浜名史学

歴史や現実を鋭く見抜く眼力を養うためのブログ。読書をすすめ、時にまったくローカルな話題も入る摩訶不思議なブログ。

【映画】 無言歌

2012-04-24 20:21:11 | 日記
 今日は暖かい日であった。今我が家の庭は花がまっ盛りである。この次に植えるつもりの花の種を蒔いた。

 今はストロベリー・トーチが風にそよいでいる。近所で咲いているものではない花の種を購入して、たくさん芽を出させ、近所の人々に分けるのが趣味になっている。

 さてそうした花とは無縁の映画を見てきた。例によってシネマ・イーラだ。中国を舞台にしたもので、さすがにこの映画については、おカネを出して何でこのようなものを好きこのんで見るのかと自問自答してしまった。

 1960年前後の中国、毛沢東が権力を握っていた頃、毛沢東は「百花斉放・百家争鳴」を唱えて、言論の自由を保障し、政府批判を許した。ところが途中で方針を変え、批判したものを「右派」として糾弾し、砂漠地帯に設置した労働改造所に追いやった。

 ちょうど飢饉の時期と重なったことから、そこに追いやられた人々が、次から次へと無くなっていく。食べるものがないため、亡くなった人の肉までも・・・・

 このようなところで、食べるものもなく、労働を強制されて、死んでいく。非業の死というか、もう何とも言えない。

 歴史は、いや政治権力は、こういう非業の死を無数につくってきたのだ。アウシュビッツ、南京、ソ連のシベリア抑留・・・・世界各地にそうした事例がたくさんある。

 こういう事実が示されるとき、私は、人間とは何であるのか、と問われている気がしてしまう。

 こういう「非業の死」というか、「不条理の死」というか、そういうものをどのようにしてなくしていくのか、そのために努力するしかないと思う。

 ゴビ砂漠には、花はない。砂と、枯れた草と、死体に土をかぶせた小山があるだけだ。そういうところと、まぶしい緑に囲まれ、色とりどりの花が咲き乱れる私の生活の場。この「差」、時間的にも空間的にも、もちろん離れている。だが、そういう事実を知り、その「差」を感じることが大切だと思う。

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負債の時代

2012-04-21 20:16:42 | 日記
 昨日『現代思想』の昨年12月号について紹介した。今日ほとんど読み終えて、返却した。なかなか刺激的な論文が入っていた。

 その一つに「未開の大学」という論文があった。白石嘉治が書いたものである。その最初に、学生運動の話がでてくる。日本では、学生運動はほとんど消えてしまっているが、他国では今も存在している。

 チリや韓国の学生運動は、大学の授業料無償化を求めたものである。そのため、来年の大統領選挙を控えた李明博政権は授業料の半額化を打ちだしたという。それぞれの国の授業料は、年間15~30万円がチリ、韓国では30万ほどだという。

 日本はというと、私学では80万円、国公立では50万円くらいか。入学金を入れれば私学では100万円をはるかに超える。それでも日本では、運動が起きない。

 学生はおそらく耐えている。

 白石氏は、現代をたぶん「負債の時代」と捉えている。なぜなら負債者にしておけば、債権者は負債者である債務者の「存在そのものを支配」できるからだ。

 私は今一切の負債はないが、白石氏は「個人の債務がなくても、徴収される所得税の総額は、ほぼ公債の利子の支払い額に相当するはずである。われわれは公的な負債の返済のために労働し税金を払っている」という。その通りである。国民全体が債務者なのだ。

 現在の社会は、債権者がたくさんの債務者を従えているという時代なのか。国家も地方自治体も、債務者なのである。債務者は、債権者に首根っこを捕まれているのかもしれない。

 学生支援機構の奨学金を借りて、債務者として社会に出て行く学生が多い。韓国やチリのような運動は起きないのだろか。



 
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大学の意味

2012-04-20 22:20:40 | 日記
 『現代思想』(青土社)という雑誌を読むことをすすめている。その理由は、まずこの雑誌は批判的な視点をもって、特定のテーマについて学問的な検討を行っているからであり、もう一つはただ単に「頭の体操」になるということからである。

