浜名史学

歴史や現実を鋭く見抜く眼力を養うためのブログ。読書をすすめ、時にまったくローカルな話題も入る摩訶不思議なブログ。

【本】梯久美子『散るぞ悲しき 硫黄島総指揮官・栗林忠道』(新潮社)

2013-04-30 22:46:58 | 日記
 人間には、タテ関係を基本にする人と、ヨコ関係を基本にする人とがある。前者は、「上」の者にはへつらい、「下」の者に対しては傲慢に振る舞う。後者は、たとえ自分自身が高い地位についても、決して他人を蔑むようなことはしない。

 軍人の多くは、前者の価値観をもつ。いや、そういう価値観を持った人は、周辺にもどっさりいる。彼らは「立身出世」を求め、そのために「上」の者に対して、必要以上にへりくだり、また付け届けをする。彼らの価値観は、何が何でも「上」をめざし、同じ価値観をもつ者が自分に対して振る舞ったように、自分も同じように振る舞いたいのだ。

 栗林忠道は、硫黄島というもう逃げ場のない、死ぬことだけが求められた戦場で、その戦場の持つ意味を考え、それにもとづく作戦をたてて実行し、そして戦死した。それも総指揮官としてではなく、ほかの日本兵と同じような戦死を選んで。

 良い本だ。軍人の中にも、尊敬できる者がいる。栗林はそのひとりである。

 栗林は、もちろん後者の人間である。軍隊内の立場は最上級ではあっても、決して偉ぶることはなく、人間観の根底には人間皆同じ、という平等感を育んでいた。この本を読むと、そういう姿が随所に見られる。


 だが、こういう人は、生き残れないんだ。東京の安全なところで、アーダコーダと机上の空論を闘わせるような奴だけが生き残るのだ。善意は、悪意には勝てない。悪意は狡猾なのだ。善意は素直すぎるのだ。悪意は人間を信じない。善意は、容易に人を信じてしまう。だから、善意は負けてしまうのだ。

 悪意がはびこると、多くの人びとの生命や生活が奪われる。

 「実質を伴わぬ弥縫策を繰り返し、行き詰まってにっちもさっちもいかなくなったら「見込みなし」として放棄する大本営。その結果、見捨てられた戦場では、効果が少ないと知りながらバンザイ突撃で兵士たちが死んでいく。将軍は腹を切る。・・・その死を玉砕という美しい名で呼び、見通しの誤りと作戦の無謀を「美学」で覆い隠す欺瞞」(229頁)と梯氏は指摘する。その「欺瞞」を許せなかった栗林は、戦闘方法を考え抜き、そして最期に死を強制した者たちへの抗議の意思を込めた「訣別電報」を発した。

 “散るぞ悲しき”

 ボクはずっと昔、サイパン島の玉砕について、研究したことがある。まさに玉砕は、悲しい。サイパン玉砕をうたった詩がある。石垣りんの「崖」である。

    戦争の終わり、
    サイパン島の崖の上から
    次々に身を投げた女たち。


    美徳やら義理やら体裁やら
    何やら。
    火だの男だのに追いつめられて。

    とばなければならないからとびこんだ。
    ゆき場のないゆき場所。
    (崖はいつも女をまっさかさまにする)


    それがねぇ
    まだ一人も海にとどかないのだ。
    十五年もたつというのに
    どうしたんだろう。
    あの、
    女。

 玉砕のなかで死を迎えざるを得なかった兵士たちの魂も、「ゆき場」なく、さまよっているのではないか。戦後、日本人はその「ゆき場」をつくってこなかった。きちんと総括し、責任ある者の責任を問おうとしてこなかった。

 栗林忠道と硫黄島の兵士たちを、死に追いやった者たちの責任が、何も問われていない。あたかも、フクシマ原発事故の責任を誰もがとっていないように。 

 
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過去を否定すること

2013-04-30 15:38:17 | 日記
 過去に起きたことは、どのように隠そうとしても隠すことはできない。事実は事実として、消えないからである。

 かつて日本軍という国家の軍隊は、その戦争の中で多くの女性を騙し、強制的に連行し、兵士たちの性的処理の相手を強制的にさせていた。「従軍慰安婦」といわれるが、軍事的性奴隷制を日本軍はその属性として持っていた。

 しかしこの事実は、あまりにも犯罪的であり、あまりにも人道に反しているが故に、日本政府はそれを認めようとしなかった。しかしその被害者がたくさん名乗り出て、また公式の文書も発見されて、日本政府も認めざるを得なくなった。それが「河野談話」であった。1993年のことであった。

 ところが、この日本国家の犯罪を認めたくない人びとがいた。それ以降も、「従軍慰安婦」はねつ造であるとか、私娼であったとか、勇気を持ってみずからの体験を公にした被害者たちに、さらに追い打ちをかけるように辱めている。

