った。今も、ウクライナを、ネットで見続け、早く戦争が終わらないかと心待ちにしている。

 こういうときは、畑にいるのがよい。今は、雨が降ると、雑草がすぐに生長する。土であったところがミドリに覆われる。私はそれをとる。もちろん収穫もある。今日は、キャベツとズッキーニをとってきた。昨日はレタスとタマネギ。毎日、毎日、何らかの収穫がある。畑で動いていると、雑念が浮かんでこない。とにかく体を動かし続ける。

 読書の時間は少なくなり、本を買うことが減った。買っても新書のように手軽に読めるものだ。

 昨日、久しぶりの単行本が届いた。タリア・ラヴァンの『地獄への潜入』(柏書房)である。日本だけではなく、世界でヘイトスピーチ、ヘイトクライムが吹き荒れている。なぜか無数の憎悪がオモテに出てきている、それが集まって「力(暴力)」となっている。

 私が生きてくるプロセスで、かくも憎悪がオモテで騒がれたことはなかった。人間が憎悪を持ち、それをオモテに出すということは、時に犯罪や事件となって表出することはあっても、集団となって憎悪を叫びあうという事態はなかった。

 なぜなんだろう、と私は問いを持った。

 きっと、人間には憎悪というものが潜んでいる、ということは想像できる。私もそれらしきものはないわけではないが、とりたてて叫ぶほどのものではない。それに、そうしたものはオモテに出すものではない、という何かしらの共通理解があったのではないかと思う。

 ところが今は、その憎悪がオモテに出て、忌まわしい事態が世界中で起きている。政治家のなかにも、平気で憎悪を口にする者もでてきた。

 私は、なぜこういうことが起きてきたのかを知りたくなった。ひとつの仮説ではあるが、私はインターネットが人びとの心の奥にしまわれていた憎悪を呼び覚まし、それぞれの憎悪をインターネットが結びつけたのではないか、と思い始めた。

 この本には、ユダヤ人でアメリカ在住の女性が、そうした憎悪の集団に入り込み、その経験と怒りが記されている(と思う。まだ読んではいないので・・)。

 憎悪の底には被害者意識もあるようだ。うまくいかないみずからの生を見つめたとき、うまくいかない理由を自分のなかに発見するのではなく、その原因を他者のなかに発見する。そしてその他者に憎悪を向ける。

 私が生きてきた時代と現在とは大きく異なっているようだ。一般的には、憎悪は見えなかった。今、憎悪が街頭に出て、政治をも動かす。

 退職後は静かな生をおくりたいと思っていた。しかし種々雑多な憎悪の表出を見て、なぜ?という問いを持ってしまった。

 久しぶりに買ったこの本を少しずつ読んでいこうと思う。

 

 

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なぜなのか。

2022-02-18 08:48:18 | その他

 柳美里さんの『国家への道順』を読んでいる。彼女は、小学校の頃、壮絶なイジメに遭っていた。彼女は「バイキン」と呼ばれていたという。在日コリアンという出自が原因だったのだろうか。

 私には、在日コリアンの友人がいるが、そのなかに中学校の時のクラスメートO君がいる。母親から、彼が在日であることを知らされたが、そんなことには一切かまうことなく、友人のまま現在に至っている。彼が在日であることについて本人から聞いたこともなく、私のクラスメートはおそらく知っているのだろうが、それを口に出したことはない。ふつうにつきあっている。在日だから差別するという感覚が分からない。

 日本にコリアンがたくさん住んでいるのは当たり前だ。大日本帝国は朝鮮半島を植民地支配に置き、いじめ抜いた。いじめられるなかで、生きていくために日本や中国に移動していき、そこで生活を営むようになったのだ。大日本帝国下の朝鮮人に対する政策を縷々書きつけるつもりはないが、支配層は徹底的に差別的であった。だからといって、庶民が差別する理由はない。

 芥川龍之介の作品に「「猿蟹合戦」がある。これは一般的な「猿蟹合戦」の後日談を描いたものだ。仇を討った蟹はなんと死刑とされた。猿がいわゆる「一級市民」であったからで、芥川は、「兎に角猿と戦つたが最後、蟹は必天下の為に殺されることだけは事実である。語を天下の読者に寄す。君だちも大抵蟹なんですよ。」と記している。

 柳美里さんを差別する者、そして在日コリアンらに最大限の悪罵を投げつける者たちの品性を疑う。

 この本で、柳美里さんは在日コリアンであることを堂々と提示している。それは当然のことなのであるが、みずからの出自を自由に語れないことがあるのなら、そういう社会の在り方が問われなければならない。

 そんなに厚い本ではなく、エッセイ集というものなので、読みやすい。

 

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自立

2022-02-11 08:34:12 | その他

 以前、仲よくしているメディア関係者が、会社をやめたいと言っていたことがあった。私は安易に判断してはいけない、みずからの生活がきちんと維持されていること、経済的に自立できてこそ、いろいろなことがやれるのだと説得した。