 後者についていえば、テレビを見たり、マニュアル本などを読んでいても、思考力は高まらないよと言いたいためである。どちらかというと難しい論文を色々読んでいると、新たな着想が湧いてくることがある。その着想を得るが為に、難解な論文の集積であるこの雑誌を読み込むのだ。

 前者については、読んでみればわかるが、少し説明を加えよう。

 買いそびれた号がある。昨年の12月号、特集は「危機の大学」である。昨年までは長年つきあいのある書店から継続して購読していたが、その書店が店をたたんでしまった。そこで仕方なく一般の店で買うことになったのだが、この『現代思想』を置いてあるのが、谷島屋書店(メイワン)、イトーヨーカドーの3階にある書店だけである。ちなみに、この雑誌を置いてある図書館は、静岡文化芸術大学、そして浜松市の図書館では遠鉄百貨店の新館8階(だったか?)にある分室である。

 最近、通販でも買えることが分かり、bk1という通販の書店で購入するようになった。だがこの号は、買いそびれた。そこで借りてきて読んでいる。

 この号の特集の問題意識は、やはり東日本大震災に起因する。その後に起きた福島第一原発の事故、そのときのテレビメディアに出演して解説をしていた大学教授の面々、彼らは「原子力ムラ」のメンバーでもあるが、彼らの解説はほとんど間違ってたし、それよりも彼らの言説は犯罪的でもあった。

 その大学に巣くう彼らが、原発を推進してきたのである。

 そこで問題はこう立てられる。大学や大学の研究者の社会的責任とは何か、ということである。考えてみれば、この原発の危険性に早く気付き、反原発を粘り強く訴えていた故高木仁三郎は、大学を出て在野で研究しつつ問題を指摘し続けた。なぜ大学でそれができなかったのか。

 そういう大学とはいったい何であったのか。これも問われることだ。

 だがしかし、今の大学は、1960年代~70年代の学生運動が反対した「産学協同」はすでに当たり前のものとなり、学問研究の意味を考えていた頃と異なって、研究者は企業などからカネをもらって研究を続け、学生は就職のためにキャリア教育に勤しむ。

 大学は、産業のために知識と人材を提供するところとなってしまっている。こうした現実をどう考えたらよいのか。

 新自由主義に席巻される大学とは何か。この雑誌には、そうした問いを持った人々が、苦渋の面持ちでキーボードを叩いて書き上げた論考が掲載されている。

 「現在」社会のことをいろいろ調べていると、至る所に新自由主義がはびこっていることを発見する。どこにでも入り込むことが出来る軟体動物のような新自由主義。それがどこでも繁殖し、庶民を苦しめている。しかし庶民はそれに気付かない。

 私は、今、大学で学ぶ意味は、この新自由主義と闘うことだと思う。
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【映画】 父の初七日

2012-04-18 17:34:47 | 日記
 今日映画館へ。台湾映画「父の初七日」である。

 予告編で、面白そうだったからということ、もう一つは台湾の葬式はどういうものかに興味があったから、観にいった。

 面白く、またペーソスがあってまあまあの映画であった。

 http://www.shonanoka.com/

 台湾ではたいへん好評であったようだ。

 父が突然亡くなった。すでに母はいないので、娘と息子が葬式を執り行うのだが、出棺までの7日間、ひたすら葬儀の進行に従う。進行を妨げるような感懐は抱けない。ひたすら式の進行を担うのだ。

 しかし亡くなってから数ヶ月後、娘は父をおもってむせび泣くのだ。

 まったく市井の人々の日常の中にポット出てきた非日常を生きる庶民の姿が、素朴に描かれる。ドラマがあるわけではない。そういう光景を描いた映画があっても良い、と思った。
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やることがない・・・