 私も、この問題について、いくつかの本を読んでいる。吉見義明『従軍慰安婦』(岩波新書)、『戦争責任研究』という季刊誌の資料や論文など、あるいは軍人の回想録など。

 現実に起きたことを否定することはできない。このような事実について、正確に調査し、謝罪し、補償し、そしてそのようなことを日本国家はしない、という決意を示す。それがもっともあるべき責任のとり方である。

 しかし、そういう事実があったことを、すでに政府も認めたにもかかわらず、今なお政府関係者などが否定しようとしている。

 私はほんとうにバカだと思う。謝罪し、補償し、日本の歴史のなかに反省すべき痛恨の事実として位置づける、そうすれば、日本は過去の忌まわしい事実を正視し、きちんと反省できる道義的な国家であると認められるであろう。だが、性懲りもなく、否定発言を繰り返せば、この問題は、国際的にも周知の事実となってるのだから、いつまでたってもこの問題は歴史にならない。

 今日、峯岸賢太郎『皇軍慰安所とおんなたち』(吉川弘文館)を読んだ。安倍首相自らがその否定派の人間だからだ。もういちどこの問題をきちんと認識しておかなければならないと思ったからだ。

 読んでいて、本当に陰惨な被害体験が記されている。彼女たちの人生を根底から狂わせたわけだから、当然謝罪と補償はなされなければならない。事実を事実として、どんな知りたくない、見たくないものであっても、直視することは必要だ。

 この問題について、吉見さんの岩波新書か、この本を読んで欲しいと思う。

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生命力

2013-04-30 13:51:58 | 日記
 日曜日、NHKの「日曜美術館」をみた。仙台博物館で行われている美術展の紹介番組であった。

 アメリカ人のプライスさんが蒐集してきた日本の絵画が里帰りをしているとのこと。3月末に仙台に行こうとしたとき、事前の調査で知ってはいたが、ちょうど月曜日で休館日であったので、行かなかったのだが・・・

 テレビ画面に紹介された絵をずっと見ていたが、なんと素晴らしい絵画が揃っている!と思わざるを得なかった。東日本大震災をアメリカで見つめていたプライス夫妻が、被災地の人びとに蒐集した作品を見せたいと思った、という理由が、ほんとうによく分かったのだ。

 というのも、蒐集された江戸絵画のほとんどが、生命へのエネルギーに満ちていたからだ。

 絵画は、若冲をはじめ、たくさんの画家によって描かれたものだ。そして、人間はもとより、動物、植物など多彩なものが描かれている。

 だが、それらの作品に共通しているものは、生命力、生きるエネルギー、生きようとするエネルギーを凝縮したものであるということだ。

 描かれた動植物は、画家によって切り取られ、抽象され、想像されたものだろう。だが画家たちは、描かれているものの、それぞれの生を肯定し、その生命力を描いている。 
 
 若冲の「鳥獣花木図屏風」なんて、もう生命の賛歌としか言いようがないものだ。

 ところでこの展覧会、「若冲が来てくれました プライスコレクション江戸絵画の美と生命」という名である。生命、つまり生きているということは、美しいのだ。生きているから色があり、それが美につながっていく。

 この展覧会、今のところ観に行くことはできない、せめて図録だけでも買おうと思って仙台博物館にアクセスしたら、アマゾンで買えると知ってすぐに注文した。2625円であった。

 今日、図録が届いた。

 絵画は実物と図録の写真とでは大きく異なる。実物からは、エネルギーというか光がでている。ずっと昔、ゴヤの絵の実物を見て、写真とは異なる輝きを感じた。

 今回は、図録(写真)でガマンしよう。絵それ自体に生命力が描かれているのだから。


http://jakuchu.exhn.jp/


 
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まっとうな意見

2013-04-29 20:03:40 | 日記
 現在、まっとうな意見を堂々と掲載する新聞は、『中日新聞』(『東京新聞』)である。もちろん『沖縄タイムス』、『琉球新報』などもあるが、広範囲の地域で発行されている新聞では、中日新聞社が代表となろう。私の友人たちも、完全に権力の翼賛機関となった『朝日新聞』をやめて、『東京新聞』にかえている。

 さて「アベノミクス」が喧伝される中で、景気が回復している報道がなされている。ボクはほとんどテレビを見ないので、友人に教えてもらったのだが、ワイドショーなどで、デパートで高級品が売れていることを流しているという。確かに株価が上昇しているから、株を持っている人は、何もしないでも資産は上昇してるはずだ。『日本経済新聞』の4月15日付けの記事に、「株高で資産増100億円超 個人株主38人の顔ぶれ」というものがあったが、この人たちだけではなく、資産家は多かれ少なかれ、資産増となっているはずで、高級品はそういう資産家が購入しているのだろう。
 
 一般の労働者には無縁な話だ。しかし、そういう情景がテレビで放映されれば、なんか景気が良くなったかのように錯覚する人もいるのだろう。それが安倍政権の支持率増大につながっている。