 フリーのライターで生きていくことはなかなか難しい。給与として支給される金額を原稿料で稼ぐことは、そう簡単ではないこと。ひょっとしたら、カネを稼ぐために、原発賛成の原稿を書かざるを得ないかも知れない(そうした記事は原稿料が高い)・・・そうなったら、フリーになる意味はない・・・などと説得した。

 一人は「出世」し、ひとりはやめて山の中の生活に入り、ひとりは地方をまわっている。

 生きていくための資力がないと、逆に自由を失う、おのれを偽るという結果になりかねない。

 『Journalism』2月号に、アイティメディア株式会社社長の大槻利樹さんへのインタビュー記事が載せられていた。「孫正義のDNAを継いで」いる人だ。彼はこう云っている。

 赤字になったらどこかに頼らないと生きていけないでしょう。「報道の自由」なんて格好いいことを言っても、誰かに依存していたら、報道の自由もへったくれもあったものじゃない。自立しているからこそ、自らのオピニオンを伝えられる。

 その通りだと思う。これは朝日新聞社に対する助言なのだろうが、私たちが生きていく上でも重要な助言である。

 様々な自立がある。経済的、精神的、学問的、生活的・・・・・ひとは、できうるかぎり自立を求めて生きていくことが肝要だ。もちろんそれは、批判的精神を維持するために必要なことだからだ。

 

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一太郎2022のこと

2022-01-13 11:59:43 | その他

 Windows95から、私はワープロソフトとして「一太郎」をつかってきた。それ以前は、「新松」であった。「新松」はウィンドウズにのせられなかったのだろう。Windows95から消えた。

 そして何年かごとに「一太郎」をバーションアップしてきた。

 最近、「一太郎2022」の宣伝パンフが届いた。もう何年かバージョンアップしていないので買おうかと思い、不明なことがあったので電話してみた。

 今までは、「一太郎」を購入すると、「ATOK」(かな漢字変換ソフト)もパソコンに入る。ところが、2022年の「一太郎」からは、「ATOK」は入らない。「ATOKPassport」としてネット上で使用するようになるようだ。それは、一年間は無料であるが、それ以降は年間7000円程度支払わないと使えなくなるとのこと。

 現在このパソコンには、「一太郎2018」が入っている。「ATOK」も入っている。不自由はないので、購入はやめることにする。

 今後、ジャストシステムが「かな漢字変換ソフト」をこのような方式で課金していくとなると、いよいよ「一太郎」とはお別れになるかもしれない。

 

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2011年 原発事故の経過

2021-03-21 21:41:39 | その他

 これは見るべきである。

【3.11から10年】その時、総理はどう決断したか 菅直人元総理インタビュー

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トリチウムの危険性

2021-03-16 21:20:19 | その他

私は、日本の自民党公明党の政治家や官僚たちは、日本を崩壊させようとしていると思う。

『トリチウムの健康被害について』

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客席に誰もいない

2021-01-05 20:18:47 | その他

 今年のウィーンフィルのニューイヤーコンサート、ネットにアップされたのでみたら、客席に誰もいない。

 早く COVID-19よ、退散せよ。最後のラデツキー行進曲の際の拍手がない。

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愛の不時着(2)

2020-12-20 09:15:36 | その他

 この連続ドラマは、ときにハリウッド映画張りの場面もあり(銃撃戦)、とてもよくできていると思った。これを週一で見ているとすると、それぞれ一話が終わる度に、おそらく次の展開がどうなるかがとても気にかかってしまっていただろう。

しかし、である。私たちはこのドラマの背景にある問題を見つめる必要がある。なにゆえに、同じ言葉を話す一人の男性と一人の女性が出会って愛情の絆に結ばれているのに、会うことができないのか。

 朝鮮民族を分断する38度線。同じ民族であるにもかかわらず、敵国として認識し合わなければならない現実。同じ民族であるのに、電話もメールもその他一切の連絡が絶たれている現実。38度線は、一つの民族を分断し、それぞれをもっとも遠い存在へと押しやる。

 このドラマでも、会うことができるのはスイス。それぞれがスイスに行く理由をつくっての邂逅である。

 この分断の責任は、日本にもある。植民地支配、敗戦直前の日本軍の配置、そしてアメリカのソ連との占領区域の線引き。その後につづく冷戦。

 北朝鮮の水道もガスもない、日本の高度経済成長以前の姿がいまもって続いている様子が描かれる。しかし朝鮮半島というのは、そこに住む人が一つになっていて自給できる。つまり農業は南部が担ってきたのであり、北朝鮮が食糧不足に苦しむのは自然や地形上やむをえない問題なのである。

 このドラマの制作者は、不条理な分断に対する問題意識を持っているのだろう。

 「愛の不時着」を見ながら、朝鮮半島の歴史的現実を直視するべきなのである。

 

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