マーちゃんの数独日記

かっては数独解説。今はつれづれに旅行記や日常雑記など。

乗鞍岳(再びの百名山 その3)

2009年08月18日 | 再びの百名山

 8月16日、今回の山行を共にするSさんを「茅野駅」に出迎え、中央高速を「諏訪IC」から「松本IC」へ車を走らせました。信州でも快晴の日々が続いていました。

 茅野→諏訪IC→松本IC→観光センター前駐車場→(バス:50分)→畳平
 →(徒歩:1時間20分)→乗鞍岳剣が峰→(徒歩:1時間10分)→畳平
 →観光センター前駐車場(以下往きの逆)

 

   (観光センター駐車場より乗鞍岳を望む)

 現在、乗鞍岳山頂付近はマイカー規制実施中。観光センター前でバスに乗り換えます。バスが高度を上げるに連れて、乗鞍岳の連峰がくっきりと見え始めます。乗鞍岳は数々の峰の総称で、一つ一つの峰々は噴火によって出来たものと思います。
 登り開始の畳平は既に標高2702m。「日本百名山」の著者深田久弥氏は当然麓から登ったことでしょうが、既に60歳台後半のマーちゃんは、標高差300m、登り時間予定1時間30分の畳平からのスタートでも良しとています。13時30分登山開始。


           (畳平)

 上るに連れて、峰と峰の間の鞍部に元噴火口が見え始めます。今は池の様に水を湛えています。途中春スキーを楽しむ人々を目にしましたから、残雪は豊富。その雪解け水でしょうか、濃いブルー色です。
 高度を上げ、振り返れば奥穂高岳と前穂高岳を結ぶ細尾根が少しぼんやりながら見え始め、その右に三角形の常念岳も。この時点で既に午後2時、普通この時間は霞んでしまって遠くの山々は見渡せないのですが、今日は槍の穂先も遠望出来ます。


     (肩の小屋付近からの剣が峰)

 登ること1時間20分で山頂(3025.6m)到着。本宮にお参りをして、コーヒーでお祝い。実は同行のSさん、60番目の「百名山」。本人曰く「区切り登山」でした。


        (剣ヶ峰山頂の本宮)


      (剣ヶ峰の標識の向こうに御岳山)

 頂上から「御岳山」が微かに見渡せます。早朝にこの山頂からの展望を味わいたいとの想いを強く抱きながらの下山。下り道は足下の高山植物を楽しみながら帰ってきました。(畳平には高山植物鑑賞用の木道が整備され、北アルプスでも有数の高山植物の群落地帯)







哈爾濱(ラーメン)

2009年08月17日 | お気に入りの店

 久しぶりに諏訪市のラーメン店「哈爾濱」を訪れました。ニンニクを特製醤油に長年寝かせて作った”寝かせダレ”、ニンニクの臭みは無く、ちょっぴり辛みの味に仕上がっていています。豚骨ベースでなく、醤油ベースでも無い、やや味噌味スープの様なユニークな味。リピーターが多く地元に愛されている店で、インターネット上、長野県で一番人気のあるラーメン店、と書かれた記事を読んだこともあります。
 店内はカウンター席のみの14席ほど。清潔感が感じられる店内、11時開店後程なくして満席となります。外で並ぶほどではありませんが、店内に用意された10人ほどの待ち椅子の方も席が埋まりだします。
 3人での共同作業でラーメンが仕上がりますから、手際が良く、あまり待たせません。主として主婦さんと思しき方々が甲斐甲斐しく働いていて、この方が店主という人が見当たらない不思議なお店。想像では、主婦さん達が共同で立ち上げたお店ではないでしょうか。メニューは「ニンニクラーメン」(600円)「ハルピンラーメン」(600円)「醤油ラーメン」(500円)の3種類。暑い日々に熱いラーメン、今日は「ハルピンラーメン」(600円)を美味しく頂いて来ました。食後のジャスミン茶のサービスもあります。ネット「諏訪市 ハルピンラーメン」で検索して見て下さい。