 だがしっかりと現実をみれば、給与所得者の場合、何も増えていないのだ。若干の企業が、安倍政権に媚びを売るために少しばかりの給与アップをはかったにすぎない。

 4月21日の『中日新聞』の社説は、そういう現実に対する、まっとうな意見である。呼んで欲しい。


週のはじめに考える 企業は国民のために    2013年4月21日

 今春闘は賃上げ率が二年連続で下がる見通しです。企業経営者に「どうすれば国民が安全で文化的な生活を送れるか」の視点が欠落しているようです。

 大手企業の定期昇給とベースアップなどを合わせた賃上げ額は六千二百三円、賃上げ率は昨年の1・94%を下回る1・91%。経団連が発表した今年の春季労使交渉結果の第一回集計です。最終集計は六月の予定ですが、その傾向は大きくは変わらないでしょう。

 名目賃金は一九九七~二〇一二年に13%も下がりました。この間、戦後最長の景気拡大期に入り、実は売上高経常利益率がバブル期を上回る水準に達していたのです。なぜ、勤労者の懐は温まる気配を見せないのでしょうか。

◆「利益は内部留保」では

 このからくりを分析した報告書が指摘しています。「企業業績の改善を賃金の上昇に結びつける行動が弱くなっている」

 財務省の法人企業統計調査を基にした分析で、利益分配が株主重視、人件費抑制の方向にあると結論づけています。株主総会を円滑に乗り切ろうと配当を厚くし、リーマン・ショックのような有事に脅(おび)えて内部留保を二百兆円以上も積み上げているのが現実です。

 報告書をまとめたのは賃上げを求める側の労働組合ではなく、厚生労働省です。さすがに、勤労者への利益分配を極端に抑え込んでいる企業の振る舞いを許容できなかったのでしょう。

 「平成24年版 労働経済の分析」と題する報告書は、自ら働いて人間らしい生活を営むことができる分厚い中間層の復活が求められる-と、非正規雇用などの分析にも踏み込んでいます。

 大企業や中小企業に雇用されている勤労者は約四千三百万人に上ります。うち派遣やアルバイト、パートなどの非正規社員が三人に一人、約四人に一人は年収二百万円以下で働いており、大切に扱われているとはとても思えません。

 男性の結婚割合は正規社員が48%、非正規は17%。子供の数も正規一・七九~一・九人、非正規一・〇九~一・三六人です。企業は平均年収百七十万円の所得格差が子供の数にも影響を与えている実態と誠実に向き合うべきです。

 千社を超える主要企業が加盟する経団連の企業行動憲章は「従業員が安全で働きやすい環境を確保し、ゆとりと豊かさを実現する」とうたっています。

 安全で文化的な生活を国民にどう保障するかなど「国民の経済」の理念と似ています。しかし、企業にはともに重要な利害関係者であるはずの株主と従業員をこうも差別しては、自らの理念に背いていると言わざるを得ません。

◆経団連の理念に背くな

 その象徴が専門職などに限られていた派遣を製造業にも拡大した〇四年の労働者派遣法改正です。「働く人の多様化に備え雇用形態を自由化する」が触れ込みでしたが、実際は賃金を抑える企業に都合のよい雇用の流動化でした。企業の多くが「賃金が節減できた」とはっきり答えています。

 法改正したのは当時の自民党政権であり、安倍晋三首相はその経緯を知ったからこそ、経団連などに賃上げを求めたのでしょう。その答えが前年より低い1・91%では、なめられたも同然です。企業は日本を母国とする以上、国民経済に資する行動を貫くべきです。

 トヨタ自動車の子会社が岩手県で生産している小型ハイブリッド車、アクアの一二年度販売台数が二十八万台に達し、プリウスを抜いてトップの座につきました。

 燃費性能やコンパクトな車体が人気を呼んでいます。工場の従業員二千六百人に加え、千社に上る部品供給会社の雇用も増えています。発売から一年余、既に六万台近くが米国などに輸出され、海外の需要を取り込み始めました。

 宮城県に企業内訓練校を開校し、東北のモノづくりの拠点づくりにも乗り出しています。トヨタの目標は国内生産三百万台。技術革新、技能伝承に最低限必要な台数を維持し、プリウスやアクアのようなヒット商品を生み出す戦略です。これは一つのモデルケース。企業は思い切って国民生活の向上に力をつくすべきです。

 今月、岩手県も自動車産業振興課を新設し、雇用創出に向け企業の受け入れ体制を強化しました。

◆嘆かずに一歩前へ

 本業の土台を立て直し、賃金を増やして家計の財布のひもを緩めさせ、景気をよくしてデフレから抜け出す。企業の出番です。韓国企業などに追い上げられて弱気になり、賃金抑制に逃げ場を求めてはなりません。法人税が高すぎるなどと、「六重苦」を嘆いてばかりでは展望も開けません。

 生産拠点を維持して利益を勤労者に還元する。国民経済に資する企業の気概を示すときです。

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「主権回復の日」

2013-04-28 09:03:01 | 日記
 よくわからない。なぜこういう日を設定して祝うのか。

 だいたいにして、今の日本の主権は回復しているのか。1945年に終わった戦争で敗戦となった日本にアメリカ軍を中心とした連合国軍(占領軍)が入ってきた。まさに敗戦国日本は、占領されたのである。占領軍のほとんどはアメリカ軍であった。