2012-04-16 16:52:45 | 日記
 やることがない・・・こうぼやくのは、最近一線から退職した男どもの声だ。今まで、一日中外に出ていたので、家にいても居場所がない。だからといって、今までの職場以外に行くところはない。そうなると、どこへ行くか。

 まず第一の選択肢は、家に閉じこもること。第二の選択肢は、図書館に居続けること。第三の選択肢は、パチンコである。

 近所の、休日における男どもは、家に籠もりきりだ。近所の男どもが外に出ていることはほとんどない。たまに犬の散歩や家人に頼まれての「アッシー君」くらいである。

 図書館で本を貸借するためにいくと、そこには本を読んでいる風でもなく居眠りしている人、新聞に目を通している人などが目につくすべて男だ。図書館は冷暖房完備。じっとしていても、文句はこない。いっぽう、女どもは自分が読みたい本を探してたりして、用が済んだらいなくなる。だが男どもはずっといる。

 さてパチンコ屋の駐車場。休日でなくても、車はいっぱい。

 退職後、何かやることはないのだろうか。仕事の他に、やることはないのか。

 日本の教育は、子どもたちの知的好奇心を養ってこなかったのではないか、と最近思う。考えてみれば、学校で、読書タイムが設けられていても、本を読む習慣がなかなかつかない。受験の勉強はする、しかし知的好奇心をもって、それ以外の本を読むという姿は余り見たことはない。

 岩波書店発行の雑誌『世界』5月号(今月号の特集は「教育に政治が介入するとき」である。これに関する論文も読み甲斐があるが、原発事故に関する論考には教えられることが多かった)に、「人災としてのギャンブル依存 被災地を襲うギャンブル」というルポがある。

 放射能から避難をしている人々は、生活と生業の場を奪われて、いつともしれぬ漂泊の日々を送らざるを得ない状態にある。もう何十年かは戻れない、というのなら、新しい処に移ってあらたな仕事につくということもあるだろう、だが政府は、「除染」という放射性物質の移動に大金を使って大手企業をもうけさせるばかりで、何の具体的対策も示さずにいる。先の見通しを失った人々は、過ぎてゆく時間をどうつかうか。

 中には、パチンコというギャンブルにのめり込む人々もいるというのだ。まさに「人災としてのギャンブル依存」。

 歳をとり、一日のほとんどが自由時間というとき、一体何ができるのか、何をするのか、を考えておく必要があると思う。少なくとも、本を読む習慣だけはつけておいたほうがよい。

 自分自身も自由な日々を送っているが、知的好奇心もあれば、映画も好き、野菜作りも好き・・・・ということで、なかなか忙しい。特に本を読む時間が大幅に増えて、たいへん満足している。読めば読むほど、現実社会の増大する矛盾を知らされて暗くなることもあるが、何とか変えていかなければならないと外にも出ている。

 周辺の男どもの生態に、「もったいない」と思うことしきりである。
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原発報道の検証

2012-04-11 23:34:48 | 日記
 政府の広報機関であるNHKのニュースは、今見ていてもあまりにひどい。北朝鮮の「衛星」発射の件についても、政府の主張をそのまま画像を入れて大本営発表を繰り返している。

 ここでは、原発事故をテレビはどう報道したか、その検証がなされているので、見て欲しい。

http://www.ourplanet-tv.org/?q=node/1341

 私も3時間という長時間のこの討論番組を見たが、昨年3月の事故が起きたときの政府やテレビの対応を、ビデオを見せながら検証していく。

 NHKはじめ、テレビメディアの犯罪性が、見事に証明されている。「パニックをおこさないということを優先したというが、彼らは人々の命や健康は守らなかった」のである。

 東電、保安院はもとより、政府や学者や、メディアがいかに誤った情報を流したかが示されるのだが、しかしそれについての自己検証はまったくなく、彼らがいまもって原発の稼働に実権を持っているのだ。当時すでに正確な情報を流していた学者は排除され、誤った情報を流した彼らが、原発の再稼働に邁進している。