         (入り口付近)



            (お店看板)


           (ハルピンラーメン)


大日陰トンネル

2009年08月15日 | 

 今朝、9時6分新宿発「ホリデー快速 ビュー山梨」に乗車し、「勝沼ぶどう郷」に向いました。例により特急等の利用はしません。
 お盆の間、「大人の休日クラブ」は利用が出来ないようになっています。「JR東日本」は高齢者に優しくない!のです。「青春18切符」5枚を期間内に全部使い切れそうもないので、珍しく割引を受けない乗車券を購入しました。ただこの「ホリデー快速」は以前の急行並みの駅停車、それで特別料金が付かない。土・日に甲州・信州方面に出かけるときに愛用しています。「勝沼ぶどう郷」着10時53分。所要時間1時間47分。

 8月15日~20日まで、今夏初めての遠出。蓼科にある”山小屋”の山荘に滞在し、その間に「乗鞍岳」登山を目指す予定。山仲間Sさんは明日茅野へやってくるので、今日は一人旅。春に初めて知った、「勝沼ぶどう郷」駅から徒歩5分のところにある「大日影トンネル」を目指しました。このトンネル、明治36年に開通、以来93年間利用され、平成7年にその役割を終えたというレンガ造りのトンネルです。現中央線とほぼ平行するように作られています。その後当時の勝沼町(現甲州市)に移管され、遊歩道として整備され一般公開となりました。全長1400m、片道約30分の遊歩道。春に来たときは時間に余裕がなく、入場は断念。今回の蓼科行の機会に途中下車しての見学となりました。



      
(トンネル入り口)
 中は涼しい。所々にその歴史を書いた板が埋め込まれ、ベンチも置もれいて、家族連れが多い。子供さんが線路脇のコンクリートの小道を走ったりしている。やや早足で歩いたので25分弱でトンネルを抜けました。抜けたその向こうにもトンネルがあり、そこは「ワインカーブ」となっています。



       (歴史を偲ぶ埋め板1)



       (歴史を偲ぶ埋め板2)


   (ワインカーブに利用されるトンネル)


          (トンネル出口)
 このトンネルの開通により、甲信越方面から東京に向かう交通はどんなにか便利になり、時間短縮が出来たことでしょうか。当時の人々の喜ぶ様子が、残された資料から如実に読み取れます。確か井出孫六著「峠を歩く」には信州から東京方面へは中央線開通以前は、徒歩で秩父経由であったと書かれていました。
 以前のホームが、現ホームから少しずれた位置に残されていて、駅名も「勝沼」と呼ばれていたことが分かります。以前はスイッチバックにもなっていたようで、山岳地帯から甲府盆地へ緩やかに下っていったことでしょう。今日は叶いませんでしたが、ホームからは白峰三山や甲府盆地が一望され、春には桜吹雪の駅舎。中央線でも人気ベストスリーには入る事でしょう。


  (大日影トンネルは現トンネルと並行している)

 東京の”現代遺跡”(明治・大正・昭和の頃の建物等の痕跡)を見るのが好きなマーちゃんとしては大満足。各駅停車を乗り継いで「茅野」に至り、インタネット環境に立ち寄りのブログでした。


戦場のラブレター

2009年08月12日 | 身辺雑記

 8月9日(日)の深夜に録画したドキュメンタリー「戦場のラブレター」を
翌日に観ました。硫黄島に出征した夫宛てに出した、妻からの手紙。当
時のアメリカ海兵隊兵士に拾われ、以来63年間この手紙を保管してい
た彼は、知り合いの日本の宣教師に手紙を見せ、手紙の内容を知るに
いたり、その手紙の返還を依頼します。
 漸く、その手紙の差出人を見つけ、宣教師夫妻はその手紙を返還する
為に石川県加賀市の自宅を訪れます。
 時折、64年前の硫黄島での激戦の映像を挟みつつ、手紙の”一生”を
追います。非常に良く出来たドキュメンタリー。