 そして1951年、サンフランシスコ講和条約が結ばれた。これは日本の占領状態が終わるはずの講和条約であった。ところが、米軍はそのまま日本に残留した。新たに締結された日米安全保障条約のためだ。そして日米行政協定(→日米地位協定)が結ばれ、米軍には様々な特権が与えられた。たとえば、日本の空は、米軍が自由に飛ぶことができる。米軍人、軍属は、パスポートもなく、ビザもなく日本に入ることができる。外交官以上の特権を与えられている。

 そして沖縄などが分離され、日本本土は日米安保体制下の、いちおう日本政府の支配下に入ったが、沖縄などは占領状態がそのまま続いた。4月28日、つまりサンフランシスコ講和条約が発効した日、沖縄は日本から米軍のもとに差し出されたのである。だから沖縄では、「屈辱の日」と呼んでいる。

 そして米軍占領下、沖縄には、もちろん日本国憲法は適用されず、沖縄の人びとは無権利状態におかれた。土地を奪われ、人権を奪われ・・・・・筆舌に尽くしがたい日々を送りながら、しかし沖縄の人びとは少しずつ人権を闘いとってきた。その際、日本政府はなんら救いの手をさしのべなかった。

 そして日本は、今もアメリカの「属国」といわれている。アメリカがくしゃみをすれば、日本が風邪を引くという体たらくだ。日本の主権は、確実におかされている。

 安倍内閣は、一方で対米隷属を強化し、その反面日本の排外的なナショナリズムを高揚させようとしている。きちんと考えれば矛盾であるが、アメリカへの隷属を強めれば強めるほど、排外的ナショナリズムを高揚させずにはいられない。後者は前者の「イチジクの葉」でもあるが、支配層の中ではそれらは矛盾なく同居しているのである。

 信じられない時代へと、日本は入り込もうとしている。

 しかし人びとは、安倍政権に高い支持率を与えている。理念より、とにかくカネが儲かればよいのだ、と人びとはうそぶく。
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久しぶり

2013-04-28 08:54:03 | 日記
 理性と学識と、正確な現実認識とが良い具合に混じり合うと、文章も、そしてその内容もより訴える力を持つ。

 久しぶりに、『朝日新聞』の「天声人語」の主張を褒めてあげたくなった。

 立憲主義を再確認する

 原点に立ち返って憲法を議論し直そうという国会議員らの動きが広がっている。憲法とは何か、何のためにあるのか。そもそもから考える、という。確かに、それ抜きの議論が先走っている。歓迎したい

▼民主党の議員らが25日に「立憲フォーラム」という超党派の議員連盟をつくった。同じ日に、やはり超党派の議連「13条を考える会」も発足した。いずれも、憲法の根っこにある立憲主義という考え方を改めて確認しようとしている

▼個人の権利や自由が、国家権力なり社会の多数派なりによって奪われることがあってはならない。そのために権力を憲法によって縛っておく、というのが立憲主義である。様々に異なる価値観を持つ人々が、公正に平穏に共存できる社会をつくる。そのための知恵である

▼個人の尊重という思想は従来の改憲派には好かれていない。いまの憲法のせいで、「ほっといてくれ」と国家に背を向ける国民が増えた。憲法を通じ、国家が国民にもっと「ああしろ、こうしろ」と言うべきだ。そんな発想が根強い。立憲主義への無知なのか、あるいは懐疑か嫌悪か

▼もとより憲法とは国民からの国家への命令であり、逆に国家からの国民への命令が法律である。ああしろ、こうしろが必要なら法律のレベルでやればいいことであり、憲法でどうこうする話では本来ない

▼立憲主義を蔑(ないがし)ろにして改憲をする。そのとき憲法は憲法という名前の別物になる。それでいいのか。目下の議論の最前線は実はここにある。


 短い文章に、自民党や維新の議員が、憲法の存在意義を蔑ろにして、学校の「生徒心得」(「廊下を走るな」「学校を休む場合は学校に連絡すること」など、あれをしてはいけない、こうしなさい、とかが書かれている)のように憲法を変えようとしているという現実認識と、そう特別に勉強しなければならないほどのことでもないが、立憲主義についての学識と、それらを理性的に処理して、憲法の本質を投げ捨てても良いかと訴えている。

 本来、コラムというのはこういうものでなければならない。
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【本】東郷和彦『歴史認識を問い直す』(角川書店 新書 2003年)

2013-04-27 20:56:30 | 日記
 尖閣諸島の問題や竹島の問題は、きわめて冷静に考える必要がある。ネットなどでは無責任な放言が渦巻いているが、軍事衝突を避けるためにどうしたらよいか、冷静にかつ現実的に考えていくことが求められている。

