マーちゃんの数独日記

かっては数独解説。今はつれづれに旅行記や日常雑記など。

巾着田から聖天院へ

2011年09月23日 | 

 巾着田を後にして、高麗川の流れに沿うように北東に延びる車道を、高麗神社目指して歩き始めました。道沿いの所々には立派な門構えの豪邸が見受けられます。かってこの辺りには豪族が住んでいたのかなどと想像をたくましくします。50分も歩き進んだ頃に、左手の小高い山裾に寺院らしき建物が見え始め、高麗神社かと思い、近道と思しき小道に入り込みましたが、左にあらず。聖天院(しょうでんいん)でした。
 聖天院の門前に立ち、山門や遥か高みに望める本堂の立派さに驚き、この寺の由来を案内板で熟読して吃驚しました。
 次の様に書かれていました。
 『聖天院は、
霊亀2年(716年)国難を避け日本に渡来した高句麗人1799人の首長高麗王若光、侍念僧勝楽、弟子聖雲を始め(ママ)とする一族の菩提寺として奈良時代に創建された。僧勝楽により開基、聖雲と弘仁により落成され、本尊には王が守護仏として故国より将来した聖天尊(歓喜天)を祀った。故に聖天院勝楽寺と称する』とあります。
 更に続けて
 『当山開基より約600年後の貞和年間(1345年)に中興秀海上人は法相宗を真言宗に改めた。以来当山は高麗郷一帯の本寺として末寺54ヶ寺を擁し、寺門大いに興隆した。開山以来実に千二百数十年、法灯連綿として絶えることなく現在に継承されている』と。
 要するに聖天院は高句麗人の菩提寺にして、高麗郷一帯の本寺という分けです。そしてここには本尊不動明王(胎内仏弘法大師作)、王守護仏天尊がおわしまし、境内には王霊廟(墓)、高麗殿の池、高麗殿の井戸などの史蹟が現存するとも書かれています。

 この寺をじっくり見学したくなり、境内に入りました。

 聖天院は立体的構成になっていて、謂わば4階建てです。1階には雷門が建ち、階段を昇った2階には庭園・書院・庫裏があります。更に昇ると本堂・鐘楼・雪山(石灰石)と展望台のある3階が。更に昇ると慰霊塔のある4階部分です。(写真:1階部分にある雷門)
      



                

 
 2階部分にある庭園と書院。手前に見えているのが、黄色い曼珠沙華です。黄色の曼珠沙華は初めて観ました。












                
  3階部分にある本堂。実に立派な建物です。















 (車道から見上げる見上げる本殿と書院の屋根)




 大韓民国の元首相・金鐘泌氏の揮毫で「高句麗若光王陵」と書かれた黒御影の大きな碑が建っています。











 在日韓民族無縁仏の慰霊塔も建立されていました。日本で亡くなられた多くの韓国人の無縁仏に久遠の安眠を与え、供養したいと願う在日韓国人の篤信者たちによって、平成12年(2000年)1月にこの塔が建立されたそうです。



 古来多くの朝鮮人が色々な形で日本にやって来たり、拉致されて来た事でしょう。渡来と言う形でやって来た高句麗人も、この地だけでなく武蔵国7ヶ所に分かれ住んだとも言われています。ここ聖天院は朝鮮半島と深い深い縁で結ばれている事を知りました。高麗神社目指しての散策。思わぬものに巡り合いました。”犬も歩けば棒に当たる"とか。空腹を堪えて歩いて来た4名、歩くことによってこの様なものに出合えた事を自画自賛し合いました。ここから高麗神社は数分の距離にありました。