 広河さんが言うように、日本はどうしようもない国だ。

 事故から1年以上経過しているのに、被災者への賠償は遅れ、被ばくはそのまま強制され、復旧はなされず、大手ゼネコンには巨額のお金が散布され・・・・、政府も、学者も、メディアも何も変わらずに、動いている。

 原発事故が起きたとき、被災する人々は、棄てられるということが前例となった。原発に反対するゆえんである。
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「貧しく生きる自由」

2012-04-09 10:37:11 | 日記
 1941年1月、当時のアメリカ大統領ルーズベルトは、演説で「人類の普遍的な4 つの自由」について語った。その普遍的自由とは、言論と表現の自由、すべての個人がそれぞれの方法で神を礼拝する自由、欠乏からの自由、そして恐怖からの自由である。

 これは、ファシズムが吹き荒れた時代を克服した後の、社会構想でもあった。そしてそれは、日本国憲法にもうたわれた。その前文には、「われらは、全世界の国民が、ひとしく恐怖と欠乏から免かれ、平和のうちに生存する権利を有することを確認する。」とある。

 ルーズベルトは、「欠乏」を自由の面からとらえ、日本国憲法は平和の面からとらえた。戦後は、それをめざして政治や社会は動いてきた。ところが21世紀になって、「貧しく生きる自由」を主張する者があらわれた。それを語ったのは、小泉内閣の時重用された竹中平蔵である。彼は、選択肢が広がって、「貧しく生きる自由もある」と言ったのだ(『週刊東洋経済』臨時増刊号、2012・2・20号)。

 製造業に非正規労働者を雇用できるとしたことなど、彼らは政策的に(若者の)貧困層をつくりだしたのだが、何とそれを「貧しく生きる自由」と表現したのだ。貧困はみずからの選択の結果だというのである。

 経済格差が学校の成績などに大きな影響を与えることは、すでに明らかになっている。自らが生まれた家庭の経済的な環境が、その子どもの将来を決定する、その傾向が強化されている。

 高等学校では、「がんばれ、がんばれ」と、大学への進学率をあげるために、生徒たちに「努力」を促す。経済的に進学が難しいとなると、奨学金を借りればよいではないかという。

 給料が右肩上がりに上がっている時代なら、借りても返済は可能であっただろう。ところが、就職が困難になっている、非正規労働者として何とか職があっても収入が少ない、またいつ仕事がなくなるかわからない、これが現状だ。奨学金がいま、大きな問題となっている。

 その背景には、教育において、日本の私費負担部分が大きすぎることだ。先進国で、日本ほど教育にカネをつかっていない国はない。子どもに教育を受けさせるために、親は収入の多くの部分を教育費に支出せざるを得ない。

 ところが大学の学費は、「受益者負担」などといって上昇の一途である。

 そこで奨学金に頼ることになるが、大きな割合を占める日本学生支援機構の奨学金は返済しなければならない。

 その返済ができない若者が着実に増えている。

 それは、若者のせいか、そうではない。「国際人権規約」というものがある。そのなかに、こうある。
 まず前文だ。

 
国際連合憲章において宣明された原則によれば、人類社会のすべての構成員の固有の尊厳及び平等のかつ奪い得ない権利を認めることが世界における自由、正義及び平和の基礎をなすものであることを考慮し、
 これらの権利が人間の固有の尊厳に由来することを認め、
 世界人権宣言によれば、自由な人間は恐怖及び欠乏からの自由を享受することであるとの理想は、すべての者がその市民的及び政治的権利とともに経済的、社会的及び文化的権利を享有することのできる条件が作り出される場合に初めて達成されることになることを認め、
 人権及び自由の普遍的な尊重及び遵守を助長すべき義務を国際連合憲章に基づき諸国が負っていることを考慮し、
 個人が、他人に対し及びその属する社会に対して義務を負うこと並びにこの規約において認められる権利の増進及び擁護のために努力する責任を有することを認識して、
 次のとおり協定する。