 本書は、もと外交官であった東郷氏が、尖閣諸島、竹島、北方領土、歴史認識問題(河野談話、村山談話)について、もちろん元外交官として、日本政府の立場に立ちながらも、どうしたらよいのかを考えたものである。

 私とは意見が食い違うところもあるが、冷静かつ現実的な問題提起に学ぶところが多かった。

 特に、「右」からの威勢の良い発言が、「我が国の国益を毀損し、場合によっては国の存立を危うくする」は同感である。

 そして「憲法九条という条文一つによって、思考停止に陥り、何も考えなくなるという私たち皆がもっている、耐え難い傾向性に」対する、東郷氏の疑問である。たしかに憲法九条を擁護せよ、というだけで、東アジアの政治状況、日米関係などについてしっかりと検討しようとしないことは、大きな問題ではある。

 もちろん、国際関係から考えて憲法九条がもつ意義は、とてつもなく大きいことは事実である。とくに東アジアや東南アジアとの関係で、かつての侵略国・日本の現在のあり方を示し、日本に対するある種の信用や保障を担保するものとなっていることを忘れてはならない。もしも改憲が行われたら、アジア諸国だけではなく、世界諸国の日本を見る眼は、当然厳しくなる。

 エピローグで東郷氏は、「何よりも必要なことは、日本自身が、他者の痛みを感じ、他者の苦しみを理解する謙虚さのうえに立つことである。謙虚さの狭き門より日本が入るなら、日本の苦しみはかならず理解される。他者の心理を解らずに自己の正義を主張する傲慢は、今の日本にとっては、狂気となる」は、ぜひ安倍首相に聞かせてやりたい言葉である。

 
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ネットチェック

2013-04-27 06:54:12 | 日記
 朝、ニュースなどをチェックする。ボクは時に時事問題などの講演を引き受けるので、きちんと情勢をつかまえておかなければならないからだ。5月中旬には、安倍政権についての講演がある。今、そのための準備をしている。並行して、竹島問題や「帝国意識」、これは7月の研究会。秋から始まる10回の歴史講座、これは未踏の分野なので、その下調べや写真撮影におそらく長時間かかるだろう。6月からの歴史講座は、以前やったもの。ただし、一つは変えて「市町村合併」について話す。これはつくらなければならない。それ以外に、6月下旬の労働組合について。これは現在本を集積中。

 ところで、今日の記事。「学校、暴力はびこる 教諭が「殺すぞ」・グラウンド100周命令 文科省調査」という記事が『朝日新聞』にあった。グラフを見ると確かに昨年は急上昇している。昨年についてはおそらく大阪の高校の事件が公になったところから、全国的な調査をしたからだろう。それにしても、1985年頃から増えてはいる。

 ボクらが子どもの頃、体罰は頻繁にあったし、ボクもひどい体罰を何度も受けている。今日の見出しにあった「グランド100周」も、ボクには体験がある。その頃はどうだったのだろう。あまり頻繁すぎて統計をとっていないのではないかと思う。

 1985年頃からの体罰は、部活動の過熱化が原因であるとボクは考えている。とにかくやり過ぎである。生徒たちのなかにも、部活動をするために学校に来ている者が増えてきた。ハマナ高校なんて、その典型だ。本末転倒とは、このことだ。部活動は、学校教育の主流であってはならない。

 しかし静岡県も部活動を強化するためにだろう、体育科の教員をどんどん増やしてきている。またそのなかで、部活動にのめりこむ教員も増えているのだろう。のめりこまないとやっていられないことも事実だが。

 同時に、部活動の興隆の中で、先輩後輩というタテの関係が強化されていった。ボクが高校生の頃なんて、戦後民主主義の教育がまだ残っていたのだろう、上級生を○○先輩なんて呼ぶことはなかった。○○さん、であった。ところが、ずっと以前から、部活動に厳しいタテ関係やいじめを、ボクは見続けてきた。学校は、タテ関係を育成するところと化していた。


 さて話はがらっと変わって、村上春樹と小澤征爾の対談本、このブログでも紹介した『小澤征爾さんと、音楽について話をする』に出てきたクラシック音楽をCDにまとめたものが発売されたようだ。

 CD「『小澤征爾さんと、音楽について話をする』で聴いたクラシック」(ユニバーサルクラシック)がそれ。

 ボクは、その本を読んでいて、すでに個別にCDをアマゾンにいくつか注文してしまった。一つはバーンスタインのマーラー全集(2090円。これは安い)。バーンスタインのマーラー・交響曲への言及があり、とにかく聴いてみたくなったからだ。ついでにアマゾンのCDを見ていたら、夭折したチェリスト、ジャクリーヌ・デュ・プレのEMIが録音したすべての演奏を17枚のCDにしたものが発売されていたので、これも購入(3678円)。それに小沢のマーラー「巨人」も。