 実はこのドキュメンタリーの紹介記事を、その日の朝刊で読み、私達家
族の歩んできた道に似ている事を感じ、録画を思いつきました。
 録画を見て、余りにも酷似する状況に吃驚しました。手紙が返ってくる
などという奇跡は起こりませんでしたが、我が父も、妹が生まれた1週間
後、ボルネオ島に出征。妻と二人の子供を残したまま、二度と日本に戻っ
てはきませんでした。戦後歩んだ母の軌跡とも多く重なります。

 この手紙の主の中野きく枝さんの夫久男さんも、妻と子を残したまま出
征。その後生まれた子供さんの顔を見ることも無く、戦場の弾と散ったの
でした。返ってきた手紙の感想を聞かれ、きく枝さんが語ります「手紙が返
ってきてどうってことも無いけど、手紙より、あの人に帰ってきて欲しかった」
。出征した夫への想い、夫からの家族を気遣う10数通の葉書。胸に迫り
ます。
 「あなたからの手紙が返ってくる、その幸福が続けばいいと、神様に祈り
続けます」手紙を読み伝える宣教師妻さんの声も詰まります。きく枝さんの
切なる願いは届きませんでした。痴呆症となった今日も、仏壇に手を合わ
る日々だそうです。

 手紙を拾った元米兵士の苦悩、帰ってきた手紙に接し、硫黄島訪問を
決意する長男。手紙に関わる周囲の方々の大きな”傷あと”をも伝えて
いました。
 長男健さんは、島での「日米合同戦没者慰霊祭」への出席を兼ねて硫
黄島を訪れ、父の遺骨が眠る地の土を持ち帰ります。この島には未だ
15000もの日本兵の遺骨が眠るとのこと。
 まもなく訪れる「敗戦記念日」。平和の有難さを感じるその先に、「反戦」
への決意と行動をも思います。
 
 そのドキュメンタリーに影響されたわけではありませんが、昨日「介護
施設」の母を訪ねました。重い認知症の母ですが、私のことは微かに”認
知”出来るらしく、訪ねればニッコリ微笑みます。
 
 思え出せば10数年前、母がまだ認知症ではなかった日々に、家族で信
州塩田平にある「無言館」を訪れました。若き画家たちが、家族や恋人を
残し出征しなければならなくなった日々に、描く事とも別れねばならない事
を悟り、必死の想いで描いた絵の数々。絵から痛切な想いが伝わる「無言
館」。ここに来る事を強く願い、漸く叶えられたことに母が満足していた日を
思い出しました。入場無料のこの美術館、出口で寸志をお支払します。出
てきた母が2万円もの寸志を支払ったことに驚きつつ、想いの強さをも感
じたのです。
 
 昨日は、近辺の公園への散策。気晴らしになったかなと思いつつ帰宅し
ました。


諏訪台通り・江戸重ね地図

2009年08月11日 | やねせん

 今年の3月14日の事です。元生徒さんのFさんとSさんとの3
人で”やねせん”を散策しました。
 出発点はよみせ通り沿いの魚貝三昧”彬”。ここで、軽い一杯
で再会を祝し、腹ごしらえをしてから出掛けました。かっての藍
染川は今は暗渠となっていて、その曲がりくねった細道は”へび
道”と呼ばれています。見事なネイミングです。
 生憎この日は雨模様でしたが、谷中銀座を抜けて”夕やけだ
んだん”を上ると、”やねせん”の街並みや、本郷台地が見渡せ
ます。この道を真っ直ぐ進むと日暮里駅。その手前を右折すれ
ば改築中の「朝倉彫塑館」。マーちゃん一行は左折です。この台
地は「上野台地」と名付けられていますがが、この一帯は「諏訪
台地」と呼んだ方が分かり易いかも知れません。「安全横丁」の
看板も目に入りますが、「諏訪台通り」とも書かれています。JR
山手線に平行な台地上の狭い車道。元生徒のSさんの菩提寺
がこの台地上にある「浄光寺」と聞いて、「浄光寺」を目指したの
でした。
 この「諏訪台通り」を西日暮里方面に進むと、先ず右手に「養
福寺」が現れます。真言宗豊山派のお寺で、丁度1年ほど前、
三遊亭兼好さんの真打昇進を祝う落語語りの会が行われたの
が、この「養福寺」。荒川区指定文化財の「仁王門」をくぐり、寺
の座敷で兼好さんの語りを堪能したことを思い出します。
 「養福寺」を通り過ぎると左手に「富士見坂」。「ダイヤモンド富
士」が見られる事で有名です。