 そして第13条の(c)にこうある。

 高等教育は、すべての適当な方法により、特に、無償教育の漸進的な導入により、能力に応じ、すべての者に対して均等に機会が与えられるものとすること。

 ところが日本政府はこれについて、「留保」を続けている。他に「留保」している国は、マダガスカルだけだ。

 また大学授業料が有料の国で、返済義務のない給付制奨学金制度を持っていない国は、日本だけだ。

 こういう信じられない「先進国」が日本なのである。そういう国だから、「貧しく生きる自由」が公然と語られるのだ。






  




 
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わかりやすい原発の話

2012-04-09 00:10:31 | 日記
 山下俊一ではないけれども、にこにこ笑いながら原発のことがわかるビデオ。

 最後の結末について指摘しておくと、いま国家権力は言うことを聞かない奴、政府の政策に反対する奴を黙らせるために、痴漢犯罪をでっちあげて逮捕したり、あるいは些細な事件をつくって一時的に身柄を拘束したりすることを展開する。

 たとえば、現在の福島県知事ではなく、その前の福島県知事がどういう事態になったかを調べてみればわかる(『知事抹殺 つくられた福島県汚職事件』)。

http://www.youtube.com/watch?feature=player_embedded&v=9FiwgKYdwrg#


 そして制作者の、歌のメッセージ。この歌い手、なかなか上手です。

http://www.youtube.com/watch?v=_OSNxncI4YI&feature=relmfu

 スイシンジャーの出発。

http://www.youtube.com/watch?v=0AcQJE_R0iw&feature=relmfu

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【本】成田龍一『近現代日本と歴史学』(中公新書)

2012-04-06 23:05:15 | 日記
 なかなか読みでのある本だ。

 副題に「書き替えられてきた歴史」とあるが、そのテーマについては目的を達している。E・H・カー『歴史とはなにか』(岩波新書)を著者が引用しているように、「事実というのは、歴史家が事実に呼びかけた時にだけ語るものなのです。いかなる事実に、また、いかなる順序、いかなる文脈で発言を許すかを決めるのは歴史家なのです」というように、時代によって、歴史家によって、歴史の叙述は替わっていく。その経緯は、きちんと記されている。

 歴史家が事実に呼びかけるというのは、ただ単純に事実に向き合うのではない。歴史家は、当該の歴史的状況のなかで、どういう課題意識をもって、またいかなる理論的背景をもって事実に対座し、その事実をどう叙述したのかが問われるのである。

 したがって、史学史を明らかにするということは、上記の問題を欠かすわけにはいかない。

 本書も、一応はそういう考えをもって、戦後歴史学の近現代史に関する史学史を記述している。だが私には、どうも不満である。

 著者と私とはほぼ同じ時期に歴史を学んできている。したがって、著者が提示する研究書は、私も同じように読み、多大な影響を受けてきた。だが私が思うに、それぞれの研究書が記されたとき、その歴史家は当該の時代を生き、鋭い課題意識をもってそれぞれの研究を進めてきたのだ。そうしたことを記述することが史学史であるはずだが、その記述が弱い、別の言い方をするなら歴史家の営為に対する真摯さが足りない。歴史家たちはもっともっと深刻な問題意識をもって研究をすすめてきたはずだ。その問題意識に向き合う姿勢が、どうも弱い。紙数の問題もあろうが、著者自身、そういう問題意識をもって研究してこなかったのではないか。

 時代や事実と格闘しながら、歴史家は研究を進めてきた、その格闘を、著者は見つめていない。ひょっとしたら、著者は史料、あるいは現実の課題と格闘しながら歴史研究をしてこなかったのではないかと思った。こういうことばを使って良いのなら、著者は「歴史家」ではなくて、「歴史批評家」ではないかと思った。

 著者は、224頁で上野千鶴子の批判に言及している。「一般化して言えば、出来事が終了した事後の立場と視点から、出来事の評価と批判を行うことが、歴史家として適切な行為であるかという歴史学の根幹に関わる論点」として、上野の批判を肯定的に紹介する。もちろんその「評価と批判」ははるか天上から断罪するようなものであってはならない(事後の立場と視点からでも、その出来事を内在的に評価し批判することは可能だ)が、「出来事が終了した事後の立場と視点から、出来事の評価と批判を行う」のは、当然のことではないかと思う。