 パソコンのあるところにはスピーカーを備えていて、クラシック音楽は、パソコンを操作するときの必須のアイテムになっている。

 大好き、クラッシック音楽。


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取材

2013-04-26 17:44:33 | 日記
 最近『朝日』の記者から、金嬉老事件についての問い合わせが何度かあった。この事件については、事件があった寸又峡温泉を抱える本川根町(現在川根本町)の自治体史(『本川根町史』)を書いたときに、当然書き込んだ。

 そのスタンスは、金嬉老が犯した殺人事件はそれとして、金が訴えた差別についてはきちんと認識すべきであるというものだ。というのも、在日朝鮮人に対する社会的差別は続いているからである。ボクの中学時代の友人にも「在日」がいるが、今まで、そして今でも、彼は自分が「在日」であることを話さない。誰もが知っていてもである。

 また「在日」の存在は、当然日本の植民地支配が生み出したものであり、植民地支配に対する認識をきちんと持たない限り、金嬉老事件を把握することはできないと考えている。

 ところが問い合わせをしてくる記者は、そうした認識をいっさいもたない。おそらく彼は金嬉老事件を何らかのかたちで記事にしようと考えているのだろうが、そうした認識をもたないので、ボクも彼の質問に応えていて、もどかしくてしかたがない。

 少なくとも、取材してくる側は、今なぜこの問題をとりあげるのか、自分自身の問題意識を伝えるべきであろう。しかし、おそらく彼は誰か(ボクはこの誰かは知っている)から促されて取材を始めた、そしてこの問題についての勉強を少しもしていない。少なくとも本田靖春の『私戦』(現在河出文庫)も読んでいないし、ボクがかいた『本川根町史』も読んでいない。礼儀を知らない記者だ。少なくとも、問い合わせる前に、ボクが書いたものは読んでおくべきだ。なぜなら、その誰かに、ボクは抜き刷りを渡しているのだから。

 自分自身の問題意識もない、勉強もしていない、そういう状況で取材も何もないものだ。

 昔の記者、といってももう定年間近の人びとだが、そうした者はいなかった。少なくとも、一定程度の価値観の共有と学習があった。

 記者の資質は、おそらくひどく低下しているのだろう。
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エアコンと乾燥

2013-04-24 21:38:19 | 日記
 また今年も町田の住人は喉を痛めているようだ。強力なエアコンで暖房をしているから、部屋が乾燥するのはあたりまえなのである。

 だからボクは毎年、加湿器を購入したらどうかと言い続けている。しかし彼は買わない。ひたすら暖かくなる日を待ち続けている。

 喉を痛め医者通い。たくさん薬をもらって(買って)、飲むのが大変だという。

 仕方がないので、加湿器の代わりに部屋の湿度をあげる方法を調べてみた。

 そうしたら濡れタオルをハンガーにかけておくだけで、かなり湿度は高くなるそうだ。ぜひ試してみて欲しい。

 考えてみれば、冬季、ホテル宿泊の時、ボクは湿度を維持するために、まず湯船にお湯を少しだけためておく(もちろんバストイレのドアは開けておく)、そして濡れたタオルをかけておく、ということをいつもやっている。でないと、てきめんに喉をやられてしまう。

 少しの合理的な工夫をすれば、喉の異状を防ぐことができる。ぜひ試みてもらいたいと思う。

 http://nanapi.jp/8611/
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【本】村上春樹・小澤征爾『小澤征爾さんと、音楽について話をする』(新潮社)

2013-04-23 21:39:45 | 日記
 ボクは村上作品をまったく良いとは思わないし、その価値も認められない。しかし、村上作品のなかに書き込まれる音楽の話は、とても良い。

 まさに、この本では、小澤征爾という世界的な指揮者との、クラシック音楽についての、とてもとても興味深い話が飽くことなく続けられる。

 村上は、文にリズムがないといけない、という。リズムがなく、平板な文は、読み続けることができないという。その通りだ。村上作品は荒唐無稽で、その荒唐無稽さに腹立たしくなることもあるが、それでも読み終えてしまう。そういわれてみれば、村上作品にはリズムがある。バックで、音楽が鳴っているような感じもする。

 ボクはこの本を読み、内田光子というピアニストの演奏をユウチューブで聴き、村上や小沢が話すことに同意し、まだ聴いたことのない演奏家の演奏を何とか聴いてみなければならないと思ったりした。

 今は、マーラーの交響曲6番を聴きながらこれを書いているが、ボクは実は文を書くとき、音楽を流しながら書く。どういう文をどういう人に向けて書くかをもとに、聴く音楽を変える。

 感情を思い切り書き込まなければならないとき、それもとても哀しく・・・というときは、ラフマニノフのピアノ協奏曲第2番の第2楽章を聴く。

 そしてこのマーラー、今第1楽章だけど、リズムがビシビシっと刻まれる箇所があり、それがボクの体を揺らす。そのリズムに合わせて、キーを叩くのだ。

 今日、この本を借りてきた。しかし・・・・

 5月中旬の安倍政権についての講演、6月はじめから10回連続の歴史講座、6月下旬の労働組合の研修会での講演、7月の研究会での報告、その途中、足尾銅山への旅行。旅行そのものは準備はいらないが、それ以外のものは準備が必要だ。