 「ダイヤモンド富士」とは、太陽が富士山の真後ろに沈むとき
の輝く様な富士山です。「ダイヤモンド富士」を撮影するなら、例
えば「文京区役所 シビックセンター」の展望台の方が遥かに優
れているでしょう。だがこの「富士見坂」は、地上に居ながらにし
て「ダイヤモンド富士」が眺められるのです。その点にこの坂の
大きな価値があり、それ故評判になっているのです。

 更に進むと、いよいよ「浄光寺」。今日はお参りはしません。
 お寺の由来が書かれた看板を読むと「雪見寺」と書かれてい
ます。江戸時代、この台地から見下ろした、野原一面に積もった
白銀の世界は見事だった事が想像できます。更に又「筑波山」
の秀麗な姿も遠望できたことと思われますが、今日は全く見渡
せません。「諏方神社」の別当だつたとも書かれています。
 その「諏方神社」は”諏訪神社”とは書かれていません。鬱蒼と
茂った樹木の中に、荘厳な佇まいの神殿。ラジオ体操会場の立
看板もあります。少し見晴らしの良いところへの歩いていくと、階
段が目に入りました。この階段初めて気が付きました。西日暮
里の改札に通じる階段かと思い、下り始め左折すると、駅全体
が見渡せ、その階段を下りきった先の道は、改札口へ通じる道
では無く、トンネルの様にJR線路の下を潜り、西日暮里の繁華
街に通じていました。
 散策は西日暮里駅横の切通から急坂を上り「西日暮里公園」
(かっての「道灌山」)で無事終了。いずれ再度の散策をと、思い
ました。

 帰宅して気が付きました。台地から下る階段が続く道の方がJ
R線路より”先住民族”のはずだと。既に存在した道をそのまま
に残し、線路を高架にしたはずだと。このことを調べようと、余り
使わなかった「江戸重ね地図」ソフトを久しぶりに開きました。
 図1は yahoo の地図での「諏方神社」付近。「諏方神社」の文
字の上に階段の様子が微かに見えます。


        図1
 
 図2は「江戸重ね地図」ソフトによる、「諏方神社」近辺。「諏訪
神社」の文字上にその階段図が見られます。線路下を潜る様子
は残念ながら地図上では見られません。が20番地付近への道
に繋がっています。


        図2

 図3は、図2と同一位置の江戸時代の地図。「重ね地図」はパ
ソコンの操作一つで、一瞬にして、現代の地図と江戸時代の地
図の間をタイムスリップします。「諏方明神」
の文字の右側から
「新堀村」と「新堀村」の間を縫うようにその階段(或いは急坂)
と道が描かれています。想像したとおり、その階段と道は江戸時
代に既に作られていて、諏訪台と低地を繋ぐ、多分重要な道だっ
たはずです。


         図3
 図3には「諏方明神」「別当 浄光寺」「養福寺」が見え、「修性
院」と「妙隆寺」(現在は法光寺)の境界線が現代の「富士見坂」
かと思います。
 「雪月花」に因んで、”雪見寺”の「浄光寺」、”月見寺”の「本行
寺」、”花見寺”の「修性院」がこの近辺に点在します。