 そういう上野の意見に賛同しているからか、『坂の上の雲』と司馬遼太郎への見方は甘い(173頁)。朝鮮認識の弱さなどについて、「1960年代後半から70年代にかけての司馬の問題意識によって書かれた」ものだ、と弁解する。だがすでに山辺健太郎の本は出版されている。後に、司馬は、この作品が朝鮮認識について弱さを持っていることを自覚していたようだ。だからこそ、ドラマ化を司馬は拒んでいたのではないか。

 『坂の上の雲』がテレビドラマ化され、人々の歴史認識に大きな影響を与える可能性があるとき、その作品に瑕疵があるのであれば、それを批判するのは当然であると思う。

 著者は、様々な研究から多大な知的触発を受けてきた、それがこの本では述べられているといってもよいだろう。沖縄についての屋嘉比収の研究、戦後日本思想を、「在日」の視点から鋭く問いかける尹健次の研究などには、著者も大きな刺激を受けたようだ。

 
※私も尹の諸説、屋嘉比の突きつける問いに衝撃を受けた。その問いにどう応えるかを考えざるを得なかった。著者は、そのような問いは問いとしてそのままにする。自分自身には突き刺さらないのだ。


 だが、それらの問題についての、当事者意識が弱い。だからか「歴史家であっても、現在に関わる出来事については、状況への発言として発する人もいます」(248頁)と書いている。この箇所は、その前の文でこの項目は終えていても良い記述なのだが、唐突感がある。おそらく著者は、そういう発言する「歴史家」ではないのだろう。

 この本は、「歴史の教員を目指す学生」への講義から生まれたそうだ。著者の「史学史を踏まえた歴史教育を行って欲しい」という願望はよい。だとするなら、もっと真摯に歴史家たちの課題意識に寄り添うべきであった。

 著者は、多くの参考文献を読みこなして史学史をたどっているが、なかには最近のもので知らない文献もあった。感謝したい。著者の勉強ぶりには、脱帽するしかない。

[追記] ないものねだりかもしれないが、本書には、経済史や農業史などの紹介がない。ほぼ政治史に関わる学説の変遷を、高校教科書の記述を導入部分としながら記述しているのだが、なぜそれが視野にないのかが気になった。
 
  


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【映画】サラの鍵

2012-04-04 14:22:22 | 日記
 シネマ・イーラで、「サラの鍵」を見てきた。

 なかなか複雑なストーリーで、その内容を説明することはたいへんなので、感想だけを記す。内容は、下記のHP参照。

 http://www.sara.gaga.ne.jp/

 現在と1940年代からのサラの家族が生きた歴史と往復しながら、話は展開していく。舞台はフランスである。

 1942年、ヴィシー政権(首相は、ペタン元帥)は、フランス国内のユダヤ人に対する迫害を始めた。そのなかで、サラの家族も囚われの身となり収容所へ。サラ一家が拉致されるとき、サラは弟を納戸に隠す。

 両親(虐殺された)と引き離されたサラは、収容所から逃れる。そして匿ってくれた老夫婦とともに、パリのもとの住居へ行くが、弟は・・・・・。

 その後サラは、心に暗闇を抱えたまま、匿ってくれた家庭で生活する。しかしあるとき、黙って家を出る。

 サラはアメリカへ渡ってそこで家庭を持つ。だが心の闇は消えない。

 さて主人公アメリカ人のジャーナリストであるジュリアは、偶然サラがもと住んでいた住居にやってくる。夫の両親らがそこに住んでいたのだ。ジュリアは、戦時下フランスでのユダヤ人迫害を追っていて、そこがサラが住んでいたところだと知る。ジュリアは、その後のサラを追跡する。