 講演などでアウトプットするためには、大量のインプットが必要だ。インプットされた情報がボクの頭の中でスパークして、新たな想念が湧いてくるのだ。何らかの知的触発を喚起する話をするためには、莫大な整理された情報と、そのうえに出現するオリジナリティが求められる。

 今、それに関する本やコピーの整理をしなければならないのに、この本を読み終えないと手が着かない。それほど面白い本だ。

 文を書くことを仕事にしようというあなた、音楽を聴きなさい。

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なぜかわからない

2013-04-22 21:07:09 | 日記
 『海辺のカフカ』を読み終わった。新潮文庫の二冊もの。読み終えて、またまたなぜ人が村上春樹の小説に焦がれるのか、まったくわからない。そうわからない。

 上巻まではついていったが、下巻にはいってからは、まったく荒唐無稽の世界。まずカーネル・サンダーズの出現はなんだ。そして星野くんに女子大生をあてがってセックスさせる、そこになんの必然性があるのだ。

 上巻の最後のあたりに「海辺のカフカ」の歌詞が載せられている。この小説は、まさにこれが象徴する。

 あなたが世界の縁にいるとき
 私は死んだ火口にいて
 ドアのかげに立っているのは 
 文字をなくした言葉。(以下略)

 
 村上春樹は、たとえば「あなたが世界の縁にいるとき」、「私は死んだ火口にいて」、「ドアのかげに立っているのは」、「文字をなくした言葉」というような、まったく脈絡のない語、あるいは文を並べておく、そしてそれを何とかして、無理をしてつなげていく。そのためには何をつかってもいい、幽霊でもいいし、死の世界でもいいし、猫と話してもいいし、何でもよい。そのように小説を組み立てているのではないかと思う。そしてあちこちに、何か哲学的な、あるいは文学的な意味深長なことばや文を散りばめる。いやもう一つ、重要なセックスを絡めなければならない。

 そうすると、読んでいる人は、きわめて意味深い小説を読んでいて、村上のメタファーが理解できないのは私のせいだ、などと思いながら、とにかく読み進める。そしてわけのわからない荒唐無稽の世界を漂流し終わって、たぶん分かった気になる。たぶん。

 もちろん、村上は何事かをほのめかしているわけではない。読者が勝手に読み解こうと努力するのだ。だがそれは無駄な試みだ。

 ボクは読んでいて、クラシック音楽についての記述なんか、なるほどと思う。ところどころにわけが分かるところも必要だ。だって、そうでなければ最後までよんでくれないじゃないか。

 ボクは、主人公のカフカ君が深い深い森の中にいるのに、「僕は激しい砂嵐の中にひとりで立っている」という記述に唖然とした。

 話の展開にその小説世界の上での必然性が感じられないことが多すぎる。

 ほんとうになぜかわからない。

 しかしボクはついに『1Q84』を、次に読むだろう。
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『歴史評論』5月号

2013-04-21 22:17:54 | 日記
 歴史科学協議会『歴史評論』5月号が届いていたので、そちらを読み始めた。今月号は実証的な論文ではなく、大学生などへの啓蒙の文が並ぶ。「歴史学の名著を読もう」という特集である。

 歴史関係の雑誌は、これしか購読していないから、歴史学研究の動向はこれから入手するしかないので、じっくりと読む。ほかに『歴史学研究』、『日本史研究』などの雑誌があるが、購読するだけでかなりの出費となるので読んでいない。だいたいボクはみずからを地域史研究をしているとはいうが、日本史研究をしていますなどという大げさな自己規定はいっさいしない。それほど本格的にやっているわけではなく、自らの関心の動きにあわせて、政治や経済、とにかくなんでも勉強する。そのなかで主に地域史の研究をしている(とはいえ、これとて生半可にはできるものではなく、当該研究の動きをきちんと把握していないとできない)というにすぎない。

 さて今月号は、それぞれの分野での「名著」を紹介しているのだが、伊藤定良の「名著を読む」は、江口朴郎、板垣雄三、上原専祿、そして従属論のフランク、ウォーラーステイン、柴田三千雄、阿部謹也、網野善彦、サイード、、アンダーソン(『想像の共同体』)、ホブズボーム、西川正雄、鹿野政直、安丸良夫らの本を紹介している。読んだものもあれば、読んでないものもある。しかし、ここに記されている本は、歴史研究の学科に進学した人は、読んでおいた方がよい。

 自らの問題意識は、こういう名著を読む中でより鮮明になっていくのである。

 ボクは問題意識を持てといつも言ってきたが、問題意識は自己満足のためのものではなく、客観的なものとして育てていかなければならない。「名著」は、その際の大きな刺激となるであろう。