 もうこれ以上書くことはないだろう。これ以上書いたら、見たときの感動が薄れてしまう。

 ヨーロッパは、戦争が終わって70年にもなろうとしているのに、何度も繰り返して、ファシズムに覆われた時代の歴史を語る。このように映画であったり、小説であったり、音楽であったり・・・
 そして、フランス国家が、フランス人が、ナチスに、ファシズムに加担した歴史を示していく。

 なぜか。忘れてはならないからだ。

 サラの家族たちの、そしてジュリアの夫の家族たちの人生にも、忌まわしい事実がまとわりついて離れないのだ。被害者たちがそうであるなら、そのほかの人々もその忌まわしい事実とつきあわなければならぬ。その歴史からは逃れられないのだ。

 過去に起きた忌まわしい事実を消すことはできない。その後に生きる者たちは、忌まわしい事実を忘れないこと、記憶にとどめること、そして繰り返さぬこと、それが求められている。

 この映画も素晴らしい。映画をみるということは、歴史、人生、社会などを考える契機にするということである。ただ単に楽しむことが目的であってはならない。アメリカ映画はただ単に楽しむだけのものがほとんどだが、アメリカ以外の映画は、それらを考えさせようとする。その意味で、深いのである。

 シネマ・イーラでは、そうした映画が上映されている。
 
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【本】渡辺京二『日本近世の起源 戦国乱世から徳川の平和へ』(洋泉社新書)

2012-04-03 21:24:26 | 日記
 渡辺京二は、『逝きし世の面影』(平凡社)で有名だ。この本はずっと前から買ってあったのだが、未だ読んでいない。渡辺京二が最近書いた『黒船前夜』(洋泉社)は大佛次郎賞を獲得している。

 この渡辺の本は読まなければと思いつつ、店頭でこの『日本近世の起源』を見つけ購入した。新書版なので簡単に読めるだろうと思っていたが、そうはどっこい、簡単ではなかった。新書版ではあるが、戦後歴史学への挑戦的な記述のため、内容は濃く、読むスピードは遅くなった。

 渡辺の近世史へ至る歴史のとらえ方は、従来の通説への批判を含んではいるが、渡辺が主張するものは、この本で引用されているように、学界でも主張されてきたことだ。それらを批判的に統合して記述しているところが面白い。

 渡辺は歴史学者ではないので、多くの研究書を読み込んで立論しているのであるが、読んでいて難しくはない。中世史、近世史を学ぶものが当該期の歴史を俯瞰していく上で、読んでおいたほうがよいだろう。

 しかし歴史学者でもないのに、よくもまあ多くの専門書を読みこなして、それを駆使して一定の歴史像を組み立てることが出来たなあと感嘆する。

 戦国期は、藤木久志の研究に多くを負っているが、最近吉川弘文館から、藤木氏の研究を批判的に記したものがでたそうだ。私は読んではいないが、そうするとこの渡辺の歴史像はどうなるのだろう。興味がある。

 研究は、まさに日進月歩。追いついていくためにはたいへんな読書量が求められる。私は、中世史、近世史は追いつこうという気はさらさら持っていない。ただ興味半分に読むだけだ。

 しかしこの渡辺本、現在の政治権力者よりも、戦国大名のほうが民主的である、ということになる。歴史は悪くもなるのである。

 
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『放射線と被ばくの問題を考えるための副読本』

2012-04-03 19:20:05 | 日記
 残念ながら、これだけ放射線の問題が取り上げられているにもかかわらず、自ら本を読んで調べることもしない人がいるようだ。

 そこで、福島大学の「放射線副読本研究会」が作成した『放射線と被ばくの問題を考えるための副読本~“減思力げんしりょく”を防ぎ,判断力・批判力を育はぐくむために~』を紹介する。

 是非よく読んで欲しい。

https://www.ad.ipc.fukushima-u.ac.jp/~a067/FGF/FukushimaUniv_RadiationText_PDF.pdf
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【本】石原俊『近代日本と小笠原諸島ー移動民の島々と帝国』(平凡社)

2012-04-02 22:28:37 | 日記
 分厚い本である。A5版で500頁を超える。歴史社会学の研究書である。分量もさることながら、読んでいて多大な知的触発を受けた。読み進めていて、飽きることがなかった。こういう大部の本は、読み進めることが難しいのだが、次々に現れる小笠原諸島に関わる歴史と、それを捉える理論的な関心に刺激を受けつつ、読み通した。

 ずっと前、鹿野政直氏が『鳥島は入っているか』(岩波書店)という本を刊行した。あなたの歴史認識に鳥島は入っていますか?という問いだ。もちろん入っていない。これも衝撃を受けた一冊であった。

 この本の存在を知ったとき、小笠原諸島も私の認識外のものであることに気付き読もうと思った。しかし本の価格が5000円(+悪税)と高額であったので、図書館にないかと探したところ、静岡県立中央図書館にあったので借りた。浜松では静岡文化芸術大学にあるが、これは誰かの研究室に入ってしまっているようだ。

 日本列島からはるか南にある小笠原諸島は、今は鯨のウォッチングで有名なところだ。

 しかしその地理的な位置から、小笠原諸島とそこに住む人々は数奇な歴史をたどる。

 当たり前だが、当初小笠原諸島はどこの国のものでもなかった。そこに住む人々も、太平洋の島々からきた人、欧米人、日本人ら、様々雑多であった。日本の近代が始まるとき、日本帝国は半ば強引に自らの版図に組み入れた。そこから第二次大戦後まで、驚くべき量の史資料、文献、そして聞き取りをもとに、小笠原諸島に関わる歴史を、近代国家が自らの主権下に強引に組み入れるとき、どのような法現象が出現するかという問題意識を抱きながら、解き明かしていく。もちろん法現象と言うとき、組み入れようとする国家とその政策だけが問題にされるのではなく、住民の生活と闘いに着目しながら考察されている。

 第二章が、この歴史を叙述していく理論的な姿勢が書かれているのだが、これがまた刺激的である。小笠原諸島はとても小さな島々であり、位置も辺境の地であり、また住民も雑多な人々であるが故に、国家の主権や政策などが特殊な現れ方をするのだ。国家とは、法とは、主権とは・・・を考える場合に、この地に現れた現象を組み入れないといけないと思った。

 ここに記される歴史的な事実、そして理論的な主張は、必ずや大きな知的刺激を与えるであろう。詳細な紹介はしないが、読んで損はないと思う。
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薄氷の上で

2012-04-01 23:33:05 | 日記
 去年の3月11日以降、私たちは薄氷の上で生活している。

 先ほど、福島県沖で震度5弱の地震が起きた。私は、福島第一原発、とくに4号機で事故が起きていないかどうか、心配でしかたがない。

 4号機の燃料プールには、炉心数個分の使用済み核燃料が入っている。ところがそれがある建屋が傾き、構造上危険な状況があるという。

 大きな地震により、4号機の燃料プールが崩れたら、もう日本は終わりだ。首都圏の人々は、ただちに逃げなければならない。首都圏だけではない、私たちも、逃げ出すことを考えなければならないだろう。

 このような状況が、今後続くのである。

 まさに、私たちの生活は、いつ起こるともしれない第二次の原発事故におびえながら生きていくしかないのだ。

 しかし、それが起きたときには、直ちに西方に逃げなければならない。

 これに関して、NHKは、こうHPで流している。

 経済産業省の原子力安全・保安院によりますと、この地震で、福島第一原子力発電所と福島第二原子力発電所では今のところ、新たに異常が発生したという情報は入っていないということです。
 また、福島第一原発と福島第二原発の周辺では、今のところ、放射線量を測定しているモニタリングポストの値に変化はないということです。



 あの何の働きもしない保安院のいうことは、信じられない。東電も信じられない。そしてもし上に書いたようなことが起きても、政府はすぐには公表しないだろう。

 信用できない政府は、消費税の増税路線をひたすら突っ走っている。不幸な国だ。

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