 また上杉忍さんの文もある。上杉さんが掲げている本は、いずれも知らない。アメリカ黒人史に関わる本だ。

 ボクは“帝国”アメリカについては、いろいろな本を読んでいるが、黒人の歴史については本田創造と近年出された、書名が浮かばないが、女性の書いた、いずれも岩波新書くらいしか読んではいない。でも本当は、黒人支配の動向も視野に入れないと、“帝国”アメリカは理解できないだろうと、実は思っている。

 歴史研究を志す人のなかには、鋭い問題意識をもった人が多かった。今はそうでもないようだが、そういう人の著書は、とても刺激になる。

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晴耕雨読

2013-04-21 11:06:42 | 日記
 昨日までほとんど雨が降らなかった。最近のボクは、午後いつも、着替えをして畑に行った。畑で2時間くらい体を動かす。ほうれん草の収穫が終わった畑を掘り返す。次は何を植えようか、と思いつつ。その隣にはジャガイモの葉がきれいに並んでいる。ボクはかがんで種芋から何本か出てきている芽を2~3本にし、土寄せをする。ジャガイモは太陽の光に合う少し緑化する。それを防ぐためだ。

 そして他のところを耕す。

 最近畑に立っていて思うことは、この地域はほんとに西風が強いということだ。帽子が飛んでしまう。そこで深くかぶることができる帽子を新しく買った。首の周囲を覆うことができる布がついているものだ。

 ボクが働いていると、隣の畑を耕している女性が、いろいろ細かいことを教えてくれる。農業に素人のボクにとって、助言はとても助かる。

 ボクの実家の敷地内でも畑をつくっているが、土の質が異なる。家の敷地は土!という感じのものであるが、畑のほうは砂が多分に混じり、乾燥している。だから水を撒かなければならない。近くを流れる農業用水までいって、ひしゃくでバケツにすくい上げ、畑に持って行って撒く。もちろん出芽するまでだ。

 一週間前くらいに種を蒔いたほうれん草、その芽がやっと出だした。昨日は大根とにんじんの種を蒔いた。そして枝豆(これはポットで育てている)を植えつけるところに苦土石灰を撒いてきた。

 耕し、肥料を施し、種を蒔き、水を撒布し・・・・土にまみれて働く。そして野菜類は数ヶ月畑を占拠する。なかなかの労働だ。しかしスーパーに行ってみれば、ほうれん草は一把98円だ。果たして農家の労働に見あった価格なのだろうかと思う。

 さて昨日午後雨が降り始めた。久しぶりの雨だ。今ボクは『海辺のカフカ』を読み進めている。図書館で借りた文庫本。もうかなり汚れている。「小口」は茶色くなっていて、しおりは上巻は短くなり、下巻はなくなっている。多くの人がこの本を読んだようだ。

 上巻を読み終えた。村上春樹の言い回しは、もちろんここでも立派に活躍している。「・・・・・し、・・・・」、「たぶん」、「長すぎもしないし、短すぎもしない」という持って回った言い方・・・。しかしこの小説には「疲れ」はない。

 なかなかの構想力である。「意味をこえたイメージが切り絵のように立ちあがって、一人歩きを始める」という記述があった。これって、村上作品の本質を言い当てているかもしれないと思った。

 この小説の感想は、すべて読み終えてから記そう。
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DAYS JAPAN 5月号

2013-04-20 20:54:42 | 日記
 購読している雑誌『DAYS JAPAN』が届いた。創刊号から購読しているから、もうかなりの量になる。

 全体として、なぜ世界はいつまでも悲惨がいっぱいあるのだろうか、これはいつも思っていることだけれども、あらためて強く思った。今月号には、シリアやアフリカの写真が並ぶ。もちろんフクシマも。

 今ボクはメンデルスゾーンの交響曲を聴きながらこれを書いているが、音楽はかくもさわやかに流れてくるのに、世界はなぜかくも悲惨を生み出すのか。

 今月号でもっとも印象に残ったのは、履き物の写真である。ただ履き物が並んでいる。その履き物は、かろうじて履き物であり続けているという、もうボロボロの履き物だ。

 スーダンの難民たちが、数週間から1ヶ月間歩き通した際に履いていたものだ。なぜかくも苦難を強いるのだろうか。戦争、といっても国家間の戦争ではない。内戦だ。

 ソマリア、スーダン、コンゴ・・・アフリカの各所で戦闘が繰り広げられ、多くの人が亡くなり、負傷し、難民が歩き続ける。

 ボクは性善説をとるが、しかし多くの人間は欲の前でヒューマニズムを棄てる。

 ボクは高校生の頃、以前書いたことがあるが、ヴェトナムの少女の写真、ナパーム弾をあびた上半身焼けただれた裸の写真を見て、反戦の意志を固めた。こういうことは絶対にあってはならないというヒューマニズムだった。

 しかしそれ以降も、世界各地で同じようなことが続いている。

 人間には良心が備わっているという確信は持ちながらも、それを否定することが繰り返し現れてくる。世界は、ボクの人間性の質を試しているのかもしれない。しかしそうであっても、とにかくこの悲惨はなくさなければならない。


 この雑誌、書店にも並んでいる。見て欲しい。
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